第十六話 狩人、魔王と再会する
男は、笑いをこらえるのに必死だった。
必死に、下水道を歩んでいた。
否、歩かされていた。
下水道とは思えない清潔さで、ダンピールの感覚でも不快な匂いはほとんどない。棲み着いているダイアラットも、男を恐れて出てこようとしなかった。
逃亡先にもかかわらず、快適。
その皮肉さに、苛立ちよりも先に笑いが出る。
そう。吸血鬼を狩るために冒険者ギルドで待ち伏せをしていた男は、逆襲を受け下水道へと逃げ込んだのだ。
正確には、違う。そのように誘導されたのだ。
時折、壁に手をつきながら下水道を歩く男は、皮肉気に顔を歪めた。
狩るつもりが、逆に追い詰められている。手抜きすらされている。
笑うしかないではないか。
サイズを自在に変える魔狼は、どちらの大きさでも厄介で。一対一だったとしても、勝負の天秤はどちらに傾くか分からなかった。
特殊な能力はないが、獣の身体能力は厄介だ。なにより、執拗だった。まるで、主人を狙った復讐をするかのよう。
執拗さは、吸血鬼と、その血袋たちも同じだった。
ダークエルフは魔狼と連携して、男を確実に追い詰めていった。
技量的にはそこまでではないが、なんらかの手段で力を増幅させているのだろう。百戦錬磨の男でも手こずらされる。
そこに、吸血鬼の弓と、魔術師の的確な支援が加わり、逃げるのがやっとだった。
いや、正直なところ、気圧されていた。
目の色が違うとは、まさに彼女たちのこと。長く吸血鬼を狩ってきた男ですら、手を出したのが過ちだと後悔しかけるほど。
もちろん、こちらも覚悟を決めたなら、一人か二人は道連れにできたはずだが、ここで。魔王マリーベル・デュドネをあと一歩まで追い詰めたところで、死ぬことはできなかった。
今のこの事態が、魔王をあぶり出すために他の吸血鬼に手を出した結果というのが、実に皮肉だったが。
「あと、どれだけ持つか……」
男は立ち止まり、壁により掛かった。座って休息を取らないのは、なにかあってもすぐに対応できるようにするため……だけではない。
本格的に休息を取ったら、立ち上がれるか自分でも分からなかったからだ。
四肢はくっついている。
だが、戦いの過程で指は何本かなくなっていた。体にも、何カ所か穴が空いている。理術呪文を受け、火傷も何カ所かあった。
痛みは、制御できる。
疲労も、短時間なら無視できる。
吸血鬼には劣るとは言え、ダンピールだ。怪我も、そのうち治る。
けれど、戦闘力という意味では心許ない。
袋小路に追い込まれている。
怒りをたたえ。それこそ、男のことを仇を見るような目で襲いかかってくる吸血鬼と血袋たち。
彼女たちの瞳を思い浮かべることで、男は自分の中の怯懦を追い出した。あの瞳をした相手が、易々と逃がしてくれるとは思わない。
生き残りたければ、戦うしかない。
そう決意を新たにしたところで、ダンピールの聴覚がひたひたと迫る足音を捉えた。
聞かせているのだ。
男を、追い立てるために。
だからといって、正面からやって勝てる保証もない。
男が逃げている間は、襲ってこないことは分かっている。
少しでも傷と体力が回復してから挑めるよう、男はまた、歩き出す。
顔に、皮肉気な微笑を張り付けたままで。
「アベル!」
「義兄さん!」
先んじて、アベルと打ち合わせた合流場所――狩人を追い込む地点に到着していた、エルミア、ルシェル、クラリッサ。
シャークラーケンが天井を突き破って地上へと飛び出したその場所で、エルフの姉妹が歓声をあげた。
驚いて、クラリッサが周囲を見回すが、変わったところはなにもない。
修繕されたばかりで、他よりも新しい部材が目立つが、下水道は下水道。
アベルが、いるはずもない。
「あの、お二人ともなにを……」
おずおずと、慎重に。エルミアとルシェルを傷つけないよう。クラリッサが声をかける。
その配慮は尊いものだったが、直後、事態が動いた。
エルミアとルシェルの視線の先に、鏡のようなものが現れた。しかし、鏡面に映し出されているのは下水道の光景ではない。
鏡の先にあるのは、どこかの庭園と城のような建物。
その鏡から、足が伸びた。
「アベル!」
鏡から出てきたのは、見慣れたアベルと、コフィンローゼス。
「それに……もしかしてマリーベルさんですの!?」
そして、見慣れてはいないが、どこか既視感のある美女。さらに続いてウルスラも鏡から抜け出してきた。
そこで役目を終え、鏡らしきものが消え去った。
転移してきたアベルが、周囲を見回し、感心する。
「おお……。場所もタイミングもばっちりだ」
「配慮して下さったのかもしれぬな」
「どちらかっていうと、天然で偶然の幸運ってほうが、らしい気がするぜ」
「……それもそうじゃな」
言葉を交わす二人の下に、森の青葉を思わせる瞳を瞬かせ、エルミアが駆け寄っていく。まるで、クルィクの代役でも務めるかのように。
「アベル、無事だったのだな」
「ああ、エルミア。そっちも……大丈夫そうで良かったぜ」
「まあ、私は、心配はしていませんでしたけど。義兄さんを信じていましたから」
「それは、わたくしたち全員が同じ気持ちですわ」
再会の喜びが一回りすると、視線と疑問が大きなマリーベルへと集中する。
それを理解しつつ、アベルは後回しにせざるを得なかった。
「マリーベルで間違いないぜ。でも、細かい話は後だ」
長くなるし、神様が出てきたなどと説明しても混乱するだけ。
「とにかく、マリーベル殿は無事なのだな?」
「ああ、封印を解いてもらってきたぜ」
エルミアが、目を大きく見開いて驚きを表現する。
その衝撃は、ルシェルもクラリッサも変わらない。
「さすが義兄さんですね」
「そうだな」
「ですわね」
真っ先に立ち直ったルシェルが、アベルを褒めそやす。詳細はまだ分からないが、アベルがなにかして封印を解いたに決まっている。
詳しい話を聞くのが楽しみだった。
「すまぬ」
そこに、マリーベルにしては珍しく。申し訳なさそうにルシェルとクラリッサに声をかけた。
「ルシェルか、クラリッサのどちらか、血を分けてもらえぬか」
指名された二人が、無言で顔を見合わせる。
こうなることは予期すべきだっただろうし、ルシェルはすでにエルミアへ血を与えている。
それでも、アベル以外から血を求められたという現実に、ルシェルとクラリッサは答えを出せずにいた。
「もし、お二人が旦那様に操を立てるというのであれば……」
「ウルスラーーーーーー!」
アベルの絶叫が下水道に響く。
マリーベルは額を抑え、小さなうめき声をあげている。
スーシャはきっと、棺の中で拳を握っているに違いない。
「旦那様がお二人のどちらかからお吸いになって、さらに旦那様からお嬢様が吸うという方法もありますが?」
しかし、エルミアたちは、そんなリアクションを認識していない。
「だ」
「んな」
「さま」
打ち合わせもなにもなく、三人はひとつの単語を読み上げた。
旦那様。
坊ちゃんから、旦那様。
この呼び名の変化が、なにもなく訪れるだろうか。いや、到底思えない。
「アベルが旦那様とは、どういうことだろうか?」
代表して、エルミアが疑問をぶつけた。
きっとまなじりをあげ、嘘もごまかしも通用しないと言わんばかりに。
そう。これは質問ではない。
尋問だ。
「エルミア、落ち着くのじゃ」
「私は冷静だが?」
「落ち着いて、目の光を取り戻すのじゃ」
「姉さんの瞳はともかく、私も気になります」
「ええ。特に、アベルとの関係など猛烈に気になりますわね」
「――なんだ、この馬鹿騒ぎは」
ちょうどその時。
クルィクに追い立てられた、狩人が姿を現した。
疲労困憊でたどり着いてみれば、繰り広げられてるのは痴話喧嘩。
「なぜ、魔王がここにいる?」
「今は、それどころじゃありません」
「黙って、そこで待っていなさい」
エルフの魔術師とダークエルフから、にべもない反応をされても、男の意識は疑問で埋め尽くされたままだった
なぜ、魔王がここにいる?
封印が解けたのか?
魔王にかけられた特別な封印が解けるものなのか?
いや、それよりもなによりも。
あの暴虐なる魔王マリーベル・デュドネが、年頃の少女のように、振る舞っている?
なぜだ。なぜだ。なぜだ。
「どうして、今になって、魔王の姿を捨てたのだ!」
男から、数百年も蓄積した想いが、溢れ出した。
シリアスシリアスシリアス。
というわけで、次回からはクライマックスだしシリアスですよ、シリアス。




