第八話 ロートル冒険者、博打に出る(後)
『頼むぞ、3番、3番、3番』
名も知らぬ馬と騎手に、アベルは念を送った。それだけでは足りないと、商業と幸運の神で、通貨単位にもなっているラーシア神にも祈りを捧げる。
緊張して喉が異常に渇く。タバコを吸う気にもなれない。
『勝ったら、なんかすごい餌でも差し入れてやるからな』
もう、自分にできることはなにもない……と、考えているのは、実はアベルだけだった。
『ほうほう。走りながらスタートするのか』
ファルヴァニアのハーネスレースは、通常の競馬のように立ち止まって一斉にスタートするわけではない。
先導する馬がトップを走り、それを追い越さないよう注意しながら、各馬は隊列を作ってスターターを追う。
そのまま競馬場を一周し、スタートラインでスターターが脇に退避し、レースが始まる。
馬車といっても、騎手の座席と車輪だけの簡素なもの。
それが音を立て隊列を崩し、少しでも有利なポジションを取ろうと一気にスピードを上げる。
このようなレース形式だと、やはり、前後問わず走る距離が短い内側が有利になる。
アベルが賭けた3番の馬は、馬群の中央に埋もれていた。
『まずいんじゃねえのか、これ。まずいよな!?』
『このままならのう』
焦燥感をあらわにするアベルとは対照的に、マリーベルは意味ありげにほくそ笑んだ。
細工は流々と言いたげだが、全財産を賭けてしまったアベルからすると、たまったものではない。
『本当に大丈夫なのかよ?』
『なぁに、負けても取り返せば済むだけの話よ』
『それ、ギャンブルしてるときに一番言っちゃいけないセリフだからな!』
ひとしきりアベルの反応を楽しんだマリーベルが、胸に納まったまま指示を出す。
『アベル、先頭におる馬の目を見よ」
『目だけなんて見えねえよ。近づいてきてるとはいえ、どんだけ離れてると思ってんだ』
『自覚が足りぬぞ、新参者』
アベルの常識的な抗議。
そんなものは人間の理屈だと、マリーベルが切って捨てた。
『集中せよ。今の汝なら造作もないことぞ』
『いや、集中って……』
簡単に言うなよという文句を飲み込みながら、アベルは、それでも指示通りに先頭を走る7番の馬に視線を注ぐ。確か、一番人気だった馬だ。
人気や実力のある馬だろうと、当然、目だけが見えるはずもない。
『要は、意思じゃ。傲慢に、尊大に、我ら吸血鬼にできぬことはないと知れ』
馬群の先頭にいるため他と区別はつくが、そこまで。総体としての馬は認識できても、ここの部位までは
――そのはずだった。
「うおっ。なんだこりゃ!?」
不意に、対象が拡大された。
視界は狭まり、代わりに、7番の馬だけが大写しに見える。
戸惑いつつ、アベルはその目をじっとのぞき込んだ。
集中。
ここがどこなのかも、自分が何者かも、賭けや元妻のことも、暫時忘れた。
『俺は吸血鬼で、マリーベルができると言っているんだから、できるんだ』
馬蹄と車輪の音が遠くなり、観客席の歓声が意識から消え失せる。
刹那、そのすべてが復活した。
頭頂部の耳が、大音声を余さず拾い、にわかに精神が高揚する。早く進まなければという強迫観念に支配されていた。
背後で振るわれる手綱も、そう言っている。
パノラマに広がるのは、何者も存在しないダート。中央部分は見えないが、自分が先頭にいるのは分かる。
7番の馬を乗っ取った。
ようやく、アベルはその事実に気付く。吸血鬼の特殊な能力に、コウモリや狼などの動物を支配するというものがある。
『これも、その一種ってことか……』
冷静な思考は、そこまで。
『ははははははは。誰にも前を走らせねえぜ!』
あっさりと、その思いに支配される。
アベルはぐんっとスピードを上げた。歓声が大きくなり、背後の馬群から混乱の空気を感じる。
調子に乗っているという自覚はある。だが、楽しくて止められない。二日酔いすると分かっていても、酒が止められないのと同じく。
風と風景を、あっという間に置き去りにした。二輪馬車に座る騎手がなにか叫んでいるが、聞く気はない。
『俺の邪魔をするなよ!』
とてもいい気分だ。
誰にも邪魔をされず。
なにひとつ気兼ねすることなく。
自身の限界に挑む。
こんなに幸せなことがあるだろうか。
アベルは全力でコースを走り抜け、息が上がっても構わず、筋肉のしなりと骨の軋みにむしろ喜びを憶え。
そして、最後の力を振り絞り、ゴールまで駆け抜ける。
そう、駆け抜けた。
『ご苦労じゃったな、アベル』
「はぁはぁはぁ……一体……」
その瞬間、意識が自分の体に戻った。
なにが起こったのかは、分かっている。分かっていたが、生まれてからずっと培ってきた常識が邪魔をする。
馬の精神を乗っ取ってレースに介入したなど、どうして信じられるだろうか?
「マリー……ベル……。お前、俺にこれをやらせるために賭けなんかを……」
『いかにも。追い詰められたほうが、力が発揮できるというものよ』
「だからって、お前は……」
『喜ばんか、アベル。転変してすぐ血制を使用し、汝のアシストで、レースは大荒れ。一番人気は失格に終わり、混乱の隙を突いて3番の大穴がレースを制したのだぞ』
「……あ、ああ。そうか。勝った。勝ったの……か……?」
観客席では、未だ悲鳴と罵声が飛び交っていた。
それも、当然だ。
速歩で競うハーネスレースで、本命馬が、まさかの暴走。失格となり、先頭でゴールしたのは大穴の馬。
例外は、それどこではないアベルぐらいのもの。
懐に手を入れ、震える手で投票券を取り出す。それを眺め、ようやく実感が湧いてくる。
勝った。
大勝ちだ。
金貨にして数千枚。今の年齢を考えれば、死ぬまで遊んで暮らせるだけの金額が手に入った。
『ま、悠久の時を生きる我らにしてみればはした金ではあるが』
『いきなり落とすの止めろよ。確かに、吸血鬼の自覚なかったけどよ』
『じゃが、それでも大金には違いない。冒険者をやめるにしろ、続けるにしろ……の』
冥府に棲まう悪魔のような声音で、マリーベルがアベルに現実を直視しろと頭を抑える。
アベルの思考が、漂白されたように真っ白になった。
冒険者なんか、やめてやる。
そのつもりだった。嘘はない。
やめてもいい。
続けてもいい。
なのに、選択肢を与えられると答えが出せない。
迷う。
ざらつく。
先ほどから、緊張で喉が渇いていたことを思い出す。
「……まずは、酒を飲んでから考えるか」
『このクズがーーーー!』
『クズじゃねえし。仮にクズだったとしても、人間として当然の感想だし』
『さりげなく、人類全体を自分と同じレベルに落としおった……』」
堂々と主張するアベルに、マリーベルはむしろ感心してしまった。