第十三話 ロートル冒険者、吸血する
勝利の余韻に浸っていたアベルだったが、しばらくして我に返った。正確には、返らざるを得なかったと言うべきか。
「……冷静になると、この血塗れ状態はやべーな」
冒険者としては勲章だが、現実問題として、この格好のまま街に戻るのは厳しい。
幸い、南の大森林には水場も豊富にある。湖沼地帯にまで足を伸ばさずとも、洗い流すことぐらいはできるだろう。
「吸血鬼なら、夜に水浴びしても風邪引くことはねえだろうしな」
「ふふふ。アベル、案ずる必要はないぞ」
アベルが発動させた《疾風》の血制で置き去りにされたマリーベルが追いつき、宙空で胸を張る。
「確かに、小汚いオッサンが本当に汚いオッサンになっただけ……って、うわっ」
年甲斐もなく間抜けな声をあげてしまったが、それも仕方がない。
アベルの全身に降り注いだランド・ドレイクの生き血が、突然、浮いた。比喩ではない。現実に起こった現象だ。
服に染みこんでしまったはずの血まで含めて、まるで粘液の怪物のようにうぞうぞと動き出す。
アベルは、呆然とするしかなかった。
本人の意思を完全に無視して、アメーバのように体の表面を移動し、属性石の指輪へ通して体内へと吸い込まれていく。
地水火風光闇の基本六属性。それから物質・生命・精神・虚無の希少四系統。さらに例外の神・魔属性を合わせた三統十二元の属性。
ヴェルミリオ神が定めたそれは、個々人の素質と特性を現している。
地属性を持つ魔術師は地の源素に関わる呪文を得意とし、物質属性の人間は職人や戦士など物を扱う職業に適正を持つ。
属性石は、いわば、その人物の分身であり象徴とも言える。
だが、いくら生命の属性石とはいえ、血を吸収するような力はない。
「なんだこりゃ……」
アベルは戸惑うしかなかった。腕を振り身をよじっても、血の移動と吸収は止まらない。
為す術なく見守っていると、なぜか味を感じた。
半ばやけで飲んだ、あの高いワイン。
それを遙かに超える美酒を口にしたかのようだった。
熱くて甘い。
どんな食物にも似てない。
それでいて、どこか懐かしい味。
どんなに贅を尽くした料理であっても、足下にも及ばない美味。
それが全身へと行き渡っていくのを感じる。
それと時を同じくして、アベルの全身に活力が満ちた。
カラカラに喉が渇いていたところに、よく冷えたエールを流し込んだような快感。
空っぽになった胃袋に、好物をしこたま詰め込んだような満足感。
夢も見ず、途中で目を醒ますこともなく深い眠りを得た後のような爽快感。
それらすべてを足しても、まだ足りない。
そこからの変化は、劇的だった。
違う。
世界が違った。
エルフやドワーフのような暗視能力があったはず? そんなもの、比較にならない。
今までは、色つき眼鏡で世界を観ていたようなもの。
だから、木葉一枚一枚の違いにも気付かないし、葉脈一本一本の差異も気にならなかった。
大気の息吹も大地の生命力も、今までとは段違いに感じることができる。
それに、闇の安息もまた。
今なら、空だって飛べそうだ。
「すげー。なんだこれ、すげー」
元々豊富ではない語彙力が、完全に無くなった。
筆舌に尽くしがたいとは、まさにこのことだ。
「ファーストバイト……にはならぬが、初めての吸血行為の感想はどうじゃ?」
「すげぇ。それしか言えねえ」
アベルは、くもりひとつない笑顔を浮かべた。
ニコニコと、本当に心の底から。宙に浮かぶ小さなマリーベルの肩を掴んで、笑い続けた。
月明かりに、白い歯が反射する。
吸血鬼が吸血鬼である理由を、アベルはこのとき初めて理解した。
同時に、吸血鬼でなくては、この気持ちが理解できないことも。
本当の意味でアベルが吸血鬼になったのは、今、このときだった。
「安心するが良い。これで、しばらくは吸血する必要はないぞ」
「ああ……。分かるぜ」
吸血鬼は、人間の首筋に牙を突き立て、その生き血を啜らなければならない。
そうしなければ、生きていけない。
アベルはそう信じていたし、冒険者ギルドでアンケートを採っても、同じ結果になることだろう。
しかし、実態は違った。
「モンスターの血でも、別に構わないんだな」
「当然じゃ。生命維持の方法がひとつしかないなど、とんだ欠陥種族ではないか」
「いや、呪いを盛りだくさん受けといてなに言ってんだよ」
あきれたように、アベルがマリーベルから手を離す。
先ほどまでの万能感は徐々に薄れているが、充実感は変わらない。今なら、ランド・ドレイクのようなまがい物ではなく、本物のドラゴンが現れても負ける気がしなかった。
「吸血対象を選り好みするのが、立派な吸血鬼という風潮もあったが、まあ、昔の話じゃな」
「そいつは良かった。今、それをやったら犯罪者だぜ」
「じゃが、アベルが望むならそうしても良いのだぞ? あのなんとかとかいうダークエルフ娘なら、押せば許すじゃろ」
「誰が押すかよ。難易度高すぎんだろ」
物理的な意味であれば、クラリッサの抵抗など簡単に突破できる。
だが、その後のことを考えれば、とても踏み出せるものではない。
「そうか。アベルが構わないのならば、余はなにも言うまい」
「おいこら、待て。どこをどう切り取っても、詳しく聞いてくれって言ってるじゃねえか」
「なに、支障はない。単に、人間相手の吸血を済ませておらぬ者は、いわゆる素人童貞扱いされていたなと、思うただけのことよ」
「超絶人聞きわりぃな!」
その上、内容も高貴とは言えない。酒場にたむろする冒険者並だ。
「そこは将来的な課題として……」
「別に、解決しなくちゃならない問題じゃないだろ?」
マリーベルは、アベルの言葉を完全に無視し、赤い瞳を向ける。
「存外に捨てたものではなかろう、吸血鬼も」
「……ああ。まったくだ」
太陽の光で気絶をしたときは、ただひたすら不便さしか感じなかった。
吸血鬼など、邪悪な存在としか思っていなかった。
血を吸わないと生きていけないと気付いた時は、途方に暮れた。
しかし、吸血鬼の真価は別にあった。
視線を合わせただけで動物を、他者を操り。
ランド・ドレイク――亜竜とはいえ、身体能力だけでドラゴンを圧倒する。
力、力、力。
力に満ちあふれていた。
カスのような依頼で、一日一日なんとか食いつないでいた引退寸前の冒険者にとっては、夢のような力に。
しかもまだ、ポテンシャルを秘めている。
本来ならば、この力を与えてくれたマリーベルにひざまずいて、感謝を捧げなくてはならないところ。
「マリーベルの思惑通りってところは、気にくわねえけどな」
「百万の言葉を費やすよりも、ひとつの経験が物を言うものよ」
「実感してるところだ」
アベルは、不意に顔を引き締めた。
理解したのだ。これで、吸血鬼の訓練生期間が終了したことを。
マリーベルにもマリーベルの目的があるのだろうが、アベルもこれからの身の振り方を決めなくてはならない。
重大で、後戻りのできない選択を。
そしてそれは、アベルが最も苦手とするものだった。
「……とりあえず、一服してから考えるか」
「気持ちは分からんでもないが、行動が、清々しいほどクズじゃなぁ……」
そそくさとバックパックを探して煙草を取り出そうとするアベルの背中を眺めつつ、マリーベルは嘆息した。
現実逃避に罪があるとすれば、この直後、アベルはその報いを受けることになる。
吸血する(口からするとは言っていない)。




