1、国家公務員になりませんか?
ある意味ファンタジーです。
よろしくお願いします。
アラームが鳴る前にスマホを手に取る。
いつもと同じ、六時二十五分。何時に寝ても五分前に目が覚めてしまうのは、何だか悲しい。
「ん……ご飯……面倒くさい……」
ウキウキ家事をしていた二十代とは違う、おひとり様まっしぐらな三十代の私の朝食は、野菜ジュース一本で済ませる。何と言っても一日分の野菜が採れるという優れもののジュースだ。……と、信じたい。
そうだ。
二十代だからとウキウキしていた訳ではない。あの頃の私には夢があった。
女の子らしい、可愛らしい夢。
今はもう失くなってしまったけれど。
「ダメダメ、今の私は幸せおひとり様なんだから」
あの時の恐ろしい日々とは違う。平凡な毎日、平和な日々を私は送っている。
そしてそれは、この何でもない、なんの記念日でもない今日『この日』を持って終わりを告げた。
◇
遠野ハナ、今年で三十四になる。独身。趣味は特にない。
そんな彼女の勤め先は、大手物流会社の下請け会社の事務所だ。
彼女は毎朝三十分前に出社して、事務所内を軽く掃除をしてからコーヒーメーカーをセットする。勤続十年以上も経つと『お局』などと呼ばれるものだが、幸いにも仕切るタイプではないハナは、特に何があるわけでもなく真面目に勤務している。
小さな事務所のため、人数は少ないがアットホームな雰囲気で働くハナに不満はない。
だがしかし、時折来る本社の人間が脂ギトギト中年オヤジだけはいただけない。
ヤツが事務所に来る、月に数回の苦行タイムだけはどうにかして欲しいと思っている。
何かと言うとハナの体に触れ「結婚しないの? その前に彼氏とか作りなよ、俺が相手しようか?」的な事を言ってくるのだ。
滅せよ。
……と言いたいのをハナは我慢する。
仮にも上司の上司であり、本社の人間だ。不興を買って変な場所に飛ばされても困る。
(逆らわず、おとなしく、空気のようになる)
そんな思いのハナを嘲笑うかのように本社の油虫オヤジは、事務所に来ると同時にハナを指名してきた。
打ち合わせスペースに恐る恐る近寄ると、いつもならお茶出しだけのはずが何故か座らされる。
その油虫みたいな本社のオヤジと、場違いなくらい爽やかな笑顔を浮かべている男性二人と向かい合うように座らされるハナ。
漂う緊張感は、面接受けるかのような空気に似ている。
(なにこの状態……)
事務所の所長である上司がお茶を入れているのを見て、ハナは申し訳ない気分になった。
「初めまして遠野ハナさん。私はこういう者です」
名刺を見ると『環境省四季管理局春組・剣・長谷川タスク』とある。「よろしくお願いしますね」と言ってさらに爽やかな笑顔を浮かべる男は極めて胡散臭かった。
灰色の髪に灰色の目という少し不思議な色合いの彼は、ハナに来訪した理由を説明し始めた。
ハナは油虫を極力視界に入れないように、長谷川に目を向けたまま言われた事を咀嚼する。
「つまり私は裁判員のように、正当な理由がない限りは呼び出しを拒否できない状況にあるわけですね」
「そうですね。違うのは短期ではなく定年まで続くということ。四季管理局の局員となって、引退した後も給付金が出る特殊な国家公務員になれること、です」
「きゅ、給付金?」
「あまり知られていないけど公開されている情報ですよ。局員になるには色々と決まりがあって、滅多になれる人間がいないのです。だから国としても手厚く保護したいという思惑があります」
「……保護?」
「外敵から守るってことです。今日この瞬間から、遠野ハナさんは国の保護対象となります」
「ええええ!?」
思わず大声を上げてしまうハナに、油虫オヤジが「おい!失礼だぞ!」と怒鳴りつけてきた。思わず体を縮こませるハナはこの後続くであろう罵声を待っていたが、それがなかなか来ない。
うっすら目を開けると、油虫は真っ青になって固まっている。そして何か黒いものを贅肉ブヨブヨの腹に突きつけている長谷川は、爽やかな笑顔を全く崩すことなく穏やかな空気を纏ったままだ。
「ちなみに、私が遠野ハナさんに名乗った時点で、彼女に対し肉体的にも精神的にも危害を加える人間は、『排除』することになっています。恨まないでくださいね」
「ひ、ひぃぃぃ!!」
慌てて事務所から飛び出して逃げていく油虫を、長谷川は笑顔で見送る。
「外のゴキブリが家にいると本当に滅亡して欲しいと思いますね。外で見えないところで平和に生きていて欲しいものです」
「あ、あの」
「何ですか遠野さん」
「排除って……」
「ああ、別に『この世から』と言ってませんよ。『この場から』という意味で言ったつもりでしたが」
「そ、それ……」
「これ? ペンケースですけど?」
「ぺ、ぺんけーす……」
ハナはへなりと柔らかすぎるソファの背もたれに沈み込んだ。
お読みいただき、ありがとうございます。