7.とりあえず婚約する
嫌な夢を見ていた。
それはずっと昔の出来事を思い出すような悪夢だった。
狭く暗い場所に隠れた女を捜して、村中の男たちが荒い声を張り上げる。やがて日が暮れ、暗闇が彼女を逃がしてくれるはずだった。
だが、男たちは松明を片手に彼女の隠れる場所へと迫ってきた。
朝霧が言った。
――あの人間たち全員を喰い殺してやる、と。
だが、彼女は首を横に振った。そんなことをすれば、彼女は己自身を人間の仲間だと言い張ることができなくなってしまうと答えた。
朝霧は納得できなかった。なぜなら、彼女を追う者たちは、すでに彼女を人間だとは認めていないからだ。
人間が持つはずのない力を持った彼女のことを、他の人間たちは初めこそ重宝がり巫女として崇めたが、しだいに恐れを抱き始めたのだ。
異質な存在を忌んだ人間たちはまず、彼女を都から追い出した。
東の地へと逃げ延びた彼女はそこで隠れるように暮らしていたが、その暮らしは長くは続かず、どこへ逃げても人間たちは彼女を追い回した。
彼女がこの世のどこからも姿を消してしまうまでは、安心できないと言うのだ。
人間相手ならば、例え何十人いようと、朝霧には塵に等しかった。
――殺すことくらい容易いことだ。
そう彼女に言うと、彼女は困ったように顔を顰め、印を結んだ。暗闇が朝霧を覆う。
封印されたのだと気が付いたのは、すでにその封印が解けた後だった。
誰もいない。
彼女が隠れていたはずの小さな庵も、何もない。
ただ広がる草原。
空。雲。風。
ひたすら何年もそこで立ち尽くしていると、ようやく何者かが歩み寄ってくる気配がした。
日暮らしだった。
小夜が死んだことを、彼独特の静かな口調で語られた。
あの後、村の男たちに見つかり、捕らえられたのだ。
半妖だった彼女は首を絞めても死なず、刃物で突いても死ななかったという。
半年間に及ぶ拷問の末、半ば諦めた村人たちは、村はずれの小屋に幽閉することにした。
そして、それから更に数年後、村人は彼女の下腹部が膨らんでいることに気が付いた。彼らが知らぬうちに、この小屋に賊が入ったらしい。
しばらく住処として使っていた痕跡があり、割れた酒瓶が転がっていた。
父親の知れぬ子を身籠もった彼女は、それから500日後、双子の男女を生んだ。――そして、息を引き取った。
日暮らしの後ろに、刀守りと迷い土の姿が見えた。彼女たちはそれぞれ赤子を抱いている。
小夜の子かと思うと、胸の中を黒い渦が生まれた。何者かが小夜を犯したために生ませた子なのだ。
見知らぬ相手を憎むことは難く、目の前の子を恨めしく思うことは容易かった。
だが、何よりも憎むべきは己自身だった。
――何もできなかった。
小夜が相手だったからとは言え、封じられている間にすべてが終わっているとは。
助けられたはずだ。小夜を。
ずっと一緒に笑って暮らせたはずだ。小夜と。
――できなかった。
直久は夢を見ていた。
それはずっと昔の出来事を思い出すような悪夢だった。
暗く重い、冷たい感情の渦がどろどろと蠢くような夢。朝霧の夢だった。
▲▽
「直ちゃん!」
肩を越すくらいの長さまで伸びた直久の髪を発見して、数久は目を大きく見開く。だが、すぐに無事だったことを喜んでくれた。
明け方前、山から下りてきた二人を一族全員が迎えた。寝ずに待っていたのか、疲れ顔が並ぶ。
「それで、朝霧は?」
「他の8匹は式にしたようだが」
まず年寄りたちが進み出て、口を開いた。 直久は肩を竦める。
「朝霧ならここにいるぜ。こーこ」
眉を寄せる彼らに、直久は笑いながら己の胸を軽く叩いた。理解不能との表情を浮かべた者たちのために、ゆずるが口を開いた。
「直久が朝霧を式にしました」
「それは話が違う」
「そうじゃ、そうじゃ。違うであろうに」
口喧しく騒ぎ出した年寄りたちを黙らせるために、確かにと、ゆずるは声を張り上げる。
「確かに約束を違えました。ですが、今から守ります。俺は――いえ、わたしは直久と共に九狼を名乗っていきます」
「何?」
はぁ〜、と振り返ったのは直久も同じ。初めて聞く言葉だった。
――え〜っと、それはつまり、どういうことだ?
答えを求めて数久を振り返るが、双子の片割れもあんぐりと口を開いていた。 ゆずるが直久を振り返る。
「わたしはその……。お前が一族と同じ力を持たずに悩んでいたことを知っていながら知らないふりをしたり、そもそもそうなった原因はわたしにあるわけで……。あの時、わたしが直を選ばなければ、直がそういう目にあうことはなかったわけだから、直がわたしを恨んでも仕方がないと思う」
何を言おうとしているのか、ゆずるは言葉を選びながら、辿々しい様子で話す。
「前に直はわたしをス……キ……って言ってくれたけれど、真実を知っても尚、同じことを言ってくれるのであれば、わたしの心はあの時に直を選んだ時点で決まっているのだから、わたしと共に『九狼』の名を継いで欲しい」
「え?」
――言われた意味がサッパリ分からない。
直久は視線を泳がせる。眼が合うと、鈴加がガッと睨んできた。貴樹はクスクスと笑い、数久はファイトと言わんばかりに両手を握り締めている。
――だから、意味がワカリマセン。
「えーっと、つまり、もう一回、俺がお前のこと好きって言えばいいわけ?」
「……」
「……そういうこと?」
俯いてしまったゆずるの顔を覗き込む。ゆずるはスッと直久から顔を背けた。息を吐く。
「好きだ」
とたん、ゆずるは顔を上げた。
「なら、結婚しろ!」
「はぁ〜!?」
「でないと、わたしは9匹の妖狼を手に入れたことにならない」
「げっ。そのために、そんなことを言ってるわけ?」
結婚だなんてとたじろぐと、後頭部を叩かれる。父、彰久だった。
「覚悟を決めろ、直久!男だろ!」
「へ!?」
「ゆずる、こんな息子で良かったら、リボンを付けて献上しよう」
「ありがとうございます」
「おい、コラ!……てか、俺、お前の返事聞いてないし!」
大声を上げると、ゆずるはいかにも嫌そうな表情を浮かべた。面倒臭そうな顔で、何を言っているんだ、と言葉を吐き捨てる。
「お前よりわたしの方が先に、お前を選んでいる」
「は? いつ?」
「7歳の時」
「覚えてねぇーっ」
「でも、わたしはずっとずっとお前が……」
ハッとして、言葉を切るゆずる。直久は眉を上げた。切られてしまった言葉こそ、聞きたかった言葉だったらしい。
背を向けたゆずるを上目遣いで見やる。
――だけど、まあいい。長い時間共にいれば、いつかその口から聞けるかもしれない。
「いいぜ。お前が俺を必要だっていうことには変わらないし」
とりあえず婚約すると言って、ゆずるの顔を振り向かせた。