5.いったい直の中に何を封じたんだ?
いよいよ鈴の音が近付いてきた。道はわずかに広まった場所に行き着き、ゆずるは足を止めた。
薄闇の中、ぼんやりとした姿が見えた。
14歳くらいの少女。地べたに腹這いになり、上目遣いでジッとこちらを見ている。
タンポポ色の髪と同色の瞳が印象的で、ぼんやりとしか見えない直久の目にも、その色は鮮やかに見ることができた。
リーン。鈴が鳴る。
「鈴鳴りっ」
リン! 獣そのものの動きだった。 伏せた姿勢から、あっと言う間に地を蹴り、ゆずるに向かって飛び掛かってきた。
直久はゆずるの躰を突き飛ばした。まさにその場所に鈴鳴りが着地した。
鈴鳴りは獣がそうするように、よつんばになり、頭をやや低くして二人を睨んでいる。
「なんで攻撃してくるんだよ!」
「鈴鳴りに言葉は通じないっ。式に下すのなら、力でねじ伏せるしかないんだ!」
ゆずるは立ち上がると、鈴鳴りを真っ直ぐに見つめたまま、空中に向かって腕を伸ばした。
「刀守り!」
白くぼやけたものがゆずるの手に集まってくる。やがてそれは細長い物へと変化していった。
刀だ。
飾りけのない刀が、鞘のない剥き出しの状態でゆずるの手に現れた。
ゆずるが刀を構えると、鈴鳴りはますます身構えて低く唸った。
地を蹴る。鈴鳴りの爪を避けて、ゆずるも地を蹴った。刀を振り落とす。
切るというよりも、腹で叩いたという感じだった。
鈴鳴りの躰は弾かれたようになり、遠くの地面に倒れた。だが、すぐに起き上がる。
鋭い爪で地面を長く引っ掻くと、一度躰を低く沈めた。
――来る!
思った時には既に鈴鳴りの躰は空に浮いていた。避ける。避けきれずに、着物の袖が避けた。
ゆずるは舌打ちをして、拳を作った。
「火刈り!」
腕を伸ばし、作った拳を、ばっと開いた。炎が鈴鳴りを襲う。
ライターの火のような小さな炎だったが、多くの獣がそうであるように、鈴鳴りも突如として目の前に現れた火を畏れているようだ。グッと怯んだ表情をする。
ゆずるは刀を振り落とした。ガツン。鈴鳴りの軽い躰が吹き飛ぶ。
「式になれ、鈴鳴り!」
這う幼い狼に向かって、ゆずるは声を張り上げる。
「俺を認め、俺に従えっ!」
リーン。言葉を扱えないという鈴鳴りの代わりに答えたのは、彼女が左足首に付けている鈴だった。
先程の敵意剥き出しの表情が、うって変わって穏やかなものになっていく。
ゆずるはホッと息を吐き出して、彼女の前に膝をついた。柔らかそうなタンポポ色の髪に触れる。
ぐるるる、と鈴鳴りは低く唸った。だが、それは頭を撫でられた心地よさを伝えるための唸り声だ。
直久はいつの間にか力を込めていた拳を解放すると、ゆずるの元に歩み寄った。
「一匹ゲットって感じ? ――それにしても、力、使えるじゃんか」
「今はな」
けど、とゆずるは俯いた。
「さっきの炎が限界だ。あんな小さい炎しか出せないなんて、情けない」
「その刀は?」
「これは刀守りが守っている刀。九堂家の宝刀。神剣だ」
「それが使えるんなら、大丈夫なんじゃん?」
「この刀まで使えなくなったら、もうおしまいだ。戦う術がない」
力でねじ伏せるしか道がない鈴鳴りと、まだ力が使えるうちに出会えたことは幸運だった、とゆずるは苦く笑った。
その通りなのだろう。だが、他の3匹がまったく戦わずに式神にできるかどうかと言うと、まだ分からない。力を失っている状態で、妖狼と対峙しなければならない時がくるに違いない。
そう思うと、今だけの幸運であるような気がしてならなかった。
カチャリ。ゆずるが刀を持ち直した音が響く。
薄闇の中、一点を見据える。鈴鳴りが顔を上げ、やはり一点を見つめている。
その表情は何かを待っているようでもあった。
「何か来るのか?」
「黒水だ」
薄闇に沈んだような黒い影。ほっそりとした長身の青年がゆっくりと足を運び、こちらに近付いて来ていた。
黒一色に見えた影は、近付いてハッキリ見えてくると、そうではないと知ることができる。
黒水の髪は黄土色であり、その眼は鮮やかに青かった。
「鈴鳴り、怪我はないか?」
黒水はゆずるたちには目もくれず、鈴鳴りに向かって腰を下ろした。鈴鳴りは言葉で答える代わりに、黒水が差し出した手の平をペロリと舐めた。
そんな彼女を立たせると、黒水は点検するかのように、彼女の腕を取り見回す。
この寒い山の中、鈴鳴りはタンクトップのような物に短パンという薄着をしていた。しかも、ボロボロに裂けているのだ。
服を好んで着る野生の獣はいない。 鈴鳴りが服を嫌がるのは、彼女がより野性的である証拠なのだろう。
黒水は鈴鳴りの服を捲ると、彼女の脇腹を見やった。青あざができていた。
さすると、痛いというように低く唸る。膝にも擦り傷。右手の中指の爪が折れている。
「日暮らしの元へ行って、手当を受けろ」
言うと、さあ行けとばかりに鈴鳴りの背を乱暴に押しやる。
リン、と彼女の足首に付いた鈴が鳴る。何か物言いたげに黒水を見上げる。
だが、彼女は言葉を話せない。妖として知能が低いせいだ。
味方か敵か、従うべき者か否か。彼女に分かることはそれくらいなのだ。
鈴鳴りの鈴が鳴いた。黒水の言葉に従うことにしたらしい。リン、という音を響かせて、闇の中に去っていった。
後ろ姿を十分に見送ってからだった。黒水がゆっくりと振り返った。
ズンッと空気が重くなる。――いや、違う。 霧が出てきたのだ。
まとわりつくような霧は、ゆずるたちの服を湿らせる。動きづらさに不安を感じたのだろう。 直久がゆずるを振り返ってきた。
「これは、力でねじ伏せないとダメだっていう状況か?」
「……」
答えず、黙って刀を持ち直すと、離れていろと手だけで直久に合図をした。
黒水は水を操る妖狼だ。相手が水なら、火刈りの炎は使えない。
水に対抗できるものは――。
黒水が両手を同時に振り上げ、振り下ろした。 ゆずるは頭上を見やる。
氷? ――違う!水だ!
細い針のような水が何千本もゆずるに向かって降り注いできた。
「迷い土!」
ダン、と両手を地面に着く。地面が盛り上がり、ゆずるをカプセルのように覆った。
水の針が土の盾に弾かれていく。とりあえず息を付いて、黒水を見やった。
「え?」
――いない!
いると思っていた場所に、黒水の姿はなかった。慌てて辺りを見渡す。
いつの間にか太陽は地平線に沈んでしまったのだろうか、暗闇に包まれていた。
――どこだ?
ガツン、と衝撃を受け、一瞬気を失いかけた。いや、地に倒れているところを見ると、一瞬でも気絶してしまったにちがいない。
すぐに立ち上がろうと手足を動かしたが、何か重たい物で押さえ付けられているようで、ぴくりとも動かなかった。
「ゆずる!」
直久の声が聞こえて、咄嗟に風通いの名前を呼んだ。
鋭い風の刃が何かを切り裂いた。自由になった瞬間、何かを裂けて横に転がった。
その直後、ゆずるが転がっていた場所に水でできた太い槍が突き刺さっていた。
びしゃん、と音を立てて槍は形を崩し、水たまりを作った。ゆずるを拘束していたものも水だったらしい。一瞬だけ縄の形をした水を見ることができた。
――水か。
厄介だと、しみじみ思う。
水は量が多ければ重さを感じるものだし、その水圧によっては金属さえ切ることもできるという。
ウォータージェットという、今のこの状況では思い出したくもない名詞を思い出して、ゆずるはうんざりする。
――迷い土の防御壁ならば防げるかもしれない。だけど、迷い土を呼ぶだけの力が、今のゆずるにはない。先程の彼女の力の一部を借りて作った盾だけで精一杯だ。
あの程度の盾が黒水のウォータージェットに勝てるかどうか、甚だ疑問である。
「先見。黒水が次に攻撃してくる場所を教えろ」
わずかに光る場所があった。ゆずるの胸あたりだ。
転がるように移動すると、次の瞬間、その場所に水の槍が突き刺さっていた。
「次は!?」
再び光る。逃げる。
「次!」
幾度か黒水の攻撃を避け続けていると、黒水は焦れたように顔を顰めた。
ゆずるに槍を放つことに夢中になっている。
――今だ!
黒水の背後に回り込むと、その背に刀を突き付けた。
「お前の負けだ。大人しく式になれ!」
くつくつと、黒水は低く笑った。
「俺はお前の父親とも契約しているが?」
「二重契約は普通だろ?」
「お前が気にしないというのならば、俺はどうでもいい」
「……」
ゆずるはわずかな間を作った。
「俺とあいつ、どちらがよりお前の主に相応しいか比べているのか?」
「比べるまでもない。お前の父親は、もはや式としての俺は必要としていない。あいつの妻は鬼だ。鬼の力に頼るあいつに俺が力を貸す義理もない。――だが、契約は契約だ。あいつの死後、あいつの肉を喰うために、あいつが呼べば俺は駆け付けなければならない」
それでも構わないかと、黒水は笑みを引っ込めて言った。
「構わない。きっとあいつはお前を呼ぶことはもうない。だが、俺にはお前の力が必要だ」
「……いいだろう」
ポタリ、と耳の奥の方で水音が響いた。それが契約の証なのだろう。ゆずるはホッと肩の力を抜いた。
▽▲
黒水が日暮らしの元へ案内すると言って、先を歩いている。
闇は確実に濃く深くなっていて、踏み締める地面の色と闇の色の区別が付かなくなっていた。
足の裏の感触だけで、落ち葉を踏んだことを知り、また小石を踏みつけたことを知るような歩みだった。
だが、不思議なことに、黒水の回りだけは淡く明るい。輪郭が白くぼやけて見えるのだ。
やはり人ではないからなのだろう。 彼の足下だけはハッキリと確認することができた。
黒水と距離を置かずに歩くと、幾分か歩きやすいことに気付いた二人だったが、人でないモノの歩みは早く、しかも、平坦な道だろうと坂道だろうと関係ないらしい。
幾度も小走りをしながら後を追う。
しばらくして、古びた庵が姿を現した。
いかにも隠者が棲んでいそうなつくりで、中から骨と皮だけの仙人が現れたとしても、そう驚かないだろう。
黒水が足を止めたので、二人も庵の前で立ち止まる。ギィィィ、と耳に五月蠅い音を立てて動く引き戸が完全に開くのを待った。
戸の隙間から見えた庵の中は暗闇だった。
奥などない――黒いだけの平面のようにも思えたが、どこまでも壁のない空間のようにも見えた。
闇の中から、二つの瞳が光って見え、直久をギョッとさせる。
ゆずるは承知していたようで動じなかった。ジッと何者かが外に出てくるのを見守っていた。
「このようなところまで、ご足労頂き、ありがとうございます」
落ち着いた声だった。闇を化粧しているかのような肌をした青年が声と共に、すっと頭を下げた。
髪は肩までの長さで直線に切りそろえられている。
紺色――いや、紫色の直衣を着、まるで1000年の時間を止めてしまったかのような存在を二人の前に示した。
「日暮らし」
ゆずるが青年の名を呼ぶと、青年はフッと微笑んだ。そして、ゆずるとは別の方――もっと左方を見やり、声を放つ。
「これ、火刈り。そこにいるのであろう。我らにとって大切な方がずぶ濡れですよ」
すると、そちらの方から明るい声が返ってきた。
「だって、頼まれてない!」
頼まれてもいないのに九堂家の者の世話を焼くのは、刀守りくらいだと、頬を膨らませ現れたのは、赤毛の少年だった。
いつからそこにいたのだろう。こんなにも側にいながら、まったく気が付かなかった。
ゆずるは下唇を噛み締める。月が南中する時刻が迫っていた。
「火刈り」
日暮らしに促されて、火刈りはゆずると直久に向かって、軽く二回、指を鳴らした。それだけで、黒水の霧と水ですっかり濡れてしまった二人の衣服は乾いてしまう。
「そら、できた。これで文句はないだろ?」
「お前も相当素直ではない。次代殿が心配で今までずっと後を付いてきたのであろうに」
「え?」
驚き、振り返ると、日暮らしは眼を細めてゆずるに頷いた。
「あちらを」
日暮らしは手にしていた扇で、ゆずるの後方を指し示した。
暗い森の中、淡く光る存在たち。
木の枝に腰を掛け、こちらを不敵な笑みで見つめているのは、先見。
焦茶色の腰まである長い髪。鈴鳴りのように薄着で、タンクトップのような物を一枚身に付けている。
ただし、下は短パンではなく、黒いジーンズ。
その木の幹に寄り掛かるように立っているのは風通いで、こちらは常磐色の狩衣を着ている。
彼の回りだけ風があるのか、銀髪がわずかに揺れ動いて見える。
更に目線を移動させていくと、袿を身に付けた女の姿が見えた。黒髪は闇に溶け、そのため色の白い顔が浮き出て見えた。美しい女だが、その隣に立つ女の美しさは明らかにこの世のものではない。
透き通るような肌に、やはり透明度のある青い瞳。風通いのように銀髪だが、やや紫かかった細い糸のような長い髪。扇で顔を半分隠しているのが救いで、おそらくその顔を直視してしまった人間は魂を奪われてしまうに違いないと思われる程の妖艶さである。
先の女が刀守りで、もう一方が迷い土。
二人とも平安時代の貴族の女性のような装いをしているが、迷い土が身に纏っているのは、裳唐衣姿だ。
後世では、十二単とも呼ばれているものである。
刀守りよりも重ねている着物の枚数が多いのと、裳という後方に引きずるようにある物が迷い土には付いているという点が、目立って異なっている点である。
9匹の妖狼たちは平安時代の生まれなのだということを考えれば、彼女たちのような装いは何らおかしいところはない。むしろ、現代人っぽく洋服を着ている先見や黒水の方に違和感があるのだ。
だが、時間の流れを無視し切った姿には、ドキッとさせられる。
仲間を順繰りと見渡して、日暮らしが口を開いた。
「これで朝霧を欠いた8匹が揃ったわけです、次代殿。わたしは彼ら7匹を従え、この庵にわたしを尋ねに来た者に従うと決めています。そして、あなたは来て下さった」
――従いましょう、あなたに。
言って、日暮らしはゆずるに向かって、再びゆっくりと頭を下げた。
刀守り、先見、風通い、迷い土、火刈り、鈴鳴り、黒水、日暮らし。8匹の妖狼たちと向かい合いながら、ゆずるは己の両手を眺め下ろした。
広げた両手の中に、淡い8つの小さな光。妖狼たちとの契約の証である。
死を迎えた時、己の血肉を与えるという内容だが、そうして九堂家の者の遺体が残らないことに慣れているゆずるにとって、それは大したことないものだった。
――もっとも死んだ後のことだ。自分には必要のない肉体のことをどうこうされようと構わない。
妖狼たちが喰わなければ、火葬場で焼かれるだけのものなのだ。
グッと両手を握り締める。
――残すは、朝霧。
けして小夜以外の者は主と認めない9匹目の妖狼。小夜と兄妹のように育ち、小夜に主従を越えた想いを寄せていた妖だ。
不意に、日暮らしが片袖を上へと持ち上げた。見上げると、彼の真上だけ木々の穴があき、ぽっかりと空が見える。
やはり、とゆずるは思った。
日暮らしの真上――木々の穴に丁度月が納まった時が、今夜の月が南中した時なのだ。
青白い光に透かされて、重なり合う葉の一枚一枚が浮くように見えた。その時が近いのだ。
やがて、穴の端に月が顔を覗かせた。
月の光は注がれるものであるのに、ゆずるの力はその光に逆流していくように、躰から抜けていく。まるで月が吸い取っているように。
月が納まる。
夜空の一番高い位置から、力を完全に失ったゆずるのを静かに見下ろしている。
だが、それも一瞬。月はけして留まらない。再び穴から去っていき、今度はゆずるに力を返すように光を注いでくる。少しずつ、少しずつ、躰に力が戻ってくる。
しかし、それは、朝露に濡れた葉の雫を、空ビンに一滴一滴集めているようなじれったさだ。
その空ビンが満タンになるまでには15日かかる。朔の日。光を放たない月が南中する時刻に、ゆずるの力は満ちるのだ。
ゆずるは両手を開き、眺める。
力を使えない状態で、果たして朝霧を式神にすることができるのだろうか?
例え使える状態であっても、孤高の妖狼を下すのは不可能のように思えた。
だが、やらないわけにはいかない。
九狼にならなければ、何の為の今までの人生だったのか。 それに何より自分を信じてくれる人たちがいるから。
山頂を目指そうと、直久に振り返った。その時。直久の躰が傾いた。
聞こえたか聞こえないかの呻き声。
地に沈んだ躰を、不思議なものを見るかのようにゆずるは見つめた。
さっと血の気が引く。
予期していたことだった。そして、できれば避けたかった事態だった。
「直!」
直久に駆け寄り、躰を揺さぶる。意識がなく、ピクリとも動かない。
「すぐに封印を」
「無駄です。すでに遅い」
慌てて直久の額に手のひらを置いたゆずるに、日暮らしが静かな口調で諭す。
「妖化が始まっています。見たところ、これは今に始まったことではありません。ずっと以前から、少しずつ……」
「妖化!?」
なんだ、それは、と悲鳴のように聞き返すが、答えは得られず、代わりに口を開いたのは黒水だった。
「丁度良いのではないか。山頂まで行く手間が省けて。彼奴がその人間の中から出てくるのを待ったらいい。――それに山頂に行ったところで、彼奴は社から出てこないかも知れないぞ。それよりも、その人間の中から出てきたところを捕らえた方が確実だ」
「だけどさー。俺としては、直久が死んじまうのって、つまんないんだよなぁ」
「先見は、そうだろうな」
「うんうん。俺ってば、こいつがすっげぇチビだった頃から知っているんだよなぁ」
残念そうに先見は直久の青白い顔を上から覗き込んだ。しかし、と言ったのは迷い土である。
「あの時、敬一があの者を封じなければ、とうに死んでいた存在じゃ」
敬一とは、ゆずると直久たちの祖父の名前である。ゆずるは次第に冷たくなっていく直久の躰を抱えながら、迷い土に振り返った。
「俺はあの時のことをあまり覚えていないんだ。記憶がない。俺のせいで直久がこうなってしまったのだということは知っている。だけど……」
――そうなのだ。
一族の中唯一人、まったく力を持たない直久は、先天的に力を持っていないわけではない。実は封じられているだけなのだ。
これはゆずる自身と祖父、そして直久の両親のみが知っていることだ。
直久の体内に、彼の力と共に封じたモノがある。
封印は祖父とゆずるが施した。祖父の封印は強固のものであったが、ゆずるの封印は月の満ち欠けによって強まったり弱まったりするものだ。
だから、時より、直久は人であらざるモノの姿を見たりしたのだ。
寒椿の咲く山の、あの冬の終わりの出来事の時がそれだ。そして、蛍の住まう家のあの時も。
弱まったゆずるの封印から漏れ出た直久が持つ本来の力がそれらを彼に見せたのだ。
祖父が死んだ。祖父の封印を失い、ゆずるの封印さえも弱まっている今、直久の力の解放と共に、彼の中のモノが動き出したのだ。
「お祖父様は、いったい直の中に何を封じたんだ?」
「朝霧ですよ、次代殿」
日暮らしがようやく答えた。ゆずるは驚愕する。
「朝霧が直の中に? だって、朝霧はこの山の頂上にいるはずでは……」
「正確に言えば、封じられているのは、朝霧の一部です」
分からないという顔をすると、日暮らしの言葉を迷い土が継いだ。
「あの者は我らと異なって人の血肉を食す機会がない。何も口にせず生きていられるモノは妖怪の中にも存在するわけがなく、確かに木の実なども腹の足しにはなるが、やはり血肉を食したくなる時が来る。そのような時に運良く、この山に迷い込んできた愚かな人間がいれば良いが、そうでなければ仕方がない。小夜の子孫と謂えども、背に腹は変えられない故な」
九堂家当主の死後その死肉を食べられる8匹の妖狼は良い。問題はそれを拒み続けている朝霧のことだ。
つまり、7歳になって式神を得ようと山に入ってくる九堂家または大伴家の子どもを食べるしかないという話である。
「彼奴が腹を空かせている時に運悪く山に入ってきたのは、次代殿、あなただった」
「――だけど、次代殿を喰われるわけにはいかない。俺たちはあんたを守るために朝霧と争ったんだ」
「だが、遅かった。――いや、危うく間に合ったと言うべきか」
「あんたは喰われてはいなかったよ。だけど、朝霧は人間を人間のまま食すタチじゃなかったんだ」
「人間嫌いな彼奴は、人間の血肉を喰わねば長い時を生きられない身でありながら、その血肉を己の体内に入れることを忌んだ」
「ならば、人間でなくせばいい」
「――そう、人間でなくせばいい。妖にしてしまえばいい」
妖に、と言ったのは風通いだ。それが妖化だと説明したのは、先見の方。
「己の力の一部を獲物の体内に送り込んで、精神面から徐々に喰い殺していくやり方さ。心を失った人間は、その身を朝霧に乗っ取られるんだ」
「次代殿。あの時、朝霧の力はすでにあなたの心を蝕んでいた。わたしたちはすぐに敬一の元へとあなたを運び、このままではあなたを失ってしまうことを告げた。――しかし、方法がないわけではありませんでした」
「あんたの力ごと朝霧の力を封じてしまえばいいってわけだ。――だけど、敬一はあんたが大切だったんだ。あんたがそこの直久のように、ただの人にしてしまうのを惜しんだ。だから、代わりをあんたに選ばせたんだ」