4.人ではあり得ない力を持ちながら
違和感が走り去っていった。
「直ちゃん。くれぐれもゆずるのこと、気を付けてあげてね」
必要以上に心配されることを嫌うゆずるの耳には届かないように小声で、数久は言う。
――てか、ちぃっとは、俺のことも心配しろってんだ。
直久が頬を膨らませると、直久の心を読んだのか、数久は目を細めて笑った。
「直ちゃんも気を付けてね」
付属的な言い方だ。だが、綺麗に微笑んだ数久に満足させられて、直久は文句を言おうとした口を閉ざした。
朝霧神社は小高い丘の上に建てられているが、その社の裏には、更に上り階段がある。途方もなく長い階段は、山へと続いている。
山の中腹に黒い鳥居があり、山の頂上に小さな社がある。その社が、朝霧が籠もっていると言われている社だ。
ゆずるは喪服から狩衣に着替えている。
直久もTシャツにジーンズというラフな格好に着替えたが、数久に半袖はやめた方がいいと言われ、長袖に着替え直した。更に、上着を持たされる。
夏が終わり、秋という季節だが、まだまだ気温が高い。遠くの方で蝉の声がするくらいだ。
暑がりな直久にとって今は、分厚い布地の上着が視界に入ってくることさえ嫌なことだった。
どうしてもと言った相手が、もしも数久でなかったら、絶対に持ってはいかない!
そうして、どうしてもと言った数久を恨みたくなりながら、ゆずるの後を追って、階段の一歩目を踏みだした。
ちらりと後ろを振り返る。数久や鈴加、両親。貴樹。親族たちが自分たち二人を見送っている。
ゆずるの背に目を戻した。ゆずるは黙々と階段を上っていた。
再び後ろを振り返った。先程よりも数久の姿が小さい。次第に、その表情は判断できなくなっていった。
ゆずるの背。 肩で息をし、前屈みになっている。
運動などとは縁遠いゆずるは、体力という言葉とも縁遠い。
特に力が弱まっているこの時期のゆずるは、己の腕を持ち上げることにも疲労を感じるのだという。
フラフラと足下が危うい。だが、助けてやるわけにはいかなかった。そういう約束を親族達とさせられている。
直久はあくまでもゆずるの状態を皆に知らせるだけの存在であり、直久がゆずるに手を貸した時点で、ゆずるは九狼となる権利が失われるのだ。
後ろを振り返る。数久が遠い。だが、まだ年寄り達の目は鋭く光っていた。
ついに数久の姿が見えなくなった。辺りを見渡す。木しかない。 後ろを見下ろすと、街が一望できた。
かなり高いところまで上ってきている。
石段は最初の頃に比べると、横幅が狭くなっていた。ずっと下の方では、数人が横並びになって上っても肩をぶつけることない幅があったはずだ。だが、今は二人並ぶことさえできない。
両手を伸ばせばすぐそこに木の幹がある。 太い松の木が階段のすぐ脇を、それらの隙間から、やはり太い杉の木が見え隠れしている。
更にその奥を見ようと眉を顰めたが、壁のように木々が生えている様子しか見えなかった。
石段が終わった。踏み固められた土の階段が数段続き、やがて、それも終わった。
松の並びも終わり、代わりに人一人がようやく歩ける程度の道が現れた。道の両脇には、膝の高さまである先の鋭い草がずっと続いている。
草の奥は木である。仰いだが、空は見えない。目に入ってくるのは、深緑ばかりだ。
細い道をいくらか歩き進むと、黒い鳥居が見えてきた。大人が一人くぐり通れる程の鳥居で、木で造られていたが、漆が塗られているため、テカテカと輝いて見えた。
「ここから先は、妖がうようよしている」
ゆずるが言うには、鳥居の先からはいよいよ結界の中なのだという。覚悟はいいなと、ゆずるが直久に振り返った。直久に言っているというよりも、ゆずるは自分自身に尋ねているようだった。
おそらくゆずるの問いには答えないゆずる自身に代わって、直久は力強く頷いてやった。
ゆずるが鳥居をくぐる。追って、直久もくぐった。
その時。ズンッ、と空気が変わるのを感じた。
重い。それに、寒い。
直久は腕に巻き付けるようにして持っていた上着を羽織った。数久に感謝しなければならない。 まるで氷水の中に落とされたような寒さだ。
寒い。
ゆずるを見やった。息が白い。ゆずるも寒さを感じているのだ。
蝉の声が聞こえない。他の虫たちの声も。鳥も。
風が感じられないせいか、空気がひどく淀んでいるようだ。
木々のざわめきさえ聞こえない。
「行こう」
白い息が吐き出される。再び頷いて、直久はゆずるの後を追った。
また、違和感だ。
正体は不明。胸騒ぎだけがする。
道が二つに分かれている。一方は北へ、一方は西へと続いている。北へ続く道は緩やかな上りで、西へ続く道は下っているようだ。
ゆずるは足を止め、北を、そして西を見やった。
「どっちに行くんだ?」
「あっちだ」
西の道を指し示す。
「頂上を目指さないといけないんじゃないのか? 下り坂になっているぞ」
「一度下って、再び上りになる。北へ行く道は初めこそ上りだが、すぐに下りの道になって、山から出てしまうんだ」
「そうなんだ?」
「うん。そうとは知らない一族以外の者が頂上を目指しても辿り着けないように」
他にも様々な仕掛けがある裏には、普通の人間が山に潜り込んでくることはよくあることだからだという。だが、普通の人間が入って、無事に帰ってこられるような山ではないのだ。
気が付くことができたら、もちろん助けに行く。気が付けなかった場合、ようやく気が付いた時には、もう骨も残っていない。
「結界で封じているのに、人間の方から妖に近付いてくるわけだから、どうしようもない」
人知れず妖に喰われてしまった人間を哀れだと思うが、愚かだとも思うと、ゆずるは言った。
そもそも人様の領地に勝手に踏み入ってくる人間の方が、どう考えても悪いとも言う。
確かに、そうだ。だが、自然のままに放置されている山に興味を示す者もいるだろうし、冒険に憧れを持つ若者がいかにも怪しげな山に興味を持つこともあるだろう。
どんなに防いでも、山の侵入者は数年に一度の割合で現れるのだという。
「――けど」
直久はゆずるの背を見やって、言葉を放った。
「なんで封じているんだ? 霊を除霊するみたいに、妖怪とかも倒すこともできるんだろう?」
「……」
できないと即答しないあたり、できることなのだろう。ただ、『倒す』という言葉には語弊があるようだった。以前、数久に説明して貰った『除霊』という行為は、霊という存在を消滅させるわけではなく、時空の穴をあけて、霊界に送り返すことだという。
現世の、この世界、この空間、この時限から、霊という本来いることを許されていないモノを取り除くことを、数久たちは『除霊』と言っているのだ。
――そんなら、妖怪相手は『除妖』って言うのかなぁ。
除霊と同じ原理で妖怪をも倒すというのなら、彼らは、妖怪が本来いるべき世界に送り返す行為を『倒す』と言っているのだろう。
そういう世界があるのならば、この世界に『封じる』ことで留めて置かずに、返してやればいいものを。
そう直久が言うと、ゆずるは顔を曇らせた。
「確かに、妖魔界に送ることもできる。――だけど、しない。できないんだ」
「しない? できない?」
「できないんだよ。彼らは俺たちの家族だから」
えっ、と直久はゆずるの顔を見やった。感情を読み取ることはできなかった。
ゆずるは淡々とした言葉を続けた。
「俺たちの人間だけど、人間よりも妖に近い。長い年月、妖と混ざり合ってきたからだ。人間と妖の子を、『半妖』というのならば、俺たちは半妖よりも妖に近い存在。お前は妖の姿をその目で見たことがないから知らないだろうけれど、妖は人と似た姿をしたものばかりではないんだ。恐ろしく醜いモノもいる。それら妖の血が濃く出てしまった子が時々一族の中に誕生する」
それら子がどうなってしまうのか想像できるかと、ゆずるは直久に振り返った。
人とは似ても似付かぬ姿をした妖の血を受け継いでしまった子。
その容姿は、もはや人間とは言えないようなものなのだろう。
「6年ほど前、耳まで口が裂け、尾を生やした子どもが誕生した。その子は生まれたばかりだというのに、黄金色の目を見開き、大人達の言葉を理解しているようだった。――だから、俺はその子に言ったんだ。裏山で生き抜け、と」
何の話だと、直久はゆずるを見返した。ゆずるはふっと目を逸らした。 再び歩み出す。
「その子は双子として生まれたんだ。そして、その子の妹が優香だよ」
「優香?」
ゆずるの異父妹だ。優香が双子だったなんて、初耳である。
「俺たちの祖母は、イタチの妖怪を父親に持つ人だ。おそらく、その血がその子に強く出てしまったんだろう。そう思い、思い出してみれば、イタチの尾のようだった」
わずかに微笑んで、ゆずるは言う。だが、すぐに真顔に戻って続けた。
「妖の姿でしか生きられないモノを、人として育てることはできない。俺はその子をこの山に連れてくると、さっきの言葉を言ったんだ。――ここで生き抜け、と」
「一人で? 生き抜けって、一人で、ってことか? それってさ、山に捨てたってことじゃないのか? しかも、生まれたばかりの赤ん坊だったんだろう?」
「そうだ。生まれたばかりの子を、周囲のその存在を知られる前に捨てた」
「……」
可哀想なことを、と言いそうになった。だけど、ゆずるの悲痛そうな顔を見て、口を閉ざした。
「この山にいる妖は皆、その子のように、ここで生きろと言われた一族の者たちなんだ。家族のようなものなんだよ。――倒せるわけがない。ただ、ここで、この結界の中で人間達から隔離し、また彼らから守るしかないんだ」
「え? 人間から守る? 人間を守るんじゃなくて?」
「同じことだ。同胞を殺されて憎しみを抱かない者はない。人が妖に殺されれば、人は妖を憎み、妖を殺しにやってくるだろう。人が妖を殺せば、今度は妖が人を憎む。それに、この山の妖が害を加えられれば、俺たち一族は人から去るだろう。ここの妖は俺たちの一族だし、俺たちは人より妖に近い存在だから、当然だ。――だから、結界が必要なんだ」
九狼の最大の役割は裏山の結界を保ち続けること。それは一族が人間世界に居続けられるかどうかに繋がっているのだ。
人ではあり得ない力を持ちながら、――いや、持っているからこそ、人でありたいと願っているのだ。
わずかに窪んだ地面に足を取られ、ゆずるがよろけた。 抱き留める。
どこかに老人達の目があるのではないかと、一瞬、嫌な汗を流したが、この様子を老人達が見ているわけがなく、第一にこのくらいのことで手を貸した貸さないの問題になるわけがなかった。
「大丈夫かよ?」
女扱いしたり、必要以上に気遣ったりすると怒り出すので、直久はすぐに手を放した。
ゆずるは言葉なく頷いた。何事もなかったように話を進める。
「優香はもう数ヶ月経つと7歳になる。一族の者は7歳になると、この山に一人で入るんだ」
「そういえば、そんな話、聞いたことあるな」
確か、山に入って最初に出会った妖を式神にするのだ。
「偶然出会うわけではない。妖の方が山に入ってきた者を見て、選ぶんだ。――だから、おそらく、優香は会うだろうさ。自分の双子の兄に。そして、彼を式にするんだ」
「自分の兄を?」
「彼がそれを望む。この山から出たいのならば、誰かの式にならなければならない。だったら、最初の主は自分の兄弟を、と思うものが多いらしい」
「最初の……って」
「妖の血が濃いから、きっと彼は優香よりも数百倍長い時間を生きることになるだろうよ。――雲居がそうだ」
「雲居?」
数久の式神のことだ。蛇の妖怪だという彼女は、恐ろしいほど美しい女性である。
「雲居も一族の者だったりするのか?」
「ずっと昔のね。彼女はもう800年以上生きているはずだ。系図のずっと上の方に名前が載っていた」
「名前、載っているんだ?」
「死産っていうことになっているけどな。それに『雲居』という名前では載っていない。『女子』って載っている」
「それ、名前じゃないじゃんか」
それでよく雲居のことだと分かったなと眉を顰めると、雲居本人が教えてくれたのだと、ゆずるは肩を竦めた。なるほど、と手のひらを打つ。
「――けど、なんで雲居は数を選んだんだ?」
「そろそろ山から出たくなってきたところ、好みの顔をした餓鬼が目の前をてくてく歩いてきたんだろ?」
「てくてく……」
「純血の妖が妖魔界でどのくらいの寿命を持っているのかは知らない。だけど、ここにいるモノたちは人間の血も持っているわけだし、人間界のこの山だけの空間で暮らしているという負荷を考えると、他の妖に比べて長くは生きられないだろう」
もっとも、長すぎる時間を生きたいとは考えてもいないかもしれないと、ゆずるは言い加えた。
雲居たち、この山の妖怪たちは、己の親が死に、兄弟が死に、兄弟が生んだ子どもらまでも死んだ後もずっと生きていかなければならないのだ。人間の血よりも妖の血をより濃く持って生まれてきてしまったが為に。
「雲居の寿命はあと数十年で尽きるらしい。最後に山から出てみたいと思うのも、分かるだろう? この山は安全だけど、静か過ぎるから」
「寒いし、な」
優香の兄も雲居と同じ生き方をするのだろうか?
優香が山にやってきたら、その前に姿を現し、彼女の式神となり、山を出る。
そうして、優香の死と共に山に帰って来、己の死期を悟り、山を出たくなった時、再び主を選ぶのだ。
頭痛。
――だけど、大丈夫だ。我慢できない程ではない。
不意に、ゆずるが立ち止まり、直久を振り返った。
驚いて目を見開くと、ゆずるも驚いたようで、すぐにその驚きを隠そうとして目を逸らした。
「何だよ?」
「別に……」
それっきり口を閉ざすかと思ったゆずるだったが、ただ、と言葉を続けたので、直久は更に驚いた。
ゆっくりと歩き出す。
「ただ?」
「何かが後ろからやってくるな、と思ったんだ」
「後ろから? ――それ、俺だろ?」
「うん。直だった」
「……」
変なことを言っているという自覚はあるようだ。直久に分かりやすく説明しようと、言葉を探して、顔を顰める。
「実際に振り返ってみたら直だったんだけど、直じゃなくて、もっと何か恐ろしいモノが後ろから追ってくるような気配がしたんだ」
「恐ろしいもの?」
「何だろう? 暗い感じの……」
「暗い?」
「闇みたいな……」
「闇?」
闇と言えば、辺りはずいぶん薄暗くなっている。
正午前にあの途方もなく長い石段を上り始めた。あれからだいぶ時間が経ったように思う。
空を仰いだ。深緑。木々に覆われた頭上は、太陽の位置はもちろん、空の青ささえ分からなかった。
「まさか……」
ゆずるはずっと考え込んでいたらしい。 ある仮定にたどり着いて、顔を青ざめる。
「直、気分はどうだ? 何か変だって感じることはない?」
「変? ――変って言えば、さっきから変かも」
「さっきから?」
「さっきって言うか、ジジイが死んじゃった直後からかな。違和感って言うの? 何か違うって感じ」
何が違うのかは分からない。
どこか。そう、どこか。自分の中のどこかがガラリと変わってしまったような感じだ。
細胞が書き換えられてしまった。そんな感じ。
「お前、もしかして、あれ見えるか?」
空を指したゆずるの指先を直久は目で追う。何もない空間。
首を横に振ると、ゆずるはホッとしたような顔をした。だが、すぐに、あの音は聞こえるか、と言った。
「あの音?」
音なんて何も聞こえない。虫の声も、鳥の声も。木々のざわめきさえも。
そう答えようとした時だった。
リーン。
長く伸びる涼やかな音。風鈴を鳴らしたような音だ。
「聞こえるんだな?」
「……聞こえる」
言うと、ゆずるは表情を暗く沈めた。
嫌な予感がする。聞こえてはならない音なのだろうか。直久が眉を寄せると、ゆずるは低めた声で答えた。
「あの音は、鈴鳴りが足首に巻き付けている鈴の音なんだ。――普通の人間には聞こえない音だ」