2.悲しい未来なら、知らない方がいい
タンスの奥深くから黒い服を引っ張り出した姉――鈴加を、直久は眉を顰めて見やった。
黒い服とは、喪服のことだ。
「はい。これ、あんたの」
「……」
押し付けられた喪服を渋々受け取り、頬を膨らませる。
「まだ、ジジイが死ぬとは限らないじゃんか」
「死ぬわよ。今夜」
きっぱりとした口調で鈴加は答える。その、情の欠片もない言い方に直久は声を荒げた。
「なんで、そんなこと分かるんだよっ!」
「なんでですって!?」
鈴加は哀れみを込めた眼で弟に振り返った。だが、すぐに瞳の色を曇らせる。
「あのね。私だってお祖父様には死んで欲しくないの。だけど、どうしようもないことなのよ、人の死ってやつはね。そして、私たち先見神社の者が未来を予知してしまうのも、仕方がないことよ」
「予知……したのか?」
「お父さんもお母さんも、私も……」
「数も?」
「口にはしないけど、きっとね。――それに、今朝から先見の姿が見えないのよ。神社にもどこにも」
『先見』というのは、先見神社が神として崇める妖狼だ。
直久の目にはその姿は見えないが、神社の屋根で昼寝をしていたり、供物を食べたり飲んだりしているらしい。 その妖狼が得意とする能力が予知であり、彼を崇める先見神社の者は揃って予知能力に優れているというわけだ。
ただし、直久を抜かして……。
「たぶん、お祖父様のところにいるんだよ。お祖父様に契約を果たして貰うために」
「何を果たすって?」
ポツリと言ったのは、直久の双子の弟――数久で、暗く沈んだ顔を隠そうともせずに直久の隣に立っている。
その様子がまるで支えを求めているように見え、直久は数久に寄り添い肩に躰をもたれさせてやった。
「お祖父様が妖狼たちと何を約束したのかは知らないよ。でも、彼らを式神にする時に、何らかの報酬を約束したかもしれない。大伴泰成のように」
大伴泰成。平安時代に生きたという祖先の名前である。より強い力を求めて様々な鬼と契約し、その死後、彼の式神となった鬼たちは交わした契約に従い、彼の死体から思うままに己の欲する物をもぎ取り、去っていったという。
大伴泰成が亡くなった時、その瞬間にして、亡骸が髪の毛一本残さず消えてしまったとも言われている。
「ジジイも死体がないかも、ってことか?」
「曾お祖父様はなかったんだって」
数久は肯定もしなかったが否定もしなかった。 先見たち妖狼8匹が祖父の死を待って、その傍らに待機しているのかと思うと、虫酸が走った。
直久は先程よりずっと弱々しく鈴加に尋ねた。
「本当に今夜、ジジイ、死んじゃうのかよ……」
「ええ」
喪服を握り締める。横を見ると、数久はすでに喪服姿に着替えていた。
今頃、本家には直久たち両親から知らせを受けた親族たちが続々と集まっていることだろう。数久と同じように喪服を着て。
――祖父はまだ生きているのに!
「俺はジジイが死んだら、着替えるよ」
「そう」
数久はもちろん、鈴加も直久に無理矢理着替えさせるようなことはしなかった。
もしかすると、二人も祖父の死の予知を信じがたく思っているのかもしれない。 だけど、彼らの予知が外れることはない。彼らが予知したことは、必ず起きる未来なのだ。
肉親の死を予知してしまったやるせなさは、直久には分からない。
否定したくとも、己の力の確かさは誰よりも自身の知るところなのだ。力なんてなくて良かったと、つくづく思う。
――悲しい未来なら、知らない方がいい。その時がやって来るまで、信じていられるから。
双子が玄関を出ると、喪服姿の父親が車の運転席で二人を待っていた。
本家に行くのは、父親と双子たちだけだ。母親と鈴加は行かない。なぜ、と数久に聞くと、数久は言い難いそうに、月が丸くなってきたからと答えた。
「力が使えない時は家に籠もっていた方が安全だから。特に、死に近い者の側に行くのは、とても危険なことなんだ。うちの一族の女性は力がない時でも、その力の器となる肉体は変わらず悪霊たちにとって最高の器だから」
躰を乗っ取られてしまう危険性を解く。 そして、数久は、おそらくゆずるも祖父の寝所から一番離れた部屋で籠もっているだろうと、言い加えた。
「本当は、ゆずるは別の場所に避難した方が良いんだ。死の臭いに引き寄せられて、いろんなモノが彷徨い込んでくるだろうから。本家には強い結界が張ってあるけれど、それも、お祖父様が亡くなってしまった時、どうなるのか分からない」
「結界がなくなるかも、ってこと?」
「なくなることはないけれど、弱まるだろうね。弱まったところを見計らって、嫌なモノが入り込んでくるかも」
嫌なモノ……。
どんなものかは想像できないが、いかにも嫌そうに言った数久を見て、相当嫌なものに違いないと直久は思う。
本家に着くと、やはり親族がずらりと集まっていた。だが、どこを捜してもその中に女性の姿はない。ゆずるもいない。 男ばかりが数十人も同じ屋根の下にいるというのは、間違いなく、異常な事態が起こる前触れなのだろう。
九堂家の当主が死ぬ。
その息子は十数年前に勘当されており、孫が跡を継ぐことに決まっているが、その孫――ゆずるは、男子だけが相続を許された九堂家において、女子として生まれてきた身なのだ。
その事実を知る者はわずか。
分家の者たちが知れば、ゆずるを当主にすることは認められないと騒ぎ立てることは目に見えていた。
ゆずるの父親を捜すことになるかもしれない。
当主に勘当された身だが、その当主が死ねば無効だと言い出す者があるかもしれない。
ゆずるの父親――浩一は、ゆずるの母親との婚約が決められていた頃からすでに、別に想う女性がいて、それでも母親と結婚し、妻が子を身籠もったと知るや否や、その女と行方をくらましてしまったという人物なのだ。
数久が嫌悪を込めて浩一のことを話すので、直久も彼に対して良い印象は持っていない。
そんな人物を無理矢理連れ戻して当主に据えるのはどうかと思うが、ゆずるがいつまでも性別を偽っていられるはずもない。いずれバレてしまうことだろう。
それは、ゆずるが当主の座を継ぐ前であって欲しいと願っていたが、祖父は今夜亡くなってしまうという。願いは叶わない。
女の身で8つの分家を従える九堂家の当主となるゆずるは、いったいどうなってしまうのだろう?
――もう、ラクになればいい。
願わずにはいられない。
――ゆずるは女なんだ。本当は!
叫びたい。大声で。
だが、叫んでしまった後の、ゆずるの絶望に歪んだ顔を思い浮かべれば、直久に叫べるはずがなかった。
ゆずるは祖父から、いずれ九堂家の当主になれと言われ、男子として育てられたのだ。
当主になるために生きているようなもの。
それを奪うことは、死ねと言っているようなものだ。 願わずにはいられないが、叫べるはずがなかった。
日が沈み、すっかり夜が更けている。
時折、誰かが何かを払い除けるような仕草をする他、人々に動きはない。
隣に座る数久は直久に擦り寄ってくるモノにも注意を払い、追い払ってくれる。
だが、それが何であるかは、誰も一切口にしなかった。疑問に思うのは、それを見ることのできない直久だけだからだ。
ガタガタガタ。風が障子戸を叩く。はっと数久が息を呑み、ぎゅっと直久の腕を掴んだ。
「数?」
「来た」
「え?」
「……怖い」
数久が外にいる何かを怖がって、直久に身を寄せてくる。
外にいる何か……。
それはゆっくりと近付いて来、部屋の中に入ってきたという。
数久だけではなく、大の大人も皆、凍り付いたような表情になって、それの動きを目で追っている。
皆の目線のおかげで、直久にもそれがどのように移動しているかが分かった。
庭から入ってきて、人々の前を過ぎると、隣の部屋である祖父の寝所にスッと入っていった。
「ご臨終です」
間もなく、医者が呟くように言葉を放った。