1.もうすぐ会いに行くよ
『蛍狩り』(http://ncode.syosetu.com/n6689d/)の続編です。
「君、ゆずるだね?」
顔を上げると、知らない男が自分を見下ろしていた。
知らない男。――だが、一目で分かった。あいつだ。幼いゆずるは男を睨み付けた。
男は涼しい顔で立っている。
細い糸のような髪は明るい茶色。瞳は暗い茶色だが、光の差す角度によっては黄金色にも見えた。
スッとした鼻筋はやや日本人離れしており、唇は薄い。
男のくせに眉は細く長い。また、男のわりに身体の線も細く、スラリと背が高かった。
似ていた。自分に。
似ていると感じて、ますます嫌悪を感じた。
母親似だと言われたことなんて、生まれてこの方、一度もなかった。
父親の名を口にすることは、九堂家やその分家の間では禁忌に等しいため、皆は祖父に似ていると言ってくれた。
それは誇らしくもあったが、父親は祖父の若い頃と顔立ちがそっくり同じであり、要するに自分は父親似だということなのだ。
生まれて初めて出会った知らない男――父親に対抗しようと、ゆずるは立ち上がった。
尻に付いた土を払う。その間、一瞬でも父親から目を逸らさなかった。
「一緒に来るかい?」
「行かない」
「でも、苦しいだろう?」
「……」
言われた言葉の意味はすぐに理解できた。
苦しい。 自我が芽生えた辺りから、胸を締め付けられるように苦しくなったのは事実だ。
投げ出したい。逃げたい、と思ったことも一度や二度ではない。それは年を追うごとに限界に近くなっていた。
「もう苦しまなくてもいいんだよ?」
「誰のせいで!」
「君には可哀想なことをした。だから、君の代わりを用意したんだ」
ゆずるは息を詰めた。 父親は優しげに微笑んだが、嫌悪感が増すばかりだった。
自分に流れる血の半分が彼と同じなのだと思うと、自分自身さえ嫌いになりそうだ。
――もうすぐ会いに行くよ。
彼はそう言い残して、ゆずるをポツンとその場に放り、去っていった。
▽▲
瞼を開くと、夜中だと言うのに部屋の中は白く明るい。
電気などといった無粋な物の必要ない夜。 青白い光を放つそれは煌々と、ゆずるの眠る部屋の奥まで明るさをもたらせていた。
ゆずるは掛け布団から這い出ると、腕を長く伸ばして襖を横に引いた。
闇の中にぽかりと浮かぶ月。満月ではない。だが、わずかにしか欠けていない月だ。
薄灰色の雲が漂っていたが、それらがこの月を覆い隠すことはないだろう。
月がそれを許さない。寄せ付けない程の強い光を放っている。
刺すような光だ。この世の異端を許すまいとしているかのような強い光。
異端。――妖狼の血を引き、その血が薄まる度に妖怪と交わり、もはや人ならざる者になってしまった己の一族は、異端そのものなのではないだろうか。
ゆずるは仰向けに寝転んだ。月が見えるように、頭だけは廊下に出し、躰は室内に残している状態である。腰から下には掛け布団が絡まるように掛かっている。
秋風が吹き抜けた。躰を冷やしたが、動こうという気にはなれなかった。
満月に近い時期は力が使えない。
正確に言えば、満月の日が近付くにつれて力は弱まり、満月で完全に無力となり、新月に向けて増していく。
満月は明日だろう。故に、今のゆずるにはマッチ棒を浮かせる程度の力しか持ち合わせていない。
日常生活の何から何まで、本来、人が持つはずのない力を使っているゆずるにとって、人としての力だけでやり抜かなければならないのが、億劫でならなかった。
月さえ細ければ、寝ながらの体勢で移動することさえできるのだ。
簡単なことだ。わずかに躰を宙に浮かせればいい。そして、その躰を平行移動させ、思う場所で降ろせばいいだけのことなのだ。
ゆずるは瞼を閉ざした。このまま月の光に身を突き刺されながら眠るのもいいかもしれない。
木々が揺れた。辺りに意識を巡らせると、何者かがゆずるの顔を覗き込んだようだった。
それでもゆずるは目を開かない。何者であるかは察しが付いていた。
九堂家の周りには結界が張り巡らされており、悪しきモノは内に入れないようになっている。
結界を通り抜けられるのは、やくたいもないモノたちばかりだ。瞼を開く程の価値もない。
もっとも、今のゆずるには、例え瞼を開いたところで、それらの姿は目には見えないだろう。
瞼を開くだけ無駄というものだ。
ゆずるの顔を覗き込んでいたそれは、見飽きたのか、蛙のように飛びながら去っていった。
しばらくすると、また何者かが近付いてきた。
サラリと布が擦れる音。女だろうと思ったのは、長い髪が風に揺れる気配がしたからだ。
彼女はゆずるの顔に己の顔を近付け、額に己の唇を触れさせる。瞼に。頬に。
そして、ようやく気が付き、飛び退くようにゆずるから離れた。
――謀ったな。
響きのない声で彼女は言った。
次第に怒りが湧いてきたのだろう。懐からキラリと輝く物を取り出すと、大きく振り上げた。
ゆずるに振り下ろす。だが、ゆずるに痛みはない。
所詮、彼女たちはゆずるとは異なる次元の住人なのだ。
彼女が振り下ろすナイフは、ゆずるの躰をスカスカと突き通す。無意味な行為。
それでも、彼女はやめない。
ますます怒り狂って、鋭利なナイフをゆずるに突き立て、どうしてと問う。
――どうして、貴方は女の性を持って生まれてきてしまったの?
彼女の怒りの原因は、どうやらゆずるが少女だったせいらしい。その少年としか見えない外見に、騙されたと思ったのだろう。
ゆずるはジッと動かなかった。
性別を偽っているのは事実だった。生まれた時から、ずっと男子として生きてきた。
そして事実、多くの者たちは、ゆずるのことを男と思っているだろう。
彼女の肩を何者かが叩いた。彼女は、ゆずるにナイフを突き立てるのをやめた。きっと彼女の仲間なのだろう。やはり女で、二人は似通った気を纏っている。
瞼を開かないまま、彼女たちの様子を探り、彼女たちが自分から離れていくのを感じた。
月の光の中に溶けて、消えていく。
――月の精だったのかもしれない。
だが、どうでもいい。彼女たちが何者であるかは、今のゆずるにとって、どうでもいいことだった。
もはや、確かめようもないことでもある。
ザワザワと木々が騒いだ。
ハッとして、ゆずるは飛び起きた。
庭の片隅で、最初にゆずるの顔を覗き込んだ蛙のようなイキモノが、ケタケタ笑い声を上げた。
嫌な予感がする。
子ども程の大きさのそのイキモノは蹲ったまま、ゆずるを遠くから見つめている。だが、ゆずるからは、それの姿は見えない。ただ、気配を感じるだけだ。
それが嗤う。
ケタケタケタ。
その時だった。廊下の向こうから数久が走ってきた。 月の青白い光の中、数久の顔は血の気のないもののように見えた。
ゆずる、と小さく呟くように数久は言った。
「たった今、お祖父様が亡くなったよ」