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第五章 千年前の物語(3)

     十月二日


 老婆にゆっくり休めと言われたが、一行は興奮してなかなか寝付くことはできなかった。皆、まんじりともせず朝を迎え、のそのそと起きて朝食を摂り、アルテイシアからもう一つの話が切り出されるのを待っていた。レオンハルトだけは嫌々我慢して、その時に備えているという格好だった。これ以上、自分に関する辛辣な情報など欲しくはなかったのだ。




     二つ目の恋の物語


 女王様が亡くなり、私が妖精界へ渡った九百年と四十年後、妖精王の寿命が尽きましてございます。妖魔王の寿命が十万年だか一億年だか、途方もない年数であるのに対して、妖精王の方は五千年くらいと控えめではございますが、それでも代替わりの場面に立ち会うなど滅多にないことでした。妖精王はエルフと同じ流れを組む祖先を持ち、従って人間の姿形は妖精王の祖先から影響を受けているわけです。生殖方法も必然的に同じとなり、別の世界、別の種族でありながら互いの子を成すことができます。私の母と父がそうであったようにです。

 さて、亡くなった妖精王にはエルフの后との間に生まれた王子がいました。元々体の弱かった后は、この王子を生んで間もなく亡くなっていました。当時若干三歳の幼子は、両親の愛情を充分に受けられないまま、新しい妖精王の座に就くことになりました。妖精王は一子相伝でしたから、後継者が生まれて何よりだったのですが、一つ大きな問題がございました。それは、后の病弱さを受け継いでしまっていたことです。そもそも、妖精界において病気など昔は存在もしていなかったのに、この千年で突然急増したのです。人間の血が混ざるようになって、病気になる体質に変わってきたこと、そして、人間から精神力を得る代わりに魔力を与え続けた結果、妖精界全体のバランスが崩れてきたことが起因しておりました。

 新しい妖精王の病気は生きながらにして徐々に肉が腐り、削げ落ちるという、恐ろしい種類のもので、もって百年と診断されていました。人間なら大往生の年齢でしょうが、妖精界では夭折と言わざるおえません。幼い妖精王は、忍び寄る死の影に日々怯えて生きていらっしゃいました。この妖精王には気の毒なことでしたが、周囲は気遣うどころではなく、早く次の世継ぎが必要だと焦っておりました。適齢期を迎える前に、后の準備だけでもしておこう、というわけです。まず、エルフの娘たちの中から候補を募りましたが、美意識の高いエルフは妖精王の病気を許せず、見るのも嫌だという有り様で、結婚など到底無理でございました。ならば、と白羽の矢を立てられたのが、あの、ガラス管の少女でした。確かに、妖精界の一大事で、今こそ彼女の出番なのかもしれません。けれど、私は心配でした。彼女のことが、ではなく、彼女のとる行動がどちらに転ぶか分からなと女王様は仰っていたのです。気に入らなかったら、妖精王に危害を加えかねないのです。しかし、予てからの約束ですから仕方ありません。私は女王様に教えて頂いた方法で、少女を覚醒させました。ガラス管の液体が抜け始めると共に、少女の顔や指先がピクピク動いて、液体が抜けきった頃には瞼が開き、女王様と同じエメラルドの瞳が見えました。少女は笑っていました。美しい瞳を大きく見開き、唇の両端を吊り上げて。凄まじい残酷な笑みだと私は思いました。悪魔にでも憑りつかれているのではないかと疑った程です。私はガラス管を外して、恐る恐る少女の濡れた手を取り、声を掛けました。

「初めまして、セーラ・コークラ・プシー。私は……」

「アルテイシア。私たち、初めてじゃないでしょ? あなたが二十代のお嬢さんだった時からの知り合いじゃないの。」

 その場にいた誰もが絶句しました。

「よろしくね、アルテイシア。私はあなたのこと好きよ。他は皆、大嫌い。もう一人を除いて。」

 彼女は私の手を握り返して、軽く振ってからつらっと言いました。私は彼女を毛布でくるむと、大慌てでその場を連れ出し、浴室で体を洗ってあげました。洗いながら言いました。

「セーラ。お願いだから、大人しくしていて。」

「私、騒いでも暴れてもいないわ。」

 彼女は真面目に答えました。

「そうじゃなくて、反抗的な態度をとらないで欲しいの。私以外の人たち……妖精たちにも、悪言雑言は謹んでちょうだい!」

 少女はふん、とつまらなさそうにそっぽを向きました。

 それから数日後、一時も離れず彼女と暮らし、様子を伺っておりましたが、一緒にいればいる程、彼女が妖精王の后になること到底無理である、ということを思い知らされるばかりでした。協調性の欠片もなく、恥知らずで自由奔放。見てくれは女王様そっくりなのに、中身は全くの別人。知性、理性を感じさせないのです。人と知って持っているべき感覚が生まれつき欠けている。本能の赴くまま、気の向くままに生きている。どう見積もっても妖精王の后となって陰日向なく支える姿など想像もできませんでした。この先、いくら頑張って人の在り様を言い聞かせようとも、馬の耳に念仏というものです。気が振れてしまっているのですから。私が妖精界の首脳陣の彼女の有りのままを報告し、后の件は諦めるよう提言している最中、事件が起こりました。廊下の方からただならぬ物音が響いてきたのです。慌ただしく駆け抜ける複数の足音に紛れて、悲鳴と怒号、泣き叫ぶ声が混然一体となって耳に入り、話し合いは中断されました。程なく、ノックもなしにドアが開かれ、真っ青な顔をしたエルフの傭兵が息も絶え絶えに訴えました。

「あの娘が地下へ……! 止めようとした者は皆……どうしたら……?」

 私は飛び上がって、部屋を出て行き、地下へ向かいました。地下には女王様の側用人だったあの男が眠っているのです。酷く胸騒ぎがいたしました。

「うっ!」

 途中、妖精たちが血を流して倒れているのを見ました。そのどれもが既に息絶えているか、瀕死の状態でございました。私はなるべく見ないようにして、地下へ急ぎました。

 妖精王の城の地下は、王族の墓場となっていました。妖精は死ぬと肉体を失い、消えてなくなりますから、墓場と言っても

人間界のそれとは趣が異なります。細長い水晶のモニュメントが立てられ、中に魂のようなものが入っているのです。銘を刻んだり、死体や骨を埋める代わりと言いますか、妖精にはもともと必要ないのです。水晶に触れれば、亡くなった人の魂にいつでも会うことができますから。仮とは言え、彼は死んでいるので、肉体は残っていますが、墓場が相応しいというわけで、水晶の棺の中に納められ、安置されておりました。地下に辿り着くと、私は血の匂いとその場の惨状に吐き気を催し、鼻と口を手で塞ぎました。彼女を制止しようとした衛兵たち数十人が惨たらしく殺され、そこかしこに転がっていました。何の躊躇も容赦も見られない殺され方でした。蝿や蚊を叩き潰すようなものです。その向こうに帰り血で赤く染まったセーラが、水晶の棺に向かって立ち膝をついておりました。棺の蓋は既に開いていて……

「あっ!」

 手を伸ばして、私は何をしようとしたのでございましょうか。無意味です。手遅れだったのです。彼女は、彼の胸に突き刺さった、例の剣に手をかけ、こともなく抜き取り、放り投げました。大の大人が束になっても抜けなかった剣を、いとも容易く抜いてしまったのです。

 彼は一つ深く息を吐いたようでした。それから目を薄っすらと開けました。自分の上に屈み込む少女を認めて、無言で身を起こし、呆然と前を向いております。恐らく仮死状態となる前のこと、そして今の状況について思いを巡らせているのでしょう。セーラは血まみれの腕を彼の腰に回し、頬を彼の腹に埋めて嬉しそうに擦りつけました。

「ああ、やっと会えた。会いたかったわ、ずっと。」

 彼は、彼女に目もくれず、辺りをゆっくり見回しました。そして言いました。

「傷つけた者を、皆、元通りにするのだ。」

 セーラはびっくりして体を起こし、大きな目を彼に向けました。

「どうして? あなたをこんなところに閉じ込めて、起こしに来た私の邪魔をした奴らよ!」

「閉じ込められてもいないし、起こして欲しいと望んだわけでもない。お前の方が邪魔だ。」

 静かで抑揚のない声でしたが、彼が起こっているのは充分伝わってきました。彼が怒っているところを、そういう台詞を喋っているのを初めて聞きました。セーラは半泣きで叫びました。

「ごめんなさい! 皆を治すから、私のこと、嫌いにならないで!」

 セーラは子供っぽく涙を手の甲で拭いながら立ち上がり、小走りに衛兵の遺体の間を通り際、魔法を次々と放ちました。煌めく無数の星みたいな光が遺体に纏わりつき、光が消える頃、衛兵たちは息を吹き返すのでした。

「皆を治したわ。」

 目をキラキラ輝かせて、セーラは彼の元へ戻ってきました。彼は眉ひとつ動かさず返答しました。

「不完全だ。」

 セーラは頬を打たれたみたいに、顔へ掌を当て、また泣きそうになりました。

「どうして? 全員生き返らせたわ。」

「私は、お前に元の通りにしろと言ったのだ。見ろ。」

 セーラは促され、もう一度倒れている傭兵たちに目をやりました。私もつられて見回しました。意識はかろうじてありますが、誰もが瀕死の重症で、弱々しい呻き声がどの口からも漏れ出ておりました。これなら、殺されたままの方がましというものでございましょう。

「これのどこが元通りだ。手抜きをするな。完治するまでやれ。」

 命令されたセーラは半狂乱で衛兵たちを癒しにかかりました。セーラがこんなにも従順になった姿にも驚きましたが、彼が命令して人を使うなど、聞いたこともございません。世界がひっくり返ってしまったようでした。

 衛兵たちの傷が癒され完治し、事件が一段落したのは真夜中のことでございました。セーラは墓地のさらにした、牢獄に収容されました。彼がそうするように言ったので、抵抗するどころかむしろ喜んで牢獄に入りましてございます。九百四十年の眠りを妨げられた彼ですが、例の剣を再び胸に刺したりはしませんでした。私は、彼の気が変わらないうちに剣を私の部屋に隠し、彼のための部屋を従者たちに用意してもらいました。彼とセーラの処遇について次の日の朝、決断が下されました。

「何と申されますか!」

 私はつい、大声を出してしまいました。妖精界の重鎮はこう言ったのでございます。彼もセーラも使える、と。

「不幸中の幸いに、皆様生き返ることができましたが、本来であれば今頃水晶の中でございますぞ?」

 私の抗議に老エルフは全く動じることなく答えて言いました。

「そこが重要なのだ、アルテイシアよ。彼女はただの妖精殺しではない。死者を蘇らせ、完全に癒すことができるのだ。それも、いとも容易く、次から次へと……! 我々エルフの中でも僅かに数人復活の術を使える者がおるが、成功率が低い上に体力の消耗が激しく、悪くすれば自ら死んでしまうこともありうる。彼女はどうだ? 彼女なら妖精王の病を治すことも、万が一命を落とされることがあったなら生き返らせることもできるではないか。」

「そうかもしれませぬが、あの気性でございます。何をしでかすが分かりませぬぞ。妖精界が破滅に追い込まれるやも……」

「だから! あの男の出番であろう? 奴の言うことは良く聞くという話ではないか。」

 私は大きな塊が詰まったかのように、喉元を押さえました。不本意にも永い眠りを断ち切られたばかりの彼に、どうこうしろなんて、なかなか言えるものではありません。人ではないのだから仕方ありませんが、妖精とは実に人間味のない、冷たい生き物でございます。彼らは自分たちで告げたりせず、私に言いつけました。半分妖魔の血が流れている彼に、近づくのも嫌だというわけです。私はため息を吐き、首を振り振り彼の部屋を訪れました。

「頼みがあるのだよ。」

 言いながら、私は彼に頼み事などしたことはなかった、女王様以外の誰もしたことはないと思いました。それでますます緊張してしまいました。

「セーラに妖精王のご病気を治すよう、お前さんから言っては貰えまいかね?」

 彼は、私の老いた眼をしばらく見つめていましたが、無言で一つ頷きました。

「私のことなど、放っておけば良かったものを。」

 一瞬、何のことやら分かりませんでしたが、ああ、そうか、九百四十年前、仮死状態の彼を妖精界まで連れてきたことだと思い当たりましてございます。

「放ってはおかれないよ。女王様のご遺志だからね。」

 彼はまだまだ私の眼を見ておりました。

「見たのか」

 私ははっとして、目を伏せました。見たのか、とはつまり、過去の眼で女王様と彼が死んでしまった一部始終を見たのか、ということです。九百年以上経った今でも忘れられない光景でございました。

「私の幸せが、ここにあるとでも?」

 そう言われると、胸が潰れそうでした。答えに詰まっている私から、やっと視線を外し、彼は言いました。

「彼女を妖精王と会わせよう。」

 老エルフか言った通り、セーラは彼の言うことなら本当に喜んで聞き入れました。私と彼とセーラの三人で、妖精王にお目通りいたしました。この頃、妖精王は人間で言うと十歳の少年、セーラの二つくらい上といったところでしょう。数カ月前に私は一度妖精王のお体の状態を拝見させていただいたことがございました。役に立てることはないものかと……しかし、どうにもできませんでした。その時より、さらに病状が進んでいらっしゃるご様子でした。私たちの目の前で、妖精王のお顔に巻かれている包帯が解かれました。肉が削げ落ち、陥没して白い歯が剥き出しになってしまった左顔面……私は卒倒してしまいそうでしたが、他の二人は平然としておりました。彼の命を受けているセーラは、忠実に、妖精王の頭の先から足の先まで隈なく点検するように見回しました。セーラは、妖精王から二、三歩下がって顎に手をやり、うーんと唸りました。

「これはダメね。」

「えっ?」

 私は驚いてセーラを見ました。

「どうして? あんなに沢山の妖精たちを治して、もとい、生き返らせたじゃないの!」

「あれは単純だもの。傷を修復して、止まった心臓をちょっと動かせばいいだけよ。でも、これは違うの。」

「違う?」

「いわば、個性よ。病気じゃない。こういう体質なの。遺伝子上、こうなるように設定されているのよ。この人にとっては自然な現象だわ。歯が生え変わったり、爪が伸びたりするのと一緒よ。」

「病気の進行を止めるくらいは……」

「だーかーらぁ、病気じゃないんだってば。あなたを純血のエルフとか、人間なんかに変えられない。そう言えば分かる?」

 私は絶句して、彼の方を見ました。彼も異論はないようで、ただ黙って見ておりました。結局、何もできないまま、三人してその場を去ろうとした時、後ろから呼びかける声がしました。

「ねえ!」

 包帯を再び巻き終えた妖精王が走り寄ってきます。そしてセーラに向かって言いました。

「君は、私のこと、気持ち悪いとか、怖いとか思わないの?」

 セーラはきょとんとして言いました。

「気持ち悪いって、どういうこと?」

 妖精王は、えっ?と驚いて、もじもじされました。

「いや、だって、それは……」

「左のほっぺたがないとか?」

 相変わらずずけずけ物を言うので私はハラハラいたしました。

「う、うん……」

 妖精王は残念そうに俯かれました。

「私、もっと凄いの、沢山見てきたから。あんたのは大したことないわ。私が怖いのは、この人に嫌われることくらい。他に怖いことなんてない。」

 それだけ言うと、セーラは踵を返し、部屋を出て行きました。私はまた、彼をちらっとみて、すぐセーラの後を追いました。彼のことしか眼中にないというわけです。

 妖精王を癒すことができなかったと報告しますと、老エルフは起こった風もなく、言いました。

「既に聞き及んでおる。治せないものはしようがない。」

 私は尋ねました。

「セーラは……?」

「彼女には、妖精王の后となってもらう。当初の予定通りだ。妖精王の病気が治れば、エルフの娘を、と思っておったが、こうなれば致し方ない。彼に、もうひと働きしてもらうとしよう。」

「ひと働き?」

「ふむ。后として相応しいレディになるよう、彼女を調教するのだ。彼ならできよう。」

 私が老エルフの提案を告げると、彼は良いとも悪いとも言わず、承諾してくれました。こうしてセーラの教育が始まりました。いつもだらしなく、絨毯かソファの上に寝転んでいるセリアですが、彼に「座り直せ」と言われて飛び上がって椅子に座り、背筋もピンと伸ばします。部屋を散らかしていると彼に注意され、慌てて片付けます。そのうち、彼の気配に気付いただけで身の回り、立ち振る舞いを改めるようになりました。勉強も彼が教えました。学術的知識は女王様を彷彿とさせるほど豊かでしたから、教えることなどありません。彼が教えたのは、言葉遣い、道徳、作法、身なりの整え方、芸術など、女性らしさを鍛える内容だったり、極端から極端へ走る彼女の魔力をコントロールする術だったり。とにかく徹底的に教え込んでおりました。

 セーラは主人に仕える子犬のように従順でしたし、彼は猛獣使いのように巧みに操っておりました。とても不思議な光景でした。彼の教育は八年続きました。セーラはすっかり見違えて、立派なレディに育ちました。奇行も下品な言動も殆ど見られず、女王様には及びませんが、しとやかな女性へと変貌を遂げましてございます。私は知っておりました。彼女は、彼のためだけに変わって見せたのだ、ということを。彼を見つめる時の、直向きで真っ直ぐな眼差し……誰だってその瞳の意味するところを分かっていたでしょう。

 しかし、無情にもその時は来てしまいました。

「そろそろ、彼女を妖精王の后とする。」

 老エルフの言葉に、私は浮かない返事をいたしました。

「妖精王も乗り気なのだ。病気の身体を見ても全く動じず接してくれると喜ばれている。それに、あの美貌だ。わしもあと五百年若ければと思う程だ。」

「でも、セーラは妖精王ではなく、その……」

 老エルフは、私の言葉を遮りました。

「彼女の気持ちなど、関係ない。元々、妖精王の后とさせるために目覚めさせたのだ。好きに使ってよいという条件で引き受けたのだから、文句は言えまい。何のために九百年以上も置いてやったと思っている。」

 私は、腹の底から熱いものが込み上げるようでした。必死にこらえて言いました。

「彼女が聞き入れますかどうか……后の件はまだ耳に入れておりませんので……」

 老エルフは、ふん、と鼻で息をしました。

「何を今更。彼に言わせればよいではないか。」

「そんな……!」

 愛する男にそんなことを言われたら、どんなに傷つくことでしょう。

「それから、彼女が承諾したら、彼にはここを出て行かせる。」

「もう、用済みということですか!」

「用済みどころか、邪魔者だ。餌をいつまでもぶらさげておいたら、気が散って仕方ないわ。そなたも分かっておるだろう、それくらいのことは!」

 私は悩みました。確かに、妖精界の一大事で、セーラは必要とされているのです。ですが、これでは一生懸命頑張ってきたことが報われません。いっそ、彼にセーラを連れて逃げてくれと言ってしまいたかった。でも、女王様のお言いつけは、彼女を千年生き長らえさせることなのです。女性として幸せな人生を送って欲しいなんて一言も仰いませんでした。来るべき日に備えて彼女を起こし、女王様が準備した何かを完成させるのが、私の使命であり、彼女の使命でもあるのです。私は、意を決して彼に言いました。

「セーラに、妖精王の后となるよう言って、お前さんはその後、何も言わず妖精界から出て行っておくれ。」

 彼は黙って、いつもみたいに私の眼を見ようとしました。私は慌てて目を瞑り、続けて言いました。

「私を許しておくれ! 仕方ないのだよ。これは返すから、好きにするといい。」

 懐から例の剣を取り出し、彼に差し出しました。まるで、死んでもいいと、自殺を促しているみたいでした。酷いことをいたしました。私が彼にしてやれることは、これだけだったのです。彼は、震える私の手から、剣を静かに受け取りました。

「これが、彼女を育てた私への駄賃というわけか。」

 彼は、苦笑したかもしれません。実際は目を瞑っていたので、見れませんでしたが、ふと、そんな気がしたのです。確かめたくて、目を開け、顔を上げてみましたが、彼はもういなくなっていました。妖精王の城の周囲には大小さまざまな湖があり、中でも円い形をした小さな湖の畔に建てられた二階建ての小屋がセーラの棲家でした。前の住人が亡くなって何百年も放置されていたものをきれいにして、修復した小屋です。素晴らしい景観が望めるこの小屋で、セーラの情緒、感性を育てるのが目的でした。セーラはボートが括り付けられている桟橋に腰を降ろし、裸足を投げ出し、ぼんやりと湖の風景を眺めるのが好きでした。

 この日もセーラはいつものように桟橋に座って、キラキラ光る水面を美しい瞳に映じておりました。そんなセーラに近づいていく彼を、私は物陰からそっと見守っておりました。セリアの背後に立ち、彼は言いました。

「お前は妖精王と結婚して、良き后となるのだ。」

 それは命令というより、暗示のようでした。セーラは驚いた風もなく、彼を振り返り、一瞬の間を置いてから、笑みさえ浮かべて答えました。

「分かったわ。あなたが望むのなら、喜んで。」

 言い終えると、再び湖の方に顔を向け、何事もなかったように水面を見つめました。彼は幽霊のように足音もなく静かに立ち去りました。

 その日の午後、セーラは自分から妖精王へお目通りを申し出、結婚の話を切り出しました。

「良いのか? 君は、彼を……」

「私が誰を好きかなんて何の意味もないの。大事なのは何をするか。私はあなたの妻になる。そして子供を産むのよ。」

 セーラはきっぱりと言い放ちました。その真っ直ぐな背中はかつての女王様を彷彿と左折ようでした。

 セーラの気が変わらないうちに、とういうわけでもないのですが、祝言の準備は急ピッチで進められ、いよいよ明日という夜がやってきました。私は念のため、明日の段取りと彼女の心積もりを確認しに、湖畔の棲家へ向かいました。小屋の近くに来た頃、二階のバルコニーに黒い影が動くのを見て、私は咄嗟に茂みへ身を隠しました。それは、彼でした。彼があの剣を携えて、湖を背に立っていたのです。湖は穏やかに絶え間なく水面を揺らし、月のない夜空を飲み込んでいました。セーラの姿はそこになく、部屋の明かりもついていませんでした。恐らく眠っているのでしょう。朝が早いので夜更かししないよう言ってあったのを、彼女なりにきちんと守っていたのです。彼は剣をしげしげと眺めてから意を決したという風に硝子戸をあけ、部屋の中に入り、五秒とたたないうちにまたバルコニーに出てきました。もちろん、物音ひとつ立てません。その手に剣はなくなっています。彼は湖の方へ直進しました。そして、手摺りまであと一歩というところで、止まりました。

「待って!」

 背後で呼び止められたからです。星明りに照らされた白い寝間着姿のセリアは青白く、ほんのり輝いて見えました。胸に剣を押し当てて立っている姿は繊細なガラス細工の女神像のようでした。セーラは声を震わせながら言いました。

「行ってしまうのね。そうじゃないかと思っていたの。」

 彼は微動だにせず、黙っています。彼女は続けて言いました。

「行かないで、なんて言わないわ。この剣だって、ちゃんと完成させる。あのヒトのいいお嫁さんにもなる。ただ、一つだけ、あなたにお願いがあるの。」

 彼の命令全てに従順だった彼女が「お願い」だなんて言葉を口にしただけでも驚きでしたが、彼女が次にとった行動は、私をさらんい仰天させました。剣を床に放り投げて、彼の背中に抱き付いたのです。私は声を上げてしまいそうになるのを必死で堪えました。

「一度でいいから、思い出が欲しいの。お願い!」

 色恋沙汰とは無縁な人生を送って参りました私ですが、彼女の言わんとするところはすぐにわかりました。思い返すに彼女が彼に触れたのはあの墓場での一件以来初めてのことでございました。目もろくに合わせません。けれど、彼が後ろを向いている時はいつでも視線で追っていました。言葉にこそしませんが、彼を渇望していたのです。彼の立場を知っていて、本当に愛しているからこそ、彼を困らせるような言動を慎んでいただけなのです。それが、最後の最後で爆発してしまったのでしょう。時が止まってしまったように、二人ともしばらく動きませんでした。私がハラハラと見守る中、ついに彼の手が自分の胸の上に張り付いたセーラの手をとり、そして……振り解くかと思われた、次の瞬間、彼はセリアに向き直り、マントで包むようにして部屋へ押しやったのです。硝子戸が、キシ、と音を立てて閉められ、一分経っても十分経っても開くことはありませんでした。私は血の気が引いて、草の上にへたり込みました。大変なことが起きてしまったと思いました。でも、心のどこかで、妙に気が晴れた感覚もちらついていたのです。セーラを道具として扱う妖精界の冷たい仕打ちとか、彼の気の毒な境遇とかを顧みるにつけ、セーラが少しくらい我ままを言ったって、彼がそれに対して情けをかけたからって、どうして責められようかと思ってしまっていたのでございます。

 やがて、夜も白むころになり、彼がバルコニーへ出てきました。星が消えかけた空に顔を向けたその刹那、黒い霧となり、風に流され空気に溶け込むみたいに見えなくなってしまいました。空間転移の術を使ったのでございましょう。彼が消えたバルコニーに、少し遅れてセーラが現れました。夜明けの空に切ない眼差しを送っていましたが、暫くして諦めたように顔を背け、床に転がっている剣を拾い上げ、愛おしそうに抱きしめました。もはや、セーラと彼を繋ぐものはその剣だけなのです。私は見ていられなくなって、その場を逃げるようにして立ち去りましてございます。

 さて、それから十ヵ月程後のこと。セーラは妖精王の后としての務めをきちんとこなし、子を成して母となりました。しかし、この子供は妖精王の後継ぎとして産み落とされたのではありませんでした。結婚して間もなく、セーラは妖精王に恐るべき計画を話して聞かせたのでございます。

「私に、考えがあるの。あなたの体質……病気と言った方がいいのね? それを改善させる方法が、全くないわけじゃないと思ってる。」

「えっ?」

 妖精王は、既に左の眼球をも失い、ガラスの義眼を嵌めていましたが、残りの右目をぎらぎらさせて、セリアを食い入るように見つめました。

「あなたに適合する個体から正常な遺伝子を取り出して、あなたに移植するの。」

「適合する個体?」

「他人だと確率はぐっと低くなる。でも、血を分けた家族なら……」

「それはつまり……」

「そう。つまり、子供よ。」

 妖精王は身をのけ反らせてセーラを見続けました。

「子供はどうなる?」

「それは死ぬわよ。」

「セーラ……!」

 絶句する妖精王の肩に手を置いて、セーラは言い聞かせました。

「子供はまた作れるわ。今はあなたの命を優先しましょう。あなたを死の恐怖から救いたいのよ。」

「どうしてそこまで……?」

「私はね、常に死の淵に立たされてギリギリのところで生きてきたの。だから、人一倍、死ぬってことの意味を知ってる。後継ぎが何よ。ただ生まれたって、あなたは救われない。そうでしょ?」

 かくして、子供は妖精王の治療目的でこの世に生まれてきました。いわば薬の材料でございます。名前も付けられない赤子を私は何とも複雑な心境で眺めました。セーラにそっくりな男の子でした。何も知らないで、見る者全てに愛くるしい笑顔を振りまいておりました。誰もが情に流されないよう、必死で耐えておりましたが、いつの間にかその子の周りに集まって、何だかんだと構ってしまうのでした。冷たい妖精たちでさえも、この子の魅力に負けて吸い寄せられ、口元を綻ばせてしまうのです。

「妖精王に適合するとは限らないのだよね?」

 私は赤子を抱っこしながら、尋ねました。セーラはため息を吐きながら答えました。

「今は何とも言えないわ。検査してみないとね。まだ小さすぎて検査に耐えられないでしょう? もうちょっと成長して、安定してからじゃないと……」

 それから、赤子をあやす私をつくづくと見て、こう言いました。

「あまり肩入れしないことね。愛情は別れを辛くさせるわよ。」

 我が子に全く興味がない……もとい、興味を持たないようにしていたセーラですが、皆があんまり群がるものですから、ある時どれどれと赤子の顔を覗きに近づいてきました。お産以来、初めてのことです。抱き上げたりはしません。ただ、興味本位に覗き見るのです。セリアはにこりともせず、我が子を観察しました。

「いやね。私にそっくりじゃないの。妖精王との適合性に影響しなければいいけど。」

 そう言って、しばし口を噤み、赤子を真剣に見続けるセリアでしたが、

「それにしても、何だか……まるで」

 独り言のように呟いていたかと思うと、また黙ったりするので、私は少し気になって聞き返しました。

「まるで、何だと言うの?」

 セーラは皮肉っぽく鼻で笑って、首を振りました。

「ううん。何でもないわ。」

 そう言うと、赤子に背を向けて部屋を出て行ってしまいました。

 ところが、次の日の夕方、城の廊下を歩いておりますと、血相を変えてセリアが走り寄って来まして、私の両腕に縋りついてきたのです。息を切らして、気が動転してもいるようで、口を動かしてはいますが、うまく言葉にできないといった具合でした。

「どうしたの? 何があったの。落ち着いて!」

 私が問いますと、セーラは息を一つ飲み込んで、ようやく口を聞きました。

「私……私、大変なことを……! どうしたらいいの? どうしよう、アルテイシア!」

 私は何とはなしに、セーラが走ってきた方角に目をやり、ぎょっとして老いた足で駆け出しました。赤子の部屋のドアが開いているのが見えたのです。赤子に何かしでかしたのかと思いましてございます。しかし、赤子は別段、どうもなっていませんでした。籠の中で健やかな寝息を立てて眠っていました。私は安堵と疲労のあまり腰が抜けそうになりながら、やれやれとセーラがいるはずの廊下へ戻りました。

「セーラや、年寄りをあんまりびっくりさせないでおくれ。寿命が縮んで……」

 セーラはそこにはいませんでした。私は狐にでもつままれたような気分でございました。さっきのは、一体何だったのか……?

 夕食の際、セリアは普通に席に着いて、普通に食事をとっておりました。全くの平常心であるとその顔は申しておりました。私は首を傾げるしかありません。

 しかし、次の日の朝のことでございます。私が自分の部屋で身支度を済ませた頃、エルフの侍女がドアをバンバン叩いて、返事もしないうちに開けて転がり込んできたのでございます。

「何事だね? はしたない……」

 ため息を吐く私に、侍女は昨日のセーラのように縋りついて訴えました。

「大変でございます! セーラ様がお子を……!」

 私は侍女の言葉を待っていられず、慌てて赤子の部屋で向かいました。部屋のドアは開いており、同じく開いた窓辺にセーラが腰かけて、ぼんやり外を眺めておりました。そこにいるはずの赤子は、籠もろとも消えていました。

「セーラ……?」

 私の声に反応して、ゆっくりと振り向いたセーラは髪も乱れ、目は虚ろ。目覚めて間もない少女だったあの頃のようでした。

「捨てたの。」

 小さな声でしたが、老いぼれた耳でも良く聞こえました。

「捨てた?」

 セーラが答える前に、妖精王が部屋へ入って来ました。わなわな震えながら、セーラに近づいてきます。怒りというより、恐怖の形相でございました。

「捨てたとはどういう……何故?」

 震える妖精王の腐りかけた手を取って、セーラは言いました。

「あなたと適合しないって分かったの。役立たずだわ。だから、捨てたの。見るのも嫌だったんだもの。」

「殺したのか?」

 セーラは妖精王の残された目とガラス玉の目とを交互見ながら、言いました。

「窓から放り投げたら、ガーゴイルがさらって行ったわ。運が良ければ生きているんじゃないかしら。」

「何てことを……!」

 私の呻き声を、セーラは無視して、夢見る乙女のように恍惚とした笑みを浮かべ、妖精王の首に優しく抱きつき、囁きました。

「あの子のことは忘れましょう。どうだっていいでしょ? あんな役立たずのことなんて。それより、新しい子供を作りましょう。ね?」

 私は虫唾が走って、その部屋を後にしました。そして、数歩進んだところで、ふと、足を止めました。考えたのです。昨日のセーラの言動について。それから、十カ月前の出来事について。昨日のあれは、もしかすると、十カ月前のことと繋がっているのでは? だとすると、それは、つまり……? 私は身震いして、後ろを振り返りました。赤子が消えた部屋で妖精王を抱きしめ、背中を撫でながら、笑みの絶えた中で目だけが窓の外の何者かを追っている、そんなセーラの横顔を、私は茫然と眺めました。

 一年後、セーラは第二子を産み落としました。今度は妖精王に良く似た男の子でした。しかし、妖精王に適合しないことが分かり、セーラも妖精王も落胆しました。この子はどうなるのだろうと思っておりましたが、捨てられたり殺されたりということはありませんでした。何故なら、この子が生まれた頃には、妖精王は新しく子供を作ることができない体になってしまっており、従って、後継者として存在意義を認められたわけです。命拾いはしましたが、想像した通り、この子は両親から愛されることはありませんでした。セーラに至っては、適合しないと判明した時点で、興味を失うどころか、他のどんなことにも反応しなくなり、心を閉ざしてしまうようになってしまいました。少女の頃より精神状態が悪くなった感じです。そして、その状態で、死の恐怖に苛まれ、やはりこちらも精神的に病んできた妖精王を、悪魔の業で生き長らえようとし始めました。おぞましい業なのでございます。とても今、申し上げることはできません。妖精王は、時に暴走するセーラを牽制して、牢屋に閉じ込め、その業を施させる時だけ、呼びつけるようになりました。

 私はもう、何もかも嫌になってしまい、暇を申し出、逃げるように妖精界を後にしました。セーラを起こすには起こせたのですから、女王様もお許しくださるだろうと思いました。後は、約束の千年が来るのを見届けるばかりです。私は人間界で占い師として生計を立て、静かに時が満ちるのを待ちました。いよいよやって来るのです。来年の春、私は善につけ悪しにつけ、全てをこの目に焼き付けるのでございます。






「ねえ、思い出が欲しいって、どういうこと? 情けをかけるって?」

 茫然自失で老婆の話に耳を傾けていた三人の男女は、永遠の少女の質問で冷たい水を浴びせかけられたように飛び上がった。

「いや、それはつまり……」

「ええとですね……」

 アルディスとサラは、ちょっと目を合わせてから頬を赤く染め、もごもごと口ごもった。

「強烈に楽しいことをして、記憶に残しておきたいってこと。忘れないように。情けをかけるっていうのは、その手伝いをするってことだろ?」

 ケロッとして答えたのは、レオンハルトだった。

「へえ。じゃあ、二人は夜通し何かして遊んでいたのね?」

「そういうこと。」

 嘘ではないが、しかしニュアンスが違う気がすると、他の二人は思った。

「私の話をどのように受け取るかは、あなた様の自由です。この先、どのような選択をして、どのような結果が生まれようとも、私は目を逸らすことなく、この世の行く末を見守ってゆく所存でございます。」

 老婆の決意表明が、肩に重くのしかかる。レオンハルトは気を取り直して、老婆に尋ねた。

「ところで、オレたちは次、どこへ行ったらいいだろう? あと、残っているのは」

「水と光、だけでございますね。レオンハルト様、もうお分かりでいらっしゃいますでしょう。あなた様の頭の中の地図に、光の城は記されておりますまい? 即ち、水の城へ進まれるしかございません。」

 諦めなさい、と言われているような気がした。既に、自分の進む方向は決まってしまっているのだ。迷っているふりをしたって仕方がない。

「何か助言は?」

 試しに聞いてみる。老婆は千年分の謎をその笑みに含ませて答えた。

「私に見えるのは過去だけでございます。ですが、水の城について敢えて言わせていただけますならば、あなた様にとって最大の試練が待ち受けていることでしょう。それを乗り越えなければ、大切なものを失うことになります。ご自身に弱みを見せないこと。それが解決の鍵となりましょう。」

 皺だらけの薄い唇の中で、ごもごもと呪文を唱えるように付け加える。

「気を確かにお持ちなさいませ。私はここで、信じてお待ち申し上げております。」


 一行は老婆に別れを告げ、占いの館を後にした。

「水の城って、水の中にあるの?」

 馬車を牽くレオンハルトに、ミーナが後ろから声を掛ける。考え事をしていたので、反応が少し遅くなった。

「どうして、そう思う?」

 質問を、質問で返す。

「え? だって、土の城が土の中にあったから、今度もそうかなって……」

「そっか。水の中にあったら、息が続かなくて困るもんな。」

 適当な返答をすると、ミーナは身を乗り出して興奮気味に叫んだ。

「やっぱり、水の中なの? あたし、泳げないのよ。どうしよう……!」

 アルディスもサラも、他人事みたいに混乱しているミーナを見、次いで、混乱を招いた張本人を見た。レオンハルトは冷たい視線で目が覚めたのか、泡食って釈明する。

「いや、大丈夫。大丈夫だから。泳ぐ必要も、息を止める必要もないよ。ただ、水の城が海の中に建っているのは間違いないんだ。」

「海の中って……」

「水の城が建っている辺りは遠浅になっていて……浅瀬と言っても普段は二メートルくらい深さがあるんだけど、引き潮の時ならそれが二、三十センチに下がる。歩いて渡ることができるよ。」

 ミーナは椅子に深く腰掛け直して訴えた。

「なあんだ。それならそうと言ってよ!」

「ごめん、ごめん。」

 思索に耽る間もないな、とレオンハルトは思った。その方が気が楽ではある。

 海までは十日程かかる予定であった。レオンハルトは焦っていた。というのも、時期的に引潮の水深が二、三十センチで済まされるのは、あと十日くらいで、それからは潮が高くなって、とてもではないが歩いて渡れる状態ではなくなってしまうからである。余分な時間はない。馬と人を休ませる以外は、ずっと馬車を走らせ続けなければならなかった。彼を焦らせた原因はもう一つ、彼自身にあった。魔法の調子が全くもって良くなかった。魔力の高まりに対して、制御する能力がついてきておらず、あと十日でそれを克服するのは至難の業、というか、絶対に間に合わない、と思っていた。馬車を操作したり、乗ったりしながら訓練することもできず、僅かな休憩時間にやっても満足な結果が得られるはずもない。なるべく早く海に到着して、スランプから脱出するために魔法の特訓をしたかった。それで、夜中の休憩中、皆が眠っているのをいいことに、つい、無駄なことを竜のペンダントに向かって口走ってしまった。

「あのさ、空間転移、使っちゃダメかな?」

 一瞬の沈黙に、どれ程の軽蔑が込められていたことであろう。

「お前は、連中を置き去りにして、一人で赴こうというのか。それも、今のお前があの術を成功させられるという確証もない。無責任に軽口をほざくな。身の程知らずめ。」

 彼に罵倒されるのは慣れていたが、今宵ほど堪えたことはなかった。いっそ泣いてしまいたかった。

 海までの道のりで、途中何度か魔物に襲われ、応戦したが、やはり芳しくない。強力な魔法を使うと的が外れ、弱いと当たるが、効き目がない。その繰り返しだった。一度など、あわやアルディスを巻き込んでしまうところだった。敵ではなく、仲間の魔法で吹き飛ばされたアルディスは、魔法を放った本人に殺す気か!と詰め寄ろうとして、寸手でやめた。それを見たミーナが、代わりに抗議してやろうという素振りをしたので、アルディスは肩を掴んで止めた。

「よせ。」

「どうして? あんた、すごく危ない目にあったのよ。それを謝りもしないで……」

「十分苦しんでいる。辛すぎて、体裁を繕う余裕がないだけだ。見ろ。」

 アルディスが顎で指示したのは、レオンハルトの手だった。堅く握りしめるあまり、掌に爪が食い込み、血が滲んでいる。ミーナはぎょっとして一歩後ずさった。

「極限まで追い込まれている。自分で追い込んでいるのかもしれないが……とにかく、そういう人間を責めるな。崖っ淵で立っているのを突き落すようなものだ。」

 こういう調子で一行は海に辿り着いた。当初の計算通り、きっかり十日かかった。






     十月十二日


 美しい海だった。良く晴れた秋の海は穏やかで、遠浅は象牙色の砂の上に空の色を重ね、光で網目模様を形作って揺らいでいる。浅瀬の向こう側は深い紺色で、空との境目を隈どっているみたいだった。その隈取の少し手前に、水の城は建っていた。他の城同様、城に対するイメージとはかけ離れた形状をしていた。海から突き出した白く細長い円筒・・・城というより、塔と呼んだ方が相応しい気がした。

「あそこまで歩いて行くの?」

 ミーナが不安になるのも無理はなかった。水深がいかに二、三十センチで波が弱いとはいえ、一キロはありそうな距離を徒歩で行くのは難儀に違いない。水温だって随分低くなっている。

「馬車では行けないのですね?」

 砂に足を取られながら、サラが言う。

「行ってすぐに戻れるならいいけど……この状態、もって三時間てところだから。馬はともかく、馬車が浸水しちゃうよ。」

 レオンハルトの説明途中にミーナが乱入してくる。

「三時間以上かかったら、帰りはどうなるの?」

「その時は、次の日の引潮まで待つさ。試練さえ終われば、一泊くらいはできると思う。今までのパターンならね。食料を少し持って行くよ。」

 呑気そうに話すレオンハルトを見て、一行は百パーセントではないにしろ、少し安心して、浅瀬を渡り始めた。実際はそんなにうまくいかない。レオンハルトにだってわかっている。しかし、事態はやがて彼の想像をはるかに超えるものとなる。


 水の城は、直径十メートル、高さ二百メートルの円筒形で、白い石造り。シザウィーの建築物に似ているが、近づいてみると、粗削りで全体的にキラキラ光って見える。雲母の結晶が多く入り込んだ白い花崗岩で、宝石が鏤められたような美しさだった。現実のものとも思えず、一同しばし、ほう……と眺めてしまう。この高さにして、圧迫感がないのは、上の方がほんの少しすぼまった形状をしているためであろう。等間隔に開けられた窓は二メートル四方と大きく、そのどれもに奥行きの狭いバルコニーが備え付けられていた。窓の内側は暗く、良く見えない。四人は何となく不安を覚えながら、白塗りの鉄扉を開き、中へ入って行った。城の内部は正しく水を打った静けさ。思った程暗くはなく、思ったより寒い。肩を縮めて歩き出す。壁に沿ってやはり白塗りの鉄階段が上階へ伸びており、上に行くと反対側の壁にまた階段、とう具合に、階段が交互に付けられていた。一つの階に、一つの部屋。円い床が何層にも積み上げられている感じだ。皆、黙々と上っていく。鉄の踏板が、カン、カンと固く冷たい音を立てる以外、何も聞こえてこない。海のさざ波すら聞こえることはなかった。いちいち数えたりしなかったが、おそらく三、四十階はあるだろう高層建築。若く健康な彼らでも、休み休みでないととてもではないが上り切るなどできなかった。息遣いが次第と荒くなっていくが、文句も言わず着実に上り詰めていった。

「ねえ、見て!」

 中程の階層だったか、ミーナが窓を指さして突然大きな声を出した。他の三人は驚く様子もなく、窓に近づいて外を見た。見渡す限りの大海原、僅かに雲が浮かぶ青い空……こんな時に、「きれいでしょ?」とか賛同を求める程、ミーナは脳天気ではなかったし、表情も真剣そのものであった。

「下よ、下!」

 促され、下の方に視線を移す。

「……あ!」

 上から見ると、城の真ん中で浅瀬が切れ、沖側は深くえぐれているのが良く分かる。淡い空色が、突如、黒々とした濃紺に変わって、高波が白の壁面にぶち当たって砕け、渦を巻いている。表の穏やかさに比べ、裏側の何と激しいことか。

「この建物、倒れたりしないわよね?」

 足の力が抜けてしまう。

「……倒れる構造なら、千年前に倒れていると思うよ。」

「そう?」

 一行が会話らしい会話をしたのはこれきりだった。上るだけで疲れるし、先のために体力を温存させなければならないのだ。

 そして、息も絶え絶えに、一行は扉の前に辿り着いた。恐らく階段の終わり、つまり最上階だろうと思われた。全員の息が整い、目を合わせ、頷き、扉を開く。

 

 扉を開いた途端、湿っぽい空気が頬を撫で、塩素の匂いが鼻の奥深くを貫いてきて、一行は即座に顔の下半分を手で覆った。そこら中、魔物がうようよしている。青黒い鱗で全身覆われたぬめりのある肌。嘴から覗く赤く細い舌。黄色い目。節くれだった手足に鋭い鉤爪と水掻き……翼のない鳥に腕がついていて、それが全長二・五メートルある、と言うとしっくりくるのか。その、鳥と魚の合いの子みたいな魔物の向こうに、藤色のマントを纏った男が立っている。青味を帯びた少し癖のある銀髪に、刺すような眼光……ナルシェの村人が言っていた通りの姿形……。

「ジークフリート?」

 呟きは、相手にしっかり届いていた。唇の端を吊り上げ、鼻で笑う。

「自己紹介の必要はないようだな。お手並み拝見といこうか。」

 彼が命じるまでもなく、手下の魔物たちは行動に出た。一斉に飛びかかってくる。アルディスはいつも通り、片っ端から剣で確実に薙ぎ倒していく。ミーナは効いているんだが効いていないんだか良く分からない援護魔法を大真面目に唱えている。サラは魔物の心を読んで、必要な情報を皆に伝えている。レオンハルトは魔法を使おうと身構え、そして、止めてしまう。結局、手足でもって応戦し始めた。仲間たちは目を剥いた。

「お前、何やっているんだ!」

 アルディスの怒号が飛ぶ。しかし、彼は薄々勘付いていた。サラが与えてくれている情報の中に、魔物の弱点は高熱と凍結である、というのが混じっていて、それは今、まさにレオンハルトが使用を拒んでいる火と氷の魔法に他ならない……もとい、キースの死に直結する二つの力に対して、フラッシュバックを起こしてしまい、使えなくなってしまった。こちらの表現が正しいのかもしれない。

 いかにレオンハルトが武術に長けていても、人の力で太刀打ちできるほど相手は弱くなかった。

「うわっ……!」

 防御もへったくれもなく、レオンハルトはぶん殴られ、吹っ飛ばされた。懐にしまっていたペンダントのチェーンが千切れて、床に転げ落ちる。開け放たれていた窓を通過し、浅いバルコニーなどあっという間に超えて、重力に従い落下して行く……目を瞑って衝撃に備えようという時、ふいに、自分の体に何かが巻き付いて落下が止まったのを感じ、目を開ける。ロープだ。腰に巻き付いたロープが上に伸びている。遥か上に、赤毛の男が顔を覗かせていた。アルディスだ。どこにでもロープを持ち合わせている。用意の良い男だった。だが、用意が良いだけでは駄目なこともある。

「ぐっ……!」

 アルディスは背後から攻撃を受けていた。彼は人並み外れて腕力のある方だが、さすがにロープ一本でぶら下がっている人間を片手で易々と保持できないし、もう一方で剣を振るえるはずもない。彼は仲間を落とさないよう、両手でロープを握りしめ、引き上げるべく全身全霊を注いでいたのである。レオンハルトは、自分の下、青黒い海をちらっと見てから、アルディスに向かって声を張り上げた。

「アルディス、手を離せ! オレなら大丈夫だから。この位の高さなら死なないから……!」

 「この位の高さ」は二百メートル近くある。落ちて無事に済むわけがない。陳腐な嘘が通じる相手でもなかった。仕方ない、とレオンハルトはロープを切るため、ポケットを探り、ナイフを取り出そうとした。かまいたちの魔法を使えばいいものを、緊急時に咄嗟で魔法を発動できるほど、彼は魔法に慣れ親しんではいなかった。と、自分の頭や肩に何かが落ちてきて、手を止める。頬を伝うそれを、拭って見る。赤い、ぬるぬるした、鉄臭い液体・・・。自分の掌に付着した、その液体が何なのか、すぐには理解できず、レオンハルトは頭上を仰ぎ見た。依然、ぼたぼたと降ってくる、それ……。雨水が岩に染み込むように、砂時計の砂が下へ移動するように、悪夢に思考を侵され、目を見開く。彼は友の血の雨を浴びていた。髪や服が血を吸って、肌に張り付いてくる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、口の中に入ってしまったから味覚まで、全ての感覚が頭の中に訴えかけ、記憶の蓋を暴力的に引き剥がしにかかっていた。その苦痛にあって、彼は見た。アルディス・フロントではなく、アーサー・フロントが、魔物に寄ってたかって切り刻まれる様を。あの時同様、喉が張り裂ける程に、叫ぶ。

「やーめーろー!」

 叫びに連動して、海面がせり上がり、渦を巻きながら数本の水柱が現れる。最上階に達すると唸りをあげてバルコニー目がけて突進する。竜がやって来たのかと、誰もが思った。実際、水柱は竜のごとく魔物を飲み込み、消化するように捻り潰し、その身に青黒い染みを作った。弱点も理屈も関係なく、圧倒的な力でもってねじ伏せ、抹殺したのだ。水柱はフロア内をのたうち回り、魔物を巻き込みながら、海へと帰って行った。生き延びた魔物は戦意を消失し、壁際に突っ立っている。自分の血に濡れたアルディスは、跪き、バルコニーの下を見たかと思うと、意識を失い倒れてしまった。

「アルディス!」

「アルディスさん!」

 女性二人が慌てて駆け寄る。ひとしきり、彼の状態を確認してから、バルコニーの下を見てみる。ロープの先は、水柱に引きちぎられ、風に靡いていた。海に人影らしきものは見当たらない。

「ラエル……」

 茫然と見下ろすミーナに、サラが声を掛ける。

「ミーナさん、あれは……?」

 アルディスの足下に黒いものが転がっている。ミーナがそっと拾い上げ、両手で大事そうに持ち直す。チェーンが切れた、竜のペンダント。ミーナはそれが誰のものか知っていたし、サラは話に聞いていた。

「感傷に浸っている場合か?」

 ジークフリートが、魔物を顎で指示する。魔物は自分たちの残虐さを思い出したように、一斉に襲いかかる。ミーナとサラは、アルディスの上に屈み込んで庇いながら、目をぎゅっと瞑った。その刹那、どこからともなく突風が巻き起こり、近づいてきた魔物は悉く弾け飛び、床に転がった。死を覚悟していた二人の娘は目を見合わせ、不思議そうにその光景を眺めた。再び怯んだ魔物たちに変わって、本星、ジークフリートがつかつか近づいてくる。あと二メートル、というところで立ち止まり、手をそっと前に翳した。バチバチ、と鳥の羽音に似た音が聞こえ、小さな紫色の光が弾ける。さらに近づけると、光はスパークして、ジークフリートの手を勢いよく払い除けた。彼はもう一方の手を痛めた手に添え、ミーナをふん、と見た。

「それのせいか。奴の置き土産だな?」

 言われてミーナは手にしているペンダントを見た。紫色に控えめな光を湛えている……。娘二人はまた目を見合わせた。そして、周りをよくよく見てみると、自分たちの半径二メートル程に薄い紫の膜がかかっていることに気付いた。

「もしかして、バリア……?」

 そんな仕掛けが(もちろん、仕掛けなどではないのだが)あるとは思いもよらないミーナとサラは、ジークフリート以上に驚愕の眼差しをペンダントに注ぐのであった。






     十月十三日


 海は限りなく凪で、空には長閑な白い雲が所々浮かんでいた。風が殆どなく、進行が遅くなっているのには少々やきもきするが、好天に恵まれていることは嬉しい限りであった。

 しかし、この船旅に浮かれ騒ぎ、へらへら笑っている者は一人としていない。皆、神妙な面持ちでそれぞれの持ち場について、海のかなたにあるものと、陸に残して来たものに対し、思いを馳せている。マストに登って双眼鏡を覗いている男が、海上に何かを発見して、仲間に大声で報告した。

「おおい! 一時の方角に岩礁が見えるぞ。進路に注意しろ。」

 聞いた仲間が次々と中継し、船長に情報を伝え、取り舵一杯とか面舵一杯とかの命令が出て、船首が左右に振れる。岩礁の周りに隠れている暗礁に乗り上げないよう、船は大きく迂回する。岩礁を右手に躱している時、甲板にいた乗組員の一人が叫んだ。

「あれは何だ? 何か岩に引っかかっているぞ!」

 彼らは自分たちが帯びている使命と、この海一帯に起きている異変のため、少々ナーバスになっているところがあった。敵がそこかしこに潜んでいると思い、いつでも警戒の目を光らせているのだ。岩に引っかかっている白っぽいものに、甲板の者たちは釘付けとなった。プラチナゴールドが波に洗われ、白い布地が揺れている。

「人だ! あれは人じゃないか。」

「まさか、こんなところに……?」

「敵の罠かもしれない。」

 いろいろ話し合い、船長に判断を仰いだ結果、まずはなるべく長い棒でつついてみて様子を見ようということになった。手頃な棒はなく、魚を獲るのに使う柄の長い網と、銛を持った船員の一人が、近くの岩にそっと降り立ち、人らしきものを柄の先でつついた。動きがない。

「よし。ひっくり返してみるんだ。気をつけてな。」

 船長の指示に従って、船員は身長に柄の先を下に差し込み、ひっくり返した。それは、紛れもない人だった。というか、天使とか、女神とか、そういう存在に見えて、船員は恐れ多いとばかりに後退ってしまった。船上の者がぽかんと見守る中、船長は言った。

「生きているか?」

 我に返った船員は、網も銛も放り投げ、女神みたいな人間の鼻に耳を近づけ、脈を取った。

「生きています!」

 船長は少し考えてから、命令した。

「よし。もう一人降りて、船に運ぶんだ。何者か分からないから、油断はするんじゃないぞ!」


 潮の匂いと、血腥い臭いが漂っている。そこは血の海で、赤いカーテンが幾重にも垂れ下がって揺れ、自分を取り巻いて絡みついていた。それから逃れようと、もがくように泳ぎ回る。息苦しさはない。しかし、口からは大量の空気が零れ続けていた。赤いカーテンと泡の間に、何かが見える。アルディスだ。アルディスは瞼を閉じて力なく、下へ下へと沈んでいくところだった。体のあちこちから血を噴き出している。必死で手足を漕いで、アルディスの両腕を掴み、起こそうと、揺らす。名を呼びたいが、水中では声にならず、空気が煩いくらい口から吐き出されるだけ。その空気が途切れた時、何かが違うことに気付く。アルディスだと信じていたその人。俯く顔をよく見る。アーサー・フロントだ。あっ、と手を離した途端、ブロック状に細切れとなって……


 急に、朱の世界が白へ変わる。喉の奥が痛い。子供の頃、泣き叫んだ以来の感覚。耳鳴りに混じって、荒い息遣いが聞こえてくる。涙か汗か知らないが、全身ぐっしょり濡れている。目に入って染みるから、手の甲で拭う。拭いながら、反射的に、横を勢いよく振り向く。自分の傍らに、知らない娘が困惑の表情で立ちすくんでいた。睨むようにして見つめられた娘は、やがて頬を桜色に染めた。誰だ、と質問するより早く、彼女は部屋を飛び出して行ってしまった。

「兄さーん! 起きたわ、あの人起きたわよ」

娘の言葉を頭にこだまさせて、レオンハルトは辺りを見廻した。ここは、明らかに、水の城ではなかった。年季の入った木造の、少し揺れている感じから船の中、それも海上を航行中なのではないかと思った。ギイギイと、オールの軋む音が波間に聞こえもした。自分はベッドの上にいて、知らない誰かの服を着せられていた。程なくして、さっきの娘と、男が数人、部屋に入ってきた。

「よう、起きたか。具合はどうだ?」

 日焼けした健康な若い男が、話しかける。レオンハルトはうまく答えられず、黙っていた。男は優しく、頼もしい笑顔を絶やさない。

「あんたを見つけた時は、びっくりしたぜ。あんなところに人がいるのもびっくりだが、生きていたのにもびっくりだ。船が難破したんだか、置き去りにされたんだか知らないが……」

「ここはどこだ?」

 男の言葉を遮る。

「はあ?」

「ここはどこで、今はいつなんだ?」

 男は胸ぐらを掴まれ、睨み上げられているような気持ちになりつつ、答えた。

「ここは海の上で、今は三時くらい……」

 自分を睨む目が、更に鬼気迫るのを感じ、男は首をぶんぶん振った。

「いや、ここはグレート・サウス・オーシャンのど真ん中だ。カッパーランドから北へ一週間航行しているところだ。そして今日は十月十五日」

「十月十五?」

 レオンハルトは前を向いて、自分が置いてきてしまった者たちと、その状況について顧みた。カッパーランドは海を挟んでサルナバの対岸にある港町だった。彼は潮に流されてはるか南へ来てしまったのだ。

「三日も……」

 男はこの、なかなか失礼な若者に気を害することもなく、返って慰めるように言った。

「あんたがここに担ぎ込まれたのは昨日のことだ。丸一日熱に魘されていたのさ。この船が通りかかっていなかったら、死んでいたかもしれない。生きているだけ儲けもんだぜ。」

 レオンハルトはまた、男の方を向いた。今度は哀願するような眼差しだった。

「向こう岸へ……サルナバへ行くのか?」

「え? いや……」

「行ってくれ! 今すぐ行ってくれ! 仲間がいるんだ。傷ついて、殺されそうなんだ!」

 今度こそ本当に男の胸ぐらに掴みかかる。周りが止めに入ろうとするが、男は動じず、レオンハルトの腕を取って言った。

「悪いが、それはできない。どんな事情があるのか知らないが、あんたが仲間を思う気持ちはよく分かる。力になってやりたい。だが、今は無理だ。」

「どうして……!」

 男は悲しそうに答える。

「オレたちには行かなければならん場所がある。そこでやることがあるんだ。やらないと、オレたちの街は全滅してしまう。三日しか猶予がない。何としてでも三日で辿り着くんだ。辿り着いたところで、食料も水も尽きる。つまり、後戻りもできない。結局、あんたまで巻き込んだことになるわけだが……」

 レオンハルトの手の力が抜けたので、男も手を離した。すると、レオンハルトは突如、ベッドを飛び下り、船員たちを押しのけ、部屋の外へ出て行ってしまった。一瞬の間を置いて、全員、後を追いかけた。甲板に出ると、船尾から身を乗り出すレオンハルトが見えて、男たちは慌てて彼の背後に飛びかかって、床に引き摺り下ろした。

「馬鹿なことはよせ!」

「放せ! 行かせてくれ」

 レオンハルトの訴えは却下される。

「泳いでいけるわけないだろう?」

「せっかく助けた命だ。みすみす死なせられるか!」

 散々もみ合った挙句、レオンハルトは混乱とショックのあまり、気絶してしまった。ベッドにまた寝かせられる。男は妹に監視を言いつけ、部屋はレオンハルトと彼女の二人きりになった。

 レオンハルトは程なく目を覚ました。娘は、ふう、とため息を吐いた。

「命を無駄にしないで。もう、人が死ぬところなんて見たくないわ。」

 泣きそうなのを堪えて、無理矢理笑って言う。レオンハルトは死んだ目で天井を見つめた。

「ねえ。あなたを初めて見た時、神様か何かが現れたのかと思ったの。兄さんも皆も言っていたわ。怪我もないし、いつから海水に浸かっていたのか知らないけど、皮膚がちっともふやけていないし、きっと特別な人を私たちは見つけたんだ、これは幸先がいいぞって思ったものよ。」

 レオンハルトは小さく嘲笑った。

「神様なものか。大切な人は誰一人として救えない。こんな無能な奴のどこが……」

 手の甲を瞼に当てる。記憶の全てを、彼は取り戻していた。過去にあった全て。記憶をなくしていた時に自分が辿ってきた軌跡。よていではもっと早く記憶が戻っていて、魔法もマスターしている筈だった。自分の不甲斐なさに腹が立つ。それに、仲間を引き連れているなんて考えもしていなかった。よりにもよって、アーサー・フロントの息子、ドッペルン医師の娘、おまけにディーン・カウラの妹だ。アーサーの息子に至っては、自分のために親子共々酷い目に遭わせてしまった。もう死んでしまっているのでは……?そんなことを堂々巡りさせている時、ふと、胸元にあるべき感触が足りないことに気付く。この十七年、肌身はんさず首からぶら下げていた、あのペンダント……。

「なあ、オレのペンダント知らないか? 黒くて、竜の形をしているんだけど」

 娘は、知らない、と答えた。彼女の答えは少しだけ彼を喜ばせた。もしかしたら、水の城で落として、仲間たちの側にあるのかもしれない。アルフリートがどう出るか分からないが、悪いようにはしないだろう。希望が見えた気がした。しかし、まあ、あの彼まで自分の旅の手助けをするはめになっていたとは……ラエルはやはり凄い人だ……ああ、人ではなかったか。少し心に元気が出てきたレオンハルトは、身を起こした。

「あっ、病み上がりなんだから、大人しく寝ててよ。また海に飛び込む気?」

 娘の心配には及ばなかった。

「いや。もう馬鹿な真似はしない。皆に謝りたいんだ。お礼も言ってなかったし。」

 かくして、レオンハルトは娘の案内で彼女の兄に会いに行った。兄は逞しい笑顔で歓迎してくれた。

「いいんだ、いいんだ。礼なんて。助けにもなってないしな。限定三日間の船旅だがよろしくな。おれはこの船、サンテ・プリュイ号の船長、ダンテ・ダレイオス。ダダって呼んでくれ。こっちは妹のスザンナだ。」

 差し出された手を、しっかり握る。

「よろしく、ダダ、スザンナ。オレは・・・レオン。シザウィー出身なんだ。」

 ラエルと名乗るのもおかしな話だし、本名も名乗れるわけがなかった。

「シザウィー? そいつは随分遠くから……」

「へえ! じゃあ、私たちの親戚みたいなものね。」

 親戚? 不思議がるレオンハルトだったが、理由はすぐ分かることになる。

 翌日の早朝、外の空気を吸いに甲板へ出ると、ダダや船員たちが何かを手に構え、的に向かって派手な音と火花を放っているのが見えた。それが何なのか、レオンハルトは知っていた。拳銃と呼ばれる武器だ。硫黄の臭いが鼻を突く。

「よお、起こしちまったかな? どうだい、眠気覚ましに一発。」

 レオンハルトはダダから銃を受け取った。

「いいかい? 銃の先っぽにでっぱりがあるだろう? それが照準だ。照準を的に合わせて……」

 言い終わる前に、銃が発砲され、ダダは飛び上がった。的の中心に穴が開いている。そこにいた者全員が釘付けとなる。レオンハルトは撃鉄を倒しては引き金を引き、次々と的に命中させていく。最初の穴を中心に、五つの穴が行儀よく等間隔に開けられ、皆、呆然とレオンハルトを見た。

「あ、あんた、銃を使ったことあったのか?」

「いや……でも、知ってはいたから。」

「知ってたって……だけど、初めてなんだろう?」

「すっげぇー!」

 賞賛の言葉は彼に届かない。こういうのは絶対にはずさないだけどな、魔法になるとどうして……そんなことばかり考えてしまう。気を取り直して、ダダに銃を返し際、聞いてみる。

「銃が実用化されていたとはね。カッパーランドが工業都市なのは有名だけど、銃の開発までしてたなんて」

 ダダは首を振った。

「銃の開発は、まあ、お遊び程度のものよ。本腰は入れてなかったのさ。だが、本腰を入れる理由が出来ちまった。」

 彼の話は、こうだ。


 カッパーランドは人口における魔法使いの割合がもともと少なかった。魔法を使えない体質の者同士がいつの間にか寄り集まってできた街なのだとか、先人たちが魔法を使いすぎて、資源が枯渇するみたいに魔力を失ってしまったのだとか、諸説はあるが、とにかくカッパーランドは街を発展させる段階において、魔法を頼りにすることはできなかった。そこで、偶然にも人口における割合の高かった職工だちが街のために一肌も二肌も脱いでカッパーランドを誰もが認める工業都市へと成長させたのだった。

 この町は他国のように魔法アレルギーだ、内乱だ、戦争だ、といった困難に直面することなく淡々と暦を捲ってきた。国民性もあるが、街の立地も大いに関係していた。北側は海に面しており、南から東西に至ってはぐるりと険しい山々に囲まれている。天然の砦のお蔭で少なくとも山側から攻め込まれることはないし、海から来たところで、自慢の大砲で追い払える。カッパーランド製の大砲の威力は他所のものとは比較にならないともっぱらの噂で、敢えて眠れる獅子に刺激を与えるなど、余程の馬鹿でなければ考えないものである。

 さて、この平和に満ちた街に難儀が降りかかったのは一年前の春のことだった。文字通り降りかかってきたのである。最初は原因が分からず、何かの呪いではないのかと非科学的、根拠なき流言が蔓延していた。気温も天候も例年通りなのに、作物が実るどころか芽吹きもせず、草木は夏を過ぎても冬のように立ち枯れたまま。身体の弱い年寄りや抵抗力のない子どもたち、そして病人は一層、体調を崩していく。食料は一年分くらいなら蓄えがあったが、先行き不透明なため、他国から仕入れておこうと船を出した。それでも街の胃袋を満たす量を確保するのは容易ではなかった。得体の知れない奇病に侵された街云々と風評被害も手伝って、金を出しても売ってくれない国まで出始めた。どうしたものかと考えあぐねて一年経った頃、意外なところで原因が見つかった。

 カッパーランドの北千キロメートル沖に白い塔が立っていて、それは漁師や航海士の間で有名な建造物なのだが、実際に見た者は少なく、食料確保に失敗した船が、帰りの航海中に偶然発見して、手ぶらも何だからと話のネタに、塔の中へと足を踏み入れたのである。それは食料を確保できなかった以上の失敗であり、しかしながら成果でもあった。塔の最上階まで何事もなく辿り着いた船員たち。部屋の中央にガラスの柱が立っていた。柱の中は空洞で、天井を突き抜け、中には直径三十センチくらいの球体が一つ浮かんでいる。黒っぽい何かの生き物の内臓みたいな質感で、血管まで走って、鼓動しているのか、びくびく蠢いている。さらにその中に怪しく光る小さな球体があった。船員たちは見てはいけないものを見た気がして、誰からともなくその場を立ち去ろうとした。すると、球体から突如、黒い煙のようなものが立ち昇り、天井を抜けて、空に広がっていくのが窓から見える。煙は潮風に乗って南へ流れて行き、雲に吸収されてしまう。船員たちは言い知れぬ恐怖に見舞われ、出口へ仇れ込んだ。ところが、来る時はいなかった魔物が、階下でうようよと待ち受けていた。船員たちは護身用の小さなナイフくらいしか持ち合わせていない。平和な街の住人だから、大した訓練も受けていない。そして、魔法なんか使えないのである。退路を阻まれた船員たちは、次々と魔物の餌食になってしまった。その中で、たった一人だけ、修羅場をかいくぐり、生き延びた者がいた。船に辿り着いた時には、魔物に身体中切り裂かれ、瀕死の重症だったが、船に残っていた仲間に危険を知らせ、魔物が乗って来る寸前で船を出すことができた。船で手当てを受けながら、彼は塔で見たことを仲間に語って聞かせ、街に着く前に息絶えてしまった。船が港に入る頃、街では雨が降っていた。船員たちは、街の識者に事情を説明し、急いで雨水を調べるよう訴えた。そして、雨水の中に、枯葉剤とよく似た成分が検出された。土や人体に吸収されると別の組成に変わる、厄介な代物で、今までいくら調べても分からなかったのはそのためであった。魔物の狙いが何で、あの物体が何なのかは知らないが、とにかく、あれを破壊しなければ街は死んでしまう。夏に一度、有志を募って塔へ戦いを挑みに行ったが、敢え無く返り討ちに遭って終わった。しかし無駄足ではなかった。あの、生きた球体を守っているガラスの柱。ハンマーで殴ってもつるはしを振り下ろしてもびくともしなのだが、カッパーランドでは貴重な魔法使いが放った火の魔法では、表面が少し溶けるのだ。魔物も火に弱かった。残念なことにこの魔法使いは高齢で体力がなく、魔力も最上階に至るまでほとんど使い果たしてしまっていた。そこて仕方なく逃げ帰って来たのだった。

 生き延びた融資と識者たちで再び話し合いが行われた。カッパーランドにも魔法使いは数人いるが、皆、子供だましの術しか唱えることはできない。とても柱を溶かせるような魔法を捻りだせるとは思えなかった。他国に応援を要請するも、拒否され、自分たちで片を付けなくてはならないのに、さて、どうしたものかと頭を抱える。有志の一人だったダダは、元々科学者で、主に火薬の研究でもって街の工業に貢献していた。オレの出番だ、と彼は思った。平和なカッパーランドでは必要のなかった武器。趣味で開発していた銃を実用化させる時が来たのだ。試作に試作を重ね、完成品が出来たのは秋口のことだった。街の食料は尽きかけている。ラストチャンスだった。兄想いの妹が船に忍び込んでいたのは大きな誤算であったが、もはや引き返すことはできなかった。次の雨が降る前に事を終わらせる。自分たちが最後の犠牲者となるように……。


 レオンハルトは、ダダの話が終わるまで口を挟まず黙って聞いていた。

「その、白い塔っていうのは……」

 思い切って聞いてみる。

「白い塔? ああ、水の塔っていうんだ。正式な名称は知らん。水の部族が建てたって話だが、千年も前のことだし、詳しいことは今では誰も知らないんじゃないかな。」

 レオンハルトは仲間たちがいるもう一つの白い塔のことを思い浮かべた。どういうことだろう? どっちが本物なのか? 蠢く球体の中身は何だ? まさか・・・

「大丈夫か? 顔色が悪いぜ?」

 ダダの心配に首を振って見せる。

「いや、大丈夫だ。なあ、ところで、この銃だとガラスの柱は壊れないんじゃないかと思うけど。何か秘策があるのか?」

 ダダはにやりと笑った。

「あたぼうよ! 本番用をこんな練習で使うわけないだろ? ちゃんと特別な弾があるんだよ。本当は大砲で塔ごとぶっ壊してやりたいんだが、前回効果ゼロだったからな。正攻法で来いってことだ。」

「大砲が効かない?」

 ダダは手を挙げる。

「バリアだな。たぶん。跳ね返って来るんだぜ、大砲が。船に当たってたら全滅するところだ。いけ好かねえ塔だ、あいつは。」

 レオンハルトは少し笑った。ダダがそれを見て眉を顰める。笑い事じゃない、と言おうとして、船員の声に遮られた。

「なあ、船長! この人にも戦いに参加してもらったらどうかな?」

「何? 馬鹿言ってじゃねえよ! 病み上がりだし、客人に危ない橋を渡らせられるか!」

 ダダの怒声に船員たちは怯まない。

「だけど、見ただろ? 船長はともかく、オレたちの中であんな命中率叩き出した奴、いないぜ?」

「そうだ、そうだ。やっぱりこの人は神様が送り込んでくれた救世主なんだ。」

 ダダがまた怒鳴りつけようと口を開けるが、今度はレオンハルトが邪魔をする。

「神様も救世主も知らないけど、戦いには参加させてもらうよ。」

「何だって?」

 喜ぶ仲間たちに反比例して、ダダは穏やかになれない。レオンハルトは明るく言い放つ。

「海を漂流してこの船に拾われたのも何かの縁だろ? 乗りかかった船どころか、もう乗っかってるし、飛び降りようとしたら止められるし。それとも、ここで海に放り投げるか?」

「そんな、しかし……」

 真剣な顔つきになって、ダダに言う。

「人が危ない目に遭っているのを、黙って見ていられる程、冷血漢じゃないんだ。手伝わせてくれよ。……銃は、まだ実践レベルじゃないけど、他の武器なら自信がある。あったら、貸してくれ。」

 ダダは考え込んだ。確かに、妹と二人、船に残れと言ったところで聞きそうもない。船員に命令する。

「おい、誰か。オレの部屋からアレを持ってきな。」

 息を詰めて聞いていた船員たちが、わっと湧く。

「よっしゃ、そうこなくっちゃ!」

「客人、あんたになら、オレの銃、いつでも貸すから言ってくんな!」






     十月十八日


 かくして、白い塔に到着。早速中へ侵入する。船員たちはややぎこちなく銃を打ち放ち、魔物たちを何とかやり過ごしていた。レオンハルトは、それを見て、思う。やれやれ、流れ弾を避けるのもゆるくないぜ、アルディスも自分の魔法で同じ目に遭っていたんだろうな、と。近くの船員が背後から魔物に狙われている。振り向くが間に合いそうにもない。

「うわっ!」

 しかし、魔物の手は船員に届くことなく、頭の先から胴体を縦に真っ二つにされて左右に倒れた。

「あ、ありがとうよ。」

「どういたしまして。」

 レオンハルトはにこりともせず答え、手にしている武器を習慣で素振りする。魔物の体液が白い壁に飛び散った。久々の感触だったが、思った通り、嫌というくらい手に馴染んだ。

 どうして科学者のダダが長剣など持っていたのか、また、どうしてこの度に持ってきたのかは謎であるが、もしかしたら、彼も自分が来ることを虫の知らせで潜在的に予期していたのかもしれない。剣が、生き物の血を吸って喜んでいるのが分かる。手から伝わってくるのだ。それとも、喜んでいるのは、オレ自身か? 正気を保とうと、頭を振る。やはり、剣はキライだ。銃声と、剣が肉を裂く音、魔物の叫びが塔の中に地獄の響きとなって飛び交っていた。

 魔物は、もう一つの白い塔で遭遇したのと同じ奴だった。訳が分からない。オレは何をしているんだろう、魔法じゃなくて、剣で倒している。自分で自分が嫌になる。素手でやった方がマシだ、憂さ晴らしのつもりか。自責の念に駆られながら、最上階に到達する。ダダの話通り、ガラスの柱が中央に立ち、中に黒っぽい球が浮いている。

「あいつが、そうか……」

 かかってくる魔物を剣で薙ぎ払いつつ、呟く。と、柱の側に倒れている人影が見えて、急いで駆け寄った。

「ダダ!」

 ダダは、腹部から血を流していた。レオンハルトに抱きかかえられ、薄目を開ける。

「ヘマしちまった。柱を狙っている隙を突かれて……ぐっ!」

「話さなくていい! 銃は?」

 ダダは自分の下敷きになっている銃を抜いて、レオンハルトに手渡す。

「オレの代わりに、やってくれるか?」

「ああ、やってみるよ。」

 レオンハルトはリボルバーを開いてみた。弾は一つしか入っていない。

「これが、特別仕様の弾か?」

「ああ。」

「残りも出してくれよ。」

「・・・ない。」

「は?」

 一瞬の間があって、レオンハルトは怪我人を冗談のように見つめた。

「ないって? 使ってしまったのか?」

「違う。初めから、一発しか持って来てないんだ。」

 呆れて、うまく言葉が出ない。

「何言って……こんな大事な時に、どうして? 最後のチャンスなんだろ?」

 ダダは痛みを堪えながら言う。

「だからだ。何発もあると思ったら、当たるものも当らねえ。何発も用意するってことは、初めから当たらねえと思ってんのと一緒だ。当たると思って打てば、当たる。絶対に、当てるんだ。」

 レオンハルトの中で、何かが音を立てて崩れ落ちたみたいだった。ダダをそっと床に寝かせ、ゆっくり立ち上がる。当たると思えば、当たる……

 ダダの言葉を反芻する。

「何だ。それだけのことだったのか」

 レオンハルトはリボルバーから黄金色の弾を外し、自分の掌に乗せた。銃はごとん、と床に落ちた。

「?」

 ダダは呆気にとられて、彼の行為を見守った。瞑想するように、目を閉じ、じっとしている、レオンハルト……

 魔物が迫ってくる、その刹那、周囲に光を孕んだ旋風が巻き起こり、プラチナブロンドを弄んだ。掌の弾が宙に浮き、一直線、眩い光と共に柱へ向かって飛んでいく。弾は柱をみるみる溶かしながら貫通、黒い物体をも貫いて、大砲も歯が立たなかった壁を吹っ飛ばした。あまりの衝撃に、人も魔物も声を失い、床に転がった。爆風も壁の崩れも収まり、床に伏せていた船員が、恐る恐る起き上がろうとすると、ふいに、冷たいものに触れて驚き、再び床を転がった。それは魔物だった。魔物がカチンコチンに凍り付いている。他の魔物も歪な格好で凍ったまま、動けなくなっていた。

「?」

「何だ、これ?」

「どうなってんだ?」

 船員たちは全員無事で、倒れているダダを見つけて走り寄った。

「ダダ、大丈夫か?」

「ああ、何とかな。」

「な、これ、ダダの作った弾の威力か?」

「スゲェなあ。」

 ダダは呆れたように船員たちの呑気な笑顔を見回した。

「んなわけねぇだろ? せいぜい爆発するくらいなもんだ。こんなオプションはついてねぇよ。」

 そう言って、風穴の空いた壁の向こう、遥か水平線を眺める男に目をやった。その男、レオンハルトは俄かにダダを振り返り、微笑んだ。

「終わったな。」

 差し出された手を、強く握りしめる。

「ああ。」

ダダを痛みを感じながらも、嬉しくて勢いよく立ち上がった。その拍子に、懐から何やらぱらぱらと床に散らばり落ちた。弾だ。少なくとも数十個はある。レオンハルトは無言で、その一つを拾い上げ、しげしげと見つめた。

「一つしか、持って来なかったんじゃなかったっけ?」

 ダンはにやりと笑った。

「こんな大事な時に、一発しか用意しない馬鹿がいるかよ。だが……」

 緑色の瞳をしっかり見る。

「参考にはなっただろう?」

 レオンハルトは晴れ晴れとした笑顔で頷いた。

「うん。物凄くね。」

 船員たちは、何が何だかよく分からないが、万歳して駆け回り、喜びをフルに表現した。塔の下まで降りると、船で待っていたスザンナが出迎えてくれ、事の次第を聞いて喜んだり、兄の傷を心配したりした。

「最後にけりをつけてくれたのはあなただったのね。ありがとう。やっぱり神様、救世主様だわ!」

 レオンハルトの笑顔が引きつる。

「だから、神様じゃないって。」

 言いながら、ズボンのポケットを探り、四つに折りたたんだ紙を取り出す。

「この件が片付いたら渡そうと思っていたんだ。」

 ダダが受け取り、開いて読み始める。

「オレの国じゃ遠すぎて無理だけど、そこならまあまあ近いし、助けてくれると思う。手紙を渡せば速攻で取り掛かってくれるよ。あんまり借りは作りたくないんだけど、仕方ないよな。ま、銃の一つも献上するといいさ。新しいものが大好きだから、あの人は」

 読み終えたダダは、真剣な眼差しでレオンハルトを見た。

「何て言えばいいのか……ありがとうよ。」

「こちらこそ。」

 握手を交わしながら、ふと、ダダが思い出して言う。

「しかし、これからどうする? 恩人のあんたをサルナバへ送るどころか、自分たちの港まで辿り着けるかどうかも怪しい。食料も底をついちまったしなあ。」

 船員たちががっくり肩を落とす。レオンハルトはそよ風みたいに微笑む。

「ああ。そのことなら心配いらないよ。さ、皆、船に乗って。早く、早く。」

 レオンハルトに急かされ、皆、何が何だか分からないまま、船に乗り込む。

「レオン、あんたは乗らないのか?」

 船の下から一人見上げているレオンハルトに船員たちがざわめく。

「あんたも乗れよ。」

「まさか、泳いで行く気なのか?」

「馬鹿はよせ!」

 レオンハルトは相変わらず爽やかに笑っている。

「泳いでなんか行かないよ。そんな必要はない。……大丈夫。」

 目を閉じ、船の横っ腹に手を当てる。と、一瞬、顔を上に向け、言った。

「ちょっと揺れるかもしれないから、何かに掴まっておいた方がいいよ。」

 そこまで言うと、再び目を閉じ、意識を集中させた。船員たちが彼の言うことを飲み込んで身構える間はなかった。突然、周りが真っ暗になったような気がして、驚きの声を上げようとするが、激しい揺れに襲われ、阻まれる。何人かはうまいこと手近なものに掴まれたが、大抵はこけつまろびつ。やがて揺れが収まって、何が起こったものかと船の外を確かめた。

「お、おい! 皆見ろ!」

 夢じゃないかと目を擦る船員たち。彼らの目の前には、故郷の港が間近に迫っていたのだ。

「嘘だろ、いつの間に……」

 しばらく、呆然と突っ立っていたが、俄かに歓声が沸き起こった。

「やったー! やったぞー!」

「助かったんだ、オレたち」

「奇跡が起こった」

 この騒ぎにあって、一人だけ静かに海の彼方へ目を向けている男がいた。ダダだ。妹のスザンヌが気付いて、兄の肩に手を置いた。

「ね、兄さん。あの人、何者だったのかしら。やっぱり神様?」

 兄は、ふっと小さく笑った。

「本人が違うって言うんだから、違うんだろうよ。それに、神様はこんなに気前よくポンポン軌跡を起こさないさ。」

 彼は、薄々気付いてはいたのだ。シザウィー出身で「レオン」と名乗り、プラチナブロンドにエメラルドグリーンの瞳を持つ、女性と見紛う容姿の男なんて、そうそういるはずがない。だけど、登場の仕方が尋常ではなかったし、水の塔で自分が目にしてしまったことといい、妹や仲間においそれと彼の正体なんて口にできなかった。

「さっきの手紙、何て書いてあるの? 見せて。」

 手紙には彼のフルネームと、彼の高貴な友人のフルネームが書かれていた。ダダは今更胸がどきどきして苦しくなるのを感じた。自分の街だけじゃない、世界で何か、大変なことが起こっているんじゃないだろうか。






十月十三日


 レオンハルトが海に姿を消してしまった後、取り残された仲間三人は、身動きが取れず、バルコニーの側で肩を寄せ合って蹲っていた。竜のペンダントが放っている紫色のバリアのお蔭で、魔物やジークフリートが襲いかかって来ることはないが、このバリアがどういう条件で張られ、どうすると消えてしまうのか見当もつかない。不用意に動き回りたくないというのもあるし、そもそも深い傷を負った長身の男を、女二人で担いで三十階も降りて行くなど、現実的に無理だった。これがレオンハルトなら、放っておいてもたちどころに回復するのだろう。しかし、相手は鍛え上げられた肉体を持った、ただの人間なのだ。処置を施さないと、遅かれ早かれ出血多量で死んでしまう。ミーナはない魔力を絞り出して治癒の魔法を唱え続け、サラは額の汗をハンカチで拭い続けた。

 そんな三人に近づくことも離れることもできないジークフリートは、赤いビロード張りの椅子に一人腰を降ろし、仏頂面で三人を監視していた。時々休憩のため、魔物に命令して交代することもあったが、殆どは彼が直々に監視した。彼にはおまけである三人に執着する理由がない。彼らのために戻って来るであろう、レオンハルトただ一人を待っていた。三人はレオンハルトを釣るための餌に過ぎなかった。

 不眠不休で仲間の治療に取り組むミーナ。彼女は疲労のためというより、精神的ダメージのために頭をがっくりと垂れた。

「ミーナさん、少し休んだ方が……」

 そう言うサラだって酷い顔をしていた。ミーナは悔しさのあまり歯ぎしりした。大切な仲間が苦しんでいるのに、神様から授かった力もあるのに、自分の弱さのために助けることができない。キースが死んでしまった、あの時と同じだった。自分が無力であることを思い知るだけだ。

 しかし、ミーナは決して諦めなかった。ありったけの勇気を振り絞って、自分たちを睨み続けている男、ジークフリートに向かって叫んだ。

「ねえ、あなた! 白魔法使える?」

 突然だったので、自分が話しかけられたことにすぐ反応できなかったが、間を置いて、口を開く。

「白魔法……治癒の魔法ということか?」

「そう! それよ!」

「使えるが、それがどうした?」

 彼は眉を顰めた。ミーナは目を輝かせ、言った。

「お願い! 彼を、アルディスの怪我を治して!」

 ジークフリートはもちろん、サラでさえも呆れ返って言葉を失ってしまった。ジークフリートは、呆れ顔のまま、やっとのことで口を聞いた。

「正気か? 私はお前たちの敵だぞ。そいつの傷は私がつけたようなものだ。それを……治せだと?」

 ミーナはへこたれない。とことん食い下がる。

「そうよ、治して! 私じゃダメなの。このままじゃ、アルディスが死んでしまうわ! お願い、治して!」

 ジークフリートは首を振り振り立ち上がり、近づいてきた。

「そいつが死のうと生きようと知ったことか。どうして私がお前たちに協力せねばならん。敵に助けを請うとは、余程頭が弱いか、恥知らずのようだな。」

 ミーナは逆切れして怒鳴った。

「命乞いは恥ずかしいことなんかじゃないわ。苦しんでいる人を救おうとして何がいけないの? 見捨てる方が恥ずかしいわ。命より大切なものがどこにあるっていうの? あるなら見せてごらんなさいよ!」

 食ってかかられた相手は、鋭い目を一層きつく尖らせ、声を荒げた。

「それが人に物を頼む態度か? 大体、こんなバリアが張ってあるのに、どうやって治癒の魔法をかけろというのだ!」

 と、彼が指さしたところ、紫色の膜にぽっかり穴が開いた。これには男もミーナも驚きたじろいでしまう。ジークフリートがそろそろと穴に手を入れると、穴は床まで伸びた。まるで、ジークフリートに、どうぞ遠慮なくお入りくださいと言っているかのような開き具合だった。ミーナもサラも、彼がどう出るのか固唾を飲んで見守っている。ジークフリートは肺の中の空気をゆっくりと吐き出し、側頭部を一撫でした。

「全く、何と現金な……」

 バリアの内側へ入り、ミーナとサラの間に割り込む形で少し身を屈め、掌から青白い光を放ち、アルディスの全身をその光で満たした。ほんの十数秒で切り上げ、バリアの外に出る。穴は間髪入れず閉じられた。アルディスの体を確かめると、完治こそしていなかったが、傷口は全て塞がり、出血も止まっていた。ミーナとサラはお互いの喜ぶ顔を静かに見合わせた。

「止血しかしていない。下手に動かれては困るからな。」

 ジークフリートの忠告は、彼女たちの耳に届かない。涙で輝く笑顔を見せる。

「ありがとう! とても助かったわ。」

「ああ、本当に良かった……」

 冷たい水を浴びせかけられたみたいに肩を引きつらせ、足早に元の椅子へ腰を降ろす。いじけた子どもの眼差しを横に背け、不服そうに腕組み足組みして黙り込んだ。


 私は何をしている? 馬鹿なことを……


 感謝の言葉が柔らかい棘となって彼の心に刺さっていた。彼の人生において、そのような言葉をかけられたことは一度だってなかった。何をしたって、無反応。良いも悪いもない。無なのだ。自分に心があるということすら、彼は久しく忘れていた。

 

 ――心など、何の意味があろう。


 目を瞑り、再び心を葬り去ろうとする。しかし、その音が彼の心を呼び戻した。

 ぐうう・・・

 何の音かと、反射的に鳴った方へ目を向ける。そこには、娘二人と倒れている男が一人。先程大変な剣幕で怒鳴っていた娘が、俯いて頬を赤く染めている。すると、また、ぐうう……と音がして、娘は腹の辺りを押さえだした。人間にはよくあることなのだが、ほっとして緊張の糸が切れた際、基本的欲求が急に現れてしまう……即ち空腹感、食欲というわけで、一食分しか食料を携帯していなかった彼らは既に昨夜のうちにそれを消費しており、それから丸一日経ったのだから、腹が減って鳴るのは当然と言えば当然なのだった。人間との付き合いがないジークフリートは、そういった音を初めて聞いた。けれども、何の音なのかは判った。生理現象なのだ、と。そして、敵に命乞いするのは恥ではないと豪語した娘が、今度は単なる生理現象のために恥じらっている。彼は多少、混乱を覚えた。

「全く、何だというのだ……」

 彼は額と瞼を一拭いして、側に控えていた魔物に指示した。程なく、魔物が両手に何か携えてバリアに近づいてきた。バリアにまた穴が開き、魔物は手荷物を放り込んだ。バリアがまた閉じる。ミーナとサラが、何だろうと目を丸くする。紐を解き、紙包みを開けてみると、中からパンとミルクの入った水筒が出てきた。意味を確認しようというのか、ミーナとサラはジークフリートの顰め面の視線を送った。

「毒は入っていない。」

 端的に答える。

「食べていいの?」

 少女のキラキラした眼差しが、氷の男には熱くて眩しい。

「食べていいから、妙な音をたてたり、顔色をころころ変えて見せるな。」

 ミーナは、ぱっと花が咲くように表情を輝かせた。

「ありがとう! あなたっていい人ね! きっと神様のご加護があるわ。」

 ジークフリートにとっては虫唾の走る台詞だった。

「何が、神だ。訳の分からんことを……」

 一番、訳を分からなくしているのは自分自身だと、彼は内心思ってイライラした。





     十月十八日


 水の城で、六度目の朝を迎えた一行は、未だ還らぬレオンハルトを待ち詫びていた。彼が海の藻屑となったとは、誰も思わなかった。絶対に生きていて、絶対にここへ戻って来るのだと頑なに信じていた。食料は最低限、敵の方から確保できていたが、石造りの床の上で六日も寝泊まりするというのは精神的にも肉体的にもかなりの消耗であり、もはや限界であった。女性陣の献身的な看護のお蔭でアルディスは意識を取り戻し、かろうじて半身を起こすことだけはできるようになっていた。しかし、とてもではないが、剣を振るえる状態ではない。一行はただ、レオンハルトを待つことしかできず、疲労の色を濃くした顔を足元に向け、寡黙に時をやり過ごしていた。

 ジークフリートはちらちらこちらを窺っては、そっぽを向くということを繰り返していた。彼の変化にアルディスは眉を顰めた。

「何なのだ、あれは?」

 大体にせよ、自分の傷を止血だけとはいえ、治療したのは彼だと言うし、食料を支給しているのも彼の差し金だと言うし、殺したいのか生かしたいのか、彼の意図が全く読めない。

「多分、目的はラエルさん唯一人なのですわ。私たちは囮なのです。」

 サラがシビアに物を言う。

「生かさず、殺さず、か。」

「でも、私たちが死んだところで、あの方は結局困らないと思うのです。ラエルさんはここへ戻ってくる。そのことに変わりはありません。その時、私たちが生きているか死んでいるかなんて、あの方には関係ないはずですわ。とても強い方のようですし、力でラエルさんをねじ伏せることもできるでしょう。」

「わざわざ人質を使って脅すまでもない。」

「そういうことです。」

 確かに、人質など生かしておくだけ面倒だろう。完全に拘束して、牢屋にでも放り込んでおくのならともかく、バリアで守られた者を、軽い軟禁状態にして四六時中見張るなど、賢いやり方ではない。自分が彼なら、バリアに穴が開いた機会を逃さず、一思いに殺して海に放り投げたことであろう。

 ジークフリートはその辺りを追及されたくなくて、サラに心を読まれないようシールドを張り、目で物を言う人間相手に視線を合わせないようそっぽを決め込んでいた。彼にだって、自分のとっている行動の意味が分からないのだから。

 この、不思議な持久戦は、昼下がり、突如終焉の時を迎える。それは、微かな地響きから始まった。床に寝転がっていたミーナが最初に気付き、耳をぴったりと当てて階下の音を聞き取ろうとする。

「ミーナさん、どうしました?」

「何か、聞こえる……それに、少し床が揺れているわ。」

 改めて確認するまでもなく、音は段々大きく近づいてくる。ドン、ドン、と床下を木槌で打たれているような重低音。魔物の叫び声らしき音も混じって聞こえる。

「やっと来たか。」

 ジークフリートは腕組み足組みを解いて立ち上がり、入り口の方へ目を向けた。一行がそれに習うや否や、ドアがけたたましく砕け散り、強烈な光が溢れ出す。

「ラエル!」

 光の中から現れたレオンハルトにミーナが喜びの声を上げる。近くにいた魔物が、彼に次々と襲いかかる。一行は先程、階下で何が繰り広げられていたのか、目の当たりにする。レオンハルトの近くから順に、魔物の体が白い炎に包まれ、咆哮が耳を劈く。しかし、その苦しみは長くは続かない。数秒、炎を揺らめいたかと思うと、一瞬で透明な水晶の中に封じ込められ、その時の形で動かなくなってしまう。ひんやりとした空気が、バリアを通して伝わってくる。

「あれは、氷……?」

 燃やして、凍らす。燃やしては凍らせているのだと気付く。ああ、そうか。サラが高熱と凍結に弱いと言ったのを、どちらも忠実に守っているだ。しかし、これではまるで、キースの最期を何度も再現しているみたいではないか……?

 レオンハルトの顔は白い炎に照らされて、感情の一切が浮かんでこない。ターゲットを見もしない。虚空にただ、視線を投げかけている。アルディスはふと、シザウィー城で剣の手合せをした時のことを思い出した。彼は、あの時も何も見てはいなかった。これが、彼本来の戦いのスタイルなのだ。武器が剣でも魔法でも一緒なのだ。彼はそのことを見つけた。見つけてしまった。

 魔物たちは、前にレオンハルトが海に落下する際繰り出した水柱には怯んでいたのに、この、圧倒的で確実な死に対して、真っ向から挑んでいき、悉く瞬殺されていった。夏の虫のように白い炎へ自ら進んで飛び込んでいく。そういう運命であると知っているかのごとく。愚かな魔物たちを、皆、氷の像に変えたレオンハルトは、残る一人、ジークフリートと対峙した。二人とも、相手の出方を待っているのか、微動だにせず立っている。バルコニーから吹き込む風が、髪や服を揺らさなければ、時が止まっていると錯覚してしまう程だった。二人が行動を起こす前に、ミーナが叫んだ。

「待って、戦わないで!」

 側にいたアルディスとサラは、怪訝な顔でミーナを見たが、レオンハルトは眉ひとつ動かさず、こちらを振り向く。どこか遠くを見ているような、生気のない眼差しだった。

「その人、悪い人じゃないの。アルディスの怪我を治してくれたし、ご飯もくれたのよ。」

 アルディスとサラは、こう思う。止血まではしてもらったが、それ以上はしてくれなかったし、食料は最低限しかもらっていない。彼女の言葉は少し足りない、語弊があると。心清らかな乙女はほんの少しで満足し、感謝することができるものなのだ。レオンハルトは滑るような足取りで、ゆっくりとミーナの方へ近づき、バリアの手前で立ち止まり、向かい合わせになって微笑んだ。包み込むような、柔らかい微笑みだった。

「怪我を治してくれて、ご飯をくれる人はいい人なのか?」

「そうよ、いい人よ!」

 レオンハルトの質問にミーナは即答する。永遠の少女が断言したことを無下に否定する趣味は彼にない。

「ミーナはこう言ってるけど、どうする?」

 レオンハルトは、ジークフリートに笑顔で尋ねた。ジークフリートは俯き加減で空を睨み、しばし考え込んでいたが、やがて、ふん、と鼻を鳴らし、腰に手を当てて言った。

「戦う気がないのなら、こちらも止めて構わない。」

 アルディスとサラは、えっ?と耳を疑った。仕掛けてきたのはそちらではないか。まるでこちらが襲ってきたから応戦したと言わんばかりに……そもそも、氷の神殿でも村人を凍らせてダシに使い、魔物にレオンハルトを捉えさせようとしていたではないか。しかし、彼らがもっと驚いたのは、レオンハルトの言葉だった。

「じゃあ、止めよう。ミーナがいい人だって言うんだから、仕方ないよな。」

 それで片付いてしまうのか? この一週間は何だったのか、氷の神殿では人ひとり死んでいるというのに!

「ラエル……!」

 痛みも忘れて立ち上がろうとするアルディスをレオンハルトは手で制し、ジークフリートに言った。

「仲直りのしるしに、アルディスの怪我を治してやってくれ。できるんだろう?」

 ジークフリートは肩を聳やかした。

「それはできるが、バリアがあっては……」

 そう言った途端、紫のバリアは泡が弾けたみたいに消えてなくなった。本当に現金なバリアだった。ジークフリートが、疑いの表情を隠し切れないアルディスの治療に何喰わぬ顔で取り掛かってる間、ミーナは嬉々としてレオンハルトに駆け寄り、例のペンダントを差し出した。

「ラエル、これ!」

 レオンハルトは驚いた風もなく、受け取り、にこやかにミーナを見た。ミーナは一生懸命訴えるように言う。

「あのバリア、きっとこれのお蔭よね? すごく助かったわ!」

「そっか。役に立ったみたいで、良かったよ。」

 ありがとう、とペンダントに向かって無言で礼を言う。返事はもちろん、ない。

 ジークフリートの魔力は確かなもので、傷は五分としないうちに完治してしまった。アルディスは体を動かして、治り具合を一通り確かめていた。レオンハルトはそれを見てから、口を開いた。

「これからどうするんだ? まさか、このまま帰れるわけじゃないんだろう?」

 ジークフリートに聞いているのだ。

「このまま帰るわけにはいかんな。お前を連れて行かない場合、私は処分を免れない。」

「処分。つまり、殺されるってことだな?」

「そういうことだ。」

 淡々と語り合う二人に、ミーナはびっくりして声を上げる。

「殺されるって……そんな、ひどいわ。何とかしないと!」

 当の本人以上に真剣な娘の眼差しを受けてなお、平然としている二人。

「そうだな。何とかしないと。……じゃあ、こういうのはどうだ? 彼はきっと、この先の旅において重要な情報を持っていると思う。それに、白魔法にも長けているから、何かと重宝だ。」

 アルディスは総毛立って、否定的な声を出す。

「お前、何言って……」

 レオンハルトは一瞬、真顔になって、人差し指をアルディスに示す。黙れ、と言うのだ。絶句したアルディスを尻目に、レオンハルトは明るく言い放った。

「オレたちに付いてくればいい。どうせ行く当てもないんだろう?」

 サラは、キョロキョロ、オドオドして、何も言えずにいた。ミーナは目をきらきらさせて期待している様子だ。ジークフリートは、笑っているのか、怒っているのか、困っているのか、よくわからない表情を浮かべて言った。

「まあ、確かに。あちらでの生活にも、命令通りに動くのも飽き飽きしていたところだしな。お前たちの旅に協力しよう。」

「よし、決まりだな。」

 あれよあれよという間に、敵が味方になってしまった。ミーナだけがきゃっきゃと喜び、跳ねている。アルディスとサラは茫然自失。レオンハルトとジークフリートはお互い見合わせているようで、視線が噛み合うことはなく、表情もどこか虚ろであった。レオンハルトは、塔を降りかけて、ふと歩みを止めてジークフリートを振り返った。

「オレのことは知ってるよな?」

 言われて、ジークフリートは変に口ごもった。

「あ、ああ。それは、まあ、ほどほどにな。」

 レオンハルトは彼の返答に関心がないという風に、続けて言った。

「皆はオレをラエルと呼んでいる。どう呼んでも構わない。でも、お前のことはジークと呼ばせてもらう。皆にもそうして欲しい。」

 ジークフリートも、他の三人も妙な気分になって真剣な顔つきのレオンハルトを見つめた。

「別に構わないが……」

「ラエルがそう言うなら……」

 呼び方が何だと言うのかと、訝しく思いながら、階段を下りてゆく。レオンハルトにとっては、とても大事なことだった。フリートという響きを聞く度に、どうしても竜のペンダントに気が行って、意味もなくイメージを重ねようと試み、その度に気持ち悪くなってしまう。同じ響きを持って欲しくなかったのだ。余計なことを考えてしまうから。

 一行は塔を降りて、運よく干潮時で元来た岸辺まで歩いて渡り切ったのち、改めて自己紹介をし出した。ミーナは生き生きと、アルディスは疑い深く、サラは恐る恐る。ジークフリートは淡々と語った。

「私は、妖精界の住人なのだ。エルフと人間の合いの子。つまり、ハーフエルフというわけだ。」

 髪をかき上げ見せた耳は、先が少し尖っていた。

「アルテイシアと同じなのね。」

 ミーナが何とはなしにいうのを、アルディスとサラはドギマギして聞いた。ジークフリートはあまり気にしていないようだった。

「妖精界は今、あまり良い状況ではない。人間界で奇病が流行っているらしいが、妖精界でも同じことが起こっている。その病がついに妖精王にまで及ぶようになってしまった。妖精王を治すのに、お前が必要……というわけで、人間の血を半分受け継いでいる私が適任だろうと、ここへ派遣されてきたのだ。お前を連れて行くために。」

 ミーナが丸い目をさらに丸くして言う。

「あら、ラエルを連れて行ったって、白魔法も使えないのに、王様の病気は治らないんじゃないの?」

「さあな。詳しくは知らん。末端に与えられるのは情報ではない。命令だけだ。命令通りそつなくこなすことが一番重要なのだ。それ以上でもなく、それ以下でもなく。」

 末端、と自らを表現するジークフリートは、しかし、気高さを感じさせる顔立ちの男だった。細い鼻筋に薄い唇。目尻が上にキュッと切れて、藤色の瞳が覗く様子は神秘的ですらある。尖った印象の顎は、人に指示を出すのに適していた。襟足からすぼまりながら緩やかなウェーブを描く髪は青味を帯びた銀色で、月明かりに輝く小川のようだった。

「あなたって幾つなの?」

 ミーナが唐突に聞く。

「……よくは分からない。」

「え、分からないって?」

 伏し目がちに答える。

「妖精界で三年、人間界で十六年は生きているのだろう。が、人間の年齢で換算すると、恐らく二十六、七歳になるのかもしれん。」

「どうしてそういう計算になるの?」

「特殊な育てられ方をしたのだ。成長を心身ともに強制的に早められた。」

 ミーナは頭の中で、彼女なりの試算をしてみた。結局、訳が分からない。こめかみを両手で摩ってから、今の質問はなかったことにして、新しい質問を持ち出す。

「ねえ。あなたは昔話をしないの?」

「昔話?」

「だって、お城の人は皆、昔話を……」

 ミーナのお喋りを止めるべく、レオンハルトの手が背中を押す。

「やだ、何よ?」

「何よ、じゃないよ。そんなに矢継ぎ早に質問されても困るだろう? もうじき暗くなるし。皆疲れてるから、コテージ張って今日は休もう。続きは明日にでもしてさ。」

 メンバーが増えて嬉しそうにしているのはミーナ唯一人だった。アルディスとサラは疑惑と不安で口を閉ざしがちになり、レオンハルトは……

「アルディスさん。ラエルさん、変なんです。」

 サラがアルディスの横でぽつり呟く。アルディスはサラの黒髪み目をやった。

「何を今更。元々おかしな奴だ。海に落ちて、より一層おかしくなって戻って来ただけだ。」

「いえ、そうではなくて……」

 手を組み合わせ、祈るようにレオンハルトの背中を見つめる。

「前は、真っ暗の伽藍堂に見えた心が、今は透明になっているんです。初めてお会いした時みたいに。」

 アルディスも一緒になって彼の背中を見た。もちろん、心など見えるはずはない。見えないが、じわじわと脳裏に染み出してくるものが……! サラとアルディスはほぼ同時に目を見合わせて固まった。


  ――記憶を取り戻した?


 その日の夕食は、一週間ぶりにレオンハルトが作って供してくれた。素晴らしい香りを放つスープにかりっと焼けたチキン。色鮮やかな温野菜に添えられたドレッシング……ジークフリートが不思議そうに料理を眺めて言う。

「いつも、こうなのか?」

 ミーナがにっこり笑って答える。

「そうよ。いつもラエルが作ってくれるの。おいしいでしょ?」

 けれども、今日は何かが違っていた。そのことに気付くのは、もう少し後のことである。






      十一月二日


 ジークフリートが旅に加わって二週間、まだまだ気を許したわけではないが、大分馴染んできた感はあった。

 彼の長所は何といっても白魔法を豊富に使えることだった。魔物の動きを遅くしたり、攻撃を弱めたり、バリアを張ったりといった補助の魔法や、病気や怪我を治す治癒の魔法が得意で、攻撃系では火でも水でもまんべんなく使えて、変わったものとしては召喚魔法があり、妖精を人間界へ呼び出して戦いに参加させることができた。

 魔物との戦いが終わると、ミーナはジークフリートへ賞賛の声を浴びせた。彼女にとって白魔法は人助けの崇高な魔法であり、従ってそれを無尽蔵に繰り出すジークフリートは敬意を表するに値する男なのであった。彼は人に褒められたり微笑みかけられたりした経験があまりなかったから、最初は戸惑っていたが、この頃は表情も緩み、ありがとう、と礼を返すようになった。

 そして、この日も戦いが終わって、ミーナはジークフリートに忘れず声を掛けた。

「やっぱりジークは凄いわねぇ。あなたが頑張ってくれるから大助かりだわ。」

「そうか?」

 ジークフリートは、この天然記念物のように純真な乙女に対し、自然と笑顔を見せた。普段使わない表情筋を使っているので、このところ筋肉痛に似た軽い痛みを頬のあたりに感じていた。

「それに引き換え、ラエルは……」

 ミーナがため息交じりに愚痴っぽく呟く。

「どうかしたのか?」

「うん……。最近、何だかおかしいの。気もそぞろって言うのかしら。体はここにあるんだけど、心がどこかに行っちゃってるみたいなの。話しかけてもろくに返事もしてくれないし・・・」

 ミーナの言葉が耳に入り、アルディスとサラもレオンハルトのプラチナブロンドに目を向けた。確かに、おかしい。

 例えば、こういうことだった。

 二、三日前の夜、食後のコーヒーを皆で飲んでいて、ミーナがレオンハルトに向かって言う。

「ねえ、次はどこに行くの? 残っているお城は光の城だけよね。光の城って近いところにあるの?」

 返事がない。レオンハルトはコーヒーカップに口をつけながら、テーブルをぼんやり眺めている。ミーナはむっとしてテーブルを平手で叩いた。

「ちょっと! 人の話聞いてる?」

 然程驚いた風もなく、口元に薄く笑みを浮かべ、コーヒーカップをゆっくり置く。視線はコーヒーカップに注がれている。

「ああ……光の城か。光の城のことはよくわからない。」

 暖炉の火が消えたのではないかと思う程、空気が冷える。

「わからないって……じゃあ、あたしたち、どこへ向かって歩いていたの? 意味もなくただぶらぶらしてたってわけ?」

 立ち上がりかけるミーナを押さえつけ、アルディスとサラが場を取り成そうとしたが、その前にジークフリートが声を出した。

「知らないのも無理はない。光の城とは妖精王の城の別名だ。妖精王の城は妖精界にあるべきもの。人間が一度妖精界に足を踏み入れたならば、たちどころに精神力を失い、昏倒してしまう。場合によっては死ぬこともあるのだ。だから、人間が妖精王の城に立ち入ることはおろか、目にすることすらできない。……通常ならば。」

「通常なら?」

 ミーナが空色の瞳をきらきらさせる。ジークフリートの彫刻みたいにシャープな表情が緩む。

「そう。今、妖精王の城は実験的に人間界へ降りてきているのだ。」

「城が降りて……? 妖精王の城って動くの?」

 ジークフリートは顎に軽く指を当てた。

「動く、と言うと語弊がある。妖精界には宙に浮かぶ性質の岩があって、中でも特大な島程の大きさのものを削り出して作られたのが、妖精王の城なのだ。その浮いている城を人間界に移動させた、というのが正しい。」

 話が大きすぎて、ミーナにはよくわからなかった。そういう時は次の質問をするのである。

「実験って、何の実験?」

「何、環境を変えてみたのだ。妖精王の体長が少しでも良くなれば、ということでな。もしかしたら、人間界の空気の方が合っているのかもしれないと。試せることは全て試し尽くして、ついに人間界に手を出す羽目になったわけだ。妖精界はそれ程逼迫してるのだ。」

 あちらこちらで聞いた情報と符合している。レオンハルトは相変わらずの無反応、まだ温もりの残っているコーヒーを見つめている。ミーナが代わりに言う。

「じゃあ、そのお城に行けばいいのね?」

「妖精王の城に行くのなら、案内しよう。中までは無理かもしれないが……」

「途中だって大助かりよ! ねえ、ラエル。」

 元気一杯、意気揚々と賛同を求める。今度はゼロではないが、やはり反応が薄い。

「二人がいいって言うのなら、それで構わないよ。」

 目も合わさず呟くと、一人立ち上がって自室へ下がってしまった。

「ちょ、ちょっと、何よ。何なの?」

 ミーナは怒りも忘れて呆れ返る。

 一見、ミーナとジークフリートが仲良く語らう様を嫉妬しているかのような言動。でも、アルディスとサラは、そういうことではないと感じていた。レオンハルトは自分たちと距離を置こうとしている。ふとした隙にどこかへ消えてしまうかもしれない。飼い主がペットを箱に入れて道端へ捨てて行くみたいに。二人はただ、祈る思いで彼を見守っていた。


 このようなことがしばしばあって、心を疲弊させたミーナの足取りは重くなっていく。止めどなく寂しかった。無視されるというのは、なじられるより辛い。自分の存在が希薄になって、忘れられる恐怖が、彼女から笑みを奪って行った。





     十一月十九日


 夕食後、ミーナはコテージを出て、小川の辺にある大きな木の下へやってきていた。晴れ渡った夜空には、満天の星が瞬いて、大変美しいのだが、それにしても寒かった。すぐに用が終わると思って薄着をして来たのは失敗だった。しかし、上着を取りに戻る間もなく、待ち人に会ってしまい、諦める。待ち人は、ジークフリートだった。

 ミーナは震える肩を両手で押さえるようにして言った。

「ごめん、ごめん。待った? 今夜は冷えるわねぇ。」

 ジークフリートは寒さに強かった。氷でできているみたいに。

「ああ、そうか。済まない。話はすぐに終わらせる。」

 妖精王の城へ向かう途中、ジークフリートが耳打ちしたのである。話がある、今夜二人で会おうと。尊敬する白魔法使いの申し出なので、そんな気分ではなかったが、笑顔で承諾したのである。

 そして、今もにこにこしてジークフリートの話を待っていた。ジークフリートが切り出す。

「話というのは……」


 数分後、ミーナが神妙な顔つきでコテージへ戻って来た。そこにはレオンハルトがいて、入念にテーブルを磨いていた。テーブル拭きの職人みたいに真剣だった。ミーナが近づいても素知らぬ顔で作業に集中している。

「ねえ、ラエル」

 呼びかけたところで、彼の手は止まらないし、返事もない。構わずミーナは続けた。

「あたし、ジークに告白されたの。ううん。告白って言うより、プロポーズね。冗談なんかじゃないわ。とても真面目だったの。……あたしの話、聞いてる?」

 レオンハルトの手が止まる。

「うん、聞いてるよ。」

 屈めていた身体を真っ直ぐ戻し、ミーナの目をきちんと見る。目を合わせるのも久しぶりなら、微笑みかけるのも久しぶりな気がした。

「あたし、どうしたらいいのかしら?」

 ミーナの質問の意図はよくわかっていた。ジークフリートを傷つけないで、やんわりと求婚を退ける術について知りたがっている。それなのに、レオンハルトはこう答えた。

「それは、ミーナとジークの問題だから……。ミーナが望む通りにしたらいいと思う。ジークのこと、嫌いではないんだろう?」

 まるで、この際付き合えば?と言っているようなものだった。ミーナはレオンハルトが大事そうに磨いていたテーブルを腹いせに思い切り叩いて怒鳴った。

「何それ、馬鹿じゃないの!」

 コテージも揺るがす勢いで扉を閉め、また外へ出て行ってしまった。レオンハルトはさすがに弱って佇んだ。階下の騒ぎに何事かと、サラにアルディスが降りてくる。

「……喧嘩か?」

 剣士の問いは短い。レオンハルトはいじっていた布巾をテーブルに放って、ため息を吐いた。

「だったら、まだいいんだけど。」


 事の経緯を話して聞かせると、アルディスの眉間にみるみる皺が刻まれた。サラも残念でならないという風に、肩を落とした。

「それで、お前は好きにしろ、と言ったのか? ミーナに」

 アルディスの怒りを抑えた質問に、弱弱しく首を振る。

「そんなつもりじゃなかったんだけど、そういう風に聞こえたかもしれない。」

 突き放すような言い方になってしまった。最良の言葉はいつも見つからない。代わりに出たのは最悪な言葉。

「あえて言わずにいたが、最近のお前は何なんだ? オレたちを避けてどうしようというのか。自分一人で何もかも背負って消えるつもりか」

 今度は強く首を振る。

「そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ……」

「ただ、何だ。」

 自分の目を見据える青い瞳。海に落ちてから、どうしても父親のイメージと重なって仕方がない。彼を単体として、アルディス一個人として見ることができない。隣で物憂げな眼差しを向けるサラにしても、ドッペルン医師の影が付きまとって、直視するのはとても辛いことだった。しかし、レオンハルトが仲間たちを遠ざけていたのはそういう理由ではなかった。

「オレは、ただ、皆を傷つけたくない。苦しめたくないだけなんだ。なあ、アルディス。それに、サラも。オレたち、自分の預かり知らないところで随分深く関わり過ぎていると思わないか? それを人は絆と呼ぶのか、因縁と呼ぶのか、それとも宿命なんて呼ぶのかな。とにかく、切っても切れない縁が遠い昔からあって、雁字搦めなんだ。オレが奈落の底に落ちる時は、たぶん皆も一緒だ。オレは、それが怖い。もう、いいだけ巻き込んで、辛い思いを沢山させてしまった。償うことはとてもじゃないけど不可能だ。」

「そんなこと……!」

 サラの瞳が潤む。そんなことを、父も自分も、誰も望んでいない。巻き込まれたという被害者意識もない。これは、自分で選んだ運命なのだ。

「償いはできない。でも、連帯責任を免れることはできると思うんだ。この、目に見えない、強すぎる繋がりを、絶ち切るまではいかなくても、緩めることはできるんじゃないかって……」

 水の塔で魔物を仕留めるのに使った魔法。キースの死を連想させる、あの魔法で、距離を置く決意を示したかった。自分たちに絡まっている運命の糸の結び目を緩めて、落ちる時に解けやすくしておきたい。アルディスが魔物の攻撃を受けながら、決して放さなかったロープ。ああいうものが今、自分たちを繋いでいる。恐ろしい代物だ。最悪の事態が起きる前に、緩めておかなければ……。けれど、全ては水の泡となってしまった。閉ざしたはずの心を、こうも容易く開いてしまう。親も親なら、子も子だ。敵わない。レオンハルトは、目を閉じてゆっくり息を吐いた。

「無駄な足掻きだったのかな。」

「そうだ、無駄な足掻きだ。オレたちにそんな手が通じるとでも思っていたのか?」

 きっぱりと言われ、瞼を覆う。何だか、心地の良い痛みだ。苦味の中に甘味があるコーヒーみたいに。

「で、ミーナのことはどうするつもりだ?」

「ラエルさんは、ミーナさんのこと、お好きなのでしょう?」

 二人が言うと、下世話な台詞もそうとは聞こえないから不思議だ。

「それは、もう。好きなんて言葉で言い表せられないくらいに。だけど、オレはミーナをただ、モノにしたいわけじゃないんだよ。大切にしたいし、幸せになって欲しいと思ってる。」

 アルディスが鼻で笑う。

「その大切な人を傷つけたのだから、早く落とし前をつけてこい。」

 レオンハルトは席を立ち、窓の外へ目をやった。真っ暗で何も見えない。

「ミーナの幸せって、何だろう?」

 アルディスは肩を竦めた。

「オレに聞くな。」


 外は思った以上に寒く、しかし明るかった。夜更けの空には満天の星が砂金みたいに散らばって、瞬いている。レオンハルトはそれが妙に残酷な光だと感じた。罪人を刺し貫くような、鋭い輝きに思わず目を細める

 ミーナを探す必要はなかった。彼女はコテージの下、階段の横にしゃがみ込んで寒さに耐えていた。彼女は多少意固地なところはあるが、無鉄砲な質ではない。あの場合、表へ飛び出すしかなかったのだが、若い情熱で誤魔化せるほど、今宵の気温は高くなかった。レオンハルトは、彼女をなるべく刺激しないよう、静かに階段を降り、持ってきた上着をそっと肩へかけてやった。

 すると、蜂の巣をつついたかのような反応が起きる。

「何しに来たのよ! 私のことなんかどうだっていいんでしょ!」

 上着を投げつけそうな勢いだったが、それはそれ。上着の方はしっかりと体にくるませ、絶対に離さない。やせ我慢できない寒さなのだ。レオンハルトは息まかれて、元気なく階段に座り込んだ。

「どうでも良かったら、こんなに困らないよ。」

 それを聞いて、ミーナは顔を上げ、立ち上がった。

「困るって? どうして困るのよ。」

 困っている人は助けないといけない。彼女の性分であり、生まれた星なのだ。それがどんな状況であっても変わることはない。レオンハルトは白状する。

「だってさあ、ミーナ。オレは、ミーナに幸せになってもらいたいんだよ。ずっと一緒にいられたらって思うけど、オレは多分この先……」

 言葉が淀む。これまで様々な部族の城を訪れ、結晶を吸収し、魔法を覚えてきた。記憶も、全て戻った。そして、実感している。魔法が身に付くほど、自分の心が失われていくことを。正直、困ると先程言いはしたが、本当のところはどうなのか、自分でも良くわからない。今、確信を持てるのは彼女に対する愛情と、仲間たちを守りたいと願う気持ちくらいで、あとは使命感が行先を指定しているだけ。この先、光の結晶とやらを吸収したら、自分の中から温かい人の心は消滅してしまうかもしれない。彼女を愛おしむことも忘れ、仲間のこともどうでもよくなってしまうのだ。だから、こんな自分に一蓮托生してくれている皆を傷つけないよう、今のうちに遠ざけておきたかった。何も、全員が地獄に落ちなくてもいいではないか、そう思って。けれど、どうやらその作戦も失敗したようだし、ここは正念場と覚悟を決めて、告白なり求婚なりをしようと彼女のもとへやって来たまでは良いが、頭の中に靄がかかって適切な言葉が見つからない。つまり、彼女が自分と一緒にいて幸せでいてくれるイメージが湧いてこないのだ。彼女の幸せとは何か、わからない。自分は幸せにできないと思いながら、一体どんな言葉を掛けようというのか。

 それでも、無理矢理、続きを言わねばならなかった。

「たぶん、この先、ろくでもない人生が待っていると思う。」

「ろくでもないって?」

「そうだな。地獄の中で生きるような感じかな。悪いことを沢山してきた罰だ。だから、オレの人生にミーナを付き合わせるわけにはいかないよ。ミーナには幸せになってもらいたい。でも、オレじゃミーナを幸せにはできないんだ。」

 言ってしまった、と思った。これでは、また突き放したも同然ではないか。レオンハルトは怒鳴られる準備で頭を抱えた。ミーナは怒り顔ではあったが、しかし大声は出さなかった。

「どうして地獄に行くことになるの? あたしと一緒にいれば、そんなことありえないわ。」

「……え?」

「あたしには神様がついているのよ。あんたが悪いことをしたのだって許してくださるわ。そうじゃないと、私が苦しむことになるもの。神様は私に試練をお与えにはなるけど、苦しみは与えないのよ。」

 レオンハルトは耳を疑った。神を信じる者は、何でも許されるのか? それで全てを浄化させてしまえるのか? 暗い未来を想像すらしないのか? ミーナは尚も言う。

「それに、誰が幸せにしてって頼んだの? 私は人に幸せにしてもらいたいなんて、一度も思ったことはないわ。私の望みは、人を幸せにすることよ。それが私の幸せなの。私の幸せは、私が決めるのよ。あんたが悩むことじゃないわ。」

 横暴とも言える発言に、もはや言葉も出ない。この自信はどこから来るのか。ただ、驚愕するばかりだ。

「それとも、何? あんたは私と一緒にいて、不幸になるって言うの?」

 レオンハルトは首を振った。

「まさか! ならないよ。そんなことはありえない。ミーナと一緒にいて、オレが不幸になることはないよ、絶対に。」

 ミーナは、それ、見たことか、と笑った。

「なら、何も問題ないじゃないの。あんたが幸せなら、私だって幸せだわ。」

 なんと、力強いのだろう。幾千の星より、美しい光を放つこの娘を、自分は失うべきではない。守り切らなければならないのだ、全ての害悪から。責任から逃れている場合ではない。

 しばし、愕然と彼女の大きな丸い瞳を見つめていたが、急に喜びが心の奥から沸き上がり、幸福を満面に描いて微笑む。

「ミーナは凄いな。確かに、ミーナと一緒なら、オレはいつでも幸せだ。地獄も逃げ出すよ。」

「そうでしょ?」

 得意そうなミーナを見ていると、強張っていた心が溶けだして、じんわり温かくなるのがわかる。ああ、これが安心感というものなのか。無敵の心で足元を照らしてくれる。もう、迷うことはないのだ。自分には天使がついている。

「ミーナ、愛してる……」

 ミーナが身構えるより早く、階段越し、吸い寄せられるみたいに口づけしていた。


 その光景を、遠く木陰から見ている者がいた。ジークフリート。予想はしていた。残念だとは思ったが、こういうものだから、仕方がない。いつだって、望みが叶った例がないのだ。これで、心置きなく、計画を実行することができる。彼にとってそれは諦めではない。予定調和というものなのだ。





     十一月二十日


 この日は朝靄のかかる針葉樹の森を、ひたすら歩き続けていた。単調な一本道。しかし、ミーナはやたらと楽しそうに歩いていたし、ここしばらく腑抜けていたレオンハルトは生気が戻って、晴れやかな表情だった。アルディスもサラもこういう二人を見るのは久しぶりで、嬉しかった。ジークフリートは皆を先導していたから、どんな顔をしているのか窺い知ることはできなかったが、表面上はいつも通りのポーカーフェイスであるようだった。森の中故、馬車は使えず、数日分の餌と共に置いてきた。

 ミーナはジークフリートの背中を見ながら、ふと、今朝のことを思い出す。

「あのね、ジーク。昨夜のことなんだけど……」

 レオンハルトと和解した彼女に迷いはなく、きちんと自分の言葉で断りを入れようと、外に一人でいたジークフリートの元へ早速やって来たのである。ジークフリートは穏やかに微笑み、首を振った。

「ああ。そのことなら忘れてくれ。」

「……えっ?」

「君の気持ちも考えず、急に話してしまった。焦ることもなかったのだ。だが、私の気持ちを伝えることはできた。今はそれで十分だ。」

 煙に巻かれたのか、助かったのか。腑に落ちないが、深く追求するのは止め、「これからも友達よね」と、手を差し出した。ジークフリートはその手を寂しそうに、或は苦しそうに笑って見つめながら、握り返した。

「そうだな。」

 この握手の感触と笑い方に、ミーナは奇妙に懐かしいものを覚えていた。しばらく会っていない兄のようでもあり、毎日顔を合わせているレオンハルトのようでもあった。男の人は、皆、こんな風に握手して笑うものなのかしら。空を映す瞳に、謎の色が滲む。

 もうすぐ、昼になろうかという時、森が俄かに殺気立つ。アルディスは反射的に剣を抜いて身構え、それを見た女性陣は後退して、心構えをした。レオンハルトは、どうもしない。ただ、立ち止まる。ジークフリートは一人、歩いて行く。その周囲を魔物が取り囲む。

「ジーク、あぶな……」

 言いかけて、ミーナの口が止まる。振り返った彼の顔は不吉に笑っていた。海の深淵みたいに得体の知れない、暗い笑みだった。魔物は彼を取り巻いたまま動かない。従っていると言うべきか。よく見ると、それはどれも魔物と呼ぶに相応しい風貌ではなかった。白いマントを纏う、端正な顔立ちに長い髪。そして、尖った耳。

「エルフ?」

 生で見るのは初めてだったが、妖精界の住人、エルフに相違ない。アルディスは剣先を地面に向けた。殺気を感じるからしまいこそしないが、敵意を見せてはならない相手。一人一人の魔力が半端なく強く、人間の魔法などままごと同然である。妖魔界における、ダークエルフも然り。それが、目に見える範囲だけで数十も自分たちを包囲している。とてもではないが、太刀打ちできない。

 ジークフリートは、アルディスの賢明な判断に、にやりと一瞥をくれた。

「そうだ。無暗に歯向かわない方が身のためだ。お前の仲間はよくわかっているようだな。」

 言われたレオンハルトは、口の端で笑った。

「もちろんさ。アルディスは剣の腕だけじゃなくて頭も切れるんだ。だからお前に一度だって心を許しはしなかった。」

 ジークフリートはこめかみを一瞬痙攣させて、また毒々しく笑った。

「お前が何故、私に心を許したふりをして、仲間に引き入れようとしたのかは知らないが、まあ、よい。様子を伺うのもそろそろ飽きたところだ。茶番はお互い終わりにしようではないか。」

 エルフたちがレオンハルトを取り囲み、腕を掴もうとするや、その指先が稲光と共に跳ねつけられ、端正な顔が醜く歪んだ。

「気安く触れるな、エルフ風情が!」

 エルフたちは、彼の怒声に震えあがった。仲間たちは彼の高貴な身分を思い出しつつも、それにしてもエルフ風情とは?と首を捻る。ジークフリートは鼻で笑う。

「ふん。自分が何者であるか、少しは知っていたと見える。だが、立場を忘れているようだ。」

 エルフたちが、アルディスや女性陣にむかって歩みを進める。レオンハルトは両手を挙げて、大きく振った。

「あー、わかった、わかった! 大人しく捕まればいいんだろ?」

 エルフの足が止まり、ジークフリートはまた鼻で笑った。

「そうだ。聞き分けが良いな。」

「連れて行くのはオレだけでいいんだろ? 皆には手出しするなよ。関係ないんだから。」

 関係ない……三人は全身の力が抜けて、倒れてしまいそうだった。情けなく、切ない響きだ。

「異論はない。女子供に用などないからな。元からお前一人を連れて行くのが目的だった。」

「よし。じゃあ連れて行きな。ちゃんとついていくから、汚い手で触んなよ。」

「ふん、偉そうに……」

 ジークフリートがマントを翻し歩き出すと、宣言通り、レオンハルトは彼の後をついて行き、エルフたちも従った。ミーナが堪らず叫んだ。

「ジーク、どうしてなの! 私たち、友達でしょ?」

 歩みを止め、振り返った彼の顔は、笑いも悲しみもなかった。死人そのものだった。

「この世は所詮、修羅だ。人と妖精は相容れぬもの。私のことも彼のことも、早く忘れることだ。」

 少し考えてから、続けた。

「この際だから、一つ、教えておいてやろう。彼は十七年前に人間界へ連れ去られた妖精王の第一子。つまり妖精界の王子だ。私は第二子で彼の弟。彼は私の兄。そういうことだ。諦めもつこう。」

 三人は総毛立って、言葉を失った。レオンハルトは、ぴくりともしない。わかっていたのだ。仲間を笑顔で振り返る。春の日差しのような、温かい笑顔。

「それじゃ、皆元気で。」

 ちょっと行ってくる、と言うように軽く手を振り、前に向き直ると、それきり振り返ることはなかった。こうして、レオンハルトもジークフリートもエルフたちも、靄のかかる暗い森へ消えて行った。

 三人は夢の中に取り残されたみたいにどうすることもできず、見えもしない森の奥をただ黙って見つめるしかなかった。


 ジークフリートは、裏切者ではあるが、嘘は言っていなかった。森を抜けた先に妖精城はあった。そして、はるか上空に浮いてもいた。山のごとく巨大な建造物。どのようにして造られたかもなぞなら、重力を全く無視してぷかぷか浮いている姿は、もはや絵空事。平静であったレオンハルトも、さすがに口をあんぐりと開けて、歩くのを忘れてしまう。

「何をしている?」

 ジークフリートが厳しく叱責する。

「だって、変だろ、あれ。不自然だよ。」

 彼にとっては自然な在り様なので、同意を求めるだけ無駄であった。

「人間の常識は捨てることだ。お前はこれから先、あの城で暮らすのだから。」

 レオンハルトは、ふん、と顔を背けた。

「オレは人間の常識の最前線で生きてきたんだ。今さら捨てる気はないよ。」

「何?」

「そのうち、あの建物に、人間界におけるあるべき姿ってものを教えてやる。」

 何を言っているのか、ジークフリートには訳がわからない。人間独特の語り口に混乱しつつ、自分の城に目を向けた。浮いているから、何だと言うのか……。

 彼は人に育てられた兄によって、とことん翻弄され、追い詰められていくことを知らない。兄がしようとしていることについても。何かしようとしているなど、何故か考えもしていなかった。


 城の近く、と言っても、数キロ離れているし、数キロ浮いているから、大して近くはないのだが、馬鹿げた大きさが遠近感を壊しているものだから仕方がないとして、近くに来たところで、城から何やら飛来するのが見えた。大きな蝙蝠のような、羽の生えたトカゲのようなとにかく気持ちの良い生き物には見えない。それが数十羽、こちらへやって来て、旋風を巻き起こしながら降り立った。レオンハルトは幻滅した気持ちになる。

「これ、何だ? 妖精なのか、これも。」

 ジークフリートはため息を吐いた。

「ガーゴイルだ。これこれ言うな。乗れ。」

 レオンハルトは、汚いものに触るみたいに、恐る恐るガーゴイルの翼をつついた。思った程固くなく、冷たくない。汚くないし、臭くもなかった。誤解が解けると、躊躇せずその背に跨り、艶のある短い毛並みをぺたぺた撫でた。馬と同じ扱いである。馬みたいに嘶いたりしないが、鼻を鳴らし、鋭い目を細めて、喜びを表現しているようにも見えた。見た目にそぐわず、大人しい生き物だった。

「行くぞ。」

 ジークフリートの合図とともに、エルフを乗せたガーゴイルは一斉に飛び立ち、城へと向かった。妖精城は、空から見ると、まるで石造りのシャンデリアみたいな形をしていた。一つの大きな五角柱の周りを沢山の細い五角柱が円形に並んで、リング状の外廊下で繋がり、ぶら下がっている。大まかに言うとそういう形状だった。屋根の部分はいずれも鈍角に尖っていて、地面に立っていないから何と呼べばいいか、取り敢えず基礎とでも言うのか、底の部分は鋭角に尖っていた。何かの鉱石の結晶を寄せ集めたようでもあった。

 城の中央、太い五角柱の底へ差し掛かると、底ががぼっと下へ動き、五角形の床が現れた。ガーゴイルが次々とそこへ降り立ち、全員揃うと、底は元通りにぴしゃっと閉まった。内部はぼんやりと明るい。灯りらしいものは見当たらず、どうやら壁全体が淡い光を放っているらしかった。ガーゴイルの呼吸以外何も聞こえない、静かな空間。と、そこへ、レオンハルトが突然声を上げて笑い出したので、エルフたちは揃ってたじろいだ。見ると、床へ降り立ったレオンハルトに、彼を乗せていたガーゴイルが頬ずりなどをしている。

「やめんか、気色の悪い!」

 ジークフリートは鳥肌を立てて床を一つ蹴った。

「ガーゴイルって人懐っこいんだな。」

 レオンハルトは頬ずりを退けて、代わりにガーゴイルの首をぺたぺた撫でてやった。


 ――そんなわけがあるか!

 

 生まれてこのかた、ガーゴイルのこのような姿をジークフリートは見たことがない。エルフたちの視線はレオンハルトに釘づけとなり、薄っすらと笑みを浮かべる者さえいた。見る者を虜にし、温かい感情を呼び覚ます力。ジークフリートはエルフたちを睨みまわしてから、言った。

「ぼやぼやするな! 王がお待ちだ」

 王、と聞いて、エルフたちは一変、緊張で顔を強張らせた。レオンハルトも、笑みをそぎ落とし、真剣な表情になる。ついに、この時が来た、と。


 王の間は、中央の五角柱、即ち本殿の最上階にあった。位置口正面に、紺碧のビロード張りの玉座が二脚並んでいて、向かって右に妖精王は鎮座していた。

 病気の話は聞いていたから、ある程度覚悟していたが、実際目の前にすると、あまりのおぞましさに胃の腑から込み上げるものがあった。レオンハルトは医学博士として、様々な症例を目にしてきたし、人体解剖に立ち会い、自ら執刀したことだってあった。だから、肉が腐って顔が半分ないくらい、どうってことないと正直高を括っていた。

 しかし、妖精王は、ただ体の半分が欠けているわけではなかった。肉が崩れたところに奇妙な処置が施されていたのである。顔の右側は、彼本来のものであろう腐りかけの死体みたいな灰色の頬に紫色の唇、白く濁る眼球……これはまあ、良いとして、問題は左側であった。一見グロテスクなマスクをしていると思ったが、そうではない。明らかに彼のものでも、妖精族のものでもない、何か他の生物の顔を移植されていた。黒ずんだ青い爬虫類の皮、瞳孔がスリット状に避けた赤い眼球は丸く飛び出し、ぐりぐり勝手に動いている。その目のすぐ下まで及んでいる吊り上がった口には、黄ばんだ鋭い牙がむき出しとなっている。宝石の付いた杖を持つ左手は、鳥の足だった。装束に隠れて見えはしないが、恐らく他にも様々な生体パーツが使用されていることが予想された。レオンハルトは、目を背けてしまいそうになるのを堪え、拳を握って込み上げる感情を押さえつけた。……悪魔の業! アルテイシアが言っていたのは、このことだったのか。妖精王は右半分を笑わせて言った。

「おお、我が息子よ。久々の再会だというのに、このような姿で申し訳ない。吐き気がしよう? 近々もう少し真面な顔を見せることができる。それまで我慢してもらいたい。」

 レオンハルトは、やっとのことで口を開いた。

「へえ、妖魔のパーツは飽きたから、エルフから取ってつけることにしたのか?」

 それを聞いたエルフが震えあがる。息子の悪態に、妖精王はなおも右半分で笑う。

「いや、残念ながら、エルフも他の妖精族のどの生体も私の体には合わなくてな。試しに妖魔のものを使ってみたら、なかなかどうして、馴染んでくれた。完全一致とはいかないから、時々別のものと取り換える必要はある。面倒だが、仕方あるまい。」

 レオンハルトは、妖精王のために犠牲となっている多くの命を思って歯ぎしりした。使い捨てにされている、多くの命……。

 妖精王は楽しそうに言う。

「このような生活も、もうじき終わる。私は本来の姿を取り戻し、永遠の命を手に入れるのだ。お前のお蔭でな、レオンハルトよ……」

 側に控えていたジークフリートが、えっ?と兄を見る。兄は、父親を噛みつきそうな形相で睨みつけている。永遠の命とは何だ、初耳だと彼は思った。病気を治すだけではないのか?

「さて、折角だから、お前の母親にも会わせてやりたいが、あいにく、今日は調子が悪いのでな。」

 そう言う妖精王に唾でも吐きかけるような口調で答える。

「余計な気遣いは無用だ。顔も見たくない。」

「おやおや。たった一人の母に対して、それはなかろう。確かに、お前を捨てたのは事実だが……」

「母親だとか、捨てたとか、関係ない。人として許せない。それだけだ。もし、オレの前に連れて来てみろ、ずたずたに引き裂いて、ガーゴイルの餌にしてやる。」

 あまりの激しい言い草にジークフリートは驚きを隠せない。彼が憎悪を露わにするところなど見たことがなかった。妖精王は面白そうだ。

「ふふふ。それほどまでに言うのなら、止めておこう。大事な后を殺されては困る。さて、今日は疲れたであろう。部屋を用意してあるから、ゆっくり休むと良い。」

 ジークフリートは気を取り直して、レオンハルトを連れ、王の間を後にした。


 用意された部屋は、ベッドとテーブルと椅子があるだけの、非常に簡素なものだった。レオンハルトは靴を脱いで、ベッドに転がり、両手を枕にあおむけとなって、あーあ、と大きく息を吐いた。案内し終わったジークフリートだったが、何となく部屋を出て行きそびれて戸口にぼんやり突っ立って、寝そべる兄を眺めていた。聞きたいことが一杯あり過ぎて、考えが纏まらない。そんなジークフリートに、にっこりと笑顔を見せて、レオンハルトが言う。

「何だよ。辛気臭い顔して。腑に落ちないのか? 十七年ぶりの再会だから、泣いて喜んで縋りついて、『お父さーん、会いたかったーっ』なんて言うとでも思ったのか? 冗談じゃないよ。あんな化け物。同じ空気を吸うのも嫌だね。」

 ジークフリートは訴えるように言い放つ。

「何を言う! 父親に向かって、よくもそんなことを……! あれは病気で仕方なく……」

「ビジュアルのことを言ってんじゃねえよ。問題は、ここ。」

 レオンハルトは、親指で自分の胸をつついた。そして、横向きになって、ジークフリートをじっと見つめる。

「こんなことをお前に言うのは気が引けるけど、あいつはもう、死んでいるんだよ。生きたいっていう執念だけで動いている亡者だ。命を継ぎはぎして、生きているように見せかけている。あれが化け物じゃなかったら、何だって言うんだ。」

「勝手に殺すな! これ以上の王に対する悪言雑言は許さんぞ!」

 眉間に皺寄せ、レオンハルトに近づく。悲しそうな顔つきでもあった。レオンハルトは、そんな弟を、穏やかに見つめ続ける。

「わかったよ。お前の父親の悪口を言って済まないとは思ってる。でも、水と油だと思って、大目に見てくれよ。仲良くすることは、一生ない。」

 ジークフリートは、言うだけ無駄と悟ってか、ふん、と鼻から息を吐き、部屋を出て行こうと後ろを向いたが、ふと、立ち止まって、もう一度兄の方を見た。

「永遠の命、とは何だ? お前はそういう術を使えるのか?」

 レオンハルトは、視線を床に落とした。

「ああ、あのことか。……お前、何も知らないんだな。」

「何?」

「知らない方が幸せだよ。ミーナが言ってたように、お前、本当にいい奴だな。真実を知ってたら、オレを捕まえてここへ連れて来たりできなかっただろうよ。あの両親にして、よくこんな息子が育ったものだ。」

 反論しようと口を開いたが、レオンハルトの方が早かった。

「オレはさ、ジーク。お前の両親は消えてなくなれと思っているけど、お前に会えたのはとても嬉しいよ。こういう形でなければ、それこそ、泣いて縋りついていたかも知れない。水の城で初めて会った時、すぐにわかったよ。自分と同じ血が流れているって。事情が事情だから、つんけんしてなきゃいけなかったけど、本当はいろいろ話をしたかった。今は、こうして面と向かって話ができる。しかし、兄弟って好みまで一緒なんだな。趣味が合うってのはいいもんだよ。それにさ」

「お前、私を騙したのか! ここへ連れて来させるためにわざと……!」

 ジークフリートが半狂乱で叫ぶ。話を逸らそうとしたのだが、遅かったようだ。レオンハルトの失敗だった。

「お互い様だろ?」

 仕方なく、開き直って見せる。

「ジーク。お前は、何も知らない。蚊帳の外だ。それでいいんだ。敢えて火の粉を被ろうとするな。」

「一体、何を企んでいる! 何をする気だ!」

 詰め寄るジークフリートの背後で、ドアがノックされた。

「お食事の準備ができましてございます。」

 ドアの向こうで従者の声がした。レオンハルトは勢いよく起き上がって、靴を履き直した。

「さあて、妖精の食べ物って何だろうな。花のサラダに、朝露のスープ、メインディッシュは虹のソテーかな?」

 ジークフリートの横をすり抜け、ドアを開け、鼻歌交じりに出て行く。ジークフリートはそんな兄の後姿をしばらく茫然と見送っていた。


 その頃、レオンハルトの仲間たち三人は、コテージのテーブルを囲んで、項垂れていた。彼が言い残した「関係ない」の一言が、頭上に重くのしかかり、離れない。

「結局、何だったのでしょうか、私たち。足手まといかも知れないとは思っていましたが、それ以下とは……」

 サラが夢も希望もないことを言ってしまう。アルディスもミーナも、返す言葉がなく、ただ黙っていた。と、サラがふいに顔を上げた。さっきからミーナがテーブルの上で何やら持っているのが目の端に映っていたのだが、それが思い当たりのあるものだと気付いたからである。

「ミーナさん、それ……!」

 アルディスも顔を上げて、見た。ミーナが大事そうに持っていたのは、レオンハルトの竜のペンダントだった。ミーナはちょっと照れ臭そうに言った。

「これ? ラエルから持っててくれって頼まれたの」

「頼まれたって、いつ……?」

 ミーナは頬をピンクに染めた。

「ん……と、昨夜よ。」

 つまり、こうだ。昨夜、レオンハルトとミーナはお互いの気持ちを確認し合い、口づけを交わした後、さて、コテージへ戻ろうと手を取り合ったわけだが、ふと、レオンハルトが足を止め、ミーナにこう言った。

「そうだ、ミーナ。頼みがあるんだ。」

 ミーナが、何?と尋ねるや、レオンハルトは懐から竜のペンダントを引きずり出し、ミーナの首にかけたのだった。

「これを持っていて欲しいんだ。」

「どうして? あんたの大事なお守りじゃないの。」

「ミーナが持っていてくれた方が、助かるんだよ。ミーナが守られているってことが、オレの強みになる。ミーナが幸せなら、オレも幸せってこと。わかるかな?」

 ミーナは大きな目をくりくりさせた。わかるような、わからないような……

「う……ん。あんたがそう言うなら。あたしが持っていればいいのね?」

「そう。普段は、いつもオレがしているように、服の中にしまっておくんだ。それで、何か困ったことがあったら取り出して、助けてって念じるんだ。」

「念じる?」

「そうだなあ。お願いする……お祈りするって感じかな。たぶんそれで通じると思う。」

「通じる?」

 レオンハルトは耳たぶを指先で掻きながら、苦笑する。

「いや、持っててくれるだけでいいよ。」

「もう、何なの?」

 ミーナは再び手を取られ、階段を上り、はっとしてペンダントを懐に入れた。それから、今の今まで、ペンダントのことは忘れていたのである。

 大まかな経緯を知ったサラとアルディスは、俄かに目を輝かせた。

「それ、ラエルさんからのメッセージですわ!」

「えっ、どういうこと?」

「あいつは、元々、妖精城へは一人で行くつもりだった。そして、敢えて捕まったふりをした。オレたちに被害が及ばぬよう、芝居を打ったのだ。」

 ミーナは口を尖らせた。

「じゃあ、やっぱり、あたしたちはいらないってことじゃないの」

 アルディスは首を振る。

「そうではない。だったら、お前にペンダントを渡したりするものか。あいつは、オレたちにそれを使って、迎えに来いと言っているのだ。」

 ミーナは驚いて、ペンダントを改めて見直した。

「そ、それじゃ、あたし、これに向かってお祈りしたらいいの?」

 アルディスは眉を顰めた。

「ふ……む。お前の祈りが本当に通じるものかどうか……」

「どういう意味よ? あたし、本職よ!」

 やいのやいのと言っているうち、不意に三人の脳裏に抑揚のない声が響いて、三人とも身を縮めた。

「喧しい。くだらない話をするな。」

 声の主を探して、部屋中を見回す。誰もいない。と、ミーナの手元、ペンダントから黒い煙が吹き出し、窓を背に具現化する。全身黒ずくめの、白い瞳の無表情な男。・・・固まる三人。

「わーっ!」

「ぎゃーっ!」

 銘々叫びながら、頭を押さえたり床を這ったり、ぐるぐる回ったりする。てんやわんやの三人を、男は冷たく見下ろして、今度は自前の口で毒づいた。

「馬鹿口を閉じて、椅子に座れ。二度と口が聞けないようにされたいか。」


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