第五章 千年前の物語(2)
十月一日
次の日の昼下がり、サルナバに到着した一行は、アルテイシアなる占い師がいる「占いの館」へ向かった。サラはアルディスから話を聞いて、少し安心し、後はもうどうとでもなれ、という気になっていた。アルテイシアとは、父娘共々親交があり、今回の旅の助言だって彼女がしてくれたのだ。父の死は言わずと彼女に知れており、そのことについて、レオンハルトの前で言及されたとしても、もはや自分の力ではどうにもできない。その時はその時と覚悟を決めたのだった。
「占いの館はその角を曲がって左なんです。」
馬車を操っているミーナに窓から顔を出し指示を与えるサラ。レオンハルトが問う。
「サラも行ったことがあるんだ。何を占ってもらったんだ?」
サラは真面目に答えた。
「人探しです。」
「人探し?」
まさか自分のことだとは思いもしない。サラはもう一つ付け加えた。
「実は、アルテイシアさんとは、古い知り合いなのです。人探しに当たって、頼りました。」
「へえ、世間は狭いなあ。知り合いなんだ。で、その人は見つかったのか?」
「はい。お陰様で見つかりました。」
「そっか。やっぱり、失せ物探しピカイチの噂は本当だったんだな。」
レオンハルトが嬉しそうに口元を綻ばせる。黒い瞳は窺うように見つめている。
「占いの館」に到着して、一行は馬車を降り、建物を見上げた。二階建ての、古びて黒ずんだ石造り。窓には黒いカーテンがかかっており、中を窺い知ることができない。唐草模様の黒い鉄製の柵に囲まれていて、入り口まで十段程の階段が伸びている。丁度曇ってきたことも手伝って、暗くて気味の悪い印象を抱かざるおえない。屋根に烏が止まっている。あまりにこの建物に似合っているので、据え付けのアクセサリーかと思った程だ。「占いの館」というより、「魔女の館」といった風情だった。
階段を昇り、ドアのノッカー(牙を剥いた怪獣の頭部の形をしている。やはり黒い)を二度叩く。返事はない。もう一度ノックしようとした時、ドアが五センチくらい開いて、中から若い女性が顔を覗かせた。
「今日は、お休みなのですが……あら、サラさん?」
サラの姿を認めると、女性はドアを大きく開き、笑顔を見せた。二十代後半か、三十代前半の、色白で痩せ型。紫のフードを被り、額に赤い宝石のついた金のサークレットが光っている。指にも腕にも首にも同様の飾りを身に付けている。紫のアイシャドウに、真紅の口紅が不思議と濃く見えず、彼女に良く似合っていた。占い師のイメージと寸分違わぬ容貌であった。
「サラさんのお友達とあらば、お通ししないわけにはいきませんね。」
女性が恭しく、一行を館の中へ招き入れる。黒いカーテンで窓を塞がれた部屋は暗く、蝋燭の火がところどころ揺れているが、照明の用をなさず、占い師の宝飾同様、この館の雰囲気を盛り立てる飾りに過ぎなかった。奥には金の燭台が両サイドに立っているテーブルがある。こちらの蝋燭は大きく、炎が眩しい。手前に椅子が二つあり、
「どうぞ。」
と、誰にいうともなく、勧めるので、ひとまずサラとミーナが腰かけ、後ろに男二人が立つことになる。向かい側に占い師が腰かける。テーブルの真ん中には、紫のクッションの上で大きな水晶玉が一点の曇りもなく磨き上げられて、鎮座していた。
「さて、何を占いましょうか?」
紫のマニキュアに彩られた長い爪が水晶玉の上にすっと伸び、球面すれすれを撫でるように動く。
「では、まず、こちら、ミーナさんの恋愛運を……」
「ええっ?」
何故、そんなことを口走ったのか、サラにもよく分からない。沈黙が怖かったのと、皆をからかってやりたくなったのと、両方なのだが、恋愛運とは、またベタな発想をしてしまったものだ。
占い師は意味深に微笑み、水晶玉に翳した手に意識を集中させた。と、無色透明な玉の中に、ピンク色の靄が浮かび上がった。その現象を皆、つぶさに観察する。占い師はくすくす笑っている。
「言ってもいいのかしら?」
頬を赤くして、手をもじもじさせていたミーナは突然の問いに対し、あからさまに動揺した。
「何? 何? 言ってよ、何なの?」
「あなたの恋愛は、既に成就しているわ。出会った瞬間に。運命的、いえ、必然的と言ってもいいわね。この先もその絆は絶えることがない。ただ……」
「ただ?」
身を乗り出すミーナに、なおも笑いかける。
「あなたに好意を抱く別の男性が現れる。あなたの心は揺るがないわ。でも、相手の人は、身を引こうとするかもしれない。とても繊細で優しい心の持ち主なの。あなたは自分の信念に従って行動するといいわ。すると、自然に問題は解決される。」
「へえー。そうなの? そうなんだあ……。」
何だか、良く分からないが、取り敢えず悪いことは言ってないみたいだ、と一安心のミーナだった。そして、ふと、気になったことを聞いてみる。
「ねえ。あたし、お兄ちゃんがいるんだけど、今、どの辺にいるのかしら? 元気でいる? しばらく会ってないから心配なの。」
レオンハルトはちょっとドギマギして彼女のつむじを見つめた。今、直ちに会いに行くと言われたら、困るような気がした。
「あなたのお兄さんは、魔法を使う人ね?」
「えっ? う、うん。そうよ。よく分かるわね?」
「それも、なかなか手強い魔法使いね……」
「そんなこともわかっちゃうの? 凄い!」
大きな目をきらきらさせて、恋愛話より上気している。占い師はため息を吐いて、首を振った。
「探知されないよう、妨害の魔法をかけているわ。凄い人ね。何か大事な使命を帯びているんでしょう? そうとしか考えられないわ。とにかく、お兄さんの居場所も、健康状態も調べることはできないようね。残念だけど。」
「そう……」
がっかりするミーナの気を紛らわすように、今度はレオンハルトが占いを依頼する。
「次は、オレのこと、占ってもらえないか?」
声を聴いて、初めて男性と認識した占い師は、緑色の瞳をまじまじと見つめ、それからすぐに親しげな笑みに戻った。
「はい。いいですよ。では、ミーナさんと代わってもらいましょう。」
ミーナと入れ替わったレオンハルトは、水晶球の中心をじっくり見、次いで占い師の方に視線を移した。見られた占い師は、何やら違和感を覚えて、一瞬真顔になったが、元通りの笑顔を慌てて作り直し、水晶球に手を翳した。
「何を占いますか?」
「オレは、どこから来て、どこへ向かっているのか。」
闇の城云々の話と予測していた一行は、思いがけない質問に目を見張った。占い師もきょとんとして彼の問いを反芻させた。まるで人類永遠の謎を解いて見せろと挑戦状を叩きつけられたみたいだった。手をぎこちなく動かしながら、彼女は占いを始めた。
「……?」
占い師の細い眉が歪む。
「これは、一体、どういう……? 何も見えない。あなたは……?」
混乱する彼女の背後から、しわがれた声がする。
「無駄だよ、シンシア。そのお方の心を覗こうとしても。透明なのだからね。言っておいたじゃないか。今日、いらっしゃるのだと。」
声の主を振り返り、驚きの表情でレオンハルトをもう一度よく見る。
「それでは、あなたが……?」
彼女の脇から現れた、一つの影。濃い灰色のフードを被った顔は、声同様、しわがれて、くすんだ色をしていた。重たく腫れぼったい瞼に負けない、力のこもった目つきをしているが、白目は黄ばんで黒目も濁っている。尖って長い鼻の付け根にはいぼがあり、薄い唇には艶がなく、色もない。やにの染み付いた歯は、ところどころ抜けている。飾り物は一つも身に付けていない。若い占い師とはフードを被っていること以外共通点を見出せない。この人物を見て、誰もが「お婆さん」と思わず、真っ先に「魔女だ、魔女が現れた」と身構える始末だった。一人の例外を除いて。
「アルテイシアさん!」
サラが老婆に向かって親しげな笑みを浮かべ、呼びかける。老婆が答える。
「サラ、よく来たね。元気そうで何よりだ。」
そして、レオンハルトを見て、にやりと笑った。
「ようこそいらっしゃいました。レオンハルト様。あなた様のお越しをお待ち申し上げておりました。」
老婆を初めて見た者は、ポカンと口を開けた。こっちがアルテイシア? 名前に似合わない、しわくちゃの魔女みたいな、魔女にしか見えないお婆さんじゃないか。
「シンシア。お客様にお茶をお出ししておくれ。」
老婆に命じられたシンシアという若い占い師は、ドアの向こうへ消えていった。
「あの子は私の弟子でしてね。占いの腕は保証いたしますが、何分、まだ若いもので、気が利かないところがございます。ご容赦くださいませ。」
老婆の話をおぼろげに聞きながら、一行は彼女の住居である二階の室内をちらちら観察した。年季の入ったオイルランプが部屋中を黄昏色に照らしている。スプリングが軋むソファには緑色のサテン生地が張られていて、座面は白っぽく剥げてしまっている。円いローテーブルもブラウンのニスがところどころ剥げていた。陶器の壺や銅の小振りな女性像など、様々な調度品がそこかしこに飾られていたが、どれも長い年月が蓄積した跡が漏れなく見受けられた。持ち主と同じように。
「さて、レオンハルト様。まずは、あなた様の疑問を解決させていただきましょう。」
老婆の申し出に、レオンハルトは掌を向ける。
「ちょっと、待った。さっきから気になってたんだけど、その、レオンハルト様って呼び方、止めてもらえないか? 何ていうか、実情にそぐわない。」
名前そのものを縮めてレオンと呼ばれるのが一番だが、旅の仲間のようにラエルと呼ばれたって構わない。王子が付帯するのは、まあ、王様の子どもということで仕方ない。「さん」付けも、サラのようなお嬢様なら、単に丁寧な言葉遣いの延長だから、良しとしよう。しかし、「レオンハルト様」と、名前に様がつくのは少々行き過ぎだ。まるで自分個人が偉くなった響きがある。とても息苦しい呼ばれ方だった。老婆は黄ばんだ歯を見せて笑う。
「いいえ。それはできません。あなた様をその辺の王子と一緒くたにするわけには参りません。無理な相談というものでございます。あなた様は、私にとっても、この世界にとっても、特別な存在であらせられるのです。いわば、至上のお方です。そのお方に向かって、気安く王子だの○○さんだのとお呼びできるわけがございません。」
王子が気安いだって? レオンハルトは耳を疑った。そして、重圧に押しつぶされそうになる。至上のお方? 冗談じゃない。話を逸らすかのように、老婆は言った。
「先程のお話に戻らせていただきましょう。レオンハルト様は、私に質問をお持ちになっていらっしゃいますね。そちらにお答えしたいと思います。」
その提案に、今度は素直に従って、質問しようとしたが、老婆は間髪入れず、話を続けた。
「闇の城は既にございません。五百年ばかり前でしょうか。魔物や人間の賊から結晶を守るために、在処を特定する城を廃してしまったのです。そして、結晶は、粉々に砕いてサルナバのある地点の土壌に混ぜ込んで、隠してあります。強力な呪術をかけておりますので、仮に見つけたとしても、採取するのは難しゅうございます。他の鉱物と選り分けるには闇の一族の力が不可欠ですし、闇の一族はほとんど残っておりません。」
質問も必要ないのか、この人は?と目を丸くしながら、心のどこかで、同じ話を以前聞いたような気がしていた。そして、その時と同じ問いを、老婆に投げかける。
「ある地点とは、どこにあるんだろう。闇の一族はどこにいるのか、分かるだろうか?」
老婆は、今までの不敵な笑みにほんの少し苦悶の色を加えて答えた。
「探す必要はございません。」
瞼を瞬かせる一行の前に、シンシアが茶器の乗った盆を携えてやってきた。老婆は、シンシアに制止するよう尖った顎で指示し、レオンハルトに向き直って言った。
「レオンハルト様。この盆の真ん中に、蓋のついた小さな壺がございますね。」
見ると、確かに陶器でできた蓋付きの小壺がある。蓋の縁は丸く欠けていて、そこからスプーンの柄が突き出している。砂糖壺だと誰もが思った。
「中に何が入っていると思われますか?」
レオンハルトは、思ったままを答えた。
「砂糖じゃないか?」
老婆は口の端を吊り上げる。
「どんな砂糖でございましょう?」
質問の意図も分からず、レオンハルトはもう一度砂糖壺に目をやり、軽く頷いて老婆に言った。
「ざらめだね。薄茶色の漂白してないやつ。」
仲間たちとシンシアの視線が、レオンハルトへ一斉に注がれる。老婆の質問は尚も続く。
「どのくらい入っていましょうか?」
どうして当たり前のことばかり聞くのかと首を傾げるレオンハルト。
「ぎゅうぎゅうに入ってる。スプーンを抜いた拍子に零れそうなくらい。」
シンシアはちょっと困った顔になった。その彼女に老婆は目で合図して、盆ごとテーブルに置かせた。老婆の細い節くれだった指が、小壺の蓋を摘み上げ、中身が露わとなる。無漂白のざらめが、満々と納められており、老婆がスプーンを持ち上げると、レオンハルトが案じたとおり、ざらめはばらばらと盆の上に零れ落ちた。
「す、すみません。」
シンシアが肩を窄める。老婆は表情を変えることなく言った。
「水晶玉がないと、先を読むことができない未熟者でして。ご容赦くださいませ。」
シンシアがカップに茶を注ぐ間、老婆は事の真相を説明し始めた。
「さて、レオンハルト様。お気づきになられましたか?」
問われて首を再び傾げる。
「何が?」
「気づきませぬか。致し方ありませんね。それがあなた様の特性であり、重要な素質とも言えるのですから。」
老婆の言わんとするところが理解できず、瞼をただ瞬かせる。
「レオンハルト様。壺の中身が何故、無漂白のざらめで、溢れる程入っているとお分かりで?」
「いや、だって、それは見たままを答えただけで、何も特別なことなんか……」
仲間たちの彼を見る目が大きく開かれる。
「レオンハルト様。壺には蓋がされていたのです。目視で中身を知ることは普通できません。あなた様がその目でご覧になられたと仰るならば、特別なことが起こった証拠です。即ち、闇の力が発動されたのです。闇のセンスをあなた様は既にお持ちになられている。言い換えるなら、闇の結晶はあなた様の中にもうあるわけです。私が先程探す必要はないと申し上げたのは、そういう理由からでございます。」
レオンハルトは愕然としてソファに凭れ掛かった。老婆の話は続く。
「レオンハルト様は、私の誘導尋問にまんまと引っかかったのです。お茶の道具で蓋付きの小壺、しかもスプーンの柄が見えているとあらば、大抵砂糖壺に決まっております。あなた様はそれで、油断なされた。私の最初の質問に、イメージの通りを答えられましたね。そして、次の質問もイメージでお答えになるつもりだった。けれど、その時、闇の力が無意識に発動され、あなた様の視覚に、壺の中の情報を伝えたのです。ところで、レオンハルト様。あのポットの中には今、どれくらいお茶が残っていましょうか?」
急に言われて狼狽しつつ、シンシアが持っているポットに目を凝らす。
「……分からない。」
「そう。闇の力は意識的に使うのがとても難しいものなのです。ですが、慣れれば日常的に使うことも可能です。魔物や動物の言葉を聞き分けられるように。」
土の城で、ゴーレムの言葉が分かったのは、闇の力のお蔭というわけだ。しかし?
「レオンハルト様は、幼少の頃より、動物の言葉を理解なさっておられましたね? 即ち、あなた様は生まれつき闇の力が備わっておいでだったのです。闇の力ばかりではございません。火・水・土・風・時、そしてもちろん光も、全ての力を有してあなた様はこの世に生を受けられたのです。ただ、シザウィーという特殊な環境でお育ちになられたため、力の殆どを抑制されていらっしゃいました。表向きは、です。内に秘めたる力は着実に成長なさっておられます。ですから、普段使いの闇の力、光の力は、知らず知らずのうちに使っていらっしゃいましたでしょう? 耳が音を聞き分け、人語を介するように、動物の言葉を介し、目が物をみて材質・色・光を見分けるように、砂糖壺の中身を見分けることができる。人や物のオーラを見、不可視光線を発して人の心を捉えることができる。あなた様にとってはとても自然な感覚で、シザウィーで視覚・聴覚が損なわれないように、その感覚が抑えられることはないのです。……さて、それでは、何故、とお思いでしょう。何のために苦労して結晶探しなどせねばならないのか、と。」
彼女に質問は必要ない。一行は頷いて続きを待つ。
「本来なら、結晶などなくとも、良かったのです。レオンハルト様がシザウィー以外の場所にお育ちなら、或は、世界が危機に瀕していなければ、それとも、八年前、あなた様に何も起こっていなければ……。どれも、仮定の話です。現実に、あなた様はシザウィーで育てられることになり、世界は破滅の一途を辿っている。八年前の事件も起きてしまった。物事は起こるべくして起きるもの。誰にも過去を変えることはできないのです。ですが、その、話しても仕方のない仮定でもって敢えて説明させていただきましょう。シザウィー以外の場所でお育ちだったとすると、恐らく十五歳頃には全ての部族の力をマスターされておられたはず。そういう血なのです。世界の危機が、もっと遠い未来であったなら、慌てて魔法を習得することもありません。自然に任せてゆっくりと内に秘めたる力を解放してゆけば良いのです。そして、八年前、事件が起こっていなければ、あなた様は魔法とか部族の力とか言うものに全く縁のない一人のシザウィー人として幸せに生きていけた筈でございます。」
八年前の事件、とレオンハルトは反芻した。考えたこともなかったが、言われてみると、確かにあの事件さえ起こらなかったら、自分の人生は随分と変わっていたのかもしれない。しかし、彼女が言うように、物事は起こるべくして起きるものなのだ。過去を嘆いていても仕方がない。それにしても、自分が殺されかけ、代わりに多くの命が一瞬で、しかも無残に散ったあの事件が、この場合どんな関係があるというのか? 今は見当もつかない。
「事は急を要しております。あなた様は来年の誕生日までに魔法を、部族の力をマスターしなければなりません。十五年分の時間を短縮させるのでございます。いかに、あなた様の才能があらたかと申しましても、一年で完璧に覚えるのはさすがに無理というものです。魔力はもう充分ですが、それだけではいけません。しっかりとコントロールできなければ、魔法はただの災害です。完璧に一年でマスターしていただかねばならないわけでございます。そこで、結晶の出番です。結晶は、いわば鍵なのです。あなた様の中に隠された魔法のセンスの扉を開き、解放する役目を、偶然にも担うことができる性質を有していたのでございます。今は、まだ、しっくりとこないでしょうが、全ての結晶を見つける頃には、呼吸するも同然に魔法を使いこなせるようになっておられるはずです。」
「それで、オレはもう、闇の結晶を手に入れている。」
アルテイシアの目は微動だにしない。
「その通りでございます。」
「一体いつの間に……?」
独り言みたいに呟く。答えが返って来るとは思いもせず。意に反して、すんなりと返ってきた。誰も望まぬ答えだった。
「そのことに関して、私は、レオンハルト様に、強いてはサラに申し訳のないことをしてしまいました。どんなに謝っても済まされません。ですが、大義のために必要なことだったのです。」
ただならぬ前置きに、冷や汗が滲む。
「レオンハルト様を騙したのは、今日が初めてではございません。昨年の夏、あなた様がこちらへ来られた時のことです。その時もやはり、闇の城と結晶の在処についてお尋ねでいらっしゃいました。先程申しましたように、闇の城は既になく、結晶は粉々の状態である地点の土に混ぜ込まれておりました。レオンハルト様にある地点とはどこかと詰め寄られ、私は悩みました。土には強力な呪術がかけられているのです。レオンハルト様の体質が、魔法に対していかに強いと言っても、成人なされる前故、万が一ということもございます。さすれば、千年に一度の奇跡、大切な救世主を全世界が失うことになりかねません。そのような危険は断固回避すべきでございます。許されない行為と知りつつも、私はレオンハルト様に策を講じることにいたしました。レオンハルト様の特性を利用したのです。即ち」
言い淀む老婆を、責めるように見つめる一同。
「即ち、暗示にかかりやすい特性を、ということです。あなた様は、感受性がとても豊かでいらっしゃる。そのためか、異様なほど暗示にかかりやすいのでございます。穿ったものの見方ができず、人の言うことに裏があるとは思わないで、素直に受け入れてしまう。言い換えるなら、誰の言葉でも真に受けてしまうのです。」
レオンハルトは、隣に座っているミーナにちらっと目をやった。視線を感じたミーナは、何?と睨み返してくる。彼は思った。彼女よりもか?と。軽く咳払いして老婆に訴える。
「それについては、薄々気付いてはいた。でも、ここ数年で随分変わったと思うけど?」
別に、純情な少年と烙印を押されたことに対して反発したいわけではなかったが、隣に座る永遠の少女と比べると、自分の純情さなど実に陳腐で申し訳ない代物に思えた。マイナス思考でもあるし、大人の嘘も、周囲に撒き散らかしながら生きてきた。元来穿ったものの見方しかできない性質なのだ。しかし、老婆は言う。
「いいえ。あなた様は少しも変ってなどいらっしゃいません。闇の結晶を手に入れた、そのことが証明です。正直申しまして、あなた様の暗示のかかりやすさが、どれ程のものか、存じ上げませんで、私の企みは一つの賭けでございました。そして、賭けは成功いたしました。成功してしまいました。専門的知識のない私でも一度で簡単に成功してしまう程、あなた様の心は清らかでいらっしゃったのです。私は死ぬまで己を責め続けることでしょう。よりにもよって、あなた様を罠に嵌めることになるなど、思ってもみませんでした。」
一同、静かに話の続きを待った。新米占い師の淹れた紅茶は手つかずのまま、湯気も立たなくなっていた。
「私はまず、あなた様に闇の結晶が隠されている地点を正確にお教えしました。そして、闇の力で選り分け、一つ所に集めなければ元の性質を得られないことも。呪術の件は黙っていました。余計な情報を与えて暗示がうまくいかなくなると困ります故。次に、私は机の上を一定のリズムで小突きました。催眠状態を促す作用があると書物で読んだことがありました。このような行為をするのは、もちろん初めてのことでございます。レオンハルト様が果たして、素人の催眠術などに易々とかかるものだろうかと不安になった私は、ひとまずレオンハルト様ご本人で試しというか練習をさせていただくことにいたしました。古典的な文句を恐る恐る口に出して言いました。『あなたの瞼は重くなる』すると、レオンハルト様の目はゆっくりと閉じられました。『あなたは段々眠くなる』と申しますと、肩の力が抜け、俯いて、本当に眠ってしまったように安らかな息を立て始めました。レオンハルト様が演技していらっしゃるとは思いませんが、念のため、本当に催眠状態に入っているのか確認する必要がございました。私は、そこの戸棚から裁縫箱を取り出し、中から一本、待ち針を抜きました。それをレオンハルト様に持たせ、私の中指の腹に刺すよう申しました。レオンハルト様はうっすらと目を開き、テーブルの上に置かれた私の掌から中指の腹を目がけて、躊躇なく針を突き刺しました。終始レオンハルト様の表情は虚ろで揺らぐことはございませんでした。これで、レオンハルト様が催眠状態に落ちていることを確信できました。レオンハルト様の性格的に、人を傷つける行為をすんなりとやってのけるなど、催眠状態でもなければ不可能でございますから。さて、私は本題に移らせていただきました。まず、セドリク・ドッペルンの屋敷を訪問するよう申しました。そして、彼と他愛もない世間話をしながら、闇の結晶が隠されている地点と、闇の一族の力が必要なこと、それからレオンハルト様がご自分で結晶を採取するつもりであることを、無意識のうちに思い出すよう暗示いたしました。既にお分かりでしょうが、彼は闇の一族の末裔でございますから、口から言葉を発さずとも、心に思い描くだけで情報を伝えることができます。レオンハルト様が少しでも罪悪感を抱かずに済む方法なのでございます。セドリクとは彼が赤ん坊の頃からの付き合いです。彼の性格は良く存じております。闇の一族としての使命を必ずや全うしてくれるものと信じておりました。他ならぬレオンハルト様のためと思えば、それもひとしおであったことでしょう。申し上げにくい話ですが、実は、私にも闇の血が僅かばかり流れております。本来ならば、まだまだ若いセドリクよりも、老い先短い私がなすべきことであったかもしれません。しかし、私には、過去を見るものとして、最後にやり遂げなければならないことがあるのです。それが終わるまで、死ぬわけには参りません。セドリクも分かってくれたことでしょう。むしろ、レオンハルト様が結晶を受ける資格者、部族を統べるお方と知って、喜んだに違いありません。」
ガタガタと音を立て、サラが部屋を飛び出す。嗚咽が漏れないよう、口を手でしっかり押さえて。その後ろ姿を振り返りつつ、横で固まっているレオンハルトに、ミーナが小声で質問する。
「ねえ、セドリクさんって誰? サラの知り合い?」
レオンハルトは嫌々答えた。
「サラのお父さんだよ。」
「お父さん? え? だって、昨日、用事で出掛けてるって、サラが……」
「オレが会いに行くって言ってたから、咄嗟に口から出ちゃったんだろう?」
思いの外冷静なレオンハルトに、怪訝な眼差しを向けるミーナ。
「あんた、よく平気ね。サラのお父さん、呪術のせいで、死んじゃったかもしれないのよ! ううん、サラの感じからして、絶対死んでるわ!」
食って掛かる聖女の肩を、アルディスが抑える。レオンハルトは何も言えず、困った顔をするばかりだった。アルテイシアが声を上げる。
「レオンハルト様を責めないでくだされ。あの時、ここを出たら、私のことも闇の結晶のことも忘れるよう暗示をかけました。素人の私がすることを、精神科医のセドリクがしないわけがございません。即ち、彼も自分のことを忘れるよう、暗示をかけたのでございましょう。レオンハルト様は、何も覚えていない。そのように仕向けたのでございます。」
「そうなの? 何も覚えてないの?」
空色の円い瞳が目に染みる。
「……全然ってわけではないんだ。アルテイシアの話を聞いていると、そういうことがあったような気はする。でも、まるで他人事みたいに聞こえてくるんだ。」
素直に告白するレオンハルトに、老婆が言う。
「それが、暗示というものです。そうでなくては、いけません。暗示が簡単に解けて、思い出されては困ります。」
「どうして? 思い出して何がいけないの?」
アルテイシアはミーナが目に入らないという風にレオンハルトに向かって答えた。
「それは、レオンハルト様ご本人が、自らに強力な暗示をかけていらっしゃるからです。とても不安定で危険な暗示です。」
「危険?」
老婆は濁った眼を精一杯開いて頷いた。
「危険です。あなた様は覚えていらっしゃらないでしょう。十二歳の時、ある人物に出会い、鏡に向かって誓いを立てたことを。その誓いは知らず知らずのうちに強力な自己暗示となり、あなた様の命を脅かす呪いにも似た力を孕んでいるのです。その暗示は、あなた様にしか解けない、けれど、あなた様が解くことは一生ないでしょう。ある人物とは、あなた様を狙う暗殺者でしたが、あなた様は彼を返り討ちにする気はさらさらなかった。ですが、その当時、あなた様は人を殺さないですむ方法が思いつきもしない状況でしたから、人を殺さないという誓いを立てることはできませんでした。その代り、このように誓いました。人を殺したら、自分も死んでしまおう、と。」
誰かの喉が、ゴクリと鳴った。
「シンプルと言えば聞こえは良いのですが、あまりにも範囲が広く、不確定な暗示でした。暗示が発動される条件の設定がないに等しいのです。せめて、その人物を、と限定していただければ宜しかったのですが、人を、と仰いました。どんな凶悪な者が襲いかかって来て身を守るために殺さなければならなかったのだとしても、人は人。あなた様は死ななければなりません。また、暗示の掛かりやすいあなた様のこと。人殺しと強く言われるだけで本当に人を手にかけたと思い込み、自殺してしまいかねないのです。もっと恐ろしい確率の高い事象は、夢です。夢の中で人を殺したとしましょう。すると、あなた様は目覚めてから何とはなしに自殺を図るのです。あなた様は夢で死んでしまうことになります。これが呪いでなくて、何でございましょう。」
「それは……今でも有効な暗示なのか?」
勇気を振り絞って聞いてみる。老婆はまたも頷いた。
「はい。今、現在も継続中でございます。あなた様に暗示を解く気が全くない以上、仕方がありません。実は、過去にあなた様は何度も自殺未遂をなさっておられます。無意識の出来事なので、単なる事故とお思いでしょうが、暗示によるものです。死なずに済んだのは、暗示の不確定さのお蔭とも言えましょう。確実に、とまでは念じられなかったことが、あなた様を生かしている次第でございます。」
いても立っても居られず、ミーナはレオンハルトの袖を引っ張って訴えた。
「ねえ、そんな危ない暗示、解いてしまいなさいよ。今、ここで! あそこに鏡があるから。」
彼女の指さす方に古風な装飾が施された楕円形の鏡が壁に掛けられてあった。レオンハルトは、鏡をちらりと見て、俯いた。
「できないよ。」
「できないって、何で?」
「分からないけど、できないと思うんだ。」
想像しただけで虫唾が走った。
「それが、暗示というものなのでございます。」
老婆が魔法を唱えるように繰り返す。レオンハルトは項垂れて、脂汗を滲ませるしかなかった。
レオンハルトがまだ五歳だった時のこと。家庭教師がついて、様々な書物を与えられ、馬鹿正直に全部読んでしまい、高熱が出て倒れてしまった。
夢うつつの少年の目に移り込む、一人の紳士。やせて凹んだ頬を隠すように生えている髭。品よく整えられた短い黒髪。眼鏡の奥で微笑んでいる、黒い瞳。五歳なりに色々な人と出会ってきたが、ここまでの黒髪、黒い瞳の人に会うのは初めてだった。
「初めまして。レオンハルト王子。私は精神科医のセドリク・ゲオリク・ドッペルンと申します。」
子ども相手に随分礼儀正しい人だと思った。彼は王子様だったが、城の者は気さくな性格の人が多かったから、丁寧な言葉遣いが新鮮だった。
「私は、実は人の心が読めます。魔法ではありませんから、ご安心を。王子の心を治療のために呼んでも宜しいですか?」
人の心が読める、という意味が、イマイチ良く分からなかったが、少年は快く承諾した。医師の微笑みが消えて、澄ました感じになったかと思うと、はっと目を見開いて、感心したように頷いて……心を読まれている間、少年は医師のころころ変わる表情をじっと見ていた。
「これは驚きました。これほど透明な心は今まで見たことがございません。同時に、あなたの心は様々な情報が交錯していて、混とんとなさっておられる。制御しきれていないようです。情報を整理できるまで、読書は禁止です。宜しいですね?」
少年は素直に従った。二、三日して熱が引き、少年の頭の中で情報処理が進んだ頃、医師はいくつかの書物を渡して言った。
「あなたは一度見聞きしたものを全て覚えてしまいますし、忘れることもできない体質のようです。ですが、脳はまだ未発達で、一度に大量の情報が入って来ても処理しきれないのです。これからは本は一日一冊までとし、三日に一度は読まない日をお作りください。半年たったら、また読む量を調節しましょう。」
こうして、医師は半年おきに会いに来てくれた。もっと短い間隔で来ることもあった。自分より三つ年上の娘がいて、妻は既に彼岸の人と聞いていたから、少年は彼の娘が独りで留守番している様を思い浮かべ、心配と申し訳ない気持ちで一杯になった。医師は穏やかに笑って、もう来なくて良いと言う少年の手を取った。
「私はあなたに会いたくて来ているのです。娘とは一日二十四時間、一年三百六十日程一緒にいられますが、あなたとは一日数時間、一年五日くらいしか会えないのです。娘だって気の毒がってくれるはずです。」
彼の論理はよく分からなかったが、好意を寄せてくれているのは嬉しい限りだった。
十一歳の、あの事件が起こった後で彼と会うのは辛かった。けれど、医師はありのままを受け入れ、
「あなたの心は透明なまま、何も変わっていません。」
と言ってくれた。その後も医師はしばしばやって来ては、他愛もない話をして帰って行った。その中で、両親の王、妃の話題は一度も持ち上がらなかったのは、彼の優しさだったのだろうか? アルキース・ブレイズマンから両親の病を知らされた時はショックだった。ドッペルン医師が教えてくれなかったことも。彼なりの考えがあってのことだと、理解して飲み込んだ。それからも色々あったが、彼との付き合いは何も変わらなかった。去年までは。
闇の結晶のことでアルテイシアの元を訪れ、暗示をかけられた。その足でドッペルン医師の自宅へ向かった。もともと、サルナバに来たからには、会いに行こうと思っていた。いつも会いに来てもらってばかりだったから、たまにはこちらから行きたいと常々考えていたのだ。まさか、今生の別れになるとも知らずに。
夜が更けて、酷い土砂降りの中、ドアをノックする。少し間を置いて、ドアが開けられ、若い娘が緊張の面持ちで立っていた。黒髪に黒い瞳。ドッペルン医師の娘とすぐ分かった。そして、彼女も人の心が読めると知っていたから、咄嗟に警戒してしまった。自分の心にある使命を読まれては困るのだ。自分が誰かということも知られてはならない。それで、マスクだけは外さないでおいた。
医師の自室へ通され、席について開口一番、医師は言った。
「何故正体を隠す必要が? 私の娘なら大丈夫です。」
レオンハルトは困惑した。
「すみません。ですが、今、私の心の中にあるものを読むと、娘さんに危害が及ぶような気がして……それに、私のことを知っていると、何か悪いことに巻き込んでしまうのではないかと……」
医師はびっくりして、彼を見た。
「一体、あなたの中にどんな情報があって、どんな悪いことが起きているというのですか?」
レオンハルトは第一に、彼に隠し事をしても無駄なこと、第二に勝手な思い込みではあるが、彼が部族云々と無関係な精神科医であることを理由に、事の経緯を素直に話した。手助けやアドバイスが欲しかったわけではない。ただ、心を読まれるより先に、自分の口から言いたかったし、自分の身に何かあった時、事情を知る者がこの世に一人くらいいたって良いのではないか、そして、それは今のところドッペルン医師をおいて他にないと彼は思ったのだった。闇の結晶に関する情報は、アルテイシアの暗示にまんまとかかって記憶からそぎ落とされ、従って、医師に話して聞かせることはなかった。しかし、時折、断片的に脳裏をよぎる思考、今話している内容と脈略のない、身に覚えのない思考が、口の動きを鈍らせた。
「どうかなさいましたか?」
こめかみに指を当てて言葉を途切れさせたレオンハルトを、医師は心配そうに見つめた。
「いえ……ちょっと、さっきから、話していることと違うものが頭に浮かんで……おかしいですよね。」
それまで、レオンハルトの口から出てくるただならぬ話を耳から聞くことに集中していたドッペルン医師であったが、ここでようやく、彼の思考を直接読み取り始める。特に、異常は見られない。
「続きを聞かせてください。」
医師に促され、レオンハルトが話を再開する。その間、医師はエメラルドの瞳の向こう側に映る映像に目を凝らす。話の道筋に沿った連続した映像に一瞬、ノイズが混じる。サブリミナル効果のように短い映像。それが次第に長く、はっきりしたものになり、断続的にレオンハルトの思考を侵していく。堪らず、レオンハルトは黙り込み、邪魔な映像を振り払おうとするように、頭を振った。ドッペルン医師は、驚愕のあまり、総毛立ってしまった。レオンハルトの脳に埋め込まれていたものは、アルテイシアから自分に差し出されたメッセージ。大義のために死ね、と彼女は言っている!
全く、何てババァだ。医師は苦笑した。直接言いに来れば良いものを、よりにもよってこの子を通して語るか、死にぞこないめ……! しかし、まさか本当に結晶を受ける資格者がこの世に現れようとは。単なる伝説ではなかったのか。そして、この子と巡り合ったのも偶然ではなかったというわけだ。世界の命運も、部族の生き残りとしての使命も、今更どうでもいいが、透明な心の持ち主のためならば、仕方あるまい。
「王子、瞼が重いのではありませんか?」
医師は万年筆で机を小突き始めた。
「はい、実はそうなんです。」
若者はあっさりと認める。
「では、瞼を閉じてしまいましょう。」
医師の誘導に従い、瞼を閉じる。
「もう、眠ったも同然ですね。」
若者は無言で頷く。あまりのかかりの良さに、医師はしばし絶句した。何と危険な体質なのだろうと思う。死ねと言われたら、本当に自殺しかねない。催眠術で自殺することはないと言われてはいるが、この子の場合は……。恐ろしいのは彼の思い込み。言い換えるなら、自己暗示だ。子供の頃、彼は風や石や花が言葉を話すと思い込み、軽い幻聴があったし、殺し屋に襲われた後になるとその傾向は一層強まり、毎日口のない物質や自然現象に脅され、怯えて生きていたことを医師は知っていた。統合失調症に酷似した、脳の誤作動だった。秘かに、催眠術による治癒を試みたこともあったが、その時は上手く行かなった。どういうわけか、強力なシールドが掛けられていたのだ。誰が、何の目的でどのようにしてかけたかは分からない。一つだけ確かなことは、自分の技術、能力では太刀打ちできないということ。ところが、今はこうも容易く術に落とすことができる。アルテイシアがシールドを解いたのか、年月の経過で自然に消滅したのか……いずれにしても、なすべきことがあらかじめ決められていたわけだ。
「王子、アルテイシアに会いましたね。」
「……はい。」
弱弱しく答える。
「彼女に闇の結晶のことを聞きましたか?」
「……はい。」
「でも、忘れるように言われたのですね。」
「……はい。」
医師は顎髭を二回程扱くようにして、少し考えた。
「では、次に目が覚めた時、頭に思い浮かべるのはやめましょう。あなたはアルテイシアに会っていないし、闇の結晶のことも知りません。いいですね。」
無言で頷く。
「私が手を一つ叩いたら、あなたは目を覚まします。スッキリとした気持ちで目を覚ましましょう。」
医師が手をパチンと打ち鳴らすと同時に、レオンハルトのエメラルドの瞳が開かれる。
「……あれ? 今、何の話をしていましたっけ?」
「さて、何でしたか……」
医師はにやにや笑った。
「でも……何だか……何だかとても……」
もじもじするレオンハルトを、一層嬉しそうに医師は見る。
「とても?」
「すっきりしました。胸のつかえが取れたみたいです。」
レオンハルトは澄んだ瞳をきらきらさせ、大きく息を吐き出した。医師は徐に席を立ち、楽しそうに言った。
「王子、お時間はまだございますか?」
「はい。」
「では、酒を飲みましょう!」
「は?」
「少しくらい、宜しいでしょう? 実は、とっておきの良い酒があるのですよ。」
こうして、夜通し他愛もない話をしながら、飲み明かした。透明な心の王子様と会えるのは、これで最後となる。その想い出に、記念に、成長した彼と酒を酌み交わしたかった。夜明けの時が来て、東の窓から青白い光が零れ出した頃、医師は万年筆を手に取り、テーブルを小突いた。
「王子、この家を出たら、私との想い出は、全て忘れてください。娘のことも。」
こうして、レオンハルトはドッペルン医師の屋敷を一歩出てすぐ、大切な人を一人、失った。自分が何故、そこに立っているのかも分からず、言い知れぬ不安だけが胸の中を駆け巡り、圧迫した。
それで、アルテイシアのへっぽこ催眠術で封じ損ねた記憶を頼りに、闇の結晶の隠された地点を訪ね、これといった意味も分からぬまま、土を採取。シザウィーの研究所に分析を依頼することになってしまった。分析結果を聞いても、何のためのものなのか、皆目見当もつかず……。彼の心に開けられた穴が、埋められることはなかった。
老婆の館に泊まっていくよう言われた一行は、重たい気分を引きずったまま、擦り切れたソファに埋もれて動けないでいた。老婆が一階に降りて行ってしばらく経つ。
「お話ししなければならないことがありますので」
老婆の一言が若者たちを膠着させてしまったのだ。ミーナが独り言のように呟く。
「そういえば、サラは?」
老婆の話の途中で飛び出してから戻らずにいた。アルディスは足と腕を組んでしかつめらしい顔でだんまりを決め込み、レオンハルトは放心状態でぼんやり空を眺めている。ミーナが男たちのこんな姿にため息を吐き、立ち上がろうとした時、ドアが開いてサラが戻って来た。泣き腫らした赤い目をしていたが、表情は平静を装っている。
「途中からアルテイシアさんのお話を聞きそびれてしまいましたわ。後で教えて頂けますか?」
誰にともなく頼み、誰もが首を縦に振った。
「まだ話があるから、今夜はここに泊まっていきなさいって、あの人言っていたわよ。」
「そうですか……。」
ソファに腰かけたサラは、膝の上で手を握りしめ、物思いにふけった。暗い沈黙がしばらく続く中、ドアが開き、シンシアが顔を覗かせる。
「お食事の準備が整いました。一階へどうぞ。」
一階の占い部屋の奥が食事部屋になっており、こげ茶色の木製のテーブルは、料理の皿で一杯になっていた。
「大したものはございませんが、どうぞお召し上がりください。」
老婆が手招きするのに従って、一行は席に着き、静々と食事を開始した。一緒に食事する老婆もシンシアも終始無言だったため、食器同士が僅かに触れ合い、かちゃかちゃいう以外、音がしない程だった。食後は再び二階へと上がり、スパイス入りのミルクティーに口をつけたり、カップで手を温めたりしながら、老婆がやって来るのを待った。
「お待たせいたしました。」
深い皺の間に年月を忍ばせて、老婆が現れた。黄ばんだ照明が、時々パチパチ爆ぜる音を立てる。一行は静かに老婆の話に耳を傾ける。
「私がこれからお話しいたしますのは、二つの恋の物語でございます。」
「恋?」
レオンハルトとミーナが同時に声を上げてしまう。干からびた老婆から、恋などと瑞々しい響きの言葉が飛び出すとは夢にも思わなかったのだ。老婆は少し憮然としながらも、頷いた。
「恋でございます。この、二つの恋こそが、世界の命運を動かしていると言っても過言ではございますまい。」
「はあ……」
経験の浅い四人は、恋に関するイメージを頭の中で総動員させてみたが、世界と恋が合致する地点を見出すことは叶わなかった。
千年前の恋の物語
今から千年程前のことでございます。シザウィー王国が禁魔法国になる少し前。レオンハルトという名の若く美しい女王様が国を治めていらっしゃいました。女王様は光の一族最後の生き残り。それだけでも特別ですが、頭脳の明晰さ、魔力の確かさ、そして身震いする程の美貌と、三拍子そろった素晴らしいお方でした。国を発展させようと邁進される一方、医学博士として研究にも余念がなく、忙しい日々を過ごされておりました。
そのあまりにも忙しい日々をサポートする役目の側用人として、私は召し抱えられました。当時若干二十三歳ではございましたが、闇の一族と時の一族の混血である父と、エルフ……つまり妖精界の種族ですが、その母との間に生まれた私は、奇異な存在であると同時に、そんじょそこらの魔法使いには引けを取らぬ能力がございました。自分で言うのもなんですが、エルフの血を受け継いだだけあって、見た目もなかなかのものであったと自負しております。今の姿からは想像もつかないでしょうが……。その私から見ても、女王様は神々しいまでに美しく、この方の側で働けることに、私は誇りを感じておりました。女王様の側用人は私の他にもう一人おりまして、妖魔と妖精の合いの子という、私と似た境遇の若い男でした。女王様はつくづく変わった趣味をお持ちなのです。あるいは、ただの人間では女王様の側用人として勤まらないということなのかもしれません。
男は側用人にも関わらず、女王様の側に控えていることは殆どありませんでした。けれど、必要な時は女王様がお呼びになるまでもなく、現れるのです。とても不思議な能力を備えているようでした。私同様、人の心を読めるらしいのですが、彼の能力について確かなことは何も分かりません。謎の男です。女王様だけはご存知のようでしたが、誰にも言って聞かせることはございませんでした。二人の間にはある種の信頼関係が窺えました。私は始め、それを恋愛感情と思っていました。そして、すぐに勘違いであると分かりました。女王様の彼を見る目は恋する乙女のそれではありませんでした。むしろ牽制し合っているようにも見えました。信頼しながらもどこか探り合っているような、腹の底を見透かして鼻で嘲笑っているような、そういう印象をしばしば受けました。
さて、当時は部族の力が弱まり、自然のバランスが崩れてきていることが公然の悩みとなっておりまして、原因究明に部族の識者たちはああでもない、こうでもないと、無い知恵を振り絞って、ろくでもないことばかり提案しました。その、愚の骨頂が妖魔王打倒案でした。部族の力を吸い取り、自然のバランスを崩しているのは、妖魔王に違いないというのです。だから妖魔王を倒せば、世界は救われるのだと、世も世ならとんでもないことを偉い学者たちが雁首揃えて言うものなのです。ところが、この愚かな案に、女王様までもが賛同されてしまいました。
会合で妖魔王を倒すまでの段取りが決定したその日の夜、私は女王様のお部屋を訪ねました。
「女王様、何故でございます? あなた様までもがあのような世迷言にお付き合いなされるとは、合点が行きませぬ。」
私の無礼な言葉に女王様は眉を顰めるどころか楽しそうに微笑まれました。
「合点が行かぬ?」
「は、はい。」
私は腹の中の虫が這いずり回っているような妙な感覚になりました。女王様はなおも笑われます。
「世迷言……か。言い得て妙ね、アルテイシア。全くもって馬鹿馬鹿しい話ですもの。」
「では、なぜ?」
女王様の笑みが薄れ、声も低くなりました。
「ねえ、アルテイシア。私に足りないものは何だと思う?」
急なことで私はまごまごいたしました。何もかも満ち足りているようにしかお見受けいておりませんでしたしね。女王様はご自分でお答えになりました。
「私に足りないのは、時間なのよ。」
「時間……。」
納得できるような気がいたしました。女王様は生き急いでいるところがおありでしたから。
「若すぎる。経験が少ない。つまり、実績がない、とういうことなの。」
女王様がそのようなことを気に病んでおられたとは真に意外なことでございました。実績などと言う言葉は、殿方のためにあるものとばかり思っておりました。
「私には時間が足りない。時間を飛び越えなくてはならないの。それがどういうことか分かる?」
私は正直に分からない、と首を振りました。
「時間を飛び越えるなんて神のなせる業よ。言い換えるなら、神をも恐れぬ行為、神の領域を侵害するようなものよ。でも、私は時間が欲しいの。そのためには、多少のリスクを背負わなければならない。常識的な考え方と、良心をかなぐり捨ててね。」
「それが、妖魔王討伐なのでございますか?」
女王様の口元は笑っていらっしゃいましたが、美しい瞳は鬼気迫る色が浮かんでおりました。
「私は、妖魔王を討伐する上で、一番重要な役目を担っているわ。」
妖魔王ともなると、完全に死ぬ、ということはありません。人間界でいうところの肉体や魂にあるもので構成されている存在ではないのです。存在してはいるけれど、実体と呼べるような姿形は持っていない。変幻自在の水や空気みたいな代物なのです。水や空気を殺すことができましょうか? せいぜい、器の中に閉じ込めるくらいです。その器をこしらえ、閉じ込めるのが女王様の役目でございました。
「私は名立たる知識人、武人、魔法使い、そして部族の長者たちの目の前で妖魔王を見事、封じ込めて見せる。すると私はただの光の一族の末裔から、世界を救った英雄として、人々から崇められるようになるの。戦争で大量殺戮をして成り上がったような血塗られた英雄じゃないわ。私は手を汚さず善意の塊みたいに清らかに悪の権化を封じ込めるのよ。私はその実績を高々と振りかざして、部族の長者たちに、ある提案をするの。」
「提案?」
女王様は、私の質問にお答えにならず、続けました。
「一階の女王、ただの部族の生き残りの言うことなら、戯言として片付られるでしょう。でも、世界を救った英雄の提案ならば……針に糸を通すより簡単に聞き入れるはず。またとないチャンスだわ。」
私は震えていたと思います。女王様の影の部分を垣間見たような気がいたしました。
「確かに、何の罪もない妖魔王には悪いと思うわ。でも、大義のためには、犠牲がつきものなの。五万年だか十万年だか生きているんだもの。ちょっとくらい休憩を取ったって、かまわないでしょう?」
「随分簡単に仰いますが、そう易々と事が運びますかどうか……」
何せ、得体の知れぬ存在なのでございますから。小賢しいだけのちっぽけな人間が束になってかかったところで、太刀打ちできるものかどうか、私は些か疑問でございました。けれど、女王様は笑っていらっしゃいます。
「大丈夫よ、私には切り札がある。」
「切り札……」
やはり私の問いは届きません。
「私は時間を飛び越えるわ……」
それきり、女王様は黙ってしまわれました。
一週間後、私たちはついに妖魔界へと赴きました。大勢いても目立つばかりで、足手まといになるからと、部族の長者七名。もちろん、その中には女王様もいらっしゃいます。それから世界中で選ばれた剣士、魔法使いが合わせて十名。総勢十七名のパーティでございました。人間界では見たこともない強力な魔物、いえ、妖魔界では妖魔と呼ぶべきでしょうが、次々と襲いかかって来ました。その度、皆、己の出せる技の全てをつぎ込んで対処しようとしましたが、効き目があったのはほんの数名。中でも、私と女王様、そしてあの男。女王様のもう一人の側用人でございます。私たちの働きは顕著なものとして他の目に映ったことでしょう。特に、彼の魔法は人間業ではございません。人の子ではないのですから、当然ではございますが、それを差し引いても、あまりある、とんでもない力を私たちに見せつけました。ゴミを屑籠に投げ捨てるような、散らばった小石を払い除けるような、圧倒的な力でございました。しかし、殺生は一切致しませんでした。私たち二人は、女王様にきつく言いつけられていたのです。何があろうと、決して妖魔を殺してはならないと。なぜなら、私たちが殺すことは、女王様が殺したも同然になるからなのでございます。女王様はあくまで、潔癖に、手を汚さず妖魔王を封じ込めなければならないのです。従者である私たちにも、それは課せられておりました。妖魔を殺さないことと同時に、もう一つ約束事がございました。先手を打たないこと、すなわち、味方が襲われた時のみ、防御としての力を発動すること。それが何よりも大事なのだと女王様は仰いました。
「恩を売るのよ。」
出掛ける直前に、私たち二人は念を押されたのです。
「力を見せつけつつ、命を助け、信頼を得るの。力はあるけれど、虫も殺せないような、純粋さ、優しさ、穢れなさ。そういう姿を皆の目に焼き付けておくの。いいわね?」
女王様は恐ろしいお方。私たちの心に直接、お言いつけなさるのです。私たちは相手の心を読みこそすれ、直接脳裏に言葉を注ぎ込まれることは、まずないのです。そんなことをなさるのは、女王様くらいなものです。心を辱められるような、恥部にいきなり触れられるような、そういった感覚に襲われます。それをご存じで敢えてなさるのですから、何とも罪深いお方なのでございます。私たちが抵抗できないのを、面白おかしくながめていらっしゃるのです。
しかして、私は女王様が仰っていた切り札とは、何なのか見当がつきましてございます。あの男のことなのでございます。他の者たちは助けられながらも、怯えの眼差しで彼を見ておりました。それはそれで、女王様の作戦通りであったように思われます。女王様の側には、かような超人が付いている。だから敵に回すのは得策ではないと誰もが胸に刻み込んだことでございましょう。
妖魔王の城への侵入も難なくこなすことができ、私たちはついに妖魔王と対面いたしました。妖魔王は変幻自在。どのような形をとるかは、妖魔王次第でございます。この時の彼の姿は、想像をはるかに上回る代物でございました。見るからに凶悪で、粗暴で、禍々しいのですが、まず圧倒されるのが大きさでございましょう。城自体、山かと思う程巨大でしたが、その山が彼にとってはウサギ小屋でしかないと言わんばかりの途方もない大きさなのでございます。全体的には人の形に似ているようでしたが、鋭くとがった指の爪一つとっても、ドア一枚分、その先に伸びる指ともなると、樹齢百年の巨木で作られた柱でございます。銀色の皮膚は竜の鱗を煮溶かして板状に伸ばして特別に設えたような具合で、鋼でできた筋肉を覆っているのです。剥き出しの牙の間からは、重低音の地響きみたいな唸り声が漏れ、時折、噴火するように怒号が耳を劈きます。雄牛や雄山羊の角が何本も頭部から突き出し、王者の冠の様相を呈しておりました。
私たちのうち、何人かは失禁して、へたり込んでしまいました。誰かと確かめることは致しませんでした。仕方のないことでございます。ショック死しないだけましなのです。途轍もない威圧感でございました。常人で正気を保つことは難しゅうございます。それでも皆、ありったけの勇気を振り絞って、魔法を唱え剣を振るいました。攻撃などではございません。攻撃したところで露程も効き目はなかったことでしょう。私たちが必死になってしていたのは、妖魔王の気を逸らし、動きを止めること。それだけでした。全ては女王様が妖魔王を封じるまでの時間稼ぎに過ぎません。ところが、いくら待っても、女王様は微動だになさいませんでした。まさか、私たちの知らぬ間に、動きを逆に封じられてしまったのかの思った程です。女王様を見るに、何かに憑りつかれたかのように、ぼんやりなさっておられました。
「女王様!」
堪らず、私は声を上げました。もう、力の限界だったのでございます。女王様は目が覚めたご様子で、瞬きをし、冷静沈着な女王様には珍しく、慌てて封印の呪文を発動されました。その呪文はいつもの女王様の魔法とは比べ物にならないほど貧弱で、お粗末な代物で、私は目を疑いました。鉄壁な女王様が揺らぐのを、初めて見てしまいました。何も、こんな時にと思ったものでございます。まさか、失敗の魔法など、妖魔王に通じるわけもございません。ところが、でございます。どういう訳か、妖魔王は轟々と呻きながら徐々に収縮し、直径二メートルほどの透明な球体の中に納まってしまいました。なんと、あのぼやけた魔法が効いたのです。しかし、効いてはいますが、いずれ術が解けるのは明らかでした。今のうちに追加の呪文を唱えておけば、妖魔王を完全に封じ込めることができる……そう期待して女王様を見ましたらば、組み合わせた細い指が、震えているではございませんか。まさか、怯えていらっしゃる? 今更? 私はどうにも腑に落ちません。この封印の術は女王様のいわば専売特許。女王様しか使えません。私や他の者が代わりを務めることはできないのです。
「これで充分だ。」
女王様の、もう一人の側用人である男が、突然口を聞きました。無口な男で、彼が口を開くのは大変珍しいことでした。
「あまり完璧に封印すると、他の妖魔が台頭しやすくなる。」
他の者たちは、ほう、と感嘆の声を上げました。
「なるほど、元の木阿弥というわけか。」
「さすがはレオンハルト殿。そこまで先を読まれていたとは。」
「深く感銘を受けましたぞ。」
皆、満足して、女王様を褒め称えながら、家路につきました。当分の間、妖魔王は人間界に悪さをできない。それだけで皆は満足だったというわけです。人間の代表者ともあろうものが、命まで掛けて、何たる志の低さでございましょう。しかし、そのお蔭で女王様の面目は保たれました。
城に戻ってからの女王様は、ご自分の失態に幻滅されているというか、屈辱で苦しんでおられるというか、落ち着きなく、そわそわと過ごされていました。何も手に付かないご様子なのです。
「そんなに気落ちなさらなくても……」
見かねた私が声を掛けますと、女王様は意外そうにきれいな瞳を丸くなさいました。
「気落ち? 気落ちしているように、私は見えるのかしら?」
そう聞いて私は、違うのだ、女王様はあの失敗のせいで狂わされているのではないのだ、と知りました。では、一体何が……?
ほどなくして、女王様は毎日のように城の北に広がる花畑へ出掛けては、花を摘み、特に用事もないのにお化粧なさったりするようになり、私は冗談で申し上げたのでございます。
「まるで、恋をなさっていらっしゃるようですね。」
女王様は笑うどころか、真顔のまま、動かなくなってしまわれました。私の肺の中で、空気が急にひんやりと冷めたのを今でも忘れることができません。図星だったのです。私は怖くなりました。そして、喚きました。
「読んでません。決して心を読んでなどおりません!」
女王様のお心を勝手に読むなど、言語道断。それに、女王様ご本人も常々仰っていたのです。自分の心を読む時は生半可な気持ちではいけない。相当の覚悟で取り掛からないと痛い目を見ると。だから本当に、女王様のお心を盗み見たことなど一度もありませんでした。恐慌状態の私を宥めるように、女王様は一言、仰いました。
「私は、何も言ってないわよ。」
そして、部屋を出て行ってしまわれました。
考えてみれば、女王様といえど、お年頃であり、恋の一つや二つ、あって当たり前なのですが、この時私は何やら悪い予感がしてなりませんでした。道ならぬ恋をされているのではないあか、それも、とんでもない相手なのでは、と。
妖魔王を封じて一か月程経ちましたでしょうか。女王様は相変わらず花を摘みに北の花畑へお出かけでした。一人になりたい、目の届くところに必ずいるようにするから、とのお達しで、私は城の四階、女王様のお部屋から花に埋もれている女王様を随分遠目に見守るしかできませんでした。女王様は規則正しく、いつも日没までに城へ戻られました。
すると、ある昼下がりのこと、いつからか、女王様の傍らに、淡い灰色の人影が立っていることに気付きましてございます。遠くてはっきりとは分かりませんが、どうも男のようなのです。
「いつの間に?」
私はびっくりして、額を窓にくっつけてよくよく見てみました。けれど、やはり遠すぎて誰なのか、どんな人物なのか判別できませんでした。
二人は一定の距離を保って、日暮れ近くまでずっと何もせず、西の山に太陽が差し掛かったところで、いつも通り女王様は城に向かって歩き出し、男の方は反対側、森へ向かって消えていきました。城に戻られた女王様はいつもと全くお変わりなく、澄まして花瓶に花を活けておられました。何もなかったのだ、と言う風に。
次の日も、また次の日も、同じ光景が花畑に浮かんでおりました。白い女王様の姿から、二、三歩間を置いて佇む灰色の男の姿。二つの点が接することはなく、日没まで離れることもなく、私は幻でも見ているのではないかと思いたい一方で、ある考えが次第と脳裏を支配していくのを、払拭できずにおりました。つまり、この男は、「あれ」なのではないかということなのでございます。一瞬、側用人も男だったらと思ってみたこともありますが、彼ではない根拠と言いますか、確信が私にはございました。彼はいつも黒い服装をしていましたし、髪も真っ黒です。そのスタイルをわざわざ崩し、灰色に扮装して女王様に近づく必要など、彼にはありません。それに、何といっても、彼は気配を消して、人の目の触れぬところに控えていることはあっても、その逆は決してしないのです。灰色の男はただならぬ気配をむんむんと漂わせておりました。いえ、気配は隠しているつもりなのかもしれません。存在が大きすぎて、漏れ出てしまっているのでしょう。途轍もない威圧感、計り知れないエネルギー、禍々しいオーラ……そこら辺の魔法使いは誤魔化せても、私は騙されません。
灰色の男に気付いた者は他にもおりました。魔法省の長官グレゴリーです。彼は女王様の部屋の一階下にある、客室から二人を覗き見ておりました。掃除をしようと中へ入った召使いが偶然見つけて、口止めをされながらも私に知らせてくれたのです。彼が女王様に懸想しているのは、城の誰もが気付いておりました。魔法省の長官にしては神経の細い男で、女王様に想いを打ち明けたり、ましてや粗相を働くことなどあり得ないのですが、あまり気持ちの良い行動とは言えませんから、念のために、とういうことです。私が二人を見守っているその下で、何がしかの感情を抱いて監視する目がある。確かに、気持ちの良いことではありません。夏も近いというのに、肩の辺りが急にひんやりしたのを思い出します。
さて、それからまた一か月の時が経ち、二人の規則正しいリズム、距離感は永遠に保たれるのではないか、ある種、日常の形として定着したとさえ思われた矢先、その形が突如、歪みを生じたのでございます。重ならないはずの二つの点が、一つになっていたのです。太陽が西の山に差し掛かった時のことです。目を凝らしてみると、どうやら男の方が女王様を背後から抱きしめているような……。大変なことになったと、私は女王様の部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、階段を転げ落ちるみたいに降りて行きました。運動はあまり得意ではなく、花畑に着いた頃には、足はガクガク、肺はパンクしそう、心臓の高鳴りで周りの音が聞こえない程でございましたが、最後の力を振り絞って、流れ落ちる汗を拭いもせず、花を蹴散らしながら、女王様のもとへ急ぎましてございます。と、花畑の中程まで進んだ頃、向こう側から悠々と女王様が歩んでこられました。両手一杯に花を抱えて、いつものお澄ましで。男の姿はありません。私の顔を見て、女王様は意地悪く微笑まれました。
「手籠めにでもされていると思ったの?」
走ってきた汗とは別のものが私の頭から滝のように流れ落ちました。私が弁明しようとするより先に、女王様は仰いました。
「もう、大丈夫よ。花畑へは二度とでかけない。彼と会うこともない。」
「彼」という言葉が女王様の口から急に出てきたので、私は狼狽えてしまいました。私が女王様を見守り、もとい監視していたのは重々ご承知とはいえ、やはり逢引に近い行為をされていたわけですから、それを遠巻きにでも見られるのはあまり良い気はしなかったでしょうに。
「あの、私のせいでございましょうか……?」
勇気を出して申し上げてみました。女王様は軽く吹き出してお答えになりました。
「違うわ。あなたが見張ってくれていたからこそ、私は安心して花畑へ出掛けられたし、彼が側にいても平静でいられたのよ。あなたは悪くない。私も彼も。それから、三階の覗き屋もね。」
やはり、グレゴリーのこともご存じでいらっしゃったのです。
「では、何故会わないなどと……」
「会う必要がなくなったからよ。お互いの気持ちを確認できた。それでもう、充分。」
私は口を閉じるのも忘れて、女王様の美しい瞳を見つめました。お互いの気持ちを確認したら、次のステップに移りたくなるのか男女の性というものではないかと、私のような凡人は考えてしまいがちですが、女王様も「彼」もそうではないようなのです。女王様は腑に落ちない顔の私に、付け加えて仰いました。
「私にはしなければならないことがある。それについては、前にも言ったわね。」
時間と飛び越える、という、アレのことでございます。
「ちょっと寄り道をしてしまったけれど、私には選択の余地がなかったの。ついさっき、問題は解決された。これで、先に進むことができる。私は、私に与えられた職務を遂行する義務がある。そのために生まれたと言っても過言ではないわ。存在意義なの。愛だの恋だの私には関係ない、無駄とすら思っていたのだけれど、返って迷いもなくなってすっきりしたわ。この記憶が、私を後押ししてくれる。力になるの。」
分からないことばかりでしたが、最も下世話な質問を(その頃は私も若かったものですから)してしまいました。
「その、義務を果たされたら、あの方とお会いになって、その……」
女王様はふっと短く笑われました。
「義務を果たした頃、私は……」
それきり黙ってしまわれて、城の方へ歩いて行かれてしまいました。
次の日からの女王様は、本来の冷静さを取り戻し、この二か月が嘘のように精力的に活動なさっておられました。程なく、部族の長者たち、識者たちを城へ招いて、会合を開かれました。そして、妖魔王を封じてもなお、部族の力が弱まりつつあることに言及されました。封印が解かれているなどと、誰も思いもしておりません。場内はどよめきました。
「実は、一つ、考えがございます。」
女王様の鈴のように良く通る声が、皆を静めました。
「不確かなことでしたので、皆様にはまだ申し上げておりませんでしたが、試作を重ねて何とか形にすることができました。今日はそのご報告と、差し出がましいようですが、ご提案をさせていただきたく存じます。」
女王様は男の側用人に目で合図をされ、紫の包みを解き、現れた木箱の蓋を開け、中から水晶玉によく似たものを取り出され、皆にお見せになりました。直径五センチくらいの、透明だけれど角度によって色の変わる、不思議な球体でございます。皆、興味津々で見入っております。
「これは、光の力を結晶化させたものです。」
女王様は淡々と説明されました。
「光の力、といっても現在光の部族は私ただ一人なので、私の力の塊と言った方が宜しいかもしれません。もちろん、試作品ですから、全精力を注いだものではありませんし、基材もただの水晶玉で、最ぢ効力を得るには問題がございます。」
部族の長の一人が、質問いたします。
「ええ、それで、その、それは何に使うものなのかのお。」
根本的な問いでございました。皆も知りたいと女王様をじっと見つめています。
「これは、人に代わって自然のエネルギーをコントロールする装置です。」
場内が再びどよめきます。
「人に代わってとな?」
「まさか、そのようなこと……!」
女王様は顔色一つ変えず、説明を続けました。
「先程、これを私の力の塊と申しましたが、語弊があるかもしれません。ただのエネルギー体と思わないでいただきたいのです。力は力でも、自然を操り、均衡を保つ能力、即ち、コントロールする術を記憶する媒体とお考えください。」
唸り声を上げる長者たちでした。
「我々部族の役目を、この玉が肩代わりするということかね?」
「モノが自然をコントロールするなど、前代未聞だ!」
「第一、そんなことをしたら、我々は力を失ってしまうことになるのでは?」
「危険すぎはしまいか?」
様々な不安の声が交錯する中、女王様は涼しく微笑んで仰いました。
「ご心配には及びません。この玉は部族の力を吸い取ったり、勝手に自然をコントロールしたりするものではないのです。よろしいでしょうか。私たち人間はとても不確定な生き物です。命が短く、血はすぐに薄まって、完全な力を次世代に遺すことは、はっきり申し上げて不可能です。部族の力はかなり弱まってきています。刻一刻と自然のバランスは崩れていくのです。エネルギーはこの世界に充満しているのに、それを操る術が失われつつある。だから完全に失われる前に、正しい形で保存するのです。」
「つまり……その玉に、保存させる、というわけかね?」
「そのとおりです。」
皆、眉間に皺を寄せて、ひそひそ話し合いました。
「保存して、それからどうするのだ?」
「どうも致しません。」
「何と?」
「この結晶は、部族の記憶の写しです。記憶の通りに働いてくれます。それ以上でもそれ以下でもありません。ただ……」
「ただ?」
「一つだけ、私たちがしなければならないことがあります。」
「それは何かね?」
女王様は確信的に一人一人の目を見回して言いました。
「この結晶を、守るのです。ただ存在することで効力を発揮する道具ですが、悪しき心の持ち主が悪しき方法で利用しようとしたら、どんな災いをもたらすか分かりません。」
皆、狼狽えている様子で、冷や汗を拭ったり、頭を意味もなく振る者もいました。
「やはり危険ではないか!」
「いや、しかし、我々の力が弱まっているのも、自然のバランスが崩れつつあるのも事実じゃ……」
「他に手立てがない以上、レオンハルト殿の案に、一つ乗ってみようではないか。」
「だめならだめで、途中で取りやめることもできるのかね?」
女王様は頷きました。
「もちろんです。記憶の塊ですから、媒体を失えば、消滅します。記憶の持ち主には影響はございません。あくまで写しです。紙に書いた文字を燃やしても何ともないでしょう?」
「なるほど、巷の人々が使っている魔法書のようなもの、と思えば良いのだな?」
「ふむ。使いようによって災いとなるとは、そのようなことか。」
女王様は春の日差しのようににっこりと微笑まれました。
「はい。理解していただけて嬉しゅうございます。」
ついに、部族の長たちは女王様の案に賛同しました。そこからの話はとんとん拍子に進みましてございます。試作で使っている基材の水晶は不純な性質が多すぎて、記憶を安定させるのが困難なため、土の部族が最適な基材を錬成すること、それから結晶は部族の長が代々引き継ぎ、部族以外は他言無用とすることなどが次々と決まっていきました。
「長一人で守るのは大変でしょう。部族で実力のあるものが守り人となって、その子孫が責任を持って守っていくのはいかがでしょうか?」
「責任とな?」
「はい。結晶があるということは、部族の誰もが知っていて良いとは思いますが、ある場所を知っているのは部族の長とその守り人だけ、という風に限定しておいた方が良いと思うのです。噂というのは、どうしても外に漏れ出してしまうものですから・・・。」
「確かに、そうだな。」
「ならば、守り人も秘密の方が良さそうだな。長だけが分かれば済むことだ。」
「ふうむ。しかし、万が一の時、例えば長が急死した時にだ、他の長が対処しようとしても守り人を探すことができぬではないか。名乗り出たものが本物かどうか、どうやって見極めよう?」
「一族にそのようなものがいてなるものか! そなた、自分の一族が信じられぬのか?」
「何?」
いきり立つ長たちを宥めて、女王様が仰いました。
「では、守り人には秘密の名を引き継いでもらうことにしましょう。」
「秘密の名?」
「そうですね……」
女王様は、一瞬、私の方をご覧になりました。そして、口元を綻ばせて皆に言います。
「名前に、アル、という言葉を冠するのはいかがですか?」
「アル?」
私は、一人で頬を赤らめました。そう言えば、女王様は常々、私の名を良い響きだと仰っていたのです。
「悪くはないが……ちと、単純すぎるというか、ありふれて、他にも同じ名の者が出てきてしまうのでは……?」
女王様は明るくきっぱりと仰います。
「いいえ、普段使いにはしないのです。秘密の名です。大事が起きた時、その名を使えば良いのです。」
「ふうむ。覚えやすいし……それでいくか。」
かくして、結晶は瞬く間に作られ、各部族が後々守っていくことになりました。この会合の最後に、女王様が仰った言葉も、また伝説として部族の間で語り継がれていきました。
「いつか、この結晶を統べる資格を持つものが現れるでしょう。千年に一度の逸材です。そうすれば、私たちは結晶を守ることも、血の薄まりを心配することも、世界の破滅という問題からも解放されるはずです。その日が来るのを辛抱強く待ちましょう。」
会合の後、私はお部屋に戻られた女王様に、こんな良い案があるのなら、わざわざ妖魔王討伐などせずとも部族の長たちを納得させるに足りたのではと、軽々しく申し上げたものでございます。女王様は私に背を向け、窓から花畑を眺めながら、仰いました。
「やれやれ。呆れたものね、アルテイシア。そんなに都合よく事が運ぶと思って? 結晶が部族の能力を記憶するところまでは本当だけれど、自然のバランスを保つ効力なんてあるわけないでしょう? 誰かも言っていたように、魔法書みたいなものなのよ。使う者がいなければ、ただのガラス玉と一緒。」
私はつい、大きな声を出してしまいました。
「では、何故結晶を作ったり、守らせたりなさるのですか?」
女王様は振り返って答えられました。
「あれはね、保険なのよ。」
「保険?」
「偶像と言った方がいいかしら。最後の切り札……お守りみたいなものよ。これさえあれば大丈夫、救われるって存在が、人間には必要なの。人間はとても弱いわ。プレッシャーがかかると、つい、余計なことを考えて、助かりたい一心で無茶をする。暴動を訳も分からず起こす。弱者から金品を、時に命まで奪う。恐怖や憎しみが世間に充満して、秩序を失い、やがて人間同士で争って、殺し合って、自ら滅びの道を歩むことになる。醜くて、残酷で、虚しい終わり方だわ。」
「世界の崩壊は、結局止められないのですか?」
私は、頭先から血が引いて行くのを感じながら申し上げました。
「そうね。今のところは。救世主が本当に現れてくれたらいいんだけど。千年に一度の逸材って、つまり神様のことよ。千年後までに上手く地上に降りてきてくれると助かるわね。たった千年じゃ、無理でしょうけれどね。」
「千年後に、何があるのですか?」
恐る恐る、聞いてみました。女王様のお顔は逆光で良く見えませんでしたが、笑っているようにも怒っているようにも見えました。
「この世界が真面な状態でいられるのが、あと千年。部族の血はほぼ絶えて、自然のバランスが一気に崩れるの。人々は生きながらに地獄を味わい、苦しみぬいて死ぬことになる。」
私は、手を組み合わせましたが、指先が痺れてちゃんと組めているのかよく分かりませんでした。
「そんなことには、させない。絶対に。」
女王様は再び窓の方をむいて、この会話はそれきりとなりました。
それぞれの部族の結晶が完成して程なく、女王様は私を国の外れまでお連れになりました。
「あなたに見せておきたいものがあるの。」
と、仰って。森の奥深くでございました。鬱蒼として暗い、その狭間に小さな石造りの建物がひっそりと佇んでおりました。誰も手入れをしていないようで、蔦や雑草が蔓延り、あたかもカモフラージュされているような状態で、ただの通りすがりなら見落としていたことでございましょう。女王様は肩まで伸びた雑草を掻き分け、蔦をはぐって変色した真鍮のドアノブを捻りました。中で錆びついた抵抗音がしました。鍵はかかっておらず、ドアは軋みながら開きました。大きな窓には薄いカーテンが引かれていて、さらに外は蔦のカーテンが垂れ下がっているわけですから、建物の中は暗く、閉じ込められていた温く湿った空気が逃げ場を見つけて開け放たれた入り口に押し寄せてくる、何とも形容しがたい圧迫感がそこにはありました。机と椅子が並んでいる他は、何もなく、埃が薄っすらまんべんなく積もっていることから、ここが現在使われていない施設であることくらいはすぐに分かりました。女王様が壁の一部をごそごそ触っている内に、突然、過度の床がスライドしてなくなったので、私はあっと声を上げてしまいました。女王様は何も仰ることなく、暗い穴を降りて行きました。程なく魔法の光が灯されて、階段があるのが見え、私も後をついて参りました。階段を降り切ると、行き止まりになっていまして、やはり女王様が壁の一部を触ることで入口が開きました。女王様の灯された光ではその先がどうなっているのか見えません。女王様は入口の側にあるレバーを上げました。すると、部屋全体が眩しい程に明るくなって……私はあるものが目に入って、悲鳴を上げようと口を開け、手で押さえたのです。でも、女王様が私の肩に手を置かれて、悲鳴は不発に終わりました。
「私の妹……いえ、姉かしら? とにかく、姉妹なの。」
上に繋がった大きなガラスの筒に、透明な液体が満たされていて、その中に少女が納められていました。少女は女王様が同じ年頃ならこうであったろう、と思わずにいられない程、女王様に瓜二つでございました。眠っているのか、死んでいるのか、目を閉じたまま微動だにせず、裸のその身を隠せないのが、気の毒で居たたまれず、私は目を背けました。同姓でも人の裸をじろじろ勝手に見るのは気が引けます。しかも、女王様にそっくりなのです。余計に意識してしまいます。
「眠っているの。成長は止められている。凍結されているって言った方が正しいかしら。二十五年前に、ちょっと派手に暴れたものだから、そのせいでね。」
女王様は、ガラス管に掌を当てながら、自分によく似た少女をしげしげとご覧になっていました。
「悪い子じゃないのよ。むしろ、優しい子なの。温かい血が通っている 私と違ってね。」
私に質問の余地を与えず、女王様は真剣な顔を私に向けて、仰いました。
「私にもしものことがあったら、あなたにこの子のことをお願いしたいの。」
私は露骨に嫌な表情を浮かべてしまっていたとおもいます。女王様は永久に解けない氷柱のように確かな眼差しで私を射抜いておられました。
「あなたにしか頼めないわ。あなたはエルフの血が流れている。二百年は生きられるでしょう? 妖精界で暮らせばその五倍の千年よ。時の流れが人間界に比べて五分の一の速さしかないから。この子にも妖精族の素材が色々使われているから、結構長生きするけど、千年は無理ね。だからこのままの状態で保存しておきたいの。千年近く経ったら、起こして欲しい。来るべき日に備えて……」
「来るべき日というのは、つまり世界が滅ぶ日のことでございましょうか。」
思わず口から吐いて出てしまいました。聞きたくもないというのに。女王様は口元を少し上げてお答えでした。
「そうね。千年という単位はそこから来ているわ。」
私は総毛だって、声を上ずらせながら訴えました。
「そ、そういうことでしたら、私なんかよりも、あの、彼の方が適役かと……」
彼、とは私と同じ側用人の彼でございます。彼は妖魔と妖精の合いの子。噂では不死身だということなのでした。
「彼はダメよ。他の頼みごとがあるの。」
提案をあっさり却下され、俯いてそわそわする私に、女王様は明るく仰いました。
「心配しなくて大丈夫よ。あなた一人に丸投げするわけじゃない。この子のことは、妖精王にもことづけているの。」
「妖精王?」
私はびっくりして顔を上げました。いつの間に、そしてどうやって妖精王と接触することができたのでございましょう。
「聞き入れてもらうにはそれなりの苦労もあったわ。でも、条件付きで引き受けてくれることになったの。」
「条件?」
女王様はため息を吐かれました。
「妖精界で何か大事が起こった際には、彼女を好きに使っていいと言ったの。さっきも話したけれど、この子には妖精族の要素が沢山取り入れられているわ。妖魔族や人間とも互換性がある。三つの世界が遺伝子上で見事に融合されているの。しかも、足し引きゼロなんてつまらない結果とならず、むしろ相乗効果で魔力はとんでもないことになっているわ。だから、何かしら役に立つはずよ。……手なずけることさえできれば。」
「手なずけ……?」
「良い子だけど、気性の激しい所があってね。好き嫌いもはっきりしている。純粋なのよ。純粋さは、時として残酷なものよね? 小さな子供が無邪気に虫を殺すように。」
虫を殺すように、何を殺すのか……? 私はますますゾッといたしました。
「大丈夫だってば。姉妹だから好みは似てるの。私はあなたをとても気に入っているわ。だから、この子もあなたに危害を加えるようなことはしない。それであなたが適役だと言っているのよ。」
私は、はあ……と浮かない返事をしつつ、試しに尋ねてみました。
「その……この方を来るべき日に備えて起こすということは、結晶を統べて、世界を破滅の危機から救っていただくためなのでしょうか?」
女王様は短くお笑いになりました。
「前にも言ったでしょう? そんなに都合よく救世主なんて現れないのよ。それに、この子に結晶は必要ないわ。魔力は私より上だし、既に熟練の魔法使いなの。言葉より先に魔法を覚えわけ。考えるより先に魔法が出てくる。楽しさを感じる前に笑い、悲しむより先に涙を流すみたいにね。自然の法則を無視した能力が彼女には備えられているのよ。」
私はもう一度訪ねました。
「この方は千年後、何をなさるのですか?」
私の声は震えておりました。とても嫌な予感がしていたのです。女王様は穏やかに微笑んでお答えになりました。
「何をするかは、この子次第よ。私は下準備をするだけの役目。後はこの子が決めることよ。」
私は返す言葉もなく、震えながら立っておりました。拒否権などないのです。女王様に初めてお目通りした、その時から。
「この子はね、セーラ・コークラ・プシーというの。口語に訳すと『人形シリーズ・ナナゼロ』ってところかしらね。発見当時の名前がそのまま定着しちゃったの。ただの記号なんだけど、一般人には分からなかったんでしょうね。私も危うくそうなるところよ。私はファイだからキュウゼロと呼ばれていたかもしれないわ。でも、まあ、今の名前だってちょっとした勘違いで付けられたものだし、どっちだって同じことだけどね。それにしても、女の子にレオンハルトはないでしょう。考えれば分かることなのにね。」
私は顔を両手で覆って訴えました。
「女王様、もう……もう……」
結構です、聞きたくありません、と続けることができませんでしたが、女王様にはしっかり通じていました。いつも何もかもお見通しでいらっしゃるのです。
「何でも話してあげるわよ。あなたが望むのなら……」
その数日後には竜族の親子がやって来ました。病の幼子を医学に長けた女王様に診てもらい、さらには託しにきたのです。勝ち目のない戦いに赴くため、親はすぐ大空へと飛び立っていきました。女王様は竜の幼子に治療を施して、血の薄まりがより深刻だった風の一族に代わって風の結晶を守らせることにしました。そして、千年生き長らえるように、一年の殆どを眠らせました。方法は違えど、私やあのガラス管の少女と同じく、千年生きることを強いたのでございます。しかし、これは傍から見ても残酷な方法に感じられました。女王様の千という年数に対する冷徹なまでの使命感がそこにはあったのです。
ところで、この当時、シザウィー国内では奇妙な病が蔓延しておりました。他国でも少数、例はありましたが、シザウィーのそれは比較にならない程重症で、全国民の九割以上が侵され、酷い場合死に至るほどの恐ろしい病なのでございます。症状は人それぞれ、様々で、ある者は皮膚が一部分焼けただれたようになったかと思うと、みるみるうちに全身へ広がり、皮膚呼吸ができなくなり、一週間もだえ苦しんだ挙句、窒息死します。ある者は骨がもろくなって少し力が加わっただけで簡単に骨折するようになり、歩くことも立つこともできなくなります。ある者は光熱に魘され、ある者は咳が止まらず、ある者は肉が黒く削げ落ち、ある者は失明します。数十年前から徐々に表れ、問題視されていた奇病でしたが、この数年で事態はあまりにも深刻なものとなっていました。
原因はウイルス性のものではない、つまり感染はしないということ、それから遺伝的要素が若干みられるということ、そして何より、魔法を使う者、掛けられた者しか罹らないということが研究、調査の結果分かっていることでした。全ての魔法使いが罹るわけではありません。しかし、魔法と縁のない者は全く罹らない病です。
女王様の決断はあまりにも早く、躊躇ないものでした。
「シザウィーはこれより、禁魔法国とします。」
国内外の識者、城の上層部を集めた会場で、女王様は当然と言わんばかりの澄まし顔でお言葉を発せられました。場内はどよめくどころか、凍り付いたみたいに静まり返りました。
「私はシザウィーに蔓延している正体不明の病を、魔法に対する過剰反応、即ち『魔法アレルギー』と呼ぶことにしました。」
魔法アレルギー? 皆、顔を見合わせたり、首を振ったり、傾げたりしました。
「他国では魔法は比較的珍しい技能で、魔法アレルギーにかかる確率も非常に低く、あまり実感が湧かないことでしょう。しかし、シザウィーは他に類を見ない魔法国家で、魔法を使わない者の方が珍しいくらいです。故に、大多数が魔法アレルギー罹患者となてしまったのです。」
「失礼ですが……」
白い口髭の学者が手を挙げて立ち上がりました。
「アレルギーと呼ぶには確率が高すぎるのではないでしょうか。それもシザウィー国内のそれは尋常ではありません。何か、こう、風土的なものが関係しているとか、別のアプローチが必要なのでは? 症状が人それぞれなのも合点の行かぬところですし……」
私がちらっと女王様のお顔を見ましたら、何とこの場に及んで堪え切れないというように笑っておられました。質問した学者も眉を顰めて黙り込んでしまいました。
「風土的……つまり、この病は風土病だと仰るわけですね。」
学者は言い訳をする代わりに口髭をもぞもぞ動かしました。
「一理、あると思いますわ。シザウィーの風土は、魔法が染み込んで出来上がったようなものですから。魔法を使えない者が珍しいというのは良い言い方であって、正確に申し上げますなら、魔法を使えない者はシザウィーの落ちこぼれ。飛べない鳥。牙の折れた竜です。」
場内はにわかにざわめきました。シザウィーの人々はもちろん、他の国の人だって知っていて躊躇う言葉を簡単に口にされてしまうのですから、女王様もお人が悪いことです。
「そういうわけで、シザウィーに住む者は長い間、相当な無理をしてきました。落ちこぼれとならないよう、分不相応な魔力を身に付けなければならなかったのです。人間の体に合わないなんて、最初は誰も知らなかった。仕方のない話ですわ。」
「女王様!」
私は思わず叫びました。何故か分かりませんが、公の場で話す内容ではない様な気がしたのです。女王様は一息ついて、本題に戻られました。
「私が魔法アレルギーと呼びますのは、仮に、ということです。でも、症状の違いについては説明できますわ。使う魔法の種類でかわるのです。人には得手不得手の魔法があって、炎系の魔法ばかり使ったり、治癒の魔法しか使えなかったりしますでしょう? その人その人で使う魔法に偏りがある。その偏り方で症状が違ってくるわけです。炎系の魔法使いは火傷に似た症状を起こす。治癒の魔法使いは細胞が異常増殖する。凍らせる魔法ばかり使っていると凍傷になって壊死してしまう。考えてみれば、わかりやすいしょうじょうですわ。自然の理にかなっている、とも言えましょう。それから、魔法と限定しましたのは、魔法使いがかかるびょうきだなどと短絡的な理由ではございません。罹患者百名に魔法の使用を禁じ、魔法の届かない城の地下へ隔離する実験をしました。症状の重さによって多少差はありましたが、全員に症状の緩和、回復がみられたのです。この病の、今現在で最も有効な治療方法は魔法を使わないこと、かけられないこと。他の方法をどなたかご存じなら、どうぞ仰ってください。」
また場内は静まり返りました。
「私を含め、若干の例外、即ちアレルギーを発症しない者もおりますが、例外をみとめていては、事態を好転させる時期を遅らせることにも、国の存亡を左右させることにもなりかねません。何も、永遠というわけではなく、病が落ち着くまで、他の治療法が見つかるまで間、魔法を使わないでおきましょうと言っているだけです。皆さま、ご理解いただけましたでしょうか?」
満場一致とまではもちろんいきませんでしたが、反対意見もなく、女王様の議題は可決されました。
「女王様は、本当にいつでも何でもお見通しなのでございますね。」
心の中に浮かべたつもりが、つい、口を吐いて出てしまいました。女王様のお部屋で二人きりであったことが救いでございました。女王様はふっとお笑いになられました。
「魔法アレルギーのことね?」
私はついでとばかりに申しました。
「それにしても、患者百人を集めて城の地下に隔離する実験をしていたなんて存じませんでした。一体、いつの間に……」
女王様は声を立ててお笑いになりました。
「嘘に決まっているでしょう? 城の上層部の連中がおかしな顔をしていたの、気付かなかったの?」
私は口をあんぐりと開けたまま動けなくなりました。
「そんなの、お金と時間の無駄よ。三十年も前に既に原因は究明されていた。人間界のバランスが崩れた原因についてもね。学会で論文も発表されている。けちょんけちょんに非難されて、捻り潰されたけどね。一介の学者が意見するには、経験も実績もなさ過ぎた。ちょっと前の私と一緒だわ。」
私はなんだか胸を疼かせながら尋ねました。
「その学者様はどちらの、何と仰る方で? 私の存じますような有名な方でございましょうか?」
「学会を追われた学者は、もうその世界では通用しないわ。有名にはなれない。強制排除されたのよ。でも、別のことで有名にはなった。」
女王様は私に真っ直ぐ向き直って仰いました。
「学会での彼の発言は、生まれ故郷でも異端とされ、傷心の内に人里離れた小さな集落に住み着くことになったの。とても変わった集落なの。魔法を一切使ってはいけない決まりがあったわ。でも、かれとしては理想の環境だった。魔法なんてうんざりしてたし、素朴な暮らしぶりは彼の心を癒してくれた。彼は寿命が短い部族だったから、余生を過ごすのに丁度良い場所を最後に見つけられて、ラッキーとさえ思っていたの。」
実際見てきたかのような話しぶりに、私は固唾を飲んで聞き入っておりました。
「けれど、彼の幸せは儚く消えてしまった。彼の一族がそっとしておいてくれなかったの。彼が必要だった。故郷に戻らせるために講じた策が失敗して、集落は焼けてしまったわ。一族の人たちは何もそこまでするつもりではなかった。けど、結果として集落の人々の命を根こそぎ奪うことになってしまった。彼は憎しみのあまり、自分の故郷に報復したの。火を火で返したのよ。一夜のうちに、故郷は白い灰になった。そして、彼もどこかへ消えて行った。数年後、彼の所在が分かったと匿名の知らせがあって、彼の一族ゆかりの人が探しに来てみると、森の中に煙が立ち上る建物があってね。中で何かの実験をして、失敗したのか、爆発事故があったようで、人が何人か無残に死んでいた。どれが誰とも判別できないような状態だったわ。そんな惨状で場違いにも赤ん坊の泣き声がするの。泣き声がするほうに行ってみると、女の子の赤ちゃんがベッドに横たわっていた。脇にあるペンダントに名前が掘られていたわ。それで、その子はこう呼ばれることになった。『レオンハルト』と。光の一族の末裔でありながら、その歴史に終止符を打った張本人、女性の身体と男性の心を併せ持った稀代の天才にして最凶の魔法使い……あなたも聞いたことはあるでしょう?」
私は組み合わせた手の指をもどかしく動かしながら申し上げました。
「はあ……ですが、私が存じますのは、そういった内容では……それに、光の一族を襲ったのは、妖魔か魔物と伺っておりますし……。」
一つの部族が壊滅する大事件ですから誰もが知っていましたが、実際見た者はありません。何せ、皆殺しです。人の能力を超えていますし、まさか自分の部族を根絶しにしようとする者がいるなんて、誰も思いつきもしなかったのです。それで、妖魔か魔物の仕業に違いないと他の種族のせいにすることで騒ぎは一応、おさまりがつきました。つまり、災害のようなものだと考えることしか、人間にはできなかったわけです。
「それが通説ね。そういう解釈でなければ、私は今、ここにいない。」
女王様の仰ることが良く分からず、私はひたすら手をもじもじさせておりました。
「つまり、世間では、光の部族に起こった大惨事を、その時たまたま他所の土地に移り住んでいて免れた人物が独りだけいたのだと、けれど彼……いえ、彼女は爆発に巻き込まれて死んでしまった。忘れ形見を残して、ということになっているの。その忘れ形見が私。そして、彼女は私の母、とされている。後にペンダントは母のものでそこに記された名も母のものだったと判明したわ。私は勘違いでレオンハルトと名付けられちゃったの。呪われた母の名を皮肉にも受け継ぐことになってしまったわ。男として生きていた人だから、男の名前を使っていたのよ。身も心も女の私には、似合わない名だわ。そう思うでしょう?」
私の頭の中は、止まった指の代わりにせわしなく暴れ出しました。あの、ガラス管の少女のことが横切りました。ですが、私はこれ以上、質問する気にはなれませんでした。
「まあ、とにかく、彼というか彼女は光の一族最後の一人である私を産み落として爆死した、悲劇の人として有名になったの。それで、人々は私を丁重に扱い、大事に育てて、新しい国を建て、女王に据えた。私は国に名を付けたわ。シザウィーと。かつて母が愛した集落と同じ名よ。誰も知らないのをいいことにね。ここが禁魔法国になるのは、あらかじめ決まっていたの。私が生まれる前に……」
私はただただ震えて女王様のお話に耐えておりました。
この日と前後して、女王様は城の上層部を交えて、一人の騎士団長とよく会っておいででした。平民出の成り上がりで、アルバートと申しました。彼は魔法を使えない、シザウィーでは見向きもされないはずの人物でしたが、どういうわけか女王様のお気に召し、とんとん拍子で騎士団長にまで登りつめた男でした。ずんぐりむっくりとした、愛嬌があると言えば聞こえはいいのですが、はっきり申し上げればぶ男で、頼みの武力の方はというと、中の上。取り立てて並外れた特技があるわけでもないのに、何故?と皆が首を傾げるのを尻目に、女王様は彼をやたら取り立てていらっしゃいました。
「彼はね、国を纏める素質があるの。」
ある日、私にそう仰るのです。
「纏める素質がどうされたと……?」
私はびっくりして声をうわずらせました。
「禁魔法国に、魔法使いの王者は要らないわ。アルバートはシザウィーの新しい王となる。私は裏方に回って、彼の頭になるわ。」
「女王様! どうか私の聞き間違いと仰ってくださいませ! 女王様が王位を退かれるなんて……しかも、後継ぎがあの、アルバートだなんて!」
女王様は楽しそうに笑っておられます。
「このことは、まだ皆には内緒よ。近々、シザウィーに内乱が起こって、忙しくなるわ。それが落ち着いたら、公にする。」
女王様が仰る通り、数日後、内乱が勃発しました。魔法禁止令に対する魔法使いたちの反乱でございました。国民の大半は禁魔法国となるのに反対しておりましたから、国王軍は劣勢で、城が落ちる時間の問題と思われました。同じ国民同士が争い、傷つけ合う姿は、語り尽せぬ悲しさがありました。守るべき市民を殺さなければならないことで、国王軍も士気を失い、心が折れ欠けている、そんな時、シザウィー全土に奇跡が起きました。文字通り、全土にです。土という土、岩石という岩石が、みるみるうちに白濁し、終いには真っ白になってしまいました。と、同時に、魔法の一切が使えなくなり、魔法でもって戦っていた反乱軍はなすすべもなく、退陣。国王軍の方も、呆然と白い地面の上に立ち尽くしました。
「女王様、これは一体……?」
城の最上階のバルコニーから戦を眺めていた女王様の横顔は、地面とともに白くなったように見えました。額には薄っすらと汗が滲んで、息遣いも荒くなっていらっしゃいました。
「女王様……?」
「今の私では、これが限界……」
手摺りに掴まりながら、女王様は頽れて膝を床につけてしまわれました。
「女王様!」
支えようとする私の腕に手を添えて、女王様はなおも続けられます。
「でも、いずれ全世界を同じようにしてみせるわ。人間が魔法なんか使わなくていいように……」
私はもう一度、辺り一面、白く染まったシザウィーを見回しました。夏が来ようとしているのに、また冬に逆戻りしたみたいでした。それからはっとして、魔法を繰り出そうとしました。ところが、意識を指先に集中した途端、目の前がぼんやり霞んで、足の力が抜け、堪らず手摺りにしがみつきました。女王様はしゃがんだまま、少し笑って仰いました。
「あなたの魔法はもう、ここでは使えないわよ。でも、あなたの過去の目はどう? 闇の力も失われていないはずよ。」
私は試しに過去の目、即ち時の一族の能力と、闇の一族の能力を使ってみました。女王様の仰る通り、部族の力の方は何ともなておりませんでした。私はうまく言葉を出せず、女王様に向かって口をパクパクさせました。女王様はふふふと笑われました。
「部族の力は吸わないようにしているの。ただでさえ世界のバランスが崩れているのよ。そんなことしたら、千年も持たなくなってしまう。魔法アレルギーとは関係ないしね。問題は妖精と妖魔の力なの。わかる?」
これは、女王様がお一人でなさったことなのかと、考える私の脳裏に、女王様の声が直に響きます。
――一人なんかじゃない。私は何万、何億の命と一緒なの。
後日、シザウィーに起こった出来事について、
「苦しむ国民のために神様が起こされた奇跡」
と、女王様は釈明されました。
「まさか。私にできるわけがございませんわ。城の者も、誰も心当たりはないと申しております。神様でないのでしたら、妖精か妖魔か……いずれにしても人間業では考えられません。」
私は女王様のきれいな唇が淀みなく滑らかに動くのを黙って見つめておりました。各国の代表者たちは白石を自国に持ち帰って調べてみたいと申し出ましたが、女王様はそれに対して毅然と告げられました。
「お心遣いはありがたいのですが、結構でございます。得体の知れないものですし、他所様にご迷惑をお掛けするわけには参りません。シザウィーには魔法を使用せず、科学を応用して調査する機関がございます。元は魔法アレルギーを解明するために立ち上げた機関ですが、彼らに白石のことを調べさせたいと思います。もし、それで埒が明かないようでしたら、皆様にご協力をお願いしたいと存じますが、いかがでしょう?」
シザウィーの土はシザウィーのもの。まずはシザウィーで調べるのが筋であろうと、こういうことでございます。異論を唱える者がいるはずもなく、その場は解散となりました。けれど、そこにいた誰もが、内心、女王様の仕業ではないかと勘ぐっている様子がひしひしと伝わってまいりました。それこそ妖精なり、妖魔なりを使ってやったのではないかと。口には出しませんでしたが。あまりうるさく言って、火の粉を被るのはごめんです。皆、気付いてないふりをして、足早に去っていきました。
それからほどなく、女王様は後継者についても公表されました。国民の反応は良いものではありませんでしたが、暫くは女王様がサポートするということでしたし、魔法が使えなくなった時点で、何もかもどうでも良くなっていたのです。羽をもがれた鳥たちは、歩くより仕方ないと方向転換するだけです。他国へ移住しようとする者もおりましたが、踵を返すことが殆どでした。病を発症しているとか、していないとか、他国では関係なかったのです。おかしな病気が蔓延したり、土の色が突然真っ白になるような国の人間を、快く受け入れられるはずがなかったのです。シザウィーから来たと知れるだけっで、病原菌のような扱いをされ、迫害に遭い、逃げ帰るより仕方ありませんでした。こうして、シザウィーの国民は他国を忌み嫌うようになり、その感情が魔法に対する憎しみに変わるまで時間はかかりませんでした。女王様はそうなるように最初から計算なさっていたのかもしれません。
夏が来て、竜の子を長い眠りにつかせて間もなくのことです。靄が立ち込める、晴れているのに曇っているような、世界が雲の中にすっぽりと納まってしまったような、何とも不思議な昼下がりでした。女王様にお茶をお持ちして、ドアをノックしようとした時です。ドアが半開きになっているのに気付きまして、私は不吉な予感を抱きながら、そっとドアを開き、中を覗き込みました。私は声もなく驚いて、その代わり盆と茶器がけたたましい音を立てて床に落ちました。部屋には見覚えのある男が立っておりました。魔法省長官のグレゴリーです。そして、彼の足下に女王様が仰向けになって倒れていました。胸に短剣が刺さった状態で。グレゴリーは何事か呟きましたが、気が動転していたのも手伝って、上手く聞き取れませんでした。しかし、狂気の色が滲んだ顔が振り返り、走り去る瞬間、発した叫びはさすがに聞こえました。
「悪魔に心を売り渡した魔女め! お前が悪いんだ!」
呆気にとられながらも、私は女王様のもとに駆け寄りました。女王様は苦痛に顔を歪めて、皮肉っぽく笑われました。
「いつかこうなるとは思っていたけど、まさかグレゴリーとはね……」
確かに、女王様に心惹かれていたはずのグレゴリーが、禁魔法令が発動されて魔法省長官としての存在意義が失われたからと言って、こんな暴挙に出るなんて、想像もしないことでした。
「今、誰か呼んで参りますから……」
と、私が言う間に、戸口へ黒ずくめの男が現れました。もう一人の側用人の彼です。彼は眉ひとつ動かさず、静かに女王様のもとへ屈み込みました。
「アルテイシア、彼を……グレゴリーを追って。」
仰る意味が分からず、私は即座に反応できませんでした。
「早く!」
死ぬ気なのよ、と頭の中に女王様の声が響いて、私はやっと飛び上がって、グレゴリーを追って、走り出しました。私としては、女王様を傷つけた犯人の自殺を食い止めることより、女王様の治療をすることの方が大事だったのですが、ご命令とあらば仕方ありません。それに、側用人の彼が付いていれば心配ないと思ったのです。
私は必死で走りました。しかし、追いかけ始めるのが遅すぎました。ひ弱ではありましたが、男は男。スカートにハイヒールの女の身で追いつけるはずもありません。彼は城の南の最上階、シザウィーが白一色に染まるのを、女王様と眺めたあのバルコニーから身を投じておりました。白い石畳に赤い染みが広がるのを、数秒見届けてから、私は女王様のお部屋へとぼとぼと引き返しました。
私の落とした茶器が砕け散った、その向こうに、目を閉じて動かなくなっている女王様、隣には側用人の彼が仲良く並んで寝そべっておりました。あり得ない光景に目を疑い、首を振って改めて見直しました。そして、女王様に刺さっていた短剣が、彼の胸に移動して突き立てられていることに気付いて、私は今度こそ悲鳴をあげました。
「何なの、これは? どういうことなの!」
彼を揺すっても全く反応はありません。鼻の下に耳を近づけましたが、息もありませんでした。念のため、女王様の首筋にも手を当ててみましたが、脈はありません。二人とも死んでしまったのです。まさかこんなことになろうとは、夢にも思っていませんでしたから、私は酷く混乱しました。けれど、混乱する頭の中で女王様の声が聞こえてきたような気がして、はっと我に返りました。
――過去の目を使いなさい。
と。私は意を決して、時の一族としての力、過去を見る目を使いました。この部屋で数分間の間に起こった出来事を目の裏に呼び戻したのです。
私がグレゴリーを追いかけて去った後、側用人の彼は、女王様の傷を癒すために、まず、胸に刺さった短剣を抜こうと手を伸ばしました。その手を、女王様の手が止めました。止める、というより、優しく握るように、そっと取った感じでした。
「無駄よ。治らないわ。とても特殊な剣なの。」
彼は、女王様の小さな声を良く聞こうとしたのか、床に座り込んで、顔を近づけました。そして、女王様と同じくらい小さな声で話しかけました。
「私は、今の環境でも魔法が使える。このくらいの傷なら……」
「この剣はね、あなたを殺すために私が作ったものなの。特殊だと言ったでしょう?」
彼は口を噤みました。そして、短剣の方に視線を移して、動かなくなりました。
「あなたとの約束を守ろうと思って……でも、ダメだったみたい。未完成なの。私の方が先にこれで死ぬなんて、皮肉よね。」
女王様は弱弱しく唸りながら、顔を顰めました。冷や汗の滲んだ、血の気のない顔。閉じかかる瞼から覗くエメラルドの瞳の中で、瞳孔が絶え間なく広がったり縮まったりしていました。死期が迫っていたのです。
「もう、時間がないわ。あなたに、言いたいことが……伝えたいことがあるの……。間に合わないかもしれないから、直接、思念を飛ばす。それなら永遠をも表せるわ。夢が無限の時を一瞬で刻むみたいに……」
私は、その場にまだ漂っている女王様の残留思念を拾って読みました。これは、闇の一族の力です。過去の目で人の心を読むことはできません。女王様が彼に送った思念は、女王様と彼だけのものです。ですが、思念は強ければ強い程、残り香みたいに空間に留まるものなのです。
女王様の思念を纏めると、こういうことになりました。
「わたしはねえ、どうせなら、あなたに殺されたかったわ。あなたの大切な人の命を奪ったのだもの。憎しみを込めて殺されたかった。もちろん、あの時はそんなこと微塵も考えなかったわ。私は私で、彼のことを憎んでいたの。必要ないと認めたら、容赦なく、ゴミみたいに命を切り捨てるあいつが憎かった。一体、どれだけの命が犠牲になったと思う? 彼のために。彼は数えることすらしなかった。彼にとっては、どうでも良かったのよ。研究の対象にならないものは、存在に値しないの。私たちは皆、いつ彼に見限られて、どんな酷い殺され方をするんだろうと、いつも怯えていたわ。幸か不幸か、私は生き残った。あの子が、私を選んで、生かしてくれたの。他は、彼にこれ以上苦しめられないように、あの子なりの優しさで、恐怖も痛みも感じないうちに、瞬殺されたわ。あの子は殺されたっていいと思っていたけど、彼にはまだ利用価値があったのね。試験管に閉じ込めて眠らせたのよ。あなたも会ったことがあるわね? そして、必然的に、たった一体となった私が、集中して弄り回されることになった。辛かったわ。でも、いっそ殺されたいなんて思わなかった。私のために沢山の命が使われたの。気が遠くなるような数の、その一つ一つがかけがえのない命よ。とてもじゃないけど、無駄にはできなかったわ。或は、私を最終的に自分の息の根を止める道具にでもしようと思っていたのかもしれないわね。私が、赤ちゃんくらいに生成された頃、あなたがやってきた。死ぬことを求めて。私はあなたも憎かったわ。生きたくても生きられないものが沢山いるのに、ほんの十歳くらいの子どもの分際で、生きることの意味も知らないくせに、自分の命を粗末に扱って捨てようとするあなたが憎くて仕方がなかった。でも、あなたの永遠の命は、私に付加されるものだったから、そういう気持ちは表に出さないよう努力したわ。永遠とまでは望まなかったけれど、少しは長く生きなくちゃって思っていたから。犠牲になった命のためにも。けれど、私があなたを本当に憎いと思ったのは、もうちょっと先のことだったわ。最後の生成が行われようとした、あの時のことよ。彼は、私にあなたの命を与えるのを取りやめにしようとしたの。最悪な形でね。生成が失敗したように見せかけて、私とあの子の二人を抹殺するつもりだったのよ。そして、自分は寿命だから実験を最初からやり直すことはできないし、元々この計画には無理があったようだから、もう止めよう。続けるなら、自分抜きでやって欲しいと、他の研究員たちに言おうとしていたの。どうしてそんな猿芝居を考えたんだと思う? あなたのせいよ。あなたが現れたせいで、彼の意識が変わってしまったの。実験が無意味なものだと思うようになったの。あなたの未来に意味を感じて、あなたのために人生をやり直そう、短い最後の命をあなたのために使い果たそうと考えるようになったの。あなたを笑うことができるようにしたい、生きる喜びを一度でいいから感じさせたいと、あなた一個人のために尽くそうと考えてしまったのよ。あなたは彼の中に、温かい感情を呼び覚ましてしまったの。彼はあなたのために、私とあの子、それから私たちに使われた数えきれない程の命を切り捨てようとした。とんでもない暴挙よ。許せなかったわ。彼もあなたも。自殺志願者の命が、私たち集合体の命より重いはずがないでしょう? なのに、彼は、あなたを選んだのよ。もう知っているとは思うけど、私はね、闇の力を持っているから、人の心を読めるの。あの子もそうよ。彼は、私たちを作った張本人だから、いつかは、と覚悟してた。でも、まさか赤ちゃんの段階で、自分の意志を持っているとまでは思ってもみなかったでしょうね。私が何も知らない赤ちゃんだと勘違いしてた彼は、私の目の前で不用意にいろいろと考えすぎたの。彼の計画を知った私は、阻止する手段を取った。研究員の一人を操って、光の部族縁の人たちを探させて、匿名の手紙を書いて送らせた。光の部族の生き残りと子どもがいる、という設定でね。早すぎても遅すぎてもダメ。絶妙なタイミングだったわ。彼らは半信半疑でやって来た。数分前に彼は計画を実行に移すため、装置のレバーに手をかけた。その瞬間、私は実験が失敗したように見せかけるため、爆発事故を起こしたの。私と、地下にいるあの子以外は全員殺さなくてはならなかったわ。秘密を知る者が生きていると面倒なことになるものね。研究所員は爆発と分かりやすい状態になるよう威力を調整したから、中心から離れた人ほど、苦痛を味わって死んだわ。全員痛みが分からないうちに死なせたかったけど、不自然になって疑われては困るしね。あなたと彼に関しては、跡形もなく消し去る必要があった。何しろ、あなたは不死身だと言うし、彼の身体は私とあの子の秘密を探る不安材料になるし、二人共形が残って得になることはなかったの。確実に抹殺したかった。それで、分子レベルまで粉砕したのよ。彼のネームプレートがその時千切れて私の所に飛んで来たのね。探しに来た人たちが拾うまで、気付かなかったわ。お蔭で私、男の名前にされちゃた。とんだ誤算よ。でも、一番の誤算はあなたね。あなた……なぜ、生きているの? どんな原理で、分子レベルから復活したわけ? この方法が効かないなら、今の私には無理だと思ったわ。とにかく、あなたにいられては迷惑だった。だから逃げてって言ったのよ。それと同時に、悪いことをしたとも思った。殺そうとしたことじゃないわ。殺し損ねたことよ。あなたは死にたがっていたのに、うまく死なせられなかった。しかも、あなたにとっては大切な人の命を奪って、永遠に引き離してしまったんだもの。知っていたわよ。あなたが彼を愛していたってことくらい。男とか女とか関係なく、ただ好きだったのよね? 彼に殺してもらいたかったのよね? 私は結果として、あなたを生き地獄に追いやってしまった。何としても殺さなくちゃと思ったわ。それまで、他の人に弄り回されたり、余計な嫌疑を掛けられたりしないように、人里離れたところで隠れているようにあなたに命令したの。私はそれから赤ちゃんのふりをして探しに来た人たちに連れて行ってもらって、育てられ、女王になって、あなたを殺す準備をするため、あなたを呼び寄せたの。全く……もうちょっとで、あなたを殺す道具を完成させられたのに……まだ未完成なの。あなたを死なせるには不十分。でも、普通の人間なら十分に……強い肉体を皆から貰ったんだけど、構造は人間そのものなのよ、私は。こういう形で死ぬのね。これが相応しいのかもしれない。狂人に殺される運命が、私にはお似合いだわ。狂った人生だったもの。その中で、一筋の光が差した……あの方が私の空っぽな心をすっかり満たしてしまった。それと引き換えに、自責の念が込み上げてきたわ。愛すること、愛する者を失うことの本当の意味を知って、あなたにしたことが間違いだったとは言わない。間違ってはいないけれど、とても可哀想なことをしたと気付いたの。彼への憎しみは変わらないわ。命を大切にしないあなたも嫌いよ。だけど、彼があなたにしようとしたこと自体は、尊重しても良かったんじゃないかって思った。あんな奴の意志を引き継ごうなんて、私も馬鹿よね。あの方のせいで変わってしまったのよ。考えたわ。あなたの幸せって何だろうって。愛されること? 愛すること? どちらにしても、私には叶えてあげられそうもなかった。私はあの方のものになったから、あなたを抱きしめてあげる腕がないし、そもそも、あなただって彼に見た目こそそっくりだけど、それだけの私なんか眼中にないんだってことくらい、分かっているわ。ただ、彼の面影を追っているだけなんでしょう? だから愛云々は置いておくことにした。次に、生きる喜びについて考えたわ。私は生きることに意地汚いだけで、それを楽しむ余裕はなかったの。悩んだわ。悩んでいたところに竜の親子がやって来たの。竜の子は牙が致命的な病に侵されていたわ。竜族は人や妖魔、時には妖精にさえ不老不死の秘薬と勘違いされ、血を求められ、絶滅の危機に瀕していた。最後に一暴れして、自分たちを追い詰めた者たちの目にもの見せてやろうと一族総出で戦い始めた矢先のことだったの。戦って死ぬなら本望だけど、その前に病気のせいで死にそうなのが可哀想だからと、私に子どもの治療とその後の面倒を頼みにきたのよ。あなたも見たことあるわよね。彼らは報酬に財宝をやろうと申し出たの。もちろん、断ったわ。一国の主を金品で釣ろうなんて、どういう感覚なのかしらね。私は代わりに竜の子の病気で黒く変色した牙をもらうことにしたの。この牙には、竜の親子の愛情と、生に対するひたむきさが詰まっているような気がしたから。……ねえ、私の机、左上の引き出しの中に、竜を象った黒いペンダントが入っているの。竜の子の牙で作ったものよ。あなたにあげようと思って……渡しそびれていたの。ただもらったって、ただ私の考えを聞いたって、あなたが涙を流して喜ぶはずがないものね。私はあなたを死に至らしめる道具を完成させて、それと一緒にあなたへプレゼントしようと思っていたのよ。あなたの一番の問題は、命に期限がないせいで、そのありがたみが分からないことなの。明日にも死んでしまうかもしれない、儚い命であるからこそ、私たち人間は一日一日を精一杯生きているのよ。生きているだけでありがたくて、幸せなの。中には、病気が孤独のせいで早く死にたいって考えてしまう人もいるわ。確かに、苦しいのは、嫌よね。命を粗末にするのは許せないけれど、ある程度は仕方ないのかもしれない。でも、あなたは健康な体を持っていて、人を愛し、愛された記憶があるじゃないの。もう少し、頑張ったっていいでしょう? 三十年足らずの人生で死にたがるなんて早すぎるわ。最初は純粋にあなたを殺すためにこの剣を作っていた。でも、今は違う。いつでも死ねる状態に、生と死が混在している状態になれば、真剣に自分の人生と対峙できるでしょう? 私はあなたに、生きる意味を見つけ出して欲しかったの。結局、剣の方は間に合わなかったけど、イメージして。今にも自分は死ねる、と。そして、死ぬ前にしたいこと、すべきこと、できることに思いを巡らせて、死ぬ前に一度でもいい、生きる喜びを感じて欲しいわ。あなたには幸せになってもらいたいの……」
ここで、女王様の思念が途絶えました。再び、過去の目でその直後の様子をみました。女王様の手が彼の手から滑り落ちます。亡くなったのでしょう。彼は、女王様の手を胸の上で組み合わせてから、静かに立ち上がって、女王様の机の引き出しを開けました。中には、漆黒の竜のペンダントが入っていて、彼は取り出したそれを、自分の首にかけました。彼のために作られただけあって、とてもよく似合っているように私には感じられました。元々彼の持ち物だったのだ、という風に、ペンダントは彼の黒い服の上で控えめに光って、馴染んでおりました。それから、彼は、また女王様の側に屈み込んで、そして……突き刺さった剣を引き抜き……
「あっ?」
私は思わず声を上げてしまいました。彼は、抜いた剣を、ペンダントの少し上、心臓の辺りに躊躇なく突き立てたのです。その場でゆっくり腰を降ろし、仰向けになり、眠るように、目を閉じ、動かなくなってしまいました。
私は過去の目を使うのをやめ、現在、並んで死んでいる二人をもう一度眺めました。そして、彼の突き刺さった剣の下で重ねられた両手を、そっと外してみたのです。まだ少し、温もりを残している手の下には、黒い竜のペンダントが血に濡れておりました。
私はへたり込んで、悲しみのあまり泣き出しました。女王様は彼に死んで欲しかったのではありません。生きて幸せになって欲しかったのです。でも彼にその思いは届かず、死んでしまいました。いいえ、届いたのだとしても、彼はこうせずにいられなかったのでしょう。自分を愛してくれた人、自分が愛した人を失った上に、自分の幸せを心から願ってくれた人までも失って、その喪失感、絶望感に耐えられるはずもなかったのです。結局、女王様の行為は彼の苦しみを増しただけでした。こんな悲しいことがあってよいのでしょうか。
七日後、シザウィーのしきたりに則って、女王様と彼は火葬されました。まさか、一緒にではありません。王族には王族専用の火葬場が白の敷地内にあるのです。女王様はご遺言を残されておいでで、亡くなった際には、ご自分に関する全ての記述、文書を一緒に燃やして欲しいと書かれていまして、お望み通り、女王様の名が記されたものは一切合切、棺の中とその周りに敷き詰められ、女王様と共に火を点けられました。本来なら花で満たされるはずでしたのに、女王様らしいと言えば女王様らしい最後でいらっしゃると、私は思ったものです。女王様の火葬は、それだけでかなり変わったものでしたが、比にならない程異様な現象が起き、国中が騒然となりました。いつもなら、赤かオレンジ、或は青色となるはずの炎が虹色に輝き、眩しくて見ていられず、熱も高すぎて焼却炉の周辺が溶解してしまう程でした。さらに、煙突から立ち上った煙は毒々しいまでに黒く、空に墨を流したようでございました。しかも、後には骨一本残らず、全て真っ白な灰になってしまったのです。シザウィーの人々は女王様の死について、強いては存在自体について、口を噤むようになりました。女王様を敬愛しておりました私でさえも気味悪く感じたくらいです。国民が縁起の悪さに身震いしたとしても、責められはしません。そうして、そのことがシザウィーの人々に死への恐怖と死者に対して毛嫌いする意識を次第に強く刻み込むことになっていきました。墓場を大切にしない気風を作り出したのは、他ならぬ女王様だったというわけです。女王様ご本人が望んだはずもないのですが。
さて、女王様の異常な葬儀が終わった数時間後、彼も別の火葬場で燃やされました。見届けたのは私と数人の下使いだけでした。彼には女王様の代わりと言ってはなんですが、白い花を手向けることができました。女王様が差し上げた黒い竜のペンダントも、そのまま胸の上に両手で持つような形にしておきました。実は、この時まで、あの短剣を彼からどうしても抜き去ることができず、刺さったままの奇妙な状態で火葬せねばなりませんでした。燃やして骨になれば、抜いてあげることもできるだろうと皆が思っておりました。
彼は女王様と違って普通に赤い炎を上げ、灰色の煙を立てて燃えました。妙にほっとしたことを覚えております。ところが、炎が消え、骨を取り出すために火葬場の作業員が台を引きだした時、私たちは飛びずさって互いにしがみつき、悲鳴を上げました。
何と彼は、髪一本たりとも燃えていなかったのです。身に付けていた衣服だけは見事な灰となって彼に被さっていましたが、彼と、胸に刺さった短剣とペンダントは一点の焦げ付きもありませんでした。全く、女王様は骨一つ残らなかったというのに、どうして彼はきれいに焼け残ってしまったのでしょう。
私は、ここでやっと、女王様の思念に見たものを思い出しました。彼は不死身で、女王様の作った短剣は未完成。つまり彼は完全に死んではいなかったのです。息も脈もありませんが、まだ生きている……! 恐らく、仮死状態なのでしょう。
彼の処遇について、城で直ちに話し合いが行われました。多少肉を削いででも、剣を抜こう。抜けば彼自身の力で生き返るだろうという意見が大半でしたが、私は反対しました。今は生き返っても可哀想なだけです。彼にしてみれば、たとえ仮にでもやっと死ねたのだから、そっとしておいてやって欲しいと訴えました。特に差し迫って彼に用事がある者もおらず、私の意見がひとまず採用されることになりました。
女王様がいなくなった今、私はこの国において用済みでした。ここでは魔法も使えない、妖精と人間の合いの子です。過去を見たり人の心を読んだりする力は、禁魔法国であまり気持ち良く受け入れられるものでもありません。仮死状態の彼だって同じです。そこで、私は暇を申し出て、彼を連れて妖精界へ行くことにいたしました。
引き止める者は誰もいませんでした。見送りもいません。私にとっては好都合でございました。あの、秘密の場所に寄らねばなりませんでしたから。森の奥深く、朽ちかけた研究所の地下へ……。シザウィーが真っ白になってしまってから、一体どうなっていることやら分かりませんでした。あのガラス管の少女は魔法なしの空間でどうなっているのか?
灯りを灯すと、少女はガラス管の中で、以前見た時と全く変わりなく浮かんでおりました。私は、生前、女王様から教わった通りの手順で機器を操作してガラス管を降ろし、台車に乗せて外へ運び出しました。これは大変骨の折れる作業でございました。一階へ続く階段の両端は坂になっていまして、台車の車輪が丁度当たるようになっていましたし、台車に繋いだ鎖を階段の上の留め金に付けてレバーを回せば台車を引き上げられるようになっていましたが、魔法が使えない私はただの非力な女ですから、液体が満たされた重いガラス管を手動で引き上げるのは至難の業だったのです。途中で手を離したら、ガラス管が割れて、少女は……?そう思うと腕が千切れようと構わないというくらいの気合が入り、何とか成し遂げることができたのです。私はシザウィーを出るまで酷い筋肉痛に悩まされることになりました。
馬車の荷台、横たわる彼の隣にガラス管の少女という奇妙な取り合わせにため息を吐き、頭痛を覚えながら私は馬車を走らせ、シザウィーから出国し、妖精界へ赴きました。妖精界でも私は異邦人でしたが、女王様が約束をこぎつけたと言うのは本当で、ガラス管の少女を見せると、妖精王は私も、仮死状態とは言え妖魔の血が半分流れている彼でさえも、喜んで引き受けてくれました。
妖精王の城には、あの研究所と同じ設備が整えられていて、少女は早速ガラス管ごと元のように装置へ繋がれました。私は妖精王の側用人として働き始め、仮死状態の彼は城の地下室で静かに眠りにつきました。
妖精界では全てが平和でした。九百年後に妖精王が代替わりするまでは……。
老婆の話が一段落し、くすんだ部屋に静寂が訪れた。誰も、身じろぎもしない。ただ、蝋燭の炎だけが、各々の胸の内に呼応するかのように絶え間なく揺れていた。殆ど手つかずの紅茶は冷え切って、テーブルの装飾と化している。
これまで巡ってきた城で聞いた昔話と一致している部分が多く、どの昔話よりも具体的で、事態の核心に肉迫していると思われた。レオンハルトは淀む空気に流れを与えるべく、中でも当たり障りのない事柄を取り上げて感想を述べることにした。
「シザウィーの初代国王は女性だったんだな。ずっと男性だと思い込んでいたよ。驚いたね。」
彼の逃げ腰な態度に、仲間たちの目の輪郭が鋭くなる。
「そんなこと、どうだっていいでしょ! もっと他に言うことないわけ?」
皆の意見を代弁して、ミーナが怒鳴る。そこへ老婆が割り込み、取り成してくれた。彼女はレオンハルトの絶対的な味方だった。
「レオンハルト様を責めないでくださいまし。急にいろいろとお話ししてしまいましたから、混乱なさっていらっしゃるはず。もう夜も更けましてございます。続きは明日にいたしましょう。シンシア、皆様を客室へご案内しなさい。」