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第四章 レオンハルト王子という人(2)

 夕闇の迫る頃、暗い影を背負ったまま、城へ帰って来た一行を見て、兵士たちが無邪気に話しかけてくる。

「どうしました? 暗い顔して。」

「わかった! 腹でも空いたんでしょう? 大丈夫! もうすぐ夕食の時間ですよ!」

 一行は引きつった笑みで答えるばかり。そこへ、やはり引きつった笑みで一行の前を横切ろうとする影があった。レオンハルトだ。

「ラエル!」

 ミーナの大声に少し驚き、やあ、と返しつつ、周囲の様子を伺う。兵士たちの嫌そうな顔……。

「ちょっと、ちょっと……」

 仲間を物陰に押しやったレオンハルトは、何とも疲れた表情でため息を吐いた。

「何よぉ。」

 直に押しやられたミーナが、見慣れた不満顔で睨んでくる。

「ここでは、その呼び方しないでくれないか?」

 大きな目をさらに大きくして、永遠の少女は言った。

「じゃあ、何て呼べばいいの? 何て呼ばれたいのよ?」

 それはもちろん、と言いかけて、躊躇するレオンハルト。何と呼ばれたいか、という聞き方を彼女はした。深い含蓄などありはしないが、この穢れなき眼に嘘偽りを申し立てるのは心身共に疲れた状態で、いささか辛い作業だった。つまり、彼女に王子と呼ばれたくないし、本名は今更気恥ずかしいのである。

「ま、いいや。ラエルで。」

 面倒くさくなって、そう答えるや、夕食に三人を誘った。どうせラエルのことを快く思わない兵士たちが気分を害するだけのことなのだ。構っていられるか、勝手にしろ、である。


 この日の夕食は昨夜レオンハルトが宣言した通り、前日の豪華さはそのままに、しかし大変食べやすいものとなっていた。今朝はあっさりした簡素なメニューだから、そうなのかと、あまり気にも留めていなかったが、この夕食で、料理長の三人に対する、というか、ミーナ一人のためなのだろうが、心遣いをはっきりと感じ取ることができた。ミーナは料理長の配慮にいたく感激して、食後お礼を言いたいと厨房を訪れた。アルディスとサラも同行した。

 料理長のフランツは、恰幅の良い人好きのする笑顔が魅力のオジサンだった。

「いえ、いえ。昨夜はどうも、食べづらいものをお出しして申し訳ございませんでした。レオン王子のお友達が同席されると言うことで、見栄えと味にこだわるあまり、食べやすさのことをすっかり忘れてしまいまして。料理人として未熟なことでお恥ずかしい限りです。今日は美味しく楽しく召し上がっていただけたのですね? お褒めの言葉を私めにくださるために、わざわざご足労いただきまして恐縮です。ありがとうございます。」

 料理長の腰の低さに、三人は返って恐縮してしまった。

「王子の味の原点はあなたの料理なのですね。」

 サラはレオンハルトが過去にご馳走してくれた料理の数々を反芻しながら言った。ただ、おいしいだけでなく、愛情のこもった暖かみのある料理。フランツは満面の笑みで幸せそうに答えた。

「王子はあなた方に料理を? 私の料理と似ていましたか? 残念ながら私は王子の料理を食べたことはありません。プロに食べさせるほどのものじゃないなどとご謙遜されて……。そうですか、私の料理が王子の味覚に影響を与えているなんて、嬉しいですが、勿体ない話です。」

「ふうん。でも、お料理を教えたのって、あなたじゃないんでしょう? 街のお料理教室に通ってたって聞いたけど、そこで習った通りに作ってないのかしら?」

 ミーナの疑問にフランツはすぐに答えてくれた。

「調理師学校のことですね? あそこの学校長は私の弟弟子なんですよ。彼の話では王子は手先が器用で要領も良くて、料理や食材に関する知識も完璧で、教えることなど何もなかったそうですよ。ただ、四週間の実習をこなさないと免許が取れないものですから、それで通っていただけのことです。人付き合いでは随分苦労されていたそうですが……。」

「それが分からないのよね。あのラエルが人付き合いで苦労するなんて……」

 ミーナの瞳が思案気に下に留まるのとは対照的に、フランツの瞳がくりくり白目の中で転がる。彼の知るラエルは銀髪で、やたらと犬歯が目立つあの「ラエル」であって、今、この会話の流れで登場するには違和感があったから。しかし、彼の思考は見事に纏まった。

「ほう! 皆さんは王子のことをラエルとお呼びですか! 驚きましたな。」

 これまでの人とは反応が違う。サラはそっと聞いてみた。

「あなたは私たちが王子のことをラエルさんとお呼びしても悪く思わないのですか?」

 フランツはそれこそ心外そうに手を挙げ、首を振った。

「おお、何故ですか! 王子は彼のことを信頼し、尊敬しています。彼の名を使ったとしても不思議はありません。むしろ、とても自然なことです。私も彼が好きですよ。」

 それを聞いて、三人は少し安心した。彼が好感を抱く人物なら、レオンハルトを監視していたとしても許せるような気がしたから。

「それで、その……王子が調理師学校で人と上手く渡り合えなかったということですが、もう少し詳しくお聞きしてもよろしいですか?」

 はあ……と、フランツは浮かない顔でサラの黒い瞳を見つめた。あまり喋りたくないのだろう。例え、この三人に聞かれたことは何でも答えるようにと本人から託されていても、根っからの善人が人の悪い話をするのは気が引けるのだ。

「王子は、私たちに自分のことを知って欲しいと仰っていました。私たちは王子の良い部分は既に知っています。私たちが聞かなければならないのは、王子のマイナスの部分、影の部分なのです。人を知るということは、表も裏も理解して、初めて成立するものではありませんか?」

 サラの説明にフランツは穏やかに同意した。

「そうですね。私もその通りだと思います。」

 フランツは、学校長から聞いた話だと前置きした上で、彼の知る限りを教えてくれた。


 一方、同じ頃、レオンハルトもその当時の出来事を思い出していた。今日のフランツの料理を見たことがきっかけだった。食事をする人が食べやすいように作るのも料理の基本だと、学校長が良く言っていた、その見本のような料理だったから。






「さて、料理の基本とは、一体なんでしょう?」

 学校長が黒板をチョークで小突きながら、こちらを振り返って答えが来るのを待っている。

 その上には「料理の基本」の白い文字が、素早い筆致で書かれている。学校長は野菜の品定めでもするように、生徒一人一人の顔を眺めまわす。

 と、一人の声が、静かな教室の中で響いた。

「おいしいことです。」

 若い生徒たちの中でも年少者が答えた。周囲の視線を受けて、照れ臭そうにまた、自信がなさそうに俯いてもじもじしている。正解かどうか、学校長を上目づかいにちらちら伺いながら。学校長は大人の余裕で頷いた。

「そう、そうですね。料理はおいしくなくてはいけません。でも、おいしいだけでは良い料理と言えませんよね?」

 黒板に「味」と書きながら、さらなる答えを目で要求する学校長。今度は割と年長の生徒が落ち着いた声で答えた。

「彩りですか?」

 学校長は「色」と書き加える。

「はい、そうです。彩りも大事ですね。他には?」

 教室は俄かにざわめきだし、生徒たちは正解と思われる単語を次々と口から弾き出す。

「材料」

「鮮度」

「道具」

「温度」

「器」

 生徒たちの言葉を黒板に書き写しながら、しかし学校長の表情に満足は見られない。皆、顔を見合わせながら、次第に静まり返っていく。

 そんな中、学校長のチョークが、ある一点を指した。

「王子はいかがですか?」

 当てられたレオンハルトは困惑していた。生徒全員の視線、それもかなり辛辣な性質のものを一身に浴びて、このまま自分が消えてなくなってしまえばいいのにと、俯き、縮こまる。生徒たちはレオンハルトが実習にやって来た当初から、あからさまに快く思ていない気配を漂わせ、子供じみた嫌がらせを執拗に陰湿に仕掛けてくるのだった。持ち物を隠したり、いたずら書きをしたり、壊したり……それに対して彼は何の抵抗もしなかった。少しは驚いたり悲しんだりはするものの、所詮は子供の悪戯。今まで味わってきた辛酸に比べたら、我慢するのは容易いことだった。また、こうして同年代の若者と接する機会が殆どなかったため、彼らの一挙手一投足が新鮮で興味深く、嫌がらせをされているにも関わらず、少しも憎しみが湧いてくることはなかった。次はどんな手でくるのだろうと、内心期待すらした。恐れられ、無視されるのとは違い、ある意味で自分は関心を持たれ、ちょっかいを出されているわけだ。何と幸せなことだろうと、レオンハルトは思っていた。

 この頃には庶民のものの考え方とか、様々な葛藤が分かるようになってきており、生徒たちが何故自分に冷たく当たるのかも、薄々感づいていた。まず、身分が違う。王子はいずれ王になる。将来が約束されている。庶民はいつまでたっても庶民だ。何の保証もない人生だから、汗水垂らして死ぬまで働かなくてはならない。それから、知能、技術が違いすぎる。生まれながら知能が高く、手先が器用なレオンハルト(生徒たちは、優秀な教師がついて、金に糸目を付けず、教育を存分に受けているからだと思い込んでいるが)と、どんなに頑張ってみても人並みか、それ以下にしかなれない自分たち。何より王族は国民の税金で、ぬくぬくと生活している。自分たちの親が必死で稼いだ金をかすめ取って、縁起の悪い墓地を植物園にするようなわけの分からないことに使う人種なのだ、王族なんていうものは。彼らがそう思っていることはもはや疑う余地もなかった。

 今この時も、そんな意味の込められた視線を肌で感じる。

 学校長がどんな答えを待っているのか、分かり切っていた。何故なら、彼が口癖のように、事あるごとに言っていたではないか。皆、どうして気付かないのだろう。もしかして、気づかないふりでもしているのか? そう考えながら、さらに思う。ここで正解を述べるのは、果たして得策なのだろうか、と。正解したら学校長から贔屓されて、前もって答えを知らされていたんだと思われる。或は出来のよさに腹を立てられ、嫉妬され、後で普段よりもっと酷い目に遭わされるかもしれない。逆に不正解なら、王族なんて所詮こんなものだ、こんなバカ王子に税金を払うくらいなら溝に捨てた方がましだと卑下されるのだろう。

 前者は自分一人が苦しむ。後者は王の名に傷をつけ、城の者たちの顔に泥を塗る。レオンハルトは前者しか選べない。

「食事をする人が食べやすいように料理することです。」

 学校長が待ってました!と言わんばかりの笑みに、手拍子を一つ付けて、大声を張り上げる。

「そう! 食べやすさですね! よくぞ答えてくださいました。」

 周囲から舌打ちする音が聞こえてくるような気がして、もう授業の続きなんてどうでも良かった。問題は、授業が終わったその後なのだ。

 料理学の授業が終わり、次は昼休みを挟んで調理実習の時間となる。この学校は基本的に四年制だが、授業料や時間の都合で四年も通えない者について、他に二年制と、料理学の試験をパスすれば四週間の実習のみで免許が取れるコースもある。レオンハルトは試験を満点でパスして、四週間の実習をこなしている最中だ。

 ここでは四年生が昼食を作る役目になっている。卒業間際の先輩生徒がつくった賄を皆が楽しそうに喋りながら食べる食堂で、話し相手もなく、一人黙々と無表情に口を動かすレオンハルト。食べ物や飲み物が、「手が滑った」とかいう理由で飛んでくる可能性もある、常に警戒しての寂しい食事。しかし、この日の昼食では何も起こらなかった。やれやれと、調理実習のある教室へいどうする。事件はここで起きたのだった。

 教室では、決まった席があるわけではないが、他の生徒は既に着席しており、意味ありげにちらちらとこちらの様子を伺っている。空いている席は一つしかない。何かあるのは明白だが、これもいつものこと。どうせ椅子の上にケチャップが撒かれいているとか、小麦粉が盛られているとか、その類であろうと予想しつつ、恐る恐る椅子の座面を覗き込む。背もたれに隠れていたものが姿を現すや、レオンハルトは凍り付いた。

 座面と背もたれの間から、野菜の皮むきに使われる小ぶりのナイフが、刃先を斜めに突き出している。冗談にしては過ぎる悪戯だった。生徒たちはレオンハルトの反応を見て、俄かに喜び、忍び笑いをくつくつと立てた。けれども、近くの席から順に少しずつ、彼の異変に気づき始め、真顔に戻る。

 いつもの悪戯なら、彼は困った顔でさっさと椅子の異物を取り去り、きれいに片づけるのだが、この時は違った。何だか全身の力が抜けたみたいに恍惚として、虚ろな瞳で湿った光を放つ刃と見つめ合っているのだ。まさか、彼とナイフとの間にこんなやり取りが行われているとは知る由もなく。誰が想像するだろうか。

 

 ――よお、王子さん。オレは切れ味が良いぜぇ。見ろよ、この艶。根元から切っ先まで刃こぼれなんざ一コもねぇ。手入れが行き届いてんのよ。

 

 ナイフが馴れ馴れしく自分を売り込んでくる。


 ――何が言いたい?


 冷たく、しかし生真面目に問うレオンハルトに、物が喋るという異常事態にたじろぐ気配は全くない。いわば、これは彼の日常だったから……。

 ナイフが鼻で笑って答える。


 ――いや、何。オレを試してみろってことよ。そこいらに沢山いるじゃねぇか。ちょうどいいのが……

 

 そこいらに沢山いるとなると、生徒たち以外に考えられないレオンハルトは胃の辺りが熱くなるのを感じた。


 ――ふざけるな! お前は野菜の皮だけを大人しく?いていればいい。人間に危害を加えようとは、どういう了見だ?

 

 ナイフが厭らしく、銀色の光をその胴体に滑らせる。


 ――へっ! 何だよ、今更。いい子ぶりやがって。あいつら皆をぎったぎたの滅多切りにしてやりたいんだろう? 毎日毎日いじめられて、本当は憎くて仕方ないのさ。お前なら造作もないぜ。何たって、殺しのプロが束になってかかってくるのをたった一人、たった数分で全滅させちまうんだからよぉ。こんな素人のガキどもなら、さぞかし気持ち良くやれるだろうよ。それとも、斬りごたえがなくてガッカリするか?

 

「黙れ! この、たかが道具の分際で!」

 レオンハルトはそう、はっきり口から発音してナイフに掴みかかった。

 静かに彼の表情を観察していた生徒たちだったが、さすがにこれにはびっくりして、居ても立っても居られず、喚きつつも、近くにいた数人がかりで止めに入ろうと試みる。彼は明らかに正気を失って、しかもナイフの柄ではなく刃そのものを両手で握りしめている。人の首を絞めつけるみたいに、全身をわなわな震わせながら。そして憎しみで歪んだ顔。生徒たちはそんな彼の表情を見ている余裕はなかった。とにかく、彼の手をナイフから引き剥がすことに集中していた。

 一方のレオンハルトはというと、自分の周りに生徒たちが群がって何か叫んだり、身体を押さえたり、指をどうにか開かせようと躍起になっている姿など、全く目にも耳にも止まらず、感じてもいなかった。彼にはナイフの不気味な嘲笑しか聞こえない。けれど、その中に雑音のような、若い少年の声が混じって、彼の耳に届いた。うめき声? うっ……という、短い苦痛を現す言葉。

 突如、悪夢から解放されたレオンハルト。我に返ってみれば、生徒たちに取り囲まれ、身体のあちこちを掴まれ、抑え込まれている。


 ――一体何が起こっているんだろう?

 

 現状を把握するために辺りを見回す。すると、右の人差し指をもう片方の手で握って顔を引きつらせている少年が視界に入る。先程のうめき声の主だ。どうやら怪我をしているらしい。

 ここへ来て、ようやく事の次第を理解する。生徒たちはまだ彼が正気に戻ったことを知らず、わいわいぎゃーぎゃー寄ってたかって彼の凶行を止めようともがいていた。半狂乱の様相を呈している。まず、混乱を鎮めなければいけない。

「皆、落ち着いて! もう大丈夫だから」

 そんなに大声を出したわけではなかったが、良く通る声だったので、騒ぎの中でも全員が聞き取ってくれた。何が大丈夫なのだろうと皆、一斉にレオンハルトの顔を見る。静かになったところで、もう一度、ゆっくり呪文のように言葉を放つ。

「もう大丈夫。自分でナイフから手を離す。だから皆は私からちょっと離れてくれないか?」

 レオンハルトに纏わりついていた生徒たちは彼が本当に言った通りにするか疑わしい目付きで凝視しつつ、そろそろと手を離し、一歩後ろへ下がった。彼が少しでもおかしな真似をしたら、すぐにでも飛びかかろうと構えている。そんな少年たちの眼差しを一身に受けながら、レオンハルトはナイフから手を離そうと試み始めた。左手を包み込むように握っている右手を、まず離す。正気を取り戻して間もないこともあってか、最初、右手はなかなか持ち主の言うことを聞いてくれず、まるで他人の手のように感覚もなかった。指先の神経に命令が伝達されるまで待っていられないレオンハルトは、文字通り腕ずくで引き剥がしにかかる。蛸の吸盤みたいにしぶとく吸い付きながら、ようやく右手が離れる。離れた右手に力を込めてみると、かじかんだ手そのものに震え、ぎこちなくごわごわと動いた。それが治るのも待っていられない。不自由な右手でナイフを直に掴んだままの左手の指を、上から一本一本外していく。残念ながら、この頃には痛覚が復活していて、刃に食い込んでいる指を無理矢理引き剥がす作業は大変な苦しみを伴った。歯を食いしばったところで、唇からうめき声が漏れるのを止めることはできなかった。

 彼に対する警戒心を解いていた少年たちは、指の間から滴る血を見て、眩暈を起こし、固唾を飲んだ。最期の一本である小指を外し終えると、レオンハルトは間髪入れずに上着を右側から脱いで、左の袖の裾辺りから怪我をしている手を巻き込んだ。手早いが、随分雑な、自分の身体の一部に対してぞんざいな扱いをするものだと、生徒たちが思ったのは、彼の次に出た行動を見た後のことだった。

 レオンハルトの髪を根元で束ねていたリボンが、さっと解かれ、プラチナブロンドが舞った。レースのカーテンから漏れる陽光を受けて、繊細な軌跡を描くそれを、夢の中の出来事みたいに生徒たちは見つめていた。

 自分がうっとりと見つめられているなんて思いもしないレオンハルトは、迷うことなく一直線に一人の少年のもとへ歩み寄った。先程うめき声を上げて、レオンハルトの目を覚まさせた主だ。

「見せて。」

 レオンハルトが差し出した右手に即座には反応できなかったが、どうやら自分が胸の前で隠すようにしている手に向けられているようだったので、大人しくその手を伸ばしてみた。右手人差し指の先に赤い筋が一つ、斜めに入っている。ナイフからレオンハルトの手をもぎ取ろうとして、傷つけてしまったのだ。レオンハルトはリボンを、王侯貴族が身に付けるにはあまりにも簡素なただの白い布を、口と右手とを使って、少年の傷口に巻いて結び付けた。周囲の者たちは、彼の器用さに感嘆しつつ、少年より明らかに重症である自分の手は上着でひとまとめにしただけという事実に不思議な気持ちを抱いた。

 手当を受けた本人は、怪我のことなどそっちのけで、全く別なものに目を奪われていた。長く艶やかなプラチナの睫毛。その下の深いエメラルドの瞳。陶器のように滑らかな肌。もぎたての果実のように濡れた唇。繊細に輝きながら揺れる長い髪。ただ美しいのではない。人知を超越した、何か特別な力が込められているような気すらした。他国の者なら容易く魔法仕掛けと口にするであろう、その美に、たかだか十三歳の少年は腰を抜かしてしまいそうだった。

 俯いていた美の化身が、不意に顔を上げて、少年を真っ直ぐに見つめた。少年は赤面せずにいられなかった。乙女のように目を潤ませて。

「痛むか?」

 レオンハルトの端的な質問に声も出ず、ただ首を大きく横に振った。痛みなんてとうの昔にどこかへ飛んで行ってしまったのだ。それを見たレオンハルトは、安堵と喜びに満ちた、輝かしい笑顔になる。

「良かった。」

 一同は茫然とした。時が止まったかのように思えた。思考も理性も働かない世界で、ただ一つ、宝石と呼んでいい笑顔が、そこにあった。見るもの全てが無条件に優しさと幸福に包まれてしまう、魔法の笑顔だった。けれど、魔法のひと時は長くは続かなかった。無粋な大人の一言で唐突に打ち切られてしまったのだ。

「これは……? 一体どうしたことだ!」

 学校長が次の授業のためにと、いつの間にか教室へ入って来ていた。散乱する調理器具。倒れた椅子。転がるナイフ。そして、目の当たりにした血の惨状。少なくとも彼の目にはそう映ったようだ。生徒たちはおろおろして、言い訳の言葉を探した。しかし、言い訳の機会は与えられず、学校長は告げた。ため息交じりに、観念した、と言う風に。

「王子、一緒に来てください。……午後の授業は中止します。皆でこの教室を片付けて、きれいに掃除をしておくこと。いいですね?」

 ざわめきの中、レオンハルト一人が学校長に連れられて出て行った。何故、彼一人なんだろう、と思いつつ、どうにもしようがなく、少年たちは言われたとおり血で汚れた教室を清めに取り掛かるのだった。

 校長室に通されたレオンハルトは、机越しに大きな窓に向かって立っている学校長の背中を見るともなしに見ていた。学校長は、何かを考えているみたいだった。そして、その考えが纏まったのか、レオンハルトにくるりと向き直って淀んだ声でこう話し始めた。

「王子は学科も実技も文句なしのパーフェクトです。もはや私どもがお教えすることは何もございません。どの厨房でも通用する腕前であることは、この私が保証いたします。それに、実習で休まれたことは一度もありません。既定の日数を満たしています。四週間、二十八日のうち、三分の二以上、つまり二十二日以上出席できれば良いわけです。王子は今日で二十三日目ですから、あと五日休んだところで、免許取得には何の差支えもございません。」

 ここまで聞いたレオンハルトは反論するために口を開いたが、学校長が透かさず次の言葉で遮ってしまった。

「卒業試験のことなら心配ご無用です。書類一枚に学校長のサインと印鑑があれば良いだけです。用意しておきます。先程も申し上げましたが、王子はパーフェクトですから、試験など改めてする必要はないのです。」

 レオンハルトはまだ何か言いたそうにしていた。彼が問いたいのはそんなことではなかったのだ。学校長だってそれは承知していた。そして、ついに本音を零してしまう。

「王子は悪くありません。他の生徒たちも悪くないのかもしれません。ですが、王子が来られてからというもの、この学校全体の均整が崩れてしまいました。生徒たちは学業や調理に集中できなくなり、このまま卒業してもろくな料理人になれないでしょう。本来の目的を果たせないのです。彼らは免許を取ることが目的でここに来ているのではありません。免許を取ってその技量と精神に相応しい職場へ就職し、手に職をつけ、生計を立て、家族を養うために高い授業料を払ってまで学びに来ているのです。この調理学校出身というだけで世間では一流のお墨付きを得られますが、今年の卒業生が調理現場で使い物にならないなんて噂でも流れようものなら、今後どのようになってしまうのか、想像できるでしょう? 初心に立ち返って料理の勉強に専念してもらいたいのです。私も、他の教師も、あなたを特別視していたつもりはございません。皆と平等に公平に接していたはずなのです。けれど、無意識に王様のお子であることを念頭に置いた態度を取ってしまっていたかもしれません。それに、この学校始まって以来の秀才です。元々、何でも知っていて、恐ろしく器用で、改めてここで学ぶ必要もない。まさか、本気で料理人になろうなんて、お思いではございますまいな? ……にも関わらず、あなたは人の見ていないところで秘かに料理の特訓をされている。皆が家路についた後で、こっそり夜遅くまで調理室で練習をなさるのです。何故、そんなにも一生懸命なのでしょう? 少なくとも、お金持ちのお遊びではないということは伝わっています。王子の料理に対する真摯な態度は、教師陣の心を掴みます。私も例外ではありません。その気持ちが接し方にも現れてしまい、生徒たちも感じ取っていたことでしょう。生徒たちがあなたに対して良からぬ思いを抱いて悪さを働いていたとしても不思議ではありません。まだまだ未熟な子どものすることです。王子もそんなに堪えている様子はなかった。大人が口出しすると、話が拗れることはよくあることです。ですから、私たちは目を瞑っておりました。ですが……今日のは、いけません。神聖な調理場で血が流れるなど、あってはならないことです。もっはや悪戯の範疇を越えています。誰も悪くないのかもしれません。明日からは悪戯などしなくなるかもしれません。ですが、危険を伴う不確定要素は排除されなければならないのです。崩れてしまった調和を取り戻し、軌道修正を行わなければならないのです。私は学校長として、この学校を生徒を守る義務があります。残り五日間、あなたをここへ通わせて差し上げられないのは非常に心苦しいです。しかし、ここは調理師学校なのです。将来調理師となる者を育てる施設なのです。あなたは王となられる方であって、調理師になることは万に一つもない。私どもは調理師となる他の生徒たちを選びます。……申し訳ありません。このような言い方しかできません。あなたを傷つけたくはないのですが……。もし、城の方、とりわけ王様に実習を早く切り上げた理由を問われましたならば、それは成績優秀ゆえの繰り上げ合格のためであると、進言致します。」

 レオンハルトは、終始俯き加減で学校長の話に耳を傾けていた。今回のケースは彼にとって珍しいことではなかった。また、選ばれなかっただけのこと。君のことは好きだが、他の子の方がもっと大事だからと、いうわけだ。結局、自分が人にとって悪影響しか与えられない存在であるという事実を再確認したに過ぎない。君が来たせいで皆が狂わされる、と言われたわけだ。それにしても、胸の辺りがひどく疼く感じは、いつになっても慣れることはできないのだった。

「お心遣い、痛み入ります。」

 ただ一言、事務的に答えるのが最後の決まり文句みたいになっていた。再び背中を向けた学校長は泣いているのか肩を震わせていた。見ているこちらの方が居たたまれなくなる。部屋を出て行こうとした時、レオンハルトははっと思い出したように振り返り、学校長に言った。

「先生。最期に一つだけ、お願いがあるのですが……。」


 次の日、遅刻など一度もしたことがないレオンハルトが昼になっても学校に現れないので、生徒たちは心配していた。彼らはレオンハルトが学校を強制的に卒業させられたことを知らされていなかった。そして、レオンハルトが来るのを心待ちにしていた。早く会って顔を見て、話をしたかった。思えば、今までろくに顔も見ていなかったし、話しもしていなかったことに気付いたのだ。昨日は大変な事件となってしまったが、お蔭でレオンハルトの人となりを少しだけ知ることができた。つんと澄ましているように見えて、なかなかどうして激しい感情の高ぶりも持ち合わせているし、自分のことより人のことを考える優しい一面もあり、何より、あの笑顔が素晴らしい。また見たい。そう思って待っている彼らの目の前に昼食が運ばれてきた。

 この日の昼食はいつもと何かが違って見えた。香りもいい。彩りもいい。品数まで一つ多い。食べやすそうであり、それでいて豪華な感じがするが、どれもありふれた食材で作られているようだった。とにかく、ものすごくおいしそうで、実際、口に運んでみると舌がびっくりする程美味であった。皆、息をするのも忘れて夢中で料理を頬張った。その中で一人、皆を代表するように質問した。

「今日の賄は誰が作ったんですか?」

 聞かれた卒業生は途端に苦しそうな表情を浮かべて、ぼそっと答えた。

「王子が作ったんだ。……卒業するからって。」

 フォークやスプーンの音が止まる。実習生は普通、他の卒業生みたいに昼の賄を作ることはない。何か、おかしい。

「それで、王子は?」

 別の者が尋ねる。

「だから、卒業したんだ。昨日が最後だったそうだ。今日は昼食を作るために来て、作り終わったらすぐ帰ってしまった。皆によろしくって……」

「でも、王子はまだ三週間くらいしか……!」

 隣の生徒が肘でつつく。察しろと言うように。くすん、くすんと誰かが鼻を鳴らしている。例の、レオンハルトに手当てをしてもらった少年だ。彼は涙をぼろぼろ零していた。傍らには、きれいに洗って畳んだ、白いリボンが置いてある。彼はそれを今日、持ち主に返すことを心待ちにしていたのだった。悲しmはたちまち伝播し、次々とすすり泣きが始まって、ついには声を上げて泣くものまで現れた。卒業生の一人が、袖で涙を拭って言った。

「さあ。皆、早く食べよう。せっかくの料理が冷めてしまう。」

 再び、食器とフォークが響きあう。心のこもったレオンハルトの料理は、少し涙の味がした。






    八月十五日


 この日の早朝、目覚めるか目覚めないかのうちに、アルディスは若い兵士たちに引っ張られ、訓練の場に駆り出されてしまった。『風の剣士』の息子の腕前を好奇心で皆、きらきら輝いている。

「シザウィーの見学ばかりじゃ、剣士殿も体がなまるでしょう?」

とか何とか恩着せがましい言い訳を取ってつけるのは、レオンハルトと言い、シザウィー人の悪い癖だとアルディスは思った。徐に手渡された訓練用の剣を見て、つい、取り落としそうになる。噂に名高い、シザウィー・ホワイト製の剣だった。他所の国で市場に出回ることは決してない、裏社会でも見たことがない。もし、出てきたとしても一振りの剣で城が建つと言われるほど高額な取引になる。それ程貴重な代物が、こうも無造作に自分の手に乗っかってくると、百戦錬磨の剣士でも普通にびっくりするのである。シザウィーの兵士にしてみれば鉄製の剣の方が珍しいのだろうが。

 不意をつこうとまだ身構えていないアルディスに予告もなく兵士の一人が挑みかかってきた。アルディスは全く気後れすることなく、即座に応戦する。白石の剣と剣が、小気味良い独特な音色を弾き出す。兵士が攻めて、アルディスが受ける。しばらくこの態勢が続いて、周りで観戦してる兵士たちはもしかしたら仲間の兵士に勝機があるんじゃないかと期待の眼差しでやれそれと声を上げた。アルディスは兵士の攻撃を受けながら、冷静に分析していた。禁魔法国故に武装兵力が発達したと言われるシザウィーの武力を。


 ――確かに、その辺の兵より剣技に秀でたところがある。しかし……。


 接戦に見えた勝負はあっさりと幕を閉じた。アルディスの剣の動きが一瞬見えなくなり、風がふわりと兵士の頬を撫でる。気づいた時には兵士は地べたにひっくり返っていた。さらに二の句を継がせず、切っ先を眉間擦れ擦れに突きつける。これで終わりだ。

「参りました・・・」

 兵士は両手を挙げて見せ、急に嬉しそうに笑いながら起き上った。

「いやあ、やっぱり凄い! 強いなあ、敵わないよ。実践を潜り抜けてきた剣士は違うよなぁ。」

 そうか、とアルディスは思う。武装国家と謳われたシザウィーだが、ここ数十年平和続きで、若い兵士たちは実践を知らない。故に、さっきの兵士の剣技が優れてはいるが、教科書通りの平板な動きで、実践では通用しない代物であったとしても、仕方のないことである。

「トビーとテッドは良いよなぁ。」

 聞き覚えのある名前……あの、レオンハルト推奨の「優秀」な兵士二人の名だと気付き、アルディスはぎょっとする。とてもではないが、彼らの名が上がる場面ではないと思っていたから。

「王子がよその国に出掛ける度に連れて行ってもらってるから、魔物と闘う経験積んで、今じゃ近衛騎士に匹敵する手腕があるって話で……」

「馬鹿なのにな。」

「馬鹿だけどな。」

 レオンハルトが優秀と称するにはそれなりの理由があったのだ。アルディスが顎を指で撫でていると、俄かに入り口の階段の辺りが騒がしくなる。

「部屋の中にばかりいたら、身体がなまるでしょう?」

 どこかで聞いた台詞。

「だーかーらぁ、オレは今、謹慎中なんだって言ってるだろう?」

 そして、馴染み深い声。プラチナブロンドのお姫様のような王子様が、下級兵士に袖をぐいぐい引っ張られ、背中を押され、階段を引き摺り下ろされている。

 お互い、目が合う。お前もか? オレもだ。無言で語り合う。

「はい、王子。」

 息を吐く間もなく、武器を与えられ、戦いを挑まれる。シザウィーホワイト製の棒だ。先程の兵士とアルディスの打ち合いよろしく、兵士の方が威勢よく派手な動きで棒を振り回し、対するレオンハルトの方は最小限の力で攻撃を受け流している。きれいな顔が明らかに、つまらない、と言っている。今回のは、誰の目にも兵士が劣勢であることが歴然としており、囃し立てるものはなく、レオンハルトがどのような形でけりをつけるのか、固唾を飲んで見守っているのだった。上半身の動きはそのままに、レオンハルトの左足が弧を描き、兵士は無様としかいいようがないくらい勢いよく横倒しになった。あまりのことに、兵士はしばらく倒れたままの格好から立ち直れず、地面を眺めていたが、諦めたように起き上がって、不服そうに頬を膨らませた。

「王子、ずるいですよ! 棒術の訓練なのに、足技を使うなんて……!」

 レオンハルトは、腕組みして鼻から短く息を出した。冷めた表情は手合せの時と寸分も違わない。

「あー、それは悪かったなぁ。あんまり足元ががら空きだったから、つい、蹴ってやりたくなったんだ。棒で思い切り薙ぎ払えば、その足もさぞかしいい音たてて折れただろうに。」

 聞いた兵士は震えあがった。他の者も一緒だ。アルディスを除いて。

「きれいな顔して、恐ろしいこと言わないで下さいよ!」

「きれいな、は余計だ!」

 ぶん、と棒を振り下ろす。全くもって嘆かわしい限りだった。自分の国の兵士が、いくら下級とはいえ、ここまでお粗末な戦闘能力しか持ち合わせていない、この現状! せっかく忘れていたのに、思い出してしまった。今更焦ってもどうしようもないが、少しで事態の収拾に取り掛からねばと気を引き締める。

「さあ、皆。それぞれ好きな武器を構えて」

「ええっ?」

 見学気分を唐突に払われ、声を上げる兵士たち。

「ええ?じゃない! 稽古付けて欲しいんだろう? 四の五の言わず、さっさと構える!」

 王子の激に泡食って武器を構える。わたわたしているところに白い棒が唸りを上げて襲いかかってくる。まるで麦の穂が大鎌で根元から刈り取られるみたいに、次々と打倒されていく兵士たちを大した感情もなく眺めている、赤毛の剣士。シザウィーの白騎士と言えば、世界一の強さを誇ると言われ、剣を持つものなら誰もが憧れるような存在なのだ。そのイメージが脆くも崩れ、幻滅としか言いようがない空気が彼の中に充満していた。

 地べたに頬を擦りつけながら兵士が呟く。

「王子ぃー。これって稽古になってないっす……。」

「オレたち、痛い思いだけして、終わっちゃってるっていうか……」

 どん、と棒で石畳を突く。

「痛い思いをして来なかったから、この有様なんだろう? お前たちに足りないのは、経験じゃない。危機感だって、何度言ったらわかるんだ! ここが戦場なら、もう死んでるんだぞ!」

「今は平和なんだし……」

「今は、平和かもしれない。でも、いざっていう時のために、いつでも戦える状態にしておかなければいけないんだ。例えば、明日、どこかの国が宣戦布告をしてきたとしよう。あるいは、巷にはびこる魔物が今夜突然シザウィーに押し寄せてくるかもしれない。そういう時、真っ先に駆り出されるのは、誰だと思う? お前たちだろう? 国を守るとか、そんなことはこの際、どうでもいい! まずは自分の身を最優先に考えてくれ。すると、自ずからから結果は出てくるから。」

 国を守るのがどうでもいい? アルディスは耳を疑った。兵士たちはさして驚いた風もなく、ただ、渋々了解したように立ち上がって服についた埃を払った。

「全く。最後にはそうなんだから、王子は。」

「オレたちだって、今はこんなだけど、シザウィーの兵士としての誇りってものがあるんですよ?」

「一応、国から給料もらって、命を懸ける覚悟でこの世界に入ったんですから。」

「自分の命惜しさに頑張れって、それが王子様の言うことですか?」

 レオンハルトは首を振った。

「違う、違う! 死ぬ気で頑張るんじゃなくて、生き抜くつもりで頑張って欲しいんだよ! 兵士や国民が死んでしまったのに、王族と城だけ残ったって意味ないだろう? 兵士と国民あっての国なんだから。」

「分かってますよ。死んでなるものかってやってるうちに、結果強くなるんでしょう? 死んだら腕を鍛えるも何もないんですよね。」

 おそらく、レオンハルトが前々から口酸っぱく言っていたことなのだろう。

「そうだよ! わかってるなら、訓練始めて! もう朝食まで時間ないぞ。」

 ぱん、と手を打つ音が場内に響き渡る。力なく訓練の準備に取り掛かる兵士たちの中で一人、縋るような妙にキラキラした眼差しで話しかけるものがあった。

「あ、あの……王子。一つだけお願いが……」

 縋る手を足蹴にできない性格だった。

「何だ?」

「最後に、王子と剣士殿の立ち合いを見せて頂きたいんです。王子も剣を使うんですよ。」

 両名がぎょっとして顔を見合わせたのは言うまでもない。

「さては、最初からそのつもりで、ここへ呼び出したな?」

 兵士は一生懸命弁明する。

「いや、だって、こんな機会滅多にないし。メキア一の剣士とシザウィー一の戦士の立ち合いですよ? オレたちの勉強に滅茶苦茶なりますって! 一生の想い出に……」

「何が想い出だ!」

 腕組みしながら言葉を遮る。「想い出」は今の彼にはタブーだった。そして、とてもイライラする提案だった。レオンハルトは心の底から剣という武器を嫌っている。いや、憎んでいるといっても過言ではない。兵士たちもそれを知っていて敢えて剣を指定するのだから、質が悪い。しかし、棒に固執するのもいかがなものか。何しろ、兵士たちには得意・不得意と武器を分類せず、いざという時何でも使えるくらいにはなっておけと普段から言い渡しているわけで、今更自分は得意な棒術で戦いたいなんて、口が裂けても言えない。そして、立ち合いを辞退することも難しかった。若い、前途洋洋の兵士たちの期待に満ちた眼差し。たしかに勉強になるのかもしれなかった。王子として果たすべき仕事であるように思われた。アルディスのサファイア色の瞳をちらと見てみる。それは、どちらでも構わない、と言っていた。

「全く・・・しようがないな。剣を。」

 左手を差し出すと、顔を上気させた兵士が自分のを急いで渡してくる。まるで、気が変わらないうちに、と言うように。アルディスはちょっと不思議そうな表情を浮かべた。レオンハルトが両利きなのは承知していたが、敢えて左で来るのか、と。それも右利き用に加工されている剣を……。真意が分からないうちに、相手が構えに入る。アルディスも構える。観衆が手に汗握り、固唾を飲む音まで聞こえる静けさの中、戦いの火蓋が切られる。風が流れる様を表すかのような流麗かつ重厚なアルディスの剣捌きに的確に応えるレオンハルト。今度は守るだけではなく、攻めも見せる。それは、何百、何千と言う戦士を相手にしてきたアルディスも初めて受ける太刀筋だった。


 ――何なのだ? これは?


 ゆるりと生温く振り下ろしたかと思えば、次の瞬間、光が閃くかのごとく下から鋭く斬り上げてくる。身体を横に一回転させて繰り出してきた一刃は蛇行して、こちらの剣を絡めとろうとする。次は斜め下から捩じり上げるように……とにかく、その身も剣も、一つとして同じ動きがなく多彩だった。多彩にも程があった。それにもまして驚いたことには、レオンハルトの目が……動いていない。視線が真っ直ぐ固定されている。もしくは何も見ていない。丸いエメラルドが瞼に半分隠されている。果たして、棒術や武術の時もそうであったろうか? こんな風に感じてしまうのは、アルディスにとって不本意であったが、レオンハルトにも悪いとは思うのだが、感じずにはいられない。何と美しい、剣の舞だろう、と。そして、悩み始めた。単なる手合せの域を越えてきている。これ以上続けたら、本気を出さねばならなくなってしまう。つまり、それは、相手を敵とみなし、殺すかそれに準ずる状態に持っていく計画を組み立てて、文字通り戦うことを意味する。


 ――どうしたら止められる? 止めさせられる?


 終了を合図しようにも、向こうはこちらを見てもいない。残るは聴覚とばかりに、声を、それも大声で呼びかけようと口を開きかけた時、不意にレオンハルトが剣を地面に突き立てた。アルディスも、周りの兵士たちも、何事かと目を瞬かせる。

「もう、終わりにしよう。これ以上やったら……」

 続く言葉を飲み込む。これ以上やったら……? アルディスは敢えて続きを望まない。分かっていたから。どうせ、自分と同じことを考えていたのだ。仲間を殺しの対象にするなんて、どうかしている。黄金色の朝日を受けてなお、青ざめた顔でレオンハルトは微笑んで見せる。

「アルディスは、強いな。」

 そう言うと、すぐに踵を返して、階段の方へ向かう。

「確かに、いい機会だ。お前たち、アルディスに剣の相手をしてもらえ。異国の剣士と剣を交える機会なんて滅多にないからな。」

 じゃあ、と後ろ手を振って階段を昇って行ってしまった。残された兵たちはポカンとその姿を見送っていたが、次第とアルディスの方へ視線が移っていく。

「すごい……」

 一人が言った。

「王子が本気で戦ってるところ、初めて見た。しかも剣で!」

 感動に打ち震えている。その後、アルディスがレオンハルトの策に嵌り、兵士たちに取り囲まれ、無邪気にも寄ってたかって戦いを挑まれ、シザウィー人に軽い憎しみを覚えてしまったとしても、仕方のないことであった。


 朝食に、やや遅れてやってきたアルディスの憔悴っぷりに皆びっくりして心配する中、レオンハルトだけはにやりと笑っていたのが、非常に癇に障って歯ぎしりする他ないのだった。いつぞやの夜の出来事を彷彿とさせた。

 しかし、レオンハルトに他意があったわけではなかったのだ。ある想い出が蘇りそうになって、気分を害し、訓練の場を逃げ出したというのが本当のところだった。アルディスの太刀筋を間近に見て、受けて、何か感じるところがあった。どこか、懐かしい、柔らかな風を生む、あの太刀筋。それに、彼から放たれる、花畑の香り。とても大切な、「誰か」を忘れている。思い出そうとすると、頭の中で滅多刺しにされるみたいな激痛が走り、吐き気を催した。まさか、あの大勢の前で嘔吐するわけにもいかず、慌てて立ち去ったのだ。

 結局、「誰か」が誰なのか思い出すことはできなかった。思い出せなくてホッとしている自分に気付く。もはや、何も思い出したくなんかなかった。大切な人の、大切な想い出かもしれない。頭痛や吐き気が怖い訳ではないのだ。問題は、思い出す、その内容。どうせ、悲しくなるに違いない。ろくでもない、残酷で惨めな想い出ばかり……。


 朝食後、食事室を出るなり、サラが言った。

「あの、ラエルさん。お願いがあるのですが。」

 決意めいたはっきりとした口調。レオンハルトばかりかアルディスもミーナも不思議そうにサラを振り返った。やけに、格式ばっている。

「何?」

 すぐに緊張を緩ませ、レオンハルトが微笑む。サラは変わらず真面目な顔をしている。

「アルディスさんも、体調が良くないようですし、」

 言われて眉を顰める。ただ、疲れているだけだが、シザウィー人のせいで、と言いたかった。

「今日はお城の中でお話を聞いて回りたいのです。」

 顎に手を当てつつ、何を今更確認しているのだろう、この子は?と少し訝しげに黒い瞳を見つめる。

「構わないよ。どうぞ。好きな所を回るといい。」

 そう、最初に言ったではないか。しかし、彼女の意図するところは別にあった。

「シザウィー科学研究所へ行きたいのですが」

 レオンハルトは息を飲んだ。シザウィー科学研究所……聞くまで忘れていた。そして、思い出した。あそこには、いくつか調べ物を依頼していたっけ……自分でも調べて……何を? あまりいい予感はしなかったが、彼はあっさり承諾した。覚悟はできていた。

「そっか。あそこじゃトビーとテッドは案内できないもんなぁ。所員に声を掛けておくよ。」

 後で、自分も行っておくべきだろうか、の問いに、


 ――行くな。


と冷たい答えが脳裏に返って来る。やはり、ホッとしてしまう自分がいる。嫌なことを思い出さなくて済むのだ、と。


 銘々の部屋に戻って支度を整え、廊下で三人が合流すると、程なくして、一人の兵士が近づいてきた。

「王子の紹介で参りました。私のことはシグマとお呼びください。」

 シグマと名乗る、この男(どうせ偽名だろう)の姿形を、三人はしげしげと眺めた。細い三白眼に長方形の眼鏡をかけ、その下の細い鼻筋に薄い唇。尖った顎。兵士とは思えない、華奢な身体つきが軍服の上からでも見て取れる。

 抑揚の少ない話し方といい、レオンハルトの紹介でなかったら、出会いたくもなかった、気味が悪いという表現がぴったりくる人物であった。

 研究所(彼は目的地と言い換えていた)に着くまで、声を出さないよう釘を刺され、細身の男の後を大人しくついて歩く。途中、他の兵士や侍女たちとすれ違ったが、皆、会釈をするだけで話しかけてくる者はいなかった。この男が特異な存在であることを物語っているようで、ますます三人は嫌な気分になった。

 三階の長い廊下の、何の変哲もない壁の所で突然彼が立ち止まり、予告なしの出来事に、ついてきた三人は危うくぶつかりそうになる。実際、アルディスにサラが、サラにはミーナがぶつかっていたが、シグマに触れたくないアルディスが二人を背中で押し止める格好になった。シグマはそんな三人のやり取りには目もくれず、他の人間がいないかちらちら三白眼を左右に動かすと、一番下の壁の石を、つま先でぐっと中へ押し込んだ。すると、ドア一枚分の壁面が奥へずれて、階下へ伸びる狭い階段が現れる。風の城のからくりを思い浮かべながら、黙ってシグマの後に続く一行。階段は暗かったが、十段ごとにランプが据え付けられており、目が慣れさえすれば、無理なく降りられる最低限の照度を保たれていた。三階分下った辺りの突当りに、鉄格子に囲まれた小さな部屋があり、やはり鉄格子でできた扉を開けたシグマが三人を中へ招き入れた。立っているのもやっとな空間に入るのは三人とも気が進まないが、他に選択肢はなかった。全員が鉄格子の中に納まると、シグマは扉を閉め、

「鉄格子から指をを外に出さないでください。」

と言うや否や、天井からぶら下がっている鎖を下へ引いた。足元に軽い振動を感じて、間もなく鉄格子の向こうに見えていた光景が上方へ移動するのを見て、女性陣は思わず抱き合って悲鳴を上げた。シグマが無表情に目を向けてきたので、慌てて口を噤む二人。サラは手で口を隠し、ミーナは唇を内側にしまい込む。レオンハルトがみたら間違いなく笑うであろう可愛らしい仕草であったが、秘かに怖かったと見えて、アルディスは顔を強張らせたまま微動だにせず、シグマに至っては全くの無反応で三白眼を元ある位置に戻すばかりだった。

「これは、エレベーターと呼ばれる装置で、地上一階から地下二百メートルまでおよそ三分で昇降することができます。」

 地下二百メートル? と三人が声もなく驚いている間に、エレベーターはその、地下二百メートルに到達して止まった。エレベーターを出た、すぐ目の前には、灰色をした金属製の扉が、灰色の石壁に嵌っている。ひどく、不思議な感じがした。違和感とでも言うべきか。どうにも馴染めない灰色のドアを開け、エレベーターに乗る時同様、シグマが三人を中へ招き入れる。

「シザウィー科学研究所へようこそ。」


 十人ばかりの所員が机に向かって黙々と作業をしていて、一瞬だけこちらを見たが、すぐ元の状態に戻る。研究所の中は、今までの城特有な広々とした空間と違って、狭さを感じさせる造りになっていた。天井は二メートル強の高さがあるし、床面積はこの部屋だけで百五十平方メートルはある。にもかかわらず、狭く感じてしまうのは、床から天井までを貫く四角く太い柱が三メートル間隔で立っていること、その柱の上部に取り付けられたランプの光が無機質で平板な白一色であること、そして壁から机まで、部屋の全てが灰色の石造りであることが原因のようだった。


 ――灰色?


 三人が部屋中を見回しているとシグマが察して説明してくれた。

「シザウィーの白色地層は地下百五十メートルの深さで終わり、そのしたは他の地域と変わりなく黄土や黒土、粘土などの地層が重なっています。この研究所が地下二百メートルに位置しているのは、白色地層の影響から逃れるために他なりません。従って、床も天井も壁も全てただの石で造られています。」

「白色地層の影響を逃れて、というと、一体どうして……?」

 サラが質問する。

「それを説明するには、まずこの施設が何のために存在するのかを申し上げなければなりません。シザウィー人ではないあなた方だからこそお話しできることです。つまり」

「他言無用」

 アルディスが腕組みしながら口を挟む。シグマの目がちらっと動いた。

「さようです。私がこれから話すことを、決して誰にも言わないこと。特に、シザウィー人には、です。」

 何故に他国の者なら話せるのだろう。三人は一様に目を瞬かせる。

「ここは、ただ一つの目的のために作られた施設なのです。そういう説が今のところ有力です。千年近くも昔のことですから、本来の意義は薄れて、違う情報が伝わってしまっているかもしれませんが、私たち所員が代々研究し続けているのは、ただ一つであることに変わりありません。即ち、シザウィー・ホワイトと呼ばれる物質の研究です。皆さんはシザウィー・ホワイトがどういうものかご存知ですか?」

 突然の質問に戸惑いつつも、口々に知り得る限りを並べ立てる。

「シザウィーにしかない、白い石や土」

「魔法を無効化する性質がある」

「初代シザウィー国王が魔法アレルギー対策で造り出したもの」

 サラの解答に、ミーナがびっくりする。

「そうなの?」

 サラは少し、困ったような、弱ったような顔になる。

「いえ……確かなことは分かりません。私が言ったのは通説です。確かに分かっていることは、誰もシザウィー・ホワイトの謎を解明できていないということ。父から聞いた話ですけれど。」

 シグマの眼鏡がきらりと光る。

「その通りです。サラ・ナディア・ドッペルン。ドッペルン博士のお嬢様でしたね。皆さんのことは多少調べさせてもらっています。」

 多少とはいか程を指し示すものか。三人は軽く身震いした。

「千年前まで、シザウィー全土は他の国同様、ごく一般的な地層で覆われていました。今では考えられない話ですが、世界随一の魔法国家だったのです。初代国王のレオンハルト一世に至っては、右に並ぶものなしの大魔法使いでした。その彼が、魔法アレルギーから国民を救うためとはいえ、唐突に禁魔法論を唱え始め、しまいには妖魔王の力を借りて国土に魔法を無効化する性質を与えるなど、常人技ではありませんし、健全な発想とも言い難い。」

「あら、どうして? 人の病気を治してあげようとしたんでしょう? いいことじゃない。」

「確かに、国民の大多数を救おうとしたことには間違いありませんし、尊いことです。しかし、考えてもみてください。少数ではありますが、何万という同じシザウィーの国民がですよ、魔法アレルギーとは無関係であったのに、問答無用で魔法という能力を使えないようにされ、嫌なら国から出て行けと告げられたのです。消毒液を吹き付けられ、塵と払われた黴菌さながらにです。横暴にして冷酷と称されたこともあります。彼の目的は魔法アレルギー撲滅ではなく、魔法使いの滅亡だったのではないかとさえ言われ、シザウィーが白の国、禁魔法国家としての新たなスタートをきった三か月後、魔法庁のトップ、グレゴリーにレオンハルト一世は暗殺されてしまいました。それまで忠実な僕だったグレゴリーですが、国王の計画を聞かされて以来精神が衰弱し、さらには未婚で親族もいない国王の後継者が魔法とは縁もゆかりもない平民出の成り上がり騎士団長アルバート一世に決定した時には、ついに精神崩壊。国王を殺した直後、四階の自室から飛び降りて死んでしまいました。」

 三人はぼんやりとシグマの話を聞いていた。シザウィーの歴史は謎に包まれている。というのも、千年前の文献が、全て焼却処分されてしまったからである。レオンハルト一世が、アルバート一世を後継者に擁立した際、その条件として、シザウィーに纏わる全ての書物、文書を破棄することが盛り込まれていた。魔法国家の誇りと記憶をきっぱりと打ち捨て、新しい国を立ち上げようとする強い意志が感じられると共に、一体何を隠そうとしたのだろうと、どんな秘密を葬り去ろうとしたのだろうと、憶測が憶測を呼び、事実は分からずじまい。シザウィーの歴史は謎に包まれている、の一言で片付けられてしまっている。シザウィーの過去を知りたくば、シザウィーではなく他所の国で調べるしかない。それもわずかばかりの情報しか残っていない。

 シグマはふと、我に返ったようになる。

「話が逸れてしまいました。私が言いたかったのは、ここがシザウィー・ホワイトの研究施設であるということ。それだけです。そのために地下二百メートルまで掘り下げて造られている。もう、何となくお気づきでしょう。ここはシザウィーの中で唯一、魔法が使えるエリアなのです。シザウィー・ホワイトを調べるということは、シザウィー・ホワイトと魔法との関連性を調べることに他ならないのです。魔法のことは魔法ではないと分からないのです。」

 三人はますますぽかんとした。魔法、魔法と連呼するシグマが、急に魔法使いに見えてきて、他の所員もそういう風にしか見えなくなってきた。そういう風貌に、だ。レオンハルト以外に、既に魔法使いが存在したのか、この国で……?

「あなた、魔法使いなの?」

 ミーナがこの上もなく、開けっ広げな質問をする。シグマの表情が和らぐ。

「まさか。魔法使いがシザウィーで生活できるわけがないでしょう? 白石に囲まれた環境で、まともにしていられる魔法使いなんて余程魔力が弱いか、魔力を完全に制御できるかのどちらかですよ。ミーナ・カウラさん。あなたのお兄さんは後者ではありますが断言します。十日も滞在すれば魔力を完全に失います。回復には一か月から三か月、場合によっては二度と戻らないことさえあるのです。魔法アレルギーの治療以外の目的で、魔法使いはシザウィー来てはいけないのです。禁魔法国とはそういうことなのです。」

 ミーナは、自分の兄がここへ何をしに来たのかも気になったが、それより先に自分自身の身に起きているであろう現象を思い浮かべ、震えあがり青ざめてしまった。ミーナさん、あなたは相当魔力が弱いから大丈夫ですよ、と慰めの言葉をかけるべきかどうか、サラが迷う中、シグマの話は続けられた。

「私たちは自力で魔法を使う必要がないのです。私たちの代わりに、魔法を編み出す装置が別室に備え付けられています。何万通りにも組み合わせて、様々な種類の魔法を作ることができる装置です。それを研究に利用しています。さすがに皆さんにはお見せできません。とてもではありませんが。」

 見たくもない、とアルディスは思った。


「王子がここへ初めて来られたのは、四年前の秋口のことでした。」

 シグマの視線が宙を彷徨う。手を胸の前で組み合わせ、祈るような格好で語り出す。

「私たちは、いつも通り、白石の研究に没頭しており、扉がノックされたことに、しばらく反応できませんでした。そもそも、ここの所員はノックなどする習慣はありません。エレベーターが到着する音は中からも聞こえますし、ここへ来るのは研究所の関係者に限られていますから、必要がないのです。そんなことをするだけ無駄ですし、研究の妨げになりますからね。それで、ノックの音を聞いてもノックだと即座に気付くことができませんでした。もっと言うなら、ノック以前にエレベーターの音すら聞こえませんでした。一体、どういう偶然でそうなったのかは分かりませんが、誰一人としてエレベーターの音が耳に入りませんでした。

 ややしばらくして、私は何とはなしに扉の方を振り向きました。もしかしたら、今のはノックではないか。いずれにせよ、扉の向こうで何か音がしたことに違いない、と。真相を確かめるべく、扉を慎重に開いてみました。すると、そこに緊張した面持ちの王子が、息を潜めて立っていたというわけです。

 四年前の王子は今より少し背が低くて、俯き加減で立っている姿が、本物の女性みたいに見えました。それも絶世の美女です。いや、もはや性別など超越した別次元の存在のようでした。神秘的という表現がしっくりとくる人物に我々は初めて出会いました。灰色の空間に埋没した我々には、古典的かつ俗っぽくて恐縮ですが、他に適当な言葉も思い浮かばないので敢えていってしまいますと、空から舞い降りた天使のように見えました。

 私は挨拶もそこそこに人目もはばからず正直な印象を王子に言いました。即ち、空から天使が舞い降りたのかと思いましたと、そのまま申し上げたのです。周囲はまさか私の口からそのような詩的な表現が飛び出すとは夢にも思わずひどく驚いたことでしょう。王子も最初驚いた様子で私をじっと見上げていましたが、やがて嬉しそうに微笑んでこう言われました。

『ああ、わかった。それは比喩だね? 知っているよ。人は何かの意味を強めたり、逆にぼかすのに比喩を使うんでしょう?』

『ええ、そう。その通りです。』

 天才と呼ばれる方は些末なことを仰々しく考えるものです。

『ここのことは誰かから聞いてこられたのですか?』

 私の質問に王子は首を振りながら言いました。

『誰がここの人なのか分からないのに、聞く事なんてできないよ。でも、ここがどういうところで、どこにあるのかは、何となく知ってたから……迷うことはなかった。』

『何となく、ですか。』

 何となくで来れるものだろうかと不思議に思う私に王子は言いました。

『呼吸の道筋を辿って来たんだ。』

 私は恐らくぽかんとしていたことでしょう。

『呼吸?』

 王子は夢見るように、歌うように言いました。

『この城はね、生きているんだよ。生きるために呼吸をしている。それを私は耳で聞いて肌で感じて育った。その道筋を辿るなんてわけのないこと……。』

 私はこの城が生きていて呼吸をしている様を思い浮かべてみました。石の塊である床や壁や天井が急に弾力と熱を孕んで今にも動き出すのではないがと辺りを見回しました。動揺する私をみて、王子は余裕の笑みを口元に浮かべ天井を指示しました。

『見て……。』

 王子の指した方に目を向けると、通風口がありました。シザウィー城の各部屋の天井には必ず通風口が備え付けられているのです。私は通風口を見ながら、ことの仔細を理解しました。

『つまり、これは……比喩ですね?』

『そう、比喩だよ。』

 王子はまた嬉しそうに笑いました。私もつられて笑ってしまいました。王子の笑顔には見るものを幸せの渦に巻き込むような、温かい光の中に溶かし込むような力があるのです。王子がいかに城で生まれ育ったとはいえ、通風孔から研究所の所在を探り当てるなど、不自然な話ではありますが、王子の笑顔を前にしてはここへ来た手段などどうでも良くなってしまいました。

『ここへは、どういった御用で……?』

 私の問いに王子は我に返った様子で、胸の前に抱えていた小ぶりな木箱を申し訳なさそうに差し出しました。

『これを調べて欲しくて……』

 私は王子が手に物を持っていることにこの時初めて気づきました。顔にばかり目がいってたものですから。受け取ると思った以上の重みがありました。

『開けてみて宜しいですか?』

 王子はこくんと頷きました。私が箱の蓋を取り、内袋の結び目に触れた時、王子は私の手元を見ながら怯えたように言いました。

『大丈夫だとは思うけど、気を付けて……。』

 言われて、私は慎重に結び目を解きました。恐る恐る中を覗くと、そこに詰められていたのは白い砂でした。シザウィーでは珍しくも何ともないものです。私は拍子抜けして言いました。

『このようなものでしたら、我々が普段から研究対象としておりますから』

 わざわざ持って来なくても、と続けるより先に、王子が口を挟むのです。

『そうだと思って、持ってきたんだ。ここなら打ってつけだと思って。』

 私は眉を顰めて白い砂をもう一度観察しました。

『これは、どちらからお持ちになられたのですか?』

 王子は首を振ります。

『答えられない。』

 と、言うことは、シザウィーの砂ではない。いえ、正確には、シザウィーの中にある他国の砂なのだろうと私は思いました。そんなものがあるのは、シザウィーではただ一か所だけです。しかも王子とは非常に縁が深い場所です。

 私はそのことを王子に敢えて確認しませんでした。秘密を多く所持する我々は、詮索されることを望みません。詮索されないためには、相手のことも詮索しない。これが一番です。

『何について調べたら宜しいでしょうか? 成分ですか、性質ですか? それとも』

『全部。調べ得る全てを知りたい。』

 間を置いて、続けます。

『魔法がかかっているのか、とかも。』

 私も、周りにいた所員も息を飲みました。魔力を秘めた物質、例えば魔法使いの杖とか、魔法のお守りとか、そういう魔法がらみの道具のことですが、通常、シザウィー国内において効力は完全に消えてしまいます。しかし、全てのものが魔力を失うわけではありません。その道具を用いて魔法を発動させなければ、魔力は保たれ、シザウィー国内で再び元のように使用することができるのです。持っているだけで効力を発揮する、魔法のお守りなどではダメですがね。

 さて、それでは魔法をかけられたものはどうなるのか、ということですが、一時的な魔法……例えば眠りの魔法とか能力アップの魔法、宝箱やドアにかけられることが多いトラップ魔法、泥棒除けの魔法ですね、そういった時間が経つと消える魔法や解除できる魔法はシザウィー国内において効力がなくなってしまいます。しかし、半永久的な魔法となると、元に戻ることはありません。つまり、魔法の力で性質が変化したものまでは、シザウィーホワイトでもどうにもできないわけです。魔法で焼けたものですとか、切られたもの、破壊されたもの、生き物であれば怪我や病気、それに死んでしまったものは治りません。魔法アレルギーも、だからシザウィーに来たからといって治せるものではありません。魔法の影響から隔離することしかできないのです。

 以上を踏まえて、物質に魔法が掛けられているかどうか、ここで調べることは可能なのか。一時的な魔法ならここへ持ち込んだ時点で既に既にシザウィーホワイトによって効力は失われてしまって、何の痕跡も残っていません。

 魔力を秘めた物質と、魔法によって半永久的に性質を変化させられた物質は、前者はもちろん容易に、後者も調べることが可能です。いわば魔法と物質の化学変化ですから、自然現象との違いを見分けるなどわけありません。シザウィーホワイト以外の物質を調べるのは珍しいことではありますが、基本は一緒です。しかし、シザウィー国内の、それも王子が持って来たものに魔法がかかっているかもしれないなんて、我々としては想像もしたくない話でした。

『いつまでにお調べしたらよろしいでしょうか?』

 王子はすぐにお答えでした。

『急ぎではないから、暇をみてやってもらいたいんだ。私には今、時間がなくて、自分では調べられそうにもないから。第一、調べるための機材も上では不足しているし……』

 魔法となれば、という言葉はもちろんしまっておいて、王子のこの時の状況を思い浮かべててみました。王子は前年、様々な資格を取得するのに没頭され、それが終わる間もなく、この国のために奔走し始めました。皆さん既にお聞き及びかも知れまれんが、この国は事実上、王子が切り盛りされているのです。アルバート王はその……随分前から政治を行える状態ではなく、弟君のガストン卿が上層部と協力し合って王政を支えていらっしゃいました。しかし、綻びが他国の目にも明らかになりつつあり、シザウィー王国は崩壊寸前の危機に瀕しておりました。禁魔法国故に、国交が非常に少なく、その上、元々好戦的な国柄で、周辺諸国へ頻繁に戦を仕掛けてきたのが災いし、隙あらばと我が国を狙う敵国が増えに増え、こちらに味方する国は皆無に等しい。指導者たる王の実情を知られようものなら、この国はもうおしまいです。王があんなだと知ったら、国内だってどうなることやら・・・。それで、王子はこの年、国交回復、並びに国政の立て直しに勤しんでおられました。親善大使として、各国を巡った話は皆さんもご存知でしょう。どれ程の辛酸を味わってこられたのか、計り知れません。敵国へ頭を下げて回るなど、真面な神経で誰ができましょうか。自分の首がいつ斬られてもおかしくない所へです。針の筵に自ら飛び込むようなものです。シザウィーへ帰ってきたと思ったら、今度は休む間もなく執政に取り掛かり、軍師として軍部の指導、訓練にも着手、さらに王政に対する国民の信頼を高めるために、福祉施設の充実と、商業へ資金融資を積極的に行うなど、国を豊かにするための政策を打ち出し、イメージアップを図って……と、王子の活動は留まることを知りません。天才ではありますが、まだほんの十五歳の少年です。親善大使の件はともかく、王政執行に関しては内外共に秘密中の秘密となっています。一部の例外を除いて、ですが。ガストン卿と上層部は知っていて当然。私は軍の特殊部隊長ですから、同じく知っていて当然なのです。もっとも、私が特殊部隊長であることも、科学研究所長であることも、王子の王政執行並みに秘密となっています。家族すら知らないことです。職業柄大っぴらにできるわけもありません。城の者は、私のことを王族繋がりのどこかの部隊長……大方、兵站部隊のなかのどれか一つあたりだろうと思っているようです。確かに、我々所員は王族の流れを汲むもので構成されています。そうでなくてはいけません。国の機密事項を扱っているわけですから、血で結束を固め、王に絶対の忠誠を誓う必要があります。今まで例はありませんが、万が一、謀反の徴候が見られた場合、ある方法で命を絶たれることになります。それについては今ここでお話しなくとも良いでしょう。無論、王子への忠誠も絶対です。たとえ王子が持って来られたのが馬の毛一本だったとしても、我々は真剣にお調べしたことでしょう。王子は思い出したように言われました。

『あ、調査費は前払いかな? いくらなんだろう?』

 懐を探る王子を、慌てて止めました。

『王子からお金を頂くわけには参りません。』

『でも、これは私的なことだし……』

『よろしいのです。ここはシザウィー王国のための、王のための施設なのです。王子のための施設でもあります。設備も人員もお好きなようにお使いください。ただ、秘密厳守の約束さえしていただければ。』

 王子はにっこり笑われました。

『もちろん。こちらこそお願いしたいくらいだよ。それにしても、よく、私が分かったものだね。まだ名乗ってもいないのに。』

 王子のことは、遠くからしばしばお見受けしておりました。またこのような表現を使って申し訳ありませんが、毛並みが全然違いますから、見分けはつきますよね。しかし、近くで拝見しますと、まさかこれ程別格に美しい方だったとは思いもしませんでしたが。さすがにこんなことは申し上げられません。

『私はシザウィーのことなら何でも存じ上げているのです。ましてや、王子を知らないわけがございません。』

 そう言いながら、私も王子に名乗るのを忘れているのに気が付きました。ところが王子は得意そうに仰るのです。

『私も、大体のことは知っているよ、シグマ。本名はここでは使わない方がいいんだよね?』

 私は背筋がゾクゾクと致しました。一体全体、どこから聞かれたものやらわかりませんが……本名を知る者はいても、研究所用の暗号は所員の間でしか使わないのに……全く、侮れない方です。私はますます王子に対して興味と関心が湧いてきてしまいました。この方の言うことなら、何でも聞き入れたい、お力になろうと心に決めました。

『時々ここへ来て、自分で調べ物をしてもいいかな?』

 帰りがけに王子がお尋ねになりました。拒否する理由もございません。

『もちろんです。ここは王子のための施設なのですから、お好きなように使っていただいて構いません。いつでもどうぞ。』

 去り際の王子の艶やかな眼差し、一生忘れることはないでしょう。」


「これが、王子のお持ちになった検体です。」

 シグマが奥から取って来て、三人に見せてくれた白い砂はガラス瓶に詰められ、蓋は蝋でしっかりと封をされていた。アルディスは切れ長な目の端で、サラの小さな体が伸び上がるのをみた。彼女が何を思い浮かべたのか、分からないわけがない。自分だって、あれをまず想像してしまったのだから。

「土性は砂土。粘土が五パーセントにも満たない砂状の土ですね。その中に植物や小さな昆虫やダニの死骸、それらが微生物によって分解されてできた物質が混在しています。有機物や窒素化合物、燐酸塩などです。ケイ素・アルミニウム・鉄などの無機元素はもちろん、炭素由来の成分も多く含まれています。外見からは組成が炭酸カルシウムの白亜・大理石・方解石をイメージしがちですが、それらは殆ど含まれていません。本来ならば炭素や鉄分のために黒色にみえるはずなのですが、この検体は可視光線を吸収せず、なおかつ乱反射せているため白色になってしまったのです。」

 おそらく、理化学にあまり精通していない彼らのためにかいつまんで説明してくれたのであろうが、シグマの気遣いが用をなさないくらい、複雑怪奇な話である。ミーナを始めとして、目の前には星がちかちか飛んでいた。植物学には強いアルディスも、さすがに土の成分を元素から研究したりはしない。唯一、サラだけが、辛うじて化学的名称の羅列に惑わされず、というか無視して要点を纏めることに成功した。

「つまり、魔法のために黒い土が白く見えている、ということですね。」

 理解を得られたシグマは大した感慨もなく頷いた。

「そうです。魔法のために、ただの黒土が白い土のように見えているのです。その点がシザウィーホワイトと非常によく似ています。しかし、この検体はシザウィーホワイトとは別物です。」

「違うの?」

 ミーナはきょとんとして言った。

「違います。鉱物などの割合から言って、これはメキアの表層に広く分布している黒土で、そこへ園芸用に加工された土、例えば赤玉や腐葉土ですが、それを混合したりしていますね。となれば、肥料など養分となる成分も検出されて然るべきです。もっと言わせていただくなら、粘土は二十五%前後が適当なはず。わざわざ植物を育てやすいように土壌を調節しておきながら水分を含まない砂にするなど本末転倒です。」

 はあ……と三人はため息のような返事をした。シグマの弁論は熱を帯びてくる。

「それで、私はこう仮説を立てました。この検体は元々、メキアでよく使われている園芸用の土で、堆肥などで養分を補われていもいたし、水分を程よく含んだ壌土だったのだと。ところが、魔法のために養分も水分も奪われ、色素すらも失ったのだと。こういった吸収系の魔法は一時的魔法なので、その痕跡を検体から検出することは非常に困難ですが、ここの魔法装置で仮説を裏付けることは容易にできました。そして、検体にかけられたであろう魔法には、今では珍しい光の魔法がからんでいるようなのです。」

「光の魔法って珍しいの?」

 ミーナが尋ねる。

「炎の魔法と混同されることが多い魔法ですが、物の色を変えたり、光の波長を変えることまでは炎の魔法ではできません。せいぜい灯りを灯す程度です。光の魔法は大変高度な技術と能力が必要で、並の魔法使いでは使えず、一説によると千年前に光の魔法を使える魔法使いは絶滅したのだとか。それがレオンハルト一世だとも言われています。」

「え? だけど、ラエルが天使の輪を」

 ミーナの口をサラとアルディスが塞ぎにかかる。なぜ塞がれたのかミーナには分からない。シグマは少し不思議そうに見ていたが、すぐに話を戻した。

「その、絶滅した魔法が、メキアの黒土にもシザウィーの土壌にもかけられた。これが二つの共通点。あとは違います。シザウィーホワイトは植物の生育に欠かせない養分も水分も保たれています。また、他の土を混ぜ込むこともできます。魔法は無効化しますが、自然の力を利用して加熱も加工も可能です。岩石は硬度が高いのでそれなりの技術は必要ですがね。王子が持って来られた検体は、いわばシザウィーホワイトの逆です。魔法は受け付けます。しかし、養分や水分は失われます。無限とまではいきませんが、吸収されてしまうのです。皆さんはマイナスの概念はお持ちですか?」

 急に聞かれ困惑しつつも、アルディスとサラは頷いた。ミーナは口を尖らせて黙っている。

「加算に対する減算、酸と塩基、陽と陰……プラスはわかりますよね? 土に養分、水分が含まれいている、土プラス養分プラス水分です。では、土から養分と水分がマイナスされるとは? この場合、ただ養分と水分がゼロになっていたわけではないのです。マイナスなのです。言い換えると、マイナスの養分と水分が土の中に存在していたわけです。これがどんなに不自然なことか分かりますか? 私はこの、奇妙な検査結果に身震いしましたが、同時にシザウィーホワイトの謎に迫れるのではないかと、解決の糸口になるのではないかと感じました。」

「別物で逆なのに?」

 ミーナの淡い空色の瞳がくるくる回っている。

「そうです。別物で逆ですが、今までの発想とは全く違うアプローチを見出すことができたのです。マイナスの概念によって。シザウィーホワイトは魔法エネルギーをほぼ無限に吸収する強力なマイナスの魔法が掛けられているのではないか、ということです。ここの魔法装置でそれを証明することははっきり言って不可能ですが、後に意外なところで実証されとこととなりました。」

 三人は瞼を瞬かせて続きを待った。

「その情報を教えてくださったのは王子でした。白い砂の検査結果を報告した時のことです。王子が検体を持って来られてから調べ上げるのに三年と七か月も費やしてしまいましたが、急ぎではないという言葉通り、王子はお怒りの様子もなく穏やかに笑みさえ浮かべていらっしゃいました。しかし、報告が進むにつれ、王子の表情は硬く青ざめ具合が悪いという風に口を手で押さえ始めたのです。そして、こうおっしゃいました。

『シグマ、つい先日私の誕生祝の席にマーナの医師が来ていたのを知っているだろう?』

 存じ上げておりますと私は答えました。

『その医師が言っていたのだ。シザウィーホワイトにはマイナスの魔法が掛けられていると。マーナの魔法使いたちが気の遠くなるような種類と数の魔法をかけて、それが確認されたのだそうだ。つまり、シグマの仮説は、マーナで実証済みということだ。』

 私は気が動転して、二度と聞くまいと心に決めていた質問をしてしまいました。即ち、この砂はどこでどのようにして手に入れたのか、と。

『こうなっては、ますます答えるわけにはいかないよ、シグマ。ただ、一年後に物事は随分はっきりしてくると思う。私は危険な賭けをする。吉とでるか凶と出るか分からない。それでも、真実を掴むことはできるだろう。』

 王子の仰ることは当時よくわかりませんでしたが、今にしてみれば、この度の失踪事件のことだったのかもしれませんね。それとも、もっと別の何かなのでしょうか。」


 白い砂をしまいに行って、戻ってきたシグマは両手で平たい木箱を抱えていた。その上に麻布の包みが載っている。

「この二つは、王子が去年持って来られたものです。まずはこれですが……」

 木箱は机の上に置いておき、麻布の包みを先に解いて見せる。中から出てきたのは、白い短剣。それも柄の部分に淡く白濁した丸い宝玉が埋め込まれた宝剣だ。今度はアルディスが伸び上がる番だった。ちらっとしか見えなかったものであるが、父のアーサーが家を出る際、腰に下げていたあの宝剣によく似ていた。

「去年の五月初め頃のことです。王子はこれを調べる必要はないから、とにかく外見をそっくりに大至急でダミーを作って欲しいと言うのです。何故、鍛冶屋に依頼なさらないのか不思議でしたが……いろいろと不都合があったのでしょう。研究者の我々に調べるなとは酷な話です。今度は大至急とのことですから、調べたりせず、一晩でダミーを作り上げました。思ったより早かったようで、王子は驚かれてましたが、助かるよと、と喜んでおられました。何しろ、シザウィーホワイト製の剣にそっくりでしたから、それをちょいと加工すれば良かったので簡単です。この宝石もムーンストーンで代用しました。」

「こちらは本物なのですね。」

 サラはまじまじと宝剣を眺めまわした。それに対し、シグマはさっと宝剣を引っ込めた。

「あまり近づかないでください。万が一刃に触れて傷ついたら大変です。」

 見た目によらず優しいことを言う、と三人が思ったのは勘違いであった。

「その後、王子に内緒で調べさせてもらった結果、この剣は血の成分を水分だけ残して急速に吸い取る特殊な機能を持っていることが判明したのです。ある程度人体に刺さったらその機能が発動して、急所でなくとも数秒で死んでしまうことでしょう。さすがに試していないのでどのくらい刺したらそうなるのかわかりませんが、念のため刃に触れない方が無難です。」

 女性陣はアルディスにしがみついた。しがみつかれた方も何かに縋りたかった。

「それも、マイナスの魔法がかけられていると?」

 シグマが頷く。

「間違いありません。ただ、王子はこの剣の機能についてはあまりご存じではなかったようです。知っていたら前もってご忠告されたはずですから。」

 それもそうだ、と三人は首を縦に何度も動かした。

「王子はダミーだけ持ち帰り、本物の方はここで預かっておいて欲しいと置いて行かれました。恐らく我々がこれを調べても構わないと思っていたのでしょう。それとも、敢えて調べるように仕向けたのか。結局王子に検査結果をお知らせすることはありませんでしたが。」

 父は何のためにこんなものを持っていたのか。いや、そもそもレオンハルトはダミーなど造らせて、今更どうしようというのか、アルディスには見当もつかなかった。

 続いて、木箱が開けられる。中は薄い板で縦横五列ずつに仕切られ、その一つ一つに蓋付きのガラス瓶が納められていた。中身はどれも黒からこげ茶色の土のようだった。瓶の横には文字と数字による記号を打たれたラベルが貼られている。サラはうっと小さく唸りながら、黒っぽい土を睨んだ。

「これは、去年の八月、王子の使いが持ってきました。もちろん、使いの者は、私の裏の顔など知らず、ただ王子に頼まれたからと私の所へ持ってきたのです。中には 王子の手紙も入っていて、調査して欲しい、大丈夫だとは思うが気を付けて、と。例の白い土と同じような言葉が書かれていました。私は愚かにもこれはメキアの土なのではないかと勝手に推測して研究に入りました。大きな間違いでした。せっかく王子が気を付けるように忠告してくださっていたにも関わらず、不用意に取り扱ったため、毒に侵されてしまいました。」

「毒?」

「はい。ただの毒ではありません。魔法が罠のように仕掛けられていたのです。シザウィーホワイトの影響で消滅するような通常のトラップ魔法ではなく、半永久的な性質のものです。いわば呪いの一種です。土に何か魔法をかけると、それがきっかけとなって毒が放射される仕組みでした。この毒に侵されると、免疫機能に支障をきたし、自分の細胞を破壊し始めます。私はもって五、六年でしょう。」

 他人事のようにさらりと言ってのけるシグマを、三人は幽霊のように見つめた。

「な、治す方法はないの?」

「今のところ、見つかっていません。これが魔法そのものであったなら、手段もあるのでしょうが。或は、ただの毒であれば解毒剤をつくれるかもしれませんね。この毒がどう特別なのかと言いますと、かかった者の体質を変えてしまうところです。いわば、自分の細胞にアレルギー反応を起こしているような状況です。魔法アレルギーの治療法でも発見されない限り、これを治すのは難しいでしょう。」

 三人は言葉を失って、深く息を吐いた。シグマは自分のためではなく、三人のために残念そうに言った。

「王子には私の病のことは言っておりません。知らなかったとは言え、王子が責任を感じて苦しむことは目に見えています。私はシザウィーホワイトの研究を完遂させられれば人生に悔いはありません。王子のお蔭で私の目標はあと少しで達成されつつあります。生きているうちにそれが叶うとは思ってもみませんでした。ですから、王子には言葉で言い尽くせない程感謝しているのです。お分かりでしょうが、私が毒に侵されたことは内密にしてください。」

 ミーナもサラも既に涙を流していた。死を覚悟する人の穏やかな心境と、目標達成への強い意志が痛々しかった。

「今、この土から毒を放射されることはないので、ご安心ください。魔法をかけなければ大丈夫です。さて、この土の検査結果ですが、殆どは土としか言いようのない成分で構成されています。ところが、その中に微量ではありますが、非常に特殊な鉱物が含まれていることが分かりました。微量すぎて、詳しく調べるには限界がありましたが、有機鉱物と組成が似ています。琥珀や古代生物の化石に、です。それに、先程の魔法とは別の、比べ物にならないほど異質な魔法が掛けられているようでした。いや、かけられていると言うより、込められいる、凝縮されている、という感じです。何の魔法か分かりません。ただ、この微細な鉱物から検出される魔力の数値が異常に高いのです。もし、魔力を取り出すことに成功して、破壊のエネルギーに置き換えるとしたら、この城ひとつ吹き飛ばすことができる程の力が、一粒に込められているわけです。王子は全く、特異で危険なものとご縁があるようです。この箱の中央の瓶にこの鉱物が一番多く含まれ、外側になる程少なくっています。思うに、この瓶の配置はある地方の、ある地層の、ある地点の配置と一致しているのでしょう。そして王子はとてつもないエネルギーの粒をひとまとめにして、何かに使おうとなさっている、というのが私の推論です。鉱物等の割合から、サルナバの北東、国境付近の可能性が高いですね。」

 サラはドギマギして聞いていられなかったが、逃げ場もなく、一人スカートを握りしめながら、右往左往していた。

「王子には、土の成分と、特異な鉱物が持つ強烈な魔法エネルギーのこと、それから魔法のトラップが仕掛けられていて、危険なことをお伝えしました。王子は特異な鉱物についてやはり興味をおもちで、それだけを取り出すことができるのか、どのくらい時間がかかりそうかとお尋ねでした。私は正直に申し上げました。この鉱物はたいへん小さいため肉眼で選り分けることが難しく、比重が他の鉱物と変わらないこと、高温になると中に閉じ込められているエネルギーが暴発する可能性があること、以上の点から魔法で採取することが望ましいが、まずはトラップを解除しなければならず、解除する方法は魔法であり、それを見つけ出すことは肉眼で選り分けるより困難であることを。王子はしばらく考え込まれていましたが、分かった、とだけ言って、去ろうとなさいました。私は酷く胸騒ぎがして、つい、王子の腕を取ってしまいました。まさか、ご自分で地層を掘り返して、エネルギーの粒を採取するつもりなのではないかと心配になったのです。何がきっかけで暴発するか分かりませんし、トラップだって、魔法以外の条件で発動してしまうかもしれません。まだ全てを研究し尽くしたわけではないのです。王子はここへ初めて来られた日のように優しく微笑んで言いました。

『大丈夫。無理はしない。皆を置いて死ぬなんてできないよ。これのことは後回しにする。そのうちいいアイディアが思い浮かぶさ。あちらには有名な占い師がいると言うから、いざとなったら頼ってみようとも思っているんだ。』

我々はびっくりしました。シザウィーでは占いなんて神頼み同様、全く信じられていません。王子が藁にも縋る思いで何かを成し遂げようとされていることをこの時初めて知りました。」

 サラが幾分震えて、顔色も悪いことに気付いたシグマは、話を切り上げることにした。

「長々と話してしまいました。皆さんの今後に役立つと宜しいのですが。地上までお送りしましょう。」

 エレベーターに乗っている間、シグマは少し話を付け加えた。

「王子はご自分でも時々地下で研究をされていました。何を調べているのかは決して話されません。これは私の推測ですが、ご自身の血液とか細胞ではないかと感じています。王子は、レオンハルト一世と外見が似ているらしいともっぱらの噂ですが、事実上、アルバート王ともお妃様とも血縁関係はありませんから、返ってレオンハルト一世との関連に信憑性が出てきますね。魔法が使えて当然と言えます。」

 三人は何となく聞いていただけだったが、最後の件で一斉にシグマを見た。シグマは鼻で笑った。

「職業柄、知らないわけがありません。良いのです、これで。王子にとって自然なことなのですから。レオンハルト一世と血縁関係なら、むしろ正統な王位継承者です。ただ、王子はそういうことを調べているわけではなさそうなのです。

「じゃあ、何なの?」

 ミーナがつっけんどんに聞いてくる。

「わかりません。もしかしたら、皆さんの方がご存じなのではありませんか?」

 言われて、ドキッとする。そう言えば、傷の治りが異様に速い。魔法の使い方が変わっている。無尽蔵に使っているし。しかも魔法が効かないらしい。

「やはり、何かあるのですね。羨ましいです。私の知らない王子を皆さんが知っているなんて。」

 それ程でも、と三人は思った。何も知らないに等しい。この国へ来て、会う人会う人に話を聞く度、彼のことを何も知らなかったのだと言うことを再確認しているようなものだった。


 地上に着いて、シグマと別れた後、サラは真っ先に自室へ駆けだした。足取りはふらついている。

「あっ、ちょっと。どうしたの、サラ? ……って、アルディスまで!」

 アルディスもサラの後を追って行ってしまった。残されたミーナは腰に手を当て、眉を吊り上げるしかなかった。

「もう、何なのよー!」

 戸も閉めないで、サラは自分の荷物を探り始め、例の瓶を取り出した。黒い土が入っている、ガラスの瓶。息切れしながら、真剣に見つめていると、後ろからアルディスの低い声が聞こえてくる。

「渡すのか?」

 ゆっくりと向き直って、背の高い男を見上げる。

「早くお渡しするべきでした。何を躊躇っていたのかしら。王子の……ラエルさんの反応を見るのが怖かったのかもしれません。」

 一緒に行こうと言うアルディスの申し出に小さく頷き、落とさないよう慎重に歩いて行く。レオンハルトの部屋の前にも、通路にも人影はなかった。謹慎中ではあるが監視はされていないようだ。良かった、と二人は思った。震える手で、ドアをノックする。かなり小さな音だったが、ちゃんと聞こえたらしく、ドアはすぐ開かれた。二人を見て、レオンハルトの表情が和らぐ。会えて嬉しい、と言うように、輝かしく笑うのだ。

「やあ。研究所にはもう行ったのか?」

 質問に答えることもなく、サラはガラス瓶を差し出した。目を合わせることができず、お辞儀の格好をしていた。

「受け取ってください。」

 サラの黒髪も、瓶を持つ手も震えていた。側に立っているアルディスも緊張の面持ちで口を真一文字に結んでいる。ただならぬ様子に戸惑いながらも差し出された瓶に手を伸ばす。今のところ、彼に思い当たる節もない。

「あ……っ?」

 瓶を持った途端、血が逆流するような体がバラバラになるような、頭の中を掻きまわされるような衝撃を受け、手の力が抜けてしまった。瓶が落下しようとするその刹那、瓶の中の黒土が消失するのをサラもアルディスもしっかりと見ていた。空になった瓶は、重力に逆らわず、床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。役目を終えたと言わんばかりの、見事な割れっぷりだった。しばらくの沈黙の後、心身の違和感から解放されたレオンハルトが目を開いて、下を向き、狼狽する。

「うわ、ご、ごめん。中、何だったの? 黒いものが入ってたのに、どこに行ったんだろう?」

 そう言って上げた顔には、真珠のような大粒の涙がボロボロ、ボロボロ止めどなく流れ落ちていた。

「あれ? オレ、何泣いているんだろう? 急に悲しくなってきちゃって・・・何でかな? 変だよね」

 拭いても拭いても、涙が止まらない。記憶はなくしていても、これが意味するところを心のどこかで感じているのかもしれない。サラも堰切ったように泣き始めた。

 思えば、父が亡くなって以来、父のためにこんな風に泣いたことはなかった。何の手助けもできなかった、その償いにと、涙を捨てて飛び出した今回の旅。でも、「あの方」が泣いてくれているのを見たら、心の枷が外れて、もう我慢しなくて良いのだと思えてきて、一気に涙が溢れだしたのだった。

 二人、向き合いながら、わあわあ泣きじゃくる姿を、アルディスは黙って見守ることしかできなかった。






   八月十六日


 次の日の朝、食事も終わって一段落したところで、レオンハルトの部屋を尋ねる者があった。アルディスだ。今度は彼一人だった。神妙な面持ちで(大体にして彼はそうなのだが)部屋の中に入って来たかと思うと、レオンハルトが書類にサインしたり印を押したりしている最中の机の上に、古布で撒かれた長い物を無言で置いた。机に置かれた時の、ゴトン、という鈍い音から固くて重い物であるようだった。レオンハルトは正体不明の物体に目を落としながら、嫌々尋ねた。

「……何? これ。」

 昨日の流れで自分が触れるとどうにかなる物ではないかと、気が気でない。昨日の今日で、変なもの持って来るなよ、アルディス。そう言ってやりたかった。

「剣だ。」

 短い答えに、ため息を吐き、しぶしぶ布を取り払う。それを待っていたように、アルディスは説明を始めた。街で見つけた掘り出し物の剣で、鍛えようによっては良いものになる。痛みが酷いので自分では処置できないが、故郷のメキアに腕利きの鍛冶職人がいるので、旅の途中にでも立ち寄りたい……。淀みなく、事務的に話すことができた。

 レオンハルトが元の持ち主を思い出すかもしれず、そうなると大失敗。アルディスは激しい心音が聞き取られはしまいかと心配になるほど緊張しており、掌をじっとり濡らしていたのだった。

 当のレオンハルトは、彼の静かな苦しみには全く気付く様子もなく、例の塩釜みたいな刃をひっくり返したり、顔を色々な方向に動かしたりして観察していた。

「メキアの剣士ってのは、凄いんだなぁ。」

「?」

 レオンハルトの呟きに、眉をぴくりと動かす。

「普通、こんな状態のを見ても、良い剣かどうかなんて分からないじゃないか。」

 分かって堪るか、とアルディスは思った。

「すごく、良い剣だ……」

 アルディスは、ぎょっとした。心なしか、レオンハルトの表情はうっとりとしていて、剣の内部まで見通しているかのように、惚れ惚れと眺めまわしているのだった。

 何のことはない、彼にはこの剣がびかびかに光って見えていたのだ。物がこのように見えると言うことは余程心を込めて造られているのであり、名のある職人が打った剣は、彼にはいつも光り輝いて見えていた。さらに、心あるものが使うことによって、物の輝きは深みを増していく。この場合、剣の持ち主がいかに大事に扱い、マメに手入れをしていたかが見て取れた。持ち主が手放したことで鋭利さは失われたが、込められている心は一つも欠けていないことが良く分かる。それにしても、この痛み方はかなり変わっている。

「何か、魔法でも掛けられたのかな? それとも元々込められていた魔法が弱まったのか……ここではよく分からないけど、魔法がらみの成分が析出しているように見えるね。」

 おそらく、地下で調べてもらったら、はっきりするのかもしれないが、それには時間もかかるし、調べられるのは困るような気がした。アルディスのそんな心配は無用だった。

「ま、アルディスが信頼する鍛冶屋なら、きっと最適な処置をしてくれるだろうし、寧ろオレもどんなことをするのか見てみたいよ。」

 まるで他人事だが、今はこれで良い。大成功だった。鍛えあげられた剣に魔法をかけてもらわなければならないが、それはその時に考えるとしよう……。

 剣を鞘に納め、布で包み直すと、レオンハルトは真顔でアルディスに向き直った。

「旅の途中で寄りたいってことは、オレの旅に同行するって決めたのか? まだ三日しか経ってないのに……」

 緊張のほぐれたアルディスは、少し口元を緩めた。

「お前独りの旅のように言うな。行く先こそわからんが、オレはオレの旅と思ってお前に同行していたのだ。途中で止めるわけがない。始めからそう決めていた。」

 レオンハルトはあんぐりと口を開いた。

「もしかして、この三日間って無駄だった……?」

 無駄なことなどなかった。けれど、もう十分だと彼は思った。

「今後の参考にはなった。それに、オレもここで少し用があったので丁度良かったのだ。」

 植物園の中で花に埋もれる墓を思い浮かべる。

「だが、のんびりしている場合ではない。先を急がねばならん。お前の方が良く分かっているはずだ。」

 引き締まった様子のアルディスを幻のように見つめながらちょっと笑う。

「そっか……。そうだよな。だけど、あと一日待ってくれないか? 王や妃はともかく、上層部、特に叔父のガストンを説き伏せなきゃいけないんだ。関係省庁と調整しておかなきゃならないことも沢山あるし。ホントは今回の旅でも最初からそうしておきたかったんだけど、止むを得ない事情でいきなり飛び出してきちゃったもんだから、事後処理も山とあってさ。」

 書類の束をポン、と叩く。一日で片付く量には見えないが……アルディスの顰め面に爽やかな笑みで返す。

「何とかするよ。」






     八月十八日


 夜が白む前に、一行は旅を再開した。シザウィーの馬車に乗り込んで座っているだけの楽な移動だった。既にシザウィーを離れて隣町へ近づこうとしている。しかし、ミーナは不服そうに頬を膨らませていた。

「ちょっと……何であの人も一緒なわけ?」

 レオンハルトは苦笑いした。

「それが旅の許しの条件だったから……」

 仕方なく、とは言えない。本人に聞こえると面倒だから。

「だけどさ、凄く光栄なことだぜ? シザウィーの騎士団長、それも王様の弟君直々に馬車を曳いてもらうなんてさ……」

 ミーナがいきり立つ。

「あんたなんか、王子様でしょ? 何とかならなかったの? あたし嫌よ、あのおじさん。馬鹿にした感じで、厭味ったらしいんだから……!」

 レオンハルトが馬を宥めるように、わなわな震えるミーナを座らせる。彼に聞こえていなければよいが……。馬車の窓から、手綱を引く者の背中が見える。ガストン卿だった。完全防備とまではいかないが、戦士であることが丸分かりの装備に、マント。頭からつま先まで真っ白で、シザウィーから来ましたと言わんばかりの出で立ち。


 ――全く、言うことを聞けって言うんだよ!

 

 腹を立てているのはミーナだけではなかった。そのうち、縄でふん縛って、置き去りにしてやる、と甥っ子は心に決めていた。

「ところで、どこへ向かっているのだ?」 

 アルディスの問いに、気を取り直して答える。

「メキアだよ。」

「メキア?」

 アルディスの眉が吊り上がるので、慌てて付け加える。

「いや、メキアには、土の城があるんだ。序でに鍛冶屋に寄る。それでいいだろう?」

 レオンハルトはどうも人のことを優先する傾向があるので、周りが注意してやらないといけなかった。本人も自分の習性は承知していた。

「それに、メキアには友達が住んでいるんだ。」

 三人は驚いてレオンハルトを見た。友達がいるなんて思いもしなかったのだ。レオンハルトは心外そうに口を尖らせた。

「何だよ、オレにだって友達の一人くらいいるさ。今回、そこで寝泊まりさせてもらおうと思っているんだ。」

 三人は顔を見合わせた。

「こんな大人数で押しかけて大丈夫なの?」

 ミーナの常識的発言は、さらりと受け流される。

「大丈夫、大丈夫! 大勢の方が楽しいよ。」

 そうじゃなくって! と突っ込むより先に、寡黙に馬車を曳いていたガストンが、突如大声と共に馬を止めたので、四人とも前のめりになって転がりそうになった。

「化け物が出たぞーっ!」


 馬車から飛び降りると、一行を取り囲むようにして、茶色い影が何本も立っていた。よく見ると、立っているのではなく、生えている。地面から突き出して伸び上がっていた。太い木の幹ような巨体に鋭い棘を無数につけて、途中枝分かれして、うねうね蠢いている。先端部分には尖った形をした花弁が五枚付いた真紅の花が咲いていた。中央にくねくねざわざわ忙しなく動く雌蕊・雄蕊が枝の動きと相まって大変気持ちが悪かった。

「サボテンの化け物だ!」

 馬から降りたガストンは、指差して怒鳴った。至近距離にいたレオンハルトは耳を塞いだ。

「せめて魔物と言おうよ。」

「何を呑気な!」

 とか何とか言っているうちに、サボテンの枝の一つがしなって、一行に鞭のごとく襲いかかって来た。

「うわああああ!」

 全員、急いで逃げる。枝は地面を抉ってなお、第二撃目を振り下ろした。

 体制を立て直したアルディスが後ろ手に大剣を抜き取り、即座に枝を斬り払う。花がキピー!と甲高い悲鳴を上げた。周りのサボテンも黙って見ているわけではなかった。遮二無二枝を振り回してくる。

 レオンハルトはアルディスが枝を払っているうちに隙を見て、女性陣を戦いの輪の中から押し出し、離れるように指示。踵を返して戦闘態勢に入る。

「アルディス、オレ、下の方からいくから」

 と、十メートル程跳躍している剣士に声をかけ、魔物の根元に意識を集中。指をパチンと打ち鳴らしてかまいたちを発動。地面から五十センチ辺りを切断する。

 サボテンの悲鳴を聞きながら、ガストンは顔面蒼白でしばし棒立ちとなった。遠巻きには見ていたが、実際近くから見ると、剣士の動きは尋常ではなく、我が王子が魔法を使うところなど絵空事みたいだった。

「ガストン、ぼんやりするな!」

 王子の激が飛んで、ハッと我に返る。手にしていたロングスピアを気合と共に上でグルグル回し、魔物の胴体に斬り下ろす。次いで、素早く突き立て、捩じり上げながら抜く。レオンハルトはロングスピアの達人である叔父の槍捌きを久々に見て、にやりと笑った。腕が鈍ってなくて良かった、と。アルディスは初めて見たのだが、騎士団長とは名ばかりではないようだと感じた。シザウィーが実力主義の国であることが良く分かった。

 こうして、三人の武人の活躍によって、魔物はぶつ切りにされ、動かなくなった。ガストンはしかつめらしく魔物の死骸を見つめて言った。

「シザウィーの近郊でこんな魔物がでるとは。世の中一体、どうなっているのだ。」

 考え事をするために組まれた腕、と思いきや、右手が抑えている部分に朱が滲んでいる。左腕をサボテンの棘で負傷したらしい。

「あ、あんた怪我してるわよ!」

 平民丸出しの娘に、あんた呼ばわりされるのも苛立ったが、負傷したことまで指摘されて声を荒げずにはいられない。

「う、うるさい! このくらい、どうってことはないわ!」

 振り上げた手を、レオンハルトが捕まえる。

「いやいや。折角だから、治してもらえよ。」

 ガストンはぎょっとして振り解こうとしたが、もう片方の手をアルディスに取り押さえられた。

「そうだ、そうしろ。ここに白魔法使いが丁度いるのだから。」

 アルディスに他意はないが、同じシザウィー人の甥っ子の方は明らかに悪戯心が見え見えの、悪い笑みで満たされていた。

「や、やめろ。魔法など、かけられて堪るか!」

 じたばたもがくが、若者二人掛かりでは抵抗し切れず、羽交い絞めのまま白魔法使いがじわじわ迫って来るのを見ているしかなかった。

「大丈夫だって。痛くもかゆくもないんだから。」

「今のうちに慣れておくことだ。この先、周りで魔法が頻繁に飛び交うことになるのだから。」

 やたら神妙に呪文を唱え始めるミーナが悪魔に見える。

「やーめーろー!」

 焼印さながらにギャー!と叫ぶガストン。往生際も悪く、必死でもがく。どんな魔物に遭遇したって、たじろがない、屈強な戦士が、たかだか十九歳の娘を本気で怖がらなければならない。生粋のシザウィー人に魔法の洗礼は少々厳しいものであった。






     九月十一日


 メキアの国境までもう間もなくという所で、一行はコテージを広げ休むことにした。食事も終わって、銘々が部屋に戻る中、レオンハルトは、メキアに入ったらしばらく使わないからと、キッチンをピカピカに磨き上げにかかり、ガストンはダイニングテーブルの上でロングスピアの手入れを始めた。彼にも個室は与えられていたが、寝るとき以外はダイニングか、天気が良ければ外にいることの方が多かった。王族の彼には、どうも窮屈に感じられて、馴染めないということだった。

 キッチンの窓に顔を近づけると、美しい星空が見える。この分だと、明日も雨の心配はなさそうだ、と喜んでいるレオンハルトに、背後から叔父の声がかかる。

「王子、諸国との親睦をより深めたいなどというのは、体裁を整えるための真っ赤な嘘でございますな?」

 それは、シザウィーの関係省庁、上層部、王に妃、そしてガストン卿を説得するための口実に過ぎなかった。

「五年前は、親善大使となられたばかりで、シザウィーのために邁進しておられる話は、お供の兵からも聞き及んでおります。去年も、その続きと思って我慢しておりました。しばしば城へ戻られていたことですしな。しかし、今回のはいささか納得がゆきませぬ。それでお供いたした次第なのでございます。」

 レオンハルトは布巾を持つ手を休め、ため息を吐いた。やがて観念したように、叔父の向かいの席に腰かけた。

「真の理由を、何故教えてくださらんのだ?」

 叔父の真剣な瞳が、自分の瞳に刺さるようだった。

「言えたら、どんなに楽かと思うよ、ガストン、叔父上。オレだって、こんなこと、今すぐにでも放っぽり出して、逃げたいくらいだ。」

 叔父はとても驚いていた。甥は困難に常に立ち向かい、打ち勝ってきた。王者たるにふさわしい男と信じて疑ったこともない。その彼が逃げたいと言う程の、何事があると言うのか……? レオンハルトは穏やかに、囁くように続ける。今度は王子としての言葉だった。

「だけど、それはできない。私の中に流れる血が、意志とは無関係に私を突き動かしているのだ。私は恐らく、レオンハルト一世の血に繋がっている。叔父上も、何となく聞いたことはあるだろう。最初は、単なる噂、しかも外見に限ったことと、大して気にも留めていなかった。だが、今回の件で、私はつくづく思い知らされたのだ。私は、夭折したレオンハルト一世の代わりに成し遂げられなかった計画を実行するため、この世に生を受け、そしてシザウィーの王子として育てられるに仕組まれたのだ、と。よりにもよって、禁魔法国のシザウィーだ。自分で魔法を禁じておいて、千年も経った今、私に魔法を使えと言うのだ、この血が……。」

「王子……!」

 テーブルの上のレオンハルトの手が、震えている。

「魔法など使いたいわけがないだろう? シザウィー人が何の因果で魔法使いにならねばならぬ? これは呪いか? 罪の意識で気が狂いそうだ。納得のいく説明が欲しいのは私の方だ。」

 テーブルに屈み込み、頭を横に振るレオンハルトにガストン卿は彼らしくもなく、困った様子でおろおろするばかりだ。

「魔法を捨てて、シザウィーに戻ることはできんのですか?」

「もちろん、そうするさ。来年の私の誕生日までに。その時、私は」

 起き上がって、叔父の方を見る。視線はしかし、宙を漂っていた。

「私は、決断に迫られる。」

「決断?」

「どちらに転ぶかは、私次第。私がその時、今の私でいられたら、転ぶ方向は一つしかない。だが、魔法を覚える度、使う度に、私の心は蝕まれていく。それを日々、感じるのだ。」

「心が蝕まれる? それはどういう……」

 叔父の茶色い瞳に、目を合わせて言う。

「漂白されていくのだ。それはある意味、私を楽にしてくれる。苦しみのない場所へ私は導かれる。ところが、そちらに転がると」

「どうなるのですか?」

「言えない。知らない方が良いこともあるのだ、叔父上。私もこのまま、何も知らずに生きていけたら、どんなに幸せなことだろう。でも、もう引き返せない。進むしかないのだ。次の誕生日までに全てが分かってしまう。その日が来るのが、怖くて堪らない。」

 頭を抱え込んでしまうレオンハルトを見ながら、叔父は昔のことを思い出していた。




 それは、先代の王が亡くなって、第一子であるアルバート三世が三十五歳で即位した頃。彼は五年前に従弟のユリアを妃に娶っていたが、二人に子供はいなかった。五つ年下のガストンは、近親婚が嫌で、ロングスピアの師匠の娘を嫁にもらい、一年後には女の子が誕生。その子は今、街の商人の妻となり、二児の母……。つまり、ガストンは血が薄まることに無頓着で、我が子を次の王にしようなど、妙な出世欲を持たずに生きてきた。王族に生まれながら、気位は高くなく、いばっているわりに、下々への理解が厚い。それはできがいいとはお世辞にも言えない兄のサポート役として、幼い頃から教育されてきたためかもしれない。兄はまだ王としての威厳もあり、国を豊かにしようという心意気もあった。他国に戦争を仕掛けるような好戦的なやり方ではあったが、今よりはましだと、弟は思っている。四十五歳を過ぎたあたりから兄の言動の釈然としない感じがエスカレート。妃のユリアもそれにつられるようにおかしくなっていった。シザウィーに精神科の医師はいない。仕方なく、外部から呼んだのがサルナバのセドリク・ドッペルン医師であった。魔法を使わない医術ができると言うことで選ばれたわけだが、彼は温厚そうな顔をして、づけづけときつい診断結果を告げた。近親婚が続いたことによる遺伝病で、魔法を使ったとしても治りません。薬で進行を遅らせることはできます。王様としての職務を果たすことは不可能です。正しい判断を下す能力は元々欠如なさっておられるし、難しい問題に直面しても解決できません。失礼な言い方で申し訳ございませんが、記憶力・理解力・判断力、どれをとっても幼児並。ただ、性格は明るく前向きでなおかつ従順でいらっしゃる。弟君の言われることは何でもお聞き入れなさるでしょう。これからは支えると言うより操るような気持ちでいらっしゃる方が、お国のためでございます。こうして、弟は影の権力者となることを余儀なくされた。

 二人に子どもがあったなら、その子に王位を継がせられるものを……と、弟はずっと思っていた。しかし子どもはなかなかできず、代わりに従弟のルートウィッヒが次期後継者として浮上してきた。まだ二十代で若かったが、ガストン同様、近親婚の影響がなく、ガストンと違って、気位が高く、出世欲が強い。王が病気なのを知ってか知らずか、うまいこと取り入って、このまま子どもが生まれなければ、自分を王に推挙して欲しいと願い出て、承諾を得たのである。あまり気持ちの良い男ではなかったが、他になり手もいないので仕方ない、とガストンは思った。

 ところが、どういうわけか、王が六十を間近に控えた頃になって、妃が懐妊したのである。妃は四十五歳と出産には高齢であったから、だめかもしれない、あまり期待せず、気長に見守るとしようと言う気風が城の中に流れていた。根明でストレスを感じることのない性格が効を奏してか、悪阻もなく母子共に健康な状態が続き、あれよあれよという間に出産の時がやって来た。こんな日が来ようとは、と感慨無量のガストンであったが、事はそんなに上手く行かなかった。産声がちゃんとしていたのに、すぐに死んでしまったと言うのだ。

 ガストンはがっかりした。父親になり損ねたアルバート王も、これにはさすがにがっかりして、どうしたものかと、ない頭を振り絞り、思い浮かばないから城外へ散歩するようなことをしばらく続けた。妃は赤子が死んだことを理解できず、生きていると信じ切っていた。一週間後、主が北の森をぶらぶら散歩していると、獣道の真ん中に、籐で編まれた籠が置いてあり、中には柔らかいシルクの白い布に包まれた、愛らしい赤子が入っていた。王は籠を持ち上げどこの子どもだろうと、布を捲ってみた。この赤子に似つかわしくない、黒い竜のペンダントが胸の上に置かれていた。

「その子を育ててもらえぬか」

 突然、抑揚のない声が前から聞こえて、王は驚いた。顔を上げると、黒ずくめの無表情な男がいつの間にか立っていた。

「何、わしの子どもにしても良いのか?」

 王は上気して言った。見るからに怪しい男なのだが、王にはその見分けが付かない。子どもが死んで困っているところへ、救いの手を差し伸べてくれている善人だとさえ思った。男は一つ、頷いて見せる。

「幸せにしてやってくれ。それだけが条件だ。」

「こんな可愛いややこ、世界一の幸せ者にするぞ! わしも幸せじゃー!」

 喜びのあまり、くるくる回る初老の王を眩しいと思ったか、男は目を閉じ、後ろを向いて行ってしまおうとした。

「おお、ちょっと待たれい!」

 慌てて呼びかける。男は待ってくれた。

「この子は名を何と申すのじゃ?」

 男は後ろ向きのまま暫く黙っていたが、小さな声でしかしはっきりと告げた。

「レオンハルト」

「レオンハルトか! 良い名じゃ! しかもご先祖様と同じではないか。」

 この場合、同じにしてしまった、というのが正しい。アルバートには何の問題もないのだが。

「ペンダントはお守りだ。常にその子が肌身離さぬようにしておくのだ。」

 そこまで言うと、男は森の奥へ消えて行ってしまった。


 赤子を連れて帰ると、ガストン卿や上層部は悩みに悩んだ。何人か、王と妃の本当の赤子が死んだことを知っている。つい先程まで、そろそろ公にしようと話し合っていたところだ。そこへ、この赤子がやって来たわけだが……話がうますぎる。いや、あからさまに怪しい。なにか裏があるとしか思えなかった。しかしまあ、赤子に罪はないし、王ではないが、この子を見ていると、ついデレデレしてしまう。とても魅力的な赤子であった。ガストンはいっそ自分の子どもにしましょうと言って、初めて兄に叱責されることになる。

「何を言うか! この子はもう、わしの子じゃ! 誰にもやらんぞ。」

 六十歳になろうという王のアッカンベーに弟は心底げんなりした。無理に引き離したらそれこそ何を言い出し、何をするものだか知れたものではない。危険を覚悟の上で、赤子を王の子とすることに決めたのだった。


 赤子はすくすくと育ち、誰からも愛される素質と賢さを併せ持つ、素晴らしい王子に成長した。黒ずくめの男との約束通り、幸せを絵に描いたような日々を送っていた。十一歳の誕生日までは。

 あの時、誰が首謀者なのかすぐに気付けなかったことが、今でも悔やまれる。片を付けたのは、命を狙われ、身も心も血で汚された被害者本人だった。

 ガストンはたまたまそこに居合わせただけのこと。間もなく十二歳の誕生日を迎えようとしていたある晩、夕食を終えて部屋へ戻る途中、ガストンとレオンハルトは同じ方向だったため、一緒になった。並んで歩いて楽しく雑談をするような状態ではなく、暗い影を背負う少年の後を、叔父は寂しそうに付かず離れず歩いていた。と、レオンハルトが急に歩みを止めた。ガストンもつられて止まる。

「やあ、これはこれは、レオンハルト王子、ご機嫌麗しゅう。」

 ルートウィッヒが壁に寄りかかって立っていた。血走った目、赤い鼻。だらんと垂れた手には酒瓶が握られている。彼のこんな醜態を誰も見たことはなかった。高慢ちきな所は頂けないが、常に身なりはきちんとしていたし、立ち振る舞いも王族らしい気品を携えていた。それが、今、ただの酔っ払いに成り下がって、親子ほども年の違う王子にくだを巻こうというのだ。これは、一体どうしたことか?

「次期シザウィー国王様のお成りだ。ありがたくって、涙が出そうだ。」

 憎しみに歪む顔。口だけが笑っている。彼には、ガストン卿が全く目に入っていないらしく、ひたすら、レオンハルトの緑の瞳を刺すように睨みつけていた。

「本来なら、オレがなるはずだったんだ。それを、いい歳こいて、妊娠だと? 悪あがきも大概にしろってんだ。五歳レベルの脳味噌の癖に、余計なことに精を出しやがって・・・!」

 ガストンの足が一歩前にでる。子どもの前で何を言うのか、この男は?

「はっはー! 刺激が強すぎたかな? なぁに、世の中には、もっと強烈な話が沢山ある。例えば、生まれたばかりの健康な赤ん坊の首をへし折って殺すとか。赤子の首を捻るも同然とは良く言ったものだ。木の枝を折るより簡単だったからなあ。」

 ガストンは目の前が真っ暗になった。まさか、そんなはずは……。

「貴様、血迷ったか? 出まかせを言いおって!」

 怒鳴り声が震えている。狂人の声は冷淡に響く。

「出まかせ? ふん。出まかせはお前たちの方ではないか! オレは十三年前のあの夜、助産師の一人として紛れていたのだ。変装してな。誰もオレがそんなところにいるなんて思いもしないし、助産師など気にも留めるはずがない。もう一人の助産師は金で釣った女だった。すぐに口封じはさせてもらったがな。妃が産み落とした赤子を、女が取り上げ、オレが産湯で洗うふりをして首を捻った。あの感触は今でも忘れられん。どいつもこいつもオレの言うことをあっさり信じてくれたものだ。ガストンよ、お前もあの場にいたであろうが!」

 反論できず、ただわなわな震えることしかできない。前に立つ、レオンハルトの背中は、微動だにしていなかった。

「なあ、ガストン。説明してくれよ。オレがこの手で殺した子どもが、どうしてここにいるんだ? おかしな話だろうが? 王子が生まれたとお触れが出た時は、我が耳を疑ったものよ。あんな短期間でよく替え玉を仕入れたな。手際の良さに感服するぜ。また、この替え玉がちやほやされて、皆、放っておかないものだから、殺すのも一苦労だ。十一年かかって、ようやく訪れたチャンス。それが、あの誕生会の夜だった。」

 レオンハルトの肩が、ぴくりと動く。

「お前が独りになるのを、十一年も待った。確実に殺すため、ガキ相手に七人、殺し屋を用意した。なのに、どうしてお前は生きているんだ? お前は替え玉の新しい替え玉か? それとも、ガキの皮を被った化け物か? あれから何度も殺し屋を用立てたってのに、皆どこかに消えちまった。お前、奴らをどこにやったんだ? どうやって連絡を取り合って、どうやって待ち合わせて、どうやって消すんだ? そして、オレは、どうしてあんなに沢山の殺し屋を雇って、頻繁にお前の命を狙わなければならん? 最初はオレの意志で、純粋にお前を殺したいからだと思っていた。だが、途中から、さすがにおかしいと気付き始めた。いくら王族だからって、百人も殺し屋を雇えるものか。どうやって雇ったんだか、思い出せん。誰かの差し金だ。オレは、誰かに利用されてる。去年の誕生会と、その次の奴までは確かにオレが首謀者なんだ。間違いない。だが、後のは一体、何なんだ? お前を憎むあまりオレは狂って、わけが分からなくなってしまったのか? もう……疲れた。これで、終わりにしよう。」

 酒瓶が床に落ち、割れずに転がった。飲み干されたらしく、中身が零れることはなっかった。ルートウィッヒが、ゆらりと壁から離れ、二人の方へ向き直る。その手に細身の短剣が冷たい光を放っている。

「!」

 狂人が奇声と共に剣を振り上げ、飛びかかってくる。ガストンは身じろぎもできない。食事に武器など携帯しないから、丸腰だったのだ。しかし、レオンハルトは……。

 時が止まったようだった。レオンハルトがルートウィッヒの脇をすり抜ける。その刹那、白い筋が閃くのを、辛うじて、見た。それから、レオンハルトの後ろ手に、異国の剣が握られているのを見、ルートウィッヒの首が、斜めにずれて、転がり落ちるのを見た。戦の最前線にいたガストンは、人の死を数えきれないほど味わってきた。それでも、この死は、この殺しは、今までのものとは比較にならない程の強烈な印象をガストンに刻み込んだ。ガストンは、恍惚として立ち尽くし、何と美しい、とその光景を眺めていた。頭部を失ったルートウィッヒの身体が倒れていく間、鮮血が切断面から弧を描いて吹き出し、白壁を朱に彩った。血しぶきは自分にもかかったが、振り返ったレオンハルトのプラチナブロンドを伝って、頬を血に染めた姿の何と神々しいまでに美しいことか。

 異国の剣が大きな音を立てて、床に落ちる。はっと我に返って、もう一度、甥の顔をよく見る。冴え冴えとしたなかに幼さが少し残る、その瞳に、透明な涙が溢れ出て、頬の血を洗い流していた。

 唇が僅かに動いて、断片的に、聞こえる言葉。

「どうして……そんな……ひどい……」

 ここ一年の、彼に対する仕打ちのことかと思っていたら、

「生まれた……手にかけ……何だと思って……」

 殺された赤子のことで、泣いているのだった。

 レオンハルトは、叔父に後片付けの手配を依頼し、その場を去ろうとして、立ち止まった。

「王と妃には、赤ん坊が殺されたこと、言わないで。悲しすぎるから……」

 ガストンは、甥の優しさが、この一年の出来事にあって、損なわれていないこと、そして、殺し屋を夜な夜な返り討ちにしていたのが事実であったことをこの時確信した。それにしても……?

 ルートウィッヒの遺体が処理された後、ガストンとレオンハルトは、王と妃のもとへ事情の説明に呼ばれた。むしろ説明を求めたのは、周りに控える上層部の方であったが。

「ルートウィッヒ卿を殺したのは、私です。」

 十二歳の少年の、凛とした声が響く。甥の説明がそこで終わってしまったので、叔父は慌てて付け加えた。

「襲いかかって来たからなのです。正当防衛です。しかも、奴は王子の命を、あの誕生日からずっと狙ってきたのだと白状しました。悉く凶行に失敗して逆上し、ついに直接手にかけようとしたわけです。次期王になるのは自分だと言って……」

 約束通り、赤子の件は黙っておいた。酷い話をわざわざ持ち出さなくても、二人は信頼を充分に得ることができた。叔父がホッと胸を撫で下ろしている横で、レオンハルトは突然言葉を発した。

「私は、どこから来たのですか?」

 その質問に、場が凍り付く。王と妃は何のことやら分からず、ポカンとしている。

「お二人の子どもではないのでしょう?」

 ここまで言われると、さすがに分かったらしく、青ざめて、動揺をはっきり見せる。

「ななな、何と! そなた、何でそれを……!」

「私のことを、知る限りで良いから教えてください。私は、何者なのですか?」

 王は髭をいじりながら、ちらっと弟を見た。彼の許可がないと、兄は何もできない。弟の頭が、仕方ないと縦に振られる。記憶力の弱い王だったが、印象深い出来事であったから、淀みなく当時のことを話して聞かせることができた。レオンハルトはさして顔色も変えず、静かに王の話に耳を傾けていた。その横顔を見ながら、ガストンは思った。知っていたのだ、と。たぶん最初の事件の時から、自分の秘密を漏れ聞いていたのだ。兵士の間で噂になっていたから、いつかは本人の耳に入るだろうとは思っていた。しかし、あのタイミングで聞かされるとは、彼の心境はいかばかりであったろうか。父親と信じていた男は、この通り、何の迷いもなく、単なる思い出話のようにペラペラ喋っているし……胸が張り裂けそうなのは、傍で聞いている叔父の方であった。

「まあ、そういうわけじゃが、そなたのことをわしも妃も我が子と思うて育ててきたのじゃ。これからも変わりはせぬ。」

 根の明るい王らしい発言だった。その明るさは、レオンハルトの心を照らすには至らない。

「おお、そうじゃ。そなたが首にかけているペンダント。その時に貰い受けたものじゃ。お守りと言うておった。手がかりと言えば、それくらいなものかのお。」

 レオンハルトは服の上からペンダントを掴んだ。これが自分を知る手がかり……。

「正直に話してくださってありがとうございます。」

 レオンハルトはひとまず満足した様子だった。


 それから程なく、レオンハルトの護衛としてアーサー・フロントがメキアからやって来た。最初は何故、外部の人間に、しかも今更……と思っていたガストンだったが、甥っ子に笑顔が戻ったので、良しとしていた。その彼も呆気なく死んでしまった。甥っ子からまた笑顔の灯が消えた。

 そして庶民の勉強をしたい、資格を取りたいと言い出し、街へ毎日出掛け、医師免許の時など何週間も病院に住み込みで城に帰りもしなかった。しかし、病院では打ち解けて過ごすことができていると偵察から聞き、良い経験、気分転換になっているのならと、目を瞑って……。

 ところが、ある日、血相を変えて帰ってきた。ドッペルン医師が王と妃の定期往診を終えて、城を去って間もなくのことだった。

「王と妃が病気って本当なのか?」

 聞かれて、ガストンは口ごもった。病気は病気だが、なかなか説明しにくい問題だった。しかし、真剣な甥の眼差しに答えないわけにもいかず、重たい口を開く。話をしながら、ガストンは不思議に思っていた。どうして今まで気付かなかったのだろうか、この子は。学識があり、機知に富んでいるはすなのに、両親のおかしな言動に少しも違和感を抱かなったのだろうか。

 そう言えば、この子は昔から感受性は豊かであるが、人の善悪を見分けるとか、人の裏側を覗き見るとか、人の暗黒面に目を向けることがなく、全てを良い方に受け取る習慣があった。純粋な心故に、愛想笑いで人の気を引こうなどと考える浅ましさも皆無。大人の顔色を窺ったり、相手によって態度を変えることもない。皮肉にも、そういうところが血のつながらない両親に似ていた。実際育てたのは、ガストンやマーヤだったというのに・・・。

 ガストンの説明を聞き終わって、力なく呟くレオンハルト。

「知らなかった……だって、あんなにしっかりされているではないか?」

「王子と話されている時は、どういうわけかしゃんとされるのです。目が覚めたみたいに。」

 しばしの沈黙。

「国のことはどうしている?」

 ガストンはぐっと息をする。

「は……わしと上層部の連中で、何とかやっております。王には単純なことだけ頼み申しております。しかし、対応がいかばかりか遅れて、つけが回ってきておるのは確かですじゃ。」

「つけ?」

「今ではわからんでしょうが、先代も若い時の王も戦好きでしてな。シザウィーの威厳を保つとか言って、しばしば他国へ侵攻を……。王は、元気は元気ですが、もうお年ですし、王子は若すぎます。敵国は山のよう。我が国が少しでも弱みを見せたらもう……!」

 二人は、震えあがった。レオンハルトは両腕を抱えながら、しばらく考え込み、やがて決心して言った。

「分かった……。国政は、これから私が主導する。今はまだ、国民の信頼も得られないだろう。確かに、私は若すぎる。表向きは、アルバート王に頑張っていただくこととしよう。今まで通りに……。そして、少しずつ私の存在を肯定的に印象付けていくこととしよう。さらに、敵国を減らし、味方を増やす。そのための根回しをするのだ。」

「根回し?」

「外交だ。私が親善大使となって、諸国を巡ろう。禁魔法国という性質上、この国は外交をしなさ過ぎる。それが仇となっているのだ。他国からも客人をなるべく招くようにしよう。特に、知識人と呼ばれる方々を。知恵を拝借するのだ。いつまでも昔の栄光、昔の威厳に縋っている場合ではない。折に閉じ籠っていないで、外の空気を吸わねばならん。」

 凡そ十三歳の少年の考えることではないとガストンは思ったが、同時に頼もしさと苦境に立ち向かう強さを感じて、嬉しさのあまり眉を震わせた。この時を彼はずっと待っていたのだ。甥が、任せておけ!と胸を叩くのを。

 ところが、六年の月日が流れ、シザウィーの国政も外交も立て直され、軌道に乗って来た、そんな矢先に、レオンハルトが失踪してしまう。失踪して何をしているかと思ったら、よりにもよって魔法を! シザウィーへの、王や自分への裏切りである。それでも、何か意味があるのだろう、彼なりの考えが……と、いつものように、看過してやろうと思っていた。理由をきちんと説明さえしてくれれば。

 それが、出来ないと言う。逃げいたいと泣き言まで……。今や、レオンハルトは、シザウィーの希望の光。むざむざと危ない橋を渡らせるわけにはいかない。彼の身に、何が起こっているのか、この目で確かめないことには、気が済まない。叔父として、何かしてやりたい、力になってやりたかった。しかし、シザウィー人の彼には、理解不能な世界が、この先待ち受けている。覚悟している以上のことが。彼は、望むと望まざるとによらず、それを目撃する。


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