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第四章 レオンハルト王子という人(1)

    第四章 レオンハルト王子という人


     七月三十日


 雲一つない快晴の昼下がり。冷気を放つものがなくなって、真夏の太陽を存分に浴びる村は、徐々に本来の季節を取り戻そうとしていた。氷の神殿は時折大きな音を立てながら崩れ、今や元の面影もない程溶けて、村中を水浸しにした。それでも家の中はまだ冷える。暖炉には絶えず薪がくべられ、家々の煙突からは煙が立ち上り、澄んだ青空に灰色のベールをかけた。

 旅の一行は、村長の家の一室で、それぞれ離れて無言のまま椅子に座ったり、ベッドに突っ伏したりしていた。部屋は寒かったが、火を見たくなくて、暖炉に火を点けようとする者は誰もいなかった。氷にはもっとうんざりしていたから、窓の外に目を向けることもなく、皆、あらぬ方向をぼんやり見つめて過ごしていた。

 村人は全員凍傷を負っていたが、ある程度身体を温めたら、各々の魔法で治療して元気になり、今朝方、数名が風の城へ出掛けて行った。子どもたちを迎えに行ったのだ。村人たちは仲間を失って悲しみに沈む彼らを極力放っておいてくれた。窓際に腰かけながら、やはり視線を部屋の奥、いや、もっと先、壁の外へ向けていたラエル。村人とは違う気配をいくつか感じて……。

 そんな中、ずっと考えていた。このまま旅を続けて良いのだろうか、と。この旅はどんどん過酷なものとなっていくはずだ。この者たちを付き合わさせて良いものだろうか。もしかしたら、守り切れず今回みたいに誰か、酷い場合は全員死なせてしまうかもしれない。自分はそんな危険を冒してまで、ついて来てもらえるような人間だろうか。

 ラエルは決心して、立ち上がった。そして、仲間たちに告げた。

「皆に来てもらいたい所があるんだ。」

 泣き腫らした目で、ミーナが尋ねる。

「どこへ?」

 ラエルは聞こえてないみたいに、話を続けた。

「そこで、オレのことを、もっとよく知って欲しい。知った上でオレの旅について来れるのか、判断してくれ。命を懸ける程の価値があるのか、どうなのか……。後悔して欲しくないし、オレも後悔したくないんだ。」

 ラエルは言い終えると、部屋のドアを開けて出て行ってしまった。残された三人は力なく驚きつつ、静かに彼の後をついて行った。

 村長夫婦が掛ける言葉を探してまごまごしているのを尻目に、一行は陽光が燦々と降り注ぐ表へそぞろ歩いた。濡れる地面の反射光が目に痛い。網膜に焼き付いた残像が消えきらないうちに、見慣れない姿が目に入ってきて、ラエル以外のメンバーは後ずさってしまった。

 真っ白なマントに身を包み、これまた真っ白な兜を被った、五人の兵士。右手には両端に簡素な装飾がなされている、白くて長い棒を携えている。アルディスは一目で彼らが何者か悟った。シザウィーの白騎士団だ。その中の一人、ずんぐりむっくりした初老の騎士が前へ進み出た。

「さて、王子。城へ帰りましょうぞ。」

 ガストン卿である。王子という響きに、ミーナは殊更驚き、飛び上がった。

「王……? え、何?」

 ミーナの質問はまたも聞き流された。

「見つけるまでに随分時間を要したようだな?」

 ラエルはもう、ラエルではなくなっていた。凛とした表情に、艶のある落ち着いた声。こんな彼を一同は見たことがなかった。

「いや、あやつがなかなか知らせてくれんのです。まだその時期ではないとか何とか言いおってからに……! しかも、やっと居場所を吐いたかと思えば、こんな人一人通るのでやっとの階段を昇り降りせにゃあならん所で、騎馬隊はぐるっと回り道です。それならそうと始めから言えば良いものを!」

 叔父が唾を飛ばしながら釈明するのを、冷やかに一笑する、レオンハルト。

「彼はしっかり仕事をしていた。お前たちが私の妨げをしないよう、うまく調節したのだ。言い訳は見苦しいぞ? 私一人捕まえるために騎馬隊まで駆り出すとは。諸国の不信感を煽るような真似をして、シザウィーに泥を塗るつもりか? せめて目立たない格好はできなかったのか。白の団体が遠くからでも丸見えだったぞ。その点、彼は露ほどの気配も感じさせなかったし、今もどこにいるのか全く分からん。少しは見習ったらどうだ?」

 ガストンは膨れっ面で答える。

「お言葉ですが、あんな変質者まがいの真似など御免です!」

 話題から取り残された三人は、ポカンと二人のやり取りを眺めていた。と、王子様は振り返って、エメラルドの瞳で三人を見回した。見回された方は、蛇に睨まれた蛙よろしく、動くことができなかった。王子はまた前を向いて、白の騎士たちに命じた。

「この方たちを、城までお連れしろ。私の大切な客だ。丁重にな。」

 騎士たちは緊張の面持ちで敬礼するや、三人を前後に挟むようにして、ついて来るよう合図をした。村を出たところで騎馬隊数十と、馬車が二台待っていて、小ぶりだが豪華な方にレオンハルトとガストンが、大き目で簡素な造りの方に他の三人と騎士たちが乗り込んだ。レオンハルトは見送りに出てきた村人たちに声を掛けた。

「我々はこれで失礼します。今さっき見聞きしたことは、皆さんの胸にしまっておいてください。あなた方のことも他言はしません。」

 村長が村人を代表して答える。

「何とお礼を申し上げて良いか……本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。あの……差し出がましいようですが、お亡くなりになられた方のお墓をこちらで建てさせて頂いても構いませんでしょうか?」

 レオンハルトは寂しげに微笑んで目を伏せた。

「お心遣い、感謝します。しかし、それには及びません。彼の墓は既にありますので……」

 誰もが驚きを隠せないまま、王子は出発の号令をかけた。シザウィーへ向けて、走り出す人馬の群。馬車の中で呆ける三人。特に、ミーナは何が何だか訳が分からず、普段使わない脳の部分をフル活用して、眩暈を引き起こしていた。

「何なの、これは……?」

 そう呟くので精一杯だった。






    八月十三日


 シザウィーの軍馬は駿馬揃い。普通なら一か月かかるであろう道のりを、半分以下の日数でこなす。とは言え、二週間も馬車に揺られ、魔物との格闘もないとなると、さすがに手持無沙汰で一日一日が異様に長く感じられた。いつもなら、ここでラエルが気を紛らすような話題で間を取り持ってくれるのだが、今は別の馬車に乗っている。せめてキースがいてくれたら……と、思っても仕方のないことばかり頭に浮かべ、三人は暗く沈んだ。

 そんな中、サラが重い頭をふと、擡げた。

「そう言えば、キースさんが亡くなったことや今の境遇のせいですっかり忘れていたのですが……」

 氷の神殿で、一年前に起こった事件。キースが死んでしまうまで、一行にとって一番の関心事であったはずが、村人に尋ねる間もなくここまで来てしまった……。そう思い込むサラに、アルディスは何ということもなく話した。

「問題ない。オレとラエルが村長から経緯を聞いておいた。村長の家に泊めてもらった晩、お前とミーナが寝就いた頃に。」


 一年前、ナルシェにやって来て、氷の結晶の力を復活させようと提言し、村の大人たちを神殿へ誘った、水の一族であると言う男。

「ジークフリート、と名乗っていました。藤色のマントを羽織って、青味を帯びた、少し癖のある長めの銀髪で、マントと同じ色の瞳が印象的でしたね。端正な顔立ちで、二十代半ばくらいなんでしょうか。もっと若いのかもしれませんが、落ち着き払った様子といい、風格すら漂う立ち振る舞いといい、年長に見えました。我々は皆、魔法使いです。彼を一目見て、どれ程の魔力の持ち主か、瞬時に予測できました。桁違いですね。我々が束になっても敵わないことは明白でした。水の一族から分家した際の約束云々の問題ではありません。彼に歯向かうことは、死を意味すると、本能的に悟ったのです。そして彼はただの水の一族ではなく、そもそも人間ですらないということも。だいたい、彼の付き添いの連中からは妖気が漂っていましたからね。私たちは死を覚悟し、後に残した子どもたちの無事を祈りつつ、彼に言われるまま、神殿へ向かいました。その頃にはもう、神殿の異変には気付いていいたのです。溶けて滴を垂らしていたのが、ぴたりと止んで、冷気すら放っていましたから。中に入ると、結晶を納めていた祭壇に、見たこともない女性の氷像が立っていて、あまりに精巧な造りで、驚きの声を上げたものですが、それが動いた時には、心臓が飛び出すんじゃないかというくらいびっくりしましたね。ジークフリートは彼女に命令しました。『お前の餌を連れてきた。これだけあれば充分だろう。一年かそこらでプラチナブロンドにエメラルドの瞳を持った男が現れるから、生け捕りにして、連れて来るのだ。多少手荒な真似をしても構わない。生きてさえいればいい』と、こうです。女は言いました。『子どもも沢山いたでしょう? あれは私にくれないの?』とね! するとジークフリートは氷より冷たい笑顔で言うんです。『子どもはここへおびき寄せるための餌だ。手出しするな。それに、結晶もくれてやったのだ。あまり我ままを言うと、お前を鍋で煮て妖魔たちに茶を振舞うことになる。』と。女はそう聞いて震えあがっていました。後の一年間は覚えていません。あなた方が来てくれるまで、凍らされていたのでしょう。あの男もどこでどうしているのやら……。あなたを狙った理由も知りません。お役に立てず申し訳ないことです。私たちにできることは、皆様に感謝することと、亡くなられた方のご冥福をお祈りすることしか……。」

 これが得られた情報の全てだった。


「そうですか……。」

サラはため息のように声を吐き出した。残念とか、そんな気持ちからではなく、聞いたところで自分には何もできないという無力感に未だ苛まれていた。ミーナはしかし、それ程軟な質ではない。

「やだ! どうして寝てるうちにそんな話するのよ。せめて次の日の朝に教えてくれてもいいじゃないの。」

 アルディスは横目にミーナを見た。

「話せるような状態ではなかった。お前たちも、オレたちもな。特にあいつは精神的にかなり追い詰められていた。」

 そうとしか思えない発言があった。


 村長の話を聞いてすぐ、彼の口を吐いて出た言葉。

「氷の一族って、本当に律儀っていうか、お人好しなんですね。」

 アルディスも村長夫婦も目を丸くした。

「だって、そうでしょう? オレがいなければこの村は襲われなかった。オレのせいで大人も子どもも危険な目に遭った。あなた方は巻き込まれたんですよ。赤の他人の揉め事に。それなのに、申し訳ないとか、感謝しますとか、おかしいじゃないか。迷惑だから出て行けって言えばいいのに。」

 組んだ足に肘をつき、頭を抱え、叫ぶラエル。一時、あまりの痛々しさに掛ける言葉もみつからなかったが、村長の奥さんが反論に出た。

「そんな……そんな、とんでもない! どうか、ご自分のことを悪く仰らないでください。悪いのは、あのジークフリートという男と、氷の化け物なんです。あなただって被害者の一人ではありませんか。私たちと同じです。それに、私たちのことを命がけで守ってくださいました。子どもたちの世話までしていただいて……文句なんかいったら罰が当たります。感謝して当然なんです。」

 不幸のため卑屈になった若者が不憫で、奥さんは泣いていた。言葉を詰まらせた妻の代わりに、夫の村長が続きを語った。

「そうです。しかも、今回の一件で得たこともあります。我々は目が覚めました。長い呪縛から解き放たれたのです。長い間、ただ闇雲に氷の結晶と、その容れ物に過ぎない神殿を守り続けてきました。わざわざ水の一族から分家して、こんな辺鄙な場所に移り住んでまで守ろうとした真意は一体何だったのか、既に忘れられて久しい中、神殿同様、我々の心もだらしなく溶け崩れていき、後には惰性という名の責任感が残るばかり。守るものを失った今、何のためだったのかをようやく理解することができました。部族の間で千年前から言い伝えられている詩があります。

  

  時の老人は、月の光宿りし玉を

  火の若者は、血のごとく緋なる玉を

  水の識者は、虚しくも艶やかな玉を

  風の旅人は、澄み渡る空の玉を

  土の猛者は、琥珀に輝く玉を

  闇の隠者は、夜の闇よりも暗い玉を

  光の乙女は、混じりなき白の玉を

  千の春、千の夏、千の秋、千の冬

  玉を統べる者現れ

  世の終わりに光もたらす


 今が、その時なのです。これまで、ただの言い伝えだと思っていました。ところがこれは、予言だったのです。玉を統べる者とは、つまり、あなたのことでしょう。ラエルさん。あなたはいわば救世主だ。世界はいつの間にかバランスを崩してしまいました。滅びの時は刻一刻と迫っています。あなたが現れるのを、千年もの間、私たちは、いや、世界は待っていたのです。」

 このような話は、今のラエルには酷であった。

「だから、一人くらい死んだっていいっていうんですか? 人ひとり救えないのに、世界なんか救えるはずがないでしょう。オレにそんな価値はありませんよ。」

 アルディスは、壊れそうな彼の精神状態を考えて、話題を反らすことにした。

「ところで、先程の詩の中に氷の一族も、結晶も出てこなかったようだが。」

「は、はい。千年前は水の結晶も氷の結晶も一つの結晶でした。それが、五百年程して、水の一族の力と結晶の力とが釣り合わなくなって……つまり、制御できない程、部族の力が弱まってしまったわけです。中には、妖魔や妖精の力を借りて、凌いでいる部族もありましたが、我々は反対でした。で、どうしたかというと、結晶を二つに分けました。制御できないものを二つに分ける作業は困難を極めました。しかも、性質が同一のものなので、せっかく別々に分けても、近づけるとまた一つの結晶に戻ってしまいます。そこで、部族をも二つに分け、一方は氷の一族として氷の性質が強い方の結晶をもって、別の土地へ移り住むことになりました。他の部族へは知らせませんでした。人づてに妖魔や妖精に知れて、いつか襲われるのではないかと警戒してのことです。その予感は的中でした。あの、ジークフリートという男がここへやって来たのは、恐らく、水の一族から聞き出したのでしょう。水の一族の方でも何か起こっていて、もう滅ぼされているかもしれません。水の結晶も無事ではないでしょうな。」

「あの、クリスタという化け物がいなくなったことで、ジークフリートなる人物がまた来る可能性は?」

 アルディスの問いに、村長は肩を竦めた。

「さあ……弔いをするような親しい中でもなかったようですし、任務を遂行できなかった時点で彼女は用済みでしょうからね。もしかしたら、ここと同じような罠をあちこちで展開していて、ラエルさんを捉えようと手ぐすね引いて待っているのかもしれませんよ。あなた方の行く先は決まっているようですから、追いかけるより、待ち構えた方が得策なのでしょう。どうぞ、お気を付けください。非常に危険な男です、あれは。」

「お心遣い、痛み入る。いずれにせよ、あなた方の身の安全を確保するためにも、ここのことは人の耳に入らないようにした方が良さそうだ。念のため、子どもたちを迎えに行ったついでにルイに話をしておくといいだろう。ジークフリートはともかく、他の仲間が復讐をしに来るとも限らない。」

 村長夫婦は深々と頭を下げた。

「はい。ご忠告、ありがとうございます。皆さまもどうか御無事で・・・。」



 開け放たれた馬車の窓から、身を乗り出し、先を行く馬車をやるせなく見つめていたミーナが、ふと、声を上げた。

「ねえ。もしかして、あれって……。」

 荒野の地平線を白く縁取る長大な塀。ミーナと反対側の窓からそれを確認したアルディスが呟いた。

「あれが、城塞都市、シザウィーだ。」

 因縁の、謎多き国へ近づいて行く。どんどん、どんどん、否応なしに。


 目が痛むほど白い街を抜け、城門を潜って間もなく、馬車から降ろされた一行。目の前には荘厳にして優美な城が聳え立ち、白い塗装のなされた巨大な両開きの扉の脇には、槍を携えたシザウィー兵が石像のごとく動かずにいる。兵士に囲まれるようにして、三人の先を行く若者。ミーナがぬか喜びして、呼びかける。

「あっ、ラエル!」

 駆け寄ろうとするも、兵士に肩を掴まれ、止められてしまう。この二週間、休憩のため馬車を降りる度、彼の姿を認めても近づくことは禁じられていた。ラエルの方からやってくることもなく、仲間を振り返ってみることもしない。彼は誰も見ていなかった。別の、どこか遠い世界にいるみたいに、虚ろな眼差しで宙を見ていた。それは、今も同じだった。寂しくは感じるが、彼の姿を視界に納めるだけで、三人は何となく安心するのだった。

 傭兵時代に何度か自国の城へ行ったことのあるアルディスはあまり驚かなかったが、城らしい城へ初めて入ったミーナとサラは、ほう……と、感嘆の息を漏らした。部族の城は、城ではないとさえ思った。

 吹き抜けの高い天井にはガラス細工の美しい照明が随所に吊り下げられ、夢のように城内の白壁へと光を投げかけている。縁に金の模様が縫い込まれている真紅のカーペットは、氷もせず、白い床を彩っていたし、同じデザインのカーテンが、ブロックガラスを積み上げて作られた大きな窓の横に、均等な襞を寄せて、金の房飾り付きの紐で結われていた。

 そこかしこに置いてある石像や壺などの装飾に目を奪われつつ歩いて行くと、入り口同様、兵士が微動だにせず立っている扉の奥へと通され、息を飲む。広い部屋の向こう側の壇上で、白い髭を蓄え、シンプルだが美しい冠を被り、ほんのり光沢している白い絹の衣装に身を包んだ、恰幅の良い老人と、気品漂う細身の淑女が、立派な設えの椅子に鎮座している。この二人が王と王妃であることは明白であった。壇の下から扉まで、真っ直ぐに伸びるビロードの絨毯を挟むようにして、兵士たちが向かい合わせの列をなしている。いわゆる玉座の間である。一行を誘ってきた兵士の殆どは、ここに入る前にいなくなっていて、残された先頭の兵士二人は、壇の前まで来ると、左右に分かれて恭しく退き、ラエルの後ろを歩いていたガストン卿は左側に数歩下がって片膝をつき、屈みこんだ。ラエルも屈みこんだので、他の三人もそれに倣いはしたものの、女性陣は慣れない姿勢に戸惑い、また、スカートの出で立ちに相応しくない気がして、迷った挙句、両膝をついて、正座に近いポーズをとることにした。サラは床にそっと手を添えたが、ミーナはやり場のない手を膝の上でもじもじと組み合わせ、落ち着きなく、ちらちらと壇上の二人に目をやっていた。重苦しい沈黙の中、ラエルが、レオンハルトが床に視線を落としたまま、口を開いた。

「この度の件、申し開きの余地はございません。罰を頂きたく存じます。」

 息子の言葉に、王は威厳をもって答える。

「ふむ。潔い心がけじゃ。ならば、一週間の謹慎と致そう。」

 レオンハルトは怪訝な表情でちらと王を見やったが、何事もなかったかのように元へ直った。

「は。謹んで承ります。」

 深々と頭を下げた拍子に肩から零れ落ちた髪を見て、王妃が悲鳴じみた声を上げた。

「まあ、何ということでしょう! 髪を切ってしまったのですね?」

 王までもが同意して頷く。

「勿体ないことじゃ。きれいであったのに。」

 両親のくだらない発言を心底恥じて動揺した王子は、頬を桜色に染めて、周囲に視線を配り、冷や汗を滲ませた。

「え……と。し、失礼します。」

 一礼するや立ち上がり、足早にこの場を去ってしまった。取り残された三人はついて行こうか迷ったが、王に声をかけられ、踏み止まった。

「そなたたち、レオンの友人であるとな?」

 サラが代表して、どきまぎしながら答える。

「は……はい。王子には旅の最中、良くしていただきまして……。」

 王は満足げに顎髭を扱いた。

「ふむふむ。聞き及んでおるぞ。そなた、ドッペルン医師の娘だそうじゃな?」

 サラは惜しげもなく、美しい瞳を王に向けた。

「父を、ご存じで……。」

 王はなんということもなく答える。

「無論じゃ。レオンだけではなく、わしや王妃も父君には世話になっておる。ここ最近はお見受けせぬが、元気でおられるか?」

「あ、は……い。」

 王子はともかく、その両親と父が関わりを持っているなんて思いもよらなかったサラは、驚きをかくすことができない。と、同時に、父の死を告げることもできず、困惑して、視線を宙に漂わせた。ガストン卿は、この件に関して王に発言して欲しくないらしく、首を振ったり目配せしたり、声を出さずに唇の動きでその気持ちを伝えようと躍起になっていた。それを知ってか知らずか、王の関心は赤毛の剣士へと移された。

「そなたが、フロント殿の息子とな?」

 まだ心の準備が不十分であったアルディスはサラ同様、上手い言葉が見つからず、戸惑った。

「は……。」

「フロント殿には、生前、王子が世話になった。貴国の戦乱のため、遺体を送ることも手紙を届けることもできず、申し訳なく思っている。親子共々、王子の助けとなってくれたこと、心より感謝いたす。後で街の墓へ参られると良かろう。」

 アルディスの頭の中は真っ白になった。覚悟のことではあったが、こんなにもあっさりと、父の死を明かされるとは思ってもみず……。二人のただならぬ様子に、緊張感を募らせるミーナに、続いて王の声がかかる。

「そなたがカウラ司教の?」

 ミーナは伸び上がって答えた。

「は……はいっ! 妹です!」

 膝の上で両手を固く握りしめ、上目づかいに王を伺い、続きを待っている。

「兄君には、王子の身柄を確保していただく手筈であったのだが。兵が王子を見つけた時には、姿がなかったそうでな。代わりにそなたがいたわけじゃが、何事かの? 兄君はいかがなされた?」

 そんなこと聞かれても、ミーナは知らないのである。春までに落ち合うと言っていたが、それを答えにしたらよいのかと口を開きかけたが、サラに肘でつつかれ、止めた。彼女の目は、教えない方が兄のため、ラエルのため、皆のためと訴えている。鈍感なミーナでも、さすがにそれくらいは読むことができた。しかし、王は答えを待っているのだ。ミーナが困っていると、サラが助け船を渡してくれた。

「カウラ司教は、王子より重要な命に預かり、私共と別行動をとられているのです。」

「重要な命とな?」

「重要故に、私共はその内容に関して存じておりません。」

 ふむ……と、髭をいじる手はそのままに難しい顔で考えている風の王は、しかし次の瞬間、髭の間からにやーと歯を剥き出して笑い出した。

「しかし、まあ、何とも美男美女揃いじゃのう! 類は友を呼ぶというが、真であったわ。」

 王妃が頷きながら、やはり笑っている。

「そうですわねぇ。」

「レオンが友人を連れて来るのは初めてじゃ。歓迎いたすぞ。一週間、城の中や街を見て回って、シザウィーを堪能してたもれ。」

 間延びした王と王妃の笑顔に安堵しつつも、腑に落ちない一行。この二人、何か他に質問すべきことがあるのではないか? 息子は外で何をしていたのか、とか。気にならないのだろうか。聞かれたところで、とてもではないがおいそれとは答えられない内容ではあるが。だが、しかし……。

 退室を許され、浮かない表情で扉の外へ出ると、脇の壁に寄りかかり、腕組して立っているレオンハルトの姿が目に入り、一行の曇り顔が晴れる。この二週間みることのできなかった、健全で人好きのする笑顔が、三人の心を擽った。それはレオンハルト王子ではなく、皆が良く知っているラエルという、一人の青年であった。

「大丈夫か? 変なこと聞かれなかったか?」

 胸の前で手を組み合わせ、潤んだ瞳で見上げるミーナの肩に手を添えるレオンハルトの眼差しは切ない程暖かい。と、感動の再開に横槍を入れる咳払いが。ガストンだ。自分たちが衛兵の好奇の的になっているのにようやく気付き、気まり悪く、互いに少し離れる。レオンハルトの脳裏に過ぎる、兵士たちのこの後の会話。

『なあ、なあ、知ってるか? あのティルート教徒の女と王子はできてるらしいぞ!』

『何だって? 魔法使いと王子が?』

 そして、噂は噂を呼び、あっという間に国中へ広まるのである。衛兵を恨めしそうに一瞥しつつ、気を取り直して、口を開いた。

「これから一週間、オレ、謹慎しなくちゃいけないだろう? 真面に話ができるのは今しかないと思って待ってたんだ。」

 三人は表情をぐっと引き締め、レオンハルトを見つめた。そんな彼らを早くしろと言わんばかりにしかつめらしく睨んでいる、ガストン。レオンハルトに慌てる様子はない。

「皆のことは、城の者にも街の人々にも周知している。何か質問を受けたら、快く答えるように言ってあるし、どこでも出入り自由だから、あちこちで話を聞いて欲しい。」

 つまり、自分の話を、ということだ。三人は神妙に頷いた。ラエルの人差し指が、二人の兵を招き寄せる。二十代半ばの、こう言っては何だが、明らかに冴えない感じの似たり寄ったり、中肉中背でどこにでもいそうな男二人……。

「トビーとテッドだ。城と街のガイドに使ってくれ。」

 えっ?と三人は意外さと怪訝さでもって眉を顰めた。ガストンまでもが嫌な顔をしている。それを察してか、レオンハルトは説明を付け加えた。

「二人は去年、オレが親善大使として諸国を巡っていた時に同行・・・いや、護衛してたんだ。いい兵士だよ?」

 いい兵士と褒められ、露骨ににやける二人。一行はそんな彼らの頭の先から足の先まで訝しげに何度も眺めまわすのだった。ガストンは、やれやれ、と首を振り振り、ラエルに言った。

「さ、もう宜しいですな? 行きますぞ、王子。」

 穏やかに頷き、少し名残惜しそうに仲間へ手で挨拶して見せる。

「じゃあな。」

 ガストンの後について歩き始めた矢先、何か思い出したらしく、また振り返る。

「そうそう。シザウィー人と話をする時は、あんまり深く考えない方がいい。悪気はないんだ。ただ、ものすごく……真っ直ぐなだけで……。」

 上目づかいで言葉を探すレオンハルトに、ガストンが怒鳴る。

「王子!」

「……はい、はい。」

 とぼとぼと去っていく後姿を、一行は不思議そうに見送った。

「さて、我々も参りましょうか。」

 トビーが締まりのない顔と声で促す。この二人に促されるのは気が引けたが、今は仕方がない。一行は大人しく彼らについて行った。廊下を少し歩いたところで、テッドが突然、ぷぷっと吹き出し、一行はぎょっとした。

「王子、オレたちのこと、良い兵だって。」

 トビーも、くくく……と笑う。

「ああ。それに、去年に引き続き、王子直々のご指名だぜ?」

「周りの奴らには落ちこぼれだのボケだのと馬鹿にされてるけど」

「実はオレたちって」

「デキるのかもなぁ!」

 愉快そうに語り合う二人を見て、一行は非常に不安を感じた。この先一週間も彼らと行動を共にせねばならないのかと思うと、早くもうんざりしてしまうのだった。

「ねえ、もっといい人、いなかったのかしら?」

 ミーナが小声でアルディスに訴える。

「彼らが適任なのだ。」

「どうして?」

「恐らく、シザウィー兵の中で最も思考能力の低い者を選んだのだろう。オレたちの言動に疑問を抱かないようにな。」

 サラが目を丸くする。

「まあ。では、去年、お供にされたと言うのも……」

「そうだ。部族の城を回るのに、都合が良かったのだ。余計な心配もできない、機転も利かない。何かを成そうという気概の欠片もない。人間の深みを一切持たない浅はかさの極みだ。」

 吐き捨てるアルディスを、ミーナが窘める。

「ちょっと、それは言い過ぎでしょう?」

 そう言いつつも、顔は笑っているのだった。と、先を歩いていたトビーとテッドが急に立ち止まり、一行は話が聞こえてしまったのだろうかとさすがに気まずさを感じ、冷や汗を流した。二人が振り返る。

「ところで、どこへ行きます?」

 トビーの台詞に、一行は顔を見合わせた。

「どこって……。どこへ行こうと思って歩いていたの?」

 ミーナの問いに、二人が間延びした声で答える。

「いやぁ、どこってこともなく。」

「王子が行っちゃったから、オレたちも行かなきゃなんないのかなと思って、取り敢えず歩いてみたんですけど。」

 一行が絶句したのは言うまでもない。堪えるレベルではないことを再確認したのであった。今日は城の中を案内してもらうことで意見がまとまり、ぶらぶら練り歩く。とぼけた二人と後を行く一行。

 

 その頃、レオンハルトとガストンは、王子の自室へ向かって階段を昇っていた。途中逃げ出さないために部屋まで送り届けるのがガストンの役目だったが、それは建前で、彼は位が上の甥っ子に言いたいことが山とあって、現に沢山の小言を道すがら止めどなく、くどくどと飛ばし続けていた。

「王子、何ですか? あのように下々の話しぶりを真似されて。癖になったらどうされます!」

 彼の声は普段から大きい。耳の良い王子には無用の長物である。

「何言ってんだよ。元からオレはこんな喋り方だろう? 癖も何もないよ。」

 耳の穴に指を突っ込んでも、尚余りあるガストンの声。

「いいえっ! 六年前まで……街へ資格を取りに行くなど、酔狂なことをされるまでは、きちんとした言葉遣いであらせられました。平民なんぞと関わってすっかり毒されてしまって、全く嘆かわしい!」

 唾が容赦なく浴びせかけられるが、背中なだけまだましだと言う風に、どんどん進むレオンハルト。下手に走るより早い歩きだ。

「いいじゃん、別にぃ。父上や母上の前ではボロ出してないんだしさあ。」

「当たり前です!」

 怒鳴られながら、そうか、六年前かと思いにふける。アルさんが亡くなったのは、と。しかし、ガストンの不満は留まる事を知らない。

「それにしても、王子。一体どういうわけですか、お連れの者たちが……」

「彼らの悪口は言うな!」

 めずらしく強い調子の反論に一瞬怯むガストン。やや声を落としてそれでも追いすがる。

「いえ、そうではありません。彼らが王子のことを、その……ラエルなどと呼ぶのが、どうも解せない、ということでして。」

 王子はにやりと笑った。

「オレがそう名乗ったから、だろう?」

 ガストンはイライラして再び声を荒げる。

「ですから! 何故、王子があやつの名を使ったのかが分からんのです!」

 独り言のように、遠い眼差しで答える。

「さあね。オレも分からないよ。でも、いい名前じゃないか。ラエル……アズラエル・マベリック。」

「フルネームで仰らんでください! 禍々しい。」

 レオンハルトは苦々しく笑った。

「おいおい、禍々しいまで言うか? そんなに忌み嫌うことないだろう?」

 ガストンの肩が、怒りのためか、恐怖のためか、震えている。

「嫌いにならずにおれますか! どこの誰とも知れぬ、おまけに目上の者に対する口の利き方もなっておらぬ、あのような不埒者など……!」

 なだめるつもりが、皮肉が口を吐いて出る。

「確かに得体は知れないが、偉そうなのは仕方ないさ。彼が仕官してきた時、試験してコテンパンにのされたのは誰だよ?」

「あれは油断していただけです!」

 足音がけたたましい。まるで地団駄だ。

「それが負けだってことさ。油断なんて言い訳、騎士団長には許されないぞ?」

 歯ぎしりが後頭部に響いてくる。

「と、とにかく、私は断固としてあやつを認めるわけにはいきません。」

「そうか?」


 時を同じくして、薄ぼんやりの兵と異邦人も語り合っていた。

「しっかし、あんたら、何で王子のこと、ラエルなんて呼んでんの?」

 いつの間にかのタメ口だが、三人は気に留めなかった。

「何でって、そう呼べって言われたからよ。」

 ミーナの答えを聞いても、納得していない様子の、珍しく考えている様子の二人。

「何も、あいつの名前を偽名に使わなくたって……」

「なあ。」

 サラが顔を上げて尋ねる。

「あら。ラエルさんという方が、実際ここにはいらっしゃるのですね?」

 彼らは何となく上を見ながら言った。

「まあね。ここに……いるかどうかはわからないけど、たぶん、王子の近くにはいると思う。」

 ミーナが空色の瞳をキラキラさせて、二人の兵士を横から覗き込んだ。

「ねえ! そっちのラエルって、どんな人? 何をしてる人なの?」

 二人の締まりのない笑顔が引きつる。

「どんなって……」

「何してるって……」

「なあ?」

 隠し事が嫌いなミーナ。仮にも兵士である。二人の耳を躊躇いもなく、ぐいぐい引っ張った。

「早く言いなさいよっ! 勿体ぶってないで!」

 いい年をした男二人が半泣きで情けない声を上げる。

「いたたた……わかった、わかったよお!」

「乱暴な女だなぁっ!」

 ジンジン痛む耳たぶを摩りながら、白状する。

「えーと。あれは七年前だったかなぁ。うん。アーサー・フロント……あんたの父さんだってな? 彼が死んですぐ、新しい王子付きの護衛を募ってたんだ。でも、その……あんまりひどい死に方だったもんで、シザウィーの中じゃなり手がいなくてさ。」

「そうそう。あんな目に遭うかも知れないと思うと皆嫌がって、王様直々に任命された奴ですらいろいろ理由つけてすぐに除隊しちゃう有様で、そんな時にあいつが仕官してきたってわけ。」

 ミーナが二人の会話の中に割って入る。

「ちょっと待って! 何なの? そのアルディスのお父さんの酷い死に方って。」

 アルディスは静かに、二人を見ていた。切れ長の目が、答えを聞きたいと訴えている。二人は口や額に手をあてがい、気分を害している様子だ。

「よせよ……思い出したくもねぇよ。」

「オレたち、処理させられたんだぜ? あれを……!」

 ミーナがそんな答えで満足するはずもない。

「言いなさいよっ!」

 赤みの引いた耳たぶが再び捩じり上げられる。

「ってぇっ!」

「暴力反対!」

 二人は観念して、渋々話し始めた。

「ホント、酷いんだ。滅多斬りって言うのかな?」

「そんなもんじゃない。バラバラの細切れだ!」

 ミーナが卒倒しそうなか細い声で呟く。

「こま……斬れ?」

「ああ。ブロック状の肉片だ。それが、城の裏手の森に散乱してて……一見しただけじゃ、誰のものか、いや、人のものか、獣のものかさえ区別できない。王子の話の筋から、アーサー・フロントだろうってことになって……。」

 サラが、凍り付いたように言葉を発せないアルディスに代わって、勇気を振り絞り、質問した。

「ラエルさ……王子は、無事だったのですか?」

「無事? あー、無事っちゃあ無事だったけど、変なんだよなぁ。あの時さぁ、オレたちのところに王子が血相変えて飛び込んできて、フロントさんが大怪我して死にそうだから助けてくれって言うから、他の兵と五人くらいで王子の後をついて行ったんだよ。そしたら、あんな状況でさあ。中には吐いてた奴もいたね。で、こう言ったんだ。助けろも何も、もう死んでるじゃないですかって。」

「死んでるどころじゃないっすよ? 悪い冗談はやめてください。こんな細切れ状態でどうしろって言うんですか。まさか、これ……」

「これ、何?」

 急にどもるトビーを、ミーナが睨む。

「これは、王子がやったんじゃないでしょうねって……」

 ミーナとサラの目が全開になる。

「言ったの? ラエルに、そう言ったの?」

「何てことを……!」

 ミーナとサラが飛びかかるより先に、アルディスがトビーの胸ぐらを掴み上げていた。足が完全に宙に浮いてしまったトビーは、震えてもがくこともできない。

「きさま……! あいつが、そんなことをするわけがないだろうがっ!」

「いやっ! オレも言った後で、すごく後悔したよ。何でこんなことを言っちゃったんだろうって。で、すぐに撤回しようと思ったら、王子は森の奥へ走って行ってしまったんだ。」

「肉片と一緒に転がってた短剣を引っ掴んで……」

「追いかけなかったの?」

 ミーナの言葉に二人はおろおろしだした。

「今なら、追いかけたかもな。」

「でも、あの時は、とてもじゃないけど、恐ろしくて……」

 アルディスの手が離れる。ミーナとサラが不思議そうに目を見合わせた。

「何が怖いのよ?」

 自由になったトビーとテッドは、俯き加減に震えた。

「王子に殺される、と思ったから……。アーサーみたいに。」

 三人の異邦人は大変な剣幕である。

「ふざけるな!」

「よくも、そんな……!」

「勘違いも甚だしいですわ! ご自分の護衛や部下に危害を加えて何になります? きっとアーサーさんを殺した犯人を探しに行ったんです!」

「そうよっ! 馬鹿じゃないの? あんたたち!」

「第一、殺人鬼が潜んでいるかもしれないところへ自分の主君が独りで行ったというのに、放っておいたというのか? 七年前ならあいつは子どもだぞ!」

 まくしたてられ、迫力に押されつつも、二人は反論した。

「ただの子どもじゃねぇよ!」

「あんたらは知らねぇんだよ、昔の王子を!」

 ミーナだって引き下がらない。

「だから、何なのよ? 昔のラエルがどうしたの?」

 不承不承、二人は話すのだった。


「忘れもしない、あれは八年前の四月七日。王子十一歳の誕生日のことだ。オレたちは入隊して間もなかった。王子は滅茶苦茶頭が良いってことを除けば、確かに可愛い子どもだった。いつもにこにこ笑ってて、下っ端のオレたちにも分け隔てなく接してくれる、天使みたいな子だったよ。それが、あの日を境に変わってしまった。日が暮れて、二時間程経った頃、誕生パーティは主役を祝うためのものじゃなくなって、すっかり大人の社交場になり変わっていた。王侯貴族のパーティなんて、そんなものさ。どんな祝い事も、名目として使われるだけ。大事なのは、お偉いさんたちが集まって、親睦を深めたり、牽制しあったりすることなんだ。で、頭はいいけど、まだまだ子どもの王子は、大人たちが吹かす煙草の煙やら、ご婦人方のきつい香水やら、政治的な話やら、酒の勢いの悪ふざけやらに我慢できなくなって、こっそり城を抜け出して、夜の森の中を一人散歩しだした。月の光が美しい夜。シザウィーの白石は、魔力を封じるだけじゃなく、魔物を近づけない性質もあるから、滅多に魔物なんか出ない。問題は魔物じゃなくて、人間の方だった。気づいた時には、数人の男に追いかけられていたんだ。走って、走って、薪小屋を見つけた王子は、そこに助けを求めようと転がり込んだけれど、誰もいなかった。男たちがぞろぞろ小屋に入って来て、王子は囲まれてしまった。壁に追い詰められ、へなへなと床に座り込んだ王子の手に、固いものが触れて、見ると薪を割るための鉈だった。王子は無我夢中でそれを手に取り、男たちに向けて、来るな!とか何とか叫んだろうね。男たちはめいめい武器を持っていたし、子ども一人が相手だから、馬鹿にして笑っていたのさ。で、そのうちの一人が王子に近寄って首の付け根に一撃を食らった。条件反射でやったんだろう。王子は虫も殺せないような子だったから、たとえ悪党で自分の命を狙った奴でも良心が痛んで、しかも初めて見た多量の血にショックを受けて、気を失ってしまった。一方の男たちは仲間がやられたことにかっとして、一斉に飛びかかった。……らしいんだ。それから何があったのか、今でもわからない。王子は気を失っていたと言うしね。とにかく、王子がいないことに気付いて、オレたち兵士が探しに探して、薪小屋に辿り着いた時には、鉈を手にしてへたり込んでいる王子が血まみれで震えてて、その周りではブロック状の肉片が敷き詰められたみたいに転がっていて……いや、オレとトビーはそこにいなかったから、助かったよ。他の兵士に聞いたんだけどさ。アーサーの時と同じだと思わねぇか? んで、王子が言うには、目を覚ましたらこうなっていたと言うわけでね。それからいろんな憶測が飛び交ったけど、王子がやったって説はすぐに消えた。王子が城を抜け出して、兵が見つけるまで二時間てところだ。子どもの力であんなこと、とてもじゃないけど、できっこない。大人でも無理だって話さ。肉も骨も、スパッと切れてたっていうんだからな。もっぱらの説は・・・あまり大っぴらには言えないけど、魔物か魔法使いがやったんじゃないかって。それしかないよ。だけど、おかしいんだ。森の土も白石と同じ成分なんだから、魔法なんか使えないはずなのにさ。気味が悪いだろ? この事件に関しては、皆、なかったことにしようってことになったんだ。王子が襲われた事実も、城ぐるみで隠したから、世間じゃあまり知られてないと思う。これで、全て終わったずだった。ところが、だ。それから間もなく、また事件が起きた。王子が自分の部屋に閉じ籠って一週間くらい経った、ある夜のこと。今度ばかりは部屋の前で兵が常時番をしていた。何事もなく時間が過ぎ、夜が白んできた頃、階下が俄かに騒がしくなって、それが近づいてくる番兵が固唾を飲んで声がする方を見ていると、そこに何と、ボロボロに傷ついた王子がよろけながらやってきたのさ。びっくりして、部屋のドアを開けてみようとしたけれど、鍵が掛けられていたんだ。どういうことか王子に尋ねても、俯いて返事もしない。で、兵士を押しのけて、鍵を開けて部屋に入ってしまった。王子の後をついてきた兵に聞いても、首を傾げるばかり。考えられるのは、窓から落ちたんじゃないかってこと。だけどさあ、王子の部屋は四階だぜ? 普通死ぬだろ? 奇妙なことはまだ続いた。王子は次の日から閉じ籠るのを止めて、図書室で本を読み漁ったかと思うと、表で訓練し始めたんだ。武術の、ね。それまで、簡単な護身術しか教わったことのない王子が、刃物なんか持ったことのない王子が、兵の誰かから借りたんろう剣を、一心不乱に振り回してんのさ。何かに憑りつかれたみたいに。夜になったらなったで、今度はドアから部屋を出て、あの森へ出掛けて行くんだ。番兵が止めようとしたり、ついて行こうとしても、余計な真似をするなって、凄んでくるんだと。殺気すら感じたって、その番兵は言ってた。王子とは言え、十一歳の子どもなんだし、ビビることはないって思うだろ? でも、誰も王子の命令に逆らえる奴はいなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに動けなくなってしまうんだ。王子が戻って来たのは夜明け近くのことだった。前の日と同じく、ボロボロで、血まみれで……。違ったのは、何故か剣を二つ持ってたってことだ。シザウィー製じゃない、明らかに異国のものが一本増えてたんだ。王子は借りてた方の剣を兵に返して、何もなかったみたいに部屋に入ってしまった。どういうことだろうって、皆、気が気じゃない。何人か森へ行って、何が起こったのか調べにいってみたんだ。すると、大量の血が流れた跡を見つけた。でも、それ以外は何もなかった。獣や人が倒れているわけでもなく、それをどこかへ移動した形跡もない。城でも街でも、被害を訴える者はいないし……。それからというもの、週に二、三回のペースで、王子は夜な夜な森へ出掛けては、血まみれで帰って来るってことを繰り返していた。時々、剣が変わっているもんだから、皆、恐ろしくって震えあがっていたよ。やがて裏ではちょっとした噂が囁かれるようになった。王子の命を狙う者が、異国から殺し屋を雇って、度々派遣しているが、帰って来ることがないんだと。つまり、王子の返り討ちに合って、皆殺しにされているんだってことさ。だったら正当防衛って気もするけど、まるで殺し屋と待ち合わせしてるみたいにわざわざ人気のない所へ出向いて行ってだぜ? さらに、証拠隠滅してるところが意味深で、どうやっているのか考えるだけで、ゾッとするよ。だから、王子に関わるものはいなかった。助けに行ったら殺されるって本気で思ってた。見てはいけないものを見たってことでさ。それから、一年くらい経った頃かな? 王子の命をねらってた張本人がわかったんだ。というか、いくら殺し屋を頼んでもてんで効果がないもんだから、痺れを切らして逆切れして、ついに直々に手を下そうとしたわけさ。それは王様の従弟で、王子にとっては親戚ってことになるんだが、当時四十ちょっとだった。王様とお妃様の間には長らく子どもができなくて、このまま生まれないなら、次期シザウィー王には彼がなるって約束だったらしいよ。でも、そうはならなかった。つまり、王の座を奪い返すために、王子を亡き者にしようと企んだんだね。どんなやり取りがされたのかは、分からない。その場に居合わせたのはガストン騎士団長ただ一人。口の堅い方だから、ペラペラと周りに喋ったりしないんだよ。はっきりしているのは、王子と騎士団長が廊下を歩いていたら、彼がやって来て、事の次第を全部ぶちまけて、王子に襲いかかろうとしたんだと。騎士団長は剣を携帯していなかった。そこで王子が即座に反応して、一撃でやっつけたそうだよ。王子が人を殺すのを生で見た、最初でたぶん最後の人さ、ガストン騎士団長は。これで、王子を狙う者はいなくなったはずなんだけど、ようやく事態に気付いた王様が、王子に護衛をつけるって言い出したんだ。誰もが、今更遅いって思った。王子は煙たがるに違いないし、必要ないとも思ったね。あと、何より王子と関わり合いになって巻き添えを食うのは御免だから、成り手はなかなか見つからない。そんなときに仕官してきたのがアーサー・フロントさ。王様が護衛の件を話すと、彼は快くオーケーしたそうだ。しかし、彼は半年くらいで呆気なく死んでしまった。ホント、あの死に方を見た時は、やっぱり誕生パーティの事件のあれも、王子がやったのかって思ってしまった。殺し屋たちもああやって殺してきたのかって。だから、王子が森の奥へ駆けだした時、追いかけられなかった。残されたオレたちは、取り敢えず、死体を片付けようってことになった。そのままにはしておけないからね。正直、良心じゃないぜ? 王子がいつ戻って来ても良いように、怒られないよう、気を悪くさせないようにだ。必死だったんだ。これが結構大変な作業で、手間取って・・・そうこうしてるうちに、王子が戻ってきた。ゆっくりした足取りで、魂が抜けたみたいになってた。オレたちはなんとなく、いつもの癖っていうのかな、王子が剣を二つ持ってるんじゃないかと手を見てみた。ところが、剣は二つどころか一つもない。森へ駆けだす前に持って行った白い短剣がなくなっていたんだ。アーサーが護衛についてから、王子は剣を持ち歩かなくなっててね。まさに丸腰だったよ。おれは思わず、疑問を口にしてしまった。剣はどうしたのかって。王子は白い顔してぼんやりしながら、剣って何のことだって言うんだよ。オレたちは顔を見合せたね。そんなことじゃ、森で何をしてきたのかも聞けないよ。今にも倒れそうなくらい憔悴し切ってた。白い土に染みこんだ血はどうしようもなかったけど、肉片だけはあらかた革袋につめて、木箱に納めたところだった。その地面に屈んで、血に濡れた何かの紙切れを拾って、それで、泣いていたよ。声も立てずに、ただ、涙を流していた。。思えば、そんな王子を見たのは初めてだった。ショックのせいかな? 王子はこの時のことをあまり覚えてないらしくてね。人とは思えない連中に襲われたんだと、王子は言うんだが、その連中はどうしたのか、また、アーサーは何故あんな死に方をしたのかってところは、記憶がすっぽり抜けてて分からないんだ。しかも、細切れ状態のことを、本気で忘れてるていうか、知らないんだ。あれには皆びっくりしたよ。ひどい怪我をしている彼をおいて助けを呼びに行ってる間に、出血多量で死んだんだって思っているんだ。ガストン騎士団長は、王子がそう解釈しているのなら、そういうことにしてやれってさ。忘れてる方がいいだろうし、あんなのはオレたちもできることなら忘れたいね。それから一週間もしないうちに、あいつが……ラエルがアーサーの代わりにやって来たんだが」

「王様はさあ、王子の護衛の件は殆ど諦めてたんだ。あいつが仕官してきた時も、護衛にするつもりはなかった。シザウィーの白騎士団は年功序列じゃないんだ。新しく入ってくる奴は、ガストン騎士団長がテストして武術の腕をみる。強い奴は若くても上の階級が与えられるんだ。で、あいつはどうだったかというと……これは内緒だぜ? 何と秒殺さ。ガストン騎士団長は、王様の弟だからじゃなくて、白騎士団一の強さだから団長をしているんだ。それを、あっという間にのしてしまったんだよ、あいつは! あんまり強いものだから、何の階級にして、何の役職につけようか王様は迷った。いくら実力主義ったって、いきなり騎士団長とかはないよ。それで、王様はあいつが何をしたいのか、試しに聞いてみたのさ。あんな答えが返って来るなんて、誰も思わなかった。あいつは言った。王子の監視、もしくは観察をしたいと。護衛ではなくか、と王様が聞くと、あいつは鼻で笑うんだ。あの子にそんなものは必要ない、必要なのは、あの子の言動やあの子の周囲で起こる出来事に対して目を背けず、ありのままを見てやる存在だ……だってさ。何のことやらさっぱりだけど、とにかく、気色悪いなあとは思ったね。監視は良しとしても、観察はちょっとさあ。植物じゃあるまいし。ところが、王様は別の感想を持ったらしくて、なんとオーケーを出したのさ。紹介するから、王子をここへ呼んで来いって、王様が他の兵に命令すると、あいつは言うんだ。会うつもりはない。会うと互いに意識して、客観的に見られなくなる。任務を遂行するのに、馴れ合いは不必要だ。では、どうやって監視するつもりだって、当然聞くよな? 答えはこうさ。近からず、遠からず、目に入らず、耳に入らないようにだ。あいつが王子を見張ってる姿を見た者はいない。たぶん天井裏じゃないかって、皆思ってる。直に確認したわけじゃないけどね。王子があいつの姿を見ることはない。代わりにオレたちは皆知ってるんだ。殆ど四六時中王子を監視しているわけだけど、そりゃあ休むこともあるし、オレたちと話をすることもある。何かさあ。あいつと接してると変な気分になるよ。皆そうらしくて、なるべく避けてる。どう変だって? 会ってみりゃわかるさ。王子はあいつと会ったことはないって、さっきいったよな? でも、あいつの情報だけは知らされているんだ。王子がそれで嫌だって言ったら、この話はなかったことにしようってことで、最初のうちにね。王子は、あいつの名前を聞いて、ちょっと驚いていた。もしかして、知り合いなのかと尋ねたら、逆に質問するんだよ、それは人間なのかって。オレたちは途端に具合が悪くなったね。確かに、ガストン騎士団長を軽くのしたあたり、人間離れしていたけど、まさか、妖魔や妖精の化身とは想像だにしてなくて……。人間と思っていましたが、身辺調査をし直した方が宜しいでしょうかって、伺いをたてると、いや、人間に見えるのならそれでいいってさ。何か・・・満更でもない感じだったよ。あいつが言った通り、自分を見てくれる奴が王子には必要だったのかな? オレたちは見て見ぬふりが多かったから……。」


「その、ラエルさんには、どうしたら会えますか?」

 四六時中、レオンハルトを監視しているとあらば、彼に話を聞くのが一番手っ取り早く、また核心に触れた内容が期待できるのではないかとサラは思った。

「会おうと思って会える奴じゃないよ。王子かいる部屋の天井裏はトラップが沢山しかけられているんだ。あいつが何で無事でいられるのか不思議だよ。ま、黙ってりゃそのうちあいつの方から会いに来るさ。」

 トビーに続けて、テッドが言う。

「そうそう。わざわざ危ない橋を渡るもんじゃない。あ、それからさ、ラエルってのは王子がつけたあだ名だぜ? 本名はアズラエル・マベリック。あんまり、あいつのことを名前で呼ぶやつはいないけどね。あだ名でも呼びたくないかな。」

「随分嫌われているのね?」

 ミーナの驚きに、二人は首を振った。

「嫌ってはいないさ。むしろ好きなくらい。」

「うん……何て言うか、人を虜にする力があるんだよな。どこぞの国の貴族だとかって話だけど、ホントかどうか、怪しいもんさ。そんな奴があっさり仕官を許され、その上望み通りの仕事までさせてもらってるんだからな。余程魅力があるんだろうな。」

「実際、あいつのファンも多いよ。男も女もね。」

「その点、王子も似てるよ。親衛隊の代わりに同好会が地下で結成されてるくらいだから。」

「同好……」

「何それ?」

 テッドもトビーもつらっとしている。

「あいつ程徹底はしていないけど、要するに王子のことを遠巻きに観察して、夜な夜な集まっては各々の観察結果を報告し合って、いろんな妄想を膨らませている集団だよ。」

「あいつも仲間に誘われたけど、鼻で笑って終わり、だってさ。」

 異邦人の我慢もいよいよ限界であった。

「当たり前だ! 面白半分に人を妄想のダシに使うなど……!」

「ありえませんわ! 王子がどれだけ傷ついていることか、わかりませんか?」

「そうよ! それに、アルディスの目の前で、お父さんの酷い死に方をよくもはっきりと言えたものね! あんまりだわ!」

 これにはテッドとトビーも困り顔である。

「言えって言ったのはそっちじゃんか。」

「ひでぇよ……。」

 やや険悪な雰囲気が漂う中、廊下の向こう側から、手を振る人の姿があった。

「ああ、良かった。もう街へ出かけておしまいかと思いましたよ。」

 小柄でふくよかで、気の良さそうなおばさんだ。三人に会えた嬉しさを満面の笑みで表現して近づいてくる。

「どうも、初めまして。私、王子の世話係でマーヤと申します。乳母みたいなものですね。お見知りおきを。」

 恭しく一礼され、三人のみならず、兵士二人も慣れない様子で礼を返す。

「王子から託を預かりましてね。今日は長旅で皆さんお疲れだろうから、城内を一回りしたら、あとは部屋でゆっくり休んでもらいたいとのことですよ。私がご案内いたします。」

と、急に怖い顔になって、兵士の方を睨む。

「全く、テッドにトビー! あんたたちがしっかりしていれば、こんな託なんかいらなかったんだよ? 気が利かないんだからね!」

「ええっ、ちょっと、それじゃ、オレたちこれからどうすりゃいいんだよ。」

 泡食う二人にマーヤは厳しい口調で告げた。

「今日のところはお役御免だよ。明日また出直すんだね。朝食後に出掛けられると思って、用意しておきな。寝坊なんかするんじゃないよ! いいね?」

 二人の兵士は煮え切らないが渋々了承して去って行った。

 残された三人を振り返ったマーヤは、再び笑顔に戻って、軽くお辞儀し、自分の後について来るように促した。乳母のようなものだと言った彼女の話も、三人は是非聞きたいと思った。口火を切ったのはサラだった。

「あの、レオンハルト王子は、幼い頃どんな方だったのですか?」

 マーヤは、歩きながらふふっと楽しそうに笑った。

「今と変わりませんよ。いつもにこにこしていて、人のことばかり考えて、自分のことはそっちのけで。気取らない、飾らない、誰に対しても親切で、思いやりがあって、その上頭も良くて……ここだけの話、トンビが鷹を生んだってよく言われたものです。」

 三人は王と妃を思い浮かべて、反応に悩んだ。まさか、その通りだとは言えない。

「ただね、その頭の良さっていうのが曲者なんです。王子が五歳の時に、家庭教師が付きましてね、初めはごく簡単な読み書きとか算数とかを教えていたんですけど、スポンジが水を吸うみたいに、どんどん吸収していくものですから、教師も調子が良くなってしまって、あれもこれもとやたらめったら本を持って来ては読ませたらしいのです。すると、王子の幼い身体と心には耐えられなかったんでしょうね。高熱を出して、倒れてしまって。わけの分からないうわ言を呟きながら、長いこと起き上がれなくなってしまったのですよ。」

「わけの分からないうわ言?」

 ミーナが口を挟んでも、マーヤは嫌な顔一つしなかった。

「ええ。どうも医学書や数学書や哲学書を読んだみたいで。おまけに古代語まで覚えてしまったんでしょう。古代語で化学式や哲学的思索を話されても、こちらとしては、とんとわかりません。」

 それは、現代語でも分からなそうである。

「シザウィー中の医師に診てもらいましたが、お手上げでしてね。それで、サラさんのお父様に助けを請うたわけです。」

 三人は、とりわけサラは驚いて顔を上げた。

「あら、ご存じではありませんでしたか? それも仕方ありませんね。十四年前なら、あなたもまだ幼かったでしょうし、ドッペルン医師は異国のお医者様ですもの。極秘で来ていただいていたのです。怒っていらっしゃいましたよ。あなたのお父様は。五歳の子どもに医学書なんか読ませるなって。未熟な脳に情報を詰め込み過ぎて、炎症を起こしてしまっているのだということでした。でも、王子は熱に魘されながら、言うんですよ。先生を叱らないで、ボクが悪いんです。本を読んだのはボクなんだものって。小さい頃から人のせいにするってことを知らないんですよ、王子は。可哀想なくらい。家庭教師は解任されました。独学で充分ですからね。その代り、ドッペルン医師が時々来てくださって、学習量を調節していくのです。十歳のときかしらね、王子がご自分からお断りになるまで続きました。遠いところから、娘さん一人置いて来ていただくのが、心苦しかったみたいで。それでも、ドッペルン医師は年に一、二回王子に会いに来られましたよ。遊びで来るのならいいでしょうって。あなたのお父様は、親切心以上に、王子とお喋りするのが楽しかったみたいですよ。王子のことが好きなんでしょうね。」

 サラは、笑っていいのか泣いていいのか分からず、俯いた。その父は、今はもういない。

「王子が好き、と言えば、あなた、アルディスさんのお父様もね、そうだったと思いますよ。いえ、もちろん、城中、街中、シザウィーの国民皆が王子のことを大好きなんです。多少の誤解や行き違いはありましたけど、そんなもの跳ね除けるくらい、信頼が厚くて、強い支持を受けています。一度、あの天使の微笑みをみてしまったら、仕方ないですよね?」

 女性陣はうんうんと頷いたが、アルディスは照れ臭そうに、こめかみを指で掻いた。

「父は……ここで、どんな感じだったろうか?」

 マーヤは目をぱちくりさせながら、天を仰いだ。

「ええと、そうねえ。最初は何だか、暗い顔をされてたわねぇ。王子が食事時に料理長や給仕に質問したことがあるんですよ。食事時に話をするなんて、あまりないことだし、その頃の王子は落ち込んでいて、誰ともずっと口を聞いていなかったから、王様もお妃様も喜んでいましたね。質問というのは、どうして今の仕事を選んだのかってことなんです。皆、各々ドキドキしながら答えてましたよ。料理長は自分の料理を食べる人の笑顔が見たいからですって。王子が少し笑ったようで、皆がホッとしたのもつかの間、アーサーさんに質問が移りまして。アーサーさんは王子の護衛でしたから、側に控えていたのですよ。何と仰ったと思います? 分かりません、剣なんか握っていなければと思います、人を傷つけるための道具です。それを持っている私は人を傷つけるのが仕事なのです。楽しいことなどありません。あるのは後悔と自責の念ばかりです、って。暗いでしょう? 王子に僅かばかり差した光があっという間に打ち消されてしまって、皆内心腸が煮えくり返るようでしたよ。」

 そう言われてアルディスまで暗い気分に沈んでしまった。マーヤが慌てて付け加える。

「いえっ! それからすぐに元気になられましたよ? お二人共。アーサーさんには感謝しているのです。王子を守ってくださったこともさることながら、精神的な支えにもなっていただいたみたいで。怒ったり、笑ったり、王子の表情に豊かさが戻って来たのです。」

「怒ったりというのは?」

 サラは不思議そうにマーヤを見た。あのレオンハルトが怒るなんて、想像できない。マーヤはにやにや笑っている。

「ええ、ええ。怒ってましたとも。他所の国の他所の子どもの面倒を見に来てって。自分の奥さんや息子さんのもとへ帰れって。剣なんか捨てて、花屋でも大人しくやってろって。でもね、アーサーさんはどこ吹く風で逆らうのですよ。王子を置いて故郷へなんか帰れません。王子が来てくださるというのなら別ですがって。王子は馬鹿じゃないのかって言いながらも、嬉しそうでしたよ。その頃かしら、王子が丸腰になったのは。アーサーさんにすっかり心を開いて、人を頼るってことを知ったのでしょうね。アーサーさんが亡くなって・・・どんなに悲しまれたことか。いっそ会わなければって思う程でした。暇さえあれば、お墓へ行って……あした、皆さんも行ってみてください。きっと驚くことがありますよ。」

 三人はそれぞれ別の部屋へ通された。確かに疲れは堪っていたので、天蓋付きの豪華なベッドに横になるなり、ミーナとサラは気を失うように眠ってしまった。アルディスだけは、興奮が冷めやらず、父の死に様を否応なしに想像してしまったり、驚くことがあるという墓に思いを馳せたり、まんじりともしない。窓からは広大な花畑とその先に父が死んだであろう森が、はるか遠くの山まで続いていた。花畑に興味を惹かれたアルディスは気分転換に外へ出ようと、再び廊下を歩き出した。と、背後で呼びかけられ、咄嗟に構えて振り返った。気配を全く感じなかったからである。相手は二メートルと離れていなかった。

「ふん。敵でなくて良かったな。安心しろ。オレ様の気配はあの子も読めん。」

 安心などできなかった。さっきまで気配も感じなかったのに、今度はとてつもない威圧感が彼に襲いかかってくるのだ。何だこいつは、とアルディスはその男をまじまじと観察した。

 背中まで伸びた、美しい銀のロールヘア。ギラギラ輝く銀の瞳。彫刻のように整った顔立ちが悪戯っぽく微笑んでいる。自分ほどではないが長身で、筋肉質な身体をシルクと思しき艶やかな白い戦闘服が覆っていて、その上にマントが被さっている。プラチナ製の貴金属を耳にも首にも指にもあちこち鏤めて飾っていて、一見すると、ここの王子よりも王子っぽい出で立ちであった。爪が妙にとがっていることと、笑う口元からはみ出さんばかりの鋭い犬歯が、真面な人間ではないことを主張しているようだった。年齢は二十代、三十代、四十代にも見える。いわゆる年齢不詳の男である。

「お前が、ラエルか?」

 考えるより先に、言葉が出た。男はますます口元を吊り上げて、残酷なまでに犬歯を見せびらかせた。

「オレ様をそう呼ぶのは、レオンだけだ。まあ、良かろう。先ほど小童どもからさんざんオレ様の話を聞いていたようだから、自己紹介は必要あるまい。お前のことも知っているしな。」

 アルディスは異様な緊張感に全身を強張らせ、後ずさりも身じろぎもできず、ただ、ラエルの銀色の瞳を見つめていた。というより、目を逸らそうにも逸らすことができなかったのだ。

「あの子はお前たちに逃げ道を用意した。その意味は分かるか?」

 アルディスはかろうじて首を縦に動かした。自分の過去を聞いて命を投げだす価値なしと判断したら、この先の旅から身を引いてくれとレオンハルトは言ったのだ。

「だが、実際はお前たちに選択の余地はない。あの子の昔話を聞いたところで、因縁の深さを思い知らされるばかりだ。そしてあの子の運命の歯車に自分たちが既に組み込まれていることも、そこから抜け出す術もないことも、感じているはず。初めて会った時から、あの子を避けて通ることなど、考えもしなかっただろう。それがお前たちの運命、いや、宿命なのだ。」

 何となく、否定したくなる言い方だったが、アルディスの口はうまく動いてくれなかった。

「だが、今のお前たちでは、役不足だ。小娘共は仕方ないにしろ、せめてお前だけは、使い物になるよう、細工を施さねばならん。よいな?」

 よいな、と言われて、アルディスはぎょっとした。一体、何をされるのか。承諾する間もなく、ラエルの話は続けられた。

「何、案ずるな。お前の肉体を改造しようとか、そんなことではない。旅のヒントを与えてやろうと言うのだ。ありがたく思え。」

 アルディスは心底ほっとして、紛らわしい上に偉そうな彼の言い回しに苛立ちを募らせた。

「明日行く墓にはお前の一族に代々伝わる宝剣があるから、持っていくのだ。その剣はそのままでは、ただの剣以下だ。長い間、手入れもされず、魔力も大分失われている。まずは鍛え直すのだ。お前の祖国にミズラ・ミズルという鍛冶屋がいる。その者に託すが良い。土台が完成したら、レオンに魔力を注入してもらうのだ。お前に最適の処置をすることだろう。」

 ミズラ・ミズルとは有名な、国王御用達の鍛冶屋であった。それはともかく、レオンハルトが剣に魔力を込めるとは、どういう意味なのだろう。この国の王子が魔法を使用していることを監視役だから知っていて当然だとしても、そのことに全く疑問を抱いていない様子なのは何故なのか。いや、そもそも、なぜ伝家の宝刀のことを知っているのか。ラエルはただせせら笑うだけである。

「余計なことを考えるな。ふむ。お前の疑念を少し減らしてやるとしよう。お前の父親を殺したのは、あの子ではない。八年前の細切れ事件も、あの子の仕業ではない。夜な夜な森で殺し屋どもを迎え討ったという噂、あれは本当だ。全てはある男があの子のためにやったこと。それが裏目に出た結果だ。あの子に責はない。」

 まるで見てきたかのような言いっぷりに、アルディスの声がようやく飛び出た。

「何故、そんなことまで知っている? お前はその頃まだ……」

「オレ様はあの子の全てを見てきた。あの子が生まれてから、強いて言うなら、生まれる前、千年以上前からずっとだ。オレ様もあの男も、あの子の人生に干渉しまいと、傍観者であろうと心に決めていた。だが、八年前の事件を境にあの男が暴走し始め、オレ様も動かないわけにはいかなくなってしまった。」

 アルディスは当然の質問をした。

「あの男とは誰だ?」

「お前たちはまだ知らなくて良い。そのうち、分かることだ。」

 そして、もう一つ。

「お前、何者だ? あいつの何なのだ?」

 銀の瞳を一瞬丸くして、男は高笑いした。

「オレ様があの子の父親にでも見えるか? 笑止! 何の因果でここの城主の如き大戯けに我が子を託して、こそこそと陰で見守る必要がある? 馬鹿も休み休み言え! さて、少し喋り過ぎたようだな。また会うことになろうが、今の話、他の連中には、特にレオンには言うのではないぞ? 剣のことも、それとなく切り出すのだ。何故な……」

 突如、真顔になったラエル。アルディスの背筋に冷たいものが走る。

「あの子は記憶を失っている。しばらくはその状態で動かねばならん。記憶というのは一つ一つが独立して成り立っているのではない。複雑に絡み合い、連動している。一つ思い出すことで十の、百の、或は全ての記憶が蘇ることもありうるのだ。ある目的地に到達するまで、絶対に思い出してはならない情報が、あの子の頭の中に隠されている。何がきっかけとなるか分からないが、お前の父親に纏わる話はその危険性が非常に高い。よいか? 間違っても父親の話をするな。剣の出所を聞かれたら、街の古物商から買い取ったとでも説明しておけ。あと、レオンの昔話を人々に訪ね歩いても構わんが、本人には決して報告するな。理由はわかるな?」

 アルディスは無言で頷いた。もとから彼に聞かせるつもりななかった。父親が細切れにされたことなど思い出させて何になろう? 忘れているに越したことはないのだ。


 一方のレオンハルトは、自室の机の上に頬杖をついて、ぼんやり考え事をしていた。というより、会話をしていた。


 ――なあ、アルフリート。オレが魔法使ってるところ、ガストンんも騎馬隊も見てたわけだろう?

 

 ――王や妃には報告していない。

 

 ――んなこたぁ分かってる。言えやしないさ。よりにもよってシザウィーの王子が魔法を使ってましたなんて。ガストンはともかく、問題は騎馬隊だよ。口止めされているんだろうけど、すぐに噂が広がるさ。それが、王や妃の耳に入る前に、自分から打ち明けた方が良くないか?

 

 ――王も妃も驚くだけで、すぐに受け入れる。だか、他の者はそれでは済まされない。

 

 ――だよな。ま、別に、王位継承権を剥奪されたところで痛くもかゆくもないけど。何の罪もない両親や国民に迷惑をかけるのは嫌だなぁ。体裁くらいは整えておきたいもんだよ。つまり、正当な理由と、納得のいく説明、それから人を説き伏せる演技力が必要なんだ。

 

 ――お前の記憶を引き出しかねない情報を話すわけにはいかない。

 

 ――言うと思った!

 

 ――自分で何とかするのだ。できるはずだ。


 静かな会話はドアを乱暴に叩く音で中断された。レオンハルトは少し苛立った声で返事をした。

「はい、どうぞ!」

 思った通り、入って来たのはガストンだった。彼は何やら書類の束を山ほど抱えて、よたよた近づいてきたかと思うと、レオンハルトの目の前に、どさっと積み上げた。レオンハルトはぎょっとして叔父を見上げた。

「……何、これ?」

「何に見えるとお思いですか?」

 ガストンは不機嫌そうに眉を顰めている。年柄年中、彼はそういう顔をしているのだが、中にも違いはある。今日のは明らかに怒っていて、顰め面をしているのだ。レオンハルトは紙の山を見つめて言った。

「……書類?」

 ガストンの縦皺は緩まない。

「そうです。王子が城を抜け出してから今日まで四か月が過ぎました。処理する者がなく、溜まりに溜まってこの有様です。」

 えっ?と一番上の書類を引っ掴んで、文面を確かめる。川に橋を架けるための許可を求める内容だ。二枚目は、城の食材費の内訳。三枚目は、城壁の修繕にかかる費用の見積もり。一貫性のない書類が、一つ所に積み上げられている。

「王子がやると言ったのですぞ? 責任を持っていただかないと……」

 岩に水が染み出すように、じわじわと脳裏に浮かび上がって来るものがあった。そう、これは、自分の仕事であり、本来王がするべき仕事である。けれど、王は……。机の引き出しを恐る恐る開けると、象牙の大振りな印鑑が納められていた。国王印だ。ペンを取って、そっと書類の一つにサインを入れてみる。驚くほど滑らかに、王の筆跡が現れる。その横に朱印を押せば、立ちどころに公式文書、王の承認を得た書類の出来上がりである。あまりの事実に言葉を失ったレオンハルトに、叔父はづけづけと言い放った。

「ぼんやりしている場合ではございませんぞ! さ、続けてください。方々から提出した書類はどうなったと矢の催促なのですからな!」

 けたたましいドアの音と共に、彼は去って行った。

 しばし、書類の束を睨みつけ、息を吐く。書類の束はこう言っていた。事実上、この国を動かしているのはあなたですよ、と。意を決して、仕事に取り掛かる。夕闇が迫る、窓辺の机。


 アルディスは、城の北に広がっている花畑に埋もれながら、白い道が向かっている森を見ていた。西の空は赤く染まり、群青色に押されて、次第に地平へと沈んでいく。黒々とした深い森は巨大な化け物のように、ざわざわと蠢いている。風の強い日だった。あそこで父は死んだのだ。そう思うと、真夏の夜風がやたら冷たく感じて、肩を聳やかせずにいられなくなる。花を見に来たつもりが、必然的に、事件現場へと視線を奪われてしまい、彼は心の安息を全く得ることがないまま夜を迎えてしまったのだ。と、城の方から僅かに声が聞こえて、振り返る。マーヤが二階の窓から何やら叫んでいる。近づいて耳を澄ますと、夕食の時間だから戻って来いと言っているようだった。呪縛から解き放たれた思いで、アルディスはそれに従った。

 マーヤに誘われて、ミーナ、サラと合流する。二人共、一休みしたおかげで、割とさっぱりした表情になっていた。

「アルディスさん、少しは休まれましたか?」

 サラの問いに、

「ああ……」

とすっきりしない言葉で返す。ラエル本人に会った話はあまりしたくなかった。するなとも言われている。思い出したくもない。あの、絶対的威圧感。見る者を惹きつける強烈な眼差し。あんな奴とまともにわたりあえるはずがない。あれはたぶん……。サラに思考を読まれないよう、別の話題を持ち出した。

「ところで、食事はどこで摂るのだ?」

 マーヤがにっこりと答える。

「食事室ですよ。王様とお妃様、それにガストン様もご一緒です。」

 三人は困惑の表情を浮かべた。せいぜい兵士や召使と食事するもの

と思っていたから、気楽に構えていたのだが、高貴な人々が同席となると、行儀作法など、気を付けなければならず、かなり堅苦しいことになりそうだった。三人の顔を見て、マーヤは噴き出した。

「大丈夫ですよ! 王様もお妃様もちょっとやそっとじゃ気分を害されたりしません。温厚なご夫婦なんです。ガストン様は厳しい方ですけど、王様の前でお客様を悪く言ったり怒ったりなさいませんよ。どうぞ気楽にしてください。それに、王子もご一緒ですから・・・」

 ミーナが即座に反応する。

「ラエルも?」

 一瞬、言葉に詰まりながらも、マーヤは丁寧に答えてくれた。

「そうでしたね。皆さんは王子をラエルとお呼びでしたね。ええ、ご一緒されますよ。でも、王様たちの前で、その名前をお使いにならないでくださいね。びっくりしますから。」

 その時、側の階段を、やいのやいの言いながら降りてくる者が数人あって、見ると、レオンハルトと兵士に召使だった。

「だーかーらぁー! 謹慎中だって言ってんだろぉ? 何で部屋から出られるんだよ?」

 王子とて、容赦はない。

「謹慎するのは王子でございましょう? それを何故、王様やお妃様まで巻き込んで、可愛い息子と食事する楽しみを奪われなければなりませんか?」

「そうですよ! 王子が帰って来るのをどれ程待ち望んでおられたことか! あの王様が謹慎を告げられるなんて、どんなにお辛かったことか……!」

 王子はふん、と鼻で笑った。

「何が辛いだよ。たった一週間、謹慎のきの字にもなりゃしない。どうせなら一か月でも一年でも閉じ込めときゃいいんだ。そんなに逃げられたくないんならさ。」

 下々は憤慨した。

「何と、冷たいお言葉ですか!」

「そんなことをしたら、王様もお妃様も倒れてしまわれます!」

 口論が途切れる。自分を見る視線が下から来ているのに気付いたのだ。

「よお、皆も食事か?」

 彼が嬉しそうに駆け下りてくる姿を、三人はため息交じりで見つめた。昼間とは打って変わった装いをしていた。

 光沢のある絹の真っ白な衣装に身を包んで、そこかしこに宝石を鏤めている。いつも結んでいる髪は解けていて、階段を一つ下りる度に艶やかな軌跡を描きながら揺れる。自分たちを見下ろすエメラルドの、何と暖かく美しいことか……。

 ミーナは頬をそっと桜色に染めた。

「う、うん。そうなの。一緒にご飯食べられるわね。」

 レオンハルトは階段を降り切って、ミーナを見つめるうち、徐々に不安な面持ちになった。

「大丈夫……かな?」

 それを聞いて、ミーナは体を一つ痙攣させた。レオンハルトの背中を、マーヤがどん!と叩く。

「……てっ!」

「王子っ! 不安にさせてどうします? しっかりエスコートして、助けて差し上げるのですよ?」

 シザウィー人は、どうもガサツな人種が多い。右手で背中を摩りつつ、ミーナへ左手を差し出し、はにかんだ笑顔を見せるレオンハルト。ミーナはその手を不思議そうに見つめた。

「さ、行こう。ここに手を乗せて。」

 恐る恐る置かれた手を、柔らかく握り、食事の間へ誘う。

 食事の間は、風の城の食堂を三倍の広さにして、テーブルを二倍に、清潔さを百倍にしたような部屋だった。天井からはクリスタルの傘が被されたランプが、どういう仕掛けか分からないが、白い光を放って、広い空間を隅々まで明るく照らしていた。まるで夜の住人が誤って朝の世界に紛れ込んでしまったかのような違和感に、客人たちはたじろぎ、歩を止めてしまった。レオンハルトは二、三度瞼を瞬かせ、そんな彼らを見ていたが、既に着席している王と妃の視線を受けて、所定の場所へ座らせた。客人はぎこちない様子で立派な設えの椅子に腰かける。ややしばらく沈黙の時が流れ、気を効かせたつもりか、王が口火を切った。

「皆、遠慮することはない。今宵は沢山食べて、旅の疲れを癒すのじゃ。わしらのことは気にせず、自分の家だと思うて寛ぐが良いぞ。」

 これが自分の家……と、三人は部屋中を改めて見まわした。そんな風に都合よく受け止められるものではない。

 程なくして、料理が運ばれてくる。サラはもちろん、アルディスもテーブルマナーについて心配はなかった。ナイフよりはるかに大きな刃物を普段振り回しているのだから、お手ものである。ただ、ミーナはそうはいかなかった。孤児院でも修道院でも、ナイフを使う食事など摂ったことがない。彼女の世界ではスプーンとフォークさえあれば事足りるのだ。王様と席を並べる日が来るとは思ってもいなかった、今日、この時までは……。

 ミーナはおいしそうな前菜を愛おしそうに眺め、次いで冷たい刃物を恨めしそうに睨んだ。仲間たちがこちらをちらちら伺いながら、自分たちの真似をするのだと促している。そこで、やっと、手を伸ばしてナイフを掴んだ。見よう、見まね……彼女にそんな器用な芸当ができないことくらい、皆分かっていた。しかし、ここはやってもらうしかないのだ。一回目は、料理にナイフの刃を乗せるような感じで当てて、真っ直ぐ下へ力を加えてみた。すると、ナイフはつるりと料理の表面を滑り落ち、皿はカツンと虚しい音を立てた。何故だろうと仲間を見る。彼らはフォークで押さえながら料理を切っているようだ。利き手ではない左手でフォークを持ち……いや、握り、ぎこちなく料理に突き刺そうとするミーナの様子を目の端で皆、固唾を飲んで見守っていた。そして、思った通りの出来事が起きた。料理はフォークの脇をすり抜け、床へ転げ落ちたのだ。周囲は方を一瞬痙攣させ、落とした本人はうんざりしてため息を吐いた。彼女は前菜を失って何も言えず、食べ終わったと勘違いした給仕が空いた皿を片付けるのをただやり過ごした。終始こんな調子で彼女の夕食はデザートまで来てしまった。デザートはオレンジ丸ごと一個だ。傍らに清楚な花が一輪添えられている他は、何の細工も施されていない、ある種の無骨ささえ漂わせるオレンジが、ごろんと皿の上に乗っかっている。ミーナはその無骨さに油断し、ぬか喜びした。これなら自分でも食べられる、と迷うことなくオレンジに手を伸ばした。が、目標を捉えるより先に、王子様の手が横から飛んできて、阻止されてしまった。ミーナは明らかに不服そうな目で睨み上げた。彼は平常心を装いつつも、冷や汗を滲ませている。我慢の限界と言わんばかりにミーナのデザートの皿と道具を取り上げ、自分の前に持って来ると、ナイフとフォークを器用に使って、オレンジの皮をくるくると?いていった。見事な手さばきに、ミーナばかりか、アルディスもサラも、王や妃に給仕たちまでも手を休めて見入っている。感嘆の息遣いが漏れるほどだ。皮を剥き終えると今度は薄皮を剥ぐように丁寧に実の部分を切り分けて行く。その実をきれいに並べて後はフォークで刺して食べるだけという段になって、元の場所、ミーナの目の前に戻す。ミーナは嬉しいやら恥ずかしいやらで、頬を桜色に染めながら、黙ってそれを口へ運んだ。王と妃は意味ありげににやにやしながら、そんな二人を見守っていた。

 食事を終えて、銘々の部屋へ戻ると、ミーナは緊張の糸が切れて床へへたり込んでしまった。次いで、空腹に襲われ、腹を押さえて俯いている所へ、背後のドアを叩かれる音がして、軽く伸び上がる。ドアを開けてみると、そこにはレオンハルトの姿があって、またミーナは驚いてしまった。

「ラエル……!」

 本来のものではない名前だが、一度刷り込まれた情報を切り替えるのは彼女にとって至難の業だ。それをレオンハルトが責めるはずもない。彼は、布の被さったトレイを携えていた。何だろうと思う間もなく、布が除かれ、中からサンドウィッチが現れる。

「!」

 ミーナは空間を抱えるようなポーズをとって固まった。レオンハルトは喉かに微笑んでいる。

「さっき、あんまり食べられなかっただろう? 厨房を借りて、作って来たんだ。これは手づかみオーケーだからさ。」

 机の上に置かれるや否や、ミーナはお礼もそこそこに食らいついた。がっつきすぎて喉を詰まらせ、胸を慌てて叩く。レオンハルトが葡萄のジュースをグラスに注いで、そっと差し出すと、奪うみたいに受け取ってぐいぐい流し込み、一息ついた。そこでようやく思い出して、ありがとう、と言うのだった。レオンハルトはにこにこ笑っている。

「あのさ、今日のは特別だから、あんな料理だったけど、いつもはもっと食べやすくて、お喋りしても良くって、本当、気がねしなくていい感じだから。明日からは心配しなくて大丈夫。」

 ミーナはもごもごと喜びの感想を述べた。はっきりとは聞こえないが。瞬く間にサンドウィッチを平らげ、満足げにナプキンで口を拭ったミーナは、しかし、途端に不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。笑っていたレオンハルトは真顔になってミーナに問いかける。

「どうした? 具合でも悪くなったか? 急いで食べるから……。」

 ミーナは首をぶんぶん振る。

「違うっ! そうじゃないっ! 思い出しちゃったの、昼間のこと。」

「昼間って、何か嫌なことでも言われたのか? トビーとテッドに。」

 怒りで肩を震わせるミーナ。

「あたしが、じゃないわ。あんたのことよ! 何なの、あの人たち! あんな言い方、あんまりよ。口に出したくもないわっ!」

 どんな内容か知らないが、よほど酷いものであることは予測できた。にも関わらず、レオンハルトは口元を綻ばせずにいられない。

「何笑ってんのよっ! 笑い事じゃないわ。怒りなさいよ、自分のことでしょう?」

 ミーナの意見に反して、花がゆっくりと開くように、幸せな笑みで一杯になるレオンハルト。

「いいよ。だって……ミーナが代わりに怒ってくれているから。ありがとう。オレのために怒ってくれて。」

 ミーナは爆発したみたいに真っ赤になって、頭から湯気を立ち昇らせる。

「なっ……! ば……馬鹿じゃないのっ!」

 光り輝く王子様に熱心に見つめられ、憎まれ口を叩くしかない、ミーナだった。こんな風にして、シザウィーでの一日は終わろうとしていた。






     八月十四日


「あれは何なのですか?」

 白い街並みに、一際眩しく浮かび上がる、透明な建造物。氷の神殿とは違い。氷ではないし、デザインもいたってシンプルだ。格子状の鉄の骨組みに、ガラス板がはめ込まれただけの、四角い巨大な佇まいが、他の建物の屋根から突き出して見える。街を馬車で走って程なくのことだった。あんなに目立つものなのに、昨日は誰も気付かなかったのが不思議である。サラの疑問で、皆一斉にその建造物へ目を向けた。案内役のテッドとトビーは、面白くもなさそうに答えた。

「何って、あれが墓地だよ。今日の目的地さ。」

「あれが?」

 ミーナが思わず身を乗り出す。

「そ。墓地は温室にすっぽり収まって、まるで植物園だぜ。初めて見た奴で墓地だって言い当てるものはまずいないね。」

「そんなものがあるとは知らなかった。」

 情報通のアルディスがよりにもよって植物園のような存在を見過ごし聞き逃したことを悔やんで呟くと、慰めるつもりではないだろうが、トビーがこんな説明をするのだった。

「何、知らないのも無理はないさ。あれは王子が六年前の誕生日に王様にせがんで建ててもらった、個人的な趣味のためのもので、公にはしていなかったし、それに建った当初は大きなガラスの建物ってだけで、目立つことは目立つけど、中は墓場だろう? 珍しいからって、あんまり近寄りたくないよ。ていうか、気味悪かったんだよな。何だって、墓地をガラスで覆ってしまったんだろうって。最近、やっと植物園にするためだったんだって分かってきたけど、それまでは見て見ぬふりさ。」

 あいつにそんな趣味があったとは……新たな発見に静かに驚くアルディス。しかし、本当に驚くのはこれからであった。

 周知されたいたにも関わらず、墓地の入り口を一歩跨ぐや、三人は感嘆の声を上げた。そこは植物園と呼ぶに相応しく、極彩色の見たこともない珍しい花々が所狭しと咲き乱れ、まだ若いが良く手入れされた樹木が濃緑で空間を満たし、花を引き立てている。その合間にちらほらと白い墓石が見え隠れして、美しくすらあった。半ば呆けていると、自分たちに向かって呼びかける声がした。

「やあ、あんたたちかね。王子の友達というのは?」

 こげ茶色の髪に、口髭顎髭で顔を縁取る、中肉中背の中年男。土まみれの服を着て、軍手をはめていて、小ぶりの麦藁帽を被り、首にはタオルを……庭師の風情で、気さくな笑みを浮かべるこの男が、墓守なのだと言う。トビーとテッドを所払いして(彼らはそういう扱いに慣れている)早速、レオンハルトの話題に入る。





    墓守テオドールの話


 さて、どこから話したものか……まず、自己紹介させてもらおう。私はテオドール。テオと呼んでくれ。元はと言えば、メキアの出身でね。あんたと同郷なわけだ。若い頃は魔法剣士だったんだが、十二年前、魔法アレルギーを発症してしまって、シザウィーへ治療しに来たのさ。私の場合、皮膚がかぶれる程度の、ほんの軽症だったから、すぐに完治したのだが、魔法も剣も大して腕が立つわけでもなし、こだわる必要もないと、故郷へは帰らなかった。家族もいないしね。

 シザウィーではちょうどここの墓守を募集していて、私が応募するとすぐに採用された。世の中には墓荒らしという、心ない連中がいるだろう? そういう奴らから墓を文字通り守るために、剣士としての経歴が役立つと踏んだらしい。墓荒らしは夜に出るんだ。昼は昼で整備をする必要があるし、一日中いなければならない。だから、ここには墓守のための家があって、墓守は代々住み込みで働いている。私には願ったり叶ったりだった。孤独には慣れていたし。

 知っているかね? シザウィーの人はあまり墓参りをしないのだよ。縁起の悪い所だと信じているのさ。それに、遺体を棺ごと燃やして火葬にしてしまう。焼け残った骨を蓋の付いた壺に入れて、墓の下へ埋めるんだ。衛生上の理由らしいが、最初は抵抗があったね。まあ、今は合理的だと思うようになったよ。シザウィーは大国だが、土地自体はそれ程広くない。しかも何故か墓地が街の真ん中にあるものだから、墓一つ一つが大きく場所をとると、すぐに土地が足りなくなってしまうし、拡幅もできないしね。

 話がずれたようだ。シザウィーの人は、墓参りの習慣がない。時々、埋葬作業をする者が来る以外は、殆ど人気がない。街へ買い出しに出かけても縁起の悪い墓守は近づきたくないから、皆、私を見ると避けて通る。異国の元魔法使いでもあるし……。私は孤独だった。六年前までは。

 その人は、初雪が降る中、誰かの埋葬に立ち会っていた。フードを被るのも忘れて、骨壺が土に埋もれて行くのを見、墓石が設置されて作業員が去った後も、そこに立ち尽くしていた。プラチナブロンドに、湿った雪が積もるのを払いもせず、ただじっと墓を見つめていたんだ。墓の主の未亡人じゃないかと思った。埋葬に立ち会うなんて、余程旦那への情が深い女性に違いない。その旦那とはどんな人物だったのかと、私らしくもなく想像して、次いで墓石に刻まれた名前を何気なく見た。そこには「アーサー・フロントここに眠る」とあった。

「アーサー・フロント? まさか、あの、アーサー・フロントか?」

 私は思わず声を上げてしまった。その人は少しびっくりして振り返った。頭から雪が落ちた。

「知っているの? アーサーさんのことを。」

 振り返った顔があんまり別嬪さんだったから、私までびっくりしてしまったよ。

「あ、ああ。そりゃもちろん。メキア出身でね。メキアで彼を知らない人はいないさ。死んだのか? 風の剣士が……!」

 その人はまた、墓へ目を向けた。

「うん……。私のために命を落としてしまった。」

 私はその人の横顔をちらちら見ながら、馬鹿な軽口を叩いたものさ。

「そうかね。あんたのためなら本望だろうさ。しかし、何でシザウィーに墓を建てたんだ? 彼はいつの間にか、シザウィー人になっていたのか?」

 その人は静かに頭を振った。そして、事の真相を説明してくれた。聞いているうちに、私は青ざめたね。よりにもよって、王子様をあんた呼ばわりしてしまったんだから。未亡人云々の話をする前だったのがせめてもの救いさ。

 アーサー・フロントは、極秘で王子の護衛をしていたんだそうだ。そして何者かに殺されてしまった。遺体をメキアに送ってやりたかったが、内戦のせいでできなかった。しばらく待っていたが内戦が終わる気配はない。仕方なくシザウィー式に火葬して、ここで墓を建てたんだ、取り敢えずね。遺族に引き渡せる時期が来たら、掘り出すつもりで。

 冬場、王子はしょっちゅう彼の墓の周りの雪よけをしに来ていた。いつでも骨壺を取り出せるようにと。私がやるからって言っても聞かないんだよ。一国の王子様がこうも頻繁に一人で墓参りなんかしに来たら、立場が悪くなるでしょうって言っても、自分の立場はこれ以上悪くなりようがないから大丈夫って。悪い噂は人と接することのない私にも聞こえていた。しかし、そんなものは、根も葉もないくだらない戯言なのさ。王子は、シザウィー人らしく、墓に向かって手を組んで祈るようなことはしなかったが、真心は充分に伝わって来たよ。その極みがこの花々なんだ。

 雪が溶けだして、春も近づいてきた頃、王子が徐に質問してきてね。ここではどんな花が咲くのかと。どんなって言われても、全然気に留めていなかったことだからね。私が返答に困っていると、何やら年季の入った分厚い手帳を開いて見せるんだよ。黄ばんだ頁には花の絵とそれに対する記述がびっしり書き込まれていた。こういう花は咲くだろうかと仰るのさ。文章程にも精巧な絵ではなかったが、見たことのある花だということは分かったけれど、ここではなく、故郷メキアで見た花のようだって、正直に話したら、ちょっと黙って考えていたね。で、また質問するんだ。ここに種を植えたら育つと思う?って。私は農夫でも庭師でもないから、もちろん分からない。ただ、シザウィーの土は他の国とは色が全く違うし、性質も違うんじゃないだろうか、それにメキアは春から秋の終わりまで非常に蒸し暑く、冬は湿った雪が何メートルも降るんです、シザウィーの夏は短くてからっとしているし、冬は寒くて長いけれど、降雪量は少なめですよね、気候が違えば、咲く花も違うんじゃないですかって、私なりの答えを導き出したんだ。それから、序に余計なことを、ほんの冗談のつもりだったんだがね、調子に乗って言ってしまったのさ。墓場が温室なら熱帯の花だって咲くのでしょうけどって。

 それから、あれよあれよという間に、墓地は本当に温室になってしまった。王子はけろっとすましていたものさ。普段物をねだったり頼みごとをしたりすることがないから、誕生日プレゼントに温室を建ててくれと言ったら、王様は酷く喜ばれたそうだ。一種の親孝行でもあったのだろうね。

 王子は暇さえあれば、ここへやって来て、土を耕したり、肥料を撒いたり、種や苗を植えたり、水をやったりしていた。ああ、そうそう。気付いているとは思うが、ここの土はシザウィーの土じゃない。他所の国からもらってきて敷いたものだ。この面積を二メートルの深さまで掘り下げて、二メートル分別の土を敷くっていうのは、もちろん大変な労力と費用を要する。だが、それ以上に驚くべきは、王子の尋常じゃないこだわりっていうか、意気込みっていうか……あんたたちも感じるだろう? まるでアーサー・フロントの亡霊に憑りつかれたようさ。いや、睨まんでくれ。私がアーサーなら気の毒な王子に憑りつきはしないし、それにこんな大層な弔いは止めてくれって訴えるよ。アーサーだってそうだろうさ。王子はだから……自分で自分を呪っていたのかもな。

 ふむ。話を戻そう。墓地が温室になった一年目は、あまりうまくいかなかった。王子はあの、ボロの手帳の他にいろんな書物を読み漁って研究した上で始めたわけだが、学術的な知識だけでは植物は育たないようでな。しかも、何百、何千という種類の花を一篇に咲かせようっていうんだ。素人が、無茶な話さ。王子は根付かず枯れて行く苗を摘んではがっかりしていたよ。けれども、次の年から少しずつ植物は増えていった。王子の凄い所は、失敗した個所をいちいち全部覚えていることだね。だから、同じ過ちを決して繰り返さない。こうして今は、これ、この通り。さ、王子の作品たちを見て回ろうじゃないか。もちろん、あんたの親父さんの墓も案内するよ。



 一行は無口に、ただ感嘆の吐息を漏らしながら、墓地を歩いた。そして、アルディスにとって馴染み深い花々に埋もれるように、その墓はひっそりと建っていた。父が眠る墓……父の遺骨が埋められている、その墓。実感は湧かない。シザウィーの墓石は、全て白石で、全て同じ形に削られ、全て同じ字体で名が刻まれている。アーサー・フロントと銘があるから、辛うじて判別できただけのこと。同姓同名だったら、どうするのだろうか。朧げに考えながら、しかし、すぐに別の思考で頭が満たされる。花の影になった墓の土台部分に、黒いものを認めたから……。革製の四角い箱は、持ち上げてみると、意外に重い。アルディスの確認の視線に、テオドールは笑みで返す。アルディスはそっと蓋を外してみた。中には古ぼけた分厚い手帳が、すっぽりと納められていた。父の手垢に塗れた手帳……アルディスは不本意にも、動揺し、震える手でぎこちなく取り出した。正視できる自信もないまま、慣性の法則みたいにパラパラと手帳をめくる。と、何かの細長い紙片が舞い落ち、相変わらず震える手で拾い上げる。それは、一枚の栞だった。子供の頃、自分が何とはなしに描いた花の絵を、父が栞にしていたものだ。懐かしさや悲しみや、いろいろな感情が込み上げてきて、彼は盛んに揺れ動く自分の絵を見つめるしかなかった。その栞は、褐色の血で汚れていた。

 サラとミーナ、そしてテオドールは、自発的にこれといった相談もなしに、彼を一人にしてやることに決め、しばらくの間、銘々、花を眺めに散った。花々は美しかったが、彼らの戸惑いを打ち消す術にはなってくれない。時間が解決してくれるのを待つしかないのだと誰もが思う。

 憂鬱に天国のような世界を歩いているうち、ふと、サラがあることに気付いて、立ち止まった。

「あら? この辺りの土だけ、少し色が薄いみたいですわ……?」

 それだけではない。植物の生育も悪く、直径十メートルの円形に、丈が低く疎らになっている。円の中心に近い程白っぽく、中心部に至っては雑草も生えていない。

 少し立ち直ったアルディスが、手帳を収めた箱を携えつつ、サラの側へやって来ていた頃だった。

「ここだけ試験的に白土を混ぜたのではないか?」

 他の二人も声につられて合流する。でおどーるの頬を冷たい汗が伝う。

「あんたたちにどこまで話していいのか……いや、何でも話せとの王子のお達しだ。話すことにしよう。」

 独り言のように、テオドールは呟き、続けて事の経緯を語り始めた。


「白土だからって植物が育たないってわけじゃない。あんたたちも、外で見てきただろう? 木も生えてるし、花も咲いてる。シザウィーの北側には森と山脈が広がってて、その全部か白土で覆われているんだ。農作物だってちゃんと……つまり、他の国の黒土と成分は大して変りないのさ。魔法を打ち消すってこと以外はね。王子もそのことは重々承知で、だけど完全主義だから植物の原産地に合わせた土をわざわざ他所の国から取り寄せてここに敷いている。そうさ、だから、この白い部分は、他と同様黒い土だったわけだ。花だって咲いていた。けれど、ある事件が、いや、事故というのかな? それがきっかけで草一本育たない土に変わってしまったのさ。

 四年前の夏の終わりごろ、王子と私はやっと順調に育ち始めた植物の手入れに勤しんでいた。次の年もっと花が咲くだろうことは脳天気なくらい確信できたから、やっていて楽しかったね。なのに王子は当時元気がなかった。公務の合間を縫っての農作業だ。疲れているのも無理はない。顔色が悪いから、少し休んだらどうか、私だけでは頼りないかもしれないがって言ったんだ。王子は笑って、もう少しやったら休むよ、ありがとう、と珍しく素直に私の提案に乗ってくれた。余程弱っていたのだろう。私が墓守小屋で茶でも入れておこうと歩き始めて間もなく、後ろでどさっと鈍い音がして、振り返ると王子が地面にうつ伏せで倒れていたのさ。そりゃあもう、驚いて、慌てて駆け寄った。いや、駆け寄ろうとしたんだ。でも、王子が来るな、逃げろって叫ぶものだから、何事かと立ち止まった。すると、私は見てしまった。地面が王子の真下から漂白されるように退色して、それが円形に広がって私の足元まで迫って来るのを! 何が何だかわからないが、危険だということは本能的に感じた。私は一目散に逃げ出した。どのくらい逃げて、どのくらい時間が経ったろうか。息切れと恐怖の中、地面に手をついて屈みこみ、その掌を確かめた。どうにもなっていない。後ろを振り返ってみたが、墓地はいつものとおり、静かで平和で、植物園より植物園らしく、草木や花が生い茂っている。土も茶色い。まだ安心できなかったが、王子のことが気掛かりで、わたしは恐る恐る来た道を引き返した。土の漂白は王子を中心に半径五メートルの所で止まっていた。咲いていた花は見る影もなく枯れて、悉く白い地面に横たわっていて、それを片っ端から無言で引き抜いている王子がいた。根も干からびていたから、するすると簡単に抜けているみたいだった。私が声を掛ける前に、王子は言った。また、やり直しだ、と。俯いた横顔は少し笑ってるように見えたが、そんな余裕があるはずもない。王子は震えていた。白くなった土を掴みながら蹲って……。あと少しで、テオを殺してしまうところだった、と言葉を吐き出した。私は何と声を掛けたらよいか分からなかった。まごまごしているうちに、王子は何か思いついた様子でポケットからハンカチを取り出して、白い土をぎゅうぎゅうに包んで立ち上がり、悪いけど、しなくちゃならないことがあるから、ここの片づけを頼んでいいかな、と言うんだ。私に拒む理由はない。王子は足早に城へ……たぶん城だと思うんだが、帰ってしまわれた。白くなった土を調べるつもりじゃないのかね? その後、どういう結果が出たのかわからない。私も王子も、あれ以来ここのことについて触れることはなかった。私は王子に内緒で、こっそり花の種や苗を植えてみたことがあるが、どれも根付かず、芽生えずさ。こんなことを話すのは、あんたたちが初めてだ。どう解釈しようと自由だが、ありのままに話すよう言ったのは他ならぬ王子なんだからね。王子の気持ちも汲んでやって欲しい。」


「白くなった土を王子は一人で調べたのでしょうか?」

 物思いにふけるように押し黙っていた一行の中で、サラが鈴のような声を響かせる。彼女は父親から託された黒い土を、白い土と対比させて脳裏に浮かべていた。そんなことなど思いもよらないテオドールは、素直に自分の考えを述べる。

「王子なら一人でも調べられるかも知れないな。あんたはつまり、王子以外の人物からその土のことを聞いてみたいんだね? 客観的に事実を知りたいわけだ。」

 サラは、幼子のように澄んだ瞳で頷いて見せた。他の二人は少し意外そうに彼女を見、それからテオドールへ向き直った。

「そう……王子がもし自分以外の人に何か研究を依頼するなら、決まった機関がある。シザウィー科学研究所だ。名前はシンプルだろう? 城の地下組織なんだが、その存在は誰もが知っている。ただし、そこへ入れるのは研究所員か、王子だけだ。行き方も場所も分からない。研究所の人間は兵士の中に紛れ込んでいて、一切その正体を明かさないらしい。いや、何。王子本人に聞いたらどうかね。研究所に行きたいって。あるいは研究所員を紹介してくれって。たぶんすんなり教えてくれると思うがね。」

 サラは決意めいて微笑むように口の端を上げた。

「そうします。ありがとうございます。」

 アルディスもミーナも、彼女が正体不明の白い土に興味を示したことに対して不思議な印象を抱いたが、口には出さなかった。土はレオンハルトに栄養の全てを吸い取られて白くなった。そう考えるだけであとはどうでも良いような気がしたのだ。それがシザウィーの白石と似ていたところで、自分たちの旅と何の関係があるのだろう、と。テオドールは、ふと思い出したことを口に出した。

「おお、そうそう。あんたたちにもう一つ見てもらいたい墓があるんだがね。」

 一同は顔を見合わせた。それぞれに思い当たる節はない。彼の後についていくと、アーサーの墓と背中合わせの、少し離れた所に立っている墓へと案内された。その墓もアーサーの墓同様、惜しげもなく花に包まれて、美しくすらあった。誰の墓だろうと思うともなしに、刻まれた名を端から読み上げ、幽霊でも見つけたかのような悪寒に襲われた。

「アルキース・ブレイズマン……キース……って……」

「まさか……!」

「どこにでもある名前ではないか。意識しすぎだ。第一、キースしか合っていないだろう。」

 そう言うアルディスが一番深刻そうに顔を顰めている。ある種期待を込めて見ていたテオドールが、顎髭をいじりながら肩を落とした。

「何だ。てっきり知り合いかと思ったよ。」

 ミーナは墓石と睨めっこを始める。

「この人、五年前に亡くなったのね。」

「しかも享年二十四歳だ。今、仮に生きていたとしても二十九歳。あいつの年齢に及ばない。」

 安堵しているとも、勝ち誇っているともとれる、アルディスの表情。

「何故、この方のお墓を案内されたのですか?」

 サラのもっともな質問に、テオドールは少し悲しげに目を伏せた。

「ふむ……彼はね、アーサー・フロントと同じくらい、王子にとっては大きな存在だったんだ。彼と出会ってからというもの、王子は生き生きと輝いて、それはもう、楽しそうだった。そんな王子を見ることができて、私も嬉しかったよ。けれど、彼も呆気なく死んで、今はこの下だ。あんたたちは王子のことを詳しく知りたいんだろう? だったら、彼は外せないと思うがね。死人に話を聞くわけにはいかないから、彼と王子の様子を直接見ていた人たちを尋ねるといいよ。」

「どちらへ伺えばよろしいですか?」

「病院さ。シザウィー国立魔法アレルギー病院。私も入院していた所だよ。」

 えっ?と一同が眉を上げた。

「その時の患者が、まだ何人か残っていると思う。医師もね。アルキース・ブレイズマンは元患者で、王子は医者の卵、研修医だったんだ。」

「五年前って、ラエルはまだ十四歳じゃないの!」

「天才でいらっしゃいますもの。五歳で医学書を読破されたのですよ。」

「へえ、ラエルって、凄いのねぇ。」

 目を丸くするミーナを、テオドールは口髭を引きつらせて見た。

「ラエル……? あんた、王子のことをそう呼んでいるのかね?」

 悪い?と言いたげにミーナが頬を膨らませる。

「王子がそう呼ぶように仰ったものですから。」

 サラの弁明を聞いても不服そうに顔を歪めるテオドール。

「私が王子にダメ出しさせてもらうなら、頑張り過ぎることと、あの男の存在を肯定されていることだ。あの男は、昨夜遅く、私を尋ねてやって来たのだが、思い出してもゾッとするね。寝ているところへいきなり、暗闇の中から現れて……あいつの名乗るのが遅れていたら、斬ってかかっていたところだ。」

 温厚な彼をこれほど怒らせるとは……と、思いきや、何やら震えている。

「鍵を掛けていたのに、一体どうやって……気配もなく……」

 小さな声だったが、アルディスには聞こえていた。実際に会った者同士、その辺の感覚は飲み込める。しかし、敢えてそれを伝えることはしなかった。

「あなたを尋ねに? どんな御用で……」

 サラの質問に気を取り直して答える。

「何、あんたたちが王子のことを聞きに来るから、よろしくとね。王子御自らの希望だとも言っていた。」

 そう言われて、初めて気づいた。これまでの経緯はおろか名も告げていないのに、彼がレオンハルトの情報をペラペラ放し始めていたのだと言うことを。ラエルが根回しをしていたのだ。おそらく、誰に命じられたのでもなく、彼自身の意志で。ここ数か月の旅でもそういうことをしていたのではないか。アルディスは眩暈を覚えて、頭を振るった。

「ああ、それと。」

 テオドールがアルディスを手招きする。招かれていない娘たちも自ずとついて来る。シザウィーの建造物としては珍しい丸太小屋。これが墓守小屋なのだろう。中へ通され、待つように言われると、三人は時が止まったようにじっとその場で立っていた。間もなく、隣の部屋からテオドールが古い布に巻かれた、何やら大きくて長いものを携えて現れるや、無言でそれをアルディスに差し出した。アルディスには思い当たる節があった。例の、あれだ、と。だから、ここでわざわざ確認する必要はないはずなのだが、受け取った瞬間、違和感を掌に感じて、包帯を解くみたいにするすると布を取り払っていた。

「……。」

 年代物の、レリーフが施された鞘。父が家を出て行ったあの日、手にしていたものに相違なく、何も変わっていないように見えたが、いざ本体を抜いてみると……。ざりざり。砂でやするような音とともに現れた、それ。理解不能な出来事に、切れ長の目が本当に切れてしまう程開かれる。テオドールが気の毒そうに口髭の端を掻いた。

「何でそうなったのか、私にも分からないんだ。少なくとも、ここ六年は使われていなかった。それは確かだが、雨ざらしにしておいたわけでもないし、鞘に納めて布で包んで納屋の奥にしまっておいたんだ。それを、あんたが来るっていうから、昨夜出してみたのさ。この六年間、手入れもしないでしまいっぱなしだったから、錆の一つもついてしまったかもしれないと心配でね。ところが、どうだ? 錆一つの騒ぎじゃない。まるで何百年も塩水に付け込んでおいたみたいじゃないか。こんなことなら、年に一度でも出して手入れしておくんだったよ。剣士の端くれとして、申し訳ない。」

 テオドールの釈明を遠いさざ波のように聞き流しながら、それを眺め続けるアルディス。錆だって? これが? 錆にもいろいろな種類がある。赤茶けたものや緑色っぽいもの。けれども、アルディスが手にしている剣は、錆とするなら随分珍しい種類の錆に侵されていたのだった。白い細かな結晶状のものが、昔、鋭利であったろう刃を、原型をとどめない程に厚くもったりと埋め尽くしていた。テオドールが塩水に漬け込んだようだと表現したのも一理あった。どこぞの国の料理法で、塩釜焼というのを聞いたことがあるが、それは卵白で塩を練って、魚や鶏肉を包んで焼くものなのだが、アルディスは剣を鞘から抜いた瞬間、それが出てきたのかと思ってしまった。なるほど、これは自分の手に負える代物ではない。妙に納得して、鞘に納めると、墓守に上手く礼も言えないまま、植物園を後にした。


 植物園の一歩外へ出ると、待っていたかのように、ミーナとサラが先ほどの剣について質問攻めにしてきた。アルディスは迷うことなく答えた。これは名のある剣で、元は切れ味も素晴らしいものなのだが、今はひどく傷んでいて、自分では手の施しようがない。メキアに腕利きの鍛冶職人がいるから、その人に見てもらうつもりだ。テオドールが何の因果か持っていて、我々の旅の事情を知って、役に立つだろうとくれたのだ、と。嘘は言っていないから、淀みなく口から出た。サラもわざわざ心を読む気にならないだろう。

 二人の冴えない兵士と合流した一行は、レオンハルトが研修医として行っていたと言うシザウィー国立魔法アレルギー病院へ向かった。病院は植物園とさして遠くない所に建っていた。小さい家々がぎっしり詰め込まれたような通りの中程にある、二階建ての少しだけ大きな建物。一見すると、病院とは、それも国立と冠した病院とは思えない佇まいであった。

 この辺り一帯はシザウィーのいわば貧民街で、墓場同様忌み嫌われている魔法使いのための病院の落ち着く先はここしかなかったのだろう。あるいは、この病院が建ったために、土地の価値が下がって貧しい人々が住む地域になったのかもしれない。いずれにせよ、この地域が完全無欠に真っ白な城塞都市の染みであり、掃き溜めであることに変わりはなかった。

 病院の一階は小さなロビーと無人の受付カウンター、それに重症患者の病室、手術室、院長室があり、二階は看護師の詰所以外、全て病室となっていた。一行は兵士たちをロビーで待たせ、院長室のドアをノックした。

 返事もないまま開かれたドアから寝ぼけ顔を覗かせたのは、思いの外若い・・・と言っても、四十代半ばであろう院長その人だった。

 三人を珍しくもなさそうに眺めたのち、急に表情を輝かせた院長。

「やあ、あんたたちかね。王子の友達っていうのは!」

 どこかで聞いた台詞……ここにもあの男、ラエルが現れていたのだ。院長はご機嫌で三人を中へ招き入れ、温かく香りのよい紅茶と、シンプルだが焼き色の美しいクッキーを振舞った。三人が来るとわかって、予め用意しておいたのだろう。突然の温かいもてなしに戸惑いながら、一行は本題に入ることにした。

「あの、キースさん……アルキース・ブレイズマンさんのことなんですが……」

 切り出したのはサラだった。院長は懐かしくも悲しげな笑みをその目に湛え、話し始めた






     院長の話


 王子がここへ研修医として来られたのは五年前の九月から十二月までの三か月の間だ。シザウィーでは医師免許を取るのに最低三か月の研修期間が必要なんだ。王子は一年間という約束で色々な資格を取得する許しを王から得ていた。医師免許が約束の期日ぎりぎりの丸一年ということだった。ここへ来るまでに二十一の資格を取得されていた。何故そんなに資格を取りたがったのかは分からない。世間では資格マニアと秘かに王子をこき下ろしていた。王子はいずれ王になる方。調理師だの建築士だの、そんな免許を取る必要はないはずだ。税金の無駄遣いと思われても仕方がない。しかも、墓場を温室にしたり、そこに入り浸って作業したり、ただでさえ変人と見られていたところだしね。実習をこなさないと取れない資格の時には、随分嫌な思いをされていたらしいよ。王子が言ったわけではない。王子はそういうことを、自分の境遇とか悩みとかを人に話すタイプじゃないからね。街の噂で持ち切りだったんだ。殆どが偏見と中傷に満ちた内容だった。そこへきて、ここだ。

 見ての通り、ここはシザウィーにとって墓場と並び評される程厄介で、近寄りがたく、縁起の悪い所なんだ。最初は実習先の病院としてわざわざここを選んだ王子の気が知れなかったよ。私? 私かね? 私は元々シザウィーの人間じゃない。ここの患者としてやって来た、異国の白魔法使いだ。この体質では本国へ帰ることもできない。当時、ここの院長はシザウィー人だったが、周囲の冷たい仕打ちに耐え兼ねて、心を病んでいた。それで私に話を持ちかけたのだ。自分の代わりに院長にならないかと。断る理由もない。他に私にできることなんてないのだから。私は二度返事でその話を飲んだ。

 それから一年くらい経った頃に王子はやって来た。十四歳とは思えない程明晰で、器用で、そして暗い翳りを持った少年だった。数々の実習で痛い目にあったせいもあるのだろうが、それ以前に何か深い傷を心に負っている。そう、致命傷と言ってもいいくらいの打撃を受けた人間の暗さだった。新しい資格をこれから取ろうとしているようには全く見えなかった。そんな抜け殻同然の顔で病人の世話を焼いている王子の姿を見ているうちに、私はだんだん腹が立ってきてね。たぶん、今までの実習でも死人みたいに事務的にそつなく作業をこなしてきたんだろう。嫌がらせをしたくなる奴がいてもおかしくはない。見方によっては一生懸命に資格を取ろうとしている人々を小馬鹿にしているように見えるからね。で、私は王子に一つ忠告をすることにした。院長室に呼んで、眉間に皺でカツを入れたのだ。

「自分の顔を鏡で見てみなさい、そんな幽霊みたいな顔で世話されて誰が喜ぶものか。治るものも治らなくなる。医者は頭も技術も大事だが、患者を安心させるための笑顔だって立派な薬になるんだ。わかったら、ほら、病室で誰かが呼んでいる、行きなさい。行って確かめてくるんだ」

とね。

 王子はその時、十四歳の少年らしく驚いて、院長室の壁にかかっていた鏡に自分の姿を映して、ほんの数秒見つめてから、病室へ行かれた。王子が行ってしまってから、私は言い過ぎたかもしれないと後悔した。もしかしたら、王子は鬱病にかかっているのかもしれない。そんな時に叱られたら、病状を悪化させるとも限らない。思い余って自殺でもするんじゃないかと心配になって慌てて後を追った。しかし、そんな心配は無用だった。王子は、それはもう、素晴らしい笑顔で患者に接していた。今まで見たこともない、優しさを絵に描いたような暖かな笑みなんだ。患者たちもびっくりだ。口々に天使かと思った、輝いているみたいだと褒めるものだから、王子の方もますます嬉しそうに笑ってね。それからの王子は人が変わったように表情豊かな人間味溢れる態度で患者たちと接するようになった。爪弾き者の集まりである陰気で寒い病室に春が来たようだった。病気で落ち込んでいた患者もみるみる元気になって、退院したくないと言う程だった。王子と離れたくないがために。

 私は王子に問うたものだ。何故こんなに素晴らしい笑顔を持っていながらずっと隠していたのかと。王子はこう言った。

「楽しくなかったからです。楽しくない時でも笑っていいとは知らなかった。自分が笑うことで人が良い気分になるとも思っていなかった。暗い顔が人を不快にするとも。教えてくれてありがとう」

と。私はこの時、分かったのだ。王子の純粋さがね。嘘を吐くってことを知らなかった、だから面白いことがなければ笑わない、愛想笑いができなかったというわけだ。自分の感情を誤魔化して偽の笑顔を作ろうなんて夢にも思わなかったというのだ。そして、人のためになるのなら、嘘でも笑っていいのだと、十四歳のこの時まで知らなかったと言うのだからね。しかし、まあ、王子の笑顔は九十九%、本当の笑顔だった。あんな心のこもった笑顔は、嘘で作れるものじゃない。患者との触れ合いが余程楽しかったんだろう。

 その患者の中にアルキース・ブレイズマンがいたんだ。彼は巷で有名な盗賊でね。人間の宝では飽き足らず、妖魔界にまで手を伸ばして、そこで魔法アレルギーを発症してしまい、命からがら逃げてきたっていうことらしいが、彼自身は何も話さなかったから、本当のところはどうだか。王子のことと同じく、単なる噂話なのかもしれないな。しかし、国際的に指名手配されている正真正銘の犯罪者だ。本来ならば即、縛り首となるはずが、魔法アレルギー特別法のため、刑を免れたんだ。魔法アレルギーと診断された者は、治療法の研究に協力するという条件で、シザウィー国家から生活保護を受けることができ、殺人及び殺人未遂を除いて、あらゆる刑罰を免除、軽減、或は延期することができるんだ。彼は一流の盗賊で、物盗りに徹底していた。芸術と言ってもいい。人に危害を加えるどころか、人に見つかるようなヘマはしたことがない。そんなわけで、自他共に認める大悪党なのに、彼は無罪放免となったのだ。

 だが、ここへ来てしばらくの間、彼の入院生活は針の筵だったと思うよ。自分から話しかけることもないが、全ての患者から無視されて、無視だけならいいが、あからさまに嫌味を言われ、子どもじみた嫌がらせをことあるごとに受けて。抵抗しようにも彼の症状は本当に酷くてね。立って歩くことも、寝返りも満足に打てない程衰弱していたんだ。罰なら充分に受けていたと私は思うが、やはり集団生活には憂さ晴らしの存在が必要なんだろう。自分たちだって、異国の魔法使いとして、シザウィーの人々から白い目で見られている、その辛さを身に染みて知っている筈なのに、誰一人として嫌がらせを止める者はなかった。私がいくら窘めても効果がなくてね。そこへ王子が天使のごとく現れたというわけだ。彼への嫌がらせはぴたりと止んだ。ああいう穢れのない存在を前にすると、人は悪いことをできなくなってしまうものなのだな。物事の分別がつくようになると言うべきか。

 さて、王子はどういうわけか、患者の中でもとりわけアルキース・ブレイズマンを気にかけていた。アルさん、アルさんと呼んでね。誰の目にも明らかなかことだった。贔屓したつもりはなかっただろう。しかし、気づけばいつも王子は彼の傍らにいた。

 ある時、焼きもちなんだろう、患者たちが口々に王子を諌めた。「王子、そんな奴に構うことはありませんよ。そいつは賞金首の大泥棒なんだ。王子の手が汚れます。」

と。王子は目を丸くして言ったものだ。

「へえ、アルさんは泥棒なんだね。本物の泥棒に初めて会った。」と。今度は皆の目が丸くなった。王子はさらに言うのだ。

「それで、欲しいものは手に入ったの? 見つからなかった? 私が持っている物ならあげられるんだけど、私には何もないから。」と。これにはみんなびっくりしてしまってね。

「お人好しにも程がある、こんな盗人に王子の塵一つだってお譲りになってはいけませんよ。」

「それにしても、王子なら宝物なんて腐るほどお持ちでしょうに、何だって謙遜してそんな風に仰るわけで?」

と聞いた。王子は困ったように笑って言った。

「謙遜じゃないよ、私のものは王のものであり、シザウィーのものなんだ。私個人が自由にできるものなんて何もないんだよ。」

と。

「だけど、墓地を植物園にしたでしょう、あれは誕生日のプレゼントだって話じゃないですか。」

と一人が言うと、王子は笑ってこう返した。

「墓地を植物園にしたいなんて誰が思う? そもそも花には興味ないし、墓はもっとだ。」

 では、何のために、と聞かれて、王子は悲しそうに言った。

「あそこは私の命の恩人が眠っているんだ。埋葬されるのを見に、初めて墓へ行った。そこはあまりに寂しい所だった。わけあって、ご家族にその人の死を知らせることも、遺体を送ることもできなかった。いつか、ご家族がここへ来てくれるかもしれない、その時に、こんな殺伐としたところを見せたくなかった。その人もご家族も花が大好きだということだから、いつ来ても花で溢れているようにしようって思ったんだ。」

と。一人の人間のためだけに墓場全体を植物園にしたのかと我々は愕然としたものだったが、王子の意見は違っていた。死んだ人のためにできることは何もないというのがシザウィー人の考えだ。王子も例に漏れず、生粋のシザウィー人だった。植物園は、まだ生きている、そのうちくるであろう家族のために作ったというのだ。つまり、アルディス・フロント、あんたのために。……おや、話がずれてしまったようだ。

 王子はアルキース・ブレイズマンを兄のように父のように祖父のように慕っていた。尊敬の念すら抱いている様子だった。人生相談と言うのか、日々の疑問を彼の前で口にされていた。アルキースの方はというと、煙たがっているふりはしていたが、内心嬉しくて仕方なかったと思うね。王子の質問にはその都度必ず答えた。傍で聞いていて冷や冷やする程きつい言い方をするのだが、王子はその言葉の真意を汲み取っていつも満足されていた。

 そのお返しのつもりか、アルキースのリハビリを熱心に、時に厳しくするのだ。これにはアルキースも参っているようだったが、王子が付きっきりでやってくれるのだから、文句は言えまい。リハビリの効果は覿面だった。院長の私ですら匙を投げた彼の病状はみるみるうちに良くなり、身体機能も回復して、何とか杖なしで歩ける程になった。もともと若かったからね。やる気さえ出せば治る病気だったのだろう。

 そうこうして、王子の研修期間が残り二週間となったある日のこと。木枯らし吹きすさぶ晩秋の昼下がり、病室から怒鳴り声が聞こえたような気がして、私は一応行ってみることにした。王子がその場にいるはずだから心配ないとは思いつつ、ね。ドアを開けると、真っ青な顔をした王子がこちらに目もくれず出て行くところだった。病室には気まずい空気が充満していて、アルキースは毛布を被ってベッドに蹲っていたし、他の患者たちはおろおろとなす術もなく言葉にならない声を呟くばかりだった。何があったのか患者たちに問うと、一人が泣きたいような怒っているような顔で答えて言った。「あいつのせいです。あいつが王子に余計なことを言うから……。」

 つまりはこうだ。王子の研修があと二週間で終わるという話になって、一同はとても残念がっていた。王子も同じ気持ちで、医者になってずっとここにいられたらいいのにと感傷的な事を口にした。そこでアルキースの怒号が飛んだというわけだ。

「お前は王子だろうが、お前が王子でなくなったら、この国はどうなるんだ。シザウィーに住む全ての人に迷惑をかけることになるじゃねぇか。お前はただ王子の肩書を持って生まれたんじゃねぇ。この国を背負って立つ義務を持って生まれてきたんだ。間違うなよ、権利じゃなくて、義務なんだ。責任持てよ。簡単に放り出そうとするんじゃねぇ! それから、もう一つ、忠告しといてやる。お前の親父とお袋は何かの病気だ。どっかの国の医者が月一で診てるんだとよ。お前、医者の卵か何か知らねぇが、恥ずかしくないのか? 他所の医者に自分の親を丸投げしてよ。自分の親の面倒も見れねぇのに、人様の世話なんか焼いてる場合か? わかったらとっとと城でも何でも帰りやがれ!」

 私が階段を降り、宿直室、王子が三か月近く寝泊まりしていた部屋に行ってみると、すっかり身支度を終え、病院へ初めて来た日と同じいでたちの王子が立っていて、傍らのベッドの上には纏められた荷物が一つ載っていた。私はあまりの急展開にびっくりして、王子、と呼ぶことしかできなかった。王子は気が動転しているようだったが、強い決意を滲ませて言った。

「城へ帰ります。二、三日か一週間、もしかしたらもう戻って来れないかもしれません。それで医師免許を取得できなくなっても仕方ありません。ご指導いただいた先生には申し訳ありませんが。」

 失礼します、と王子は足早に行ってしまった。

 天使を失った病室には再びどんよりした空気が雪崩れ込み、カーテン越しに入ってくる白い陽光が何の慰めにもならない程惨めな日々が、単調に訪れては去って行った。患者たちはこの状況に数日耐えた。時が止まったように息を潜めてベッドに横たわっていたのだが、一週間目、ついに静寂は破られた。患者の一人がアルキースに向かって言い放った。

「お前のせいだ、お前が帰れなんていうから、王子は本当に帰ってしまったんだ!」

 それに呼応するように、患者たちは次々とやり場のない怒りをアルキースにぶちまけた。

「そうだ、そうだ、何もあんないい方しなくたっていいのに」

「王子はどんなに悲しかったことか」

「散々世話になっておきながら、この恩知らず、盗人のくせに、生意気な口を聞いて」

「お前に王子を責める資格なんてない」

「王子はご両親の病気のことなんか知らなかったんだ」

 そして、事態は最悪な方向へ転がり出した。アルキースは毛布に包まって言葉の刃にしばらく耐えていたのだが、

「きっとご両親が良くなっても帰って来ない、お前の顔なんか見たくもないのさ」

という言葉がとどめの一撃となって、彼は突然、けたたましい叫びと共に跳ね起き、杖を振り回しながら病室を飛び出していった。皆、呆気にとられてその場を動けなかった。王子が支えてようやく歩いていた彼が、まさか単独で、しかも走って行くなんて想像だにしなかったことだ。そこまで回復していたとはね。しかし、彼の走り方はぎこちなくて、無理をしているに違いなかった。私は正気に戻って、慌てて彼の後を追った。それが、階段を駆け下りる頃には彼は既に病院の玄関のドアノブを回しているところだった。待ちなさい! と声を掛けたが、彼には全く止まる気配がなく、不安定な足取りで表へ出て行ってしまった。私が玄関に辿り着いて彼の後姿を確認すると同時に、その身体が何か大きな影に弾き飛ばされるのを見た。何が起こったのか、一瞬分からなかった。どさっと落ちる音がしたところに、アルキースが倒れていて、その向こう側で大きな影が揺れながら止まった。大きな影は馬車だった。アルキースは馬車に轢かれてしまったのだ。駆け寄って仰向けに倒れている彼の顔を見た。見開かれた目の中で、瞳孔が次第に拡大していくのを見た。脈も呼吸も止まっていた。すぐに蘇生法を開始したが効果はなく、彼の身体の下から血が滲んで、白いブロックの道を染めていくのを、ただ虚しく見つめた。たぶん、その場で魔法が使えたとしても、助けられなかっただろう。周りは野次馬で一杯になった。すると、人垣を掻き分けて、こちらへ抜け出てきた人があった。王子だった。城での用事を一通り済ませて、病院へ戻って来たのだ。王子は我々を見ても、事態が飲み込めていないようで、取り敢えずアルキースの横に屈み、声を掛けた。

「アルさん、何をしているんですか、こんなところで寝たら風邪を引きますよ。」

 もちろん、返事はない。それで、揺すって起こそうと肩に手を置いた時、ふと、何かに触れて、掌を見た。塗らりと赤く色づいた掌を。王子の表情が途端に緊迫して青ざめた。彼の名を呼びながら、両肩を強くつかんで揺すって、、はたと我に返って脈をとり、胸に耳を当て、瞳孔をみた。彼の死を確認したところで、王子は腰が抜けたみたいにへたり込み、言葉を失ってしまった。私が説明するまでもなく、後ろで泣き叫ぶ声が聞こえてきた。患者たちだ。

「わしらが悪いんです。わしらがあんなことを言ったから」

「王子にもう会えないと思ったら寂しくて、つい、アルキースに当たってしまったんです」

「アルキースが一番つらいと分かっていたのに、寄ってたかって責め立てたんです」

「そうしたら気が違ったみたいになって、表へ飛び出して、馬車に撥ねられてしまったんです」

 患者たちの話を聞きながら、王子は肩を震わせていた。

「どうして信じて待っていてくれなかった。こんなことのために歩けるようにしたんじゃない。明るい外の日差しの中で歩いて欲しかった。嬉し涙を流して欲しかったのに。」

 そう言ったきり唇を噛んで、黙り込んでしまった。握りしめた拳に滴がぽたぽた落ちるのを見た。とてもじゃないが、顔を見ることはできなかったよ。

 アルキースの遺体はシザウィー式に火葬されて、例の墓地へ埋葬された。王子の希望でね。アルキースに身寄りはなかったから、王子が埋葬の手続きや費用を負担した。

 王子は残り一週間の研修を経て、医師免許を取得した。予定通りこの病院を出て城へ帰ることになった。今までお世話になりました、と王子は院長室で頭を下げた。私は恐縮して手を振った。

「どうぞ頭を上げてください。ところで、王子はこれからどうされるおつもりで?」

と聞いてしまった。馬鹿な質問だよ。王子は真面目に答えてくれた。

「これからは父や母のため、城の人たちのため、国民のために尽くしていきます。もちろん、医学も続けていきます。魔法アレルギーの治療法をいつか必ず見つけてみせます。先生と競争です。」

 そう言うと、王子は目配せして笑った。しかし、その笑みはすぐに消えた。

「私は今まで、人のために何かをしようなんて思ったことはありませんでした。自分のことも満足にできないのに人の役に立とうなんて思うな、身の程を知れって、アルさんがよく言っていました。実際、その通りなんです。私も自分が人の役に立てるなんて思ったこともありませんでした。墓地を植物園にしたのだって、命の恩人のためでも、その家族のためでもありません。あの殺伐とした墓地が、まるで自分みたいで、見ているのがつらくって、花で誤魔化しただけなんです。

 私は、人が羨ましかった。きれいに輝いて見えるんです。その光が欲しくて欲しくて、この一年、人の真似をしてきました。城の料理長が輝いて見えたから、調理師の真似ごとを、医者が輝いて見えたから、その真似ごとをしてみただけなんです。しかし、いくら真似をしたところで所詮は真似。私に光が編み出せるはずもなく、虚しいことこの上ありませんでした。ところが、ここへきて、皆が言ってくれたんです。輝いて見えるって。鏡で見ても光は見えません。それで、気づきました。自分の光を自分で見ることはできないってことを。私のしてきたことは、無駄な足掻きでした。

 それからというもの、私の関心は人の光へと移りました。アルさんは本当にきれいな光を放つ人でした。近寄ると、触れると、ますます美しく輝いて、それが不思議で嬉しくて、しつこく彼に纏わりついていたんです。それから、いろいろな質問をしました。自分はこの先どう生きていけばいいのかな、と聞いたら、先のことなんかオレだって知らないし、知らなくていいんだ、今を精一杯生きていれば、この先は向こうから勝手にやって来るものなんだ、悩む時間があったら勉強でもしてろ、と答えてくれました。あるさんが初めて歩くことができるようになった時、私は嬉しくて泣きました。こんな泣き方をしたことがなくて、それで、また尋ねました。嬉しいのにどうして涙が出るんだろう、と。アルさんは答えてくれました。涙は感情の姿なんだ。感情が入っている容れ物にだって限度がある。そりゃあ、溢れることだってあるさ。それが、悲しくたって、腹が立ったって、嬉しくたって、同じことだって。

 質問を重ねる度に、私は光のことなんかどうでもよくなっていきました。そして、アルさんのために何かをしたいと強く思いました。嬉し涙を流すほどの何かを……。生まれて初めて、人の役に立ちたいと思ったんです。花も咲かない空っぽの墓場みたいな私でも何かできるんじゃないかって……。すると、気づいたんです。私が欲しかったのは、光じゃなくて、光のもとになる心だったんだっていうこと。愛だったんだっていうことに。私はずっと、人に愛されていたんです。それに気付かなかっただけのことなんです。愛されていると実感した時から、光を求めることは止めました。だって、無条件に降り注がれている。求めようと求めまいと。太陽や月の光と同じように。今度は、自分が光になる番だと思っていました。アルさんに、明るい外の日差しの中で歩いて欲しい。嬉し涙を流して欲しい、そう思って……だけど……。」

 見ると、王子の頬を大粒の涙がいくつも伝って床に落ちていた。

「でも、もう、何もしてあげられません。死なせてしまった。絶望の中で。アルさんのためにしてあげられることは、もう、何もないんです。だから……だから、これからは、父や母のため、城の人たちのため、国民のために……まだ生きてくれている、今のうちに何かしてあげないと……また死んでしまったら、また死なれたらと思うと、怖くて……もう、何も失いたくないんです。今はとにかく、早く城に帰って、皆の顔を見たいし、私の顔を見せてあげたい。心配をかけてきたから安心させてあげたいんです。」

 私がろくな言葉も贈れないまま、王子は去ってしまった。その後、王子は何度かこの病院へ足を運んでくれた。患者の顔を見に、私に研究成果を見せに。でも、以前のような、屈託のない笑顔を見ることは二度となかった。王子は自分のために笑うことを止めてしまったのだ。アルキースは私に言わせれば幸せ者だ。王子の本当の笑顔を生み出し、誰よりも間近で見ることができたのだから。

 

 

 

 話し終えた院長は、客人の反応をキョロキョロ伺いながら、感想を待った。しかし、客人は微動だにしない。院長は不服であった。我ながら感動的に表現できた(実際、彼は話の途中、幾度も自分の台詞に酔って涙を浮かべ、声を詰まらせていた)はずなのに、この客人ときたら白けたみたいに押し黙っているのだ。瞬きもせずに。

 しかし、彼らは決して無反応なわけではなかった。頭の中では様々な情報が行き交い、ぶつかり合って大騒ぎとなっていた。ただ、そこに感動はない。何せ、彼らがこの話を耳にしたのはこれで二度目。話し手と話し方が少し変わっただけのこと。客人たちは、同じ悪夢の寝床から這い出したい一心で、院長に説明という手を差し伸べてもらうべく、痺れた唇を動かし始めた。

「あの、そのお話、誰かにお聞かせになったりしたことは?」

 感想を期待していた院長は、まさかの質問にため息を吐いた。

「先も言ったように、ここは墓場並に縁起の悪い所だ。客なんか来ない。私が客として招かれることもない。よって、私がこのことを外部の人に言う機会はない。」

「では、ここ二、三年で退院した患者の中に、金髪で青い瞳の中肉中背、齢の頃は三十代前半の男はいなかったか? 火の魔法をつかえた男は?」

 具体的な質問に、サラとミーナはドキドキした。

「二十代前半なら……。」

「それは?」

 身を乗り出されるとたじろぐのは人の常である。

「い、いや……アルキース・ブレイズマンがそうだったな、と。死んでしまったが。知らないか? 火の盗賊、ブレイジング・スターのことを。」

 アルディスは呆れたように椅子へ凭れ掛かった。その名の通り、彗星のごとく裏社会に現れ去って行った、伝説の盗賊。人間の宝を盗り尽して、妖精の宝に目を付けた。そこで行方が知れなくなったともっぱらの噂で……。アルディスは妙に納得して、何度も首を縦に振った。ブレイジング・スターとは、花の名前でもあったため、彼にとって印象深く心に残っていたのである。もちろん、アルキース本人も世間一般も花を真っ先に思い浮かべたりはしないのだが。

 いやーね、一人で納得しちゃって……ミーナはいつもの膨れ面でアルディスを見た。

「その、何とかスターはともかく、死んだ人のことを聞いてるんじゃないわ。退院した人はいないかって聞いてるのよ。」

 院長は肩を竦めた。

「いないね。」

「いない?」

「そう……いないんだ。ここ数年の患者は王子に会いたいがためになかなか退院しようとしない。いや、退院しても居場所がないというのが本当の理由なんだろうがね。……しかし、君たちはいったい何だね、人に話したの、退院した男がどうのって。この話は人に知られちゃまずいのかね?」

 心外そうに口を結んだ院長だったが、気を取り直して若い客人たちに助言を施した。

「そんなに気になるのなら、上の患者たちに聞くといい。見舞いに来るのは王子くらいだから、他所に話す機会なんてないとおもうがね。王子が人にわざわざ自分の辛い思い出を話して聞かせることも考えられないし……。」

 三人は上の階の病室へ向かった。白い気のドアをノックして開ける。窓からは白い光がカーテン越しとはいえ、まぶしいくらい入ってきているというのに、どことなく陰気な病室。起き上がってベッドの端に腰かけたり、窓辺の椅子で読書をする者もあったが、その一人として音を発したりはしない。こんなに沢山の人が存在していてなお、無を主張する病室。三人は音を立てるのを躊躇して、入り口でしばらく動くことも口を開くこともできなかった。と、患者の一人が顔をこちらへ向けて、誰だ?と言う風に興味を示した。それに呼応するように患者たちが一斉に三人の方を見た。これもう、名乗らないわけにはいかない。

 何? 王子のご友人? と病室は俄かにざわめき出し、真剣な面持ちで問うてくる。逃亡したと聞いたが帰って来たのか、お元気でいらっしゃるのか、と。変わりないことを告げると、皆安堵した様子で大きく息を吐いた。

「あの、アルキースさんのことなんですが……」

 言ってから、サラはしまったと後悔した。何故なら患者たちの表情がみるみる曇って行くのが見えたから。彼らにとって、「アルキース」という単語はトラウマそのものだった。

「わしらが悪いんですじゃ……」

 一人が泣きながら呟くと、周りも次々と伝染してしくしく鼻をすすり、瞼を拭い出した。

「王子の大切な人を死なせてしもうた。」

「取り返しのつかないことです。」

「それでも王子はお見舞いに来て、わしらのために笑ってくださる。」

「だが、二度とあの時のようには笑うまい。」

「そうしてしまったのはオレたちなんだ……」

 彼らが退院しない、もとい退院できないのは、病気が治らないためでも、帰るところがないためでもない。アルキースの死を乗り越えることができないためなのだ。それを乗り越えるには、レオンハルトの本当の笑顔が必要不可欠なのだ。それが唯一の断罪方法なのだ。果たして、その笑顔を拝める日がこの先くるのだろうか。それは、ミーナも、アルディスも、サラも、そして患者たちも、誰にも分からないのだった。


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