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第三章 過去を巡る旅(2)

    七月二十三日


 ルイの家の住人が、それぞれの夢の中にいる頃、ラエルは台所での作業を続けていた。鍋はぐつぐつと煮たっている。椅子に腰かけ足組みし、肘をつき、手に顎を乗せ、竈の炎をじっと見つめる。キースの昔話を反芻しながら……。結局、蘇った記憶はなかったが、あの頭痛の感じでは、自分の過去と関係のある話だったに違いない。何故、それをキースが……と、おかしな気分で一杯だった。炎と思考に集中しすぎて、すぐ側で自分を見上げる愛らしい瞳に気付かなかった。

「お兄ちゃん……」

 場合によっては、怒っているようにも見受けられる驚きの形相で少女を振り向く。少女の方は、寝ぼけ眼を擦りながら、片手にはくたびれたぬいぐるみを抱いて、半分寝ている状態だった。彼の表情なんか、見えていない。

「おしっこ……」

 ラエルはますます驚いて、即座に立ち上がり、少女を回れ右にして、手を引いた。

「今、連れてってあげるから、我慢するんだよ?」

 途中、何度も頽れそうになる少女を引き上げ、励ましながら、よたよたとトイレへ連れて行く。少女が気持ちよさそうに用を足している傍らで、苦悶の相を呈する。


 ――オレ、一体、何やってるんだろう?

 

 やはり、ここは、早く出るべきだ。このままでは本当に子どもたちのお母さんにされてしまう。情にほだされているばあいではない。旅立つ気持ちを強くするのであった。

 廊下へ出て、少女を寝室まで送ろうと、再び手を繋いで歩いている時、ふと、前髪がふわふわ揺れるのを感じて、立ち止まった。天井から僅かに風が漏れている。日中バタバタして、気にも留めていなかったことだが、この「ルイの家」は、外から見た限り、三階建て以上の高さがあり、窓も三列並んでいた。自分たちがいる一階はせいぜい二メートル半の高さしかない。上の階は、絶対にあるはず。しかし、階段はどこにあるのだろうか。それらしいものは見なかったが……。

「あのさ、二階へはどうやって行くんだい?」

 トイレに行く前よりは意識をはっきりさせていた少女は、それでもやはり、ぽわんとして答えた。

「階段……」

「階段はどこにあるの?」

「ここ……」

 えっ?という顔をして、さらに質問しようとするが、慌てて出てきたため、竈の火が点けっ放しであることを思い出し、ひとまず少女を寝室へ送り、ベッドに潜ったのを確認するや、台所へ引き返す。鍋に大きな泡がぽこぽこ浮かんでは消えている様を腕組して見つめ、小さなため息を吐く。リーダー格の子なら、何か知っているだろう。朝になったら聞いてみるとしよう。どうやら、早く出掛けることは叶いそうになかった。


 木漏れ日がちらちらと寝室に揺れる頃、子どもたちはミルクスープの匂いに鼻をくすぐられ目を覚ました。どやどや食堂へ雪崩れ込むと、大人たちが席にのんびりと腰かけていたり、テーブルに食器を並べたりしている。台所から大きな鍋をワゴンに乗せてやって来たラエルが、朝日よりもありがたく眩しい笑顔で子どもたちを照らした。

「おはよう! さあ、皆顔を洗っておいで。ご飯にしよう。」

「はーい!」

 子どもたちは転がるようにして洗面所へ向かった。熱のあった女の子も、すっかり元気になって、彼らの後をついて行った。サラがくすくす笑っている。

「本当にお母さんみたいですわね。」

 ラエルは心外そうに眉を顰める。

「だから、せめてお父さんくらいにさあ……」

「だから、それはないと言っただろう。」

 早朝、街で買ってきたらしい新聞に目を通しながら、アルディスが釘を刺す。反論するのも馬鹿馬鹿しくなって、鼻をふん、と鳴らした。


 ――新聞読むために、往復二時間も……尋常じゃないぜ。

 

 それも、あの断崖絶壁を、と思うと、考えるだけで寒気が走る。情報収集か何か知らないが、本末転倒ではないのか? 彼の真面目さには感服するばかりだが、時として理解不能なこともあった。

 食事中、ラエルはリーダー格の少年に、例の質問をぶつけてみた。少年はいともあっさりと返す。

「二階? あるよ。ここは三階まであるんだ。階段はね、隠し階段になっていて、壁の石をちょっと動かすと、上から降りてくる仕掛けになってるんだ。後で案内してあげる。別に隠してたわけじゃないよ? 一年前に行ったきり、上に上がることもなくて、忘れてたんだ。だって、誰もいないし、何もないし、僕たちだけなら一階で充分だもの。」

 食後、食器を片付けてから、全員で隠し階段へと向かった。子どもたちは来なくて良いのだが、人払いしようにもすっかりなついてしまって、離れてくれないのである。

 リーダー格の少年が、昨夜ラエルの髪を揺らした地点で壁を撫で始めた。

「これ、これ。」

 石の一つを掴んで、ペロンと剥がす。少年が振って見せると、うねうね曲がった。

「何これ。ゴムでできているの? 石にしか見えないわね。」

 ミーナがその弾力をつまんで確かめる。

「良くできてんなぁ……」

 関心顔のキースが、ゴム製の石から、空いた穴の方へ興味をそそられ、覗き込む。奥で鉄の輪が垂直にくっついている。

「これを引っ張るのか?」

 掴もうとする腕を、少年が慌てて止める。

「ちょっと待って! 今やったら、皆潰れちゃうよ!」

 蜘蛛の子を散らすみたいに、皆一斉にその場を離れる。それを見計らって、少年が輪を引くと、天井がガバッと抜け落ちるみたいに動いて、勢いよく斜めに降りてきた。割と近くに立っていたキースとラエルは反射的に飛びずさった。ズシンと砂埃をあげて鋼鉄の階段が姿を現す。一年分の埃にむせながら、少年の後をついていく。

 二階は木陰とはいえ、一階より窓が沢山並んでいたため、少し明るく感じられた。木の枝が伸びて浸食し、割られている窓が一つあり、風はそこから吹いているようだった。

「隠し扉でも?」

 ラエルの言葉に、首を振る少年。

「ここは廊下しかないんだ。二階の部屋には、三階からじゃないと行けないんだよ。」

 そういうと、少年は皆を再び遠ざけて、さっきと同じように、壁石の一つを取って、鉄の輪を引いた。天井から三階への階段が降りてくる。子どもたちに取り囲まれながら、ぞろぞろと上へ上がっていく。

 三階は一つの大部屋になっていて、明るい。壁には二階の廊下と同じ間隔で窓が並んでいて、やはり木の枝に割られたものが二枚あった。東側と西側の天井に大きな格子窓が嵌っていて、そこから直射日光が降り注いでいる。それ以外は何もない、がらんどう。日差しを横切って、少年が壁を探っている。側の床が口を開け、ズシンと振動が伝わってくる。

「二階の部屋は、ここから行くんだけど、真っ暗なんだ。」

 下を見ると、確かに穴の形の光が差し込むほかは真っ暗としか言いようのない闇で埋め尽くされている。

「ランタン持ってくるね。」

 一階に引き返そうとする少年の背中に呼びかける。

「ああ。いいよ、いいよ。灯りならあるから。」

 皆がきょとんと見守る中、ラエルが胸の上で掌をパチンと合わせ、広げる。と、金色の光の帯がにゅるにゅると伸び、不安定に蠢いた。

「ええっ?」

 ミーナ以外は声もなく驚いてそれを見た。

 思えば、彼との付き合いは長くない。何種類の魔法を使えるかも知らない。聞いたこともなかった。勝手に火と風の魔法しか使えないものと思い込んでいた。タメも合図もなく、独自のスタイルで現れた光の帯は、くるっと円形に形を整えられ、

「はい。」

 と、ミーナの頭上に浮かべられた。

「何、これ?」

「? 天使の輪っかだろう?」

 平然と言われて、部屋中静まり返る。魔法というのは、魔力だの精神力だのを絞り出し、全身全霊を込めて使うものだと、皆信じていた。強弱はつけるにしろ、少なくとも遊び心を盛り込むものではない。神の使いの神聖なる光輪となれば、なおさらのこと。

「お前、何と不真面目な! もっとましなのはないのか?」

 と、真面目なアルディスは言った。ラエルはムッとした。

「光の魔法は、これしか使えないんだよ。太陽の光、月の光、火の光……いろいろな光を参考にしてみたんだけど、知識が邪魔して純粋に光だけをイメージできなくてさ。知識が及ばない非科学的な光って言ったら、やっぱり天使の輪に限るよ。」

「だから、その発想がズレていると言っているのだ!」

 肩を掴んで揺らすアルディスを、サラが止めに入る。

「まあ、まあ、アルディスさん。落ち着いて。ミーナさんは結構、気に入っていらっしゃるみたいですし……。」

 見ると、一番不謹慎であると怒らなければならない立場のミーナは、桜色に染まった頬を手で押さえて照れ臭そうに笑っていた。まんざらでもないのである。


 ――そういえば、見合いの時、こいつミーナのことを天使と称していたな。

 

 ミーナもそのことを思い出していたのだった。アルディスは急に馬鹿馬鹿しくなって、ラエルの肩から手を離した。ラエルはにっこり笑って言ってみた。

「お前にもつけてやろうか?」

 透かさず、脛に蹴りが入る。

「てっ、乱暴だなぁ。」

「なぁなぁ、オレには?」

 キースにはガンをくれてやる。

「お前につけるくらいなら、毒沼に沈めてやる!」

 天使より天使みたいな子どもが無邪気に聞いてくる。

「お兄ちゃんはつけないの?」

 ころっと態度を豹変させて屈み、にこやかに子どもの髪を撫でる。

「お兄ちゃんがつけたら変だろう? 全然似合わないよ。」

 一同、ぶんぶん首を振った。


 ――似合う。滅茶苦茶似合うって!

 

 天使になったミーナを先頭に、階段を降りる。光輪は柔らかな光で、部屋中を満たした。そして、少年の言った通り、何もない、ただの箱みたいな空間が広がっていた。試しに他の仕掛けがないかどうか、皆で壁を触れて歩くが、固く冷たい石が敷き詰められいるばかりだった。と、遠くでオオオオオ・・・と重低音が鳴り響いて、子どもたちが怯えて大人に駆け寄りしがみつく。

「時々聞こえるんだ。ここは風が強い所だから・・・」

 そういうリーダー格の少年も、腕を摩りながら気味悪がっている。風の音は断続的に聞こえてきて、その度部屋全体がビリビリと振動するのだった。ラエルは、視線を床に落とし、意識を集中させた。こんな頑丈な造りの建物が、いくら強風とは言え、揺れるわけがない。


 ――何か、いる。

 

 ブーツを脱いで、素足になり、部屋中虱潰しに歩き出す。変なものを見るように、皆がラエルを見つめている。ふと、立ち止まり屈みこんで、ある石に手をかける。石は曲がりながら取れた。

「床?」

「床にあるとは思わなかったよ。」

「そっか、それで靴を脱いだんだね?」

 ラエルは皆を振り返り、にやりと笑った。

「それは、違うよ。」

 えっ、と皆が驚く中、再びラエルが歩き出す。

「うん・・・やっぱり真ん中辺か・・・」

 部屋の中心部を直角にぐるぐる歩く。

「何、何? どういうこと?」

 ミーナを始めとして皆近寄ってくる。ラエルはミーナの手を取って床に近づけさせた。

「あっ? 風ね?」

 大きな目を一層大きく開いて、ラエルを見る。ラエルはブーツを履きながら言った。

「微量だけどね。この下が開くはずだ。さ、皆下がった下がった!」

 床ががぽんと抜けて、またも漆黒の闇が口を開ける。今度のは階段ではなく、梯子で、底に映る穴の形の光は、点のごとく小さい。


 ――落ちたら死ぬな。

 

 そう判断して、子どもたちにはここで待っているように説得した。天使の輪をリーダー格の少年にもつけて、大人たちは梯子を降りて行った。この時ばかりは男たちが先になった。本当はスカートなんぞ履いている女性陣も置いて行きたいところだったが、二人の押しの強さが筋金入りであることは出会った当初より分かりきっていたので、敢えて止めようとも思わなかった。

「手が汗で滑るわ・・・」

 その言葉で上を向こうとして、危うく顔を踏まれそうになる。

「上を見ないで、変態!」

「何だよ、そんなつもりじゃねぇよ!」

 下手をすると、ミーナに蹴落とされかねない。そっちの方が恐怖であった。身軽なキースが

「よっ。」

 と、真っ先に床へ降り立つ。

 梯子の長さから言って、どうやらここは地下五階くらいの深さであるようだった。ミーナが一階部分を抜けた時点で、地階の様子が徐々に露わになる。

「うわぁ・・・」

 この建物の地上部分全部を合わせてもまだ足りない程の空間の広がりに、気丈なミーナも竦んでしまう。

 ミーナの輪っかだけでは光量が十分ではなく、部屋の隅々まで見渡せない。そこで、ラエルは脚を梯子に絡ませ、両手を離し、海老反りながら、特大の光輪を捻り出した。不安定な体勢のため邪念が入り、珍しくヘマをやらかしてしまった。なんと、天使の輪が落下してしまったのである。

「うっ?」

「ずわっ!」

 アルディスの背筋をすり抜け、きーすを囲むようにズバンと床に叩きつけられた天使の輪・・・。縁起の悪さにミーナは震えることも忘れてしまった。

「悪い、悪いっ!」

 頭を掻きながら愛想笑いのラエルに、アルディスは猛烈に抗議した。

「悪いですむか! 殺す気か、貴様!」

「だから、ゴメンって! 大きいの作ったら、つい、重さのこと考えちゃってさぁ。今、軽くするから・・・」

「今はやめろ! 下に降りてからにしろ!」

 アルディスの梯子を降りる速度がアップする。

 

 ――ちっ。信用ねぇな。

 

 下に降り立つと、天使の輪の中で立ち往生しているキースがいた。彼の困惑した表情なんて、なかなか見られるものではない。

「なあ、これって、触っても何ともないのか?」

「何ともない・・・と思うけど?」

 意地悪のつもりではなかったが、微妙な言い回しになってしまった。

「お前・・・!」

 アルディスが一歩、ラエルの方へ踏み出す。ラエルは反射的に受け身の構えをした。しかし、すぐに我に返って、手を振った。

「違うって! ミーナの頭の上に浮かべるようなものだぜ? 危ないわけないだろう!」

 険悪な雰囲気の中、突然大轟音が轟いて、一行は飛び上がった。耳を塞ぎながら、辺りを見回す。頭に血が上って、大事なことを忘れていた。部屋の三分の一は、梯子の途中から見たところ、白いシーツが被さっているようだった。横から見ると、そこは二メートルくらいの厚みがあることが判った。シーツをはぐると、中は干し草がびっしり詰まっている。


 ――何だ、こりゃあ。

 

 轟音の主は、どうやらこのシーツの上にいるらしい。男性陣は、シーツにしがみつきながら、よじ登った。少なくとも一年は敷き詰めっ放し、掛けっ放しの干し草とシーツ。黴臭く、埃っぽい。目がしばしばするのは仕方ないにしろ、耳と鼻、どちらを守るか迷う所だった。アルディスは鼻を、ラエルは耳を、キースは鼻と片耳を選択した。足場が深く沈み込むため、歩きづらく、滲む涙で見えづらい。しかし、中央部が少し窪んでいて、そこに何かいるのは分かった。

 一歩一歩近づくにつれ、その姿をはっきりと確認できた頃には、三人のイライラはピークに達していた。

 白髪頭だが、明らかに若い、せいぜい二十二、三歳の男。見た目はまあまあだが、少し間延びしているのは、大口を開けているからか。馬鹿面に苛立ちも募る。

 それでもラエルは、高ぶる気持ちを押さえて、大いびきを奏でる男に、穏やかに呼びかけた。

「あの、もし……」

 グワァアア……、ズゴォオオオ……。シーツにくるまって、気持ちよさそうに寝ている男。

「もし、もーし!」

 もう少し大きな声を出してみるが、いびきと言う名の騒音にかき消されてしまう。

「おーい! 起きたくださーい!」

 大声を張り上げても、全く反応がない。ついに、三人の頭の奥で、何かが切れる。

 まず、ラエルが男の肩を鷲掴みして、首をグラングラン言わせる。

「起きろっつってんだろうが! この騒音野郎!」

 次いで、アルディスが男の後頭部や背中を足蹴にする。

「惰眠を貪りおって、この不埒者めが!」

 そして、剥き出しの足の裏を、キースがくすぐりまくる。

「一人で楽しい夢を見てんじゃねぇよっ!」

 男が目を覚まして抵抗しているのも気付かない程、三人はリンチに熱中し始めていた。危うく羽交い絞めにして、もっと酷い仕打ちに取り掛かるところであった。

「ギャーッ! や、やめてーっ! もう起きたよーっ! 起きたってばーっ!」

 この、不愉快極まりない巨大ベッドから男を引き摺り下ろす。半泣きの弱り切った男の姿を見て、ミーナとサラがびっくりする。

「やだっ! この人、どうしたの?」

 三人の表情が、笑っているような、怒っているような、引きつった感じになっているのも、驚きであった。

「どうしたも、こうしたもないよ。」

「とにかく、川で水浴びをしてくる。」

 ラエルとアルディスのただならぬ様子に、男は心底怯えた。

「川……? ここって、シャワーあるよ?」

 キースが男の首に腕を回し、向こう側の肩を少々強めに掴む。鬼の形相で。

「うっせぇ! 四人で仲良く川遊びするんだよっ!」

「ひええーっ! 助けてぇー!」

 男の脳裏には、川に沈められる自分の姿がリアルに浮かんで見えた。しかし、上の階へ昇って子どもたちと対面することで、彼の危機は回避されたのであった。

「ルイ! いたんだね?」

「ずっと下にいたの?」

「もしかして、出られなくて困ってたの?」

「良かったぁ、元気そうで。」

 純真無垢な子どもたちの言葉で、三人の心は瞬く間に浄化された。

「そういう受け取り方があるのか……」

「オレには、苦しい境遇の子どもたちを放ったからしにして、眠り呆けるダメ人間にしか見えなかったが……」

「いや、それはそれで、当たってると思うぜ?」

 明るい表へ出て、子どもも大人も川で水遊びに興じることとなった。もちろん、ミーナとサラは除いて、である。ルイは、子どもたちのお蔭で川面に顔を押し付けられることもなく、安全に一年の垢を落とすことができた。皆より先に川から上がろうとするラエルの後ろ脚を、誰かが掴む。子どもの手ではないことから、すぐにキースを連想し、蹴り飛ばすべく、掴まれた脚を曲げようとすると、弁明の声が聞こえてきた。

「わあっ、ちょっと待って! 蹴らないでよ。何かちょっと凶暴になったんじゃないの? 君っ!」

 後ろを向くと、ルイだった。

「何だ、てっきりキースの変態かと思った。」

 言いながら、彼の言葉を反芻する。


 ――その言い方、もしかして会ったことがあるのか?

 

 真顔のラエルに対して、ルイはにへらーっと腑抜けた笑顔になった。

「ボク、お腹すいた。何か作って欲しいなっ。」

 脳天気な声に神経を逆撫でされる。蹴りはしなかったものの、両手で彼の肩を掴み、川面に沈めた。

「アップ、アップ! ちょっと、これって、アップ! 完璧、いじめだって!」


 ルイのため、というわけでもなく、ラエルはまたしても料理の腕を振るうことになった。心なしか、昨日まで血色が悪く、痩せた野良犬みたいだった子どもたちが、肌も艶々と人の子らしい表情に変わったようである。作り甲斐があるのだ。大人も子供も大満足の食事中、ラエルは気になっていることの一つをルイに聞いてみた。

「一年間、本当に一度も目を覚まさなかったのか?」

 口の中に食べ物を一杯頬張りながら、ルイが答える。

「うん! ボクね、一年に一回起きて、一週間後にはまた眠っちゃうんだ。」

 アルディスが食べる手を休めて、彼を見る。

「何? よくそれで生きていられるな? そもそも、寝ようと思って一年近くも眠っていられるものなのか?」

 喉に食べ物が詰まったらしく、胸をドンドン叩いて、ふう、と息を吐くルイ。

「ほら、熊が冬眠するでしょ? あれと同じ状況になるように、薬と魔法を併用するんだ。ま、ボクの場合、年柄年中眠ていうか、春夏秋冬眠だけどねぇ。」

 悪い冗談でも聞いたように、サラは眉を顰めた。

「何故そんなに眠る必要があるのですか?」

 ルイはさらりと言ってのける。

「長生きしないといけないから。寝ないと寿命で死んじゃう。死んじゃったら、ボクの一族は滅んじゃうんだ。最期の一人なんだもの。」

 一同、絶句する。何の一族かも気になるところだが、最後の一人なら、もう既にその一族は滅んだも同然。つまり、彼の春夏秋冬眠は、悪あがき、まさに惰眠としか言いようがなかった。

「もう、そんなことやめたら?」

 ラエルが試しに言ってみる。ルイは再び料理を口に詰め込みながら、首を縦に振った。

「うん。去年、そうしようと思ってたんだ。でも、どうしても来年の春まで生きていなきゃいけない理由ができちゃって。で、一番確実な方法は、やっぱり地下で寝てることかなって思ったから。力も蓄えておきたかったし。」

 来年の春まで、の件で、ラエルはドキッとした。世界が滅ぶかもしれない、自分の誕生日。

「ここは、風の城か?」

 真剣な眼差しに、軽々しく答える。

「そうだよ。」

 もう一つ、問う。

「お前は、風の一族なのか?」

「ううん。風の一族は混血なら少しはいるけど、純血はいないし、結晶を制御する程の力はないでしょ? ボクはね、ひょんなことから、彼らの代わりに結晶を守る役目を仰せつかっちゃったんだ。」

 ラエルがまた質問する前に、子どもたちが身を乗り出した。

「えーっ? じゃあ、お兄ちゃんが言ってたの、本当だったんだ! ここは風の城なんだね?」

「結晶って、何?」

「ルイって、すごい人なんだなぁ!」

 ルイは、口の周りをベタベタにして、にやーと笑った。子どもがなおも尋ねる。

「ねえ、ねえ。千年前の話って、知ってる?」

 だらしない顔で頷く。

「うん! 知ってる、知ってる! だって、ボク、その頃いたし。」

 これには、さすがの子どもたちも閉口して、顔を見合わせた。空気を読んだルイが、付け加える。

「あー、あのね。考えてもみてよ。寝ている間は齢を取らないんだ。一年に七日だから、千年で七千日、七千日は十九年とちょっと。千年前、四歳の時から始めたから、ボクは実年齢二十三歳なわけ。」

「・・・もしかして、精神年齢は追いついていないとか?」

 ラエルが死んだ目でルイを見る。ルイは堪えていないようだ。

「うーん。それが続けて二十三年と、飛び飛び二十三年は重みが違うみたいでねぇ。でも、ボクの一族は、この齢ならこんなものみたいだよ。」

 それで、何の一族?と聞く前に、また別の質問で遮られる。

「しっかしまあ、よくあんな臭くて汚い環境で寝てられるよなぁ。しかも、一人で寝るにはデカすぎるだろう、あのベッドは。」

 キースの言葉に、ルイは口を尖らせる。

「一年前はきれいだったの! 寝ながら干し草もシーツも交換できないし、仕方ないよ。しょっちゅう換えるにしても、あれだけの干し草とシーツを用意するの、大変でしょう?」

「だから、せめてダブルベッドくらいにしとけばいいだろ?」

「ボクのダブルベッドはアレなの!」

 変態が変態に呆れ返ってため息を吐く。次いで、ミーナの質問。

「あんた、いびき、すごいわよ? よく自分で目を覚まさないものね?」

 キースがテーブルを叩いて同意する。

「そうそう! あれは酷い! どんな化け物がいるのかと思ったぜ!」

 ルイが悲しそうに目を潤ませる。

「酷いよ。化け物だなんて。ボクはご主人様の可愛いペットだったんだから。」

 場の空気が一瞬にして凍り付く。

「ペット・・・?」

 サラが心底残念そうにルイを見る。卑猥な妄想を働かせたキースは、にやにや笑う。

「ははっ、確かに、お前犬みたいだもんなぁ! ぴったりだぜ、そういう世界がよ!」

 椅子から腰を浮かせながら、ルイが抗議する。

「犬なんて低級な生き物と一緒にしないでよ!」

 そこで怒るか?とラエルは頭を抱えた。愛犬家が聞いたら、さぞかしショックを受けることであろう。

「分かった、分かった。お前は高尚だよ。高尚だから、食事が終わったら、昔話を聞かせてくれないか?」

 ラエルの言葉に、ルイは大人しく座り直して、こう言った。

「うん。でも、分かってるでしょ? 聞く資格があるか、試させて。」


 食後、ルイに誘われて、再び地下へと潜ることになった。

「子どもたちは外で遊んでいてね。ボクがいいって言うまで、絶対に城の中に入っちゃいけないよ。」

 ルイが子どもたちに約束させたことで、大人たちは否応なしに不安を掻き立てられた。これから一体、何が始まるというのか。

 時の城での出来事が、記憶に新しい。キース以外の四人は、振り返ることもなくどんどん先を行くルイの背中を破裂寸前の風船のように見つめていた。もちろん、キースはキースなりに緊張感を募らせているのだが。

 ラエルが灯した出来損ないの特大天使の輪は、まだ光を失うことなく、底から一行を照らしていた。

「何で消えてないの?」

 新たに作ってもらった天使の輪を頭上に浮かべたミーナが言った。旧い方は、さっき地下から地上へと登り切った時、消えてなくなっていたのだ。

「ああ。消すの忘れてた。」

 ラエルは、上にいるミーナに蹴られまいと、視線を水平に保ちつつ、梯子を降りていた。

「忘れてたって、あんた……! よく平気ね?」

 何が平気ではないのか、よく分からない。タメも消耗もなく、無尽蔵に湧いてくる魔力。無痛症の人に痛みを知らせるのは容易ではない。彼における魔法の位置づけはそれに似ていた。彼の魔法が痛みを伴わないのは、単に傷ついていないからだった。

 全員が埃と異臭の漂うルイの巨大ベッドルームに降り立つと、ルイはベッドと反対側の壁に向かって歩き出した。

「ちょっと待っててね。今準備するから。」

 迷いなく、カモフラージュされたゴム製壁石を剥がし、鉄の輪を引っ張る。と、壁の奥で何かの装置が作動した音が聞こえ、続いて轟音が響き渡り、床が振動し始めた。てっきり床に穴が開くものと経験的に思い込んでいた一同だったが、例の特大天使の輪とは別の光が上方から降り注いでいるのに気付き、天を仰ぐと、何と梯子は天井へ吸い込まれて、三階の床から地下の天井までがぱっくりと真っ二つに分かれ、左右に開いたかと思うと壁に張り付いて窓を塞いでしまい、あれよあれよという間に、地上三階と地下五階分の巨大な吹き抜け空間が出来上がっていた。

 ほぼ真上に位置する太陽が天窓から顔を覗かせてる。先ほどの揺れは周囲にも伝わっているらしく、遠くから子どもたちの喚き声やら、鳥が飛び立つ羽音やら、鳴き声やらが微かに聞こえてくる。ルイは子どもたちに入って来るなといっていたが、そもそも四方を囲む一片の隙もない石造りの壁は、天井まで到達しているわけで、玄関も窓も塞がれているから、入って来ようもなかった。

 五人は完全に呆けて天井を見上げた。ルイはある意味呆けた声で、

「あっ、そうそう。天窓もしまっておかなきゃ。」

と、床の中心部のダミー石を取って、操作する。東西の天窓に挟まれた天井が真ん中から分かれて横にスライドし、丁度二つの天窓を隠す形で止まった。後にはぽっかり開いた細長い青い空と、のどかな白い雲が一行を見下ろしていた。舞台が整ったようである。

 五人は高鳴る胸の鼓動に、自らの恐怖心を感じ取っていた。ルイは、笑っている。でも、目には真剣な光が宿っていた。

「ねえ。よく聞いて。ボクはこの千と四年の間、一度だって人を傷つけたことはないんだよ。これからボクがすることは、もしかしたら、君たちの命を奪ってしまいかねない、とても危険なことなんだ。どうか、ボクに人殺しの汚名を背負わせないで欲しい。」

 五人は指先がしびれる程ゾクゾクしていた。地上にいた時は、ほぼいじめの対象だったルイが、ここへ来て、異様な気配を漂わせつつあったのだ。いや、気配だけでなく、外観にも少しずつ変化が生じてきたように思われる。薄い空色の瞳の中心に、黒く丸い穴をあけていた瞳孔が、心なしか縦長になってきたし、言葉を発するため上下に動く唇の間から、犬歯がやけに目立って見えた。爪が随分伸びて、尖っている……。ラエルの目の奥を突き通すみたいに、鋭い視線を浴びせる。

「君に足りないのは、力でも速さでもない。感性だって充分に豊かだよ。でも、閉じちゃってる。原因はいずれ分かることだけど、いずれじゃ間に合わない。ボクの役目は、無理矢理こじ開けちゃうこと。そして、風のセンスを植え付けること。ボクは君がこの試練を乗り越えてくれるのを信じるよ。それと、今のうちに謝っておく。ごめんね、君の仲間をダシに使っちゃって。」

 ルイの目が吊り上がり、唇が裂けると同時に、顔の下半分が前へ迫り出す。犬歯は牙に変わり、グコココ……と骨の軋む音が全身から聞こえてくる。彼が纏っていた衣服は、千切れながら体のあちこちに吸収され、代わりに陶器のような質感の白い鱗が生えてきて、皮膚をびっしりと覆ってしまった。全身が横へ膨らみ、その倍の速さで縦に伸びる。ものの一分の出来事た。こうして、全長十二メートルの白竜が、五人の前に姿を現したのだった。ナイフの切っ先みたいな眼が、小さな人間たちを一瞥し、鼓膜を破かんばかりの咆哮が、建物全体を揺るがす。あまりの迫力に圧倒されて、取り敢えず、五人は遠ざかるため背を向けて走り出した。

「あんたが化け物とか言うからよっ!」

「それとこれとは関係ねーよっ!」

 ミーナとキースのやり取りに耳を貸している場合ではなかった。白竜が何やら準備を始めている様子なのだ。前脚を立てて、その首を擡げ、静かに、しかし大量に空気を吸い込んでいる。吸い込んだ後は……と予想を立てる間もなく、白竜の大きく開かれた口から、猛烈な突風が吐き出され、一行は宙を舞った。渦を巻く風は、その場にあった不愉快な巨大ベッドを天井の開口部から一掃してしまった。一行はいかんともしがたく、ただ竜巻にくるくると弄ばれていたが、天井が近づくにつれ、二つの方向性についての想像を働かせて、焦りを生じた。即ち、このまま外へ放り出されて落ちて死ぬか、白竜の息が途切れて落ちて死ぬかである。辺りは後者の方だった。五人は風の制御を失って、力なく落下していった。強風のため呼吸もできず、回転のため三半規管に異常をきたし、全員失神寸前の状態だった。薄れる意識の中に、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、ラエルは閉じかけた目を大きく見開いた。アルディスがやはり落下しながら、こちらを睨んでいる。


 ――気絶している場合か!

 

 と、その目は言っていた。アルディスはともかく、他はこのままでは死んでしまう。地べたに叩きつけられるまで、三秒もない。ラエルは急速に近づく石畳に意識を集中した。ゴォッ……強風が吹き上げ、一行の落下速度を緩める。床まであと五メートルと言う所。判断がコンマ一秒でも遅れていたら、助からなかった。再び起こった風圧で、気絶しかけていたメンバーも気を取り直し、体勢を立て直して、ゆっくりと石畳に降り立つ。風が止み、時にせき込みながらゼイゼイ方で息をする。わなわな震える足に目をやっていると、部屋の空気が一点に吸い込まれて行くのを感じ、慌てて身を起こした。白竜がまた息を吐こうとしている! 四方は壁に囲まれている。逃げようもない。手をこまねいて剥き出された鋭い牙の奥からやって来るものを待つばかりである。そして、思った通り、その口から強風が吹き荒れた。ただ、今回は竜巻にはならず、一方向に放たれる。横殴りの風が、一行を壁まで押し付けた。手で遮っても用をなさない。二分も続けば窒息するだろう。五人は悲鳴もあげられなかった。再び瞬時の判断を迫られたラエル。この風と同じ風を起こして、対抗させても、風を止めることにはならない。壁に囲まれた空間では返って風圧を高め、良くて竜巻、悪ければ圧死を招く。空気を消せば、風も起こらないが、それこそ全員窒息死だ。


 ――そういえば

 

 ラエルは考えたこともなかった方法を思い付き、一か八かで試してみることにした。他の四人は急に呼吸が楽になって、不思議そうに白竜を見つめた。風は空気でできている。故にその姿を直に見ることはできないが、場に残っていた干し草の屑の動きで推測するに、どうやら風の向きが変わったらしかった。白竜の顔は相変わらずこちらを向いているのに? さらによく見ると、白竜の口から吐かれた息は、部屋の中程で折れ曲がり、真っ直ぐ上方へ流れて天井の穴から抜けているのがわかった。

 白竜は息を吐くのをやめて、にやりと笑った……ように見えた。そして、再び息を吸った。今度のは、短い。恐怖に怯える間もなかった。カッと開かれた口からは、轟音の代わりに、耳をつんざくような高音が一瞬聞こえ、床の塵がところどころ舞い上がる。

 ラエルは反射的に、ミーナへ駆け寄り、抱きかかえたかと思うと、そのままの姿勢で倒れ込んだ。と同時にミーナが立っていた辺りの壁にスパンと縦に切れ目が入る。かまいたちだ。ミーナは上半身を起こしながら、茫然とそれを見つめたが、抱き付いたまま自分から離れようとしないラエルを不審に思い、視線を移した。

「くっ……。」

 苦悶の横顔に、うめき声。それから、視界に赤いものが入って来て、ぎょっとする。ラエルの右ふくらはぎが血に濡れている。慌てて手で押さえようとするミーナの腕を取って、ラエルはゆっくりと身を起こした。

「ラエル……。」

「大丈夫。すぐ、治るから。」

 心配そうな、申し訳なさそうなミーナに、作り笑いもしてやれなかった。悔しい、とラエルは思った。魔法を使うようになってまだ日の浅い自分は、条件反射で魔法を発動できない。身体が先に動いてしまう。その結果が、これだ。痛みより口惜しさが込み上げる。

「ラエル! 何とかしろ!」

 いつの間にか剣を抜いていたアルディスが、器用にも白竜の口から次々と繰り出されるかまいたちを、悉く受け流していた。背後にサラを匿っている。キースはこれまた器用に、飛んだり跳ねたり身を捩ったりして躱している。

「お前がやらなければ、意味がないんだ!」

 アルディスの言葉で覚醒して、ラエルは心を静寂で満たした。すると、超音波と同時にやって来るはずのかまいたちは刃を砕かれたみたいに空気に溶け、心地よい程の微風となって、一行の頬を撫でた。白竜はまた笑ったようだった。そして、無数のかまいたちを一気に放出する。もはや、ラエルに躊躇いはない。空間にできた真空の亀裂、死神の鎌に生の息吹を吹き込む。全ては夏の夜風となって中和される。不覚にも、その柔らかさに安堵し、皆が肩の力を抜いてしまうような、そんな風だった。

 白竜は天に向かって吠えたかと思うと、みるみる縮んて、元の姿、ルイに戻った。ルイは例の間抜けた笑顔でパチパチ手を叩いた。

「いやあ、お見事、お見事! 短時間でよく、ここまで勉強したねぇ。やっぱり君は、」

 ちょっとだけ真面目な目つきでラエルを見つめ、続ける。

「人のためなら本領を発揮できるタイプなんだねぇ。」

 五人はゾッとした。ルイは白竜になる直前、こう言っていた。「ごめんね。君の仲間をダシに使っちゃって」と。ラエル以外のメンバーは、言わば誘発剤。ラエルの魔法の特訓という名の試練のために、いいように利用されたのだ。命まで掛けさせれて。しかもルイの表情に、罪の意識は垣間見られない。彼にとって四人は、ラエルの仲間という以上の価値は塵ほどもないのかもしれなかった。

「でも、まだまだだね。最初に言ったよね? 君に足りないのは、速さでも力でも感性でもないって。魔法と自然に対する、閉じた心。人間は大好きなのに、風も水も火も空も土も花も、みーんな嫌いなんだ。知らなかったでしょ?」

 もちろん、言われた本人は相当にびっくりしたが、他のメンバーだって負けないくらい驚いていた。魔法嫌いはともかく、自然が嫌いとは?

「嫌いな物を好きになれって言ったって、しようがないけど、でも、忘れないで。君のその偏ったものの見方が、仲間を危険にさらしたことを。風の城での試練だから、風の魔法ばかり使ったのかもしれないけど、それだけが理由じゃないよね? 君はね、無意識に人に直接魔法を使うのを避けているんだ。嫌いなものを大好きな人間に使いたくないんだよ。だから、床に風をぶつけて上昇気流を起こしたり、ボクの風やかまいたちを変化させたり中和させたりしたんだ。考えてもみてよ、もしボクの風がただの空気の塊じゃなかったら、竜巻が海のど真ん中の渦巻きだったら、どうしてた?流れを止めて、それから? 君の仲間の女の子二人は泳げない。一人はあの赤毛の剣士君が、一人は君が抱えて泳ぐかい? 大海原、陸地も見えない。力尽きて、全滅さ。もしも、ボクの風に毒が仕込まれていたら? 風向きを変えるくらいじゃ、済まないよ。その白魔法使いの女の子一人で対処できるかい? 対処させるつもりなの? それに、かまいたち。あれが全て本物の刃物で、それを人間が持って襲いかかって来たんだとしたら? 刃物だけねらってみる? 人に当たっちゃうかもって思うだけで、足が竦むんじゃない?」

 図星過ぎて、二の句が継げない。一同、黙って耳を傾ける。

「一番の問題は、君の優しさ、というか、甘さだね。君たちの身を危険にさらした張本人はボクだよ? それなのに、攻撃し返さないなんて。そういう態度だから、剣士君も受け身徹することしかできなくて、困ってたでしょ? 彼はいくらでも反撃するチャンスがあったんだよ。」

 アルディスは俯き加減にルイを睨んでいる。

「ボクが人間の姿をしていたから? だから魔法をかけられなかった? そりゃあ、昔話をしなきゃならないんだから、生かしておかなきゃダメだけど、動きを封じるくらいのことはしても良かったんだよ。そうじゃないと、収拾がつかなくなっちゃうでしょ?ボクが言いたいのはね、魔法も自然も嫌いで結構! その代り、上手く使いこなせるようになろうよって、それだけのこと。風の魔法に関しては充分に操れてたわけだから、ボクがこれ以上教えらることはないよ。故に、試練は終了。お疲れ様! 後は君が自分で解決していってよね。」

 そういうと、ルイは城の仕掛けを元に戻すため、床と壁の鉄の輪を引っ張った。振動を体に受けて、ミーナがはっと、ラエルを振り返る。

「そう言えば、あんた、足の怪我……!」

 ラエルの足元に屈みこんで、赤く染まったズボンを捲り上げ、ブーツのチャックを降ろす。他の皆もその様子を見守っていたが……。

「あれっ?」

 血の量の割に、随分浅い傷だと思って見ているうちに、それがみるみる薄くなってついに消えてしまった! 皆の表情が固まったところで、ラエルはやれやれとバツが悪そうに咳払いをい、ブーツのチャックを上げて、ズボンの裾を降ろした。

「すぐ治るって言ったろ? あーあ、ズボン洗って繕わなきゃな。血の汚れってタンパク質だから落ちにくいんだよなぁ。」

 こんなセリフが気休めにすらならないことくらい、ラエルだって分かっていた。だから、降りてきた梯子に真っ先に飛びついて、さっさと昇って誤魔化すことにした。

「えっ? えっ? ちょっと待ってよ。どういうことなの?」

 追いすがろうとするミーナの肩を、アルディスが掴む。

「よせ。あまり追及するな。あいつが何も言わないということは、言いたくないか、自分でも分からないのだ。」

「分からないって……。」

 ミーナはラエルが記憶喪失だなんて微塵も感じていない。アルディスはため息を吐いた。

「とにかく、傷の治りが早いのは良いことだ。それでいいだろう。」

「それは、そうだけど……。」

 腑に落ちないが、いつもの脳天気がミーナの頭を切り替える。梯子を昇りながら、上にいるラエルに大声を張り上げた。

「ねえ、今度はちゃんと消すのよ、天使の輪!」

「おう、また忘れるところだった!」

 ラエルが笑って下を向く。

「今はダメよ。真っ暗になっちゃうから!」

「わかってるって!」

 至って元気に昇り詰めて行く。内心はぼろぼろだったが……。


 魔法はともかく、自然嫌いだなんて。最低じゃないか。

 

 否定できなかったことが悔しい。確かに、魔法を使うことは自然を操ることに等しく、それにいつまでも抵抗を覚える自分は事前があまり好きではないのかもしれない。さらに、自分の甘さが、仲間を危険にさらしたということ。おまけに傷の治りの異様な速さまで皆に知られてしまった。ひた隠しにしてきたことが、一気に露呈して、まるで全裸で水浴びしているところを数人の男に目撃されてしまった乙女のような気恥ずかしさだった。

 五階分の高さを梯子で昇るのはさすがに疲れる。それも、二回目。暴風と闘った後。力自慢の男たちがへとへとなら、女たちだってくたくたのよれよれである。そんな中、一番被害の少なかったルイが、にやにやしながら言った。

「ねえ、ラエルゥ、ボク疲れたし、またお腹すいちゃった。何か作ってよ!」

 ラエルは四つん這いの状態でルイを睨み上げた。

「お前、もう一回水浴びするか?」

「え、ええーっ? 何で? さっきしたばっかじゃん!」

「今度は竜の姿になってやるんだ。そうしたら、オレが鱗を一枚一枚剥がしてきれいに洗ってやるから……」

 怒った目の下で、口が暗く笑っている。

「酷いよーっ! 君のどこからそんな黒い発想が湧いてくるわけ? 仕返しなら、試練の時にしてよねっ、もうっ!」

 頬っぺたを両手で挟んで首を振る仕草が、苛立ちを募らせる。

「何の仕返しだと思ってんだ? オレの、いや、オレたちのキレどころはそこじゃねぇんだよ!」

 ルイに飛びついて押し倒すのと同時に、アルディスとキースが応戦してきた。三人がかりの擽り攻撃である。

「ひっ、ひっ、ボクのっ、な、何がっ、い、い、いけないのっ!」

 もがきながら訴える。三人の答えはこうだ。

「まず、そのだらしない笑いが許せん!」

「話し方も、そこはかとなくムカつくんだよ!」

「もうちょっと疲れろ! 口数が少ない方が、世のため人のためだ、テメーはっ!」

 ミーナとサラは疲労のため、無言で男たちのリンチを見つめるばかりだった。


 結局、夕飯の支度に取り掛かるラエル。肉体的回復には自信があっても、さすがにきつく、表情が冴えない。サラとミーナも付かれてはいたが、気遣いから、手伝いを買って出た。城に入ることを許された子どもたちもそれに加わって、台所はかなりの賑わいを見せていた。食堂では、テーブルの隅っこで、膝をついて頭を支えるアルディスと、向かい側に腰かけたルイが、やつれた様子で窓に目をやっていた。

 外のキースは、西日が照り付ける中、子どもたちに引きずり回されているのか、遊んでやっているのか分からないが、ふらふらと走り回っている。助け船を出してやる気力はない。今、表へ行こうものなら、必ずや遊びの輪の中に巻き込まれてしまうことだろう。そんなのは御免だった。笑う気力がないのか、真面な顔で、ルイが話しかけてきた。

「ねぇ。君さ、風の一族でしょ?」

 アルディスはさして驚かない。

「そうだ。だが、力はない。一般人と同じだ。」

 ルイが小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「本当にそう思ってるの? 自分のこと、何も分かっていないんだね。」

 今度ばかりは驚いて、真っ直ぐ前に向き直り、浅黄色の瞳を見つめた。これは、もしかして、軽蔑の眼差しと言うのかもしれなかった。彼の人生において、あまり経験のない見られ方だった。

「一般人がかまいたちを剣で払いのけられる? 竜巻に飲まれて意識を保っていられる? 君はね、風を操れないだけ。風の一族の特性はきちんと受け継いでいるんだよ。風を読んで、それを活かすことができている。彼に足りないものを、君は持っているんだ。」

 彼とは、ラエルのことだ。アルディスは、ちらっと台所の方へ目をやり、再びルイに視線を戻した。

「君は、風を愛し、花を愛し、自然を愛している。もちろん、人間もね。でも、彼はそうはいかない。自然と仲良くできないんだ。彼が悪いんじゃないさ。元々は好きだったのに、嫌いになるように仕向けられちゃったんだ。誰とは聞かないでね。ボクだって、まだ命が惜しいんだから。」

 ルイは、いつの間にか身を乗り出していた。この日一番の真剣さだった。

「君に、頼みがあるんだ。よく聞いて。彼はね、シザウィーのお城で幸せな一生を送るはずだったのに、十一歳の時のある事件がきっかけで、それが幻と消えたの。十代の楽しくて、大事な時期が地獄のような日々で埋め尽くされてしまったんだよ。君や、君の仲間たちの不幸なんて、比べ物にならない程の酷い生活だったんだ。今、彼はそれを思い出そうとしている。可愛そうだと思わない? しかもね、これからの人生だって、彼が望むようにはいかないんだ。辛いことばかりだよ。そう決まっちゃってる。でも、これが彼の選んだ道だから、仕方ないね。」

「何が言いたい?」

 アルディスは半分怒り始めていた。ラエルの未来がろくでもないと烙印を押されたも同然だ。不快に感じずにはいられない。しかし、ルイはあくまで本気だった。

「彼に、幸せな記憶を残してあげて欲しいんだ。今のうちに。一緒に旅をするだけでいい。君たちならできる。ううん、君たちにしかできないの。たとえ、ほんのわずかでも、それが彼の励みになるはずだよ。だけど、ここからが重要。君たち自身は絶対に不幸にならないで。死なないで欲しい。せっかくの幸せな記憶が台無しになるから。彼のせいじゃなくても、自分を責め続けるよ。一生ね。そういう人なんだ。もう、気づいているとは思うけど。」

 アルディスは、また台所の方をみた。そして、静かにはっきりと言った。

「大丈夫だ。オレはあいつのために犠牲になろうなどと考えていない。あいつは一人の犠牲で成り立つ世界は滅べばいいと言ったのだ。世界の滅亡のきっかけになりたくはない。」

 ルイは、ふっと息をして、微笑んだ。

「そっか。それを聞いて安心したよ。でも」

 表情が曇って、アルディスまで心配になる。

「何だ?」

「でも、忘れないで。犠牲はやっぱりつきものなの。彼が喪失感で苦しんだ時は、支えになってあげてね。誰も悪くないんだって、信じ込ませてあげてね。」

 アルディスの目が、ゆっくりと大きく見開かれる。

「どういう意味だ? それでは、まるで、誰かが……」

 言いかけて、言葉を飲む。ラエルたちが食事を作り終えて、食堂へ運んできたのだ。ルイは、椅子に座り直し、にやーとだらしなく笑った。

「わーい。待ってました! 今日の晩御飯は何かな?」

 ラエルは顔を引きつらせながらルイを見て、子どもたちが並べた皿の上に黙々と料理を盛り始めた。そして、ただならぬ様子のアルディスに気付いた。

「顔色が良くないな、アルディス。ルイの締まりのない笑いと喋りにやられたのか?」

「ちょっと、ちょっとー! 失礼だよ、君っ! 癒し系と言ってよ、もうっ!」

 そんなルイには目もくれず、アルディスに続けて言う。地下で吹かせた風のように、優しい微笑みで。

「疲れただろう? 今日は早めに寝た方がいいかもな。」

 ミーナもその意見に賛成した。

「そうね。昔話は明日にでもゆっくりと……」

 アルディスが一つ、首を横に振った。

「いや。オレは今すぐにでも聞きたい。」

「……? そうか?」

 アルディスの視線は、さっきからルイに刺さりっ放しだ。皆、不審そうにそれを見守った。ルイは、ちょっと困りながら、頬をポリポリ掻いた。

「あはは。いやぁ、参ったね。昔話はしてあげるから、まずはご飯を食べようよ。」

 食事が始まってからも、アルディスの目はただ一点、ルイに向けられたまま。何かあったことは確かだった。気まずい雰囲気を誰も払拭できず、この日の夕食は終始静かなものとなった。






    ルイの昔話


「ねえ。ボクの歯を見て。ほら、ここ!」

 全員が食事を終えるか終えないかという時、ルイの昔話は唐突に始まった。育ちのよいサラは、食後間もなく漱ぎもしない歯を人前にさらすような行為には感心しない。いつか見せた残念そうな表情を浮かべ、それでも渋々彼の指し示す部分、左犬歯、もとい、左の牙を、皆がするように覗き込んだ。

「色が、他とちょっと違うでしょ?」

 確かに。僅かではあるが、同じ白でも色味が違う。他は不透明で黄味を帯ているのに対し、その一本だけ少し透明感があり、青味がかった、もしくは中性的な白であった。どうして?と誰かが質問するより早く、ルイは答えを出した。

「これはね、ボクの歯じゃないの。ご主人様から頂いたものなんだよ。」

 誇らしげなルイの顔を、皆珍しいものを見るように、しげしげと見つめた。

「ボクとご主人様の出会いは、今から千と二年前。ボクが三歳の時、ご主人様は二十歳の時だった。ボクはね、その頃ここにあった歯が病気になってて、真っ黒に変色しちゃって、毒が脳に回りかけて、とても危険な状態だった。それで、ボクのお父さんとお母さんが、当時医学博士として世界的に有名だったご主人様のところへ、ボクを連れて行ったんだ。もちろん、人の姿でね。

 ボクは、病気の歯が痛くて痛くて、ご飯も食べられなくて、毎日ワンワン泣いてた。その日も泣きながらご主人様と会ったんだけど、ご主人様に抱っこされたら、急に痛いのが治っちゃってね。びっくりして、ご主人様の顔を眺めたものだよ。

 あの時のことが、今でも忘れられない。寂しそうな、けど、とっても優しい緑の瞳がボクを見下ろしていて、肩から毀れたプラチナの長い髪が、ボクの体半分をカーテンみたいに包んでいてね。ボクを抱き上げる手は真珠みたいにきれいで、しなやかで、胸は羽毛布団みたいに柔らくて暖かかった。桜色の唇が開くと、宝石みたいに白い歯が艶々と行儀よく並んでいて・・・。ボクは、三歳にして、早くも究極の美というものに出会ってしまったの。

『どう? 痛みが和らいだでしょう? 今ね、痛みの伝わりを止めたの。』

 ご主人様は、鈴のような澄んだ声でボクにそう言って、次にボクの両親にはこう言った。

『それで、この子の牙を治して欲しいと言うのね? 残念だけど、ここまで病状が進んでいては、どうにもできない。抜けばいいというものでもないわ。それはあなた方が一番分かっていると思うけれど。』

 お父さんは五千年も生きていた人だから、渋くてカッコよかった。

『然り。竜の一族は牙を失えば、全身のバランスを崩して、寿命が大幅に縮む。空を飛ぶこともできなくなるだろう。竜にとって、それは死んだも同然だ。』

 ご主人様は、ボクの頭を撫でながら言ったよ。

『そうね。それに、腫瘍は歯根の奥深くまで転移してしまっている。抜いたところで病気自体を取り去ることはできない。神経を傷つけるから手術もできない。言っても仕方のないことだけれど、どうしてもっと早く連れてこなかったの?』

 お父さんは答えた。

『この子には、竜の一族として誇り高い死を迎えて欲しかった。我らは滅亡の危機に瀕している。お前も知っていよう。我らの血は、若返りの薬だとか、角や牙を磨り潰して飲むと不死身になるとか、鱗は火にも冷気にも強いため身に付けるとお守りになるとか、根も葉もない噂が流れ、人間に至っては美術品・装飾品の材料にしたりで、妖魔からも妖精からも人間からも狙われ乱獲され、殺されていることを。それから逃れるため、人の姿に身を窶し、人里離れた山奥や洞窟などに住んだりもしていたが、見つかる端から殺されて、今では僅か数十にまで数を減らしてしまった。新しい生命は一族全体で百年に一度、生まれるか生まれないかだ。なのに、狙われるのは若い方から先。その方が殺しやすいし、不老長寿の効果が高いと思われているからだ。この子が一族最後の命となるだろう。滅びの時は刻一刻と迫っている。せめて最期は我らの意地と誇りを見せつけてやろうと一致団結して、反撃の狼煙を揚げた。つまり、死を待つのではなく、鬼畜どもに制裁を加え、戦って死のうということになったのだ。』

 ご主人様は呆れたような、哀れっぽいような調子で言ったよ。

『全く、寿命が長いと呑気なものね。人間ならとっくの昔にしていたことだわ。この子のことにしてもそうよ。やることが何でも遅すぎるの。』

 お父さんは怒らなかった。

『この子には、戦いの中で、我らと共に名誉ある死を迎えて欲しかった。しかし、このままでは、戦うどころではなく、病気のために死んでしまう。犬死だ。それがあまりにも不憫でな。皆で相談した結果、この子だけは生かしてやることになったのだ。お前が言うように、手遅れかもしれぬ。しかし、長生きを望んで連れて来たのではない。一年でも一日でもいい。延命してやって欲しい。死の尊厳もあれば、生の尊厳もあるはずだ。この子が苦しむ姿をみて、そのことにようやく気付いたのだ。我らは死に方にこだわるあまり、生きることを忘れていたのだ。しかし、我が一族は既に後戻りできないところまで来てしまっている。もう、意地を貫き通すしかない。悔いを残さないために。お前には理解できぬだろう。我らの誇りなど、くだらぬと笑うであろう。笑うがいい。これが竜の一族だ。』

 ご主人様は笑ったりしなかった。悲しそうにボクを見つめていた。

『この子を置いて、行ってしまうのね。』

 お父さんもお母さんも悲しそうだった。

『それが宿命だ。我が同胞は今も戦っている。放ってはおけぬ。竜の一族のしがらみから解放すると決めた、その瞬間から、この子はもはや我が子ではなくなった。お前の好きなように扱って構わぬ。死んだ後は角も牙も抜き、鱗も剥いでしまうがいい。血もくれてやる。だが、生きている間は愛情を注いでやってくれ。』

 ボクはちょっと怖くなって震えちゃったよ。でも、ご主人様が首を振ると、プラチナの髪が一緒に揺れて綺麗だった。

『馬鹿ね。科学的根拠もない迷信のために、非道なことをする程悪趣味じゃないわ。でも、私に愛だの情だのを求めるのも間違ってる。本当に、私でいいの?』

 お父さんは詰め寄るみたいに、ご主人様へ近づいた。

『お前以外託せるものはいない。信頼できるのはお前だけだ。』

『初めて会ったばかりなのに、その確信はどこから来るの?』

『はっきりとは分からぬ。だが、感じるのだ。お前には我らと同じ、何かがあると。お前も感じぬか?』

 お父さんの言葉に、ご主人様は悲しそうに笑ってた。

『私がそう感じるのは、あなた方に対してだけではないの。……でも、そうね。あなたのお蔭で良い方法を思い付いたわ。この子を千年生き長がらえさせる方法よ。』

 お父さんもお母さんもホッとしたみたいに笑った。

『それを聞いて何よりだ。これで安心して戦いへ赴くことができる。ところで、お前への報酬はどうすればよいか。我らの財宝は全てやろう。』

 ご主人様は優しい顔で首を振ったよ。

『私、金銭的には恵まれているから。その財宝は、この子に残してあげるといいわ。千年生きるのに困らないようにね。』

 お母さんが珍しく口を出した。

『それでは、あなたに何の恩返しもできません。何か望みはないのですか。』

『私に望みなんかないわ。生まれた時から絶望してる。存在自体が絶望なのよ。その私に希望を見出しているあなた方が滑稽だわ。』

 お父さんもお母さんも必死だった。

『滑稽でいいのだ。』

『どうぞ、笑ってください。』

 ご主人様はしばらく黙ってボクを見つめて言った。

『やれやれ。あなたのご両親はあなたのためなら大事な誇りも捨てる覚悟のようよ? 覚えておくのよ。あなたはこんなにも愛されていたのだっていうことを。』

 それから、お父さん、お母さんに向かって、こう言った。

『この子の変色してしまった牙を抜くわ。そこに新しい牙を植え付ける。うまく適合するといいわね。』

 お母さんは興奮気味に言った。

『必要なら、私の牙を……!』

 ご主人様はまた笑って首を振った。

『いらないわ。あなたの大きな牙を削って嵌めろって言うの? 当てはあるから大丈夫よ。心配しないで。それから、報酬は抜いた牙にするわ。』

 お父さん、お母さんはびっくりさ。

『そんのもの、毒にも薬にもならんだろう。』

 ご主人様はにっこり。

『あら。なるわよ。私は医学博士よ。半分は検体として、病気の研究に使わせてもらうわ。半分は加工して、ペンダントヘッドにしようかって思っているの。そうして、知人にプレゼントするわ。だって、この牙にはあなた方親子の愛情と生へのひたむきな思いがぎっしり詰まっている。私はペンダントに祈りを込めて、愛すること、愛されること、そして生きることを恐れている人へ捧げるわ。私には、必要ないの。相思相愛な人がいるから幸せなのよ。たとえ、結ばれることはなくても。幸せな思い出が今の、そしてこれからの私を支えてくれる。でも、その知人のことがとても気がかりなの。それこそ、悔いを残したくないのよ。幸せになって欲しいわ。彼には生きる喜びを知って欲しいの。』

 ご主人様は目を閉じて、本当に祈っているみたいだった。こんな風に祈ってもらっても幸せじゃない人がいるんだね。ボクなんか、ご主人様にちょっと抱っこされただけで幸せ一杯だったけどね。

 ご主人様はまた目を開いて、ボクの目を覗き込むようにして聞いてきたの。

『あなたは名を何というの?』

 ボクは困ってきょとんとしちゃった。代わりにお父さんが答えてくれたよ。

『我々に名はない。名前は人間が使うものだ。』

『そう……。じゃ、私がつけさせてもらうわ。あなたは今日からルイよ。』

 ボクはちょっとくすぐったくなった。特別な存在になれたような気がしてね。

『良い響きだ。』

 お父さんもお母さんも嬉しそうだった。ボクたちは名前を呼び合う習慣はなかったけれど、あればあるなりに気持ちの良いものだよね。ご主人様もご満悦だったよ。

『そうでしょ? 私、名前を考えるのが得意なの。これで、三度目よ。』

 両親はそれから間もなく、ボクを置いて行ってしまった。名残惜しそうに何度も振り返りながら。

 ご主人様はボクをベッドの上に座らせて、自分は床の上に立ち膝して、ボクと向かい合わせになって言った。優しいけど、真剣な表情だったよ。

『ねえ、ルイ。私はあなたに言っておきたいことがあるの。あなたの牙の代わりになるものの話よ。人間には親不知っていう、実生活で必要のない歯があるんだけどね、私の親不知を使って、成分を抽出・培養して、あなたの牙のもととなる核を生成しようと思っているの。それをあなたの歯茎に植え込む。上手く行けば、神経が繋がって、あなた自身の治癒力で新しい牙が伸びるって寸法よ。言ってる意味、分かる?』

 ボクは正直に首を振ったね。だってちんぷんかんぷんだもの。

『簡単に言うと、私の歯があなたの牙になるのよ。これって、普通じゃありえないことなの。見た目上の材質は同じように感じるけれど、実際は全然違う。だから人間の歯を竜の歯茎に植えたところで、所詮は異物。牙になんかならない。でも、私は普通の人間じゃないの。外見は親に当たる人から取られたものだけど、中身は他の人間や動物や妖魔や妖精の寄せ集めよ。私の身体には、多くの命が使われているの。あなたの親戚もその一つだわ。そんな血塗られた私の一部を、あなたに使ってもいいのかしら。あなたは私を許せる?』

 ボクは目がチカチカしたよ。だってまだ三歳の子どもなんだから。

『よくわからないけど、ボクはお姉さんのこと大好き。ボクの病気、治して。』

 そう言うしかなかった。

 次の日にはご主人様はボクの牙の代わりとなる核をこしらえて、準備万端だった。

『竜の姿に戻ってちょうだい。私がいいっていうまで人の姿になっちゃだめよ。』

 ボクはご主人様の言う通りにしたよ。草食動物が生まれてすぐ立たなきゃならないように、ボクたち竜の一族は人間に姿を変えるんだよ。そうしないと殺されちゃうからって。普段は人の格好をして過ごしているんだ。だから竜に戻るのは久々だった。その頃は今の五分の一くらいの大きさだったけど、それでもご主人様の倍はあったと思う。産毛が抜けたばかりの新しい鱗は、たぶん人間の爪くらいの固さしかなかったろうね。

『さ、口を開けて。今から黒くなった牙を抜くわ。抜いた後、腫瘍の部分をできるだけ取ってしまうわね。核はその次に植えるの。大丈夫よ。痛くも何ともないから。じっとしていてね。』

 ご主人様はボクが開けた口の中に半分身体を入れるみたいにして、牙を抜いたり歯茎の奥を処置したりしてた。実際どんな風にやったのかはボクからは見えなかったけど、核を植え込むまで僅か数分の出来事だった。本当に痛みは全くなかったから、治療が終わったことすら気づかなかったね。

『まだ、竜の姿でいてね。核が馴染むまで二、三週間は様子を見ないといけないの。』

 三週間後、歯茎の奥に埋まってた核から、目が出るみたいに小さな牙が生えてきた。ご主人様の治療は大成功。ボクはご主人様と話をしたくてうずうずしてたから、人の姿になってもいいよって言われて、すごく嬉しかった。あんまり嬉しかったから、人の姿になってすぐ、ご主人様の脚に抱き付いちゃった。

『お姉さん。ボクの病気治ったの?』

 ご主人様は困ったように首を振った。それから屈みこんでボクの髪を撫でながら言ったよ。

『完全に治ったわけではないの。あなたはその病気と一生付き合っていかなければならないわ。でも、普通の人間位の寿命にはなったと思う。手を加えなくても七、八十年か、もうちょっと先まで生きられるんじゃないかしら。竜の寿命には遠く及ばないけれどね。』

『お姉さんと同じ?』

 ボクはにこにこして言ったよ。

『さあ……どうかしら。それはその時になってみないと、ね。あなた、嬉しそうね。』

『うん! お姉さんとお話しできてうれしいの!』

 ご主人様の顔がみるみる曇って、ボクは心配になっちゃった。

『あのね、ルイ。この三週間、私ずっと考えていたことがあるの。私はあなたのお姉さんでもないし、お母さんでもない。あなたの家族にはなれないわ。慕ってくれるのは嬉しいのよ。私もあなたのことは大好きだもの。でも、私にはしなければならないことがあるの。使命を帯びているのよ。使命を果たすうえで、家族のような存在は、はっきり言って邪魔なのよ。』

 ボクは半分泣きそうになりながら聞いた。

『じゃあ、お友達は?』

 ご主人様は目を伏せて首を振った。

『私のお友達になるには相当強くなきゃダメ。あなたはまだ小さいわ。今は無理よ。』

 ボクはもう泣いていたよ。

『ボク、どうしたらいいの?』

 ご主人様はちょっと笑って、ボクの涙を指で拭ってくれた。

『大丈夫よ。心配しなくても。一旦預かったからには、責任を持って育てるわ。竜の一族は素晴らしい種族よ。あなたの代で終わるのが残念だわ。あなたにはご両親や他の仲間のためになるべく長く生きて欲しいの。だから、あなたを狙う悪者から私が守ってあげる。そのためにも、お互いの関係をはっきりさせておきましょう。』

 ボクは目をぱちくりさせながらご主人様の話に耳を傾けていた。

『私はあなたをペットとして扱うことにする。私はあなたの主人よ。』

 竜の一族にペットも主人もいないから、ボクは意味が分からなかった。

『ペットって何? 主人って?』

 正直に聞いたら、ご主人様はにっこりして答えてくれた。

『ペットって言うのはね、ご主人様に愛されながら育てられる生き物のことなの。』

 ボクはもう嬉しくって、目をキラキラさせてたと思う。

『お姉さんは、ご主人様なの?』

『そうよ。それからね、ペットはご主人様のために何かしら仕事を持っているものなの。鳥は歌を歌う。犬は怪しい人が近づいたら吠えて追い払ったりご主人様に知らせたりする。』

『ボクは?』

『あなたにはとっておきのお仕事があるわ。』

 ご主人様は懐からペンダントを取り出して、ボクの首にかけた。黒い竜が透明な丸い玉に巻き付いているようなデザインだった。

『この竜はね、あなたの抜いた牙から造ったものよ。ご両親を忘れないようにね。大丈夫。私の取り分はちゃんとあるから。この玉は風の結晶と言うの。これを守るのがあなたのお仕事よ。首にかけておくだけでいいわ。本当は風の一族のお仕事なんだけど、純血がいなくてね。力を制御できないの。あなたは風の一族の純血より風の力が強いみたいだから、安心して任せられるわ。』

 ボクはご主人様に頼りにされて、すごく嬉しかった。

『じゃあ、お姉さんのこと、ご主人様って、呼んでいい?』

 ご主人様は視線を宙に漂わせながら、眉を顰めた。

『そう・・・ねえ。あんまりいい気はしなけど、良しとしましょう。私の名前がアルテイシアとか、ナターシャとかだったら喜んで読んでもらいたいところなんだけど。』

 そう聞いて初めてご主人様の名前を知らないことに気付いたんだ。ボクは元々名前を持たない一族だったからね。気にも留めていなかったんだよ。

『ご主人様は、何て言う名前なの?』

 ご主人様はため息交じりにこう言った。

『それがね、男の人みたいな名前なのよ。笑わないでね。私はレオンハルトと言うの。』

 ボクは男の名前も女の名前も区別がつかない。笑うわけないよね。むしろ、素敵な名前だなって思った。

 それから一年間、ボクはご主人様にいろんなことを教えてもらいながら育った。もう気付いていると思うけど、竜の子は人の子より知能の発達が早い上に、記憶力も優れているんだ。だから、ご主人様の話してくれた一言一言をスポンジが水を吸うみたいにボクはぐんぐん吸収していった。ご主人様はそのことを知っていたから、わざと三歳のボクを大人と同じように扱ったんだね。それに、何だか毎日焦っているみたいだった。あれを、生き急ぐっていうのかもね。

 ご主人様と出会ってから、一年経とうとしていたある日、ご主人様はボクにこう言った。

『あなたに教えることは全て教えられたと思う。最後に一つだけお願いがあるの。』

 最後って言うのが引っかかったけど、ボクは快く承諾した。ご主人様のお願いだもの。聞かないわけないよ。

『風の結晶を守るために、少なくとも千年は生きてもらいたいのよ。』

 ボクはびっくりしたね。普通の竜ならともかく、ボクは病気持ちで、ご主人様が言うには七、八十年の命なんだから。

『言いたいことは分かるわ。無理だってことよね? でも、無理ではないわ。方法があるの。竜の一族の寿命がどうして長いか知ってる? それは冬眠するからよ。一昨年、あなたもしたでしょう?』

 ボクは頷いた。

『去年は私の都合でしないでもらったの。準備する時間が足りなくなってしまうから。条件さえ、きちんんと整えば、あなたは冬眠できるのよ。でも、私が望んでいるのは、ただの冬眠じゃない。一年のうち七日だけ起きて、あとはずっと眠るの。眠っている間は病気の進行も抑えられる。千年もすれば新しい治療法が見つかって、病気を治せるかも知れないわ。』

 ボクは不安で一杯になった。

『でも、でも、ご主人様はどうなるの? ボクが寝ているうちに死んじゃうんじゃない? それとも、一緒に冬眠してくれるの?』

 ご主人様は真顔で首を横にふった。

『それはできないわ。前にも言ったわよね。私にはしなければならないことがあるの。眠っている暇はないのよ。』

 ボクはもう、顔じゅう涙と鼻水でべとべとになった。見かねた御主人さまが、ハンカチで拭ってくれた。

『心配しないで。あなたの世話は風の一族が代々、責任もってやってくれるよう、たのんであるわ。命を狙われないように、風の城に細工を施したから、そこで安心してお眠りなさい。それから』

 ご主人様のその時の顔は、一生忘れない。切なくて、優しくて、消えてしまいそうな笑顔。

『もし、来年目が覚めて私がそこにいなくても、誰かを疑ったり恨んだりしてはダメ。誰も悪くないの。時の流れに人も、妖精も妖魔も逆らえないの。風の結晶を制御できる者が現れたら、結晶を渡して構わないわ。その日から晴れてあなたは自由の身。どこへ行って何をしてもいいのよ。』

 ご主人様と一緒でないなら、自由なんか意味がなかった。でも、ご主人様の決めたことに反対する術もない。ご主人様がボクをペットにしたのにはそれなりの理由があったんだね。

 ご主人様は春夏秋冬眠に必要な薬の調合の仕方を教えてくれた。そして、ボクに魔法をかけた。

『この魔法は、解除する魔法以外で消えることはないの。今のところ私しか使えない。つまり、あなたが生きている限りかかったままよ。薬と併用することで、あなたを三百五十八日と六時間眠らせる効果を齎すの。多少の誤差は、起きている時間で調整して。あなたが寝ている間、夢を見て、そのため竜の姿に戻ったり、また人に変化したりするかもしれないから、ベッドは竜の姿に合わせて作ってあるわ。干し草の上にシーツを被せただけなんだけどね。毎年取り替えるようにしてね。万が一の時、すぐ目覚められるように眠りの深さは最小限にしてあるわ。そういう時は用が済んでも寝ようとしないで、夏まで起きるようにして。』

『どうして夏なの?』

 ボクの質問に、ご主人様は即座に答えてくれた。

『薬に必要な薬草は夏に全部揃うでしょう? 薬は作り置きしないでその都度、最初から最後まであなた一人で作って飲むの。他の人には触らせないで。手伝いも駄目よ。これが一番確実で安全な方法なの。いいわね?』

 その日から一週間、ボクは食事を五回、それも大量に摂った。寝ていても少しはエネルギーを消費するから、一年分溜め込まなきゃいけないんだって。一昨年の冬眠の時も結構食べたものだけど、比にならないね。食事だけじゃ吸収しきれないし、追いつかないってことで、朝昼晩に薬を飲んで、寝る時は点滴を打った。ボクはあまり後先考える質じゃなかったけど、さすがにこれからのことを心配したね。ご主人様が起きてなさいって言った七日間は、一年間寝るための準備期間だったんだ! できることなら千年ずっと眠らせたかったんだよ。それができないから一年に七日、ご飯を食べたり薬を飲んだり、点滴を打ったりしなきゃいけないんだ。ご主人様はボクに長生きして欲しいって言ったけど……これが生きるってことなの? ボクは悲しくて泣いたね。ご飯を食べながら、点滴を打たれながら、昼となく、夜となく。ご主人様は、そんなボクに憐れみの言葉なんかかけなかった。慰めたってしようがないからね。代わりに、ぎゅって抱きしめて、ボクがそれまで理解できなかった言葉を教えてくれた。

『ルイ、あなたが今まさに感じているもの。これが絶望なのよ。』

 一週間後、ボクは風の城の地下で眠りについた。夢うつつに、ご主人様が手を握りながら、耳元で優しく囁いていた。

『ルイ、一年間、沢山の愛をくれて、沢山愛させてくれてありがとう。結晶はね、絶望そのものなの。それを一手に引き受けてくれる人が、いつか必ず現れる。辛い時はご両親のことと私のことと、今言ったことを思い出して。絶望は希望の裏側にあるの。ひっくり返るその日まで待っていてね。』

 これが、ボクの持っているご主人様の最後の記憶。

 次の年、ご主人様はいなかった。ボクは言いつけ通り、誰も疑わず、恨まないために、いない理由を聞かなかった。言う人もいなかった。それから千年の間、何回か夏以外に目覚めてしまうことがあった。どうしってって? 世話を頼まれていた風の一族の中に、ボクを狙う人がいたんだよ。彼らが悪いんじゃないさ。それだけボクの存在は誘惑に満ちてたってことなんだ。でも、風の結晶を守る資格もないんだから、自爆行為だよね? そのことを話すと、ボクを狙った人たちは自主的に城を去って行った。誘惑から逃れるために。毎年風の一族は姿を消して少なくなっていった。ある者は病気や寿命で死に、ある者は他の土地を目指して旅立ち、やがてご主人様との約束は忘れられ、辛うじて覚えていた最後の一人は、近くに新しく村を建てた氷の一族に後任を頼んだ。ああ。風の一族がいい加減なんじゃないよ。風の一族は、風を愛し、風の流れに従って生きてる種族なんだ。一つ所に留まっていられない性分なんだよ。風の一族の純血が早い段階でいなくなったのは、このせいだね。ご主人様もこうなることは分かっていたと思う。ボクは自分の面倒くらい自分でみれるくらいになってたから、さして支障はなかった。氷の一族はボクが起きる頃を見計らって干し草を用意したり、食料を持って来てくれたりしたよ。律儀な一族なんだよね。何の関係もないボクを、仲間みたいに構ってくれてさ。この子たちも、ボクの友達なんだよね。ごめんね。君たちが困ってるなんて、全然気付かなかった。これからはずっと起きて、世話してあげるからね。お父さんやお母さんが戻ってくるまで。






   ルイの去年の話


 あっ、そうそう。去年の話もついでにしとこうか? 去年の今よりちょっと早い時期にね、ある人がボクの所へやって来たの。ボクはまだ起きる時じゃなかったから、地下のベッドでぐっすりさ。その人はねぇ、君たちみたいに荒っぽい起こし方はしなかったよ! ボクの髪を優しく撫でてくれてね。ボクはあまりの気持ち良さに目を覚ましたんだ。この千年、味わったことのないものだよ。そして、その人の顔をみて、驚いたね。忘れもしない、ご主人様の顔だったんだもの。ボクは目を丸くして、起き上がりざま言ったよ。

『ご主人様・・・?』

 その人は始め優しく微笑んでいたのに、嫌そうな表情に変わった。

『そんな呼び方されたの初めてだ。やめてくれないか? 私にはレオンハルトという名がある。そちらで呼んで欲しい。』

 ボクはまた驚いた。だって、この人はご主人様じゃなかったし、声を聞いたら男の人だったし、そのくせ、名前は同じなんだよ?しかも、ご主人様は名前で呼ぶなって言ってたのに、この人は名前で呼べって言うんだ。ボクはいつの間にかパラレルワールドに来ちゃったのかと思ったよ。でも、こんな時なのに、身体は正直でね。お腹がグーッと鳴っちゃったんだ。一年近く何も食べていないわけだし、目が覚めたらすぐにお腹が空くようになっているんだ。栄養補給を早く始めないといけなかったから。彼はにっこり笑って、ご飯を作ってあげるから、上の食堂へ行こうって誘ってくれた。食堂は一年ぶりなのに、きれいになってて、台所では彼の部下が二人、掃除をしていた。

『他の部屋はともかく、食事をするところと作るところはきれいじゃないと気が済まなくて。勝手に片付させてもらってたんだ。』

 大量に作ってって頼むと、彼は望むところだって腕まくりしてた。彼が作ってくれた料理は心がこもってて、温かくて、すごくおいしかったよ。ボクはいつもの習慣で十人前をぺろりと平らげちゃった。彼は満足そうだったけど、部下は具合悪そうにボクを見てたね。食後、部下を所払いして、ボクたちは語らいあった。彼はボクの所へやって来るまでの経緯を、ボクはご主人様のことを話した。彼は感慨深げにボクの言うことに耳を傾けていた。すると、懐からおもむろに黒いペンダントを取り出したんだ。結晶こそはまっていなかったけど、ボクのとすごく似てた。竜の姿を彫り込まれてて。

『もしかしたら』

 彼はペンダントに目を落としながら言った。

『君のご主人様が作った、もう一つのペンダントはこれじゃないのか?』

 わからない、とボクは正直に答えた。実際、ご主人様から見せてもらったことはなかったからね。

『これは、私が赤ん坊の頃、今の父に預けられた時に持っていたものだそうだ。』

 この言葉に、気になる部分があったけど、それは敢えて問い質さないで、ペンダントに話題を絞った。

『ということは、君は、愛し愛されること、生きることを恐れる不幸な人の、子孫ってことかな?』

『いや、しかし、君の話では、私はご主人様にそっくりだというし、どちらかと言えば、彼女の子孫なのでは? それか、彼女と彼の……』

 ボクは、思わず立ち上がった。

『そんな……! だってご主人様の好きな人は別にいたんだよ? ご主人様は同情で結婚するような人じゃないよ。』

 ふむ、と彼は考え込んだ。

『では、どういう事情か知らないが、ペンダントを渡すことができず、自分で持っていたのかも知れないな。』

 ボクは椅子にまたどっかりと腰を降ろした。

『ああ! こんなことなら、風の一族にちゃんとご主人様のその後を聞いておけば良かった! 死んだとばかり思ってたからさあ。本当は生きていて、誰かと家庭を持ったかもしれないよね? 失敗したなぁ。』

 頭を抱えるボクを、彼はなだめてくれた。

『済んだことをとやかく言ったところで何も変わらない。ところで、君に頼みがあるのだが。』

 ボクは目を輝かせた。

『何、何? もしかして、風の結晶が欲しい? いいよ、いいよ! もお、熨斗つけてあげちゃう! 君にならご主人様も許してくれるよ。』

 ボクが結晶を差し出そうとするのを、彼は見たくないって感じで押し下げた。

『いや、今は受け取れない。悪いけど。厄介払いしたいのだろうが、来年まで待ってくれないか?』

 がっかりしかけて、ボクはまた元気を取り戻した。

『来年?』

『そう。そして、厚かましい話だが、私に君の持ちうる全てを与えて欲しい。世界の運命を変えるために。』

 ボクは自分の身体を抱きしめちゃった。彼はあからさまに不愉快な顔をしたよ。

『言い方が良くなかったな。君の力を貸して欲しいのだ。永遠の命なんかどうでもいい。ましてや、竜の血肉に興味はない。』

 ボクは、新しいご主人様を見つけたような気持だった。彼の望みを聞き入れ、ボクたちは来るべき次の年について、いくつか打ち合わせをした。ワクワクしてしようがなかった。初めてボクの存在意義が認められたわけだもの。それから間もなく、彼は風の城を後にして、次の城へ向かった。七日後には、ボクは再び眠りに就いた。最期の春夏秋冬眠だよ。

 今にして思えば、彼に氷の神殿の話もしておくべきだったよ。そうしたら、この子たちがこんなにつらい思いをしなくて済んだかもしれないものね。でも、ボクにしてみれば、千年目にようやく訪れたチャンスだったんだ。絶望が希望にひっくり返る、ね。これを逃すまいと、頭の中が一杯になっちゃって。喜び勇んで眠ってしまったんだよ。



 ルイの、登場人物ごとに声色を変え、大袈裟な身振り手振り付きの熱が入った昔話が終わった。それを待っていたかのように、ラエルは席を立ち、既に日の沈んだ外へ一人出て行ってしまった。明らかに気分が優れない様子であったにも関わらず、誰も彼に声を掛けることができなかった。

 子どもたちはルイの生い立ちを初めて聞かされ、また、彼が竜の化身であることを知り、放心状態に陥っていた。

 旅の一行は時の城での昔話に出てきた「レオンハルト」なる人物と同名の女性「ご主人様」とを結び付けようとして、かつまた旅の仲間である「ラエル」とも関連付けようとして混乱をきたしていた。そして、去年の話とはラエル=レオンハルト王子が訪問した際の話であることを暗黙に了解しているアルディスとサラに至っては、ルイが何とはなしに言ってのけた「今の父」という意味深な言葉の響きに、少なからず衝撃を受けていた。母方にはあまり似ていない、父方には全く似ていない、ただし初代には酷く似ているらしいともっぱらの噂のレオンハルト王子だが、孤児であるなんて噂は聞いたことがない。しかも、当の本人もつい先程まで「忘れていた」と見えて、ルイの話が問題の個所に差し掛かったあたりで、音のない悲鳴のように、鋭く息を吸ったのをアルディスもサラも聞き逃さなかった。

 「地獄のような日々」「これからの人生だって」「犠牲はやっぱりつきもの」「誰も悪くない」……アルディスはルイの昔話の中に、夕食前の話を断片的にダブらせて、頭がくらくらしていた。ラエルは、「地獄のような日々」をひたすら思い出すために、また、「これから」の、ろくでもない「人生」を自ら確定させるために旅をしているのかもしれない。千年を生きるために眠り、眠るために生きてきたルイをして、地獄と言わしめた彼の過去を、自分たちはこの先目の当たりにしていくことだろう。


 幸せな記憶を何だと? 折れそうになっているあいつを追いかけることすらできないのに。

 

 アルディスはテーブルの上で震える程強く握りしめた拳を、悔しそうに睨んでいた。

 ややしばらくして、事情の一切を知らないミーナが、唯一思い立って、戸口へ向かった。

「私、ちょっと行ってくるわ。」

 彼女が通り過ぎた窓を水滴がパタパタと叩いている。雨が降り始めていた。

 外は星の光もないため、真っ暗だった。外套を被ったミーナは、右手にランタン、左手にもう一つの外套を携え、雨のせいで流れが速くなったであろう川の方へ歩いて行った。程なくして、ランタンはプラチナブロンドを捉えた。川縁の岩に膝を抱えて座り込み、雨に濡れたまま微動だにしない後姿に躊躇することなく話しかける。

「雨、降ってるわよ。」

 すると、やはり躊躇のない答えが返ってくる。

「そうだな。」

 ミーナは半ば呆れながら、彼の背中に外套を掛けてやった。そこでようやく相手が振り返って、笑顔を見せた。

「ありがとう。」

 睫毛も頬も濡れて、泣いているようだった。彼女がそう感想を述べると、言われた方は笑いながら顔を拭った。

「泣いてはいないよ。今さ、子供の時のこと思い出してたんだ。」

「子供の時のこと?」

「そう。オレさ、今でこそ髪の長さはこんなだけど、ちょっと前まで、すごく伸ばしてたんだ。ミーナより五十センチは長かったな。」

「そんなに?」

 雨のことも忘れて、ミーナはラエルの横に屈みこんだ。そして、想像した。彼の長い髪が風に靡く様を。

「十歳までは、短く切ってたんだ。でも、親が伸ばしたらきっと似合う、きっと綺麗だってしつこく言うもんだから……」

「それで、伸ばしてたの?」

 彼らしい理由だとミーナは思った。

「なのに、随分、バッサリと切ったものね。」

「旅をするのに、邪魔だったし……」

 第一、忘れていたのだ。親のくだらない要望など。しかし、当時はそのくだらない要望ですら、突っ撥ねる余裕はなかった。恐ろしかった。血の繋がらない人たちに囲まれて生きている自分を知ったその日から、嫌われることが怖くて仕方がなかった。自分の地盤がぐらぐら揺らいで、沈んでしまいそうだった。自分の価値を何でもいいから高めなくては……。そんな強迫観念に駆られていた、あの頃。とはいえ、孤児であることは然程彼を苦しめてはいなかった。そんなものは、ある事件の副産物に過ぎなかった。

「戻ろうか。」

 ラエルがすっきりした様子で立ち上がる。

「そうね。」

 ミーナも同意して立つと、率先して歩き出した。歩きながら、はたと、ラエルを振り返って言った。

「ねえ、さっきのルイの話だけど……」

 ラエルは覚悟するように、続きを待った。さすがのミーナも勘付いたのだろう、と。

「結局、どういうことなのかしら? 時の城のお爺さんの話と、何か繋がりがあるの? 私には全く別の話にしか聞こえなかったわ。あんたと見た目が似てそうな人がレオンハルトって名前で出てきたことは、分かるんだけど。そもそも、何であんたが魔法の修行のために城を回って歩いて、おまけに千年前と一年前の話を聞かなきゃなんないのか、私には全然理解できない。一年前の『彼』って、誰なの?」

 二人はしばし立ち止まって見つめ合った。

「わからない?」

「わからないわ。」

「全然?」

「全然よ!」

 ラエルは視線を下へ逸らして、笑いを堪えた。目を合わせたら、声をあげて笑ってしまいそうだった。

「千年前の話のことは正直、オレも釈然としないんだ。でも、一年前の話はさあ・・・」

 掌をミーナに向けて、自分の口元を隠してみたが、笑い声はどうにも隠しようがなく、それに気付いたミーナの表情はみるみる険しくなった。

「何よっ!」

「いや、ごめん、ごめん。そうだ! ミーナに面白いもの見せてやろうか。」

 そう言うと、懐からプラチナのチェーンを手繰り寄せ、ペンダントを取り出す。

「ほら、この間、、時の城で言ったろ? オレにはお守りがあるって。」

「それのこと?」

「ああ。」

 ミーナは大きな丸い目を一層大きく見開いて、しげしげとペンダントを眺めた。黒い、竜の姿を彫り込まれたペンダント……。

「えっ! これって、もしかして……!」

 ペンダントへ伸ばされたた手が届く前にさと懐へ戻してしまう。

「一体どういうこと? 何であんたが持ってるわけ?」

 風の城に向かって速足で歩き始めたラエルに追いすがるように、ミーナも小走りをする。

「オレのだから、だろ?」

「あんたのって、それじゃあ……!」

 ミーナが、ようやく事態を把握、とまではいかないまでも、レオンハルトという男とラエルとのつながりを意識できるようになって、驚きの声をあげた。 しかしながら、わけが分からないのは変わらなかった。

 彼にしても、そうなると計算済みの行為であった。からかってやろうとか、そんなつもりは毛頭なく、ヒントくらいは与えてやろうと思ったのだ。旅の道連れであるにも関わらず、彼女だけ何も知らないというのは、気の毒だったから。この後、抑揚のない声が、夜な夜な軽率な行動を罵ってくることであろう。構うものか、とラエルは思った。

「ミーナ、ペンダントのことは、皆には内緒だぞ?」

 言われて、背筋に冷たい雨水が入ったかのようなリアクションを見せる、ミーナ。秘密や内緒と言った、繊細な約束事は彼女にとって苦手な分野であった。それも、承知済み。一応、言ってみただけのことである。

 気付けば、雨はもう上がって雲間に青白い星が輝いていた。夏の夜の通り雨。混乱した心を冷ますのに一役買ってくれたのだった。






     七月二十四日


 次の日の朝。夕べの雨のため湿り気を帯びた風が薄曇りの空に溶けていく中、一行は旅立ちを決めた。氷の神殿があるという子どもたちの故郷ナルシェへ向かうのだ。千年もの間、眠るために生きてきたルイは、長い呪縛から解き放たれた喜びで、この日の天気より晴れやかな面持ちで、子どもたちと一緒に一行を見送った。

「元気でねーっ!」

 見ると、気力まで奪われてしまいそうな、ルイの笑顔。一抹の不安を覚えたアルディスはラエルに呟いた。

「あいつに子どもたちを任せて、本当に大丈夫なのか?」

 ラエルはちらっと後ろを振り返った。五分以上は歩いただろうか。見送る子どもたちの姿が大分小さく見える。そして、飛んだり跳ねたりしながら手を振る子どもたちに囲まれて、負けず劣ら、千切れんばかりに手を振るルイ。常識ある大人は、人の見送りに五分も時間をかけないし、五分も手を振らないものである。しかし、ラエルは平然と言った。

「大丈夫だよ。あいつ、精神年齢は低いけど、知能は高いから。それに、万が一の時は、子どもたちがあいつの世話をしてくれるさ。」

「それじゃあ、意味ないじゃない!」

 ミーナの眉と肩が吊り上がる。相変わらず、冗談が通じない。一同苦笑いでお茶を濁した。ふと、サラが真顔に戻って呟く。

「光の神殿って、今はどうなっているのでしょうか?」

 それを聞いて、皆、各々の思索を巡らせ始めた。

「氷の神殿の宝が持ち出されてなけりゃ、ある程度溶けずに建物自体は維持できてんじゃねぇのか?」

と、キース。

「しかし、補修に当たっていた氷の一族が全員、何らかの状態で神殿内に閉じ込められているのであれば、少なくとも外部の溶解は止められず、いつ崩れてもおかしくない状態になっているのではないか。しかし、一番の問題は、そこに水の一族とやらがいるかどうかだ。」

 アルディスらしい、慎重な意見である。

「宝は盗まれ、村の大人は全滅。神殿は既に水となって、村は水浸しに……」

 身も蓋もないラエルの発想に、非難が矢のごとく飛んでくる。

「縁起でもないこと言わないで!」

「そうですわ! きっと皆さん、無事でいらっしゃいます!」

 詰め寄られ、一歩引き下がりつつも、ラエルは負けじと言い放つ。

「いや、だけど……。オレが言いたいのは、あまり期待しない方がいいんじゃないかってこと! なにがあるか分からないだろう?」

「だとしても、先走って暗い妄想に浸るのも考えものだ。」

 アルディスの冷静な意見に、また一歩引きさがる。

「そうそう! 人生、もっと気楽にいこうぜ! 未来を気に病みながら生きるなんて勿体ない。今を精一杯生きていれば」

 言いながら、キースが妙な顔つきになる。バツが悪そうな、後ろめたそうな顔。そして、すぐに開き直ったように、大きな声で続けるのだ。

「この先は向こうから勝手にやって来るものなんだ。」

 もの覚えの良いアルディスは、その台詞が以前、キース自身が語った昔話の中で使われていたことに思い当たり、気味が悪くなって、視線をあちらへ向けた。サラに気付かれないよう、そっと。今は心を読まれたくなかった。詮索好きな彼女に、余計な質問をさせないために。

 一方、物覚えが良いどころではないラエルに至っては、キースの微妙な表情の変化のせいで、返って暗い妄想に沈まずにいられなかった。それでも、動揺をひた隠し、笑って歩き出した。

「はいはい。わかりました。オレが悪うございました。とにかく、行こう。行けば全てが分かるさ。」

 川沿いをしばらく行ったところで、向こう岸へ渡るための橋であろう、長い丸太が川に架けられ、その先に二日前下へ降りてきたのと同様な急勾配の石段が、やはり手摺りもない状態で崖に刻み込まれているのが見えてきた。皆、黙って通り過ぎたい気持ちで一杯だったが、夕べ子どもたちから受けた説明では避けて通ることができず、致し方なく、丸太を渡り、石段を登り始めた。手荷物は既に携帯コテージにしまってあり、身軽ではあった。それでも、今回は登りのため、恐怖に加えて疲労が一同の足を鈍らせるのだった。

「ちょっとここいらで休憩しよう。」

 スカートが風で捲れるのを気遣いながらの女性陣を更に気遣って、ラエルが号令をかける。一つ目の段丘を登り切ったところ。まだ三分の一も登れていない。休む時間は惜しいが、肉体的にも精神的にも消耗している状態で無理に進んでも、一瞬の気の緩みが命取りとなるこの場において、危険を増すばかりであると判断したのだった。石段に腰かけ、崖の外に足を投げ出し、薄曇りの空がゆっくりと横へ流れてゆく様を、ラエルはぼんやりと仰いだ。それから、風の城の方をちらっと見た。緑の風景の中に殆ど紛れて、小さく見える城。川辺で砂粒みたいな子どもたちが遊んでいるのも見える。たぶん、ルイも混じっているのだろう。

 口元を綻ばせ、下から吹き上げるぬるい風を心地好く受けていると、下の木々の間に何やら白っぽい影をちらほら認めて、真顔になった。あれは……? 複雑な気持ちに心揺れながら、しかし、再び穏やかな表情を取り戻す。それは、あきらめのような、ちょっと拗ねているような、けれど、すっきりしたような、難しい表情だった。そんな彼の耳にくたびれた声が入ってくる。

「ねぇ、氷の神殿って近いって言ってたわよね?」

「ええ。でも、子どもたちの話ではここを登った後も、かなり歩かなければならないようですよ。」

「どこが近いんだかなぁ。」

「仕方なかろう。彼らにとってはリーケットが一番近い街で、風の城はもっと近いのだから。辺境に住む者特有の感覚なのだ。」

 唯一会話に加わっていないラエルに、ミーナが問いを投げかけてくる。

「ラエル。ナルシェまであとどのくらいかかるの?」

 ラエルは空を見たままだ。

「聞きたい?」

「聞きたいわ。」

 少し間を置いて答える。

「あと五日はかかる。」

「五……日?」

 あと何時間と聞いたつもりが、日にちで答えが返ってきて、耳を疑ってしまう。

 一方、アルディスは、静かなラエルの後姿を不安気に見ていた。

 彼にとって、その「五日間」は寄り道に過ぎない。自分たちの、いわば我ままに付き合わされた格好であるにも関わらず、赤の他人の問題を解決するため、身を乗り出し、寧ろ率先して誘うラエル……。恐らく、一日だって無駄にしてよい時間などないはずだ。それを五日も割こうという。言い出しっぺの方が疲れたとか遠いとか不服を申し立てているのに対し、責めの言葉も、ため息すらも聞こえてこない。彼が今振り返ったとしても、きっと優しく微笑んでいるのだ。

 思えばこの二日間、彼が城の寝室のベッドを使用した痕跡はない。昨夜も徹夜で子どもたちとルイのために保存食を作ったり、ボロボロの服を繕ったりしていたのだ。そして、彼と出会ってからというもの、彼が自分自身のために行動する姿をほとんど見たことがない。魔法の修行が彼自身のためだとしても、仲間が寝静まった夜中にしかやらない。仲間が起きている間は仲間の世話ばかり焼いている。道中は仲間を笑わせたり、安心させるようなことを言って聞かせたりするのだ。さっきみたいに、浮足立つ仲間を窘めることはあるけれど、アルディスはそんなラエルが心配でならなかった。


 こいつは、人のために身を滅ぼすタイプだ。

 

 そう思っている横で、自分とはまた別な眼差しでラエルを見つめる男、キースがいた。

「あと、五日か……。」

 ぼそっと呟く、声。何とも安らかで、何とも残念そうで、何とも柔らかい、複雑な表情を孕んだ声。

 アルディスは、胸の奥が不意にひんやりして視線を地面に落とした。と、ラエルが立ち上がり、皆を振り返って呼びかけた。

「さあて。そろそろ行くぞ!」

 思った通りの、笑顔で。




    七月二十八日


 途中、何度も魔物に襲われた一行。その度各々の能力をいかんなく発揮して、撃退してきた。

 サラは、魔物の心を読むのは初めての経験だったが、徐々にコツを掴みつつあった。

 ミーナは……ミーナなりに頑張っている。

 アルディスは、風の流れを多少意識して戦うことを試していた。

 キースは受け身の上手い武術で戦闘を凌ぐことが多かったが、時々炎の魔法を放って見せることもあった。加減しているのだろうが、彼の魔力は確かなもので、しかも手馴れていた。ラエルと違って、前置きもちゃんとある。

「おっしゃあ、オレ様の炎の出番だぜぇ!」

とか、

「紅蓮の炎ってのは、これのことよっ!」

という具合だ。要は、決め台詞なのだろう。

 

 ある意味、すごい特技だよな。

 

 ラエルは素直に感心していた。戦闘中によくもあんな台詞を考える余裕があるものだ、と。

 そして、ラエルはというと、風の城の地下でルイに与えられた試練と、いつの間にか吸収していた風の結晶の影響か(ルイにこっそり確認したところ、彼のペンダントはミーナのロザリオ同様、結晶を失っていた。)風嫌いに関しては克服しつつあり、頻回に風の魔法を発動した。

「はあー、気持ちいいわね。」

 最初、何のことか分からなかった。ある時、魔物を倒した後で、ミーナが思わず言った言葉。まさか、彼女が魔物の死に快感を覚えるはずがない。きょとんとするラエルのために、サラがくすくす笑いながら説明してくれた。

「ラエルさんが風の魔法を使った後、そよ風が吹いて、気持ちいいんです。気付いてました?」

 ラエルは首を横に振った。

「妙な例えですけれど、残り香のようなものなんでしょうね。風の城で、ラエルさんがかまいたちを中和した時と同じ。」

「そうよね!」

 ミーナが同意する。

「それに、アルディスさんが走った後や、剣を振るった後にも、同じようなことが……。」

 サラの、悪戯っぽい笑顔に、アルディスは驚きを禁じ得ない。ミーナがラエルとアルディスを交互に見ながら、目をぱちくりさせる。

「ふうん。自分では分からないものなのねえ。」

 魔法には、自然同様、人を和ませるものもあるのだということを、初めて知った、そんな時……。それを否定するような話を、キースの口から聞くことになるなんて。


「嫌だって言ってるだろう!」

 夜も更けた、コテージ。廊下の奥で、何やらただならぬ声が響く。部屋でくつろいでいたアルディス、サラ、ミーナが何事かと扉を開けると、いつもと様子が違うラエルと、それを追う、これまた様子が違うキースが、足早に三人の目の前を通り過ぎるところだった。キースがふざけてラエルを追い回すのはよくあることだったが、今日のはどうもおかしい。ラエルはこめかみに手を添えながら、苦しげにしていたし、キースは別人のように真剣な面持ちだった。

「何なの? どうしたの?」

 ミーナの問いに、二人は答えない。追随する者には目もくれず、キースがラエルの背に声を投げかける。

「なあ、頼むから聞いてくれよ。オレの話を。真面目な話なんだ。とても大切な話なんだ。」

 ラエルは無言で逃げる。このままでは埒が明かないと踏んだのか、キースは実力行使に出た。ラエルの肩を掴み、無理矢理振り向かせたのだ。その反動か、ラエルの身体がよろめく。キースの両手が、ラエルの肩をしっかりと捉えて離さない。ラエルはその手を振り解くのも忘れて、相手の目を睨んだ。冷や汗の滲んだ、白い肌の上で、緑の瞳が潤んでいる。他の三人は、二人のやり取りを固唾を飲んで見守っていた。

「お前……オレが何も気付いてないと思ってるんだろう? ここ数日の、お前の言動。オレに対して、何か企んでいる。こそこそ、こそこそ……。こんな状態で、真面に話なんか聞けない。」

 絞り出されたラエルの言葉に、アルディスは「ここ数日」のキースの「言動」について、思い返していた。確かに、おかしいところがあるとは、薄々感じてはいたのだが、はたからは彼が何のためにそれをして、それを話すのか、訳が分からない。夜となく、昼となく、キースがしていたこと。本当に些細な、どうでもいいことのようにも思えたから、黙って見過ごしていたのだ。もしかしたら、全て計算づくだったのだろうか。

 テーブルや椅子や、壁などに手をのせて、或は表を歩いている時なら腰に括り付けているナイフの鞘を、指先で、小突くのだ。こつ、こつ、こつ、こつ……と。そういう癖を持っている人は別に珍しくはない。さして、癪に障るものでもなかったから、最初は気にも留めていなかった。彼がその癖をするのは、決まってラエルが背を向けている時で、他の者と会話を興じている時に限られた。話の流れである台詞に到達する際、小突きが始まるのだ。

 内容は一貫して「火は怖いよなぁ」とか、「魔法の火は水をかけたくらいじゃ消えないのもある」とか、「火もとを氷漬けにすれば、確実だ」とか、「火」や「氷」に関連することばかり。直前までの会話と何の脈略もなければ、それがどうしたと突っ込みも入れようが、話の筋から不思議と外れていないため聞き流してしまう。ただ、火や氷に関する言葉に差し掛かると、必ず小突きが始まるという、一定のルールがあることは、アルディスの中でちょっとしたしこりとなって残っていた。何か、意味があるのだろうか、と。

 そんなことを考えていると、不意に、視界の端で震える影が引っかかる。サラが、俯きながら、スカートを握りしめ、小さな肩を震わせている。サラは、キースの、もっとおかしな言動を見てしまっていた。


 それは、四日前。あの段丘を登り切って森をしばらく歩いた後、日が陰って来たので初めて買ったコテージに泊まることになった夜のこと。コテージは木造二階建ての三角屋根。一階は玄関から入ってすぐが居間兼台所となっており、向かって左がラエルの部屋、その奥にシャワールームやトイレなどの水回りが備え付けられている。ラエルの部屋の入り口横からⅠ字型の階段が二階へ伸び、二階には四つ部屋があり、ラエル以外のメンバーに一つずつ当たっている。ちなみに、屋根裏部屋もあって、そこは荷物置き場として使っていて、一階の床下には食料を蓄えておくスペースも確保されていた。

 ここしばらく、ミーナと肩を並べて眠ることが多かったサラは、新しい個室でベッドを独占できてうれしい反面、何となく落ち着かず、なかなか寝付くことができなかった。そして、あれこれと思索を巡らせるうち、イフリートから預けられた紅玉、今にしてみれば九十九%、火の結晶であろうそれのことを思い出し、ベッドから跳ね起きた。時の城でも風の城でも結晶の話はあったが、直に目にすることはなかった。ラエルが結晶を受け取った様子もなければ、結晶について語ることもない。どういうことなのか。彼女が火の結晶を見たところで、何の情報も得られないのは分かっていたが、この二週間バッグにしまったままだったこともあり、気になって取り出してみたくなったのだった。しかし、いくらバッグの中を探っても、結晶は見つからない。サラはみるみる青ざめて、慌てて、かつ静かに部屋を出た。ふらふらした足取りで、一生懸命思い返してみる。アルディスに預けただろうか。いや、違う。鞄から別の所へ移したか。それも違う。辿り着いた答えは、旅の最中、魔物との戦いの混乱に紛れて落としたか、何者かによって盗まれたか、だ。いずれにせよ、なくしたことに変わりはない。

 

  ――どうしよう。何て迂闊な・・・取り返しがつかないわ。


 一番相談するに相応しいアルディスのもとへ真っ先に向かうのが普通の行為なのだろうが、罪の意識で朦朧としたサラの行きついた先は、ラエルの部屋だった。時の城で時空の狭間から救い出してくれたように、手を差し伸べてくれることを、どこかで期待していたのだろうか。

 ドアをノックしようと軽く握った手を掲げると、ドアが僅かに動くのが見えた。きちんと閉まっていなかった上に、窓から夜風が流れ込んでドアを押し開けたのだろう。見るともなしに、隙間を見ると、オレンジ色のぼんやりとした灯りが漏れている。まだ起きているのだと思い、今度はあからさまに覗き込んだ。話しかけて良い状況か確認するため、というより、隙間があったら覗き込むという人の性のためだろう。そして、奇怪なものを見てしまい、息をするのも忘れた。見開かれた黒い瞳に映った物は……。

 中にいたのは、ラエルだけではなかった。キースもいた。ベッドの横に俯き加減で腰かけるラエル。蝋燭の灯るサイドテーブルを挟んで、キースは椅子に座っている。二人ともにこりともせず……ラエルに至っては、魂が抜かれたように虚ろな眼差しで空を見ているのだった。そのラエルに、キースが囁いている。

「いいか? 炎に包まれたら、氷漬けにするんだ。」

 こつ、こつ、こつ、こつ……サイドテーブルをペンで小突きながら……。サラは、キースの行為が何であるか知っていた。父がやっているのを、見たことがあるから。けれど、何故、キースが、何故、ラエルに? そう思うか思わないうちに、キースの顔が、こちらを向いた。サラに気付いても、眉ひとつ、動かさない。彼は静かにドアの方へ……サラの方へ歩み寄って、悲鳴を上げかけた彼女の口を手で封じ、そのままドアの横の壁に押し付けた。恐怖のあまり、もがくことも忘れて、キースの目を見た。蔑みに満ちた、冷たい目を。

「詮索好きも大概にしな。命取りになるぜ。あんたのボーイフレンドに忠告されなかったか?」

 サラは、ここでようやく抵抗を示した。意外にあっさりと、キースの手が解ける。

「わ、私はただ、なくしたものがあって、そのことで……」

 途切れ途切れに釈明するサラの震える小さな声を、キースが一息に飲み込むみたいに遮る。

「ああ、火の結晶か? それならオレが預かっている。」

 ズボンのポケットを探って、取り出して見せたもの。紛れもない、あの紅玉だった。サラが反射的に伸ばした手は、虚しく宙を掻いた。キースのズボンへ瞬く間に納められてしまったから。質問の余地は、一切与えられなかった。

「すっとろい女だな。今頃気付くなんて、やっぱりオレが持ってて正解だ。もし、本当になくしてたんなら、あんた……オレが殺してるぜ。計画の邪魔だ。」

 サラは生まれて初めて人に殺意を抱かれたショックで、頭の中が真っ白になってしまった。真面に物事を考えることもできない。ただ息を荒げて震えるばかりのサラに、キースは追い打ちをかける。

「用が済んだんなら、さっさと行きな。もし、他の奴に喋ったら、その時は……分かってんだろうな? あんたは何も見なかったし、何も聞かなかった。せいぜい、うまく演技しろよ。誰にも怪しまれないように。いいな?」

 サラは返事もしないうちに逃げ出した。過呼吸を起こして首に手を当てよろめきながら、自室のベッドに転がり込み、毛布に包まる。恐怖のあまりにしたことであったが、この行為は過呼吸を治すのに一役買った。と同時に声にならない悲鳴を上げ、やがて糸が切れたようにそのままの姿勢で失神してしまった。

 翌朝目覚めた時から、今日のこの時まで、サラは口を固く閉ざし、心も閉ざした。キースの言いつけ通り、うまく演技するために……。小突きと、火や氷の話が始まっても、微動だにせず、やり過ごした。目で物を言わないように、視線を合わすのも避けた。口数も笑顔も少なくなったサラを皆、気にかけてはいたが、毎日歩き詰めで疲れているのだろう、そっとしておいてやろうと、そんな風にしか考えられなかった。


 ――私は何も知らない。関係ない。

 

 そう自らに言い聞かせるサラ。本心は何も知りたくないし、あんな怖い思いを二度としたくないのだ。だから、心を読むこともしなかった。ラエルに対して何かが画策されいるのは確かだが、サラの正義感と勇気はすっかりいじけて、縮こまってしまって、知らんぷりを決め込んでいた。何もかも、どうでもいい、と。

 イフリートの言っていた使いの者とはキースのことだったのだという考えに甘えもしていた。それが例え責任逃れでしかなくても。呵責が少なくて済むし、都合よかったから……。弱さゆえに狡猾になった自分を内心いつも恥じていたけれど。

 一方、ミーナはいつもの調子で置いてきぼりを食らっている。即ち、部外者のごとく、話題から取り残され、遠ざけられた格好だ。その代り、彼女はこの場にいる誰よりも、キースの素の部分を知ることができていた。彼女にはそういった特技があるのだ。ミーナは道すがら、コテージでの団らん中、果ては就寝前、場所と時を選ばず、キースに話をせがんだ。それは、以前の昔話の続きであったり、或は何の脈略もない疑問への、彼なりの答えであったり、多岐に亘っていた。キースは何の前触れもなく唐突に始まる質問ラッシュにたじろぎもせず、口は悪くとも、適切に、分かりやすく、しかも情熱的に答えてくれるのだった。

 ミーナはキースの話を聞くのがとても楽しみだった。すっかりなついてしまったのである。

 ラエルは二人の光景に、過去の何かを重ねられるような気がして、そっと見守ることが多かった。そこへ、ミーナが目を輝かせて、同意を求めてくるのだ。

「ちょっと、聞いた? ロマンティックよねぇ。」

 キースの風貌に似つかわしくない感想に、眉を顰めると、永遠の少女は不服そうに頬を膨らませるのだった。

「もう、わかんないのねぇ? 愛よ、愛。純愛なのよっ!」

「はあ……オレには血迷った若者が少年に妙な感情を抱いているようにしか……」

と反論しようものなら、大変な剣幕で罵られるのだ。

「あんた、何て歪んだものの見方をするの? 男も女も年の差も関係ない愛ってのがあるでしょ? 世の中にはっ!」

 ラエルは耳の穴に指を突っ込んで苦笑いしてやり過ごすしかなかった。


 ミーナは、キースに不安要素を全く感じていない。故に、この場を何の迷いもなく取り成そうと言うのだ。

「何言ってんのよ、ラエル。話くらい聞いてやんなさいよ。キースがこんなに真剣に頼んでるじゃないの。私も聞きたいから、皆で下へ行きましょう。さあ!」

 強引に背中を押されて、しぶしぶ階下へ降りるラエルと他のメンバーたち。小さなてーぶるを囲むのは気が重いのか、サラは壁際の椅子にちょこんと座り、アルディスは部屋の隅っこに寄りかかって腕組みした。後の三人はテーブルへ。ラエルとキースが向かい合わせに離れて席に着き、ミーナは二人の横、キースに近い方の椅子へ腰かけた。座るなり、テーブルに両肘をついて頭を抱えだしたラエルをみて、さすがのミーナもぎょっとする。

「ちょっと、あんた、大丈夫なの?」

「大丈夫……って言うか、聞かなきゃならないんだろう?」

 少し考えて、ミーナがキースに尋ねてみる。

「ねえ、明日じゃダメなの?」

 キースの首は横に振られた。

「明日は氷の神殿に着くだろう? その前に聞いてもらいたいんだ。」

 ミーナの視線が自分のつむじに刺さっているのを感じ、ラエルは観念して重い頭を擡げた。

「いいよ。これは、痛いんじゃなくって……おかしな感じがしてるだけだから。」

 そう。脳の回路が絡まっているような、起きながらに夢を見ているような違和感を、ここ数日ずっと味わっていたのだ。キースが夜中に自分の部屋を訪れて、それから朝までの記憶がない、その時から……。キースは一つ頷いて、話し始めた。

「よし。話って言うのは、昔話なんだ。この間のとは別の。ラエルも皆も、本当の火の怖さを、魔法の怖さをわかっちゃいない。勘違いしないでくれ。決して気持ちのいいものなんかじゃないんだ。この話を聞いて想像して欲しい。火が、魔法が、いかにして人を奈落の底へ突き落すのか。いかにしてささやかな幸せすらぶち壊すのかを。」






   キースの昔話


 それは、今から千と二十五年前のこと。シザウィーという小さな村で起こりました。シザウィーは魔法アレルギーの人たちが住む、一切の魔法を禁じている村でした。事件の二年前にやって来た青年は、そんな村では異質な存在でしたが、当初の約束通り魔法を使うこともなく、科学による医療を行うことで、村人の役に立っていました。彼は、寿命が短い部族、光の一族で、この時二十二歳。あと数年で命の灯が消えてしまう運命でした。それでも、その運命を受け入れ、むしろこの村で最期を迎えられることを喜び、感謝するのでした。幸せな最期であることを疑いもせず。

 ある夏の昼下がり。村人の診療が一段落して、思い切り伸びをしている彼の耳に、突如飛び込んできた怒号。

「帰れ、帰れ! もう二度と来るな!」

 何事かと窓から表を見ると、白ずくめの一団が村長の家から追い出されているところでした。その中の一人と目が合って、彼は反射的に身を隠しました。少し経って、連中が村から出て行くのを確認してから、彼は村長の家を尋ねました。

「村長、彼らは……」

 興奮を冷まそうとパイプを強かに吸う村長は、この季節に凍えそうな彼を横目に、首を振り振り、煙で一杯の口を開きました。

「何、あいつらだって、自己紹介くらいはしたさ。お前の故郷からきたってな。しかし、あれがおまえと同じ部族だなんて、信じられん。何かの間違いじゃないのか?」

 再びパイプを咥える村長に、彼は聞きました。

「それで、彼らは村長に、何と?」

 村長の鼻と口から、煙が勢いよく飛び出しました。

「ふん! あいつら、お前を嫁にくれ、だと。」

 そんなことではないかと、彼も思っていたのです。俯く彼に、村長は続けました。

「そりゃあ、お前が普通の女の子なら、考えもするさ。しかし、お前の心は完全に男だ。この二年でオレもよく分かった。だから、あいつらに言い聞かせてやったんだ。そっとしておいてやれって。だが、あいつら食い下がってきやがる。で、しまいには本音を漏らしたのさ。純血をこのまま死なせるわけにはいかない。少しでも多くの子孫を残してもらわなくては、だと。たった一人で、しかもあと数年しか生きられないってのに、たかだか二、三人の子孫を増やしたからって、焼け石に水だろうとオレは言ったさ。第一、男と所帯持つなんざ、無理だってな。そこで、あいつら、何て言ったと思う? 連れて来てくれさえすれば、あとはこちらで何とかするだと! 全く、反吐が出る! あいつら、きっと魔法やら薬やらを使って、お前を小作りマシーンにでもしようとしてるんだ! 種の保存かなんか知らねえが、真面な人間の考えるこっちゃねえ。狂ってやがるぜ!」

 彼は悲しそうに言いました。

「実は、あの中の一人は幼い頃、親同士が決めた許婚なんです。故郷を出る時にはっきり断ったのですが……。」

 村長はパイプを持っていない方の手で頭を抱えながら、何度も頷きました。

「ああ、あの、女の腐ったような奴か! オレが女でもあんなのはお断りだ! 惚れた女を取り返したいなら、自分一人で、本人に直接アタックするのが筋だろうが! それを、あんな大勢で、しかも連れて来てくれとは何事だ? 情けないったらありゃしねえ。恥を知れってんだ!」

 バン!と机を叩く村長でした。

 許婚が直接彼のもとへやって来なかったのは、ちゃんとした理由がありました。彼は、光の一族随一の魔法使いで、大天才だったわけですから、力づくで連れ帰るにも敵うはずがなく、言葉で説得しようにも上手くいくはずがないのです。結局、彼が心を許している村人、強いては村人中で一番、彼に言うことを聞かせられそうな村長に縋るしかなかったのです。その目論見は失敗でしたが、彼は胸騒ぎがしてなりませんでした。自分のせいで村に迷惑がかかるのではないか、と。でも、村長は言いました。

「なあに、心配するな。あんな奴ら、屁でもねえや。それに、お前がいなくなったら、誰が病人を診てくれるんだ? お前はこの村に必要なんだ。大事な村人の一人なんだよ。その村人を守るのが、オレの仕事だ。いいな! 身を引こうとか、変な気を起こすんじゃねえぞ!」

 彼は村長の言葉が嬉しくて、凍えた体も春の日差しで温められるようでした。


 このことと前後して、彼のもとを何度となく訪れる別の集団がいました。揃いで生成りのマントを纏っていますが、中は各々、適当な服を着ていて、見た目は光の一族と数段劣る彼らが言うには、自分たちは科学者であり、神を造る研究をしている、魔法を使える者がいないので、是非力になって欲しいと、こうです。彼は呆れて聞いたものでした。

「神様なんか造ってどうするんだ?」

 すると、科学者はつらっと言うのです。

「別に、どうもしないさ。オレたちは魔法を使えない。だから魔法を使える部族に凄く憧れているんだ。で、いろんな部族を研究しているうちに、ふと、思ったわけだ。全ての部族の力を併せ持った存在がいたら、って。きっと、神と呼んで差し支えないと思うんだ、それは。」

 彼は鼻で笑いました。

「ふん。全ての部族の力が使えたら神か? そういう奴なら既に何人かいるし、オレもその一人だ。オレは、神か?」

 科学者は大まじめです。

「いや、そうじゃない。そういうことじゃないんだ。あんたは光の一族だから、光の魔法がメインにくるだろう? 得意も不得意もなく、全ての魔法が同等に、無尽蔵に使えるんだ、オレたちが求めている神ってのは。確かに、あんたはイメージとしてかなり近いぜ? でも、あんたには神の素質で決定的に欠けるものがある。それは寿命の短さだ。」

 彼は苦笑しました。

「はっきり言ってくれるじゃないか。てことは何か? 全ての部族の力を無尽蔵に使えて、その上永遠の命を持った人間を造りたいって言うのか?」

 科学者の目に迷いはありません。

「そうだ。人はそれを、神と呼ぶだろう?」

 彼はすっかり気分を害して、言いました。

「馬鹿馬鹿しい。これといった目的もなく、ただ造ってみたいからって、よくもそんな大それたこと、いけしゃあしゃあと言えたもんだな? 恥ずかしい……いや、恐ろしいよ、同じ人間として。ろくでもない研究をする暇があったら、もっと別な、世のため人のためになることに労力を注げよ。」

 科学者は食い下がります。

「でも、だけど、あんたが二年前に学会で発表した論文、読ませてもらったんだが、あれで取り上げられた問題を解決することにもなるんだぜ? この世界には、神が必要なんだ!」

 彼は目を閉じ、首を振りました。

「オレはもう、その件に関しては忘れてしまいたいんだ。知ってるだろ? あと数年の命だ。せめて残りの人生は静かに、平穏に

過ごしたいんだ。神様づくりは別の者を当たってくれ。止めはしないから。」

 科学者は興奮気味に訴えます。

「あんたでなきゃ、ダメなんだよ! 魔法が使えて、知識も豊富で、発想も優れていて、おまけにシザウィーの村人みたいに魔法も使えないものでも蔑視せず、対等に渡り合える奴なんて、そうそういない。」

 彼は立ち上がって、後ろの窓へ目を向けました。

「はっ! ここの人たちは魔法を使えないんじゃない。使わないんだ。いっそのこと、おかしな研究なんかやめて、ここで暮らしてみたらどうだ? 心が洗われてすっきりするかもしれないぞ。」

 科学者は残念そうに席を立ち、しかし、こう言いました。

「オレたちから研究を取ったら、何も残らない。続けていくしかないんだ。今日のところはこれで帰るけど、また立ち寄らせてもらうよ。近くにオレたちの研究所……アジトって呼んでるんだけど、そこにいるから、気が変わったらあんたも来てくれよな。」

 診療所の入り口から、科学者たちが帰るのを見届けていると、村長が彼に声を掛けました。

「何だ、あいつらは?」

 彼は少し笑って答えました。

「神を造るんだそうですよ。」

 村長はぎょっとして言いました。

「罰当たりなことを……! もう来ないんだろうな?」

 彼はさらに笑いました。

「いいえ、懲りずに来るって言ってました。」

 村長は不思議な面持ちになって、彼を見つめました。

「お前、楽しそうだな?」

「楽しそうだなんて……でも、彼ら、悪い奴ではないんですよ。根が真面目で実直なんです。人に危害を加えるような質でもないし。魔法を使えないっていう劣等感が、あんなことを考えさせたんでしょう? ない物ねだりですからね、人は。彼らの気持ち、分からないでもないんです。オレも、二年前まで、仲間の寿命を延ばしたいなんて思ってたから。永遠までは望まないけれど、せめて人並みに近づけたいって。でも……もう、いいんです。運命に逆らって抗うより、一日一日を大切に生きていくことの方が、よっぽど尊くて意味のあることだって気付いたから。」

 この時の彼は、まだ知らなかったのです。自分の運命がとんでもない方向へ転がっていくことなんて。

 それからというもの、科学者たちは最初の予言通り、幾度となくやって来ました。その度、軽くあしらわれて承諾を得られないまま帰って行くのですが、一週間後にはまた現れるしつこさです。魔法は使えないし、憎めない性格でもあったので、村人にもすっかりお馴染みになって、「また来たのか、懲りないねぇ。」「先生のタイプじゃないんだ、諦めな。」などと声を掛けられたり、時には食事に呼ばれたり、仕事を手伝わされたりするなど、半分村人の一員みたいな扱いを受けるようになっていきました。


 こうして、日々はあっという間に過ぎ、光の一族が訪れたことなど忘れ去っていた、夏の終わりのこと。村へ、一人の女性が、泣きながら駆け込んできました。齢の頃は三十くらいでしょうか? まとめ髪は乱れて解れ、服はお世辞にも上等とは言えない代物。靴も履き潰され、穴が開いているものを、無理矢理履いている有様です。村人がびっくりして声を掛ける前に、女性は石に躓いて転んでしまいました。

「ちょっと、あんた、大丈夫かい?」

 村人に抱き起された女性は、汗と涙でべとべとになった顔を上げて、叫びました。

「お医者様は……お医者様はどちらですか? 息子が死にそうなんです。助けてください!」

 この村に医者は一人しかいません。村の子どもたちが彼の手を引いて、女性のもとへ連れて来ました。彼は地べたに座り込む女性の横に屈んで、ハンカチで顔を拭いてあげました。

「落ち着いてください。息子さんは今、どういう状態で、どこにいるんですか?」

 女性は半狂乱で答えました。

「分からないんです! 朝は元気だったのに、遊びに行ってすぐ倒れたって、他所の人が内に運んできてくれて、見たら、血を吐いてて……! それで……それで……!」

 顔を覆って泣き出す女性に、もう一度聞きました。

「息子さんは、どこにいるんですか?」

 泣きながら女性は答えます。

「家に……うっ、家はここから北へずっと行ったところに……カレタっていう村の……」

 周りで話を聞いていた村人たちが、どよめきの声をあげました。

「カレタって、ずいぶん遠くから……!」

「大人の足でも半日はかかるぞ」

「ここも辺鄙な村だからのぉ」

 彼は、村長の顔を見上げました。不安そうな彼に、村長は腕組みしながら力強く言いました。

「村の馬車を使えば、二、三時間で着くだろう? 言ってやれ。」

 その言葉で励まされた彼は、診療所へ急いで引き返し、準備をして表へ出ました。村人が用意してくれた馬車に女性を乗せ、自分は馭者台に座って、手綱を握り、馬を走らせました。村長が大声で彼に向って叫びます。

「村の外へ出たら、魔法を使っていいからな!」

 これが彼の聞いた村長の最後の声になるなんて、誰が想像したでしょう?

 カレタへ着いて、早速女性の息子に治療を施した彼。科学の力では間に合わないと判断し、魔法を二年ぶりで使うことになりました。処置が終わった頃には、西日が地平線に近づいて、空をオレンジ色に染めようとしていました。少年の命を救ったにも関わらず、彼はにこりともしません。腑に落ちないのです。少年は確かに、瀕死の重傷でした。胃壁がナイフで切られたみたいに、スパッと切れていて、そこから血が溢れて、あと三十分着くのが遅かったら、助からなかったでしょう。問題はこの傷が明らかに魔法でつけられたものだということ。その上に魔法で応急処置をされていたこと。彼は安らかな寝息を立てる少年にそっと毛布をかけてあげながら、母親に尋ねました。

「この子の傷……応急処置をされていたみたいですけど……」

 今度は安堵と喜びのために涙を流す彼女は笑顔で答えました。

「そうなんです! 息子が倒れた時に偶然居合わせた旅の方が、家まで運んでくれて、しかもその方は魔法使いで、治そうとしてくれたんです。でも、自分の力では止血くらいしかできない、このまま放っておいたら死んでしまうと……。それで、あなたのことを教えてくださったんです。あなたなら治せると。」

 彼は青ざめて、なおも尋ねました。

「その人は、どんな人でしたか?」

 彼女は上目づかいで思い出そうとしています。

「えーと……白ずくめっていうのかしらねぇ。白のマントに白のブーツで……切れ長の目が印象的な、きれいな顔立ちの人でしたよ。あなた程ではないけれど。あっ、そうそう! 昔、光の一族を見たことがあるんですけどね、ああいう感じの……あら? そう言えば、戻ってくるまで息子を見ててくれるって言ってたのに、どこに行ったのかしら?」

 彼女が話し終えるより先に、彼は表へ飛び出していました。彼女が言うことから察するに、これはあの許婚が仕組んだことに違いありません。自分を村から遠ざけて、村に何かする気だ!と、気が気ではありません。馬と馬車を離し、鞍も付いていない馬に跨って、シザウィーへ向けて走りました。途中、馬を走らせるのもまどろっこしくなり、飛び降りて彼は難易度が高く、自他共に危険を伴うため人間界での使用を禁じられている空間転移の魔法を使いました。手段を選んでなどいられなかったのです。

 しかし、彼が村の入り口に現れた時には、もう手遅れでした。きな臭い臭いと共に、村を覆い尽くすのは、濛々と立ち込める煙と、渦巻く炎でした。側に生成りのマントを羽織った男が数人立っていて、以前から何度も彼を訪れた科学者たちなのですが、茫然としている彼らの一人の胸ぐらを掴んで怒鳴りました。

「お前たちか? お前たちがやったのか?」

 科学者は首をぶんぶん振りました。

「違うっ! オレたちじゃねぇよ! だいたい、炎の色を見ろよ! 青いだろう? 完全燃焼だ。魔法でもなけりゃ、こんなことできないぜ? オレたちが来た時には、もう手の付けようがなかった。本当だ!」

 彼は科学者をかなぐり捨てるように放り出し、村に向かって意識を集中させました。と、途端に煙も炎も弱まって、地面に吸い込まれるように、もしくは空気に溶けるように消えてしまいました。後に残ったのは焼け焦げた建物の残骸と、それから……。まだ熱気の強くこもる村を彼は走り出しました。

「おい!」

 科学者の止めようとする声など耳に入りません。彼は元、村長の家があった場所で立ち止まりました。そこには、大小様々の焼死体が沢山転がっていました。恐らく、村人のほとんど全員がここへ集まったのでしょう。一人も逃がさないよう、村の周囲から火を点けられて、炎に追われた村人たちは、村の中心にある村長の家に行くしかなくなって……。彼は、誰とも判別できない遺体を抱き上げて、呼びかけました。

「しっかり、しっかりするんだ! 今、助けてやるから……」

 彼を追いかけてきた科学者たちはびっくりして、彼の肩に手をかけ、揺すりました。

「おい、よせよ! もう死んでる! 骨になっちまってるんだぞ!」

「うるさい!」

 科学者の手を跳ね除けた、その掌は火傷して真っ赤にただれていました。科学者たちは、そんな彼の背中を、ただ見ているしかありませんでした。今にして思えば、彼はこの時既に、彼の心は壊れてしまっていたのです。

 それから間もなく、極度の疲労とショックのため気絶して倒れた彼を、科学者たちは自分たちのアジトへ運び込み、ベッドに寝かせてやりました。

 その日の夜、一人が様子を見に、寝室のドアを開けると、そこにいるはずの彼が、影も形もありません。仲間に知らせたところで、どうしようもなく……。


 彼は空間転移の魔法を再び使って、生まれ故郷へやって来ていました。そして、空高く舞い上がり、月の光を全身に纏わせながら、手あたり次第、建物に白い炎を叩きつけていきました。青い炎より数段上の炎です。光の一族の悲鳴が、夜空に響き渡り、白い炎があんまり眩しすぎて、太陽が地上に新しくできたみたいでした。中には彼へ反撃の魔法を試みる者もいましたが、届く前に悉く撃破され、そしれ彼の強烈なレーザー光線で撃たれて、あえなく蒸発してしまうのでした。ある程度火が回ったところで、彼は空間転移しました。許婚だけは直接手にかけないと気が済まなかったのです。許婚は、自分の家の片隅で、蹲ってガタガタ震えていました。彼は問いかけました。

「何故だ? 何故、村人を皆殺しにした? 魔法に対して露ほどの抵抗もできない人たちに、何故?」

 立ち上がりざま振り返る許婚は、涙で濡れていました。

「違う、違うんだ。あれは間違いなんだ。殺す気なんかなかったんだ。お前を追い出したくなるように、ちょっと脅してやるつもりだったんだ。だけど、村の人たちは全然降参しないし、石は投げつけてくるし、オレたちは村の外で待つことにしたんだ。そのうち諦めて出てくるだろうと思って。ところが、あの辺は日照り続きで家屋も乾燥してて、ものすごく燃えやすくなっていたし、おまけに急に強風が吹き始めたんだ。炎は瞬く間に燃え広がって、消そうと思った時には、もう……! オレたちの力じゃ、どうしようもなかったんだ!」

 許婚の震えと涙は、罪の意識からきていたものだったのです。彼はそんな許婚の首を両手で掴みました。吸い寄せられるみたいに。彼の目からも涙が溢れ、熱を帯びた床に落ちては蒸発し、落ちては蒸発しました。

「消せもしない炎なんか、どうして使ったんだ! 自分で制御できないんなら、初めから魔法なんか使わなければいい!」

 許婚は、抗いもせず、声を絞り出しました。

「オレはただ……お前と……一緒になりたくて……。好きだったから……。でも、もういい……。あんなに沢山の人を殺してしまって、オレ……オレは……お前に殺された方が……」

 続きを聞きたくなくて、絞める力を強めました。程なくして、許婚の痙攣が止まり、首がガクンと垂れました。建物に火が回って、焼き崩れる中、彼は叫びました。断末魔の叫びさながらに。


 いつ、どのようにしてか分かりませんが、彼は科学者たちのアジトへ戻ってきていました。早朝のことです。長いプラチナブロンドがところどころ焦げて縮れているのを見て、科学者たちは何かを悟って恐ろしくなり、凍り付いたように押し黙りました。すると、呆けたように窓の外を見つめていた彼が、不意に口を開きました。

「神を……」

 えっ?と皆、一歩後ずさりしながら、固唾を飲んで続きを待ちました。

「神を造るんだって、言ってたな?」

 一人が怯えつつ、答えます。

「あ、ああ。」

 彼は睫毛を一つ、ゆっくりと瞬かせ言いました。

「その計画、乗ってやるよ。」

 皆、顔を見合わせました。

「でも、オレが造りたいのは、神って言うより……」

「え?」

 彼は小さく鼻で笑いました。

「いや。何でもない。だけど、やるからには、徹底的にやりたい。オレの寿命はもって三年てところだ。急がないとな。お前たちのペースに合わせていたら、完成を見ずに死んでしまう。何を言いたいか分かるか? オレが先頭に立って計画を進めるから、お前たちはオレの言う通りに動くんだ。……文句あるか?」

 振り向いた彼の顔は、朝焼けに染まって美しかったけれど、有無を言わさぬ強さがあって、それに殺気を帯びているようでした。文句なんか言ったら、殺されるのではないかと本気で思わせる程鬼気迫っていたのです。

 でも、彼らとしては願ったり叶ったり。二つ返事で承諾し、一人ひとり握手を交わすのでした。こうして、彼の計画は走り出しました。異論を唱える者はなく、疑問すら覚えず。まさか、彼が神以外の存在を造り出そうとしていたなんて、知る由もなく……。






「神以外の存在って……?」

 重苦しい沈黙を破ったのはミーナだった。キースは伏し目がちにテーブルを見つめていた。

「それはまた、他の奴が話してくれる。オレが言えるのはここまでだ。」

 そう答えると、大人しく自分の話に耳を傾けてくれたラエルへ、半ば睨むように視線を向けた。

「分かったか? 魔法はただ、使えればいいってもんじゃない。制御できなければただの災害なんだ。特に、火は一歩使い方を間違えると多くの命を奪うことになり兼ねない。お前は、水や氷の魔法があれば、火を消せると思っているんだろうが、それだけじゃダメなんだ。さっきの話に出てきた許婚だって、自分で出した火を消せなかったし、光の一族たちだって、たった一人に放たれた炎をどうにもできず、全滅しただろう? その火に見合った威力の水や氷、或は別の魔法がいるってことさ。それを体得するまでは火の魔法なんか、なまじ使わない方がいい。何故なら、お前は既に……白い炎を繰り出す魔力を持ってしまっている。火の魔法は一般に、魔法の初歩として安易に広まっているが、それは大きな勘違いなんだ。火を使う前に、それを消す魔法が必要なんだ。順番が逆なんだよ。だkら、お前は明日、氷の神殿で、白い炎を消すほどの冷たさ、絶対零度のセンスを身に付けなきゃならない。同じ悲劇を起こす前に、な。」

 ラエルは適当な言葉を探しきれず、ただキースの真剣な眼差しを見つめ返していた。

 ここ数日でようやく魔法嫌い、自然嫌いから抜け出せそうな、心を開けそうな気がしていたのに、それこそ水をかけられた思いだった。


 オレは、この先、魔法を覚えていっていいのだろうか? そもそも、人間が魔法なんて力を持つことは許されないんじゃないのか?

 

 そんな問いが、頭から離れなかった。






    七月二十九日


 次の日の朝、外は深い霧が立ち込めて、とても出掛けられる状態ではなく、一行は出発時刻を遅らせることにした。生ぬるい湿った風が流れていくのを、アルディスは一人表で眺めていた。さっきまで皆とコテージで茶を飲みながら、霧が晴れるのを待っていたのだが、誰もが黙して沈んでいるというか、緊張しているというか、昨夜の暗い雰囲気を引きづっていたのに耐えかねて、出てきてしまったのだ。ややしばらくして、足音が一つ近づくのが聞こえて、振り返った。キースだった。彼はにこやかに、そして穏やかに話しかけてきた。

「よお。霧は晴れそうか?」

 アルディスは面白くなさそうに答えた。

「さあな。だが、風も吹いていることだから、そのうち晴れるだろう。」

 視点も定まらない、白の空間に向かって腕組みしているアルディスの横に立って、ズボンのポケットに両手を突っ込み、キースははにかむように笑った。それは、困っているようにも見えた。

「あのさ、アルディス。オレ、あんたのガールフレンドに、ちょいと悪いことしちまったんだ・・・って、別に悪戯したとか、そういうんじゃないぜ?」

 サラの暗い顔が脳裏に過ぎって、アルディスの眉間に皺が寄る。

「当たり前だ! そんなことがあろうものなら、お前を縦に二等分だ!」

 キースは鼻の下を人差し指で擦って、石を蹴る素振りをした。

「いや、何。彼女、見ちゃならんものを見たのさ。オレはそれを黙っててもらうために、少々きつい言葉で釘を刺した。その薬が効きすぎたみたいでな。あんた、後で謝っといてくれないか? 傷つけるようなことを言って済まなかったって。本気じゃないんだって。」

「後とは、いつだ? お前が直接そう言えば済むではないか。」

 アルディスの疑問に、キースは首を振って、流した。

「それからさ、あの子……ラエルにも、言っといてくれよ。誰も悪くないんだって。これは、オレが望んでしたことなんだって。一緒に旅ができて、幸せだったってさ。」

 アルディスは切れ長の目をかっ開いて、組んでいた腕を思わず解いた。

「お前……何を言って……!」

 そこへ、背後から、ラエルの声が割り込んでくる。

「おーい。そろそろ行こうか。」

 見ると、辺りに充満していた白い帳が大分薄れて、木立の影が見えるようになってきていた。

「よし、行こうぜ!」

 キースが拳をもう一方の掌にパチンと当て、元気に歩き出した。アルディスはキースの背中に茫然と視線を注いだ。ルイの言葉を思い出しながら。


 誰も悪くないんだって、信じ込ませてあげてね。


 嫌な予感が、彼の足を竦ませた。一体、この先に何が待ち受けていると言うのだろうか?


 一行が歩を進めていくうち、霧はすっかり消え失せて、濃い緑の鬱蒼とした森林がその姿を露わにしていた。じめじめとぬかるんだ獣道。しっとり霧に濡れる雑草。密集して重なり合う木の葉から、僅かに漏れる陽光。そして……徐々に冷気を帯びてゆく空気。涼しさが、寒さに変わり始めた頃、前方に青白い空間が広がっているのが見えてきて、一行は足を止めた。気付けば、辺りの木々は常緑樹以外、葉を落として、枝が剥き出しになっていたし、枯葉の絨毯は霜が降りて踏むとキシキシ音を立てるのだ。誰もが体感している以上の寒さに見舞われた。子どもたちの情報と、若干の食い違いがある。この現実が、恐怖となって皆を震え上がらせた。

 とにかく、防寒対策をしようということになり、服を、動きが邪魔にならない程度に着込み、マントに身を包んでフードを被った。そして、恐る恐る前進していった。信じられない光景に目を?きながら。

 ナルシェは、真夏の直射日光を燦々と浴びながら、凍てつき、神々しいまでに輝いていた。空気全体がキラキラと宝石を散らしたように光っている。ダイヤモンド・ダストだ。あまりの眩しさに全開にしていた目を一斉に細めるや否や、きゃっ、という短い悲鳴とほぼ同時に、ドスンと鈍い振動が起こる。

「いっ……たあーい!」

 ミーナが凍った路面に足を滑らせ、転んだのだ。

「大丈夫か?」

 ラエルが腕を掴んで、立ち上がるのを手伝ってやった。そう言う彼の足元も覚束ない。やっとのことで、ミーナを立たせる。

「ふう……これは、難儀だぞ。あそこまで結構距離があるし。皆、慎重に行こう。辿り着くまでに怪我しそうだよ、全く。」

 うんざりしながら、「あそこ」を見た。村の中央部に建つ、巨大な建造物。ガラスの塊のようなそれは、ギラギラした鋭い光を乱反射させ、来る者近づく者を威嚇しているみたいだった。

「あれが、氷の神殿……?」

「溶けているようには見えないな。」

 おっかなびっくり、進む一行。慣れてきて、歩く姿に余裕が出てきたと思ったら、冷気の発信源が氷の神殿であることを体で認識し、足取りに躊躇いが生じてしまうのだった。果たして、人間が立ち入ることのできる環境だろうか、と。歯をガチガチ鳴らす皆に、キースがやはり震えながら言った。

「オーケー! 皆、ちょっと待ちな。」

 マントから手を出し、指先に意識を集中させる。と、黄色い光の粒が浮かび上がり、それを皆のマントに振りかけていった。ラエルはあからさまに嫌な顔をして逃げようとすらしたが、踏みとどまった。

「あんた、本当に魔法嫌いなのね。」

 ミーナが呆れて言う。魔法の感触に身の毛をよだたせながらも、ラエルはマントに起こった変化には素直に喜んだ。

「冷気を跳ね返す魔法さ。これなら、氷の神殿に入っても大丈夫だろ?」

 大丈夫は言い過ぎだ、とラエルは思ったが、口には出さなかった。

 神殿の入り口にようやく辿り着いて、上を仰ぐ一行。

「溶けるどころか……」

「カチンコチンだな。」

「どういうことだと思う?」

「分からない。宝の力か、村人の力か、それとも……」

「入ってみれば、はっきりするさ。」

 神殿内部は広々とした銀世界。光を透過して美しく輝いている。氷のブロックがきっちりと積み上げられ敷き詰められて、一縷の隙間もない。入り口から祭壇にかけて、真紅の細長い絨毯が真っ直ぐに敷かれていて、やはり凍っていた。

「一度、溶けた氷の水分を吸って、再び凍ったって感じだな。」

 ラエルは独り言のように言った。よく見ると、吹き抜けの天井からは太く長い氷柱が、牙を?くみたいに無数に垂れ下がって、非常に危険な状態だった。壁面に張り付いている薄い波型模様は、表面が一旦溶けて冷え固まったものだと容易に推測できた。子どもたちが言っていた通り、氷の神殿は溶けかかっていた。そして、それを真夏の炎天下にびくともしない程、強固に凍らせ、今もなお持続的に魔法をかけている者がいる。一体、誰が? 赤い絨毯で作られたラインを手繰り寄せるように歩いていく。その先の祭壇に立つものは……?

 次第とはっきりしていく、祭壇周囲の状況に、一同は愕然として足を止めた。祭壇の後ろの壁際に、ずらりと並べられた氷像。あまりに精巧過ぎる、人型の氷像……。

「まさか……?」

 再び歩き始め、誰もが嫌な予感に胸を高鳴らせた。

「そんな……!」

 それは、氷像ではなかった。氷漬けにされた人間そのもの。堅い氷の膜に閉じ込められて、悲痛な表情で微動だにしない、村の大人たちだった。近づいて、触れようとするミーナに、呼びかける、けだるい声。

「触らない方がいいわよ? もっとも、あなたもそうなりたいのなら、止めないけど。」

 祭壇の裏で、衣擦れの音がする。陰になっていて分からなかったが、ベッド(それも氷漬けだった)に横たわっていた女が起き上がろうとしている。皆、反射的に飛びずさった。女は背型髙く、痩せていた。そして、全てが銀色に透き通り、艶々と光っていた。しなやかな動きは、氷というよりむしろ水を思わせた。床まで届きそうな長い髪に長いドレス。不敵な笑みを浮かべて、銀色の目で一同を見つめている。何て冷たい目なのだろうと、皆思った。

「この一年間、暇で暇で仕方なかったわ。遊び相手がずっと欲しかったの。」

 ミーナは興奮気味に叫んだ。

「あ、あんた誰? 何なの!」

 女の口元が陰惨に歪む。

「私? 私に名前はないわ。でも、人間には、こう呼ばれているの。氷の妖精クリスタと。」

 妖精という響きに驚きを隠せない。魔物か妖魔だと思っていたから。女からはそれだけ禍々しい気配が漂っていた。

「村の人たちに何をした!」

 ラエルの憤る様を、寧ろ嬉しそうに見る、クリスタ。

「見ての通り、凍らせたのよ。殺したわけじゃないわ。生きててくれなきゃ困るもの。精神を吸い取れなくなるでしょ?」

 一同は頭の中が真っ白になった。衝撃と怒りのために。クリスタは笑っている。

「精神て、本当に気持ちいいわ。そうでもなきゃ、こんなことやってられないわよ。氷の結晶欲しさにやってくる人間をただ待ってるなんて。」

 電気が走ったように、一瞬身を震わせたラエル。

「結晶? 宝って、結晶なのか。まさか、お前も昔話を?」

 意外だったのか、クリスタの銀色の顔から笑みが消えた。

「昔話? 何のことか知らないけど、私はただ、プラチナブロンドにエメラルドの瞳を持った人間を生け捕りにして、連れて来いって言われてるの。あなたのことよね?」

 誰に?と質問する間はなかった。

 クリスタの身体に冷気が纏わりついて、どんどん増殖していく。危険を感じて、ラエルは叫んだ。

「皆、離れろ!」

 言った自分も走る。しかし、床は氷の鏡。滑り止めのついたブーツでも、全力疾走は無理である。のろのろと遠ざかったり、慌てて転んだり、わざと滑りながら進んだりする一同の姿は、この緊急時において、憐れで滑稽であった。そして、化け物の攻撃から逃れられるわけもない。クリスタは鼻から冷気を思い切り吸い込んで、頬を膨らませ、一気に吐き出した。白い煙のような、湯気のようなものが、一行に襲いかかる。ラエルは指を打ち鳴らし、風の魔法で冷気を跳ね返した。クリスタは自分の冷気を受けたところで、もちろんびくともしない。残酷な笑いで、銀の歯を剥き出している。

「ふふふ。その防ぎ方、正解ね。だって火の魔法なんか使ってごらんなさい? 急激な温度変化のせいで折れた氷柱が落ちてきて、皆串刺しよ。この子たちも割れちゃうでしょうね。」

 この子たちとは、凍らされた村人のことだった。ラエルは村人を見回し、次いで仲間を見回した。サラは転んだ拍子にマントが床に張り付いて動けなくなっていた。剥がそうと必死に引っ張っている。アルディスがそろそろと近づいて、剣を振るった。マントのくっついた部分が切り離され、サラは自由になった。サラを立たせつつ、アルディスが叫ぶ。

「ラエル、取り敢えず、床を走れる状態にするんだ!」

 困惑しながらも、ラエルは凍れる床を睨み、考えた。

「分かった! 皆、その場を動くなよ!」

 ラエルを起点に、床の表面に細かい亀裂がはいり、仲間の足元だけ避けてピシピシ砕けていった。かまいたちの応用らしい。

「まだ走りにくいけど、さっきよりはましになったろう?」

 ラエルの言葉を受けて、アルディスが、よし!と駆け出した。いつもより数段遅いが、一般人よりははるかに速い。クリスタは歯ぎしりで迎え撃つ。

「私の芸術を、よくも滅茶苦茶にしてくれたわね!」

 両腕を突き出し、全ての爪の先から氷の矢を放つ。アルディスの剣が、右へ左へとそれを薙ぎ払い、クリスタの銀の腕を肘のあたりで斬り落とした。腕は、ごとん、と音を立て転がった。彼女に痛みはないらしく、残った腕でアルディスを殴ろうと振回した。アルディスは横っ飛びで躱す。と、クリスタの腕の切断面から、水があふれるように流れ出て、すぐに冷え固まった。指先まで完全に復活してしまったのだ。アルディスは眉を一瞬顰め、再び彼女に斬りかかった。今度は首筋から斜めに斬り下ろしてみる。ズズズ・・・と頭の付いた方が滑り落ち、そして、残された胴体の切断面に水が湧き出して、またもや再生されてしまった。クリスタは勝ち誇って微笑んだ。

「無駄よ! こんなことじゃ、私は死なない!」

 彼女の掌から氷の粒子が猛烈に吹き付けられる。ブリザードだ。ラエルは咄嗟に風で防御しながら、上を見た。風圧で氷柱が落ちてくるのではないかと気が気ではない。

「ラエル、あいつは多分、熱で溶かさなきゃなんねぇんだ!」

 キースの助言に、ムッとして怒鳴る。

「そんなの、最初から分かってる! 氷の化け物だからな。だけど、あいつが溶ける程の炎なんか使ったら、氷柱が落ちてくるじゃないか!」

 キースは強く首を振った。

「敵の言うことなんか真に受けるな! あいつはただ、火の魔法をかけられたくなくて、そう思い込ませようとしているだけだ! それにもし、落ちてきても、オレとアルディスが村人にも仲間にも当たらないように食い止めるさ! それとも、オレがやってやろうか?」

 ラエルも首を振った。悲痛な表情で震えている。

「ダメだ! 村人に炎がかかってしまったら……それこそ、割れる!」

 それを聞いたキースは、静かにラエルへと歩み寄り、両肩を掴んだ。昨夜と同じように。そして、目を見ながら、ゆっくりと言った。

「いいか? ラエル。オレが昨日お前に伝えたかったのは、火や魔法を恐れることじゃないんだ。確実に使いこなせるように制御できるように、なって欲しいし、ならなきゃいけないんだよ。お前なら、できるさ。自分を信じろ。オレたちを信じてくれ。そうすれば、自ずと良案が見つかるはずだ。火に囚われることもないさ。何か、あるだろう?」

 キースの優しい眼差しに、冷静さを取り戻す。振り返り、吹雪に霞むクリスタをじっと見つめる。そして、キースの昔話に出てきた、ある魔法のことを思い起こした。あれなら、他への被害も少なくて済む。使いたくないな、と正直に思った。しかし、使わなければならないのだ、とも思った。覚悟を決めて、クリスタと同じポーズをとると、皆に心の準備を求めた。

「これから、ちょっと強めの魔法を使う! どの程度あいつに効くか分からないし、何が起きるか分からない! あらゆる事態に備えてくれ!」

 緊張しながらも、仲間たちが微笑んで力強く答える。

「了解!」

 ラエルの広げられた掌の前に小さな光の玉が浮かび上がり、それが次第と大きく膨らんでいく。眩しくて白に近い色は、天使の輪を月の光とするなら、これはまさしく太陽の光そのものだった。そして、直径一メートル程になったかと思うと、拳大まで急激に凝縮して、ラエル以外は目もあけられないくらい強烈な光となった。

「いくぞ!」

 号令と共に、光の玉が線となって勢いよく真っ直ぐに伸び、飛び交う氷の粒を一気に昇華させながら、クリスタの胸部へ到達した。レーザー・ビームだ。

「ギャアアアア……!」

 ガラスを引っ掻くような不快音が神殿内に響き渡る。ラエルしか確認することができなかったが、クリスタは光線の当たったところから、パン!と破裂するみたいに溶けて蒸発し、消えてなくなった。あまり気持ちの良い光景ではない。自分も目を閉じれば良かったと、すこし後悔した。

 光線は彼女を貫くだけに留まらず、祭壇を貫通し、蒸発させ、その後ろの氷壁にも大きな穴を開け、村の民家にまで向かおうとしていた。ラエルはびっくりして、慌てて光線を手元へ戻した。予定では、クリスタを溶かした時点でエネルギーが中和されて消えてなくなると思っていたのだ。慌てたために、戻す速度を緩められず、ラエルは自分の魔法で吹っ飛ばされてしまった。仲間の皆は、彼が床にどさっと跳ねる音でようやく目を開いたのだった。

「ラエル、大丈夫?」

 事態が飲み込めないミーナは、まさか彼が間抜けた理由で床に転がっているなんて思いもよらない。クリスタにやられたのかと心配で駆け寄って来る。ラエルは苦笑した。

「あー、大丈夫。あいつはやっつけられたし。」

 と、天井に視線がいったとたん、真顔に返って大声を張り上げる。

「危ない!」

 壁に穴が開いた衝撃のためか、それ以前のブリザードやら風やらの影響か、氷柱があちこちで落下し始めたのだ。ラエルは村人に落ちてくる氷柱を徹底的に粉砕した。アルディスは仲間の上の氷柱を剣で薙ぎ、キースも火の魔法で適切に対応した。氷柱の落下が一段落就いた頃、聞きなれない呟き声が聞こえてきた。

「う……ん。さ、寒い……」

 村人の一人が、青ざめて震えている。クリスタの魔法が解けたのだ。次々と村人の氷が消え、一様に凍えて苦しみ出す。旅の一行はそれを見て、ほっと胸を撫で下ろした。生きていて良かったと。

「ますは、外へ連れ出してやろう。」

 ラエルの提案に、皆が村人の方へ手を差し伸べようとした、その時。村人たちの上に、再び氷柱が落下してきた。今度のは本数も多い上に、天井まで根こそぎくっつけて塊で落ちてくるのもあった。弱っている村人に避ける術はない。アルディスは手近なものを払いのけるので精一杯。キースは火の魔法しか使えないし、それがあまり強いと返って皆に危険が及ぶと判断して、アルディス同様、数本の氷柱を処理することしかできなかった。サラとミーナは蹲っているしかない。残るはラエルだが、クリスタの強烈な魔力で固められた太い氷柱をかまいたちだけで砕くのは困難を極めた。魔力がいくら強くても、魔法自体が弱いものだと、効果が薄くなってしまうのは、仕方のないことである。それでも、一本ずつの氷柱は難なく粉砕できた。後は、塊で落ちてくるものだが……。何せ、二、三秒の出来事。塊は周囲から徐々に削ったものの、到底間に合わず、特に大きい氷柱が残って、ラエルの頭上に落ちようとしていた。ラエルは逃げたくても逃げられなかった。彼の下には、村人が一人、倒れている。彼をどかす余裕もない。そして……!

 いつの間に、目を瞑っていたのか、床に突っ伏していたのか分からない。ラエルは冷たい床から体を離しながら、こうなる前に、背中を突き飛ばされた感覚を思い出し、屈んだ状態で後ろを振り返った。彼は、夢でも見ているような気分で、それを見た。だれもが言葉を失って、時が止まったように、ただ、それを見ていた。

 無色透明な世界に、朱が広がる。ポタ、ポタ、と滴る血。村人に覆いかぶさるように、四つん這いになっている人。その背中から腹部までを貫き、村人に寸手で留まっている、巨大な氷柱……。瞼だけはどうにか開けて、自分を染めていく血の流れを見つめる村人。氷柱を生やした彼は、何と気丈にも笑っていた。

「ぐふふ……。言ったろ、オレが食い止めるって。」

 口から血を垂らしながら、自慢気に言う彼のもとへ、半ば腰を抜かしたラエルがもがくようにして這って行く。

「キース……!」

 どうしたら良いのか分からない。迷った挙句、彼を横向きにして、自分の膝の上で上半身を抱えるようにした。氷柱が邪魔で、仰向けにはできなかった。

「どうして……どうして、こんな……! オレが助かったって、お前が傷ついたら意味ないじゃないか!」

 涙が溢れて、キースの頬にぱたぱたと落ちた。キースはやはり笑っている。

「いいんだ……よ。オレは、元々ここで死ぬ予定だったんだから。お前のために……死ねるんなら、本望さ。」

 ラエルは首を振った。

「死ぬなんて、簡単に言うなよ! 今、助けてやるから……!」

 キースは僅かに首を振って、ミーナを指さした。ミーナは、床に蹲って泣いていた。白魔法使いのミーナ。己の無力さに打ちひしがれて、泣いている。ラエルは自分の不用意な発言が、ミーナを追い詰め傷つけたことを知って、もう何も言えなくなってしまった。

「おい、アルディス……」

 暗い顔で立ち尽くすアルディスに、キースが指図する。

「あそこの、アレ……ラエルに……」

 祭壇のあった場所に、氷の破片とは違う何か丸いものが転がっている。アルディスは静かにそれを拾い、ラエルの手に握らせた。銀色のような、透明のような、クリスタそっくりの玉。

「氷の……結晶だ。絶対零度のセンスが、それに詰まってる……。それから……これが、火の結晶。」

 ズボンのポケットに手を突っ込んで、出したものを氷の結晶と一緒に、ラエルに持たせる。緋色の玉に、キースの血がついていた。ラエルは二つの玉に興味を持たず、ただ、キースの穏やかな顔を見つめていた。過去の、誰かの顔とだぶらせながら……。キースの手が、ラエルの頬に伸びて、涙を伝わせた。

「お前は、本当に……いい子だ。オレみたいな汚れた奴のために、二度も三度も泣いてくれて……あの時も幸せだったけど、今も……幸せだ……ぐっ……!」

 力なくむせ込みながら、血を吐くキース。ラエルは目を見開いて、首を振りながら無言で彼の冷たい身体を摩った。ひとしきり血を吐いたキースは、最後の気力を振り絞るようにしてラエルの腕を掴み、真剣に唱えた。

「ラエル。炎に包まれたら、氷漬け、だ。」

 え?と思っている中、キースの全身が突如燃え上がり、ラエルを包み込んだ。白い炎だった。その場にいた誰も、驚くばかりで、身じろぎもできない。ラエルは、気を失うような、取り憑かれたような感覚の中、抵抗する術もなく、発動してしまった。絶対零度の凍結の魔法を。何が起こったのか、しばらく分からなかった。しかし、腕に抱いているキースが氷漬けになっていて、その内側で真っ黒に炭化しているのに気付いた時……。

「嘘……だ。嘘だ。嘘だろ? キース!」

 自分の手が凍傷を起こしているとも知らず、凍ったキースを揺すり続ける。アルディスが堪らなくなって、止めに入った。

「よせ! もう……死んでいるんだ!」

 ラエルの腕を取った途端、氷の中のキースがキラキラ発光し始める。二人とも、息をするのも忘れて、その様子を凝視した。まるで、燃えているみたいに、金色に輝いている。そして、光が消えると同時に、キースも消えてなくなってしまった。言葉を失い、ただの氷と化した物体を抱えたまま、動けなくなるラエル。アルディスは彼の腕を掴む力が抜けて、よたよとと後ずさった。


 ――何だ、これは?

 

 奇妙な現象に茫然と立ち尽くしている、そのすぐ後ろでミーナのものではない慟哭が聞こえ、振り返る。サラだった。彼女は氷の床に跪き、氷片を血が滲む程握りしめて激しく泣いていた。ふと、キースに謝って欲しいと頼まれていたことを思い出し、口を開きかけて、止めた。

「私……私、何て馬鹿なの? 何て馬鹿な……!」

 彼女の言葉を聞いて、その必要はないと悟ったから。

 彼女はキースの迫真の演技に騙され、事の真意に気付けなかったこと、あの時、心を読んでいれば死なせずに済んだかもしれないこと、そして何より、人を疑ったことを悔やみ、浅はかさを呪っていた。

 アルディスは悲しみに暮れるラエルの背中にも、声を掛けることができなかった。幸せだと、キースは言っていた……。


 何が幸せだ。死んだ方は幸せでも、遺された方はこんなに苦しんでいるじゃないか!

 

 そうやって、死者に悪態をついてみても、結局怒りの矛先は無力で未熟な自分自身に向いてしまう。やるせなくて、いたたまれなくて、悲しい思いが、神殿内を埋め尽くしているのだった。

 ラエルは、腕を伝う冷たさも痛みも忘れて、耳の奥でキースの声を反芻していた。数日前、彼がミーナにせがまれて、語って聞かせた、あの昔話の続きを……。




 若者が死んで、五年の月日が経ったある日のこと、何の因果か、大きくなった少年は、若者の宝を守っている妖魔の所へやって来ました。少年は、若者と妖魔のやり取りなんか知りませんし、もちろん宝が目当てで来たのではありません。ひょんなことから少年は、世界を滅亡の危機から救う手立てを探す旅をしていて、この妖魔から助言を得るために訪れたのです。

 一方の妖魔は、若者と少年の間に起こった出来事を、全て知っていました。知った上で、少年にこう切り出したのです。助けが欲しいなら、自分を満足させられるような宝を持って来い、と。少年はしばらく悩んだ挙句、言いました。

「持って来ることはできません。」

 拍子抜けした妖魔は、期待外れの残念さと、やっぱりか、人間なんて所詮そんなものだという卑下した冷笑とで、顔を歪めました。でも、少年は続けて言うのです。

「本当に欲しいものって、自分が持っていないものでしょう? あなたには力もある、丈夫な体もある。たぶん、地位や名誉もお持ちで、お金とか財宝のような形あるものは、ご自分で手に入れられると思うんです。あなたに足りないのは、目に見えない、手で触れることのできないものなんじゃないですか?」

 すると妖魔は鼻で笑います。

「まさか、愛などと言うのではなかろうな?」

 少年は首を振りながら穏やかに微笑みました。

「私には分かりません。分からないけど、あなたが愛を欲しがってるなんて思いませんね。四年前にある人が言っていたんです。人は悲しくても嬉しくても感情が溢れだした時に涙を流すんだって。あなたに足りないのは、そういう感情の高ぶり、涙みたいなものなんじゃないでしょうか? だから、持っては来れません。宝はあなたの中に隠れているんです。」

 妖魔は真顔になって言いました。

「オレが涙を流したがっているというのか?」

「違いますか?」

と少年が逆に聞き返すと、妖魔は大声で笑い出しました。

「なるほど、面白いことを言う。あの方が肩入れするだけのことはあるようだ。何、オレが欲しいのは宝でも愛でも涙でもない。別に欲しいものがあるわけではないのだ。オレの力を貸す資格があるか、試すためにわざと難題を振ってみたまでのことよ。あの男にお前ほどの機知と度胸と純粋さがあれば簡単に切り抜けられたであろうが、馬鹿正直に宝探しなどするから、短い命をさらに縮めてついには死んでしまうことになる。お前のようにオレを頼ってきた男がいたのだ。少し前にな。しかし、命まで掛けた強い信念だけは気に入った。だから、男が死んだ今もなお、願い通りにしてやっている。さて、お前の望みも叶えてやるとしよう。いずれにせよ、そのつもりであったのだ。さもなくば、あの方からお叱りを受けてしまうのでな。」

 少年は妖魔から色々と助言をもらい、その場を去って行きました。

 それから一年後。少年は力を貸してもらうため、妖魔のもとへ再びやって来る手筈でしたが、行き違いで会うことができず、困った状況になっていました。妖魔は一旦、妖魔界へ引き返し、自分の代わりに少年を助ける者を用立てることにしました。死んだ若者の魂に魔法の力で肉付けして、蘇らせたのです。

 妖魔を見るなり若者は嬉しそうに話しかけました。

「あんたにずっと言いたいことがあったんだ。宝とは何なのか、ようやく分かって来たんだ。」

 妖魔は煙たそうに若者の話を払い除けました。

「分かった、分かった。それについては、お前の弟分から充分に聞き及んでいる。宝のことはもういい。」

 妖魔が事の成り行きを説明すると、若者は驚きながらも納得して、何度も頷きました。

「そうか、やっぱりあの子は世界の命運を動かすような人物だったんだな。ただの医者では終わらないと思っていた。」

 妖魔は念を押すように言いました。

「良いか。お前の身体は魔法で作られた仮初の急ごしらえだ。役目を果たすまでは無理をするな。あの者に気付かれぬよう、姿形は別人に、実年齢より十歳は老けて見えるようにはしてあるが、お前の方でも用心するのだ。お前だとわかったら、あの者のことだ、本来の目的を忘れて、お前の世話を焼くことに集中しかねないからな。」

 若者は笑いました。

「違いねぇや。だが、安心してくれ。オレはあの子と旧交を温めるために復活したんじゃない。初めて会った、全くの別人として接するさ。約束する。」

 妖魔はなおも言いました。

「用が済み次第、魔法が解けて、お前は……。」

 若者はにっこり笑っています。

「構わないさ。元々オレは死んでいて、この世にいちゃあならねぇ存在なんだ。あの子の役に立てるんなら、喜んで二度目の命を捧げるよ。前のようなつまらない死に方なんかしねぇ。必ず使命を全うしてみせる! あの子にまた会えるってだけで、オレは最高に幸せだ。こんな役目をくれてありがとうよ。感謝するぜ。」

 こうして若者は二度目の短い人生を走り出しました。今度の宝探しは希望に満ちていて、まるで天国の階段を昇って行くような輝かしいものでした。そうです、若者の宝は、今や少年ただ一人。それを守ることに苦痛なんてありはしない。どんな逆風も荒波も乗り越えられる。むしろ喜びとして受け入れられる程の、無敵の心を持って生まれ変わったのです。

 

 

 

「ありがとう、アルさん……」

 顔を上げて、目を閉じだラエルの頬を涙が伝って、氷塊に落ちる。涙は落ちる度、丸い宝石のように冷え固まって、氷塊にくっついて離れなかった。

 あの時はどんなに悪態をつかれても真意は別にあるのだと気付けたのに、今回は彼の一世一代の大芝居にまんまと騙されてしまった。始めから、死ぬ覚悟で近づいてきたなんて、あのおどけた風貌からは予想だにできなかった。自分と同じで不器用な生き方しかできなくて、けれども内に秘めた優しさと強さはちゃんと伝わってきた。いつだって、己を押し殺して未熟な自分に生きるヒントを与え続けてくれた。感謝の言葉しかない。

 初めて会ったその時に、彼から溢れ出した光。何てきれいなんだろうと思っていた。近寄ると、触れると、ますます美しく輝いて、それが不思議で嬉しくて、しつこく彼に纏わりついていた、あの頃。

 その光が欲しくて欲しくて堪らなかった自分に、他の患者たちが言ってくれた、「あなたが笑うと、輝いて見える、まるで天使みたいだと」と。それで、初めて知った。あの光は、誰もが持っていて、自分では見えないのだということを。しかも、特別な能力なのか、自分にはその光がやたらはっきり見えていたのだということも。少しずつ分かってきた、光の正体。人が人を想う時、人が物に心を込めた時、輝きだす。自分が彼に近づくと、光を増すというのは、つまり……。彼が死んだのは、それに気付いた矢先のことだった。

 欲しかったのは、光ではない。愛だったのだ。そして、自分は愛されていたのだ。望み通り、手に入れたのに、こんな悲しいことがあるだろうか。

 この日を境に、欲しがるばかりの人生は終わりを告げ、与える人生へと転じた。失うことは、怖い。だから、光に目を背け、見えないふりを始めた。いつの間にか、本当に見ることもなくなって、清々していたはずなのに、今になってまた、光が自分を責めてくる。そこかしこに溢れる、美しい光。

 

 ああ、そんなにオレを照らさないでくれ。痛いよ……。

 

 閉じた瞼を容赦なく貫く光の群。もう、逃げられないと、脅迫されているみたいだった。


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