第二章 風の剣士、花の少女
第二章 風の剣士、花の少女
ひび割れる大地に、逃げ水が浮かぶ頃。男は北へ向かって歩いていた。身の丈二メートル近くあるその背には、細身の、先の方が僅かに湾曲した剣が括りつけられていた。肩にかかるくせ毛は、血のように赤く、赤茶けたマントの上で、時折吹く強風に揺られている。北の海を思わせる、サファイア・ブルーの瞳。切れ長の鋭い目。端正な顔立ちだが、その背丈と相まって、見る人に威圧感を抱かせる風貌……。近寄ったら斬られるのではなないかと恐れて、道行く人は、それとなく彼を避けた。
そんな男のすぐ脇を、猛ダッシュですり抜けた少女があった。前から走って来たので、何となく姿を見ることはできた。鮮やかな青のベストに、フレアスカート。袖がふっくらした白のブラウスとのコントラストが美しい。襟の下には、細い赤のリボンが飾られていた。茶色のブーツがたくし上げられたスカートから良く見えた。烏の濡れ羽色のおかっぱ頭に、カチューシャ。黒目がちな大きな瞳。透き通るような肌。可愛い、というより、美しいその顔は、大まじめだった。彼女の表情が必死でなかったことが、返って男の気を引いた。
少女が通り過ぎて間もなく、今度は粗悪な感じの男三人が、憤怒の形相で走ってきた。
「てめえ、まちやがれ!」
「なめた真似しやがって!」
と口々に喚きながら、男の横を通り抜けていった。街の人々は振り返ったり、ざわざわと話し合ったり。
男は、お節介焼きではなかった。他人の揉め事に首を突っ込むなんて御免だった。だから、何事もなかったかのように歩き続けた。しかし。
自分の腰に、ドン!と当たってきたものがあって、さすがに立ち止まらないわけにはいかなかった。正体を確かめようと振り返る間もなく、それは彼の前に姿を現した。さっきの少女だ。男は背が高い。大体の人が小さく見える。それを差し引いても、彼女は背が低かった。相変わらずの真顔は、どう見ても子供ではない。見れば見るほど美しい、二十歳そこそこの娘盛りだった。
「助けてください。」
荒い息が、彼女の緊迫した状況を伝えた。背後には、さっきの三人組が、やはり息を切らしてやってきていた。
「な……何が助けてだ!」
「てめえが火の城まで連れてけって言うから、わざわざ馬車まで借りて乗せてやったのに、金も払わねぇで途中で飛び降りやがって……!」
「お嬢様面して、とんでもねぇ女だぜ!」
飛び降りたというところで、彼女の服をみると、砂埃塗れで、あちこち綻びていた。この、華奢な娘がそんなことをするなんて、俄かには信じがたかった。少女は反論した。
「お金は、火の城に着いたら、ちゃんとお渡しするつもりでした! なのに、あなたたちときたら、火の城ではない方へ私を連れ込んで、如何わしいことをしようと考えていたでしょう?」
男たちはぎょっとしたが、すぐににやけた顔になった。
「何言ってんだ?」
「オレたちがいつ、そんなことを言ったよ?」
「ちょっと可愛いからって、自意識過剰なんじゃねぇか?」
少女は怯むことなく言い放った。
「いいえ。私は確かに聞いたんです。はっきりと。あなたたちの心の声を!」
男たちは大笑いした。
「馬鹿じゃねぇのか?」
「心の声って何だよ?」
少女は腰に手を当てて、ため息をついた。そして、毅然とした態度を崩さず、こんな質問をした。
「あなたたち、誕生日はいつ?」
「へ……?」
何の関係があるのかと、訝しがる。もちろん答えるものはない。彼女は、左から一人一人、指さして言った。
「あなたが十月九日、あなたが二月二十日、あなたが八月十七日。」
男たちはもう、笑えなかった。図星だったのだ。
「何……で?」
彼女を見る目つきが変わる。
「だから、そういうことです。人の心が読める、ということ。」
彼らは、お互いの顔を見合わせ、心を一つにして頷いた。
「それがどうしたっていいうんだよ?」
開き直ろうというのだ。
「さ、兄ちゃん、その女をよこしな。」
「どうせ、あんた無関係だろ?」
手を伸ばしてくる。正義感とか、そういうことでもなく、ただ単に面倒くさくなって、彼は背中の長剣をすらりと抜いた。そして、一番前にいた男の鼻先に、その青光りする刃を突きつけた。
「行け。」
その一言で万事心得た男三人組は、這う這うの体で去って行った。少女はそれを見送ってから、男に深々とお辞儀をした。
「どうもありがとうございました。」
男は剣を鞘に納めながら、少女から目を逸らした。あいつらではないが、目の毒だ、と。
「お前も行け。」
そう言って立ち去ろうとする男を、小さな手を精一杯広げて阻止する。
「そんなわけには参りませんわ。」
何?と睨み下ろす。少女はへこたれない。
「あなた、傭兵ですよね? 私に雇われてください。報酬は必ずお支払いします。お願いです! 私を火の城へ連れて行ってください!」
確かに、彼は傭兵だったが、今は休業中で、行かねばならない所があった。
「断る。オレにはオレの用事がある。お前に構っている暇はない。別を当たれ。」
少女はなおも食い下がる。
「いいえ、あなたしかいません!」
しつこい少女にため息が漏れる。
「何故、オレだ。」
「……目的が一緒だから、です。」
どういうことか、わからない。火の城に行く予定は彼にない。
「それに……」
少女はちょっと目を伏せて、優しく微笑んだ。
「あなたの横を走り抜けた時、とても良い香りがしたのです。香水ではない、生の花の香りです。私は、その香りに引き寄せられた、蝶ですわ。」
男は苦笑した。さっきまで花畑に埋もれていたのだ。何故って、それは、彼が無類の花好きで、花を見るとそうせずにはいられなかったからである。見た目にそぐわないことくらい、彼だって分かっていた。しかし、好きだという事実は変わらない。その点では、自分の方こそ、余程蝶に相応しかった。だからというのではないが、ひとまず話だけでも聞いてみようと思った。花のような少女が頼みごとをしてきたのだ。無下に断るわけにもいかない気がしたのだった。
「人の心を読むのは、本当に必要な時だけです。」
道すがら、彼女はこう切り出した。男は、心が読まれるとはどういうことか、想像がつかない。読まれて困る心など、今の彼には存在しなかったから、別に気に咎めることもなかった。どうでもいい、というのが本音だ。
「あなたは、そうでもなさそうですが、大抵の方は、後ろめたい、人に知られたくない思いを抱いているもので、だからそれを読むなんてマナー違反なのです。人の手紙や日記を盗み読みするようなものですわ。」
「しかし、人の心が読めるのなら、何故、あの男たちに仕事を頼んだ?」
「いえ、最初は彼らも、私の依頼を真面に聞いてくれていたのです。でも、途中から気が変わってしまって……この顔がいけないのでしょうか?」
頬を両手で覆う。男は眉間に皺を寄せたが、何も言わなかった。
「そうそう、申し遅れました。私、サラ・ナディア・ドッペルンと申します。サラとお呼びください。」
簡潔な良い名だと思った。と同時に、引っかかる部分があった。
「ドッペルン……あの精神医学博士のドッペルンか?」
「まあ、よくご存じですわね。私の父です。今年の春先に亡くなりました。」
さらりと言う少女、サラを思わず見下ろした。
「死んだのか? あの精神医学会の権威が……新聞には載っていなかったが。」
サラは、長身の剣士を見上げた。
「新聞を読まれるのですか? 驚きましたわ。文武両道ですわね。」
「それ程のことではない。傭兵は情報収集が重要なのだ。銅貨一枚でそれが買えるのだから、安い物だろう。それより、何故新聞で報道されなかった?」
サラは前を向き直って、両手を胸の辺りで開いて合わせ、物思いにふけるように言った。
「父と私は、去年の秋から街を出て、人里離れた土地へ移り住んだのです。理由は分かりません。父の意向でした。私はついて来なくて良いと言われましたが、幼い頃に母を亡くして以来、私たちは父娘二人、何でも協力し合って暮らしてきたのです。どちらかに結婚相手ができるまでは、一緒にいようという約束でした。私はもちろん、父について行きました。父は、その土地でどういうわけか、地質学の研究を始めて、土を掘っては地層を採取して、何かを調べている様子でした。私に知られないように、心に鍵をかけて……そういう力を父は持っているのです。そのうち、病気になって、床に伏すことが多くなっても、研究を止めようとはしませんでした。お医者様を呼んで看てもらおうとしましたが、父自身医者で、もう診断結果は出ている、どうにもできない病気だと言って、聞き入れてはもらえませんでした。とうとう歩くことも食べることもままならなくなって、私が耐えかねてお医者様を呼ぼうとした時、父が言いました。『私の死を、しばらくは誰にも黙っていてほしい。だから医者も葬儀屋も呼ばないでくれ。世間に知られると、あの方にも分かってしまう。まだ早いのだ』と。意味は分かりませんでしたが、父の縋るような目を見ていたら、私は言う通りにするしかありませんでした。それから、私に、一つの、土の入った瓶を持たせました。『これをあの方に渡してくれ。渡せば分かる』その翌日、父は息を引き取りました。」
サラの独り言のような話を、男は黙って聞いていた。
「父を台車に乗せて、父が掘っていた地層まで運んで、埋めました。今頃あそこは花畑になっているでしょうね。」
サラが気持ち良さそうに黒髪を風に靡かせる。さすがの無頼漢も、同情の念を抱かずにいられなかった。健気にも、亡父を一人で弔って、孤独の身となりながらも、泣き言一つ言わず、しっかりと地に足をつけて立っている。昔の自分を見ているような気がした。母を亡くした、あの日の自分を……。
「これなんです。」
ごそごそと革のバッグから取り出したのは、蓋が蝋で封を施された筒形のガラス瓶。中には半分ほど、黒い土としか言いようのない土が入っていた。
「良かったわ。割れていなくて。これを、ある方に渡すこと。それが私の今の使命です。」
「その人が火の城に?あそこは廃墟だぞ。」
ただの廃墟ではない。火の魔物が巣食う、火の海地獄だ。まさか、ある方とは魔物か?と彼は思った。
「私たち、父娘の古くからの知り合いに、占い師のアルテイシアという方がいるのです。有名人ですから、ご存知ですよね?」
占いに興味はないが、名前だけは知っていた。
「彼女に相談すると、火の城へ行きなさいと言うのです。聞いておいて良かったですわ。私、あの方はシザウィーにいらっしゃるものと思い込んでいましたから。」
男は、心臓が一瞬強く打つのを感じた。彼の目的地はシザウィーだった。
「地質学者で、医学博士で、他にもいろいろな学位をお持ちですから、父がこれを持って行けと言ったのも頷けます。」
男に、思い当たる節があった。
「私たち父娘の間で、あの方と言ったら、一人しかいません。」
サラは、男の顔をまじまじと見つめた。覚悟を要求しているみたいだった。そして、小さく、しかしはっきりと囁いた。
「レオンハルト王子です。」
男は、サラを見つめ返した。レオンハルト王子……。心の中で反芻した。確かに、彼にも関係がある話のようだった。
彼の故郷は、メキアという国で、赤道をはさんでシザウィーと反対側に位置していた。別名、魔法剣士の国と呼ばれ、男も女もなく、人口の半分以上が魔法剣士という、非常に好戦的な国家だった。絶えず内戦が続いているのも、こういう性質のために他ならなかった。
彼の父、アーサー・フロントは、風使いであり、腕利きの剣士として名を馳せたこともあったが、花屋の娘と恋に落ち、郊外に移り住んで剣士稼業からはさっぱり足を洗ってしまった。その代り、花を栽培して、切り花や球根や種や苗などを街へ売りに行って生計を立て、その傍ら、植物の研究に没頭した。学位を取ろうとか、そんな気はさらさらなく、妻と出会ってから、自分が植物好きであることを自覚し、元々のマメさも手伝って、研究せずにはいられなくなったのである。母は、優秀な白魔法使いだったが父と同様、花の栽培に専念した。その二人から生まれたのが、この男、アルディス・フロントだった。かくして、花に憑りつかれた一家が誕生した。
父、アーサーは、息子を猫可愛がりして育てた。アルディスは両親に怒られたことは一度もなく、返って無邪気すぎる両親を窘めることさえあった。自分がしっかりしなければ、と思ったわけではないが、テンションの高い両親に比べ、割と冷めた子どもに成長した。両親に幼心を吸い取られたのかもしれない。彼は、父が育てた花畑の中で、一日の大半を過ごした。受精の手伝いをしたり、間引きをしたり、仕事がない時はスケッチをした。かなりの細密描写で、両親は息子の才能にびっくりしたり喜んだりしていた。
冬の間は何もすることがなく、暇だったので、剣術を父から教わった。その時も父はいつもにこにこしていて、決して怒ったり貶したりしたことはない。アルディスは真面目に教えてくれているのか、心配になる時が何度もあった。彼は父のマメさを受け継いでいたから、やるからには剣術もマスターしたかったのだ。しかし、父としては、剣術よりか、絵の才能を伸ばした方が、きっと楽しい人生だと思っていた。
ある春の日、アルディスの描いたヒヤシンスのスケッチを見て、父は一人で勝手に盛り上がり出した。
「おお、アルディス! 素晴らしい絵じゃないか! これはヒヤシンサス・オリエンタリスだね?」
アーサーは花を学名で呼ぶ。とことんマニアックな男だった。
「何? これを私にくれるって? いや、ありがとう!」
そんなこと一言も言っていないのだが、彼の父にはよくあることだった。
「そんなに欲しいのなら、あげるけど……。」
一緒に住んでいるのだから、見ようと思えばいくらでも見られるのに、わざわざ息子からもらってどうしようというのかと、クールな少年は思っていた。
「私はこれを切り取って、花辞典の栞にするよ!」
そう宣言すると、早速鋏を入れて、細長い形にし、上に小さい穴を開け、黄緑色の細いリボンを通して結んだ。そして、彼の手製の花辞典に挟んで、満足そうに頷いて見せた。
「いやあ、私はなんて幸せな父親だろう! この幸せがいつまでも続くといいなあ。」
しかし、幸せは長くは続かなかった。母のリベリアが病に倒れてしまったのだ。医者を呼んだが、首を横に振られて終わった。進行性の不治の病……。特異な魔法アレルギーで、百万人に一人かかるものだと言う。魔法の治療では返って病状を悪化させるし、シザウィーに行っても進行性だから治らないと言うのだ。アーサーとアルディスは人生始まって以来、初の苦悩に苛まれた。
そんなある日、分厚い黒い雲から今にも雨が降り出しそうな昼下がりのことだった。玄関の戸を叩く音がする。戸を開けると、そこには紫色の地に白い斑模様が入った風変わりな衣装を身に付けた男が立っていた。アーサーを尋ねてやってきたという、その男。人間そっくりだが、異様な雰囲気を漂わせ、この世ならぬ臭いがした。アーサーは息子や妻に危害が及ぶのを恐れて、自分の書斎へと客人を招き入れると、滅多に閉めない戸に鍵までかける。話は愉快な内容ではないらしく、戸の向こうから時に父の怒声が漏れていた。アルディスは、温厚な父が声を荒げるところなど聞いたことがなく、事の異常さに拍車をかけて、いつもは冷静な少年をそわそわさせた。やがて静かになり、話し合いが終わった。書斎から客人と、後から父が出てくる。父は顔色が真っ青になっていた。アルディスは父を支えるようにしながら、客人を見送った。禍々しい空気を出してしまいたくて、玄関の戸はしばらく開けておいた。
それから一週間、父は書斎に閉じこもりがちになり、やがて意を決したように出てきたかと思うと、妻と息子に向かってこう言った。
「私はシザウィーへ出稼ぎをしに行くことになった。」
妻も息子も驚きを隠せない。
「それは、あなた、まさか剣を手にするということなの?」
「どうしてシザウィーなんだ?」
二人の質問にアーサーは首を振った。
「すまない、こんな時に。一年……いや、半年で帰ってくる。それまで、母さんを頼んだぞ。」
アルディスの頭をくしゃくしゃっと撫でる。
翌日、朝早くに父は出て行った。フロント家に代々伝わる妖刀、新月烈風剣を背に、それから、どこから持ち出したのか、見慣れない白い宝刀を腰に挿して。
父が出て行ってから二か月が経ったころ、シザウィーから手紙が届くようになった。
「リベリア、アルディス、元気にしているだろうか。私は城で王子の護衛を任されることになった。王子はアルディスの四つ下だが、とてもしっかりした方だ。家族を置いてきたことを怒られてしまったよ。思いやりのある優しい子だ。」
「プラチナブロンドにエメラルドの瞳の天使。彼がよく怒るのは、人に愛されるのを怖がっているからみたいだ。愛されたくてしようがないのに。矛盾しているところが、人間臭くて非常に素敵だ。私はこの子のマニアになりそうだよ。」
母は笑った。
「アーサーは王子様に恋してしまったのかしらね?」
安堵の表情。母は父の出稼ぎの、真の目的を知っているようだった。アルディスに分かることは、家族を何よりも愛している父が、病気の妻や息子を置いて行ったのは、つまり二人のために何かをしに行ったのだろうということだけ。そうとしか考えられない。
半年ほどして、手紙がぱったりと止んだ。こちらから手紙を出すこともできなくなった。メキアでまた、内戦が勃発したのだ。父はいつまで待っても帰って来ない。
さらに半年が経った。アルディス十七歳の冬。母は逝ってしまった。
「お父さんのこと、恨まないで。王子のことも……。」
それだけ言い残して。不思議と涙は出なかった。
雪が一メートル積もるこの土地での埋葬は、大変な労力だったが、アルディスは一人でこなした。作業は暗くなるまで続いた。埋葬し終わって、ふと、手を見ると、いつの間にかできていた血豆が潰れて、赤く染まっていた。夢中で痛みに気付かなかったのだ。遣り切れない口惜しさが込み上げてきて、血ごとぎゅっと握りしめ、雪山に叩きつけた。白い塊に赤い染みが滲んだ。
それから彼は傭兵稼業に手を染めることとなった。家も、父の花畑も、戦火で焼けてしまった。選択の余地はなく、生きるために仕方がなかった。この内戦がひと段落ついたら、シザウィーへ手紙を出そう。手紙が帰って来ないなら、こちらから。それが、今というわけだった。
傭兵仲間の一人が、彼の決意を聞いて、震えあがった。
「何だって! あの王子のところへ……?」
彼は蹲って頭を抱えた。
「どうした?」
激しい戦火の中、あれだけ勇猛果敢に戦った男が怯えている。
「オレは、ある人物に頼まれて、王子を暗殺しに行ったことがある。」
「何?」
「八年前だ。オレの他に六人いた。全員返り討ちだ。生きて帰ってこられたのは、オレだけだ。」
そんな大事件があったら、報道くらいされるだろう、とアルディスは信じなかった。
「あんなこと公表できるわけねぇよ! あのガキ一人でプロの殺し屋を六人も……! 人間じゃねぇ! 大体、あれが初めてじゃないらしい。同じことが何度もあって、その度皆殺し。しかも、後に証拠を残さないんだ。どうやってんのか知らねぇが……。」
彼はまた震えあがった。
「とにかく、行くんなら気をつけろよ。見た目に惑わされんな。」
アルディスは今だに信じられなかった。父は、呑気な男だったが、馬鹿ではなかった。人の善し悪しを判断する眼力は十分にあったはずだ。手紙であれ程褒め称えていた王子が、「虫も殺せない」と書かれた王子が、何故人殺しなんかできるのだろう? 例え相手が暗殺者だったとしても、だ。とにかく、シザウィーへ行けば、全て分かる。その一心で北へ北へと歩を進めていたのだった。
気が付くと、サラがじっと自分を見つめていた。不安そうな表情。
「オレの心を読んでいたのか?」
「……ごめんなさい。あんまり深刻そうな顔で黙っているから、心配になって……。」
サラは俯いて、しばらく考え込んだ。そして、思いついたように口を開いた。
「私の思い出話、聞きませんか?」
「思い出話?」
「あの方の思い出です。」
「!」
夕闇が迫って、空が赤から藍色に変わる頃。二人は宿に部屋を取って、泊まることにした。アルディスは別々にしようと言ったが、「あなた私の護衛でしょう?」と却下されてしまった。食事の後、二人は部屋で紅茶を片手に、じっくりと思い出話をすることとなった。
「去年の秋、私の生まれ故郷サルナバは記録的な長雨だったんです。私と父が住んでいた診療所兼、研究所は、石造りのしっかりした建物でしたが、いつ床上まで雨水が這い上がって来るかと心配になる程でした。
そんなある夜のこと、扉のノッカーを叩く音がしたのです。わたしは用心のために、どういう人が来たのか、扉越しに心を読むようにしていました。ところが、この時相手の心が全く見えてきません。不思議に思って開けてみると、そこには群青色のマントを纏った人が立っていました。フードを目深に被って、鼻筋から下をマスクで隠して、です。私は飛び上がるほどびっくりしました。
『あの、お父様はご在宅ですか?』
私は怖かったのですが、気を確かにして言いました。
『その前に、名前を名乗るのが筋でしょう?』
彼は黙りました。反応がないので、私は恐る恐る顔を覗き込もうとしました。すると、後ろの階段を降りてきた父が言うのです。中へお通ししなさい、その方は私の大事なお客様だ、と。私は渋々、扉の前を開けました。その方はずぶ濡れだったものですから、一歩中へ踏み出しただけで、ボタボタと雨粒が滴り落ちて、床を濡らしました。
『あっ、これは失礼。』
彼は、フードとマントを一緒に外して、私の方へ差し出しました。その時のこと、忘れませんわ。プラチナブロンドの長い髪が、ぱぁーっと散って、真っ白な絹の服の上にしなやかに垂れて、それから藍色のマスクの上に輝く二つのエメラルド……あんな美しい瞳、見たことありません! 口と鼻は見えませんでしたが、微笑んでいるのが分かりました。彼は優しく丁寧に言いました。『これを、お願いして宜しいですか?』って。
私は口が聞けなくなって、差し出されたものを受け取りながら、まだ見とれていました。彼が父に招かれて、階段を上って行った後、私は彼のマントで胸から下をびしょびしょにしていたのにやっと気付きました。私は次の日風邪を引きました。」
そろそろ紅茶が冷めてきた。暑い夜だったが、冷たいものを飲む気分ではなかった。薄っすらと開けていた窓から時折、蛾が入ってくる。アルディスは透かさず捕まえては、窓の外へ放り投げた。サラは静かにカップを傾け、話を続けた。
「その方は、私が眠っている間に帰っていました。朝起きた時、父に聞きました。どうして心が読めなかったのかと。父の答えはこうです。『心が綺麗過ぎるからだ』と。……空が青く見えたり、赤く見えたりするのは、何故かご存じ?」
突然の質問だったが、彼は即座に答えた。
「空気中の埃などに太陽光線がある波長で当たるから、だ。」
「そう。埃がないと、空は色付かない。その方の心は、埃に値する雑念がないのです。私の心の読み方は、雑念を拾い上げるようなものなのです。父のように熟練すると、透明な心も読めるそうですが……。」
すると、アルディスの心は、雑念だらけの不透明な心、ということになる。彼は少し眉を顰めた。
「あ、気になさらないでください。雑念がないなんて、滅多なことではありませんわ。高名なお坊様くらいなものです。ええと……話を戻しましょう。私は次に訪ねました。誰なんですか、と。当然聞きたいでしょう? 父は意外にあっさりと教えてくれました。ちょっと、誇らしげな笑みすら浮かべて。
『あの方こそ、シザウィーの王子、レオンハルト様だ。よおく覚えておいで。あの方はいずれ、この世界を背負って立つ方。闇を光で満たす方なのだよ。』
私は何だかびっくりしてしまいました。父があんなに上気して人を褒めるものですから。
それからも、父は時々、あの方の話をしてくれました。子供の頃からの知り合いなのだそうです。
『王子は見たもの、聞いたものを全て記憶してしまう。しかも忘れることはできない。常人なら、気が振れてしまうようなことだ。しかし、あの方は卑俗な言葉で言わせてもらうならば、天才なのだ。それでも、子供の時は、耐えられないこともあった。そんな時、私の所へ相談しに見えるのだ。殆どはこちらから出向くことが多いのだが。』
私は父が王子と会っているなんて、少しも知りませんでした。どうして今まで黙っていたのかと抗議しましたら、『ランデブーを邪魔されたくなかったから』ですって!」
「ほう。どうやらシザウィーの王子は、中年男に人気があるようだな。」
アルディスは皮肉った。オレの父も父だが、お前の父も父だ。冷えた紅茶を啜る。
「まあっ! 下品な物言いはおやめください! でも、本当、父の気持ちも分かりますわ。一目見ただけで、私もファンになりそうでしたもの。」
うっとりと宙を仰ぐ。オレも早く見てみたいものだ、とアルディスは腕を組んで、背もたれに凭れ掛かった。
翌日の朝、街の人の情報を頼りに、火の城へ向かった。二人の結論は、憶測で人を判断するのは止めよう、ということだった。会えば、わかる。会えば。
期待と不安を胸に、二人は火の城の城門を潜った。荒れ果てた庭園。ひび割れた城壁。人の気配はない。
「本当に、ここにいるのか?」
念のため、アルディスは疑問を口にした。占い師の言うことなんて、当てになるのだろうか? サラは毅然と言った。
「アルテイシアさんの占いは、百発百中、はずれなしです。そうそう、彼女、もう一つ言っていたことがあるんですよ。」
にっこり笑う。相変わらずの美しさだった。白い肌が陽光を反射して、少し眩しい。
「何だ?」
「花を見つけたら、決して手放してはいけないって。私、最初は王子のことだと思っていたのですが、昨日、あなたの横を通り抜けて、確信したのです。この人だって。……ね、当たるでしょう?」
何が当たっているのか、アルディスには分からなかったが、そういうわけで、自分が護衛に選ばれたのだと合点がいった。
二人は街で買った、熱除けのまじないが掛けられた真っ赤なフード付きマントを被った。アルディスは然程ビジュアル的に変わりはなかったが、サラはというと……。
「お前、まるで童話の主人公だな。」
「え?」
アルディスのちょっとだけ遠回しで正直な感想は、彼女には通じなかった。赤ずきんちゃんだろ、それは。と、もう一度思ってみる。
「あらっ、褒め言葉ですわね、嬉しいわ!」
そう受け取るなら、好きにしてくれと思うアルディスだった。
両開きの扉の取っ手をそっと触る。グローブ越しに熱が伝わる。中は相当暑そうだった。サラの目を見る。迷いはない。頷いて、扉を押し開けた。隙間から、轟々と音を立てて、熱風が溢れだす。
「本当にいるのか?」
アルディスはまた聞いてしまった。
「います! 百発百中!」
サラは自ら率先して中へ入って行った。
火の海地獄とは言ったもので、城内は至る所が燃え盛って火事の現場にしか見えない。主を失った建物は、火の力の制御を失い、こんな風になってしまったのだとか。その上、火が好きな魔物の格好の棲家になっている。二人は火の粉を払いながら、奥へ奥へと歩いて行った。
「これでは、火の魔物が現れても見分けが付かん。」
弱音はサラには効果がない。
「頼りにしてますわ。」
アルディスは、彼女に降りかかる火の塊を、剣で幾度も払い除けた。こうしていれば、間違いないだろうと。火の海をかき分けるように進むと、炎が吸い込まれて立ち昇っていく場所があった。二階へ続く階段のようだった。熱除けのまじないにも限界がある。こんな炎で埋め尽くされたところでは、さすがに効果も薄らいでしまう。急ぐ必要性を感じて、アルディスは行動に出た。自分のマントの中に赤ずきんちゃんを匿い、左腕で抱き上げて、一気に階段を駆け上がったのだ。右手に剣を携えての走りだったが、あまり苦にならない。隼のごとき速さで、瞬く間に二階へ到達した。床へ降ろすと、赤ずきんちゃんは全身に力を入れて、棒のように固まっていた。
「怖かったのか?」
左手で彼女の肩にかかった火の粉を弾き飛ばす。
「いいえ。気絶している人は重いっていうから、その逆をやってみたまでですわ。いかがでした?」
剣士は苦笑した。
「お前なら、気絶しても軽いだろうよ。」
サラの肩に手をやって、先へ進むよう促す。やはり、急がねばならない。熱除けマントから焦げ臭い臭いがするようになったのだ。三階、四階、と同様に駆け足で進む。と、背後から魔物の気配がして、アルディスは即座に振り返った。サラくらいの大きさの火の塊が二つ。他の火と違うところは、宙に浮かんでいることと、こちらに向かってくることだった。
「サラ、下がっていろ!」
赤ずきんちゃんは素直に彼から離れた。
「きゃあああああ!」
悲鳴に視線を向けると、丁度、彼女の顔が床下に消える瞬間だった。駆け寄って下を覗き込むが、火の勢いが強すぎて、何も見えない。風化した石畳が脆くなって崩れたようだった。
「サラー!」
叫んでも、応答はない。後ろの魔物が、メラメラと近づいてくる。振り向き様、両方とも剣で真一文字に薙ぐ。本体を傷つけられた炎は呆気なく消え、真っ二つの核がぼとぼと落ちた。厄介ばらいを済ませたアルディスは、再び床にできた穴を覗き、迷うことなく飛び込んだ。炎で何も見えず、着地も危うかったが、どうにか体勢を立て直すことができた。問題は、手の遠く範囲にサラが見当たらないことだった。
「サラー!」
反応は、やはりない。まさか、燃え尽きたのか?
そう思いかけた時、さっきとは比べものにならない妖気を感じて、アルディスは目を見開いた。
「お前が探しているのは、この娘か?」
地の底から聞こえてくる重低音。見上げた先に、サラが眠るように横たわって、浮いている。いや、浮いているのではない。火の神とも悪魔とも呼ばれるイフリートが、青白い炎に身を包んで、サラを高々と持ち上げているのだ。火の妖魔の中で最強と謳われている者が、何故人間界にやって来ているのか、一剣士のアルディスには理解できなかった。彼に分かっているのは、サラの赤いマントが、ぶすぶすと黒い煙を立てて、今まさに燃えようとしていることだった。アルディスは床を蹴って、一気にイフリートの足元まで跳び、剣を斜め下から斬り上げた。あまり効いている様子はないが、イフリートは後方へ一つ跳び、取り敢えず、気を失っているサラを、椅子の上に横たえた。見れば、それは玉座であった。第二刃のために構えるアルディスに、イフリートは黒い掌を向けた。
「まあ、待て。私はお前たちに用はない。見よ!」
黒い腕が横に払われ、部屋中を満たしていた炎が、一瞬にして消え失せた。後には、イフリートの青白い炎だけが残った。それも、少し勢いが弱められている。
「灯りとしては充分だろう。」
イフリートは、空いている玉座にドカッと座った。その振動で、サラが、ん・・・と呻き声を上げる。
「サラ!」
駆け寄って、跪き、美しい寝顔を見つめる。艶やかな長い睫毛がゆっくりと開かれた。
「アルディスさん……」
助けてもらいながら、ぼんやりと起き上がり、ふと、横に座っている存在に気付いて、恐れおののき、アルディスに抱き付いた。
「だ、誰?」
低い含み笑いが漏れる。
「妖魔に名はない。それは人間が付けるもの。人間は私をイフリートと呼ぶ。」
位が上の妖魔ともなると、品格すら備わているようだった。
「私は、妖魔王の命により、ここである人物を待っているのだ。お前たちではない。」
アルディスとサラは、顔を見合わせた。アルディスから身を離し、サラは震える声で尋ねた。
「あ、ある人物というのは……」
途端に、こめかみを抑えて苦しみ出す。
「サラ?」
サラを支えるようにして、イフリートを睨む。イフリートは鼻で笑った。
「どうやら、その娘、闇の一族の末裔のようだな。今度から妖魔や妖精の心を読む時は気を付けることだ。精神を破壊されたくなければな。我々の心は人間には毒だ。余程能力があるのなら、また別の話だが。」
サラは呼吸を整えて、改めて聞いた。額から汗が流れ落ちる。
「誰を待っているのですか?」
イフリートが炎と一緒に口から笑い声を出す。
「気丈な娘だ。よかろう。お前たちなら教えたところで害はなさそうだ。しかし、他言はするな。」
二人は、うんうんと頷いた。
「私が待っているのは、レオンハルトという、若い人間の男だ。」
思った通りの答えに、二人は少しだけ上気した。
「シザウィーの王子、ですよね?」
「そうらしいな。」
彼はその辺のことにはあまり興味がないようだった。サラは思い切って言ってみた。
「実は、私たちもその方に会いに、ここへ来たのです。」
「何? それは奇遇だな。しかし……それは無理かもしれん。」
イフリートは炎のため息をぼっと吐いた。え?という間もなく、上からパラパラと石の欠片が振って来て、ズン、ズン、と床に振動が走り、二人はよろけた。城が崩れ始めている!
「この城も、ついに限界がきたようだ。手入れを怠るからだ。馬鹿な人間どもめ。」
手入れができる環境か?という台詞を飲み込んで、アルディスはサラに尋ねた。
「どうする?」
「どうするも何も、取り敢えず逃げろ。」
親切にも、イフリートが代わりに答えてくれた。その言葉を受けて、アルディスはサラを抱えて、走った。まだ至る所に残っていた炎は、彼が通り過ぎることで発生する疾風に煽られて、抵抗もできず、消え伏していって。その間、三十秒。城の正面の扉を切り倒して、外へ飛び出し、門を潜り抜けたところで、城は轟音と共に跡形もなく崩れ去ってしまった。
アルディスはその走りのためではなく、極度の緊張と逼迫感のため、ぜーぜー息を切らした。
「ア、 アルディスさん!」
声をかけられるまで、サラを抱えていることも忘れる程だった。
「はっ、すまん!」
我に返り、慌てて降ろした彼女の身体は、今度ばかりは恐怖のために硬直していた。
元は、城という建物だった、瓦礫の山を二人はしばし、茫然と眺めた。
「あっ、さっきの人……!」
急に思い出してサラは青ざめた。アルディスが透かさず突っ込む。
「人ではない、妖魔だ。」
「どうしたかしら? まさか、下敷きに……」
悪い奴ではなさそうだったので、二人は心配しだした。と、サラの肩をとんとんと固いものがつついた。イフリートの爪だ! 心配していた割に、ぞっとして、サラはアルディスにしがみついた。
「ぶ、無事だったのですね?」
声が上ずる。イフリートはそんなことはどうでもいいらしかった。炎のため息をまたついて、首を振った。
「やれやれ、困ったものだ。城がなくなるとは。表で、この姿で待っているわけにはいかないし。……そうだ!」
口から炎を散らしながら、二人に言う。
「お前たち、レオンハルトに用があると言ったな?」
「え、ええ……」
イフリートは炎の鎧の間から、ごそごそと何やら取り出して、差し出した。鋭い爪の黒い手に乗せられたそれは、直径五センチほどの丸い石だった。鮮やかな赤色で、透明な感じがルビーを思わせた。
「これを、ついでに渡してくれ。」
「え?」
びっくりする二人にはお構いなしに首をひねる。
「いや……ただ渡しても、しようがないのだったな。私の代わりを用立てるから、しばらく預かっておくのだ。これを欲しがるものがいたら、渡せばいい。さあ!」
半ば強引に握らされて、気丈な少女も戸惑いを隠せない。
「これ、何なのですか?」
以外にも、答えはすぐに返って来た。
「ふむ……鍵だな、言うなれば。」
「鍵?」
「お前たちからレオンハルトに見せたり、渡したりするな。余計な情報があると鍵が開きにくくなるから。代わりの者が来るまで、隠しておくのだ。良いな?」
意味が分からない。
「その代りの方は、いついらっしゃるのですか?」
鼻からふーと熱風を放つ。渋い顔をなおさら顰めて。
「人間とはせっかちな生き物だ。まあ、期限があることは確かだから、致し方ない。そう……二、三週間はかかるだろう。準備がいるのでな。」
「二、三週間って……! 王子はいついらっしゃるのですか?」
「さあな。だが、そろそろ来る予定なのだ。」
妖魔は命が長いせいか、呑気である。
「王子に会っても、その方が来るまで渡せないのなら、その間どうしたら良いのですか?」
「何を愚かな。人間同士なのだから、ついて歩けば良いではないか。こんなところで足止めするような真似はするな。代わりの者はどこにいようと必ず追いつかせるから、心配無用だ。では、頼んだぞ。」
反論の余地もなく、イフリートはマントを翻し、青白い炎の塊となって空気に溶けるように消えてしまった。取り残された二人は茫然と立ち尽くした。
「ついて歩くったって……」
「理由も言えないのに……」
サラは、アルディスを見上げて、ちょっと笑った。
「渡すものが、一つ増えてしまいましたわ。」
アルディスは苦々しく笑った。
「会う理由が、一つ増えたというわけだ。」
生ぬるい風が二人の頬を撫でる。赤い玉を、空に透かしてまじまじと見る、サラの横顔に、アルディスは聞いてみた。
「闇の一族の末裔だって?」
赤い玉を胸まで降ろして、夢見るように話す。
「ええ……私は父ほど闇の力が強くはないのです。人の心を読むだけ。魔法らしい魔法も使えない。でも、父はこう言っていました。おまえはいずれ、闇の一族を代表して、大仕事を任されることになるって。それが、これなのかもしれません。」
「……。」
アルディスは、少し黙っていたが、重い口を開いた。
「オレも魔法は使えない。使えないが、風の一族の末裔だ。」
互いを真剣に見つめる。これは、運命というものなのかもしれない。滅びの地で、滅びかけた部族同士、引き寄せられたのだ。シザウィーの王子の名の下に。
「……っ。」
突然、噴き出すサラに、訝しげな視線を投げかけるアルディス。
「ごめんなさい。顔が煤で真っ黒ですわ。」
そう言うサラの顔も、煤だらけである。お互い、緊張の糸がほぐれて、笑い出す。サラは焼け焦げた熱除けマントを外して、アルディスに渡し、
「何か、顔を拭くものと食料を調達してきます。王子がいつ来るかわからないから、ここで張ってないといけません。待っていてくださいね。」
と、足早に街の方へ駆けて行った。
アルディスはその場に座り込み、傍らにサラのマントを置いた。自分のも外し、上に重ねながら、改めて自分たちが焼死体になる寸前であったことを悟り、ぞっとしていた。
いや、その前に瓦礫の下敷きかもしれん。
命からがら。今にして思えば、危険な橋は散々わたって来たが、これ程危ないことはなかった。人の命など何とも思っていないであろうイフリートに殺されなかったのも、奇跡としか言いようがない。アルディスに、あんな上級の妖魔と真面に戦う力はなかった。少なくとも、今は。この先、これ以上の危険が待ち受けているのかもしれないと思うと、さすがの剣の達人も眩暈を覚えていた。
小一時間経って、道の向こうから、元気な娘の声がした。
「アルディスさーん!」
サラが大荷物を両手に抱えて、戻ってきた。アルディスは迎えに走った。彼女の荷物を引き受けると、ずっしりとした重みがくる。
「力持ちだな。」
ただのお嬢さんと思いきや、なかなかどうして、感心することの多い娘だった。
「まあ、女の子に向かって失礼ですわ! これでも結構重たかったのですよ。」
見ると、荷物を掴んでいた指が、赤くなって震えていた。
「分かっている。せっかく雇ったのだから、オレに行かせれば良いものを。」
サラは、痺れる指をほぐしながら言った。
「もう、雇った、雇われたって話はなしにしましょう? これからは旅の同士です。仲良くやっていきましょう。」
差し出されたもみじの手を、アルディスはそっと握った。門の下に腰を降ろして、汚れた顔を濡れタオルで拭きつつ、下に目をやれば、ほぼ真上から日差しが照り付けて、影を濃く、短くしていた。今宵も熱帯夜となるのであろう。野宿には打ってつけだ。風の剣士と花の少女は寄り添って、ただ、時が満ちるのを待っている。異国の王子が、道の向こうからやってくる姿を心に描きながら。