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第一章 旅立ちの春

長い物語の始まりです。まずは主人公目線の話から。千年前の物語は語り手によって文体が変わります。読みづらかったらごめんなさい。

 第一章 旅立ちの春


     4月7日


 ある朝目覚めると、記憶がなかった。そのことに気付いたのは大分後のことだった。何せその日は端からおかしなことばかり起きるものだから、過去に思いを馳せる暇もなかったのだ。

 まず第一に、奇妙な夢。光が暗闇の中からぐんぐん押し寄せて弾けるという、大したインパクトはないはずのものだったが、何故なのか、異様な恐怖を覚えたのだ。

 第二に、目覚めたのが朝だということ。鳥の囀りだの、カーテンの隙間から毀れる朝日の光だの、この部屋で見ることなんて殆どない。いつもなら夜も明けない四時ごろには起きていて、外で剣やら棒やらの修練をして、東の山際がくっきりと浮かび上がる様を望むのである。

 第三に、悲鳴を上げて起きたらしい。それは世話係のマーヤがドアを叩きながら言った台詞で判明した。

「王子、どうなさったのですか? 大きな声を出したりして! マーヤの寿命が縮まりましたよ!」

 彼女の寿命はよく縮む。この十九年間、散々縮めてきたから、そろそろ死んでしまうかもしれない。彼女は昔と顔も体型も性格も全く変わった様子がない、永遠の還暦といった風情の人だ。

「それに、今日は十九歳のお誕生日ですよ! こんな日に限って十時まで寝ているなんて……!」

 ここで、オレはベッドから跳ね起きた。

 

 誕生日は何かと忙しい。普段、庶民より庶民的な運動着で一日をやり過ごすこともしばしば。だが、今日のような日は王子様らしい、小奇麗な格好をしなければならない。朝から各国の偉そうな人たちが祝いの挨拶をしにくるんだ。疎かな姿を見せては国の威信に関わるというわけ。それに、親である王と妃に「産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。立派な王様になってすげえいい国造るから、これからもヨロシク!」てなことを、仰々しい言葉で伝えなきゃならない。

 

 着替えを大急ぎで済ませたオレは、変なところがないか姿見に自分の姿を映して確認した。背丈は百七十五センチ。まあ、男として普通の身長だろう。無駄な脂肪のない、引き締まった身体だけど、ムキムキでは決してない。割と細身だ。名前はレオンハルト。初代国王の名をもらったのだそうだ。男らしい名前だ。ここまでは、いい。問題は、この顔。陶器のように透き通った肌、と皆が言うのでそう表現しよう。その肌に、くっついているパーツが、また馬鹿げている。細めの眉の下に伸びる、長い睫毛。その間から除く、緑の瞳。エメラルドというのだそうだ。すっと通った鼻筋。つやつやとした、サクランボみたいな唇。そして、腰まで伸びた真っ直ぐなプラチナブロンド……。いつみても、女みたいだった。しかも、今日は特別、白いひらひらした衣装を身に纏っている。煌びやかな装飾も施している。王子というより、これは、お姫様……? 苦み走った大人の男には程遠い。いくら眺めてみても、変わりはしない。オレは諦めて部屋を後にした。


 玉座の間へ通してもらうと、そこには両親の王と妃が赤いビロード張りの椅子に腰かけてオレを今か今かと待ちかねていた。

「おお、レオンや。あまり遅いから心配したぞ。挨拶など良いから、近こう、近こう。」

 白い髭もじゃの、いかにも王様らしい風貌の爺さん。彼がオレの父親であり、シザウィー王国の十一代目の国王、アルバート三世だ。そして、彼の左隣に座っている、上品な初老のご婦人は、母親であり、王妃のユリア……。オレは、この老夫婦にとって最初で最後の子供だった。かなりの高齢出産だったことも手伝って、溺愛されて育った。彼らに怒られたことは一度もない。

 王の目の前に跪くと、ごつごつした手がオレの頬に伸びた。そして、つくづくと言ったものだ。

「しかし、何とまあ、美しくなったものだ。」

 オレは、絶句した。王妃も負けていない。

「本当ですこと。このプラチナブロンドの輝きと言ったら、他に類がありませんわ。」

 それが、十九歳になった息子に言う言葉だろうか? オレの呆れ顔に気付いて、二人は慌てて付け加えた。

「あー、いや。背も伸びたのお。背も。」

「ええ、ええ。逞しくなりましたねぇ。」

 まあ、これは憂いても仕方のないことだ。女みたいな顔立ちに生まれたことも、筋肉が付きづらい体質なのも。背丈が人並みに伸びただけでもありがたいと思わねば。


 玉座の間を出ると、そこにはガストン騎士団長が立っていた。眉間に皺、口から唾で怒鳴ってくる。

「王子、聞きましたぞ! 来年は成人を迎えられると言うのに、なんたる醜態ですか! 少し弛んでおりますぞ!」

「あー、ごめんごめん。寝坊のことだろう? 反省するからさあ。朝からあんまり怒鳴るなよ。血圧上がるぜ?」

 この一言が彼をさらにヒートアップさせたのは言うまでもない。ガストンはアルバート三世の弟。つまり、オレの叔父なのだ。見た目は兄そっくりで、白髪か茶髪かの違いくらいしかない。ただ、騎士団全てを統率しているだけのことはあり、武人らしい、気迫に満ちた人物である。

 オレに目くじら立てて吠えてくるのは、彼とマーヤくらいなものだ。

「だいたい、今日はこのシザウィーにとって革命的なことが起こる重要な日だというのに……」

 半分聞き流していた耳に、不意に飛び込んできた台詞。

「革命的?」

 心なしか、彼の声が低くなる。

「シザウィーに魔法使いが初めてやって来るのですぞ! これを革命と呼ばず、なんとするのですか!」


 シザウィーは、この世界唯一の禁魔法国だ。魔法を使うことはもちろん、魔法をかけられたものを持ち込むこと、魔法を使う能力のある人の出入りを禁じている。禁じてはいるが、罰則はない。なぜなら、この国の性質上、上記の事柄は予め打ち消されてしまって、何の意味もなさなくなるのだから。

 シザウィー全土を覆う、真っ白な土壌、及び岩石は、シザウィーホワイトと呼ばれている。他に類を見ないこの土・岩石は、植物を育てることもでき、一般の黒土と性質は然程変わらないように思われる。が、最大の特色として、魔法の一切を無効化するという性質があるのだ。どういう訳でそうなるのかは、まだ解明されていない。魔法を使おうとしても発動されることはなく、魔法をかけられたものは、その性質を失い、魔法使いは何もしなくても立っているだけで精神力を消耗して、ただただ疲れ果てる。はっきりしているのは、その事実だけだ。

 では、何故魔法を禁じる必要があるのか。それは、この国の国民の体質に由来していた。

 千年前まで、この国は他国を凌ぐほどの魔法国家だった。そんな中、国民の大多数が原因不明の病に侵され、長年悩まされてきた。初代国王レオンハルト一世は、優れた魔法使いであると同時に、世界有数の科学者であったと言われているが、彼は研究の末、病の原因は魔法であることを突き止めた。いわゆる魔法アレルギーである。これに罹ると、皮膚病や内臓疾患、その他諸々の症状が出てくる。人によって、また使用頻度の高さ、種類でもそれに影響し、治療方法は千差万別。科学の力では追いつかない。ならば、ということで、いっそ魔法自体、使うのをやめようと初代国王は提案した。もちろん、反発がなかったわけではない。魔法使いによる暴動は凄まじいものがあった。シザウィーホワイトは、この辺りから歴史上に上ってくる。発見されたのか、発明されたのか、それも分からず仕舞いに唐突に現れて、この国の争いに終止符を打った立役者……。今まで多くの科学者たちがその謎を解明しようと身を乗り出してきたが、成果を挙げた者は一人もいなかった。それは初代国王が望んで仕向けた結果でもある。謎が解けてしまったら、その性質を失わせる方法まで見つけられてしまうかもしれない。そうなっては意味がないのだ。目下、謎の究明に一番の手段は、科学より魔法であるという説が有力である。だから、この国では魔法は予め禁止されて然るべきものなのだ。

 他国の魔法使いたちは、シザウィーに来ると魔力が封じられる上に、精神力まで奪われて、中には気絶する場合もあるという話を知っていて、敢えて入国を申し出るような人物もいなかった。若干の例外を除いては。

 魔法アレルギー体質である人の殆どはシザウィー人だが、一万人に一人の割合で、他の国でもその症状を訴える人がおり、もしその人が魔法使いであったとしても、治療のための入国を許されているのだ。どうも、魔法アレルギーには体質遺伝と突然変異があるらしい。では、そんな彼らと今回の入国者との違いは何なのか  。


 忘れてた。今の今まで、忘れるなんてことはなかったのに。しかも、こんな大事を、だ。オレは、足早に自室へ向かった。そう。今日はオレの誕生日でもあるが、初めて健全な魔法使いが訪れる日でもあったのだ。

 あれは、丁度一年前の今日のことだった。誕生パーティの歓談の中、オレに近づく男があった。

「レオンハルト王子、お初に存じます。」

 礼儀正しい感じだった。彼はマーナ国の医師だと言う。他国では魔法による医術が盛んだが、彼のようにイレギュラーな化学による医術を行うものが僅かにいる。オレも医師の資格を持っているから、彼の来城は嬉しかった。いろいろ話を聞きたかったのだ。他国の医療の現場最前線とかを。彼と話をしているうちに、あのことが必然的に話題として浮上してきた。魔法アレルギーの話だ。

「あの病気は魔法から隔絶する以外、本当に治療する方法はないのでしょうか。」

 この質問におれは少し困惑した。オレも、それについて考えたことがないわけじゃない。

「仰ることはわかります。もっと積極的に治す方法はないのか、ということですね?」

「その通りです。」

「我々、シザウィーの医師団も様々な方法を試みてきました。もちろん新薬の開発には多大な資金と時間、そして人手を費やしています。効果的リハビリテーションはないだろうか、食事療法はどうだろうかと、患者の生活にまで踏み込んで調査しましたが、いまいち、改善の道が見えてこない……これが現状です。」

 オレはお手上げのポーズをとってみせたが、彼の目は誤魔化されなかった。

「いや。王子はもう一つの方法にお気づきのはずです。お国柄、よもや口にしてはいけない、あの方法を。」

 オレはびっくりして、彼の言葉を止めようと掌を突き出した。彼は軽く笑って首を振った。

「やはり、ご存知でしたか。よもや、まだ試してはいらっしゃらないでしょうが……」

 慌てて彼をパーティ会場の外へ押しやった。オレの顔は青ざめていたかもしれない。でも、少しだけワクワクもしていた。

  もしかして、見つかったのか? 治療法が……!

 医者の血が騒ぎだす。正直、科学の力に限界を感じていたオレは、魔法で何とかならないだろうか、それも他国の酔狂な医師とか科学者とか魔法使いとかが研究してくれないだろうかと秘かに願っていた。それが現実に?

 彼を自室に連れ込み、衛兵は追い払った。聞き耳を立てられては堪らない。オレが早く真相を聞きたがっている以上に、彼は話したくて居ても立っても居られない様子だった。そして、椅子に座るなり、堰を切って話し始めた。

「王子。私が貴国へ伺い、パーティにお招きくださるよう手配いたしましたのは、この話を是非、王子にご相談申し上げたかったからなのでございます。ご存知の通り、魔法アレルギーはこちらだけの問題ではありません。全世界に十万人、アレルギーに関して知識のない地域の発症者の人数も入れると、推定三十万は魔法によるアレルギーに苦しんでいることになります。しかし、この数字も、自覚のない者や、まだアレルギーになっていないが、何らかのきっかけで必ず発症するであろう、アレルギー予備軍も計算にいれると、もっと悲惨なものとなるのです。医者ならば誰だって、このような病気に目を瞑ってはいられません。我が国マーナは白魔法が盛んな国です。国民の八十%以上がティルート教の信者ですから。」

 ティルート教とは、博愛、節度などを信条としている教団で、恵まれない人々や、病に苦しむ人々を救うために活動している。善良で温厚な性質で、他国への救済も惜しまない。全ての国はマーナを侵攻したり、経済的圧力をかけてはいけないと国際条例まで制定されるほど、世界的信頼が厚い。但し、マーナ国民は、税金の他に教会へ多額の寄付金を支払わなければならない。余程の覚悟がないと住めない国なのだ。

「白魔法は防御と治癒の魔法ですが、皮肉なことに、人助けのつもりで使っているのに、掛けた方も掛けられた方もアレルギーを発症してしまうことが多々ありまして、魔法は魔法ですから、仕方ありません。質が悪いのは、医師の発症率がそうでない者の数十倍だということです。」

 それはそうだろう。治癒の魔法を誰よりも頻繁に使う職業なのだから。

「このままでは、医療を行う者がいなくなってしまいます。大変な事態です。そこで、我が国は、科学系医師団とアレルギー体質でないティルート教団の優秀な白魔法使いとで、総力を挙げ、魔法アレルギーを数十年に渡って研究して参りました。」

「それは存じませんでした。貴国がそのようなことをされていたとは……」

「秘密裏でしたので。マーナから白魔法を取ったら何が残りましょう。その白魔法を否定するような話が持ち上がったりしたら、国内がどんなに混乱することか……!」

「……。」

 いつかのシザウィーの二の舞ということか。

「さて、ここからが本題です。我が国はついに、アレルギー改善の糸口を発見したのです!」

 オレは掌の汗をぎゅっと握りしめた。彼の方は興奮のために頭から汗が噴き出していた。

「その方法に必要なのは、一つの力と、一つの物質でした。力の方は、言わずと知れた、魔法のことです。毒は毒で制するというのは本当のことだったのです。そして、物資の方は……」

 彼は息をぐっと飲んだ。声が急に低くなる。

「シザウィーの白石です。」

 シザウィーホワイトはシザウィーから持ち出すことを禁止されている。どんな小さな欠片でもだ。シザウィーにとって最大の盾であり、武器でもある。それを他国に利用されては堪らないし、秘密を解き明かされても困るのだ。なのに、彼は何と言っただろうか。

「つまり、あなた方は、禁帯出のシザウィーホワイトを、研究目的に盗んだと? それとも、我が国に内通する者がいるのですが?」

 いかなる事情があろうとも、シザウィーを危険に貶めるような行為を、仮にも王子と呼ばれているオレが許すわけにはいかない。

「ああ、どうかお怒りをお静めください。確かに、我々が取りました行動は許すまじことかもしれません。マーナにとっても恥ずべき行為です。しかし、例え、泥棒と蔑まれようと、人命を救うという大事のためなら、己の建前など顧みないのも、またティルート教徒ゆえなのです。白石の入手ルートについては、申し上げることはできません。同胞を売るような真似は、それこそ教義に反しますので……」

 宗教の話などどうでも良かった。問題は魔法プラス白石という、シザウィー二大タブーのコラボレーションだ。

「犯罪行為の件はひとまず置いておきましょう。私としては、魔法を無効化するはずの白石が、魔法の力を受け入れて、何らかの効果をもたらしたという話の方が興味をそそられます。」

「ごもっとも。その方法を思いついたのは、一人のティルート教徒でした。白魔法に関しては、マーナ随一。恐らく他の国の白魔法使いでも、彼に匹敵する者はそうそういないでしょう。しかも、頭脳明晰で、冷静沈着なところが買われ、若干二十六歳にして教団ナンバー2にまでのし上がった実力派。そういった人物です。

「魔法や宗教に疎い私でも、それだけ情報を頂くと、さすがに分かります。」

 ディーン・カウラという人物だ。五つのアカデミーを首席で、しかも、たった五年で卒業すると、それはそれは有名になるものである。

「彼が言うには、白石は元々、ただの石で、そこに魔法が加えられて、今の姿になったと言うのです。だから、逆の性質の魔法をかければ元に戻ると。単純に言うとそういうことだそうです。」

 オレは、拍子抜けして言った。

「確かに、単純ですね。」

「単純ですが、魔法の種類は星の数ほどもあるわけで、それをいちいち白石にかける作業は、正しく気の遠くなるものでした。」

「いちいちかけたのですか?」

「はい。一センチ角の白石に、実際に魔法をかけていきました。宝箱などにかけられている、防犯の魔法……いわゆる罠ですね。それを解くための魔法も多々ありますが、白石にかけても消えてしまいます。道具にかけられた魔法を調べる魔法も然り。つまり、白石にかけられている魔法を調べる手立てが現実にないのです。魔法を無効化する魔法というのが、いくつかありますが、手始めはそれらから試していきました。今にして思えば、意味のない行為でしたが。」

 既に無効化しているものに同じ魔法をかけてもなあ……。

「次に、魔法の力を増幅する魔法です。無効化の反対として、ですね。まあ、これまたあっさりと、かき消されて終わりです。そこからはもう、我々も半分ムキになって、片っ端から、ありったけの魔法をかけていくことにしたのです。ディーンは、初めから、そんなことは時間の浪費だと反対していたのです。サルだってもっとましなことを考えるだろうと……」

 オレもその場にいたら、そりゃあ、そう言うだろう。

「ところがです。その無駄な行為が、思わぬ結果をもたらしたのです。」

 オレは身を乗り出して続きを待った。

「なんと、白石は粉々に砕けてしまったのです。」

「……砕けた?」

「そう。音もなく静かに、さらさらと。砂に変わったと申しますか……」

 何てこった! 完全無欠の白石が、欠けるどころか砂になっただって? オレはがっくりきて、項垂れてしまった。

「いや、いや。王子、そんなに落胆されますな。その実験に使った白石というのは、ほんの一センチ角の欠片なのです。対して、それにかけた魔法など、数百の魔法使いが数千の魔法を、といった具合で、返ってシザウィーホワイトの堅牢性を証明したくらいなのでございます。」

 それを聞いて、オレは心底胸を撫で下ろした。

「で、まあ、我々は砂になったとはどういうことかと検証いたしました。砂の成分を試しに魔法や科学の力で分析してみたのです。元の白石の時はもちろん不可能でしたが、この砂の場合、他愛もなく調べることができました。砂は、ケイ素、雲母などで構成された、要するにただの砂。土や岩石そのものでした。」

「では、カウラさんの説が正しかったわけですね。」

「仰る通りで。そして、判ったことはそれだけではございません。質量保存の法則・・・王子はご存知でしょう。物質は変化すれど、消えることはないという、あれです。我々のかけていった魔法は目に見えませんが、確かに存在する物質なのです。では、その魔法はどこへ行ったのか?」

「白石の中……」

「そうです! しかし、砂になった白石から、魔法は検知されなかった。ということはですよ、白石にかけられていた魔法は、我々がかけていった魔法によって消されたのではなく、中和されたというわけです。そして、それは、とてつもなく強力で、とてつもなく複雑なものである上に、この世のものとは思えない、全く新しい種類の魔法だと言えましょう。」

 新しい種類?

「つまり、我々が使っている魔法をプラスとするなら、マイナスの性質を持つ魔法だったのです。」

 オレは、かなりの間抜け面であらぬ方向を見つめた。元々、魔法には縁がない生活を送っているんだ。珍しい魔法の話なんかされても、しっくりこない。彼はオレの顔を見て、思い出したように、かいつまんで説明する必要性を悟った。

「我々は、火を消すために、水をかけようとしていたのです。でも、その火は水では消えなかった。そこで、別の火を近づけてみると、お互い消えてしまった」

「プラス・マイナス・ゼロ」

「そういうことです。」

「よくわかりませんが、それでは、そのマイナスの魔法をかければ魔法アレルギーが中和されるというわけで?」

「そうです。しかし、そんな魔法を使う術などありません。あまりに珍しい、特殊な魔法です。人間業ではないと断言して差し支えないでしょう。」

 そんな絶望的な話をして、何になる? オレをがっかりさせるために来たのか? 散々人を期待させておいて……。

「そんなに気を落とされますな。我々凡人にとっては人間離れしていると思えても、実際、あの白石にマイナスの魔法を唱えた人物が確かに存在するのです。いや、もしかしたら、それは人物ではないかもしれませんが。」

 ゾッとする話だ。

「妖精や妖魔、ということですか?」

「はい。申し上げにくいのですが、敢えて言わせていただくなら、初代シザウィー国王は優れた魔法使いであると同時に優れた科学者であり、そして妖魔王とも通じていたという伝記が残っております。二人が協力してやったのなら、納得がいきます。」

 はっきり言ってくれるじゃないか。しかし、そういうことなら、昔から囁かれていることだ。シザウィーホワイトは初代国王と妖魔王によって創られたんだってこと。

「初代国王は既に他界しておられる。千年前の話ですから当然であります。しかし、妖魔王は……」

 妖魔王の寿命は一万年とも百万年とも言われている。人類がその存在を認識してから、代替わりはしていないとされている。つまり、

「まだ、生きている!」

 しかし、だからと言って、どうしようと言うのか? 妖魔王が住む、妖魔界への行き方なんて、誰も知らないし、知っていたからって、そんな怪しげな所に誰も行きたがらないだろうし、そもそも妖魔王ってどんな奴なんだ? 会話が成立するのだろうか。

「妖魔王に期待を抱くのは、ちょっと……」

 オレの正直な暗い気持ちは、彼の眩いばかりの希望の前に打ち捨てられた。

「何を仰いますか! 初代国王は妖魔王と接触しても無事でしたし、寧ろ、無二の親友であったとすら言われているのです。妖魔という言葉に惑わされてはなりません! 今や彼は我々人類の希望という名の光です!」

 おかしな話だ。ティルート教は、彼らの使用する魔法の性質上、妖精族と深い関わりを持っていると言われている。彼らが神々と崇めているのは、実は妖精王なんじゃないかって、噂もあるほどだ。なのに、それと敵対関係にある妖魔王にい縋ろうとしているのだ。何という柔軟な姿勢だ……ていうか、信念はどこに行ったんだ? 妖魔は明らかな異端だろうが。

「王子。仰いたいことはわかります。妖精は創造、希望、光の象徴であり、妖魔は破壊、絶望、闇の権化です。妖精ならともかく、妖魔に助けを乞うなど、ティルート教として如何なものか、ということですね? しかし、妖精=善、妖魔=悪とは限りません。そんなものは人間の勝手な思い込みです。ろくに接したこともないのに、決めつけるものではありませんよ、王子。我々に危害を加える妖魔はほんの一握りです。一番悪さを働いているのは、残念ながら人間なのです。その事実を忘れないでいただきたいものですな。」

 正論だ。ティルート教っていうのは、博愛だのなんだの信条が感情的だと思っていたけど、理知的で現実的な面が根本にあって、それだから他国からも支持されているわけだ。オレは少し安心した。

「それで、シザウィーとしては、何ができるでしょう?」

 やっと本題に移れる。

「はい、実は……」

 この先が、思い出せない。


 肝心なところが思い出せないが、とにかく、魔法アレルギー対策を練るために妖魔王と接触して、助言、もしくは協力を仰がなければならない。その行動をとるに当たって、マーナから使者が来る。それが今日だ。使者って誰だっけ……? 魔法使いであることは間違いないが、部屋へ戻れば、何かしら資料があるはず。そう思って来てみたものの……

「ない!」

 起きた時は気付かなかったが、本棚も机の中も、文書という文書、全て根こそぎ消えている。おかしなことに、鍵のついた戸棚は空っぽな上に、ご丁寧に鍵がきちんと掛けられていた。この鍵はちょっとした細工が施してあって、オレしか開けることも閉めることもできないようになっている。しかも、合鍵はない。オレが持っている、この一本だけ……。

「まさか、オレがやったんじゃないだろうな。」

 頭の中が真っ白になる。オレには、本来、文書なんか必要ない。読んだ内容はその場で全部覚えてしまうから。忘れたこともなかったし。だから、オレにとって文書というのは、人に見せるためのもので、人に見られて困るものは端からとっておいたりしないのだ。戸棚に仕舞っていたのは、ちょっと値の張る、入手が難しい書物だったから、盗難防止に鍵を掛けていただけだ。これだけがなくなったのなら、説明はつく。泥棒の仕業だと。全部ってのはどういうことだ? 戸棚の戸に手をかけながら、茫然となる。

「これじゃまるで……」

「記憶を取り戻さないように、処分した。」

 オレは、一センチくらい飛び上がったかもしれない。後ろを振り返ると見知らぬ男がすぐ側で立っていた。足の先から、頭の上まで、二、三回眺めて、最後はその顔を穴が開くほど観察した。

 足の先は、床すれすれの長いマント(黒装束というのか)に隠れて見えなかった。真っ白な手がやたら浮いて見える。黒装束に垂れる長い髪は、艶消しのド真っ黒。直毛だし、痛みも全くないようなのに、艶がない。こんなの初めて見たが、もっと驚いたのは、彼の顔、特に目だ。どちらかというと、青みを帯びた真っ白な顔に表情はなく、唇はやや紫がかった灰色のような……いや、やはり白いような。目は、白目に透明な瞳。中心に黒い瞳孔がポツンと置かれている。一見しただけだと、白目と瞳の境目が見えず、瞳孔の黒い点しか認められない。こんな恐ろしい目が、こんな奇妙な風貌があっていいのだろうか?

「何だ、お前は……」

 言いながら、彼の後ろのドアに目をやった。どうやって入ったんだ? 鍵を掛けたのに。それに、気配が全然なかったし、今も感じない。どうなっているのだろう。

「私はアルフリート。お前の記憶を消したものだ。」

 抑揚のない声。しかし、迫力のある内容にオレは眩暈を覚えた。

「文書の類は、お前が自分で焼却処分した。」

「自分で?」

「思い出す可能性をなくすためだ。」

「な・・・」

 何のために? と聞くより早く、彼が遮る。

「お前はこれから、直ちに城を出なければならない。」

 何?

「そうしなければ、お前は死ぬ。」

 何だって!

「準備は既にしてある。」

 彼の右手が僅かに動いた。振り返ると、机の横に一抱えの布袋が置いてあった。これも自分で用意したのか? 中身を確かめる間もなく急かしてくる。

「それを持って城を出ろ。」

「出ろったって……」

「人に気付かれてはならない。方法は自分で考えろ。」

 おいおい!

「ちょっと待ってくれよ! 急にそんなことを言われたって、納得できるわけがないだろう? 何で城を出なきゃ死ぬんだ? それを教えてくれよ!」

 できれば、記憶を消した理由も是非知りたいところだ! オレの興奮は彼に伝わらなかった。感情のない冷たい声が響く。

「説明をする暇はない。説明をしたら記憶が戻りかねない。今、記憶が戻ると、計画が水の泡だ。」

 計画……?

「事態を好転させるために、必要なことなのだ。お前はわざわざ全ての文書を燃やし、戸棚に鍵を掛け直した。自分の意志をお前自身に伝えるために。」

「オレが立てた計画なのか?」

「そういうことだ。」

「……。」

 彼の言うことをどこまで信じられるだろう。信じられるものか。だけど、これは確かに、オレの仕業だ。何故なら、あの戸棚の鍵を開け閉めできる人物は他にいるかもしれないが、布袋の口に突っ込まれた脱出経路を事細かに書き記したメモは、オレの筆致だし、城の構造をここまで知っているのは、やはりオレくらいしかいないのだ。とりあえず、その「計画」とやらに乗っかってみようじゃないか。

 オレは、正装をといて、動きやすい服に着替えると、天井の隅に位置する排気口の金網を、暖炉にあった火かき棒で引っかけて外し、今度は鉤針のついたロープを放り上げ、よじ登った。こういうことをするのは初めてではない。慣れたものだ。もっとも、それは子供の頃、排気口の向こう側の世界に興味を抱いて、ちょっと探検してみただけのことで、当時は城を抜け出す必要性なんか感じていなかったから、あまり奥深くまではいかなかった。ただ、城の歴史を学んでいくうちに、どうもこの排気管は、王族が緊急時に避難経路として使えるように設計されたものらしく、少々広めに、大人が四つん這いで進める寸法で造られているということだった。ただし、侵入者に対するセキュリティーは徹底しており、罠に引っかかると、串刺し、水責め、閉じ込め等々、お決まりのパターンで制裁を加えられ、生きて城内に潜入することも、城外へ出ることもできない。罠を解除する方法はなく、ただ、正しい道順を行くのみ。その道順は、王族しか知らない・・・となっているが、実際は王族も知らない。なぜなら、この城を建てた初代国王レオンハルト一世が、城の秘密を誰かに伝える間もなく夭折してしまったからである。建設に関わったものは、まだ魔法が使われていた頃に記憶を消されてしまっている。今のオレみたいに。当然、城の設計図は処分されている。排気管の謎を解明しようとして、中へ入り、生きて帰って来れた者はなく。従って、この排気管は、千年もの間、空気以外の何物をも通さない、ただの排気管としての役割を担うだけのものとして存在していたのだった。

 オレはいずれ、この城の主になるわけだから、その構造くらいは知っておいた方が良いだろうと、ありったけの資料を掻き集め、調査、分析し、実際に寸法を測ったり、材質を調べたりして、図面を引いたことがあった。排気管の構造は、完全にはわからなかったが(自分で直に調べたら危ないし、人に調べさせて解明されても、それはそれで困るし)、超音波で壁の厚みとか、空洞があるかどうかとか、大凡の見当をつけられる装置を作って調べた結果、排気管は各室の端を通って、網の目状に張り巡らされていることが判った。先端は外壁まで到達し、砲撃に備えて鋼鉄のフードが被せてあり、その内側には鉄格子が嵌められている。形状自体は至ってシンプルなのだが、罠に関しては調べることはできなかった。

 でも、オレはいくつかの仮説を立てていた。王族の避難経路がだ、そんなに複雑だったら用をなさないじゃないか。単純明快な、急いでいても決して間違えないような、何らかの法則性があって然るべきだ。南へ五マス進んだら西へ五マス進むとか、Sの字に進むとか、聞いてしまえば、なぁんだ、となるような種明かしが絶対にあるはずなんだ。

 その仮説を、オレはたぶん、絞り込んで、ある一つの法則に辿り着いたのかもしれない。あるいは、誰かに先を越され、教えてもらったとか……例えば、黒ずくめの男に。奴なら、そんなことも可能な気がした。鍵の掛かった密室に、音もなく忍び込んだ手口。マーナの医師がいうところの、人間業じゃないっていうやつだ。いずれにせよ、城の脱出経路はオレの手で記されていた。

 しかし、これは……?

 

 排気管は鉄板でできていて、ひんやりと冷たい。中は、各室の排気口の辺りを除いて真っ暗だった。小型のカンテラで照らしつつ、慎重に進み、排気口からの灯りが見える度、カンテラの照明部を閉ざした。排気管の中を歩いていることが知られないように。

 それにしても、進めば進む程、もやもやとすっきりしないものが胸の奥から込み上げてくる。図面に記された矢印は、あまりと言えばあまりに単純だった。

 オレの部屋から、城の裏側まで一直線。頭の中で思い描いた軌跡と随分かけ離れた、「それ」は、シザウィーの千年の歴史とか、オレの数年間の研究を小馬鹿にしたようなものだった。そんな蟠りを知ってか知らずか、背後から、例の抑揚のない声が響く。

「排気管の罠は、七年前に全て解除されている。」

 オレは、勢いよく身を起こしてしまい、頭頂部を排気管へ強かに打ち付けてしまった。

 

 ――何だってぇ?

 

 痛みと衝撃でうまく言葉が出ない。

「オレが……?」

 短い一言だったが、彼には十分だったらしい。

「いや。」

 簡潔な答え。その先は聞きたくないから、敢えて問い質さなかった。オレ以外の奴が解除したのなら、もう誰がやったって同じだ。シザウィーに纏わる謎だの何だのに首を突っ込んで、これ以上事態を複雑にしたくなかった。

 部屋の灯りとは違う光が見えて、オレは城壁まで辿り着いた。排気管を四つん這いで歩き始めた時から、ある疑念が頭の中を満たしていて、思い切ってそれを確かめるために、後ろを振り返ってみた。やはり、誰もいない……。「彼」はどこへ行ったのだろう。彼の背丈はオレと同じくらいだったから、四つん這いじゃないと排気管の中を進めないはず。衣擦れの音も気配もしないから、少なくとも、排気管に入った瞬間から、彼とは別行動になったものと思っていた。ところが、先程の声は、オレのすぐ後ろから聞こえたんだ。実は付いて来ていたのか、とその時は納得しようとしたのだが、どうも合点が行かない。あの格好で、あの嵩張りようで、無音で這いずる技術とは何ぞや? 途中、ちらちらと横目でもって背後を確認したんだが、相手は闇夜の烏そのもので、照度を落としたカンテラでは、よく見ることはできなかった。で、外の陽光で確かめてみたら、いないときたものだ。オレは冷や汗と身震いで、気が遠くなりそうだった。気味が悪いぜ、全く……。

 排気口のフードから顔を乗り出してみる。鉄格子の下には、新緑の植木や淡い色の花が風に揺れていた。地面までの高さは百メートルはあるだろう。オレが落ちて平気でいられる高さは十メートルが限度だ。ロープの長さは二十五メートル。残り六十五メートルをどうするか……。城壁には、排気口の他に、鋼鉄の枠がはめ込まれた窓があった。各階の窓までは届きそうだから、そこで鉤爪を引っかけながら降りたらいけそうか? 人に見られない保証はないが……。心配していたらキリがない。行動あるのみ。実際やってみると、案外うまくいって、十分とかからず地上へ降り立つことができた。

 すぐそこに裏口の扉があって、門兵が立っているはずなんだが、いなかった。その代り、見慣れない荷馬車が一台停まっていて、馬がぶるるっと小さく嘶いていた。荷台には大きな木箱が一つだけ積んであった。オレはその中に迷わず入って息を潜めた。例の脱出経路にメモしてあるシナリオだった。箱の横板をなぞると、木の節目に触れて、押すと一センチくらいの穴を開けることができた。これで窒息死はしなくて済みそうだった。穴から外の様子を伺っていると、扉の内側から声がして、まもなく三人の男が出てきた。二人は見覚えのある若い門兵で、一人は見知らぬ老人だった。

「いやいや。助かりましたよ、旦那方。」

 しゃがれた声に、しわくちゃの、満面の笑み。灰色の豊かな髭が顔半分を覆っている。

「いいってことよ。しかし、爺さんも災難だったよな。」

「全くだ。箱の中身を抜き取るなんて。」

「そいつを盗んだって言うのなら分かるが、爺さんの家に置いておくなんて……。」

「気づくのが遅かったら、爺さんが盗んだことにされていたぜ。」

「朝起きたらびっくりですわい。ベッドの横に見覚えのあるものがいつの間にか置いてあるんですからなぁ。生まれてこのかた、人様に恨まれるようなことをした覚えはないんじゃが……。」

「分かってるって、爺さん。あんたは悪かねぇ。ただ、世の中にはおかしなことをする奴がいるってことさ。」

「しかし、昨日運んできた時には確かにあったし」

「城の中に忍び込んで、誰にも見つからず持ち出すなんて」

「オレたち門兵がいるのに」

「一体どうやって?」

 門兵の二人は、お互い向き合って真っ青になっていた。ことの奇妙さに身震いさえしていた。ある単語が頭に過ぎっていたが、そのことは口に出さなかった。シザウィーではあってはならないし、ありえないことなのだから……。

 オレは、これが誰の仕業なのか、薄々感づいていた。たぶん、この箱の中には、オレへの誕生祝の品が入っていたのだ。運送屋であろう爺さんは、昨日のうちに箱ごとそいつを城の中へ運び込み、置いて帰った。しかし、箱の中の品は抜き取られ、爺さんが寝ているうちに家の中へ置かれ、朝起きた爺さんがそれを見つける。どうするか? もちろん、別の箱に入れて再び城へ運ぶに決まっている。誕生祝の品は、パーティが始まる前、つまり午前中には送られていなければならない。そうしないと、彼は泥棒にされてしまう。そして、城にある、もともと入っていた箱は、今オレが入っているような、節がすっぽり抜けてしまうようおな安っぽい代物であってはならない。オレが言うのもなんだが、王子様への贈り物なんだ。たかが箱だって凝ってなきゃいけないんだ。だから爺さんは、ここに着いた時、中身だけ持って、元の箱へ入れたに違いないこの箱の大きさからいって、中身は直径八十センチ、高さ一メートルくらいの壺じゃないだろうか。隣国に毎年そういうのを贈ってくる王様がいるんだよな。そんなデカい割れ物を小柄な爺さんがえっちらおっちら運んでいる  門兵が黙って見ていられるわけがない。一人だけ手伝えば済むものを、三人で運んだ方が早いと踏んだんだろう。見張りの任務を放っぽり出して行ってしまったのだ。そのお蔭でオレはこうして箱の中へ人知れず忍び込めたわけだが、情けなさにため息が漏れてしまう。

 爺さんは二人にひたすら礼を言いながら、馬車を出発させた。彼は門兵たちと結構な顔馴染みであるらしく、行く先々の門で軽い世間話をして、荷物のチェックなどされることもなく、あっさりと第二、第三の関門を突破してしまった。なるほど、この爺さんでなければ、いけなかったんだな、この役は。

 

 シザウィーを出て、二、三時間も走ったのだろうか。馬車は隣国のルオッタに入り、やがてある店の前で停まった。穴から肉が焼かれた匂いとか、野菜が煮込まれた匂いなんかが入ってくる。食堂なんだろう。爺さんはその店の中へ消えていった。夕べから何も食べていないのだろう。遅い朝食を摂りにいったのだ。

 辺りに誰もいないのを見計らって、箱をでる。新鮮な空気を胸一杯に吸った。懐中時計は十五時を指していた。さて、これからどうしたものか……考えあぐねる間もなく、背後からまたしても、あの声がやって来た。

「お前はこれから、魔法を身に付けなくてはならない。」

 吐いていいなら、吐いてしまいたかった。こいつ、どうやってここまで……? いや、その前に、とんでもないことをさらりと言いやがったぞ? 魔法は服じゃねぇ。身に付けるってことはつまり……?

「何言ってるんだ! そんな……そんな、いきなり、何で……!」

 馬車に長いこと揺られたことも手伝って、目が回った。馬鹿じゃねぇのか? よりにもよって、禁魔法国の、それも王子だぜ? オレだけじゃない。国の問題、大問題になるようなことを、よくも平気で……!

「うっ……!」

 腹から上がってくる酸っぱいものをどうにか堪えて、顔を背けた。こいつの目を見ていると、余計気分が悪くなりそうだった。それに、容赦ない物言い。

「そうしなければ」

 前に聞いた言葉。だが、続きは違っていた。

「お前は全世界を滅ぼすことになる。」

 随分話がデカくなったものだ。身近な質問を取り敢えずしてみる。

「オレが死ぬってのは、どうなったんだよ?」

 彼の眉は一ミリだって動かない。

「城を出た時点で、確率は八割軽減された。追って来る可能性はあるが。」

 追って来るって、何が? と思ったが、今度は大きい方の質問をしてみたくなった。

「何で世界を救うために、オレの魔法が必要なんだ?」

「救うためではない。滅ぼさないためだ。」

 訳が解らなかった。救うことと、滅ぼさないことが違う意味だって言うんなら、それはつまり、オレが世界を破滅に導く恐れがあって、食い止めなければいけないってことになる。オレに、そんな歪んだ願望なんてないぜ? ていうか、そんな力もないしさ……。返って、魔法なんか覚えた方が危険性が増すんじゃないか? どうせ大したことないだろうけど。

「世界が滅びるくらいなら、オレ一人が死んどけば良かったんじゃ……」

 言いかけて、絶句した。一瞬、無表情な顔に、怒りの色が滲んだような気がしたから。でも、やっぱり、彼の口からは相変わらずの棒読みしか聞こえてこない。

「お前が死ねば、他の者が滅ぼす。それだけのことだ。」

 また感情を見出せるんじゃないかと、彼の顔をまじまじと見つめたが、結局微塵の変化も感じられなかった。あきらめて、目下、実質的な(オレには全然実質的ではないが)問いを投げかける。

「魔法って、どうやって覚えるんだ? お前が教えてくれるのか?」

 答えは答えになっていなかった。

「お前自身が覚えるのだ。」

 それは、そうだろうよ。おれが知りたいのはだ、覚える主体じゃねぇ。覚えさせる客体の方なんだよ! 何でこんなに意思の疎通が図れないんだ? 歯がゆいにも程がある!

「お前に言っておくことがある。」

 人の気持ちを尻目に、彼は勝手に話し始めた。

「私には、魔法を使う能力があるが、お前の手助けに利用することはない。固定観念は感性を鈍らせる。故に、直接魔法の使い方を教えることも、使って見せることもしない。」

 魔法には感性が必要ってことか。始めからそう言えばいいものを。でも、どうやって覚えるんだろう。

「私は常にお前の側にいるが、姿は普段見えないようにしている。私の存在を人に知らせてはならない。そのために計画が狂いかねないと判断した場合、私の姿を見た者、存在を知った者は、しかるべき処置を行う。」

 処置……記憶を消すってことか? それとも……? 鳥肌が全身を駆け巡る。

「これを首にかけておけ。」

 どこから取り出したのか、彼の白い手がぶら下げて見せたもの。それは漆黒の竜の彫り物がしてある円いペンダントだった。

 オレは何故かぎょっとした。どこかで見たことがある。これは、元々、オレのものではなかっただろうか? 記憶をたどるように、ペンダントを目でなぞり、指先でも直になぞってみたが、そこから新たな発見は生まれてこなかった。

「人目につかぬよう、懐に隠しておくのだ。そこに私は身を潜めていよう。」

 えっ? と思ったが、まあ、いる場所がはっきり分かっている方が、こっちも安心だよな、と納得した。背後からいきなり話しかけられるのは心臓に悪いし。ペンダントの中に小さくなって収まっている彼の姿を思い浮かべながら、オレは口の端を引きつらせた。やっぱり、魔法は肌に合わない。

「それから」

 彼にしては、珍しく……という程、付き合いは長くないが、珍しく、言葉を溜めた。発言してもいいものかどうか迷っているみたいだった。もちろん、表情には一片の歪みもない。

「私は、人の心が読める。」

 永遠のような、沈黙が訪れる。実際は二、三十秒だったんだろうけど、言葉の意味を飲み込むまで、そして、これまでの自分の思考の数々を、特に、彼に対する思考について振り返るに当たり、死ぬ直前の人が見るという、走馬灯のようなものがぐるぐると頭の中を駆け巡って、止まることを知らなかった。終いには、逆切れまで起こすほど混乱して、つい、大声を張り上げてしまった。

「そういうことは、もっと早く言えっていうんだよ!」

「大声を……」

 言いかけて、彼はふいに消えた。あれっ?と周囲を見てから、ペンダントのあるところ、胸の辺りに手をやった。そっか。ここに入ったのか……と思うや否や、食堂の窓が開いて、さっきの爺さんが顔を覗かせた。

「若いの、何を一人で怒鳴っておるんじゃ?」

 くっそぉ、これじゃまるで、オレが変態みたいじゃないか! もう一人いたってことは言えないし……。

「あー、えっと。ちょっと……」

「ちょっと?」

「怒鳴る練習を……」

「練習じゃて? おい、皆、聞いたか。近頃の若い者は勉強熱心じゃわい!」

 店の中で、どっと笑いが起こるのが聞こえた。オレは足早にその場を立ち去った。


 ――おいっ! オレはこんな恥をかいたことはねぇぞ!

 

 走りながら、奴に向かって思念を飛ばしてみた。頭の中に直接抑揚のない声が響いてくる。


 ――このように、口を開かずとも会話はできる。無駄口を叩く間に、なすべきことをするのだ。


 ――なすべきことをねぇ……。

 

 冷静さを取り戻したオレは、なすべきことについて、順を追って考えることにした。まず、オレは、あの爺さん同様、夕べから何も食べていないと思う。覚えていないが、少なくとも朝も昼も食べていないのは確かだ。従って、何か腹に入れなければいけない。状況が状況なだけに、空腹は然程感じられないが、腹が減っては戦はできないのである。それから、陽も傾きかけていることだし、寝床の確保もしなければならない。四月とはいえ、まだ夜は冷えるから、野宿するにはテントとか寝具とかが必要だ。だが、オレの手荷物には入っていない。宿を探さなければならないのだ。そこで魔法を習得するための気持ちを整えて……はて、それにしても、何か一つ、忘れているような気がする。記憶を消されてはいるが、思い出したこともあったではないか。まあ、それについては、後でじっくり考えるとしよう。

 露店が並ぶ通りを見つけて、その中の一つ、パン屋の前でオレは足を止めた。上等ではないけれど、素朴でうまそうな、そして何より安価なパンばかりが揃っていた。たぶん、これは長い旅になるだろう。何せ、世界の存亡がかかっているらしいから。だから、金はケチるに限る。凡そ、王子らしい発想ではないことくらい、自分でも承知している。でも、好きなんだよな、節約が。オレの前世は貧乏人か商人だろう。

「これ一つ。」

 ナッツがぎっしりと詰められているパンを選んで、財布を開く。開いてみて、オレは固まってしまった。

「どうしました?」

 目の前で固まっている客に、首を傾げる店主。パンみたいな顔をしている。財布の中は、全部金貨で、三十枚ほどあった。これ一枚で、パンが千個買えてしまう。旅が長くなるという予測と、荷物を少しでも軽くしようという思いからなんだろうけど……どう見積もっても、この店に釣銭はなさそうだ。困っているオレを見て、不審に思ったようで、眉間に皺寄せた店主が、オレの財布を覗き込んだ。空だと思ったんだろう。覗いた途端、目が見開かれ、驚愕の表情に変わった。こんな大金、彼は見たこともないはずだ。彼が言葉を発するより早く、オレは財布を布袋にしまい込んで、さっさとその場を後にした。大金は、一般大衆には目の毒だ。温厚な人物の性格を豹変させてしまうことっだってある。何でそんなことを知っているのやら。しかし、困った。宿屋なら、釣銭があるかもしれないが、いずれにせよ、どこかで両替してもらった方が安全のためだ。

 そんなことを考えながら歩いていると、思った通りの展開が待ち受けていたのだった。

 人気のない路地裏にいつの間にかやってきてしまった。変な空気を感じて、慌てて引き返そうとしたが、時既に遅し。逆光を背にした男たち数人に、瞬く間に取り囲まれていた。どいつもこいつも、にやけた面で、じわじわとにじり寄ってくる。飢えた獣みたいに目をぎらつかせている。

「よお、あんた。町じゃちょっとした噂だぜぇ?」

「何か、大変なものを持ってるそうじゃねぇか。」

「悪い奴らに狙われるといけねぇ。オレたちが預かってやるから、こっちによこしな。」

 毛深い手が、差し出される。何だろう、この感じ。前にも似たようなことがあったような……。この期に及んで、オレは呑気に失われた記憶に思いを馳せていた。

 自分たちの精一杯のブラック・ジョークが全く耳に入っていないことに気付いて、彼らの笑みは消え去った。

「早くしろ! 聞こえねぇのか!」

「財布をよこせっつってんだよ!」

 示し合わせたかのように、彼らは一斉に飛びかかって来た。


 ――ああ、これも、同じだ。

 

 そう思ったところで、思索にふけるのを一旦打ち切り、応戦態勢に入る。

 一人目。手を下へ払い、背中に手刀をくれてやる。

 二人目。顎の下に肘鉄を食らわす。

 三人目。耳の付け根に回し蹴り。

と、言った具合に、一通り打撃を与えてやった。やられっぱなしの彼らは、数歩下がって本気モードに入る。ナイフを取り出し、西日を反射させた。今度は慎重に姿勢を低くして、オレの出方を窺っている。

 あまり覚えていないけれど、オレは実践経験が豊富で、めちゃくちゃ強いという確信があった。体の方は、全て覚えていたのだ。

 彼らのナイフを見て、もう一つ思い当たることがあった。荷物の中に、組み立て式の棒が入っていて、これがオレ愛用の武器なんだということを。棒術はシザウィーの国技だ。

 素手で闘っても何の問題もなかったが、試しに使ってみたくなった。それで、おれはこの緊迫した状況下にも関わらず、悠長に棒をつなぎ始めた。彼らの顔には明らかに動揺が広がっていた。

「てめえ、なめてんじゃねぇ!」

 ごつい拳が飛んでくる。

「できた!」

 おもちゃかなんかを作り終えた子どもみたいに、無邪気に声を上げて、棒を眺める。アルミニウムでできた、なんてことないただの棒。シザウィーホワイトの粉末が練り込まれていることを除いて。

 次の瞬間、白い弧を描いて、棒が空を斬る。その先で、男がぎゃっと鋭い悲鳴を上げて倒れ込む。気絶しただけだ。他の奴らが驚きと怒りを一緒くたにして、襲いかかってくる。

 今度は、地面すれすれに大きな円を描いた。まんまと足を掬われて、気持ちいいくらい宙を舞い、無様に尻餅をつく男たち。そのうちの、リーダー格っぽい男の喉笛辺りに棒の先端を突きつける。

「どうする?」

 小市民のごとく、哀れな裏声が返ってきた。

「かっ、帰ります! ごめんなさい!」

 一目散とはかくありきの走りっぷりで、奴らは去って行った。

 見送ってから、はっとする。他の連中にオレの噂をばら撒くなって口止めするのを忘れてた! こりゃ、早々に街を出て行かないと、シザウィーの人間に見つけられるのも時間の問題だぜ。

 取り敢えず歩き出そうとした矢先、塀と塀の間から、突然拍手が鳴り響いて、オレは慌てて振り返った。

「いや、お見事。さすがです。」

 男が一人、出てきた。さっきの連中とは明らかに違う人種。風格というべきか。

 頭には白いターバンが巻かれ、緩やかに縮れた金髪が下からはみ出している。額には、一カラットくらいの白濁した半透明の石(たぶん、ムーンストーンじゃないかと思う)が、品よくはめ込まれていた。切れ長の、淡い空色の瞳には、分厚い眼鏡が被されている。すらっとした身体を覆う、だぼっとした白のローブに白のブーツ。そして、脇に抱えていて、たった今右手に持ち直した白木の杖。この杖にも、額と同じ石でこぶし大のものが、上端に取り付けられていた。この出で立ちは、まさしく、ティルート教徒……。

 野蛮な人間を見た後だからか、異様に神々しく感じられた。人にはいろいろな笑い方があるが、彼の場合、知的な笑みの見本とも言うべきもので、涼しげで端正な顔立ちに、この上なく似合っていた。齢の頃は、二十七、八といったところか。その彼が、うやうやしくお辞儀をして、こう言った。

「お初にお目にかかります。私は、ティルート教会司教のディーン・カウラと申します。」

 後頭部を、ガン!と打たれたような衝撃。思い出したぞ! 何か忘れてると思ったら、オレは今日、マーナの使者と会う約束をしてたんだ。そして、その使者が彼、マーナきっての秀才、ディーン・カウラだってことを。だが、これ以上の記憶の収穫は得られなかった。

「何故ここに?」

 言ってから、馬鹿なことを聞いたものだと自分に呆れ返る。

「同じことをあなたに伺いたいのです。王子。今日はシザウィー城で王子の誕生パーティが開かれ、そこでお会いする予定でした。なのに、パーティの主役が朝から行方不明だというのです。城中、大騒ぎですよ。」

 想像もしたくない。オレの行動は軽はずみだったのだろうか。城の皆を、父を、母を、混乱させて……。でも、オレは、あの脱出経路図に、自分の強い意志を感じたんだ。その直感に賭けることにしたんだ。後悔はしていない。

「よく、私だと分かりましたね。」

 城の状況は聞きたくないから、別の話題に切り替える。

「あなたの姿形は特徴がありますから……。それに、この街では、大金を持った見慣れない若者の話題で持ち切りですし。そこへ棒術の卓越した技を見れば、もはや疑う余地もありませんよ。」

 はいはい。そうだろうとも。調子に乗ってぽんぽんやるからだ。

「ディーンさん……と呼んでも宜しいでしょうか?」

 彼は穏やかに首を縦に振った。

「ディーンさんお一人で探しに来られたのですか? 城の者は別を探しているのでしょうか?」

「城の方々には、留まっていただきました。私一人が探しに出たのです。」

「……?」

「王子が誕生日に失踪したなんてことが世間に知れたらどうなりますか?」

 シザウィーにとって大きな損失だ。

「シザウィーの混乱は、我々マーナにとっても大きな痛手です。魔法アレルギーの研究に水を差すことになるのです。ですから、王子は失踪したのではないということにしたのです。」


 ――えっ……?

 

 彼が言うには、こうだ。


 オレが馬車の荷台で揺られている頃、城では、オレの不在に気づき、騒然となっていた。城のどこかで倒れているんじゃないかとか、何者かにさらわれたんじゃないかとか、憶測が憶測を呼び、大変な騒ぎとなっていた。何も知らされぬまま、ただ主役の登場が遅いことを不審に思い始めていた、来賓たち。

 その一人であったカウラ司教は、城の人たちに何が起きているのかと直接きいたところで、真面な返答は期待できないことを知っていた。異邦人の、しかも魔法使いなんかに重要な情報がもたらされるわけがない。そこで彼は、兵士たちの会話に耳を欹てることにした。盗み聞きである。少し離れた場所から姿を見られないようにして聞いたので、はっきりとは聞き取れなかったが、聞こえた断片をつなぎ合わせるに、「王子がいない。城中探したが、どこにも見当たらない。置手紙も脅迫状もない。愛用されていた棒がなくなっている。もしかしたら、これは失踪かもしれない。」

ということらしかった。真相を突き止めた彼は、気の弱そうな兵を捕まえて、王への取次ぎを申し入れた。話ができないとあれば、他の客人たちに、王子の失踪をばらして回ると脅し付きで。かくして程なく、カウラ司教は王への謁見を許されることとなった。王の側に控えていたガストン卿は、苛立ちの眼差しで彼を睨んだ。

「司教だか何だか知らんが、盗み聞きなどするとは。それとも、魔法使いは皆そういう下品な趣味があるのか?」

 シザウィーの人間は、殆どが魔法と縁遠く、それを使う者に対する偏見も強い。王は片手を挙げて、弟の嫌味を制した。

「ガストン。王子の客人に対して無礼じゃ。口を慎め。この度はせっかく来てくれたと言うのに、申し訳ないことをした。魔法使いの身でこの国に入るのは覚悟がいったであろうに。して、そなた、わしに何か用向きがあるとのことじゃな。申してみよ。」

「は。恐れながら申し上げます。私は、王子が急にこのようなことをなさるとは、俄かには信じがたく……」

「ふむ。わしらとて、それは同じじゃ。」

 その場に居合わせた者、全員が肩を落とした。

「余程の理由があってのことと存じます。」

「そうであろうな。」

「王子は、ご自分のことよりも、国のことを第一に考えるお方と伺っております。」

「その通りじゃ。」

「ですから、事を荒立てて、国の損失となるような事態はできるだけ避けたいとお思いのことでしょう。」

「そうなんじゃ! そのことでわしらも悩んでおる。どうしたものか……」

「私に、提案がございます。」

その場の視線がカウラ司教に集中する。

「王子は失踪などしていいないということにするのです。」

「何? それはどのようにじゃ?」

「替え玉か?」

 ガストン卿が口を挟む。

「王子の替え玉がいらっしゃるのですか?」

 至って冷静に司教か切り返すと、ガストン卿はバツが悪そうに口をもごもごさせた。

「いや……。」

「王子はあの容姿ですから、替え玉を立てることは無理ですわ。」

 王妃はなにやら誇らしげである。司教が本題にはいる。

「宜しいでしょうか。王子は旅に出たのです。」

 旅? 旅って、あの旅か? ひそひそ話し合う声。

「旅とは、つまり、修行の旅です。来年、王子は成人を迎えられます。その前に、王位継承者としての試練を王より与えられた、ということにするのです。」

 一同は顔を見合わせたり、首を傾げたりした。

「今までこの国ではそのようなことをした例がない。」

「今日のパーティーで本人がいる中で報告してからというなら分かるが、あまりに唐突ではないのか?」

 皆の不安を、司教が打ち消す。

「心配には及びません。王がこのように仰れば……」

 さて、主役の不在でどよめくパーティ会場へ、王たちが現れた。俄かに場内が静まり返る。

「あー、皆、長いこと待たせてしまい、済まぬことである。」

 王は掌をちらと見た。カンペである。客たちは気付いていない。弟は固唾を飲んで見守っていた。

「あー、実は、今日のパーティの主役であるレオンハルトのことじゃが。」

 また見る。ガストン卿は不安と苛立ちでどうにかなってしまいそうだった。

「来年は成人を迎えるとあって、いずれこの国を背負って立つ人間となるための心構えを一段と強くしておる。」

 また見る。もはや、目を閉じ、耳をふさぐしかないガストン卿。

「そこで、わしはレオンハルトに言った。成人となる前に、今一度、諸国の見聞を広めて来てはどうかと。その経験を国に活かすためにじゃ。レオンハルトは喜んでわしの申し出を受け入れた。本当は今日、この席で本人の口から皆に報告して、明日より旅立つ手筈であったのだが、そうすると、きっと皆が自分に気を掛けて、旅の手助けをしようとするに違いない、それでは修行にならないからと、今朝、人知れず旅立ってしまったのじゃ。いや、もちろん一人ではない。伴の者も連れておる。だから皆、心配せずとも大丈夫じゃ。そっとしておいてやって欲しい。忍び旅なのじゃ。レオンハルトより、何も言わず出て行って申し訳ない、皆はパーティを楽しんでいってもらいたいと手紙にあった。どうか、皆、わが息子の門出を祝福すると思って、大いに盛り上がってくれまいか?」

 この間、手を見た回数は十を超えたが、客たちは気にしていなかった。王の発言のあまりの内容に、ややしばらく沈黙が続いた。パチパチ……と一人、カウラ司教の拍手があって、それにつられる形で、会場に拍手喝采が溢れだす。ガストン卿がほっとしつつ、司教に耳打ちする。

「何とかうまくいったようだな。後は王子を探し出せば……」

「それは、お止めください。」

 司教の言葉に、ガストン卿は目をむいて、静かに怒鳴った。

「探さんでどうする!」

「シザウィーの兵が、他国をうろうろするのは不審を招きます。目立ちますしね。王子はあくまで旅をしているのに、探していると知られたら、それこそ大変な騒ぎですよ。」

「では、放っておけというのか? 帰って来なんだらどうする。」

 ふっ、と司教が微笑む。

「伴の者を連れている、と王様が仰ったでしょう?」

「そうだが……?」

 白々しい。お前のシナリオだろうが、とガストン卿は思った。

「私が、その伴の者になります。」

「何?」

「ティルート教徒はどこでもいるので目立ちませんし、修行の一環で諸国を巡っているので旅慣れていますし。ティルート教徒が伴の者だとは誰も思わないでしょうから、王子であることが気付かれる心配も少ない。万が一、気づかれても、忍び旅のため変装していると言いましょう。他に適任がいますか?」

 ぐぬぬぬぬ……ガストンの歯ぎしりが聞こえてきそうだ。

「見つけたら、すぐに連れ戻すのだぞ? いいな!」

「承知いたしました。」


「そうですか……そんなことがあったのですか。場を取り成していただいて、ありがとうございました。」

 オレはほっとして、礼を言った。城の皆の混乱が、やっぱり気になっていたから。それに、王じゃ、こういう知恵は働かなかっただろう。

「で? これからどうされるおつもりですか?」

「……。」

 返答に詰まる。どうするったって……。

「城には、戻れません。」

 城じゃ魔法を覚えられないし、覚えないと世界が滅びるって言う奴がいるんですよ、と言えたらいいが。訳が解らないだろうし、オレも今だに解らん。

「どうしてもですか?」

「どうしてもです。」

「では、仕方ありませんね。」

 オレは、少しゾッとして、俯いていた顔を挙げた。どうするつもりだろうか。ディーンさんは真っ直ぐオレを見ていた。

「私が同行させていただきます。」

 へっ……?

「あなたの気が済むまで。無理やり引っ張っていって、また逃げられては堪りませんからね。私の面目が丸つぶれです。納得の上で、帰っていただきましょう。」

 拍子抜けである。縄でふん縛ってでも連行されるものと思ってた。しかし……これは困ったことになったぞ。魔法を覚えなきゃならんのに、オレのことを知っている人が側にいるってのは、やばいだろう。俄かに、ざわめきだすオレの脳裏に、不意打ちの冷たい声が流れる。


 ――逃げろ。


 ――アルフリート?


 ――今すぐ、その男から逃げろ。


 何が何だか分からないうちに、オレは走り出していた。ディーンさんが追ってくる気配はない。


 ――何で今すぐなんだよ? 逃げる機会なんかこの先いくらでもあるじゃないか。

 

 ――今でなければ、手遅れになる。この先はない。

 

 ――はああ? この先はないって、どういうことだ?

 

 アルフリートから回答を得られないまま、オレは急に走るのを止めた。一種、異様な感覚が、突如として体の中に流れ込んできたからだ。初めてのような、何度も味わったことがあるような。手を交互にみて、変化がないか確かめる。異常なしだ。と、背後に、足音が近づく。

「逃げようなどと思わないでください。」

 眼鏡が光って、その奥の表情を読み取らせない。

「今、私に何かしましたか?」

 怪訝に物申すオレに、ディーンさんの口の端が片方だけ持ち上げられる。

「ええ、ちょっと、魔法を……」

 ま……? 全身の毛が逆立つ。シザウィー人にしてみれば、病原菌を注射されたようなものだ。勇気を振り絞って、質問をぶつけてみる。

「何……の魔法ですか?」

「心配なさらないでください。かけた人や物の居場所を遠隔でも感知できる、ただそれだけのものです。」

 そんなことができるのか? 驚きと、妙な関心が沸き起こる中、アルフリートの声が水を差してくる。


 ――お前自身にはかかっていない。服を脱げば逃げられる。

 

 オレは、全裸で町中を駆け回る自分を想像した。忍耐にも限界があった。


 ――てめぇ、ふざけんじゃねええぇ!!

 

「んなこと、素面でやってられっか!」

 怒りと共に、荷物を地べたに叩きつける。司教のキョトン顔が視界に入って、初めて声に出してしまったことに気付く。

「あ……あの。私は素面ですが……すみません。断りもなく、シザウィー人のあなたに、魔法をかけてしまいまして……。」

 ほっ。良い方向に解釈してもらえたみたいだ。

「ただ、分かっていただきたいのです。あなたが逃げると、私だけでなく、私の教会も、国も、魔法使いも、全てがあなたの失踪の元凶とみなされてしまうのです。魔法使いに会いたくないから逃げたのだとか、もっと酷いのは、魔法使いにさらわれたのだとか、シザウィー城ではそういった考えが横行しています。このままでは、シザウィーの魔法使いに対する態度はますます強固なものとなるでしょう。そうなれば、魔法使いの入国制限が一層厳しくなり、そのため、魔法アレルギーの患者は受け入れを拒否されたり、我々がしようとしていた、魔法アレルギーの研究が停滞したりと、悪い予想ばかりが出てくるのです。この予想は強ち遠くないことくらい、あなたもご存知のはずです。ですから、あなたには、ぜひ、シザウィーへ帰っていただいて、正しい釈明をしていただかないとなりません。手段を選んでいる余裕は、私にはないのです。」

 オレは、シザウィーだけではなく、マーナや全世界の魔法使い、魔法アレルギーの患者にまで迷惑をかけている……。世界を滅ぼすという言葉が、急に現実味を帯びてきた。オレはうんざりして空を仰ぎ、目を閉じた。もはや、逃げる意欲は完全に失われた。


 ――ならば、勝手にしろ。

 

 どういう気持ちで言っているのか分からない、アルフリートの声。オレは、ディーンさんを道連れにすることに決めた。


 条件というにはおこがましいかもしれないが、一緒に旅をするにあたり、オレはディーンさんに約束をしてもらった。


 一つ。王子であることを人に知られないようにする。

 二つ。ディーンさんも素性を知られないように。

 三つ。旅の理由は聞かない。

 四つ。オレがこれから始めることを止めない。

 

 五つ目を話すのに、少し躊躇した。どこまでがお互いに支障のない情報なのか分からなかった。いっそのこと、あれを言ってしまおうか、とも思ったが、オレが、オレ自身の状況を把握できるまで、待つことにした。

「オレの過去について、詮索しないでください。」

 この日、初めての食事を頬張りながら、オレはずけずけと五つ目を言った。宿の一階が食堂になっていて、もう外は真っ暗になっていたから、オレたちはここでそのまま泊まることにしていた。オレはディーンさんの同行を許した時から、「王子様」を脱ぎ捨てて、素で接していた。もちろん、ディーンさんはずっと年上で、人生の先輩だから敬語くらいは使うけれど。ディーンさんはオレの豹変ぶりに多少面喰っている様子だった。だって、疲れるしさ。化けの皮なんかすぐに剥がれるし。それなら早いほうがいいと思ったんだ。

「過去ですか。それなら、私も同じことをお願いしても宜しいでしょうか。」

 へっ? あんたは記憶消されてないんだろう? 聞かれてこまることでもあるのか? って聞けたら、さぞかしすっきりするんだろうが、逆に突っ込まれても嫌だしなあ・・・。

「人それぞれ、色々な事情を抱えているものですよね。」と言うに留めておいた。

「あっ、そうだ!」

 口の中の食べ物を水と一緒にごっくんと飲み込む。ナプキンで口を拭きつつ、言い放った。

「お互いの呼び方を変えましょう。」

「呼び方……。それも、そうですね。まさか、普段のは使えませんし。」

 オレは上目づかいに、ニヤッと笑った。

「実は、もう考えてあります。」

「ほう。」

「オレは、ラエルって呼んでください。」

「ラエル……変わった名前ですね。」

 頭の中に、不意に思い浮かんだのが、それだった。たぶん、誰か知り合いのものだろうけど、この際使ってしまうことにしたんだ。

「私のことは何と?」

 オレはますますにやにやした。

「先生と呼びます。」

「は・・・? ティルート教徒の振りをするのなら、別の呼び方の方が自然ですが? 司祭、司教は個人が特定されますから、ブラザーとか……」

 今度は、声を上げて笑う。手と顔を横に振る。

「オレに宗教人は無理ですよ。柄でもない。そっちの先生じゃなくて」

 ディーンさんは眉を顰めながら、水を口に含んだ。

「魔法の先生になるんです。」

 危うく噴き出すのをぐっと堪えて飲み下したところは、さすがだ。その代り、ちょっと息が荒くなってきた。

「ま……? 何故! 何故、魔法の先生なんですか!」

 裏返り気味。そうもなるさ。オレだって、笑ってるけど、本当は苦笑いだ。苦々しくて仕方がない。苦肉の策なんだ。

「何故って、そりゃあ、オレが魔法使いになるからでしょう?」

 言っちまった。もう後戻りできないぞ。水を一気にあおる。ディーンさん改め、「先生」が何か言おうとするのを、四つの指で制す。きりっと真顔も忘れない。

「四つ目の約束です。」

「ですが……。」

 はあ……。諦めのため息を吐いて、先生は食事を黙々と食べ始めた。オレも残りを平らげて、ふう、と頬杖をつき、窓の外に目をやった。春の新月が折れそうなくらい頼りなく輝いていた。






     四月八日


 次の日の朝。オレの朝はまだ暗いうちから始まる。昨日のあれは、十年に一度あるかないかの間違いなんだ。横のベッドで寝ている先生の顔をちらっと覗き込む。あまり気持ちの良い眠りではなさそうだ。夕べのオレの発言が尾を引いているのかもなぁ。服を着て、なるべく静かに部屋を出る。

 春の夜明け前は非常に寒い。外は良く晴れていて、月が沈んだ空には強い光を放つ一等星を始めとして、無数の星々が瞬いていた。宿の裏側には浅い川がさらさら音を立てていた。シザウィーの山の雪解け水。源流から離れてはいるが、澄んだ輝きは失われていなかった。掌に掬って顔を洗うと、痛いくらいの冷たさが脳髄まで染みてくる。少しの間、それに耐えて息を吐き出した。川面に映る自分の顔は、ゆらゆら揺れて、よく見えない。まるで、今のオレそのものだった。膝にポンと手を置いて立ちあがる。不安に押し潰れていたって仕方がない。今できることを、しよう。体の感覚だけでも確かなものにしておきたくて、体術の技をいろいろ確かめてみる。続いて棒術も。冷え切った身体はみるみる温まって、汗まで滲んできた。やはり、能力的な部分の欠如は認められなかった。あとは、記憶と一緒に知識が消えていないのを祈るばかりだ。東の空が白んで、やがて薄紅色を差してくる。山際から眩い光が溢れだす。オレの魔法ライフの始まりだ。


 オレの方は、いつでもスタンバイOKだが、先生はそうはいかなかった。陽が昇って、二時間が経過しても起きてこない。仕方なく、起こすことにする。

「先生、起きてください。朝ですよ、先生。」

 金髪の天然パーマは不服そうにうめき声をあげ、毛布に潜り込んで抵抗した。

「先生、先生!」

 毛布越しに肩を揺すると、中からくぐもった唸り声が聞こえてきた。

「うーん……。何ですか、その先生って……。」

 オレは躊躇うことなく言ってのける。

「だって先生じゃないですか。昨日、魔法を教えてくれるって約束したでしょう?」

 唸り声は迷惑そうに答える。

「冗談はやめてくださいよ。シザウィーの王子が魔法なんかやるわけないんだから・・・。」

 しばしの沈黙。そして、まさしく、夢から覚めた感じで、勢いよく跳ね起きる。血色はひどく悪かった。前方を信じられない、といった風に凝視したのち、横に立っているオレの方を睨み上げる。まるで疫病神でも見ているかのような睨みぶりだった。オレはその程度で凹む質ではない。悪いが、容赦なく言わせてもらう。

「さ、朝食を摂って、出掛けましょう。魔法のこと、いろいろと教えてもらわなきゃならないんですから。」

 先生は、乱れた天パ頭をがっくりと項垂れた。


 外は相変わらずの快晴。かたや、どんより曇っている男が一人。朝食後さっさと宿を後にしたオレたちは、取り敢えずシザウィーとは逆方向にある国を目指して歩き出していた。

「王子……ラエルさん。良いですか?」

 「さん」はつけないよう再三言っているが、どうしても聞き入れてくれない。

「はい。」

「魔法を教えて欲しいと言ったのは、あなたの方であって、私が教えてやると言ったわけではないのです。」

 低血圧なのか、まだ機嫌が直っていないようだった。

「城に帰った時、妙な言い回しをしないでくださいよ。実に迷惑です。」

 ああ、今朝のことを言っているのか。

「大丈夫ですよ。真面目に教えてさえ頂ければ、そんなことはしません。全部自分の責任だと言います。」

 軽く脅しをかけておく。先生は頭痛でもあるみたいに眼鏡を外して、こめかみを指で押していた。

 オレは、本題に入ることにした。

「初歩的な質問ですが、魔法ってどうやって覚えるんですか?」

 オレをちらっと見てから、眼鏡を掛け直す。

「本当に、ゼロからのスタートのようですね。……わかりました。まずは、魔法屋に行きましょう。」

 魔法屋? 魔法って売り物なのか? 

 無言で先生の後をついて行くと、二階建ての商店の前へ辿り着く。看板には『初心者からプロフェッショナルまで、満足の品揃え。魔法屋ボンボン』とある。


 ――何だこりゃ。


 オレの知らない世界だ。店の中は図書館のように、本棚が所狭しと並び、置かれている本は、どれも白い布が張られたハードカバーだった。厚みは一センチ以下で、大きさはノートサイズ。一つを手に取ってみる。タイトルは『毒の浄化〜蛇』。本文は……?と、表紙を開いてみて驚く。中の文章は全て古代文字で書かれていた。

「ああ、読まないでください。間違って発動することがあるんです。」

 先生の手が、オレの持っていた本の上を遮る。

「読むなって……あんた、読めるのかね? 大したもんだ!」

 店のオジサンがカウンターから顔を覗かせる。

「だが、本当に店の中で読まんでくれよ。頼むから。この前、上の階で炎系の本を読んで、天井を焦がした奴がいるんだ。」

 親指でくいっと上を指す。店の中央は吹き抜けになっていて、その天井を見ると、確かに黒い焦げ目ができていた。オレは慌てて本を閉じた。

「本を読むだけで魔法が使えるのですか?」

 先生がこの日初めての笑顔を見せる。

「いえ、本は魔法を使うためのきっかけに過ぎません。いちいち本を読まないと魔法が使えないのでは、複数の魔法が必要な旅で荷物となって邪魔ですし、魔物が襲ってきた時などの緊急時に間に合いませんから。」

「へええ、きっかけですか。」

「この本は魔法書といって、いわば、妖精や妖魔との間に交わされた契約書なのです。」


 ――え?

 

「白魔法は妖精と、黒魔法は妖魔と契約して使えるようになります。この店では、一階が白魔法で、二階が黒魔法のコーナーのようですね。」


 ――ええ?

 

 オレは二階へ駆け上がった。見ると、その階の本は全部真っ黒な表紙だった。先生もゆっくりと階段を上がってきた。

「白魔法は防御と治癒の目的で使われるものが殆どです。黒魔法は攻撃が多いですね。・・・それはご存知ですよね?」

「はあ……それくらいは。でも、妖精や妖魔と契約するなんて」

 気味が悪い、という言葉は続けなかった。異世界の住人と、それも見ず知らずの生き物……いや、生きているのか、死んでいるのか、よく分からないものと契約を交わすなんて……。

「と、いうことは、魔法は彼らの力なんですね。」

「いえ、彼らはきっかけを作ってくれるだけなんです。火をつけるための火種のようなものです。その火種をいかに活かすかは、魔法使いの技量にかかってくるわけでして。」

 魔力にも個人差があるわけだ。それはそうだろうが。

「生まれつき、魔法を使う素質は決まっているんです。遺伝もあります。魔力の強弱。それに、白魔法向きか、黒魔法向きかということも。体質なのかわかりませんが、個人で違ってくるのです。」

「じゃあ、いくら白魔法を使いたくても、だめってことも……?」

「当然あります。ティルート教徒の全てが優秀な白魔法使いではないのです。残念ですが。」

 欲張りなオレは、こう聞いてみる。

「白・黒両方OKって人もいるんですよね。」

「まあ、一応はいますよ。でも、余程魔力が強くないと、双方の魔法の性質上、打ち消し合って、効果が弱まってしまう恐れがあるので、必要最低限のもの以外は、どちらかに偏って覚えた方が無難です。」

 打ち消し合う……つまり中和か。中和。オレは、おや?と首を傾げた。中和という言葉に引っかかりを感じた。オレと先生が置き去りにしている共通の問題。先生は思い当たらない様子で、話を続けた。

「さて、あなたはどちら寄りでしょうね。」


 さあ……。

 

「見当もつきません。」

 オレの正直な意見に、先生は怪訝そうに眉を顰める。

「見当もって……魔法を覚えたいといったのはあなたのほうでしょう? こういうのが使いたいとか、何かイメージくらいないのですか?」

 覚えたくなんかねぇよ、覚えなきゃいけないってだけさ。しばらく悩んで、答えを出す。

「白魔法は、対人ですよね。」

「まあ、どちらかと言えば・・・。」

「黒魔法は、対魔物ですよね。」

「戦争でなければ。」

「では、黒魔法を覚えてみたいのですが。」

 先生は明らかに驚いていた。

「私は黒魔法なんて使ったことはないですよ。それは、魔法は魔法だから教えることはできるでしょうけれど……。くどいようですが、私が教えたなんて人に言わないでくださいよ。分かりますね? こんなことが知れたら、私は破門です。」

 もしかしたら、白魔法使いと黒魔法使いって、相容れない関係なのだろうか。でも、考えは変わらない。オレは魔法嫌いなシザウィー人。昨日、先生に魔法をかけられて、最高に気持ち悪かった。例え、治癒の魔法であっても、人に向けてあんなものを唱えたくはなかった。絶対に。

 先生が選んでくれた黒魔法の基本、火・風・水・土・雷の本を一冊ずつ購入して、表へでる。それぞれに銀貨一枚かかった。銀貨十枚は金貨一枚と同じ価値。結構高い。中には金貨百枚もする魔法書があるらしいが、先生曰く、生きているうちに取得できる確率は百万人に一人だとか。強力な魔法ほど値が高くて、相当な魔力が必要なんだそうな。

「その金額は誰が決めるんですか? まさか、妖精や妖魔ではないでしょうね。」

 先生は半ば呆れて言った。

「当然ですよ。彼らに人間の通貨なんて何の価値もありません。決めるのは、魔法書製本業者です。あの古代文字は、特殊な魔法で焼き付けて書かれた文字なんです。妖精や妖魔から魔法の火種を受けて、それを文字に変換しているそうですよ。私も詳しくは知りませんが、強力な魔法を文字にするには、それだけの力量が必要で、だから値が張るということです。」

「へえ……しかし、妖精や妖魔は何で魔法書作りに協力してくれるんでしょうね。代償はないのですか?」

 先生の手が顎にいく。

「さあ……あまり考えたことはありませんが……。ただ、魔法を使うには、魔力だけではなく、精神力が必要で、もしかしたら、それが関係しているのかもしれないという話を聞いたことがありますね。」

「精神力? それじゃあ、まるで……」

 言いかけて、俯く。それじゃあ、まるで、シザウィーホワイトに魔法使いが接近した時に起きる現象そのものじゃないか。やはり、白石と妖精・妖魔は関係があるんだ。

 しかし、これだけの話をしても、先生があの話題を持ち出さないなんて。魔法アレルギー対策のことを。使命を帯びてオレに会いにきたはずなのに。それとも、オレの現状を察して、言わずにいてくれているだけだろうか。オレとしては、助かるけど。覚えていないからその話題を今、持ち出されても困るわけだし。

 

 街はずれの荒地へやってくると、早速魔法の勉強会が始められた。

「さて、まずは、火の魔法書を開いてください。」

 言われるがまま、火の魔法書を開く。

「火の魔法が、黒魔法では一番覚えやすいそうです。日常生活でも火は使いますから、イメージしやすいのでしょうね。」

 先生の話を聞きながら、古代文字を読んでみる。

『この地に宿りし火の者よ、我にその力を貸し与え給え。我に害をなす者、邪魔となる者を退き、我から熱を奪う者より、この身を守り給え。材は空に、我が内なる力に、指示したる存在にあり。我が望みは小なる力。多少はこの身と心に準じるものとす。』

 一、二ページはこう書かれていて、三、四ページは、

『汝、我に力を貸すに当たり、生じたる負荷は、全て我が担うものとす。災いありて、責めはなし・・・』

 と、失敗して事故が起こった際の責任の所在とかについて詳しく書かれていた。本当に契約書そのものである。

「文章は読む必要はないのです。魔法使いといえど、古代文字を読める人物は稀です。重要なのは、そこに記された文字自体と、魔法を使う人間のセンス・・・感性なのです。」

 感性! アルフリートが言っていた。昨日から声は届いていないが。

「始めは、目の前や周りに人や余計な可燃物がないのを確認してください。」

「はい。」

 先生は数歩、オレから遠ざかった。オレ自身が危険物みたいだった。

「あなたは、今、文章を読みましたが、それは本来火の力を貸してくれる妖魔に読ませるもの。妖魔を了承させるためのものです。妖魔との契約が完了した時点で、魔法書は消えてなくなります。妖魔に吸収されるからです。ですから、一度交わされた契約は解消できません。妖魔かあなたのどちらかが死ぬまで続きます。覚悟は宜しいですか? 後戻りは許されませんよ。止めるなら今です。」

 オレは、軽く血の気が引いた。魔法使いになんかなりたくないのに、なったらなったで、一生魔法使いの刻印が刻まれてしまうなんて。何の因果だ、これは?

 

 ――どうしてもなのか?


 ――どうしてもだ。

 

 アルフリートのダメ押しが、良く砥がれたナイフみたいに

オレの心に突き刺さる。泣きたいのを堪えて、声を振り絞った。

「続けてください。止めるわけにはいかないんです。」

 悲痛な面持ちに、何を感じたのか。先生はオレをじっと見つめてから、静かに話を続けた。先生も覚悟を決めたのだ。

「わかりました。先程も触れましたが、魔法には魔力と精神力と感性が必要です。魔力と精神力は魔法を使ううちにある程度鍛えられます。増えていくものです。感性は磨かれるもの  その違いは分かりますか?」

「何となく。」

「何となくで結構です。そのうち実感が湧いてくるでしょう。ここで使われるのは感性です。あなたの今現在の、出せる限りの感性を駆使して、火をイメージしてください。」

 火……火……。蝋燭の火、カンテラの火、嵐の夜、雷で真っ二つにされた木から立ち昇る炎・・・。オレは目を閉じて思い浮かべた。

「ちなみに、その魔法書は、小さめの火を要求しています。せいぜい竈の強火くらいなものです。いろいろな火がありますが、一つに絞ってください。」

 それじゃあ、竈の火を……

「何かが燃えているのではなく、火、そのものをイメージするのです。」

 瞼が、自動的に開いてしまった。火、そのもの? そのものって何だ? 蝋燭の火は蝋燭が燃えている。カンテラの火は油が燃えている。燃える原料がない火ってどういうことだ? 正直にそう尋ねると、先生はため息交じりに答えた。

「理論を持ち出さないでください。感性が重要だと言ったでしょう。」

 理論家っぽい先生から、そういう言葉を聞くのは、違和感があった。

「火以外のイメージが混ざると、妖魔に要求が届きません。その魔法書には火のことしか書かれていないのですから。第一、蝋燭や薪がないと火を出せないのでは、いつも持ち歩かなければならないし、不便でしょう? マッチで火をつけようという話ではないのです。問題は、火、そのものを使うことなのです。」

 なんだ、そりゃあ!

「既成概念を捨ててください。感性が鈍りますから。」

 うわっ、どこかで聞いた、その台詞! 頭を抱え込んだオレを見て、先生は昨日から何度吐いたか知れないため息を、この日一番の失望と共に深々と吐き出した。

「考えたって何も出てきませんよ。自分の内側から感じ取る作業なのです。火のイメージを取り出すんです。それができないうちは、魔法は使えません。」

 言って、先生はつかつかと近づいて来て、オレが開いていた本を、ぱん、と閉じた。

「すみません。いきなりは無理でしたね。ゆっくりやっていきましょう。イメージできそうになったら、また開いてやってみましょう。」

 魔法使いにはなりたくないが、オレはがっかりして肩を落とした。何だか、悔しい。先生の声が和らぐ。

「そんなに落ち込まないでください。ここで挫折する人も多いんですよ。それに、あなたはシザウィー人なのですから、無理もありません。魔法のイメージなんて言っても、難しいでしょう?」

「先生は、おれに魔法使いの素質があると思いますか?」

 唐突だが、切実な問題だった。シザウィー人は魔法を使える体質の人は他の国の人より少なそうだし、ていうか、いるのかどうかも怪しい。魔法を使わない国になって、千年だ。いい加減、退化しているんじゃないか?

「それは、何とも言えませんが……素質を調べる魔法を持った人もいますがね。素質鑑定人というのが。主に占い師です。でも……」

先生は、たぶん無意識だろうけれど、オレの頭の先からつま先まで、じっくり見回した。

「可能性は高いと思いますよ。あなたは、シザウィーの初代国王、レオンハルト一世の子孫なのですから。」


 初代国王は、伝説によると、オレと見た目の特徴が似ているらしい。でも、それとこれとは別だ。彼は生涯独身で、子供がいなかった。二代目は、遠い親戚か、近い友人だというのがもっぱらの有力説。それが、何代も続くと、当然血は薄まるわけだし。たまたま見た目が似てたって、関係ないような気がした。しかも、オレの親とか叔父さんとかを見ろよ。あれこそどう間違っても魔法なんか使えそうにないぜ? 見た目ほどあてにならんものはないってことさ。

「歩きながら、イメージの訓練をしてくださいよ。」

 オレの心を見透かしたように、先生が釘を刺す。


 オレたちは、さらに街から離れて、まもなく次の国境と言う所まで差し掛かっていた。そのあたりで野宿することにしていた。ルオッタは百キロ四方の小さい国だから、本当にアッと言う間だった。川沿いの木陰が、今夜の宿となる。

「薪を拾ってきてください。」

 先生の指示に従って、林の中を散策する。先生は、石を集めて竈を作り始めていた。薪に竈……火と言えば、やっぱりそうなるだろう? そう考えながら薪をひろい、先生の所に戻ってみると、夕闇の中、ぱちぱちと音を立てながら、竈の木切れが燃えていた。

「それは、何で火を点けたのですか?」

 点目になりつつ聞いてみる。しばしの沈黙と共に気まずい空気が流れる。

「悪く思わないでください。あなたのためです。」

 それが先生の答えだった。魔法か? 魔法なんだな? 軽く裏切られた気持ちになる。ちょっとくらい見せてくれたって良さそうなものを。ケチ。膨れっ面をしながら、晩飯を作る。材料も道具も大したものはなかったが、結構うまそうなものができた。さっき川で捕った鮎と、林で採った山菜を味付けし、笹の葉でくるんで細い枝に括りつけ、湯を張った鍋に渡して蒸し上げる。それから、やはり林で採った茸をスープにして完成だ。昼間に街で買ったパンをつければ、栄養も申し分ない。先生はオレの手際の良さに驚き、続いて料理を一口頬張って、二度驚いた。オレも、勝手に動く手には驚いていた。

「そういえば、あなたは調理師の免許をお持ちでしたね。」

 オレは茸のスープにむせ返った。「も」ってことは、他にもあるのか? それを確かめる術はなかった。彼の方がオレのことをよく知っていそうだ。教えてもらいたいものだぜ。

「おいしいですか?」

「ええ。それはもう、とても。」

 先生に似合わず、可愛いくらい夢中で食べている。オレはちょっと気分を良くしたが、ふと、前にもこんなことがあったような気がして、不思議な面持ちでスープを見つめた。当たり前だが、スープは答えてくれなかった。

「お茶の用意もできていますから、食後に飲みましょう。」

 先生がまた驚いて顔を上げたが、オレ自身、驚いている有様だった。


 食後の茶も一段落ついて、オレは先生に一つ頼みごとをした。髪を切るのだ。街を歩いている時から、ずっと気になっていた。道行く人が、オレの横を通り抜けてから、必ずと言っていい程、振り返る。その視線がオレの長い髪に集中していて、気付くと、先生までもが眺めている始末。一応、束ねてはいたのだが、毛先が揺れて、獲物を狙う猫のごとき視線を受けていた。オレの髪は猫じゃらしか。こりゃあいかんと思ったのだ。

「うはぁー! 頭が軽い! すっきりしたぁ。」

 浮かれて首をぶんぶん振るオレの後ろで、たぶん「もったいない……」と呟いたんだろう、先生の手には、さっきまでオレの一部だった髪の束が握られていた。オレの髪は顎の下までの短さになって、気分まで軽くなったみたいだった。

「大丈夫ですって! どうせ、またすぐ、伸びるんだから。」

 腰に手を当てて、裂けそうなくらい口をにーっと左右に広げる。先生はぼんやりと白金の束を見ながら、これ、どうします?と聞いてきた。オレは首を傾げ、思案顔になる。

「そうですねぇ。煮ても焼いても食えないし、その辺に捨てても生分解されにくいし。あっ、そうだ! 床屋で買い取ってもらいましょうよ。ちょっとは旅の資金の足しになるかもしれないですよ!」

 オレの発言に、ほとほと呆れ返った様子の先生。

「あなたという人は、全く……。無神経というか、しっかりしているというか……」

「それはもちろん、しっかりの方でしょう!」

 自信満々で声を張るより早く、先生が眼鏡を外して、瞼の上に右手をやって、俯き加減で小刻みに肩を震わせていた。え? 泣いているのか? びっくりしているオレの耳に、苦しそうな先生の声。

「あなたという人は……」

 そういう口の形は明らかに笑っていて、もう堪え切れないと言う風に顔を上げて、高らかに笑いを爆発させた。オレは最初、ぽかんとそんな先生を見つめていたが、つられるように大笑いした。お互い、これ程笑ったのは何年振りだろうというくらいの、激しい笑いっぷりだった。

 遠くで夜行性の鳥が鳴いているのなんて、当然聞こえやしなかった。






     4月9日


 交代で焚火の番をしようという先生の提案を丁重に断って、オレ一人で起きていることにした。オレは二・三日の徹夜は平気だし、寝たとしても二時間で充分。それに、魔物が襲って来たって、殺気を感じたらすぐに跳ね起きる自信があった。

「そうですか?」

 先生はしぶしぶ承諾して眠りについた。


 ――そうそう。大人しく寝ていてくれ。

 

 何より、彼の寝起きの悪さを考えると、途中で起こすなんて面倒は御免だった。オレは石を椅子代わりに座り、火の魔法書を開いて、膝の上に乗せ、焚火を見つめた。

 火のイメージ。火の・・・。既成概念そのものを見ているようなものだったけれど、この中に何かヒントがあるんじゃないかと思って、ただただ瞳の奥に焚火の映像を焼き付けた。時々、薪が爆ぜて、火花が顔めがけて飛んでくる。

「あちっ。」

 最初、簡単に避けられていたのに、火を見過ぎて、光の加減が分からなくなり、避けきれず顔に当たってしまった。


 ――ああ、そうか。外見にばかり着目していたけど、火には熱いって特徴があったよな。

 

 他にも何か発見があるかもしれない。そんな期待で見つめ続けたが、夜はあっと言う間に白んで、朝になっていた。あーあ、と本を閉じて立ち上がり、大きく伸びをする。この日は朝もやがかかっていた。春霞だ。

 

 ぼやけた太陽が眩しく感じられる頃になっても、先生は起き上がらなかった。朝食をとっくに作り終わったオレは、業を煮やす。

「んっとに……修道院だって朝は早いだろうに。どうやって生きてきたんだか……。」

 ぶつぶつぼやきながら、肩を揺する。敵は手強く、ぴくりともしない。

「しようがない。」

 最終手段は擽りの刑だ。脇腹の辺りや足の裏をランダムに攻撃。もがき苦しみだした敵は、怒声とともに転がり起きた。

「何するんですか! 変な起こし方しないでください!」

 いかがわしい行為を受けた乙女のように、先生は膝を抱えて、その身を守った。へっへっへ。からかい甲斐のある人だぜ。

 弄ばれた思いも手伝って、寝起きの先生は終始膨れっ面で朝食を頬張っていた。茶でも飲んで機嫌を直してもらおうと、カップを差し出したところで、異様な気配に気づき、お互い、目を見合わせてから、林を振り向きざま立ち上がった。魔物のお出ましだった。


 林の奥まった所の木の枝がら、糸を伝ってするすると黒い蜘蛛が降りてくる。蜘蛛ったって、遠近感を無視した大きさ。体長二メートルはあろうかという奴だ。魔物ってのは、妖魔の仲間だが、人間界に居座って人間に悪さをする奴を魔物と呼び、妖魔界に住んでいて人間の生活に干渉しないものを妖魔と呼んで区別している。ちなみに人間界に住んでいる妖精は精霊というんだ。こっちは悪戯することもあるけど、旅人の手助けをしてくれたり、農作物の成長を促してくれたり、親切なのが多い。で、今、オレたちの目前に迫ってくる奴は、見た目で判断しちゃいけないが、毒を持っていそうだし、生臭いし、殺気も感じることだし、魔物と呼んで差し支えなかった。

 蜘蛛は六本の脚をバネにして、オレたちめがけて飛びかかった。オレと先生は左右に横っ飛びして、避ける。どんがらがっしゃーん、と派手な音。金属製の食器が転がっている。食べ終わった後で良かった。茶は惜しいことをしたけれど。魔物は緊迫感のかけているオレの方に向きを変え、猛然と突進してきた。駆け足では五分五分だったが、奴にはあの飛び道具があった。

「うわっ!」

 蜘蛛の巣がオレの身体にへばりついた。腕に力を入れても、引きちぎれる手ごたえは全くない。蜘蛛は前脚で器用に糸を手繰り寄せる。これはヤバイ! 非常にヤバイ! このままじゃ、あの、毒か消化液か分からん液を滴らせている鋏角で刺されて、死んだ後に腐って溶けたところをチューチュー吸われてしまう! この期に及んで、そんなことをやたら詳しく想像しながら、必死で懐のナイフを取り出し、下から上へ一気に切り上げる。自由になった腕で、オレと蜘蛛を結ぶ糸を断ち切る。地面に倒れ込みながら、ナイフで蜘蛛の巣を剥ぎ取り、やっとのことで立ち上がった。巣の残骸はまだ体にへばりついている。気持ち悪いことこの上ない。腰に下げていた棒を構え、地を蹴って、今度はオレが飛びかかる。また蜘蛛の巣を吐き出してきたが、形になる前に棒で払いのけた。急所は、複眼のちょっと上。狙いを定めて、地面まで突き通す。オレはくるっと一回転して、蜘蛛の後方に着地した。蜘蛛の脚はしばらく地面を引っ掻いていたが、やがて痙攣して動かなくなった。棒を抜き取り、おえっとなる。緑色のドロドロしたものがこびりついていた。草叢に擦り付けてから、川で漱ぐ。綺麗な白が蘇って、やっと一息ついたのも束の間。

「ダメじゃないですか。」

 第一声がそれだったから、オレは耳を疑った。褒められないまでも、労いの言葉があるんじゃないかと思ったからだ。

「せっかく魔法を覚える絶好の機会だったのに。」

「え……。」

「危機迫る状況下では、感性が最大限に活用されるものなんです。今度からは気を付けてみてくださいよ。」

 てことは、武器とか使ってないで、魔法書を開いて念じてろってことか? それにしたって……! あともう少しで、殺されるところだった。アルフリートはともかく、先生は何故黙って見ていたんだ? 

「さ、片付けて、早く行きましょう。」

 散らかった食器を集める先生。何事もなかったかのように。足が震えて、うまく歩けない。カップを一つ拾うので精一杯だった。


 次の国、ザースの街へやって来たオレたち。先生が速足なのか、オレが遅いのか、先生の後をついて行く形でここまで来てしまった。ほんの一メートルの差が、アキレスと亀の哲学理論みたいに、永遠に追いつけない距離に感じられた。しかし、ある地点で先生が急に立ち止まり、危うくぶつかりそうになって、オレの果てしない哲学的思索は打ち切りとなった。

「美容室がありますよ。」

 先生が向いた方を見ると、確かに美容室の看板を掲げた店がある。始め、何のことか分からない。先生がぬっと差し出した毛束を見るまでは。

「ああ……そうでしたね。」

 気のない返事をしつつ、受け取る。しばし考えて、ふと、思いついたことを口にしてみる。

「あの、先生が行って来てくれませんか?」

「……えっ?」

「だって、オレが行ったら、オレの髪だってバレバレだし、男の髪なんて分かったら、値が下がりそうだし、下手したら正体まで見抜かれるかもしれないし。」

 先生の開かれていた眉間が、ぎゅっと中央に引き寄せられる。

「冗談じゃありませんよ。この格好で行こうものなら、どうなると思いますか? ティルート教徒が金目当てに他人の髪を売りさばきに来たとおもうじゃないですか。」

「はあ……。」

「それも、もっと歪んだ想像をされて、自分の女の髪を、となると一層質が悪い。教会の品位が損なわれます。」

「じゃあ、男の髪ですって言えば……」

「それはそれで、おかしな誤解を招くでしょう?」

 どんな誤解を招くって言うんだ? 気色ばんじゃって、まあ。

「いや、何より、あなたが王子だと分かって、私が王子の髪を売ったなんてことが知れたら……!」

 今度は青ざめてる。どういう仕掛けになってるんだろう。よく変わることだ。


 仕方なく、自分で売りに行った。先生がさっきは見せなかった心配そうな様子でオレを迎える。それがオレの神経を逆なでした。

「どうでしたか?」

「いや、まあ、何てことなかったですよ。『こんな綺麗な髪を売らなきゃならないなんて、余程のことがあるのね? 可哀想に!』って、ぎゅーっと抱きしめられちゃいました。」

 どうも、オレは完璧に女と間違われたらしく、それがますます気に入らなかった。

「ほう。」

「『兄が病気で』って言っておきました。」

「は?」

「『まあ、お兄さんのために? 何てけなげなの!』って、金貨三枚もくれましたよ。それから、お兄さんにって、これ。」

 白濁した楕円形の石に、プラチナのチェーンがついた、ティルート教のロザリオ。

「お守りだそうです。」

 先生に差し出しても、受け取らない。

「お兄さんって、私ですか? 私をダシに、ティルート教の信者から金を巻き上げるなんて! しかも、ロザリオまで……!」

 怒りで震えている。固く握りしめられた拳が、いつオレに飛んでくるかと気が気でない。

「返して来ましょうか?」

 オレも、店のおばさんには悪いと思ってたんだ。ティルート教とは知らなかった。

「ティルート教の信者が、一度人にあげたものを引き取るわけがないでしょう!」

 それも、そうだ。

「じゃあ、彼女に気付かれないよう、こっそり返して来ます。」

「どうやって……」

「ま、うまくやりますよ。」

 先生を残して、再び店の中へ入ると、おばさんが店の奥から顔を出した。いかにも人の良さそうな、笑顔の素敵なおばさんだ。

「あら、さっきの……。どうしたの?」

 悪いことを何も知らないような、それ故に幸せそうなおばさん。にこにこ、オレを出迎えてくれる。

「あの、ちょっとお願いがあって。」

「お願い? 何かしら?」

 頼まれごとが余程好きらしい。手を胸の上で組み合わせて、嬉しそうに瞳を輝かせる。

「高さ十センチくらいの、花瓶かグラスを持ってきて欲しいんです。」

「まあ、花瓶かグラスね? そこの椅子に座って待ってて。探して持ってくるから。」

 どんなのがいいかしら……と奥へ引っ込みながら呟く。完全にオレにくれる気で選んでくるに違いない。少し時間がかかるはずだ。窓の外で、先生が様子を伺っている。信用ないなぁ。おばさんの金庫は、店の小さなカウンターの裏側に置いてあった。いつでも盗んでくれと言わんばかりの不用心さだった。さっき、おばさんがここから金貨を取り出すのを見た。オレは迷うことなく、金庫のダイヤルを回し始めた。そして、あっけなく鍵が開く。こういう勘は滅茶苦茶鋭いんだよな、オレって。中には小型の、持ち運べる金庫が入っていて、それもすぐに開錠する。見ると、硬貨が種類ごとにきちんと並べられていて、思った通り、金貨の列だけ空だった。十枚あったら十枚くれていたのだろう。お人好しにも程がある。よく今まで生きてこられたよなぁ。そんなことを思いつつ、金貨を、同じ大きさの銅貨の列に紛れ込ませる。幸い、比較的綺麗な銅貨が何枚かあって、割と似た色だし、あまり金に執着心もないことだし、暗い所なので、しばらく気付かないだろう。ある日、金貨を見つけて、こう言うのだ。「あら、こんなところに金貨が混じっていたわ。私、入れ間違えたかしら? それとも神様のお力なのかしら?」と。全てを元の通りに戻して、オレは何事もなかったかのように、おばさんが勧めてくれた椅子に腰かけた。

「はいはい。お待たせしました。どれがいいかしら?」

 案の定、両手にグラスと花瓶を二、三個持って、おばさんが現れる。オレは立ち上がって、微笑みを浮かべながら言う。

「どちらがいいですか?」

 まるで同じ質問をすると、おばさんは当然驚いた。それに追い打ちをかけるように、両手をおばさんの目の前で組んで、中からぽんっと花を咲かせて見せた。布製の造花だ。

「まあっ、手品ね? 私、生まれて初めて見たわ。」

 これだけで喜んでいる。まだ早いんだよな。

「はい、どうぞ。」

 おばさんは、やっとオレの意図に気付いて、声を高くした。

「あら、私に? そう、これを挿すものを持って来てってことだったのね。素敵だわ。それにこれ、手作りでしょう? 綺麗ね。ますます悩んでしまうわ。どれに挿そうかしら。」

 頬をピンクに染めて、花束を胸に抱きしめる。

「お守りのお礼です。こんなことしかできないけど。」

「まあーっ、お礼だなんていいのに! でも、嬉しいわ!」

 感激の抱擁は、痛いくらい強烈だった。


 一部始終を見守っていた先生は、何もそこまですることないのに、と外へ出てきたオレに言った。

「お金は全部返してしまったのですか? それでは、あなたの髪の代価がないではありませんか。何だか、私の方が悪いことをしてしまったようですね。こんなつもりではなかったのですが……」

 この人も、ティルート教徒なんだなもんなあ。しょげちゃって、まあ。

「別にいいんですよ。どうせタダだし、捨てようかって思ってたものだし。それに、代価はちゃんとありますよ!」

 ロザリオを取り出して見せる。

「そうかも知れませんが……それは教会で銀貨一枚で売られているものですよ。」

「人を守銭奴みたいに……。オレだって金よりも価値のあるものくらい、ちゃんと見極めていますよ。」

 恥ずかしくて言えないけど、例えば、おばさんの真心ってやつだ。先生だってそれは分かっていると思う。

「先生はこれ、持っているからいらないですよね。オレがもらっちゃいますよ。」

 ロザリオを首にかけて、陽に翳してみる。太陽が月に変わったように見えた。ちょっと眩しい。

「どうぞ。お好きなように。」

 先生がふっと微笑む。お互いの機嫌も直って、一件落着だ。ロザリオを下に下ろし、しみじみと眺める。そうか、ロザリオってお守りなのか。お守り・・・お守り? 脳裏に閃くものを感じる。お守りなんだ。黒い竜のペンダント。物心ついた時から、首に下げていたじゃないか、ずっと! 元々オレのものだったんだ。うーん。これでお守りが二つに増えたってわけか。そんなに重くないし、ま、いいけど。懐に入れるとひんやりした感触が伝わってくる。春の風が頬を撫でるような、そんな心地よい冷たさだった。






     四月二十一日


 それからというもの、おれは来る日も来る日も、火の魔法のイメージ・トレーニングに明け暮れた。あんまり根を詰め過ぎて、ある日の朝など、寝起きの先生の天パ頭が金色の炎みたいに見えて、凝視してしまったことがある。それに勘付いた先生が、慌てて頭を押さえて、怒る、怒る。

「私の頭に炎を見るのはやめてください! 間違って火が点いたらどうしてくれるんですか!」

 火が点いたら・・・禿げるよなぁ。そう思ったら急に可笑しくなってきて、噴き出してしまった。先生もつられて笑い出す。でも、それからすぐに、俯き、横に顔を背け、悲しい表情になる。まるで、笑う行為を悔いるような、自分を戒めるような、そんな表情。こういうことは、これまで度々あった。オレは、その都度、何も言わず、ただ、そんな先生を見ていた。すると、決まって先生はオレに背を向けて、何か用事を足すふりをして、どこかへ逃げてしまうのだった。この日も先生は、「顔を洗ってきます」と、そそくさオレから離れていった。取り残されたオレは、虚しく空を見つめるしかなくなる。深い霧の中に佇んでいるみたいに、足元が覚束なく、眩暈すら覚えて……。


 そんな昼下がりに、魔物が現れた。これで五回目の遭遇だった。一見、土色の野犬のような三頭のそれは、大人の人間くらいの大きさがあって、目は血のように赤く、黄ばんだ鋭い犬歯が上顎から下顎に向かってはみ出し、その間から長い舌が垂れ下がって、涎を滴らせている。ここで魔法を覚えようと、毎回思うのだが、魔法書を開く間もなく、敵は襲いかかってくる。結果、オレは棒術でもって、叩きのめすしかなくなり、今回も例に漏れず、三頭ともそれでやっつけてしまった。先生が白く光る眼鏡のずれを指で直しながら、つかつかと近づいてくる。オレは蛇に睨まれた蛙同様、動けなくなって、逃げることもできない。先生の右手が、オレの棒に伸びてきて、取り上げる。

「こんなものがあるから、覚えられないのです。」

 そう言うと、オレの棒は高々と掲げられ、放物線を描いて、深い谷底へ消えていった。投げ捨てられたのだ。オレは、間に合う訳もないのに、崖っぷちへ駆け寄って、その様を見送った。抗議の言葉もなく、がくんと膝を落とす。倒れないように、必死で両手を地面に突っ張る。怖かった。気が遠くなるほど、怖かった。魔物に殺されることじゃない。魔法を覚えなければ死ぬとか、そういうことでもない。五回の戦闘の中で、アルフリートはともかく、先生からの援護が一度もなかったという事実。それが意味するところを深く考えると、気が狂いそうだった。逃げようと思えば、逃げられる。だけど……。オレは、先生が時折見せる、あの表情、暗闇に飲まれそうなあの表情の、理由をどうしても知りたかった。そして、暗闇を取り払ってしまいたかった。オレは、世界を滅ぼすことなんか、どうでも良くなっていた。目の前にいる、たった一人。その一人を滅ぼさないために、何ができるのか、ただそれだけを探していた。






      四月二十五日


 その日はついに訪れた。新しい国を目指して、森の中を歩いている時だった。藪が、ざわざわざわっと揺れて、細い枝がばきばきっと折れる音がしたと思ったら、頭上高く、翡翠色のものが飛び出して、その先三メートルくらいが、こちらへ曲げられ、伸びてくる。大蛇なのか、恐竜の仲間なのか分からないが、見えている部分だけで十メートルはある。今までの奴が小物に思える程、巨大な魔物だった。口をぽかんと開けて見上げていると、そいつの頭部がすごい速さで飛んできた。ばきばきばき……! 樹が二、三本折れている。オレは体制を崩しつつ、何とか回避できた。速い上に、パワーも並じゃない。木の陰に隠れても、防げないことを悟って、とにかく走る。背筋がぞくぞくっとする。


 ――やばい!

 

 と、思った時には、横っ腹から、あの太い鞭のような胴体で吹っ飛ばされていた。木の幹に身体を叩きつけられ、跳ね返って地面に落ちる。受け身も何もあったもんじゃなかった。気が遠くなりかける中、先生の声が森の中に響いた。

「魔法書を開いて!」

 訳も分からないまま、腰に括りつけていた魔法書に手をやる……が、ない! さっきの衝撃で、どこかに落としたんだ。探す暇なんて、もちろんなかった。あっけなく、オレは魔物に巻き取られ、高々と持ち上げられてしまった。翡翠色の胴体が、幾重にも身体に巻き付き、締め上げられる。骨が軋む音、内臓が圧迫される感覚。オレは、このまま死ぬんだろうか、とおぼろげに覚悟しかけている時、魔物の鎌首がこちらを向いて、赤く細い舌がちろちろと動いているのが見えた。ああ、そうか、生きながらに丸飲みってのが、爬虫類のやり方かもしれない。そう思いながら、敵の黒い縦線入りの黄味がかった円い目を見ていると、急に頭の中が静かになっていくのを感じた。

 あれ?と思うより早く、轟音と共に、赤い光に包まれて、

「ギャーッ!」

 凄まじい、魔物の叫び。と、同時にオレの身体が解放されて、人形みたいに下へ落ちた。しびれのため、痛みすら感じない。頭だけ、かろうじて動かして、事の次第を確かめる。見ると、魔物は頭部を炎に焼かれながら、もんどり打っていた。


 ――え・・・?

 

 どういうことか、全然わからない。やがて、魔物は巨体を制御する術を失って、だらりと地面に垂れ伏した。目の前の映像が大きくぶれる。地響きなんだろうけど、しびれでよく分からなかった。しばらく横向きに倒れている所を、不意に仰向けにされる。先生だ。顔面蒼白。汗まみれで、息が荒い。

「王子、大丈夫ですか。王子!」

「ん……あ……。」

 思うように声が出ない。王子じゃないって何度言ったらわかるんだと言いたいのに・・・。

「あ……あれ……は……」

 あれは、先生がやったのだろうか。オレが言わんとすることは、すぐに理解された。眼鏡の奥に微笑みを湛えて、言う。

「私は何もしていません。あなたの力ですよ。」

 え……だって、魔法書持ってないのに……。

「話は後です。まずは、傷の手当てをしないと。」

 傷の……手当って……まさか? 心では反射的に逃げようとするものの、身体は全然言うことを聞いてくれない。魔法なんかかけられたくないんだよ! いつぞやか先生にかけられた魔法の感触の気持ち悪さ……! 二度と味わいたくない。そんなことを考えても、先生には伝わらなかったようで、オレの胸の辺りに両手を広げて翳し、その掌から青白い光がぼわーっと灯された。思えば、魔法らしい魔法を、この目で直に見たのは初めてだった。しかし、その光は三十秒と経たないうちに消えてしまった。先生が、眉を顰める。不服そうな、不思議そうな、そんな顔。

「今、気づいたのですが……」

 何だ、何だ? 先生の目を、穴が開くほど見つめる。

「あなたは、魔法が効かない体質のようですね。」

 オレは、もう、茫然とするより他なかった。


 それから先生は、オレの両脇を抱えて、ズルズルと近くの川辺まで引っ張って行った。そこにオレを寝かせると、濡らした布で傷をそっと拭ったり、水を飲ませたりしてくれた。まだ体の自由は効かなかったが、口を聞くことはできるようになった。

「さっきの話ですけど。」

 自分でも水を飲んでいた先生は、口を拭いながら、こちらを見た。

「はい。」

 どちらから聞こうか、ちょっと迷う。

「あの炎は、オレが出したって本当ですか?」

 先生は穏やかに微笑む。

「ええ。本当ですよ。」

「でも、魔法書が……」

「ごく稀に、魔法書がなくても、魔法を覚えることができる人がいるんです。私以外で見たのは、あなたが初めてですね。」

「先生もなんですか?」

 ふふっと笑う。

「そうです。個人によって、覚えられる種類も強弱も違いますけどね。これはつまり、妖精や妖魔の力を借りているのではない、自分の力、ということなんです。」

「自分の……」

 何だか、信じられない。オレのどこに、火が出てくる要素があるって言うんだ? しばらく考えてみたけど、答えが見つからなかったので、次の質問に移った。

「オレに魔法が効かないっていうのは、何なんですか?」

 ふむ……と先生が顎をいじる。

「それに関しては、私がお聞きしたいところですね。あまりいませんよ。妖精や妖魔じゃあるまいし、そういう人は。さっき、あなたに魔法をかけた時……」

 奥歯をぐっと噛んで、躊躇する先生。

「正直に言ってもいいものか……」

 オレは首を縦に二回振った。良かった。身体の感覚が戻ってきたみたいだ。

「では、言ってしまいますが、あなたに魔法をかけた時、何というか、力が独りでに抜けていくような、あたかも吸い取られていくような、そんな感覚に襲われてしまったのです。これは、まるで……」

 先生も、オレも、同じような表情になった。恐ろしいものを見た時、人は何故か目を見開き、口も開いてしまうものなのだ。

「シザウィーの白石のような……」

 オレは、一生懸命、心当たりを探ってみた。白石か、白石の混じった何かを身に付けてなかったかと。棒はもうないし、服は普通の綿だし。ペンダントは、一つは真っ黒で材質も違うし、もう一つなんかシザウィー製ですらないから、ありえない。


 ――インプラントでもされてんのか? オレ。

 

 先生も同じことを考えたみたいだった。でも、

「それでは、魔法を使えないでしょう? 使うと同時に、自分で魔力を吸収してしまうことになりますし。」

 言いながら、先生は頭を抱えた。

「いや、でも、だからおかしいんですよ。あなたは魔法を無効化する体質なのに、なぜ、魔法を使っても影響が出ないのでしょう?自分の魔法だけ、区別しているのでしょうか、他の魔法と。」

「うーん。やっぱり、あれはオレの力じゃないんじゃ……」

 そこで、もう一度やってみることになった。先生はもっと体力が回復してからと言って止めようとしたが、落ち着いて休んでなんかいられなかった。目標は、石の上に置いた、木の葉。念じる、という程のこともなく、ぱっと小さな火が上がる。

「うわっ、点いた!」

「これはもう、間違いないですね。」

 やれやれ、変な体質を持って生まれてきたもんだ。

「それに……」

 先生は、もはや呆れてオレを眺めまわした。

「すごい回復力ですよね。」

 見ると、オレの体中に刻まれていた、鮮やかな切り傷や擦り傷、それに打撲してできた痣が、きれいさっぱり、消えてなくなっていた。


 ――ウソだろ、おい……。

 

 怪我が治った代わりに、軽く吐き気を覚えてしまうのだった。






   五月二日


 オレの異常体質(だって、異常だろ?)のことは、深く悩んだってしようがないので、それからは使えるようになった魔法の修行に没頭した。記憶さえ戻れば、オレ自身の問題なんだ。謎はすぐに解き明かされるわけだし。とにかく、前へ進むこと。オレに許されているのは、それだけだ。振り返るべき過去を持たない、今は。

 先生はオレが魔法を使うに当たっての注意点をいろいろ教えてくれた。周囲に害を及ぼすものがないか確認してから使うとか、そんな初歩的なことは既に聞いていたが、魔法の発動の仕方に関することなど、突っ込んだところを重点に置いて話してくれた。

 まず、オレの魔法が発動されるタイミングは、唐突だと言うんだ。普通は、魔法を使う意識を、手なら手に集中させて、魔力と精神力をある程度溜め込んだ上で、一気に放出するものらしいが、おれの場合、無意識で「ため」もない。本人も分からないうちに放出されてしまっている。これは非常に危険である、と。

「『ため』がないのは、悪いことではありませんよ。魔力や精神力の消耗が、人より著しく低いのでしょう。魔法に必要な基礎的要素が、土台からして高い状態で身に備わっている……つまり、先天的に魔力も精神力も高いのです。魔法向きの体質、魔法体質なんですね。」

 出た出た! またオレに特異な体質がプラスされたぜ! でも、こればかりは、過去のオレも知らなかったろうよ。

「問題は、無意識な事です。あなたの魔法は、無意識な状態から生まれている。逆に言えば、意識すると使えないのです。」

 確かに、魔法が発動される前、頭の中が全くの虚無、空っぽになるんだよな。

「これは、寝ながらにして、魔法を使うようなものです。危ないでしょう? 寝ている時に、火の魔法なんか出したりしたら。」

 へタすりゃ、大火事だよな……。

「ですから、無意識に意識を一つ足してみてはどうかと思うわけです。」

「どういう意味ですか・」

 藁にも縋る思いで、先生に詰め寄る。先生は引きつった笑みを浮かべながら後ずさった。

「魔法を使う時に、何か動作を付けるのです。自分のための合図みたいなものですよ。合図と同時に発動するよう、癖をつける。まあ、いわゆる条件反射ですね。」

 条件反射ねぇ。オレは首をひねる。

「例えば、杖を振るとか、魔法に名前をつけて、唱えるようにするとか。一般の魔法使いもよくやるんですよ、これは。」

 杖になる棒は捨てられたし、「ファイヤー!」なんて叫ぶのは、ちょっと気恥ずかしい。

「あなたは、手品をしますよね。」

「はい。」

「その時に使う仕草なんか、参考にしてはいかがですか?」

「!」

 ナイスアイディア、ナイスヒントだ。

「見てください!」

 指示したのは、荒野によく転がっている、枯草の塊。先生は、枯草がどうしたって?と訝しげに見る。オレは、左手の親指と中指をパチンと鳴らした。と同時に、枯草がメラメラと燃え上がる。先生が、ほう、と感心して声を上げる。これなら、道具もいらないし、恥ずかしくもない。

「これで一つ、問題が解決されましたね。」

 先生は炎の色に身を染めて、微笑んだ。






     五月十五日


 オレと先生は、ある街の宿のティールームでコーヒーを片手に、世間話をしていた。外は季節外れの長雨で、足止めを余儀なくされていた。魔法を指鳴らしで発動する方法は、大分板についてきて、そろそろ別の種類の魔法も覚えたいと思っていた矢先だった。イライラしたって始まらない。こういう時は、旅仲間の親睦を深めるとしよう。

 過去は語らない約束だったが、話のネタにどうしても必要だったので、オレは思い出せる限りの記憶を頼りに、城の人間のことを話して聞かせた。他人のことは割とよく覚えていた。ガストンは怒る時、鼻の穴を切れそうなくらい広げるとか、衛兵のリアンは生まれたばかりの息子に飼い犬と同じ名前をつけようとして、奥さんに家から叩き出されたことがあるとか、そういう他愛もない話ばかり。先生は殆ど聞き役で、オレの話に時に驚き、時に笑った。そして、笑った後に、しばしば顔を背け、苦痛にも似た、あの表情を浮かべた。今回ばかりは逃げられないので、陰鬱な外の雨に気持ちを溶かし込もうと窓へ目をやって、しばらく耐えていたが、限界だったのか、ついに「トイレへ行ってきます」と席を立った。オレは、テーブルに両肘をついて、顎を手に乗せた。横目に窓を睨む。夕闇が間近に迫る頃。オレは、決意した。先生が憂いを振り払えないまま、戻ってくる。何か言う前に、オレの方から口を開いた。

「出かけませんか? 閉じこもっているのも、いい加減飽きたし。」

「出かけるって・・・こんな雨の中、どこへ? それに、もう夜になりますよ。」

 オレはニヤッと笑った。

「夜だから、出掛けるんです。さ、支度してください!」

 半ば強引に先生を外へ連れ出す。向かう先は、酒場。大人が憂さを晴らす場所だ。


 ちなみに、シザウィーでは酒の年齢制限はない。コーヒーと同じ扱いだ。オレは付き合いで飲む程度。深酒はしたことがない。酔っぱらったこともなくて、強いことは強いらしい。そこは何となく覚えていた。

 酒場に入ると、奥の空いている席を見つけて、フード付きのマントを脱ぎ、隣の椅子に掛け、座る。

「さ、どうぞ。」

 自分の向かい合わせの席に、先生を促す。先生はおどおどしながら腰かけた。何が始まるんだろう、と。

「どうせ、酒もたばこもやるクチでしょ?」

 先生はあからさまにぎょっとした。

「隠れて吸ってたの、知ってますよ。鼻が効くんです。いろいろと、ね。」

 上目づかいににやけるオレを、心底怯えて見る先生。雨粒だか、汗だか分からないものが、額を伝っている。

「ティルート教徒は、嗜好品禁止なんですってね。ま、いいじゃないですか。同じ人間なんだし。たばこでも吸わなきゃやってられないこともあるんでしょう?」

 先生は覚悟を決めたらしく、軽く息をついて、眼鏡を外した。オレに白状する覚悟。

「そんなところですかね。あなたはどうなんですか?」

「オレは、健康志向ですから。それに・・・」

「それに?」

「モノじゃ満たされない。救いの手を差し伸べてくれるのは、やっぱり人だと思うんです。」

 言いながら、給仕を手招きする。

「ここで一番キツイのを、二つ。」

 彼は、オレたち二人を交互に見た。一人はティルート教徒の形をしているが、それを咎める素振りは一切なし。返って、親近感みたいなものを覚えたらしく、やるじゃねぇか、とでも言いたげに、口の端っこを引き上げた。

「はいはい。じゃあ、バーボン二つね。」

 それから、彼は親近感ついでに失言を働いた。

「こんな美男美女カップル、見たことないぜ。」

 立ち去ろうとする彼の胸ぐらを掴んで引き寄せ、額と額を突き合わせる。

「その場合、どっちが美女なんだ? ん?」

 凄まれて、両手を挙げる。小市民は飲み込みが早い。

「いや、すんません。何でもないっす。」

 解放された彼は、足取りも早く、カウンターへ消えていった。

「ちょっと……やめてくださいよ。揉め事はご法度でしょう?まさか、あなた、酒乱じゃないでしょうね?」

 先生はハンカチで汗を拭った。

「酒は飲んで騒いで何ぼでしょう?」

 開き直ったオレは、手に負えないとばかりに、首を振り振り、ため息を吐く。間もなく、酒が運ばれてきた。さっきの給仕はグラスを置くや否や、逃げるように行ってしまった。乾杯もなしに、オレたちは早速酒を一口含んだ。腹の底が厚くなる。お互いむせないところを見ると、思った通り、いけるクチだったみたいだ。二口目にいく前に、先生がテーブルに覆いかぶさるような格好で、オレに言った。

「私には、十も違う妹がいるんです。」

 え? もう始まっちゃったのか? 酒の勢いったって早すぎるだろう。オレは肩を竦めて先生を見つめた。今まで、いろんな鬱積を溜めこんでいたのだろう。白状すると決めたら、堰を切ったみたいに出てきてしまったんだな。

「はあ、十も・・・じゃあ、オレより少し下かな?」

「あなたより二つ下ですね。今のところ。六月が誕生日なんです。」

 へえ、じゃあ、十九歳になるのか。オレとあんまり変わらないな。だけど、それがどうしたんだろう。

「あなたが前に、髪を売ろうとした時のこと、覚えていますか?」

「覚えていますよ。」

 今年の四月七日からの記憶はばっちりだ。

「あの時、あなたに兄呼ばわりされて、私は妹のことを思い出さずにはいられませんでした。妹は、本当にいい子なんです。悪いことを何も知らない、純粋な心の持ち主で・・・」

 するってぇと、兄の方はそうでもないのかな?

「いつも、お兄ちゃん、お兄ちゃんと目をキラキラさせて駆け寄って来るんです。それが嬉しくて……一昨年の春までは。」

 くいっと酒を胃に流し込む。オレもグラスを傾けた。

「その頃、私は毎晩悪夢に魘されて、それで……そのために、罪を犯さなくてはならなくなったのです。そう決めた時から、妹の笑顔は眩しすぎて、私の胸に突き刺さるのです。自分が笑っても、笑う資格なんかない気がして、苦しくて……。」

 オレは、恐る恐る聞いた。

「悪夢って……?」

「ある人が、絶大な力・・・つまり、魔法なんですが、それで、世界を破滅に導く。そんな夢です。」

 背筋が凍り付く。オレはもう、質問もできなくなってしまって、手にしているグラスをカタカタ震わせた。

「私には古の血が先祖の代から受け継がれ、流れていましてね。それは……」

 顔を上げ、宙をみる。過去が見えているみたいに。

「時の一族の血なんです。千年前まで人間界を統治していた部族の一つで、他にも火の一族とか、水の一族とかいろいろあるのです。今では生き残りはごくわずかになってしまい、血も薄まって、すっかり廃れてしまいました。そのうち人々からは忘れられた存在となっていきました。」

 どこかで聞いたことのある話だった。

「火の一族は火を、水は水、時は時を司っていて、それぞれに特有の能力が備わっていました。昔、人は妖魔や妖精から魔法の力を借りる必要はなかったのです。人は、自らの魔法を覚え、部族間で足りない部分を補い合って生きていました。でも、血の薄まりのために、人間界を支えきれなくなって、やむなく、外の世界の者たちに助けを乞うようになったのです。」

 それが魔法書の始まりというわけか。

「力が弱まったといっても、ゼロではありません。部族の力が残っている者もわずかながらいて、私もその一人です。特に私は、突然変異らしく、時の一族の血の影響が強く出ていて……見てください。」

 何を? と答えを待って、先生の目を見る。空色の透き通った瞳。

「私の目は、今、殆ど見えていません。」

「!」

 気付かなかった。そんな素振り全然見せなかったから。

「時の一族の力は、視力を犠牲にするのです。他の部族も、何かしら犠牲にしています。血が廃れたのも、こういうことのためかもしれません。……ああ、心配しないでください。目が見えないと言っても、良過ぎるからなんです。」

「良過ぎる?」

「十キロ先の本が読めます。」

 はああ? 十キロ先の本が読めたってしようがないだろう? 凸レンズだから遠視だとは思っていたけど・・・それは良くないって。

「この眼鏡には、遠視を矯正する魔法がかけられていますから、それで真面な生活が送れているわけです。生命線ですね、私の。」

 眼鏡を弄びながら、話を本題に戻す。

「私が視力を犠牲に得た力……それは、未来を見ることです。残念ながら、他の魔法のように制御できるものではありません。突然、ある時期のある映像が閃くという、不確定な能力でして。あなたの魔法みたいに、無意識の中に働くのです。この力に、指鳴らしは通用しませんけれどね。力から私への一方通行です。その現象は、意識が眠る夢の中、睡眠中によく起こります。」

 先生は、自分の酒を飲みほすと、一向に減らないオレのグラスを取り上げ、飲んだ。もう、やけっぱちなのだ。

「ただの夢か、そうじゃないかは、色で分かるんです。色付きは、未来の映像。正夢と言いますが、それです。色付きの悪夢に苛まれていた頃、ある人物が私の前に現れました。……いや、彼が人間じゃないことくらい、私にだって分かっていたのです。あれはたぶん、妖精界の者でしょう。その彼がこう言いました、『お前が悪夢に魘されていることは分かっている。それを解消するには、これが必要だ』。彼が私に差し出したが、これです。」

 そう言って、テーブルの上に無造作に置いたもの・・・透明な石が、柄の部分にはめ込まれた、大きなナイフ、いや、小さな短刀か? 白い唐草模様のレリーフに覆われた鞘に納められた、それ。オレは、黒竜のペンダントをアルフリートに見せられた時のように、ぎょっとした。見たことがある。これも、どこかで。

「これで、刺せ、と言うんです。私はそんなことはできないと断りました。でも、相手は食い下がってきました。『お前がやらないのなら、妹にやらせるまでだ。魔法にかかりやすそうだし、よく操れるだろう。女だと思って油断させられるかもしれない』と。私は抗議しました。『何故、私なのだ。自分でやればいいだろう』と。『これは、人間界の問題だ。人間の不始末は人間がつける。時の一族に課せられた使命ではないのか? 時の流れを変えることが』、『しかし、この剣は何だ?』、『知る必要はない。ただ、これでなければ、効かないということだ』、『人間界の問題に、何故首を突っ込む?』、『人間界の次が、我らの世界だからだ』……そんな話し合いの結果、私はこの剣を受け取りました。他の人がやるのも、私がやるのも同じこと。だったら、彼が言うように、未来を知っている私がやるのが、やはり適任だと思ったのです。」

 オレは眩暈を覚えながら、言った。

「一番の理由は、妹さんのためですね?」

「……。」

 人のせいにしたくないんだろう。言い訳が嫌いなんだ、この人は。頭が割れるように痛むのを堪える。酒のせいじゃない。記憶が頭の中の殻を突き破ろうとしているような痛みだった。先生が、オレの様子に気づいて、店を出ましょう、と席を立った。その前に、どうしても言っておきたいことがあって、袖を引っ張った。

「あの……その、世界を滅ぼそうとしている人は、きっと……先生のような人に殺されるのなら、本望だと思いますよ。」

 先生は酔いが覚める程驚いて、オレの目を見た。オレは見ていられなくて、目を伏せて、無理矢理笑った。でも、袖を掴む手の震えは誤魔化しようもなく、先生にしっかりと伝わっていた。

「自分の世界を滅ぼしたいなんで、まさか、思うわけないでしょう? そんなことするくらいなら、死んだ方がましです。どうせ死ぬなら……聖職者に殺された方が、幸せだと思うんです。だって、天国に行けそうじゃないですか。」

 嘘だった。天国なんて信じていない。それに、死ぬのは嫌だ。当たり前じゃないか。でも、世界が滅んだ後に、何が残っているって言うんだ? それは地獄で生きるようなものだろう? 死よりも怖い生だってあるんだ。先生は、居たたまれなくなって、震えるオレの手を振り払うようにして、店を出て行った。逃げたのだ。追いかけることもできず、テーブルに突っ伏す。白い短剣が、ぼやけて、歪んで見えた。


 宿に戻ると、先生は寝室で寝ていた。うつ伏せに近い体勢で、息を殺して。オレと話したくないから、寝たふりをしている。お互い、眠れるはずもない。さっきから雨が上がって、月明かりが差し込んでいる窓辺のベッド。怖いくらい静かだ。青白く染まって見える、先生の金髪、天然パーマ。その横に、そっと短剣を置いて、オレは自分のベッドに潜り込んだ。先生とは逆向きに。

 どのくらい時間が経ったのだろう。僅かな衣擦れの音、床が軋む音。先生が短剣を手に、オレの背後で立っているんだろう。オレは、それが突き立てられるのを、静かに待った。不思議と、恐怖心はなかった。そして、いろんなことを思い出していた。

 初めてアルフリートに会って、言われたこと。そう、あの時、城を出て行かなかったら、情が移る前の先生に迷うことなく殺されていたんだろう。まさか聖職者がそんなことをするなんて思ってもみないから、油断しているところを、さっくりだ。

 それから、蛇に殺されかけた時のこと。魔法書を開けって叫んだのは、開いたところで先生が魔法を発動させようとしたんだ。妖魔の力を借りてでも、オレを助けようとしてくれた。倒れてたオレを見つけた時の、必死な形相。その後の安堵。芝居なんかじゃない。混じりっ気なしの、先生の素顔だ。

 少ないけど、最後に綺麗な思い出ができたな……そう思って待っているのに、なかなか刃は突き立てられない。鞘から抜かれる音もない。変に思っていると、何やらため息のようなものが聞こえて、パタパタ……と消そうともしない足音が、オレの前を通り抜けて行った。びっくりして、跳ね起きる。見ると、別室のテーブルに灯りを灯して、先生が声もなく泣いていた。オレは、今更酒が効いてきたのか、腹の底が熱くなって、怒鳴った。

「何してるんですか! 世界と妹さんのためでしょう? 怖気づいてないで、早く剣を抜きなさい!」

 嗚咽が漏れて、途切れ途切れに答える。

「無理です。できません……できるわけないでしょう? 何度も死の危機に瀕して、それを助けようともせず、見殺しにしようとした私を、責めようともせず、ただ、先生、先生と慕ってくる人に、しかも、赤の他人のために無抵抗でその命を投げ出そうとしている人に対して、私が何をできるって言うんですか? 私は悪魔じゃないんですよ!」

 オレはなおも怒鳴った。

「何を甘ったれたことを言っているんですか! このままだと、妹さんが悪魔になるんでしょう? あなたがやらないでどうするんですか!」

「……。」

 埒が明かないと、短剣を手に取る。

「そんなに嫌なら、オレが自分でやりますよ!」

 先生が涙でべとべとの顔を上げて、飛びついてきた。

「やめてください! お願いですから。あなたに死なれたくないんです。生きて欲しいんです!」

 頭がまた、ガン!と痛くなる。同じことを言われた……誰かに。激痛のあまり、短剣を手放した。縋りついていた先生が、力が抜けるように頽れて、声を上げて泣き出した。オレは、頭痛と悲しみで訳が分からなくなって、わーっ!と叫びながら、ベッドに倒れ込んで、枕を叩き、そして泣いた。月明かりの部屋に響く慟哭。二人に、止んだはずの雨が降り注いでいるみたいだった。






   五月十六日


 次の日の朝、いつの間にか眠っていたらしく、目を覚ますと身体には毛布が掛けられていた。先生が掛けてくれたのだろう。その先生は、暖炉でコーヒーを淹れていた。落ち込む気持ちを引き上げるような、香ばしい香り……。夢でも見ているような心地で、その様子を眺めていた。

「良かったら飲みませんか? あなたが淹れたものには遠く及びませんが。」

 笑う目の下には、隈ができていた。泣き明かしたのだろう。瞼も腫れて、痛々しかった。向かい合わせでテーブルに就く。台風一過の静かな朝、と言うんだろうか。白い陽光が部屋中に溢れて、少し眩しい。二人はしばらく黙ってコーヒーをすすった。オレは先生の顔を、じっと見ていた。泣き腫らしているが、どこか清々しい感じのする、その顔を。先生はカップに向けていた目を、ふと上げて、不思議そうに見ているオレに、爽やかな微笑みを返してきた。

「ここからは、別行動で行きましょう。」

「え……。」

 どうして?という言葉が出てこない。力なく、先生の話の続きを待つ。

「あなたはもう、魔法を使えるようになった。私の役目は終わりです。それに……」

 オレの胸元に視線を投げる。

「私は必要ないでしょう? お守りが二つもあるし。」

 慌てて、自分の胸ぐらを掴む。えっ、何で? 先生は余裕の笑みだ。

「知っていましたよ。あなたが何度も確認するようにそこに目をやって・・・特に、食事時ですね。あなたは優しい人だから、その人が飢え死にするんじゃないかと、心配だったんでしょう。いや、何。その人も、私があなたを戦闘中に放っておいた時、あなたに気付かれないように、時々魔法を使って助けていたのですよ。確信したのはその時です。大丈夫。誰にも言いません。私だって、まだ死にたくないんです。」

 知らなかった……。気付かれていたことも、アルフリートが実は助けてくれていたなんてことも。手助けしないって言っていたのに。

「それから、記憶をなくしているんじゃないですか?」

 ただただ、唖然とするばかり。そこまで分かってしまっているのか。

「初めてお会いした時から、おかしいと思っていたのです。魔法アレルギーをなくす方法を教えてもらうために、一緒にシザウィーにあるという妖魔界の入口を探して、妖魔王に接触しようという、当初の使命を、あなたが全く口にしないのはいくらなんでも変でしょう? 実は、私はその旅の途中で、あなたが妖魔に殺されるという設定を立てていたのです。今となってはこれで正解でしたけれどね。」

 シザウィーに妖魔界の入口だあ? 何だそりゃあ!

「私は未来しか見ることはできない。過去のことは、あなたが自分の足取りを辿って、少しずつ思い出していくしかありません。」

「オレの足取り?」

「あなたは去年の誕生日の後、一年近く旅をして、世界中を巡っていたのですよ。」

「じゃあ、これで二回目?」

「三回目です。一回目はシザウィーの大使として、公務のために各国を渡り歩いていたのです。去年のはお忍びです。時々城へ帰って、用事を足してはまた出て行くという忙しさだったようです。」

 ということは、オレは二年以上、ろくに城で過ごしていないってことか? だから旅慣れているのか?

「諸国を歩いているうちに、思い出すこともあるでしょう。でも、闇雲に進むには限界がある。ちょっとして道しるべを、あなたに授けましょう。」

 懐から、小さく折りたたまれた紙を取り出し、開いて見せる。世界地図だ。

「赤い点がありますね? これは、昨日お話しした、部族の城があった地点です。今は全て廃墟となっていますが、あなたがこれらを訪れたという話を耳にしたことがあるのです。あなたが魔法を習得する上でも、きっと役に立つでしょう。」

 そう言うと、地図はまた元へしまわれた。

「覚えましたよね。」

「……はい。」

 よく知ってるよな。オレは超速読。書物はパラパラめくるだけで丸暗記してしまう。地図だって一度見れば充分なんだ。

「先生はどこへ?」

「私は別ルートで、いろいろ調べ物をしてから、あなたの後を追います。」

「じゃあ、また会えるんですね?」

「ええ。必ずお会いしましょう。来年のあなたの誕生日までに。そうでなければ、間に合いません。」

「?」

「あなたが世界を滅ぼす予定の日なんです。」

 オレは心臓麻痺で死ぬんじゃなかろうか。朝からショックを受け過ぎだ。一年しかないのか? 先生が困ったように笑う。

「そんな、情けない顔しないでください。……そうそう。ティルート教は、賭け事もご法度なんですよ。ご存知でしたか?」

「はあ……」

「でも、私は、賭けることにしたのです。あなたに。必ず勝ってください、あなたの運命に。運命は、未来は変えることができる。絶対に! あなたを信じます。良い夢を見させてください。」

 先生のエールが胸に染みる。感謝の言葉が思いつかないから、代わりに両手で先生の手を固く握った。


 朝食後、オレと先生は、宿の前で別れた。握手して、手を振って……後は、背中合わせに、歩いていく。振り返らない。前へ進もう。

 空は昨日までの雨が嘘みたいに、美しく輝いていた。二人の旅立ちを祝福しているようだった。


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