7.深雪と深冬と初めてのデート4
午後のお茶の時間になる前には水族館を出発してすぐに深冬はやっぱり疲れていたらしく、私の肩に寄り添う形で穏やかな寝息を立てていた。秋兄の運転も深冬を気遣ってかほとんど揺れを感じさせないようになっている。
「深雪。お前は大丈夫なのか?眠そうな顔してるけど」
「……大丈夫よ。それに今は深冬の方が大事だもの」
「無理はするなよ。兄貴、あとどれくらいなんだ?」
「一時間てとこだな」
「なら大丈夫、それくらいならもつわ」
昼食が簡単すぎるものだったから多分次にいく場所は飲食店関係なんじゃないかしら、とは思っていたけれど実際に着いたその場所は森の中に佇む一軒の喫茶店だった。まるで知る人ぞ知るかのような。
「深冬、起きて。ついたわ」
「んぅぅ……ぁ、ごめんなさい、寝ちゃったの?私」
「少しは疲れ取れたの?さ、これを羽織って」
「うん……ありがとう」
夏の夕暮れとはいえこの森の中はひんやりとしている。それに店内は冷房も効いているかもしれないから用意してきた薄めのカーディガンをまだ寝ぼけ眼の深冬にゆっくり羽織らせていく。
「いらっしゃい。おや、秋美くんじゃないか」
「マスター、ご無沙汰しています」
「大学卒業以来かな。そちらのお嬢さん方は?」
「いつぞや話した弟と、今お世話になっているところのお嬢さんたちですよ」
「そうかそうか。では久しぶりに腕を振るうかの」
頭髪は真っ白だけれども背筋のピンとした秋兄にマスターと呼ばれた初老くらいの男性はキッチンに向かいつつ何かの準備をし始めた。そして私たちは席に着く前にマスターから目配せされた秋兄に導かれて長テーブルいっぱいにところ狭しと並べられたたくさんのティーカップセットの前に連れていかれたのだった。
「マスターの店はな気に入ったカップで紅茶を飲むことができるんだ。深冬たちもお湯を沸かしている間に選ぶといい」
きらびやかなものから落ち着いた色合いのもの、カップに描かれている絵柄も見ているだけでも飽きないくらいにたくさんあって目移りしてしまう。それでもなんとか気に入るカップを見つけ出し、私たちは秋兄にそれぞれを指し示して確保してもらった。
「マスター、彼女たちに例のやつ、頼む」
「ああ、そうだね。特にそこの子にはいいかもしれないな」
「……わたし?」
マスターの目線を感じた深冬がきょとんとして小首を傾げる。秋兄がそうだという風に軽く頷くのを見て私も何のことだろうと思っているとマスターのいるキッチンの方からふんわりとした卵とバターの美味しそうな匂いが漂ってきた。
「秋美君、久しぶりに君もやらないか?」
「そうだな、夏生にはそれは少し物足りないだろうし。マスター、アレはもうすでに?」
「うむ、いつもの場所に寝かせてあるよ」
秋兄は手馴れた手つきで業務用の冷蔵庫からなにかを取り出し、まな板に包丁の小気味いい音を響かせながら複数の野菜か何かを刻み取り出したフライパンで手際よく炒め始める。マスターさんも何かをボウルでかき混ぜたあとにやはりフライパンで調理をしていて次第に香ばしい肉の焼ける匂いや、やや甘い香りの焦がし玉ねぎのような匂いでフロアが満たされていって思わず私たち三人はごくりと唾をのんでしまっていた。
「ほれ、夏生。お前には特製ハンバーグ」
「そしてお嬢さん方には特製ふわとろオムレツを」
「でけぇ」
「うわ」
「秋兄さま、これは」
とても美味しそう。美味しそうなんだけれどもかなり大きい!夏生や私はともかく深冬にはちょっと完食無理なんじゃないのかな。深冬も自信無さそうな顔をしているし。
「まぁ食べてみろ、深冬。お腹空いているんだろ」
秋兄に促されて深冬はナイフとフォークを手に取りスッと一口大に切り取って半熟にふるえる黄金色のそれを口に運べば、深冬は本当に美味しいものを食べた時じゃないと見せないような笑顔を見せてその後も黙々と一心に切り取っては口に運びと気がつけば既に半分がお皿の上から消えてしまっている。
「どうした、深雪、夏生。冷めちまうぞ」
深冬の食べっぷりに我を忘れて見惚れていた私と夏生は秋兄の言葉に現実に引き戻されてあわてて食事を開始する。オムレツは口の中でまるでカスタードプリンのようにふんわりと溶けていくような柔らかさで飴色に炒められた玉ねぎ片の旨味と相まって本当に手が止まらなくなるような美味しさ。これなら食の細い深冬でも通常の二倍以上あるように見えるこれを完食できたのも頷ける。
「あの、おかわり、してもいいですか」
「深冬?」
「だって美味しいんだもん」
「だろうと思っていたよ。さあどうぞ」
「作りおきだがポタージュスープも飲むといい」
「夏生君はパンとライス、どちらかな?」
結局夏生は特大と言える大きさのハンバーグに大盛りライス、ポタージュスープ二杯にオムレツまで、私と深冬はオムレツ二皿にポタージュスープ、サラダを気がついたら完食させられていたのだった。
「こんなに食べたの何ヵ月ぶりなのかなぁ」
「えーと深冬は半年ぶりかしら」
「もーなにもくえねえ」
「夏生は腹八分目って言葉を少しは覚えなさいよ」
それにしても、と私は思う。このマスターさんはどういった人物なのだろうと。あの深冬に食べやすかったとはいえこんなにも食べさせたうえに今飲んでいる紅茶までもが完璧と言っていいほどに美味しい。秋兄の淹れる紅茶が美味しいのはおそらくこのマスターさんから直々に手解きを受けたのだろうとは推測できるのだけれども。
「深雪。今お前の考えている事の答えを教えてやろうか」
「えっ」
「マスターは元学園大食堂の総料理長なんだよ。引退したあとにここで喫茶店を開いたというわけだ」
「秋美君の言う通りだね。さっきのオムレツはあまり食べられない女の子でも食べられるようにと学園にいた頃に研究していた一品で今だと裏メニュー扱いになっているかもしれない」
冬華学園大食堂。各校舎にある食堂とは別に学園に関係する全ての人が利用できるほか、若干割高になるけれど外部の人も利用できる三階建ての巨大な食堂である。基本的には学生が気軽に食べられる程度の値段設定なのだけれど、事前予約のうえ予算を提示することにより高級店のような料理を出してもらうことも可能でクリスマスの頃に開かれるダンスパーティーの時には料理人たちが腕をふるってくれるのでみんな楽しみにしているのだ。
「秋美君には色々世話になったしな、今までのお礼にいくつかレシピを提供しよう。瀬尾君に渡すといい」
「ありがとうございますマスター」
「……あの、マスターさんは瀬尾さんをご存知なのですか?」
「大食堂時代の元部下だからね。筋はなかなか良かったけれど柔軟な発想力が今一つだったかな」
瀬尾さんというのは私たちの家の料理長さんのことで真面目すぎるくらいに真面目な男性。今年の春に一回りくらい若い優しくて可愛いお嫁さんをもらったばかりの幸せ者だ。提供するレシピから何か得てくれるといいのだが、とマスターさんは微笑むのだった。
『またおいで』
美味しい紅茶と秋兄とマスターさんとの楽しいおしゃべりは瞬く間に時間を巡らせ帰らないとまずい時刻になってしまったのでお礼を言って帰宅の途についた。
「秋兄、夏生、今日はありがとうね。深冬は……あぁ眠ってる」
「それだけ楽しかったというところだろ、深雪。お前も寝ちまえよ、着いたら起こすからさ」
「ん……ごめん、なさい」
こうして私たちの初めてのデートは幕をとじたのだった。