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月影が笑う頃に  作者: 松下 健介
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序章

平成二十六年六月末───────。




雨でぬかるんだ地面を蹴る度に紐がほどけかかったランニングシューズが軋む。


既に靴が脱げてしまった右足の感覚はとうにない。

脇腹の痛みと自らの荒々しい呼吸が己の限界を告げていた。



未だにしつこく追ってくる文学青年もといストーカーは次第に距離を詰めてきているらしく、名前を呼ぶ声が徐々に近付いてきている。



体力は元々無い方だ。当然走るのも好きではないし、走りが遅い自覚もあったものの、あのストーカーからは容易に逃げられるだろうと思っていた。


だが、今日は降水確率90パーセントという生憎の天気で服装も決して走りやすいといえる衣服ではない。

今現在着ている剣道着は水に濡れ、泥が飛び散っているという散々な有り様。



ずぶ濡れになった剣道着はやたらと重苦しく走りにくい。

おまけにここ最近は風邪気味でまともに運動をしておらず、つい先程まで稽古で汗を流したばかり。


故に全身は重く既に悲鳴をあげていた。




「待って、結詠!」


ストーカーが背後で叫んだ。

追いかけっこを始めて約40分程経った今、流石にストーカーも呼吸が荒い。


追いかけてくるストーカーに待てと言われて待つ馬鹿が何処にいる。

なんて心内で悪態を付きながらも走る速度を緩めないのは本能が危機感に支配されているからに違いない。


この青年は危険人物である、と。




「結詠、結詠……!」


壊れた機械仕掛けの人形のように、ただただストーカーは私の名前を繰り返す。

ストーカーの声は更に近付いていた。


足を止めることなく振り返る。目が合ってしまったストーカーのなんともいえない表情から目を背けた。


道に沿って街灯がぼんやりと地面を照らしている。

どうやら自分はかなり見通しのいい道を選んでしまったらしい。

そして今日の天気は生憎の雨模様で普段よりずっと人の数は少ないときた。


ああ、もうなんてこった。今日は本当についていない。

ここ最近ずっと続く不運の連続を思い返して舌打ちをする。



兎に角この青年を撒かなければ。


ふと目に映った前方のプレハブ小屋に向かって一気に加速する。

真横に立てかけられている材木の隙間を素早くくぐり抜け裏側へまわるとさっと態勢を低くした。



──────見つかれば間違いなく無傷ではすまない。



ばくばく暴れまわる心臓を二、三回ほどの深呼吸で無理やり宥めた。

上下する肩を抑えつけるように袴の裾を握りしめる。



息を殺しつつ、辺りを見渡す。

プレハブ小屋の裏側の先────木の柵がはられた向こうは崖のようになっていた。


どうやら長期間の雨でぬかるんだ地面が崩れたらしい。


「…………行ったかな」


可能な限り聴覚を研ぎ澄ます。

辺りは気味が悪いくらいに静まり返っていた。あともう少し落ち着いたら急いでこの場を離れよう。


得体の知れない人に追われるという緊張感から解放されたからか、情けない声がはあっと漏れる。


未だに心臓はバクバクと暴れまわって息苦しい。



「…………はあ。やっと帰れる」


心臓を抑えるように湿りきった胴着を握りしめながらゆっくりと立ち上がった。

もう一度ちらりと崖の方に視線を向け、来た時と同じ立てかけられた材木を潜り抜ける。


大勢を元に戻すと走ってきた道の方に、街灯と街角などでよく見かけるオレンジのミラーが目に入った。


家に帰るには来た道を引き返さなければならない為、気配に気を付けながら静かに足を動かす。


何かにおかしいと気付いたのは、街灯を通り過ぎようとした時だった。



「な、なっ……なんで」


自分でも気持ち悪いくらいに声は震えていた。

振り返る勇気はなかった。肩、手、脚と徐々にガタガタと徐々に全身が震え始める。


やっとのことで僅かに首を動かした。視線の先にはミラーがある。

映るのは自分だけの筈なのに。どうして。



「あ、あ、あぁ…………」


ミラーに映る自分の背後には、見覚えのある顔。

そして自分の肩に手を伸ばすのは間違いなく───────。


優しく肩を掴んだのは見覚えのある綺麗な手。

抵抗しようにも体がきかない動かない。振り払うことすら出来なかった。



「藍河さん……」


かろうじて絞り出せた声が辺りの闇に溶け込んでいく。




「……正解。結詠、やっと掴まえた」


ストーカーは嬉しそうに柔らかな声でそう囁いた。

振り解こうと手に力を入れたと同時にがしっと引き寄せられる。


「っ……離して、ください。」


顔をしかめずにはいられなかった。ストーカーの細い腕が絡みつくように全身を包み込む。



「どうして、そんなことを言うの。やっとまた会えたのに」


「なんで、って……私は知らない……」


抱きつかれているらしく全く身動きが取れない。

生暖かい体温が全身にじんわりと伝っていく。



「結詠、俺を、忘れたの?全部、何も覚えてない?」


「知らない……知らない、私は何も……」


知らない知らない知らない知らない知らない。

私はただひたすらその一言を繰り返す。



「大丈夫だよ、俺が君に全部思い出させてあげる。

君はただ俺の言葉を信じてくれればいい」


「知らない知らない。本当になんのことだか……触らないで!」


彼の発する一言一言がこびりついたように脳内でリピートされる。

既に頭の中は真っ白で、思考は停止状態に等しい。焦りと恐怖は思った以上に理性を欠けさせているのだと理解する。


一体ストーカーの何を信じろというんだ。

それでも私は知らない、やめてくれと叫ぶように声をあげることしか出来ない。



「そんなに怖がらないで結詠。

俺は君との約束を果たしに来たんだ。だから────」


「約束なんて、知りませんから……!」


訳が分からない。約束って何。約束なんてした覚えがない。なんで。

身に覚えのない約束に更に思考がぐちゃぐちゃになる。


絡み付く腕の力はより一層強まった気がした。男の荒い呼吸と密着している部分から伝わる生暖かい体温が気持ち悪い。



「……分かった。じゃあ今度は君が俺を掴まえにきて」


「掴まえる……。私が、藍河さんを?」


また新たに訳の分からないことを言い出す藍河は微笑むような優しい笑みで私を見つめている。

なるべく声が震えないようゆっくりと尋ねた。



「そう、君が俺を掴まえる。

もし君が掴まえることが出来たら、俺はもう二度と君には近付かないことにしよう。簡単だろう」


「……ははっ。もしかして、それも約束ってやつですか」


「そうだよ。俺と君の二人の約束だ」


これらの言葉が愛しい恋人からであればどんなに甘美で喜ばしいことだっただろうか。


何か言葉を返そうにも声が出ない。

精神的な限界がきたのか、次第に視界がぼんやりと滲んでくる。



「泣かないで。さあ、鬼ごっこのはじまりだよ」


抱き寄せられた体はようやく解放された。追いかけっこの始まりを告げると共に。



「あ、ああ……ああ……」


数秒の間を置いてぼやけた視界に鋭く光る何かが映った。

その何かは音をたてることなく力が加えられるまま徐々に私の体内へと沈みこんでいく。


声をあげる間もなく手先の震えが完全に停止した。

感覚の無い冷たい指先にじんわりと温かい熱が伝う。

不思議と痛みはない。




「─────君を、同じ場所で待ってる」


聴覚をくすぐるような聞き覚えのある懐かしい声。

眩む視界のなかで青年は静かに泣いていた。





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