表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ナイフとやさしい音

作者: 青井在子

ぽろん、ぽろん


と優しい音色があたしを夢の世界から引き戻した。

ぼやける視界に朝日はあまりにも刺激が強すぎて、二、三度目をこするとすぐにいつものようにクリアな世界が飛び込んできた。


それからまだ寝ていたい、と叫ぶ体を無理やり起こした。


ぽろん、ぽろん


優しい音色はまだ続いている。

たぶん、いや絶対隣の部屋だ。

あの部屋にはピアノがある。

弾いているのは絶対、アイツだ。


ぽろん、ぽろん


なんていったっけ、この曲。

戦場のメリークリスマス、だっけか。

あたし、この曲好きなんだよね。

ちょっと、切なくて。悲しくて。


悲しくて、悲しくて。

なんだか無性に腹立たしくなってきた。

今すぐこの音色を止めたい。

うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。


あたしはベットからも、自分の部屋からも飛び出して、

隣の部屋のドアを勢いよく開けた。


ドアはあまりの勢いのよさに壁に激突して、その反動でまたあたしの前まで帰ってきた。


大きな音がした。

その音ではっと、我にかえった。


我にかえった、はずなのに。


ドアがゆっくりと開いた。あたしが開けたんじゃない。

ピアノの音色は止まっている。


ドアが開ききって、アイツの姿が目に入った。


右目の上あたりには青紫色に変色している痣。

唇は切れていて、血が固まっている。


「おはよう」


あたしより背の高いアイツの、優しくてあまくて、何もかも癒していくようなそんな声が降ってきた。


ぐっ、と右手に力が入る。

あたしは見つめてくるアイツの目から目を反らして俯いた。


「どうかしたの?」


姿勢を低くして、あたしの顔を覗き込んでくる。

優しげな瞳が、あたしを捕らえた。


やだ。


見ないで。


「なあ、――」


アイツの言葉なんて聞きたくなかった。

だから、突き飛ばした。


油断していたのか、アイツは見事にその場に後ろ向きに倒れた。


「ったた……」


そう言いながら、起き上がろうとするアイツにあたしは跨って胸倉をつかんだ。

アイツの何もかもを癒していくような、傷ごと吸い込んでいくような深い包容力のある瞳に見つめられた。


「やだっ……!」


あたしは、アイツの頬を拳で殴った。

それだけじゃない。

いろんなところを殴った。


アイツはそれを、黙って耐えている。


アイツは男だし、あたしより背も高いし、筋肉だってついてるし、力だってあるだろう。

でも絶対抵抗したりしない。

いつもいつも、あたしが辞めるまで、だまって受け止めている。


右目の上あたりには青紫色に変色している痣はあたしが一昨日ぐらいにつけた。

唇を切ったのも、あたしが殴ったせいだ。


なのに、絶対抵抗したりしない。


たとえ、女の力だとしても痛いはずでしょう。

顔や体中、痣だらけになるのは嫌なはずでしょう。


どうして、やりかえしてこないの?

どうして、恨みがましい目でみてこないの?


どうして、

どうして、

どうして、あなたはそんなに優しいの?


そんなんじゃ、自分が余計醜く思えちゃうじゃない。


そう思ったら、なんだか泣けてきた。

頬を涙が伝って、アイツの首筋に落ちた。


「おい――」


そんなあたしに気づいて、アイツがあたしの名を呼ぶ。


そして、抱きしめた。

そっと、でも強く。


「すきだよ」


耳元で、囁かれた。


ねえ、どうしてこんなあたしなんかをすきなの?


そんなの、嘘にしか聞こえないよ。


母さんや父さんみたいに、嘘つきの「すき」は痛いんだよ。


「本当にすきだよ」



あたしはたった今さっき、己の手で殴った彼の頬に触れた。

どうしてだろう、あたしの手震えてる。


「いたい……?」


声も、震えてる。


「痛い。けど、お前のほうがもっといたいきずもってる」


アイツがあたしを抱きしめる腕に力を込めた。


「どうして、やりかえさないの……?」


「お前が、自分自身を守るためにやってるってわかってるから。

いつか、お前が俺を認めてくれて、殴らなくなるまで俺は待つ」


アイツが穏やかで、まっすぐな低い声で笑った。


「どうして、あたしなんかすきなの……?」


「すきだから、すきなの」


「そんなんじゃわかんない」


アイツがもう一度、笑った。


「すきだから。すっげえお前のことすきだから。それだけ。

だから、お前の抱えてるものごと全部受け入れてやりたくなるし、

守ってやりたくなる」


「あたし、いつも殴ってばっか……」


最後まで言うことは許されなかった。

アイツに、唇を塞がれた。


唇が離れたあとに、熱い吐息が頬にかかってくすぐったかった。



どうして、あたしはアイツを殴るんだろう。

アイツが嫌いなわけじゃないのに。



「すきだよ」


そう言ってアイツが笑った。


優しくて、甘くて、何もかも受け入れてくれそうな、あたしのすべてを抱きしめてくれるような。


ああ、そうだ。

あたしが嫌っているのは、殴りたいほど憎んでいるのは、

あたし自身だ。


アイツのまっすぐで綺麗な目を見ていると、自分がどれだけ醜く汚れた人間なのか思い知らされるようで。

それが怖かった。

だから、アイツを拒絶した。


そばに、いてほしいのに。


すきなのに。


視界がぼやけて、頬を何回も何回も、熱いものが伝って落ちていった。

それからすぐに世界が真っ暗になって、あたしは意識を手放した。



ぽろん、ぽろん


優しい旋律が聞こえて、あたしは目を覚ました。

きっとアイツに運ばれたのだろう。

自分のベットで眠っていたのだから。


ぽろん、ぽろん


相変わらず、聞こえてくる曲は戦場のメリークリスマス。

切なくて、悲しくて、それでいて傷を癒していくような優しいメロディ。


あたしはそれに誘われて隣の部屋へ向かった。

ゆっくりとドアを開けると、グランドピアノに向かうアイツの背中が見えた。


ゆっくりと近づいていって、立ち膝で震える腕を彼の腰に回した。


優しい音色が、止まった。


震える腕に、アイツの手が重なる。


ごめんね。殴ったりしてごめんね。

ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。


何度心の中で謝っても、声に出すことはできなくて、

代わりに涙ばかりがあふれて、アイツのシャツを濡らした。


アイツの温かい手が、あたしの腕をそっと外した。

優しい手つきであたしを立たせて、自分はあたしのほうへ向くように座りなおした。


そして、あたしの目をまっすぐに見つめて


「だいすきだよ」


と言った。


殴る気は少しも起きなかった。


ただただ、愛しさだけが込み上げてきて、抱きついた。


強い力で抱きしめて、離したくなかった。


一人にしないで。ずっと一緒にいて。


「す、き……」


どうして、たった二文字の言葉なのに今まで言えなかったんだろう。



アイツは優しい声で笑って、


「俺もだよ」


と言った。


あたしにはそれが、さっきまで聞こえていたピアノの音色よりも優しい音に聞こえたんだ。



素直になるって難しいね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ