『おう。イスファークの大地で、また会おう!』
歯医者の診察台を、想像してほしい。
それに酷似したものが、10台、10列並んだ、真っ白なフロア。
そこに俺は、お仕着せの真っ白な入院服を着て、立っている。
通称、『テストルーム』と呼ばれるこの部屋は、VRの試験場である。
―VR技術。
電子の世界で構成された疑似空間と脳を直結させ、仮想の『生』を体験する技術。
21世紀末に現れた、ある天才脳医学者がこの技術に関する論文を発表して以来、世界中の研究者が探究し、そして挫折してきた。
この研究の最大の障害は、当然のごとく『人命』と『尊厳』である。
脳情報を扱う以上、一歩間違えば被験者は廃人となる。
そしてそれ以上に、人の脳、いや人の人格に科学が踏み込むことが許されるのかと、多くの健全な有識者達はその活動に反対してきた。
だが、もう遅かったのだ。
人は『りんご』を食べてしまった。
その可能性を知ってしまった。
ゆえに1世紀に渡り研究は進められ、10年前、国営企業『アマツ』が、そのプロトタイプの開発に成功したのである。
その後プロトタイプは多くのテストを経て改良され、その完成の95%まで達した。
そして、残り5%を埋める為のテストが、これから始められる。
『えーーー。あー、うん。』
テストルームに、放送が入る。
『テスト開始15分前となりました。テスターの皆さまは、VRシートにお座りください。また、テスト内容の最終確認をさせていただきます。』
『VR内の時間は、現実の7倍の速度で進みます。つまり、VR内の1週間が現実の1日となります。』
『みなさんに課せられた毎日の報告は、VR内時間での1日ですので、ご注意ください。』
『報告は、VR内インベントリに置かれた、『日記』に記してください。日記の内容は他者には見えない仕様となっている為、必要以上に慎重になる必要はありません。』
『また、4台のサーバ間は自由に移動できますが、その場合は一度ログアウトし、再度の接続となります。』
『サーバ間でLV、装備は共有されます。ただし、著しい矛盾が発生する場合は調整が入る可能性がありますので、よめご理解ください。』
『プレイヤーに『鴉』であることを気づかれた場合、強制的にログアウトの上、『無期懲役』の厳罰が下ります。情報収集を焦るあまりの、軽率な行動はご控えください。』
『また、接続障害による記憶の欠損、性格の豹変、人格崩壊などが起こる可能性がございますが、当局は一切保障いたしません。もしご心配のようでしたら、ぜひこの機会にブレインバンクをご利用ください。』
「よう、烏羽あ。」
「吉田か。ひさしぶりだな。」
見事に頭頂部が禿げ上がった、アラサーの男が挨拶をしてくる。
吉田 巧。共に『鴉』を仕事とする、同業者だ。
「いやあ、楽しみだなあ、烏羽あ。400万だぞ!100万都市だ!それだけいれば、どれだけの物語が産まれると思う?」
「それ…」
「ああ!苦しみの涙、喜びの笑み、怒号、罵声!人の数だけの感情が産まれ、人生がある。人生とはすなわち何だと思う?」
「……」
「そう、物語だ。人の数だけ物語がある。100万の語られざる人生を記す。それが俺達、『鴉』てわけだ。」
―独壇場である。
「だから今回も頼むぞお、烏羽あ。俺とお前が組めば、明かせない真実も、拾えないゴシップもない!」
「…お前がもうちょっと俺の話を…。」
「そういや、他の奴らをみかけないが、別施設か?」
「聞けよ、おい・・。」
「はははっ、なんだよ。聞いてるって。」
「猶更タチが悪いわ…。」
「でっ、他の連中から連絡はいってないか?あいつら俺には連絡よこさないからなあ。」
「ドンタコスと紀伊国屋から、連絡がきた。二人は関西のテストルームだそうだ。あと…」
「あと?」
「デスシザースから、脅迫メールが来た…。」
「おお、ご愁傷様。あいつもいい加減しつこいな。」
「あの粘性が、あいつの強みだからな・・。」
『後10分でテストを開始します。席についていないそこのお二人、早くご着席ください。』
「ご指名だぜ、烏羽あ。」
「おっと。また後でな。」
「おう。イスファークの大地で、また会おう!」
ビシッっと、似合わない敬礼をして自分のシートに向かう、吉田。
相変わらず疲れる奴だが、今回もあいつの協力が必要になるだろう。
「さて…。」
また、仕事が始まる。
くそったれで、醜く、なのにまぶしいあの世界へ…。