第44話-孤立した島国で-
彼方に暁が見える。
他に抱く悪意も、掲げるべく善意もなく。
ただ水のように、雲のように、流されるようにして動いている。
源を司る者達が強く、激しく渦巻いている。
司者の使いとなった人間が、築いてきたモノものを崩す。
優しさとも情熱とも違う熱が空を焦がし、実のような虚が大地を揺るがす。
現実を哂う。抵抗を嘲う。
侵攻、奪取、崩壊。
それまで護られてきた者達による矛盾の連鎖、否定の拡大。
法が消え、秩序が消え、暗黙が破られようとしている。
とりわけ深刻なのが、現実を侵食するもう一つの現実。
暁の雲が流れてくる。
穏やかな、しかし絶大な流れに乗って。
圧倒的な威圧感と恐怖、計り知れない混沌と矛盾を孕んだ雲が、頭上へと迫っている。
逃げられない、避けられない。
衝撃の暴風と、悲しみの豪雨を撒き散らすであろうそれに対し、個人はあまりにも無力。
この小国にそれを回避する力はない。
人々が暴風と豪雨に巻き込まれることは必至。
どんなに隠れても風は必ず吹き付ける。
どんなに頭上を守ろうとも雨は必ず個々を濡らし汚す。
私には傘すらない。
傘どころか、混沌の雲に抵抗することさえ叶わない。
風に立ち向かうことも出来なければ、雨を耐え忍ぶことも出来ない。
誰かに頼らざるを得ない。
ただここに居て、流されるのを待つのみ。
屈せずにいることが、唯一の抵抗。
悲しくて辛い、無力の露呈。
幾度も経験してきた苦汁。
今までと何一つ変わっていない自分には、その苦汁を回避する術すらない。
……
暁が私を飲み込もうとしている。
いや、私だけでない。
意思を保つ全てを飲み込もうとしている。
(芹真さん……私にできることは、到来を知ることだけです)
病室の窓から青空を見上げ、平和の針を刻む時計の街並みを見渡す。
もう、夏がそこまで来ている。
そして彼ら。
四季に便乗するかのように伝わる混沌の波も。
少しずつ、じわりじわりと這いずって、逃げ道を潰しながら迫るように。
鳴らすことの出来ない、自らの内に宿ったギャラルホルンを憎みつつ、風間小羽は今日も、憂鬱な一日になるだとうと予測した。
痛みは無い。
それが夢でも現実でも、身体は痛むことを忘れていた。
しかし、身体が痛みを忘れた代わり、心が絶え間なく悲鳴を上げるようになっていたのも事実である。
痛みは無い。
されど心苦しさに悲鳴は零れる。
痛まない身体の中に存在する、止まない痛みを抱えた心の闇。
己の愚考、無力、無責任。
流動し続ける世界から逃れ、一心に平穏だけを願った果てに辿り着いた孤独と矛盾。
必然的に生まれる葛藤、孤独と矛盾がもたらす回帰の願望。
それらが身体を苛むことはないが、心をきつく締めた。
しかし、それでも痛みが無いのは、男がそれほどまでに鈍くなり、余裕を失い、疲れていたからであり――僅かな希望を持って、命を諦めずに居るからだ。
(そんな……)
早朝。
ベッドの上。
長いこと白い部屋に閉じこもっていた彼は汗、そして涙と供に夢より覚醒した。
「皆が、反抗を決意した……!?」
酷くうなされた原因は怖い夢を見ていたからではない。境界を超えて報せに来てくれた者の言葉を、何の身構えもなく耳にしたからである。
夢の中で聞かされた現実に起こった出来事。
その言葉にただならない寒気を喚起し、同時に恐れおののく自分に対する怒りと不甲斐無さ、これまで何度も繰り返してきた葛藤を改めて自覚させられた。
ベッドの枕元に置かれた鏡を覗き込み、汗ばんだ自分を落ち着かせる。汗を拭い、額に張り付く髪をかき上げ、呼吸を整える。
「キョウ……もう迷っている時間は無いよ。
息子さんに会いに行かないと!」
夢の中で事実を伝えてくれた彼女が、現実に話しかけてくる。
直接部屋の中に姿を晒すことなく、ソレの中から彼女は息子に会うように勧める。
ここに居続ける意味はもうなくなった。
「いま息子さんを助けることができるのはキョウだけでしょ? それに、渡す物もあるって……」
「分かっている……わかって……いる、ハズなのに、また僕は逃げ出したいほどの、恐怖に震えているんだ」
沈黙に包まれる白で統一された小奇麗な独房内。
男は布団から出てベッドに腰をかけたまま数分、沈黙を続けた。
「キョウは父親なんでしょ?
アナタは自分の子供を大事に出来ない人じゃないでしょ?」
無言で頷く。
弱々しくもそれを認め、頭を抱えて数秒考えた後、男:キョウはベッドから腰を上げた。
「今が、恐怖に打ち勝つべき時なんだろうな」
「そうよ。
逃げたくなる前に、やることをやろうよ、今度こそ。ね?」
「あぁ……」
壁のデジタル時計に目をやり、起床した時刻を確認してから身支度を始める。
AM 06:01。
睡魔は完全に頭から去る。
汗ばんだシャツを脱ぎ、予め用意しておいた私服に着替える。 1人、独房で。
下着ごと取替え、タイトジーンズを履いて皮製のベルトを通し、一度深呼吸。それからワイシャツの袖に腕を通して前ボタンと袖ボタンを留める。
協会に頼んで隠れ蓑とさせてもらった部屋との別れに未練はない。
ただ、世界の歯車の一部として自分が戻っていくことに恐怖を感じていた。
一度逃げ出した世界への復帰。温度差は大きいだろう。
最後のボタンを留め損ねる。
震えが大きくなる手。指先。 また逃げ出しそうになる自分を叱咤する。
誰かの励ましが無かったら再び逃げ出していただろう。だが、今は逃げない。心強い味方がいる。
それに今、自分にしか出来ないことがある。
四凶という舞台に戻り、協会長が描く世界へと戻る。
しかし――
(皆が反抗すると決めた以上、僕1人だけ逃げ出すことは出来ない)
自分を取り巻く親族たちが決めた運命を確実なものにする。 それは四凶や協会長が描くシナリオへの明確な反逆行為。
彼らの計画を認めない、小さな否定。
しかし、自分たちはそれを直に行うわけではない。
「アリス。トキは、どんな力を持っていた?」
小さな机の上に眼鏡を置き、整髪スプレーを取り出して髪を整える。
数少ない味方であるアリスはそれにどう答えて良いものか悩んだ。
「四凶に対抗しうるだけの経験を積んでいたように見えたか?」
「……いいえ。
四凶に対抗することはまだ無理だと思う」
質問を変える。
四凶に対抗できるだけの力ではなく、四凶の“誰か”に襲われた場合、トキはそいつらから逃れるだけの力を持っていそうか、と。
それに対して彼女の返答は思いの外早かった。
「はい。撃退は無理でも逃げることならね」
「そ……そうか」
ジャケットを羽織り、眼鏡を胸ポケットに差し込んでから再び深呼吸して自分を落ち着かせる。
着替えが終わったところで机の引き出しを探って小さな手作りの巾着袋を取り出す。
以前、これが原因でトキが殺されかけたと聞かされた。
時が来たのだろう。
事実を告げなくてはいけないが時が。
「もう迷えない……そうだよな。
お願いだ、一緒に付いて来てくれないか、アリス」
「もちろん、そのつもりよ。
私が一緒に行けば、キョウが死ぬ確率は無くなるんだから」
脱いだ服を綺麗に畳み、ベッドを正す。
机上の写真を除く、一切の物をゴミ箱へ落とし、同様に引き出しの中身も全てゴミ箱へと移す。
そんな、独房を発つ男の行動を監視カメラは捉えていた。
「ありがたい。
四凶から息子を護る、その手伝いをしてほしい」
監視カメラは音声も拾っていた。 キョウという人物が特別待遇でここに収容されていることも、見ている側は承知済みだった。 収容というにはあまりにも待遇が良過ぎて疑問しか浮かばないが、所長クラスでなければこの囚人の事情は知らされない。聞くことも許されていなかった。
加えてキョウは部屋を出ようとしない、大人しい人物であった。
それが原因となり、監視側は職務を怠慢しがちになっていたのだ。
現にキョウの部屋掃除を見ていたものは、真面目に映像を送り続ける監視カメラ一台のみ。会話を拾っているとは言え、録音に頼り、リアルタイムでその会話を人間が耳にすることもなかったのだ。
「絶対に逃げないんですね?」
「もちろんだ」
監視カメラは音声と映像を拾っていた。
1人分の声と行動、成り立っていない会話と理解に困る行動を。
しっかりと映像を拾っていた故に、監視者が色世境の行方不明に気付いた時の混乱は尋常でなかった。
監視カメラが捉えた映像を繰り返し再生しても、そこには成り立たない会話と、私服に着替えた色世キョウの部屋を片付ける姿、最後に何の前触れもなく画面内から姿を消す瞬間しか映っていなかったのだ。
Second Real/Virtual
-第44話-
-孤立した島国で-
本日が晴天でも、明日が雨だと分かっていればテンションが半減する。
これって、俺だけ?
「確実にお前だけだよ」
日本 AM 08:00 白州唯。
遅刻間際であるにも関わらず、大橋友樹と北島幸哉は談笑しながらゆっくりと通学路を進み、2人の後ろを歩く崎島恵理の歩調も自然と2人に合いつつ、その目は文庫本に落ちたまま反れることなく通学路を歩んでいた。
「だって、雨って鬱陶しいじゃん?」
「なぁ、友樹。
愚痴を言えば誰だって鬱陶しさを感じるものだろ。恵理もそう思わないか?」
「そうね。
感情の負の面というのは非常に連鎖しやすく、感染し易い。
正確には共感によって左右され易いということで、一般的に感情の共有・同感・同情と言った概念で括られる心的要因が――」
朝から聞きたくも無い半ば説教じみ、また心理学じみた解説に友樹のテンションは劇的低下を見せた。
肩を組んで絡んでくる幸哉に、分かったかと聞かれて渋々頷く。
身をもって体験した。
愚痴でなくともテンションは下がる。
「テンションなんてさ、その場その場の状況で予測できるかもしれないけど、必ずしもどうこうやってテンションが変わるなんて有り得ないんじゃないか?」
「はいはいはいはい。
朝から面倒な話はやめよう。何言いたいのかまったく分かんなくなってきた。 それよりさ、今日も智明は学校来れそうにないって?」
「あぁ。岩井から電話あったよ。
熱が下がらないんだってさ」
話が切り替わると、数秒前までとは打って変わり、口数が一気に減った。
“奥の自然処”、村の襲撃事件から1週間。
あの日、救助された村人と白州唯高校教員および生徒達は警察によって保護されていた。
「それにしても、まるで夢みたいだよな。
いきなりテロリストが現れて、国連の人が対処して、駆けつけた警察のお陰で皆殺しにされなかったなんてさ」
幸哉は不機嫌を隠すことなく顔に表して言った。警察に保護されたことには感謝しているものの、幸哉は年上嫌悪症。素直に感謝しきれないところが、大人に助けられたという所が気に食わないのだろう。
友樹は感謝こそしているが、未だ事件に巻き込まれたことを信じられずにいた。
今まで体験したことのない危機に感覚は麻痺し、恐怖を恐怖と認識出来ずにいたのだ。
そして、もっと違う何かを見ていたような気がする。何故だろうかと自分に問うが、答えは見つからないし、その何が具体的に思いつかない。
錯覚に似た歯がゆい感触に脳が熱を呼び起こす。何かが靄のように浮かび上がってくるのだが、それを掴むことができない。複雑に絡み合った糸の玉の如く、端を現すこと無き掴めそうで掴めない厄介な記憶。まるで夢。
「トキは?」
「智明同様、まだ学校には来れそうにないってさ」
クラスメイトが7人減った。
5人は村でのテロで命を落とし、2人はそれぞれ意識不明と重傷による長期入院による退学。 学校に来られなくなった生徒だけでそれだけ居るのだ。不登校になった生徒はそれよりも遥かに多い。
失ったことで心に傷を負った者、恐怖によって精神を苛まれた者、戦火によって四肢のいずれかを失った者、それらが原因でリハビリ生活を始めた者達。
「昨日は何人来たっけ、俺らのクラス」
「23人よ。
来られなくなった7人を抜いて、今は全32名……昨日の不登校はトキ、智明、岩井、翼、奈倉、高城、夏山、類家、五十嵐」
「俺も学校サボりてぇ〜」
「いいのかよ、幸哉。そんなこと言ってると、委員長が黙っちゃいないぜ?」
「分かってるよ。こんな時こそ学問に励み、規律を守るべきだ〜、ってんだろ。 とてもヤクザの息子とは思えないよ。うちの委員長は」
現実は、被害者となった生徒達だとろうが容赦無く、全ての生徒に対して平等に厳しかった。
辛い目に遭ったにも関わらず、行事予定表通り登校せよ、通学に支障がない限り登校せよ、と通達したのだ。
しかし、目の前で殺戮を目の当たりにした生徒は少なくはない。その為、3学年の半数以上が精神的・肉体的ショックによる登校不可という状況なのである。
その為、学校側と保護者側で衝突が起こっていた。PTAに訴える者もいれば、教育委員会に持ち掛ける者もいた。
「まぁ、他のクラスよりは登校人数がダントツ多いんだから調子に乗ってんじゃないの?」
律儀に学校の言いつけを守っているのは3年3組くらいだった。
二大委員長を始め、佐野代、両金、樋口など、共に辛い現実を経験をし、挫けそうな今だからこそ頑張ろうと激励する生徒が居たおかげと、1人1人を訪問して回り生徒を落ち着かせて歩いた担任:蓮雅の援け、この2つの大きな要因が生んだ結果である。
数名の不登校がいるものの、全員が連絡を取れる状況にあるため目立った不安や心配は少なかった。少なくとも現時点で自殺を考えている生徒は1人もいない。
「まぁまぁ、委員長も委員長なりに気を紛らせようと頑張っているんだ。
悪口はやめようぜ、友樹。お前だって気分悪くなるだろ?」
「むぅ……」
「それより、今日こそ智明とトキのお見舞いに行かない?」
崎島の言葉に2人は顔を見合わせ、一拍置いて互いに頷きあった。
話はすぐに纏まる。
崎島が2人の元へ予め連絡を入れて、幸哉はフルーツ、友樹が溜まった配布物を2人分持って訪問することになった。
この日、白州唯高校3学年は、あまりの出席率の低さを理由に午前中で学業を切り上げたのだった。
フランス北部。
現地時間 PM13:57。
それまで協会支部の制圧に全力を尽くしていたキュウキは十数時間の戦闘の疲れを癒すべく、制圧を完了した支部のカフェでハーブティーの香りを楽しんでいた。
愛用のスーツに身を包み、よく手入れされた髪を背中へとまわして整える。
片手にティーカップ、片手にタッチペン。
テーブルに置いたスクリーンをペンでタッチし、送られてきた戦況メールに目を通していた。
他の部隊の侵攻状況を確認しつつ、次のステップへの移行タイミングを計る。主要都市の制圧状況、抵抗戦力の詳細、味方戦力の効率等、夥しい情報がスマートフォンに送られてきた。
「…………なに?」
送られてきた新しい情報を流すように読んでいた最中、キュウキは小声だが、声を漏らすほどに同様した。
彼女を驚愕させるほどの情報がいま、日本から配信されてきたのである。
それは一週間前にも聞いたはずの話だが、たった今その詳細に目を通し、初めて驚愕に値するほどの事件だったと知った。
(色世時が佐倉躑躅こと、チート・ザ・フルスロットルに襲われるもこれを撃退!?
チートの他にもトキの親族ら、ほぼ全員参加による襲撃テロ……確認された生存者はトキのみ。
他の親族であった者達はすべて死亡が確認。
現在トキはショックによって倒れ、意識不明の状態――)
画面を睨んだままキュウキは考えた。
これから実行しようとしていた計画、それに生じてくるであろう確実で、しかも大きな支障の影。
冷静に分析し、最悪の事態であることを認めた。
沈黙。
カフェから一切の他人が消えた時、卓上のスマートフォンが拳によって打ち砕かれた。
「何てこと! まさか、トキ1人を残すなんて!
ここまでやれるとは、私が彼らを侮ったというわけか!」
ティーカップを手の甲で叩き飛ばす。
通話用の携帯電話を取り出して日付を確認し、通話ボタンを力任せにプッシュ。
『コントンだが、何か?』
「色世に関わる人間共が集団自殺をしたわ」
『ほぅ。計画の変更が必要なのか?』
「えぇ、オーロラ作戦の開始時刻を早めるわよ」
『何時だ?』
「1週間後よ。
それまでにあなたは出来るだけ多くの協会メンバーを潰して。
出来る限りでいいわ。上位を潰して貰えれば助かるけど、無理にとは言わない」
『クク……言われなくても』
向こうから通話は切り上げる。
それからすぐ、キュウキは叩きつけるように携帯電話をテーブルの上に置いた。
(全く、あいつらほどの四凶、真っ先に支配下に置いておくべきだった!
――いや。
こうしては居られない。部隊を四分しなくては!
まず……第一隊はトウテツと600万の軍。これで中国領を侵攻。第二隊はフォルトンと300万でオーストラリア方面へ移動し、そこからインドや各諸島の制圧。第三隊は私が率いていけばいいが、問題は第四隊とコントン。彼が軍を従えてくれるかどうかによって戦況は大きく変わってくる。うまく動くならロシア・北極方面へ展開してもらう。
それからもう1人……)
脳裏に浮かぶ顔は無邪気そうな表情。
殺意によって作られているにも関わらず、その表情が込め過ぎた殺意によって生じたものだと知らない少女。
(オリヤ……今頃協会部隊によって連行されているだろうか。
うまく行けばいいが、果たして本当に信用できるのか?)
今更になって浮かぶ不安。
それは色世家の親族たちの思わぬ行動がもたらした副産物でもあった。
オリヤは色世時を狙っている。もしかすると、過去に何らかの因縁を持っているのかも知れない。最悪の場合、どこかで繋がりを持っている可能性だってある。もし、それが実現した場合、色世家の親族同様、キュウキに支配しきれないオリヤは、こちらの想い描くシナリオの全てを水泡へ帰す引き金になりかねない。
彼女はその可能性を十二分に秘めていた。
廊下を移り、管制室にて放送機具を操作する。
「第一支部を制圧した全部隊に告ぐ」
マイクを手に取り、咳払いをひとつ。
「これより軍の再編成を行う。各員は第1から第4格納庫に集合せよ。15分以内。
以上」
施設全体に放送し、キュウキはカフェに戻って散らかしたカップとスマートフォンの残骸をゴミ箱へと運ぶ。
燃えないゴミと表記されたプラスチックの大型容器の前に立つのと同時、キュウキの頭に一つ、1人の名前が浮かんだ。
(待てよ、死者の中にトキの父親の――色世境の名はあったか?)
疑問が半ばでも確信に近づいた時、キュウキは4部隊とは別の特殊部隊を3つ編成することを決意した。
時と場所を、日本の正午に戻そう。
買い物を済ませた翼とスミレは廃工場へ全速で、最短ルートを辿って帰還する真っ最中だった。
「それで、トキさんはゲームに嵌ったのですか?」
「いや。トキは出会った頃からゲームに取り憑かれれていたのだ。
トキの性への興味への無さは正直に言えば異常なのだよ。
異性が嫌いでもなければ、同性愛者というわけでもない。まるっきり興味を持っていないのだ」
重たい袋で両手を塞いだ2人は、いまだに意識を取り戻さないトキについて話していた。
最初に聞いたのはスミレで、質問の内容はトキと翼の仲についてだった。
「男としても心配だが、それより友人として心配だ。
あの調子では生涯を独身で終えかねない」
「確かに、聞く限りではもう少し、異性に興味を持った方がいいですね、トキさんは……」
「そう!
その為に私はトキにAVを与え――!
一般に言うところのエロゲを与え――!
現実に何人かの女性を紹介し――!
撮影現場まで連れ出し――――とにかく! ありとあらゆる方法で性に関するアプローチで攻略を図ってみたのだ!」
「それが悉く失敗に終わったわけですね……」
頷く翼に聞こえるよう、凄い朴念仁なんでしょうか、と零すスミレ。
最後の坂道を登って工場の出入り口を通過する。
輪郭を顕わにしてきた夏の色で染まり始めた外を見回して、尾行がいないことを確認し、つい最近取り付けたばかりの横戸を閉める。工場内は差し込む光だけで十分に照らされていた。走り回っても怪我することがないほどの光が差し込んでいて、それは貴重な光源であり、冷たい風を凌ぐ数少ない手段なのだ。
いつも食事を摂る広場を通過し、右奥に存在する元資材庫で横になるトキと、トキを看病する面々に差し入れを渡す。
「サンキュー、翼!」
「悪いな」
「ありがとよ」
「お疲れ、スミレちゃん。それに翼も」
ふと、翼は4人を見て気付く。
カンナ、藍、高城、奈倉。
本来見張りの番であるはずのカンナがどうしてここに居るのか。
翼と同様の疑問を抱いたスミレは、翼よりも早く質問した。
「だってよぉ、暇で暇で――」
「暇でも!それがお仕事なんです!」
「また敵が来るかもしれないのですよ、カンナ姉さま」
舌打ちしてアイスを2,3本取って哨戒に戻るカンナ。目の前でアイスを取られた高城が石像と化したのはコンマ3秒後のこと。
「では、私と藍姉さまは結界の補強に行ってきます」
「何かあったら電話にかけて」
言い残して工場の裏口へ移動する鬼姉妹。
続いて正気を取り戻した高城が情報を集めてくると行って工場を去り、それから愛院が広場に戻って買い物袋の中身を分別し始める。エミルダもそれを途中から手伝い、資材庫にはトキと翼の2人だけが残った。
色世家襲撃の夜から一週間。
ここに逃げ込んで以来トキは目を覚まさず、ずっと横になったきりであった。 原因は不明。
考えられる原因として戦闘による過労と心労が挙げられたが、事実はトキ以外に知るところなく、ただ目を覚ますのを待つしかなかった。
「皆がお前を待っているのだぞ。早く目を覚ましてくれ、トキ」
存在を証明する鼓動に触れ、脈動を確認する。
動いている心臓。 死んでいないはずなのに、一向に目を覚ます気配を見せないトキ。
意識が戻っていないのか。
確認する術がない現状、SRですらない翼は誰よりも無力であることを自覚した。
「お前が倒れた後、皆が必死で襲い来る者たちからお前を護ったのだぞ?
今もそうだ。
トキを護るためにと、交代で見張りに立ち、実際十数人を撃退している」
襲い来る者全てがSRではなかった。凶器で武装した一般人も多く、そのせいもあって命を落とす者もいた。
全員を生かして返すことはできなかったものの、確実にトキを狙って彼らがやって来ていることを掴めた。
「護られているだけでいいのか?
私と違って、お前には力があるだろう。どうして戻ってこない……」
この一週間で翼はトキが体験してきたであろう世界の片鱗を味わってきた。
不意を突いて襲い来る者たち。 見たこともない凶器。味わったことのない狂気。
時間を問わずに襲い、事情に関係なく仕掛け、酷い時には場所さえ弁えずに牙を剥く者達。
鬼3姉妹や高城、愛院、エミルダがいなければ10回以上、確実に命を落としていた。
SRにも対抗できない、武器を持っただけの人間にも対抗できない、まして武装したSRになど立ち向かえるわけない。
不謹慎にも翼はトキを羨んだ。
自分にもSRという力があれば、トキやエミルダを護ってあげられる。
しかし、これが現実である。
予想だにしなかった状況を目の前にし、初めてそれを望む。
SRという力だけに限った話ではないが、局所的に、しかも突発的に欲すモノは大概手に入ることのないものばかりなのだ。
「頼む、トキ。目覚めてくれ。
皆気丈に振舞っているが、限界が近づいている。
敵の強さもどんどん上がっているのだ」
無力を知り、非常を知り、非情を見て、諦観が漂い始めた廃工場内で、翼は自分に出来る唯一を続けた。
トキが起きるまで語りかけよう、トキが早く起きるように話しかけよう。
そうしなくては、いずれここを護るメンバーに死傷者が出てしまう気がした。
静寂に包まれる廃工場。
鬼が出て、
妖精が山を下り、
残るは子供と番犬のみ。
それを上空から確認し、廃工場を見下ろす3人は、互いに顔を見合わせて確認し合い――急降下を始めた。
何年ぶりに帰ってくるのか、正直に言えばうろ覚えだった。 白状しても、ここにはそれを咎める人間は1人もいない。
「家が、どうして……?」
現実に、いないのだ。
色世家は無数の銃痕と発破痕により、半壊以上全壊未満という状態で、辛うじて存在していた。
とても人が住めるような場所でなく、当然猫の子1匹足りと気配を感じない。
廃墟同然となった、懐かしき我が家を前にした色世キョウは身を震わせた。
「……アリス、あっちの世界からトキを探し出してくれないか?」
最寄のカーブミラーに向かって言い、キョウはポケットにしまった紙切れを取り出し、そこに書かれている番号を暗記する。
「私は、この事務所に行って宛を見つけてくる」
『1人で大丈夫なの?
そこって、光の魔女と銀狼が――』
「過去に面識はある。
こちらは心配ない」
短い会話を終え、2人は別々の方角に向かって移動を開始した。
キョウは息子の行く宛てを聞き出すために芹真事務所へ。
少女アリスは、自分の得意とする世界と現実の世界を比較して、より高密度な力の波動を感じる場所を目指す。SRは一般人と比べて少ない。この街に20人もいることはないだろうと踏み、検索を始める。
間もなくして。
幸か不幸か、住宅街のはずれにある廃工場にて、先にトキを発見したのは、白く染髪した少女:アリス・アンダーグラウンドであった。
同時刻。
四凶のコントンは只ならぬ怒気を含んで電話に向かって語っていた。
「ほぅ?
それで、現地のアホ共を使ってトキを拉致しようと? どうしたんだ、キュウキ。お前らしくない。何をそんなに焦っているんだ?
言ってしまえば俺達の計画は半分近い目標を達成した……それなのにどうして今更奴らを使おうとする?」
『アナタの怒りも短絡的ね。
そもそも、彼らを真っ先に処理したほうがいいと話したはずでしょ? ちょうど良い機会だし、彼らは良き駒よ…………なんて、そういう過去の会話は抜きにして、私はここが大局と見たわ。思うほど単純じゃない。むしろ、私達の計画の合否はここで大きく左右する可能性が高いわ』
理解できない状況が展開されていた。
日本を除くほとんどの国は四凶によって麻痺・混乱状態にあるのだ。
日本だけが世界から取り残された、言うなれば逆鎖国状態である。この戦況は協会だろうと簡単に変えられるものではない。
計画通りに事が進んでいるなら、いまあの国に近づくのは極めて危険なのだ。四凶であろうと簡単に命を落としかねない。
「パンドラ共を放ったんじゃないのか。 そこにどうしてこちらの有力者を放つ?」
『有力者?
どうやら私達相互の価値観の間に大きな差異があるようね。
私はあの3人を信用していない。
例え、彼らがナイトメアを脱し、手土産に数億もの軍資金をぶら提げて来たところ、所詮はナイトメアのSR。駒である一般人と何ら変わりない、弱い四凶しか持たない者達よ』
「しかし実力者だ」
こうして話している間にも、日本にはパンドラSRや器SRたちが逃亡し、真相も現実も知らずに集結している。
「分かっているのか?
あいつらは今後も役に立つ。いまここで捨てるべき駒じゃない。もっと大切な場面で使い捨てるべきだ」
『あの中に1人、限りなく信用できないSRが居たとしてもストックしておくのか?』
「ほぅほぅ!
ソイツは誰だ!?」
携帯電話が軋む。
怒りが力へと変わる。
日本の方角へ体の向きを変え、コントンは移動の準備を始めた。
「ギュン・パクフォンか!?」
『いいえ。先に言っておくけど、死神:ダイアン・デューティフリーでもない』
「ということは……そうか、アイツか!」
準備を始めていたコントンが手を止める。
予定変更という予定を元通りに修正する。
『そう。
三人の中で唯一の女性、唯一の日本人にして、最も行動が予測できない奴』
「忍のSRだったな?」
『ええ。国連所属時のコードネームは“斬潮”。潮の満ち引きさえ分かつと言われた早業・奇術の使い手。
今世紀最大とも謳われる暗殺者よ』
その人物、そいつが信用できないということに関してはコントンも僅かながら同感だった。
3人の処理をするように言った事は覚えている。理由はその女がどうにも測りきれないからだ。他の2人は戦力として申し分ない。忍のSRである女もそうだ。
だが、制御しきれる気がしなかった。
「陸橙谷アサの暗殺を成功させた奴だったな?」
『ええ。
本名は、桑谷美里――』
「……」
小さく舌打ちし、コントンは通信を切った。独り静かに頭の中でキュウキの計画を計算し、納得せざるを得ない答えを出してしまい、再び舌を打った。
改めて出た答えには、この局面の重要性が色濃く現れていたのだ。
トキを匿っている者達との遭遇、処理、こちらが抱える不確定要素のテスト、場合によっては処理。
(ハハッ……しかし、キュウキ。お前の計画は確かに成功に近づくが、俺の計画は水泡に帰す可能性が高まったんだよ、全く)
不本意ではあるが、コントンはトキとその周辺を応援することにした。
直接干渉する訳にはいかないが、気持ちだけは届くだろう。
トキにはどうしても生きてもらいたく、また、捕まらずに例の物を探してもらいたい。
「お前も世界の運命を左右する、重要な駒なんだ。
休んでいるのなら歩け、疲れ果てたのなら止まって休み、前進に備えろ。
俺に返す物返すまで死ぬなよ。フン……」
雄丘を目指してコントンは歩を刻む。
白銀の草原で独り、日本のある方向に向いて呟いた言葉がそれだった。
工場の一角から黒煙が立ち上る。
爆音。
爆発。
不自然すぎる故に直ちに認識できる異変。
外部でそれに気付いた面々は急いで廃工場へと引き返した。
工場内にいたエミルダと愛院はすぐに戦闘態勢を取るが、その直後に体の自由が利かないことに気付き、焦りと恐怖を覚えた。
天井を破って2階の足場を爆破し、一気に1階の床を踏むに至った敵が、粉塵の中から姿を現す。3人だが、1人はシルエットだけを見せて粉塵の中で行方をくらました。
「ノックもせずに失礼。
ここに色世トキという少年はいないかな?」
眼鏡をかけた男性が愛院に問う。
足は地を捉え確かな感触があるのにも関わらず、どうしてか足首よりその上を全く動かすことが出来ない。
愛院は目だけで男を観察し、非武装でありながら相当な余裕と自信を持っている佇まいから、SRであることを察知した。加えて金縛りにも等しいこの不可解な現象。
SRである確率は極めて高い。
「よぉ、ガキ。久しぶりだな。
俺様の事覚えているか? えぇ、おい?」
眼鏡をかけた男の隣では、黒衣に身を包んだ男がエミルダに話しかけていた。しかし、今の愛院に2人の会話を理解できるだけの余裕は残っていなかった。
「この2人は僕が抑えておこう。
ダイアン、君は外から来る連中の一部を足止めするか、キリと一緒にトキを探せ」
「わかってんだよ、ギュン!
いちいちいちいち、マジでうるせぇんだよ!」
頭上の鉄骨に刺さっていた大鎌を抜いて肩に担ぎ、死神のSRは工場内の探索を始める。
「キリぃ!
テメェは2階から見て来い!」
「もう見た」
身動きひとつできない2人の視界内で、死神と姿なき女性の会話が成り立つ。
それらの言葉を聴く限り、トキはこの一週間で最も危うい状況にあると悟った。
2階の探索を終えたという言葉。 共にトキを探し始めた現状。
自由を奪われた現実。
打開策が思いつかない、考えうる限り敗北に近い、絶望的展開。
『華創実誕幻!』
粉塵の止む頃、裏口と正面口から同時にそれは発動した。
『一段:茨!』
重なる詠唱。
一点に集う視線。
詠唱の直後、自由を失った2人の足元に淡く光を放つ円陣が現れ、その円に沿って自我を持った茨が生まれてくる。 護衛に多用されるオリジナル陰陽術の茨。その凶悪な鞭の群れを前にし、超能力者のSR:ギュン・パクフォンは上へ跳び、空けてきた穴をくぐって2階の足場に移った。
すれ違うように2本の金棒が地面に突き刺さる。
頑丈なコンクリートに易々と突き立った金棒を見て、ギュンは寒気を覚えた。一発でも食らえば即死に繋がる一撃。
「鬼が来たぞギュン!キリ!」
「知ってんだよ!そう来なくっちゃなぁ!」
「……」
工場内でトキを探索していた2人が殺意を纏う。
死神は哂い、忍も微かに笑った。
3人の敵に対し、トキを護ろうと鬼の3姉妹、魔犬、妖精、神隠しが戦闘態勢を取った。この一週間で現れた敵の中ではトップクラスの強敵であることを認めながら、2人一組で1人と立ち向かう。
サイキッカーに向かうスミレと高城。
死神と踊る奈倉とエミルダ。
忍と対峙する藍とカンナ。
「やっと、会えましたね」
「――」
早速交戦に移る2組。
飛び交う攻撃を意に介さず、藍とカンナの姉妹は忍のSRと向かい合ったままだった。
両者の距離は6メートル。
この廃工場に忍者が降り立ったのは1分ほど前。藍がここを訪れて寝泊りを始めたのは6日前。カンナがトキを担いで駆け込んだのは一週間前。
藍とカンナの誤解が解けたのは、4日前。
「藍、こいつか?
アサを殺った暗殺者ってのは?」
剣戟と破砕音、金きり音と銃声。
諸々の騒音が混じり合い、工場内に木霊する中で3人の足は自然と人気の無い一角へと向かっていった。
「はい、カンナ姉様。
彼女が、私が見た暗殺者です」
鬼の証人が告げると同時、忍の顔は歪んだ。
その顔に怒りを覚えたカンナは指を鳴らした。
妹である藍の言葉を信じられなかった自分への不甲斐なさ、それを利用されて藍を仇だと思い込んでいた自分への怒り。必死で生き延びてきた自分たちを完全に葬らんと暗躍し続けてきた者達への憎悪。
その根源・禍央に位置する本当の敵がいま、自分の目の前にいる。
「今が本物の弔い戦だな」
「はい!」
3人の足が行動をやめる。
剥き出しの鉄筋が幾本も床と天井を繋いでいる、半ば崩壊しかかった暗い一角で3人は止まった。
一瞬の静寂。
それは同時に全ての音が消えた時だった。
1本の太い鉄骨の陰に忍が消え、攻撃に備えた2人の足元に複数個の手榴弾が転がる。
藍がそれをすべて弾き飛ばす。
同時に銃弾が襲い掛かった。
SMGの連射。
マズルフラッシュは真横に。
一瞬で距離を詰められたことには驚かない。
カンナはすぐに弾幕を受け止めつつ柱に向かって拳を突き出した。金属の柱が折れ曲がり、そこに吊るされていたSMGが解体される。
一瞬で距離を詰められたことには驚かない。
だが、忍の行動はどうにも理解できず、カンナの中に混乱をもたらした。突き出した拳と腕に襲い掛かった忍の攻撃は銃撃でも斬撃でもない、スタンガン4つを用いた電撃。 しかし、完全でないにしろSRを開放している今の状態で電撃は効かない。
スタンガンを払いのけようと腕を振り回すが空振る。
再び視界から忍が消えた直後、藍の弾き飛ばした手榴弾群が一斉に炸裂する。
まず一瞬光を放出し、次に騒音を立てる。視覚と聴覚に強い刺激を受けた直後に火炎が生まれ、火炎は破片を伴って周囲に飛散した。
破片を弾く鉄骨。
炎によって僅かに明度を増すステージ。
視覚への干渉によって、2人は忍を見失っていた。
「逃げたか!?」
「いいえ!」
爆炎に怯まず得物を構える。
背中を合わせて索敵する2人。
四方八方上下左右で仕掛けられた小さな火薬が爆ぜる。
――どこか?
暗中。
忍の攻撃を、藍はすぐに感知した。
向かい合う背中のちょうど真上から釣り下がるコンポジションC4炸薬。繋がれたコード、信管、受信機。
姉を突き飛ばして金棒を振るう。
「理壊双焔!」
金棒が暗闇を走る。
すぐに爆発が起こった。
破裂と閃光、爆風が生まれる。
しかし、爆心から広がった炎と熱は、理壊双焔の走った軌道をなぞるように導かれ、無人の一角に灼熱と破壊を振り撒いただけで、カンナと藍に触れることはなかった。
同時、地面を這っているものと見紛うほどの低姿勢にて、忍が高速で接近してくるのをカンナが見つける。
軌道予測とタイミング合わせを瞬時に行い、カンナは突撃してくる忍に対してカウンターの右ストレートを放った。
抉る。
砕く。
しかし、肉の感触ではない。冷たく硬いコンクリート。
忍はカンナよりも早く状況を知覚し、処理し、対応したのだ。
放たれた拳を紙一重で躱し、地面を叩いて鬼の足元から腹へと高さを変える。
瞬間。
爆炎をいなした藍を目にするのと同時、小さな痛みが胴体に、複数発生した。
「カンナ姉様!」
忍の抜刀と抜筒。
左手の小太刀が鬼の太股と脇腹、脹脛を切り裂き、右手のマシンピストルが脇腹、下腹部、鳩尾、胸へと弾丸を掃き出していた。
直後、トラップとして仕掛けられたクロスボウの矢が、正面から時間差でカンナに襲い掛かった。背中に5本の矢。
忍と鬼交差した瞬間に起こった討ち合い。
一方的ではあった。
カンナの攻撃は空振り、忍の攻撃は数え切れないほどヒット。
しかし、一方的ではあるものの、それは外見的なものに過ぎない。
「どうした!」
カンナのダメージは皆無。無傷ではないにしろ、反撃・攻撃・防御など、戦闘行動には一切支障がなかった。
背中の矢を抜いて投げ返す。
更に、手近な鉄心を捻じ切って武器とし、キリの逃げた方向へ全力投擲。
新たに仕掛けられていたショットガンを貫き、鉄心は鉄骨と衝突し、原型を半分以上失ってから地面に落ちた。
「藍!
お前はアレ仕掛けろ!」
「いいんですか?」
「今度は二度目だ!
うまくやれるさ!」
承諾の言葉を合図に藍は走った。
暗い一角の隅を目指し、壁沿いに沿って走り続ける。
懐から術符を取り出して壁、天井、床、鉄骨と、手当たり次第に符を貼り付けていった。
それをキリは見逃さない。
何かをされる前に阻止せんと、数枚剥がした所でカンナから飛んでくる横槍を躱す。それは文字通りの横槍であった。鉄骨丸々一本を地面と天井から抜き取り、ぶん投げる。
当然、これはカンナによるキリの阻止妨害であった。
早業師のキリには鬼のような耐久力はない。
「待ちやがれ!
そんなんでよくアサをやれたな!チクショウ!」
疾風の回避。
すれ違いざまに走る斬撃、銃撃、打撃。
しかし、どれもダメージにはならない。
少し仰け反る程度の衝撃がぶつかってくるだけで、痛みなど無い。
鬼のSRを完全開放し、更にオリジナル陰陽術で自己を徹底強化しているカンナには、対戦車ライフルでさえ通じないのだ。
「40mmで殺れると思ってんのかよ!」
銃弾が跳ねる。
常軌を超越した強靭な肉体に通常兵器は無力。皮膚を傷つけるのが限界である。
――直後。
カンナの絶対束縛術とキリの切り札が空間の殺意を飲み込む。
藍の懸念も同時だったが、術陣を完成させる事に必死だったためにカンナを咎める余裕など無い。思い切って話しておけばよかったと初めて後悔した時だった。
懸念が現実となる。
銃でも剣でも殺せない鬼を、どうやって忍者が鬼の暗殺に成功したのか。
「雨之常太刀」
初めて六文字以上を口にするキリ。
その刀の名:雨之常太刀。
得物の名前が耳に届く。
離れた場所で戦っているケルベロス:奈倉愛院は、その名に動揺して死神の回し蹴りを急所に貰ってしまう。
(雨之常太刀って、最初に盗まれた十本のうちの一つじゃねぇか!)
裏取引でしか名前が出てこないその刀は、愛院が魔倉と呼ばれる武器庫を管理し始めて間もない頃、持ちうる品の中では高価でいながら買い手が全く付かないという曰くつきの妖刀だった。愛院自身も触れようとはしなかったし、関心すら持てなかった。
盗まれるまでは。
(何でソレを持っているんだ!?)
雨之常太刀という名は愛院の集中力を大いに乱した。
その威力を愛院と、藍は知っている。
(人を切り――)
(魔をも斬り捨て妖刀。あらゆるSRをも斬ることが出来る曰く付き!)
アサが殺された時にも確かに見た。
黒一色で作り上げられたシンプルにして実戦向き、特異な必殺の得物。
刃の触れた空間に切れ目が生まれた。
同時刻。廃工場内のメイン広場となっている場所では、サイキッカーの攻撃で床が爆ぜ、死神の大鎌で複数の支柱が一斉に斬り倒れた。
「君たちでは僕らに勝てない」
不可視の衝撃が妖精を打ち上げる。
遠のく意識を辛うじて繋ぎ止めた高城の銃撃がギュンに向かうが、放たれた全弾は軌道を変えて地面を穿つばかり。
選手交代し、死神が妖精に追撃を掛ける。
高城を護ろうと死神に向かう愛院にギュンの衝撃が襲う。同時にエミルダの左腕も不可視の圧力で押しつぶされてしまう。
「これでもナイトメアのNo7なんだよ!」
鎌が奔る。
空中でできる限りの姿勢制御で斬撃の直撃を躱す。
狙いは首、できる限りの前傾。
空を切る凶刃。
それは直撃を免れる瞬間であり、妖精の羽を削がれる瞬間であった。
重力が高城に憑き、そこにギュンは僅かな圧力を加えて落下を後押しした。
「ハリヤ!」
援護妨害。
不可視の衝撃に吹き飛ばされて壁に激突する愛院。
高城が地面を砕いたのは同時、次に死神はエミルダに向かった。
上空から高速で迫る死神に対し、エミルダの攻撃は正確性に欠けているため紙一重で躱されてしまう。
大鎌が止まる。スミレが止める。
「理壊“双焔/奏淵”!」
大鎌の刃を交差して止めた金棒2本が、鬼の得物が吼える。
片や炎を纏い、片や奇妙な振動を発する金棒。
それら2つの力が死神の刃を砕く。
「コイツ、鬼か!」
「さっきからそう言っているだろう、ダイアン」
鎌を放棄して肉弾戦で鬼に仕掛ける。スミレは打撃に怯まず打ち返した。
完全解放ではないにしろ、鬼のSRは一般人と比べて強靭な体を持っている。
生身の人間の近接攻撃などたかが知れている。恐るに足らず。
「かかったな」
反撃に出たスミレ。
幽体と化すダイアン。
金棒二振りの攻撃を半物質化で以って躱す死神。透き通る身体。
ゴースト状態になった死神の体越しに映る、サイキッカーの攻撃姿勢。
気付いた時には自由なし。
不可視の力に四肢掴まれ、体の自由を奪われてしまう。
愛院はスミレを解放しようとギュンに仕掛けるが、死神によって阻まれてしまう。
素手で武装解除され、踵で踏みつけられた足の親指が折れる。
小さな悲鳴と同時に各急所への連撃が奔る。
笑う膝、嗤う死神。
奥歯を強くかみ締め、死神を無理やり振り切ってサイキッカーへと仕掛ける。
「愚かな」
暗器を握った直後、ギュンの攻撃――自由を失ったスミレが愛院目掛けて飛来した。
血の上った頭ではそれを瞬時に理解することは出来ず、コンクリートの上に砂埃立てて転がってからやっと理解が追いつく。
スミレを武器としてぶつけてきたのだ。
四肢の自由を奪われたスミレには抵抗できない。当然、その攻撃が予想外だった愛院にも。
ギュンが2人の戦力低下を確認している最中、死神は妖精の戦闘不能を確認した。
流れ弾が暗闇の奥から届く。
爆発。
熱と衝撃を生み、工場の出入り口付近を焼き焦がす。
サイキッカーと死神は目を合わせ、互いに頷き合う。
得物を拾った死神が忍の援護に向かった。
この場を任せろとアイコンタクトを図ったサイキッカーは質問を始める。
「さて、この状況で君たちの勝率は限りなくゼロとなった。
トキが何処に居るのか教えてもらおう。
思考を読めば手っ取り早いのだが、とてつもない疲労に見舞われるからそんなことはしたくないんだ」
神隠し:白。
それを目の前にし、ギュンは尋ねた。
目的は殲滅ではなく、トキの勧誘であると。
「拉致・誘拐の間違いなのでは……」
沈黙を破らないエミルダに代わり、スミレが答える。
自由を失ったのは体のみ。
「なるほど。君たちからすればそうなるだろうな。
状況が状況だ」
エミルダの視界からスミレが消える。
直後頭上に生まれる破壊音。破れた天井から差し込む陽光と、一緒に振り注ぐ破片。
すぐに視界の中に戻ってくるスミレ。
天井を破って空中に飛んだ後、地面に激突する。
「やはり鬼は丈夫だな」
二度の衝撃を経て、スミレが受けたダメージは微々。
外傷もなく、鼻血だけが僅かなダメージを物語るだけだった。
再び不可視の圧力がスミレを飛ばす。
鉄骨をひしゃげ、何枚もの壁をぶち抜き、置き去りにされた大型機材を変形させ、何度も何度も地面に叩き付けられる。
「時間を無駄にしたくないし、鬼を殺したくない。
さぁ、色世トキはどこだ?」
左腕を伸ばしてみるが、すかさずサイキッカーはスミレを盾にし、攻撃を許さなかった。神隠しを変形させて回り込もうにも、奇襲にしっかり対応するサイキッカーに死角はない。
「じきこの国も混沌に沈む。
そうなる前に我々はトキを確保したいのだが、もし君たちが素直に居場所を教えてくれるなら約束しよう。
ここに居る全員を苦しみの淵から救ってあげると」
進退窮まった状況でエミルダは考えた。
彼らは何者なのか。
かつてナイトメアと名乗っていたが、ナイトメア二派のいずれなのかを知らない。武装派なのか非武装派なのか、それによって対応はまったく違ってくる。仮に非武装派なら考える余地はあるが、武装派ならば考えるまでもなく答えは否認。そもそもナイトメアに渡すこと自体、本当は許容できない。
それはエミルダ自身がナイトメア武装派の行ってきた凶行をよく知っているからである。
「認めません」
やはり神隠しは沈黙を続け、鬼は抵抗を続ける。
サイキッカーの一方的な攻撃が再開し、工場の内装が急速に崩れ、止む。
「僕も……認めません!」
断言するエミルダ。
無言で顔を伏せるギュン。
否定の返事こそしたものの、エミルダにこの状況を切り抜けるだけの実力はない。今すぐにでもサイキッカーの矛先がエミルダにも向くだろう。
――どうにかしてサイキッカーを討てないか?
それを見越してスミレは神隠しに言葉をかけた。
「エミルダさん、私のことは気にせず、ここに在る魔を討ちましょう」
すれ違う視線。
互いの焦点がそれぞれ合った瞬間、スミレはSRの完全解放を、エミルダは左腕神隠しを全力で展開した。
白い煙のような、消滅の力を持ち固有の形を持たない左腕がギュンへと襲いかかる。
当然阻止せんと発動する見えない衝撃。
しかし、ギュンの攻撃がエミルダと神隠しを遮ることはなかった。
「響け、理壊奏淵」
それまでしっかりとスミレの手中に収まっていた得物が地面に落ち、コンクリートを砕いて音を発する。
地面に触れて生まれる音。
金棒が哭く。
可聴域とも低周波とも違う振動が、不可視の力を相殺し始めた。
「はあっ!」
僅かな可能性を目の前に、エミルダは左腕神隠しを突き出した。
一直線にギュンの心臓を目掛けて。
同時、束縛が弱まった機を見てスミレは奏淵を拾って十字砲火を狙う。頭部へ振り下ろす双振りの金棒。
が、ギュンはそのどちらも凌いで見せた。
神隠しを透明な圧縮空間の回流で受け流し、スミレの奇襲を紙一重の空間転移で躱しつつスミレの真横に移る。更に真横で地面を抉るスミレの四肢から自由を奪おうとしかける。
が、完全にコントロールを握ろうとした瞬間、それは再び鳴り響いた。
理壊奏淵破界。
2種類の金棒の棘がぶつかり合い、こすれ合い、片方からは火の粉が零れ、また片方からは不思議な振動が発生する。
空気を震わせ、神隠しを迎え撃とうとするサイキックを殺す。
四肢の自由を奪おうとする力を無力化する特殊能力。
阻止を妨害され、サイキッカーは逃げるほか無くなる。
空間転移でエミルダの背後に回り込み――それを予測していたスミレの攻撃をも――躱す。
2人の頭上に躍り出、十分の余裕を持って圧力をかける。半径10メートルにも及ぶ広範囲サイキック。
「鳴らせるか!」
不可視の攻撃を無効化しようと腕を振るスミレより早く、もう一つの力が足元でスミレとエミルダの体勢を崩す。
それによって奏淵は空を切る。
圧し潰そうと上から掛かる力と、持ち上げようと下から圧す力。
2人と一緒に浮いたコンクリートが圧力の狭間で砕け散る。
空中で吐血したパンドラ神隠しを打ち飛ばして省き、力の狭間に哭き鬼を残す。
(まだいける!)
上下からの圧力に耐えながら理壊双焔を投げつける。
ギュンは下方からの攻撃を中断して前面に防壁を展開し、空中で火炎を纏った金棒の投擲を止めようとした。
「ソウエン!」
サイキックによる地面への叩き付けに耐え、双焔と同じ方向に奏淵を低空で投げ放つ。
2本の投擲間隔は0.2秒。
奏淵はギュンを狙ったものではなく、先に投げた双焔を援けるものであった。
地面に触れて擦れ、振動を生み、空気を焦がす双焔を阻む不可視の抵抗を無力化する。
が、ギュンはそれを咄嗟に予知した。
上下からの圧力を弱め、余力を全て予知に注いだのだ。
結果、投擲を予知し、軌道を読み、スミレの攻撃を完全に見切る。
目前を飛び過ぎて行く双焔。
高熱でギュンの目が乾き、頭髪の数本が溶けて消える。
ささやかな痛みを覚えたギュンは怒りに身を震わせた。
思ってもいない反撃と、一発も食らわないと考えていた故の予想外。
少々てこずっても、ダメージを貰うような面子はここにいないと踏んでいたのだ。
触れられることを嫌うギュンは、敵対する相手の攻撃を許さない。許せない。
「返してやろう!」
通過し、壁と衝突して火の粉と炎を撒き散らした双焔。
激昂したギュンはそれを拾い上げて地面に伏すスミレの頭部に高速で返却した。
こめかみから生えた角に直撃した双焔は炎を撒き散らす。
同時に、激烈な痛みを訴える声が上がった。
工場内に木霊するスミレの悲鳴。
それまで一切の攻撃に怯まなかった鬼が啼いた瞬間である。SRの完全解放に伴う最も敏感な部分の露出。鬼のSRに共通する弱点がこれであり、ギュンはそれを知っていた。
激痛に耐えるスミレが、強く握った拳で地面を叩き割る。
「まだ終わるか!」
悲鳴を怒気を孕んだ声が上回る。
スミレの四肢から自由を奪って持ち上げ、再び空中で振り回し、ぶつけて回す。
鉄骨に打ちつけ、先鋭化して破れた天井や壁に向かって真横から押し付け、地面にスタンプし、先に倒れた妖精や神隠しにぶつけ、最後に上空まで持ち上げて地面へ急降下させる。単純にしてシンプル、且つ強烈な痛みがスミレの意識を確実に削いだ。
爆音と粉塵が工場内に生まれる。
それは激突の衝撃。
地面と激突したスミレは微動だにせず、それでも怒りの静まらないギュンは何度も横たわるスミレに圧力をかけ、鬼のSRという形を完全に消そうした。
「……何やってんだテメェ?」
広場に戻ってきた死神は、ギュンの展開する光景に呆れ、漏らしたくもないため息をついた。すでに意識を失っている鬼の娘一人に対し、蛇足以外の何ものでもない攻撃を繰り返していたのだ。
地面には50センチほどの窪みができ、そこかしこに血が飛んでいる。
「潔癖すぎんだろテメェ。
それとも何か?
おまえ実はロリコンで、ガキを痛めつける嗜好があったってか? 聞いてねぇぜ」
そこまで言われたサイキッカーはようやく自我を取り戻した。
肩で呼吸し、ずり落ちたメガネの位置を正す。
攻撃をやめてダイアン、振り向くのと同時に戻って来たタキに理由を話した。
「俺に、触るのが悪い。
それに俺はガキが嫌いだし、いたぶるのは趣味じゃない。こいつが触るのが悪いんだ……」
「あ〜、やだやだ。
そんなんだから“超絶潔癖”なんて呼ばれるんだよ」
「クスッ……彼女は触れていないのにね」
嫌がる死神と笑う忍の言葉に苛立ちを覚えつつ、ギュンは2人が戻って来た理由を確かめる。
「鬼の姉妹は、終わったのか?」
その質問に忍は微笑、死神は面倒くささを全面に表しながら肯定した。
「完っ全、無力化だよ」
暗闇の奥から聞こえてくる音は風以外ない。
ダイアンの言葉とキリの態度で確信を得たギュンは、一度目を閉じて熱くなっていた自分を落ち着かせる。
呼吸と冷静を取り戻し、工場内でトキの探索を再開した。
「残りは、そっちの区画だけだぜ」
3人の足は未だ探索していない区画、資材庫へと向いた。
その光景を小さな穴から覗き見ていた翼は、トキの傍らに置いておいた鉄パイプを手に取って部屋を出た。
向かってくる3人のSRを前にし、翼は鉄パイプを握り直して構えた。
「トキは渡さん!」
ただの人間の抵抗にギュンは唖然とし、キリは沈黙した。
2人の背後を歩いていた死神だけが翼の行為に苛立ちを覚え――四の五の言わずに大鎌を投げつけた。
「もしもし、アリスです。
息子さんがいる場所を見つけましたけど、どうやら襲われているみたいよ。
本人は戦っていません。仲間の人たちが戦っていますね。
はい。
トキは戦ってません。寝てますよ」
鬼の姉妹が倒れる。
「もしかしたら起きれないのかもしれない。
家があんなでしたから、負傷していてもおかしくないし……」
妖精が倒れ、番犬が気を失う。
「とても強い敵が3人。
攫われるのも時間の問題かと。
助けた方がいいかな?」
神隠しが倒れ、二刀流の鬼が倒れる。
「じゃあ、助け――ダメ?
どうして?」
探索を再開する3人の前に一般人が歩み出る。
「あ〜、一般人いるし。
だからダメなの?」
鉄パイプを握り締め、構える。
「彼が最後の1人みたいだよ?」
死神が大きな鎌を持ち上げ、投げる。
「やっぱり、助けるね。私達はトキに会うことが目的だし、攫われたら元も子もないんだから。
それじゃ、交信終わり!
場所は山の廃工場ね!」
通話終了。
同時、死神の右腕が地面に落ちた。