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余命三ヶ月の花屋は静かに店を閉じようとしたが、花の声を聴ける私の価値に気づいた植物学者に見初められたので、今さら手のひらを返してきた人たちはお断りします

作者: uta
掲載日:2026/03/16

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「あと三ヶ月です。お体のことを考えると、もうお店は畳まれた方が」


白い診察室に、医師の声だけが淡々と響いていた。


柊咲良は、その言葉を驚くほど静かに受け止めていた。窓の外では三月の風に揺れる桜が、まるで何事もないかのように花びらを散らしている。


(ああ、やっぱり)


心のどこかで、分かっていた。このところ、花の声が遠くなっていたから。


かつては店に足を踏み入れただけで聞こえた——水を求める薔薇の囁き、隣の百合との相性を嘆くカーネーションの溜息、誰かに届けられたがっているガーベラの切実な願い。それらが、まるで雨音が止むように、少しずつ、少しずつ薄れていった。


「治療法は……」


「進行を遅らせることは可能ですが、完治は難しい状態です。入院をお勧めします」


咲良は微笑んだ。いつもの、誰も傷つけない、誰にも踏み込ませない笑顔で。


「ありがとうございます。少し、考えさせてください」


病院を出ると、三月の陽光が眩しかった。商店街までの道を歩きながら、咲良は自分の人生を振り返る。


二十八年。


両親を幼くして亡くし、祖母に育てられた。その祖母も十年前に逝った。以来、たった一人で『フルール・エテルネル』を守り続けてきた。


店の前に立つ。古びた木製の扉、少し剥げかけた看板、祖母の代から変わらない佇まい。大手フラワーショップの洗練された店構えとは比べものにならない、時代に取り残されたような小さな花屋。


扉を開けた瞬間——


『おかえりなさい』


『今日は少し、元気がないね』


『大丈夫? 水、足りてる?』


花たちの声が、微かに、けれど確かに聞こえた。


咲良の目に涙が滲む。まだ聞こえる。まだ、私は花屋でいられる。


「ただいま」


誰もいない店内で、咲良は花たちに向かって呟いた。


その時、店の電話が鳴った。


「はい、フルール・エテルネルです」


「ああ、まだやってたんだ。しぶといね」


聞き覚えのある声に、咲良の表情が僅かに強張る。


神崎遥真。幼馴染で、大手フラワーショップ『ブルーミング・ガーデン』オーナーの弟。かつては咲良の孤独な少女時代を支えてくれた、唯一の理解者だと思っていた人。


「遥真くん。何か御用?」


「兄貴がさ、また買収の話したいんだって。今度こそ真剣に考えてくれない? 三倍出すって言ってるんだよ?」


(三倍)


咲良は苦笑した。十年間、この店を守るために削ってきた睡眠時間。祖母から受け継いだ技術を磨くために費やした無数の夜。それらすべてを、金額で換算できると思っているのだ。


「ごめんね、遥真くん。お断りするわ」


「また? 咲良ちゃんも頑固だよね。一人で意地張っても仕方ないでしょ。うちで働けばいいのに」


その言葉が、胸に刺さった。


十年。十年間、この店を守ってきた。祖母の想いを継いで、花の声を聴いて、一つ一つ丁寧に花束を作ってきた。それを「意地」の一言で片付けられる。


(分かってる。遥真くんに悪気はない。ただ、分からないだけ)


分からない人には、永遠に分からない。花の声も、この店の価値も、咲良が積み上げてきたものも。


「考えておくね」


嘘だった。考える必要などない。けれど、争う気力も残っていなかった。


電話を切ると、咲良は店の奥にある作業台に向かった。今日届いた花たちが、バケツの中で静かに揺れている。


『私を誰かに届けて』


一輪の白いカラーが、そう囁いた。


咲良はその花を手に取り、目を閉じる。この花が届きたがっている相手が、朧げに見える。一人暮らしの、寂しさを抱えた誰か。


(あと三ヶ月)


その時間で、私に何ができるだろう。


答えは、すぐに浮かんだ。


お世話になった人々へ、感謝を届ける花束を作ること。そして、店を静かに閉じること。誰にも余命を告げず、最後まで花屋の店主として。


「おばあちゃん」


咲良は天井を見上げた。


『花は正直だから、嘘をつく人のところには咲かないのよ』


『あなたの作る花束は、いつか誰かの人生を変える。だから、誰に何を言われても、花を信じなさい』


祖母の声が、記憶の中で響く。


「最後まで、花を信じるね」


咲良は白いカラーを花瓶に生けた。


三月の午後。余命三ヶ月の花屋の店主は、静かに最後の仕事を始めようとしていた。


その時、古びた扉のベルが鳴った。


「すみません。この店に——」


振り返った咲良の目に映ったのは、銀縁眼鏡の奥にある、深い知性を湛えた瞳。長身の男性が、店内を見回しながら息を呑んでいる。


「この組み合わせ……」


男性の視線が、咲良が何気なく店先に飾っていた小さな花束に釘付けになっていた。ガーベラとかすみ草、そして一輪のブルースター。何の変哲もない組み合わせに見えるそれを、彼は食い入るように見つめている。


「あなた——」


男性が、咲良に向き直った。


「花と対話できるんですか?」


世界が、止まった。


二十八年間、誰にも理解されなかった能力。祖母だけが知っていた秘密。それを、初めて会った人間に——


見抜かれた。


咲良は言葉を失ったまま、その男性を見つめ返していた。


◇ ◇ ◇


「失礼。驚かせてしまいましたね」


男性は慌てたように一歩引き、丁寧に頭を下げた。その仕草には育ちの良さが滲んでいたが、少し乱れた黒髪と、興奮を隠しきれない目元が、彼の動揺を物語っていた。


「藤宮律と申します。植物学の研究をしています」


差し出された名刺を、咲良は震える手で受け取った。


『藤宮律 植物生態学研究所 所長 希少植物保護機構 理事』


肩書きの重さに、咲良は目を瞬かせる。植物学の世界では知らぬ者のない名前だと、後から知ることになる。けれどこの時の咲良には、そんな知識はなかった。


「あの……対話、というのは」


「誤魔化さなくていいです」


律の声は静かだったが、揺るぎない確信に満ちていた。


「この花束を見れば分かります。ガーベラとかすみ草の組み合わせは一般的ですが、この配置は違う。かすみ草がガーベラを『支えたがっている』位置に置かれています。そしてブルースター——普通なら色味が喧嘩するはずなのに、まるでこの花自身が『ここにいたい』と望んでいるような……」


咲良の心臓が、大きく跳ねた。


(この人には、分かるの……?)


「私の母も」


律の目が、一瞬だけ翳りを帯びた。


「同じ能力を持っていました」


沈黙が、店内を満たした。埃っぽい午後の光の中で、花たちだけが微かに揺れている。


『この人、信じていいよ』


『温かい手をしてる人だね』


花たちの声が、囁くように聞こえた。


「……聞こえるんです」


気づけば、咲良は口を開いていた。二十八年間、誰にも言えなかった秘密を。


「花の声が。いつ水を欲しがっているか、どの花とどの花が相性がいいか、誰に届けられたがっているか。全部、聞こえるんです」


言葉にした途端、涙が溢れた。


「おかしいですよね。こんなこと言っても、誰も信じてくれない。祖母だけが分かってくれたけど、祖母はもういなくて——」


「信じます」


律の声が、咲良の言葉を遮った。


「いえ、信じるも何も、事実ですから」


彼は銀縁眼鏡を押し上げ、真っ直ぐに咲良を見た。


「『花精感応者』——世界でも数人しか確認されていない、花と対話できる能力者です。私の母もその一人でした。学術的には未だ解明されていませんが、その存在は複数の研究で記録されています」


花精感応者。


生まれて初めて、自分の能力に名前がついた。


「あなたの作る花束には、人の心を癒す力があるはずです。母の作った花束もそうでした。科学では説明できない、けれど確かに存在する力」


律は店内を見回した。古びた棚、年季の入った作業台、けれど隅々まで手入れの行き届いた空間。そして何より、生き生きと輝く花たち。


「この店の花は、他のどの店よりも美しい。それは技術だけでは説明できない」


咲良は涙を拭いながら、小さく笑った。


「でも、誰も気づいてくれませんでした。『古臭い店』『時代遅れ』って言われるばかりで」


「気づく目を持たない人間が愚かなだけです」


断言する律の横顔を、咲良は呆然と見つめた。


こんな風に、自分の価値を認めてくれる人がいるなんて。こんな風に、真っ直ぐに言葉をくれる人がいるなんて。


十年間、ずっと一人で戦ってきた。神崎蓮司の侮辱にも、遥真の軽んじる言葉にも、笑顔で耐えてきた。


(もう少し早く、出会えていたら)


その考えが浮かんだ瞬間、咲良は自分の余命を思い出した。


あと三ヶ月。


この人に出会えたのは、終わりが近いからこそなのかもしれない。


「柊さん」


律の声が、咲良を現実に引き戻した。


「お願いがあります。私の研究に協力していただけませんか」


「研究……?」


「花精感応の能力を、記録として残したいのです。母の能力は、ついに学術的に記録されないまま失われました。私は——」


律の声が、僅かに震えた。


「母の能力を証明できなかった。『変わり者』『嘘つき』と陰口を叩かれる母を、守れなかった。だから、あなたの能力は——」


「律さん」


咲良は静かに遮った。


「私で良ければ、協力します」


自分でも驚くほど、迷いのない返事だった。


残された時間。それを意味あるものにしたい。この人の研究に協力することで、自分の能力が、誰かの役に立つなら。


「ありがとうございます」


律が深々と頭を下げた。その姿に、咲良は不思議な安らぎを覚えた。


『この人といると、あなた、花みたいに輝くね』


店先の薔薇が、そう囁いた気がした。


◆ ◆ ◆


その日の夜。


神崎蓮司は、自社ビルの最上階で電話を受けていた。


「大物政治家の結婚記念パーティーの装花? もちろん、お任せください」


受話器を置くと、蓮司は満足げに笑みを浮かべた。これで『ブルーミング・ガーデン』の名声は不動のものになる。


「遥真」


「何、兄さん」


弟が顔を上げた。


「あの古臭い花屋、まだ潰れないのか」


「咲良ちゃん、頑固だからね。でも、いずれ折れるよ。一人で店なんて続けられるわけないし」


蓮司は鼻で笑った。


「あんな店、うちのフローリストの足元にも及ばない。早く潰れてくれた方が、街の景観のためだ」


夜景を見下ろしながら、蓮司は確信していた。自分たちの「効率的な」やり方が正しいのだと。花など、所詮は商品に過ぎないのだと。


まだ知らなかった。


その「商品」としか見ない姿勢が、やがて自分たちを破滅に導くことを。


そして、見下していた「古臭い花屋」の店主が持つ力が、自分たちには永遠に手の届かないものであることを。


◇ ◇ ◇


それから、咲良の日常は少しずつ変わり始めた。


律は週に三度、店を訪れるようになった。高価だが控えめなジャケットに身を包み、研究ノートを片手に、咲良が花と向き合う様子を丁寧に記録していく。


「今、何が聞こえますか?」


「この百合、今日は少し寂しがってます。昨日まで隣にいたカーネーションが売れてしまったから」


「それを、どう感じ取るんですか?」


「……声、というか。気配、というか。上手く説明できないんです」


咲良は困ったように笑った。言語化できない感覚を、どう伝えればいいのか分からない。


けれど律は決して急かさなかった。辛抱強く質問を重ね、咲良の言葉を一つ一つ書き留めていく。


「母も同じでした。『説明できないけど、分かるの』と。でも、その『分かる』が本物だったことは、母の作る花束が証明していました。あなたの花束も同じです」


誰かに認められる、ということ。


誰かに理解されようとしてもらえる、ということ。


それがこんなにも温かいものだと、咲良は初めて知った。



「咲良ちゃん、調子どう?」


研究の合間、田所富子が店を訪れた。いつもの土曜日、夫の仏壇に供える花を買いに。


「富子さん、いつもありがとうございます」


「今日は何がいいかしらねぇ。うちの人、季節の花が好きだったから」


咲良は店内を見回した。花たちの声に耳を澄ませる。


『私を選んで』


一輪のスイートピーが、静かに囁いた。淡いピンク色の、優しい花。


「このスイートピーはいかがですか。『優しい思い出』という花言葉があります」


富子の目に、涙が滲んだ。


「……あの人、プロポーズの時にスイートピーをくれたのよ。覚えてるわけないのに、咲良ちゃんにはそれが分かるのね」


「花が教えてくれるんです」


富子は花を受け取り、深々と頭を下げた。


「あんたの花がなかったら、私はとっくに後を追ってたかもしれない。毎週この花を見るたびに、もう少し頑張ろうって思えるの」


店を出ていく富子の背中を見送りながら、咲良は胸の奥が温かくなるのを感じた。


(この人のためにも、最後まで——)


「柊さん」


律の声に振り返る。彼は複雑な表情で咲良を見ていた。


「今の、見ていました。あなたは気づいていないかもしれませんが、あなたの花束には——人を生かす力がある」


「大げさですよ、律さん」


「大げさではありません」


律の目は真剣だった。


「母の花束もそうでした。病床の人に贈れば症状が和らぎ、心を病んだ人に贈れば光が戻る。科学では説明できない。でも、確かに存在する力です」


咲良は何も言えなかった。自分の能力をそこまで評価されたことがなかったから。


「あなたは、もっと自分の価値を知るべきです」


「……私の価値」


「ええ。あなたは——」


律の言葉は、店のベルの音に遮られた。


「咲良ちゃん、いる?」


神崎遥真が、軽やかな笑顔で入ってきた。


「あれ、お客さん? 邪魔しちゃった?」


遥真の目が律を捉え、僅かに警戒の色を帯びる。見慣れない男性が、幼馴染の店に出入りしている。それが気に入らないようだった。


「藤宮と申します。植物学の研究で、柊さんにご協力いただいています」


「へえ、研究? この店で?」


遥真の声には、隠しきれない侮りがあった。こんな古い店で、何の研究をするのか。そう言いたげな表情。


咲良は小さく息を吐いた。


「遥真くん、今日はどうしたの?」


「ああ、うん。兄貴からの伝言。買収の件、そろそろ本気で考えてくれないかって」


「お断りするわ」


「またぁ? 咲良ちゃん、いい加減に——」


「彼女は断ると言っています」


律の声が、遥真の言葉を遮った。静かな声だったが、有無を言わせぬ重みがあった。


「これ以上の勧誘は、営業妨害になりかねませんね」


遥真の顔が強張った。普段の軽薄な笑顔が消え、不快感を露わにする。


「……あんた、何様のつもり?」


「申し上げた通り、植物学者です。この店の価値を正当に評価できる程度には」


沈黙が落ちた。


遥真は咲良を見た。助けを求めるように、あるいは同意を求めるように。けれど咲良は、ただ静かに立っていた。


「……覚えてろよ」


捨て台詞を残し、遥真は店を出ていった。


ベルの音が余韻を残す中、咲良は深く息を吐いた。


「すみません、律さん。巻き込んでしまって」


「謝る必要はありません」


律は淡々と答えた。


「彼らは、あなたの価値を見誤っている。それは彼らの問題であって、あなたの落ち度ではない」


「でも——」


「柊さん」


律の目が、真っ直ぐに咲良を捉えた。


「あなたは、自分がどれほど特別な存在か、本当に分かっていない。十年間、一人でこの店を守り続けた。誰にも理解されない能力を抱えながら、それでも花と向き合い続けた。それがどれほど——」


言葉が途切れた。律は自分の感情に驚いたように、眼鏡を押し上げた。


「……失礼。少し、熱くなってしまいました」


咲良は、不思議な気持ちで律を見つめていた。


この人は、私のために怒ってくれている。


私の価値を、私以上に信じてくれている。


胸の奥で、何かが温かく灯った。


同時に、冷たい現実が頭をよぎる。


(あと三ヶ月)


この人との時間も、もうすぐ終わる。


咲良は微笑んだ。いつもの、誰も傷つけない笑顔で。


「ありがとうございます、律さん。そろそろ、お茶でも淹れましょうか」


話題を変えた。余命のことは、まだ言えない。


この穏やかな時間を、少しでも長く——


『嘘つき』


店先の薔薇が、小さく囁いた。


『本当のこと、言いたいくせに』


咲良は気づかないふりをして、奥のキッチンへ向かった。


◆ ◆ ◆


その日、神崎蓮司は絶頂にいた。


「パーティーの準備は万全だな?」


『ブルーミング・ガーデン』の本社ビル。会議室には、蓮司の号令のもと、十数人のフローリストが集まっていた。


「はい。大物政治家様の結婚三十周年記念パーティー、装花の準備は完了しています」


水城杏奈が報告した。チーフフローリストとして、現場の指揮を任されている。しかしその表情には、微かな不安が滲んでいた。


「会場全体を白と青で統一。薔薇を中心に、ユリ、カラー、デルフィニウムを配置。予算は十分に確保していますので、量は問題ありません」


「量は当然だ。問題は質だ。今回のパーティーには各界の要人が集まる。うちの実力を見せつける絶好の機会だ」


蓮司は満足げに頷いた。


「失敗は許されない。分かっているな?」


「もちろんです」


杏奈は頭を下げながら、内心で不安を抱えていた。


効率優先の仕事の進め方。花の相性を無視した大量生産。蓮司の指示通りに動けば、確かに見栄えは良くなる。けれど——


(本当に、これでいいのだろうか)


花の専門学校を首席で卒業した時、杏奈は夢を抱いていた。花を愛する仕事がしたい。人の心に届く花束を作りたい。


けれど現実は違った。蓮司の下で働くうちに、花は「商品」になり、「効率」が全てになり、本来大切にすべきものが、少しずつ失われていった。


「何をぼんやりしている。準備を急げ」


蓮司の声に、杏奈は我に返った。


「はい」


不安を振り払い、作業に戻る。


まだ知らなかった。その不安が、現実になることを。



パーティー当日。


会場となったホテルの大広間は、華やかな装花で彩られていた。白い薔薇と青いデルフィニウムが、壁一面に飾られている。一見すれば、完璧な装飾だった。


「素晴らしい。さすがブルーミング・ガーデンだ」


政治家の妻が満足げに頷く。蓮司は勝ち誇った笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。我が社の技術の粋を集めました」


パーティーが始まった。各界の要人が集まり、華やかな雰囲気に包まれる。


しかし——


「あの……神崎様」


杏奈が、青ざめた顔で蓮司に近づいてきた。


「何だ」


「花が……」


蓮司が振り返った瞬間、彼の顔から血の気が引いた。


壁一面の薔薇が、萎れ始めていた。


つい先ほどまで美しく咲き誇っていた花たちが、次々と首を垂れていく。花弁が茶色く変色し、端から枯れ落ちていく。


「な——何が起きている!?」


「分かりません……! 水やりも温度管理も完璧だったのに……」


会場がざわめき始めた。招待客たちが、異変に気づいている。


「見てください、花が……」


「枯れていく……?」


「一体どういうことです?」


政治家の妻の顔が、みるみる険しくなっていく。


「神崎さん。これは、どういうことですか」


蓮司は必死に弁明した。


「申し訳ございません、原因を調査いたします。すぐに代わりの花を——」


「結婚記念日に、枯れた花を飾れと?」


氷のような声だった。


「失望しました。二度と、御社には依頼しません」


その言葉が、会場中に響いた。



混乱の中、一人の老紳士が静かに立ち上がった。


篠原慶一郎。植物学界の重鎮であり、律の恩師。今日は旧知の政治家の招待で参加していた。


彼の目は、会場の片隅に置かれた小さな花束に釘付けになっていた。


招待客の一人——律の研究仲間——が持参した、手土産の花束。『フルール・エテルネル』の名前が、小さなカードに記されている。


周囲の花が全て萎れていく中、その花束だけが——


輝いていた。


生命力に満ち、光を放つように、美しく咲き誇っている。


「この花束は……」


篠原は震える手でカードを取り上げた。


「まさか……静さんと同じ……」


律の母・藤宮静。かつて「花精感応者」として篠原が論文で取り上げた、世界でも稀な能力者。


「この花を作ったのは、誰だ」


篠原の問いかけに、周囲の招待客たちも花束に気づいた。


「本当だ、この花だけ生き生きとしている」


「見てください、まるで光っているような……」


「商店街の、小さな花屋の……?」


その場の空気が、変わった。


萎れた薔薇の壁を背景に、小さな花束だけが輝きを放っている。その対比は、あまりにも残酷なほど明確だった。


蓮司は呆然とその光景を見つめていた。


自分たちの花は枯れ、見下していた「古臭い花屋」の花束だけが、美しく咲いている。


ありえない。そんなことが、あっていいはずがない。


「神崎さん」


政治家の妻が、冷ややかな目で蓮司を見た。


「あの花束を作った店を、紹介していただけますか?」


蓮司は答えられなかった。


この日を境に、『ブルーミング・ガーデン』の信用は、音を立てて崩れ始めることになる。


◆ ◆ ◆


パーティーの騒動から一週間。


『フルール・エテルネル』には、見慣れない客が増え始めていた。


「こちらが、噂の花屋ですか」


「パーティーで見た花束が忘れられなくて……」


「結婚式の花を、ぜひお願いしたいのですが」


咲良は困惑しながらも、一人一人丁寧に対応していった。花たちの声に耳を澄ませ、その人に合った花を選び、心を込めて花束を作る。


いつもと同じ作業。けれど、それを「見る目」を持った人々が、ようやく気づき始めた。


「柊さんの花束は、本当に特別だ」


律は店の片隅で、その様子を見守っていた。彼の表情には、静かな喜びと、微かな憂いが混じっていた。


評判が広まるのは良いことだ。咲良の能力が正当に評価されるのは、彼女が十年間待ち望んでいたことのはずだ。


けれど——


最近、咲良の様子がおかしい。


時折見せる疲労の色。ふとした瞬間に薬を飲む姿。そして何より、花に触れる時間が短くなっている。


「柊さん」


その日の閉店後、律は咲良に声をかけた。


「少し、話があります」


咲良の目が、僅かに揺れた。


「何でしょう?」


「最近、体調が悪いのではありませんか」


沈黙。


咲良の顔から、いつもの穏やかな笑顔が消えた。


「……何を」


「隠さないでください。私には分かります」


律の声は静かだったが、感情を抑えきれない震えがあった。


「花に触れる時間が短くなっている。以前なら一輪一輪、じっくりと対話していた。今は、それができなくなっている。能力が弱まっているんですね?」


咲良は答えなかった。ただ、俯いて唇を噛んでいる。


「母もそうでした」


律の声が、震えた。


「病気が進行するにつれて、花の声が聞こえなくなっていった。最後は——」


「律さん」


咲良が、顔を上げた。その目には、涙が光っていた。


「言わないでください。お願いだから」


「どうして」


「同情されたくないの」


咲良の声が、初めて震えた。


「私は、最後まで花屋の店主でいたい。誰かに憐れまれる病人じゃなくて、花の声を聴いて、花束を作って、それを届ける。それが私の——」


「余命は」


律の問いかけに、咲良は目を伏せた。


長い沈黙の後、彼女は静かに答えた。


「……三ヶ月と、言われました。もう二ヶ月前のことですけど」


世界が、止まった。


律は、言葉を失っていた。頭が真っ白になる。理解が追いつかない。


「どうして——」


声が震えた。感情を抑えていた堰が、崩れていく。


「どうして言ってくれなかったんですか」


「だって——」


「私は毎日この店に来ていた。毎日あなたを見ていた。なのに、何も——」


律は眼鏡を外し、目を覆った。肩が震えている。


普段の冷静な彼からは想像もつかないほどの、激しい感情。


「母の時と同じだ」


その声は、悲痛な響きを帯びていた。


「何も知らされないまま、失う。また、同じことを——」


「律さん」


咲良が、律の腕に触れた。


「ごめんなさい。私、誰にも頼るのが苦手で。ずっと一人でやってきたから、どうしていいか分からなくて」


律は顔を上げた。その目は、涙で赤くなっていた。


「私のことを、頼ってください」


その言葉に、咲良の涙が溢れた。


「私の研究チームには、最先端の医療ネットワークがあります。あなたの症状に、希望がないわけではない」


「でも——」


「治療には、長期の入院が必要になります。花から離れる覚悟も」


咲良の顔が、強張った。


花から離れる。花の声が聴こえなくなるかもしれない。自分が自分でなくなるかもしれない。


「私は——」


「咲良さん」


律が、初めて彼女の名前を呼んだ。


「あなたが花を愛しているように——」


その目は、真っ直ぐに咲良を見つめていた。


「あなたを愛している人がいます」


息が、止まった。


「花は関係ない。能力も、店も、関係ない。あなた自身を、生きていてほしい」


涙が、止まらなかった。


「あなたがいなくなったら——」


律の声が、震えた。


「私は、また大切な人を失うことになる」


咲良は、律を見つめた。


十年間、一人で戦ってきた。誰にも頼らず、誰にも弱みを見せず、ただ静かに消えていくつもりだった。


けれど——


「生きたい」


気づけば、その言葉が口をついていた。


「生きたいです。律さんと、もっと——」


続きは、涙で言葉にならなかった。


律が、静かに咲良を抱きしめた。


店先の花たちが、一斉に揺れた。


『よかったね』


『やっと言えたね』


『生きてね、咲良』


花たちの声が、祝福のように響いていた。


◆ ◆ ◆


咲良の評判は、瞬く間に広まっていった。


篠原慶一郎がSNSで「生涯で見た中で最も美しい花束」と絶賛したことがきっかけだった。植物学界の権威の言葉は重く、マスコミも注目し始めた。


「商店街の奇跡の花屋」「花と対話する女性」——


そんな見出しが、ネットやテレビで踊るようになった。


『フルール・エテルネル』の前には、連日行列ができた。かつては見向きもされなかった古い店に、今や予約が殺到している。


その変化を、ある人々は苦々しく見つめていた。



「咲良ちゃん、久しぶり」


閉店間際、神崎遥真が店を訪れた。


「遥真くん」


咲良は穏やかに応じたが、心の中では身構えていた。


「すごいね、評判になってて。僕、嬉しいよ。ずっと咲良ちゃんの才能は分かってたからさ」


(……嘘)


その言葉が、胸に刺さった。


「一人で意地張っても仕方ないでしょ」と言ったのは、誰だったか。「うちで働けばいいのに」と軽んじたのは、誰だったか。


「それでさ、提案があるんだけど」


遥真は人懐っこい笑顔を浮かべた。昔から変わらない、けれど今の咲良には空虚に見える笑顔。


「僕と組まない? 咲良ちゃんの才能と、うちの資本力があれば、もっと大きなことができるよ。全国展開だって夢じゃない」


咲良は静かに首を横に振った。


「ありがとう。でも、お断りするわ」


「え——どうして?」


遥真の笑顔が、僅かに強張った。


「咲良ちゃん、分かってないなぁ。今がチャンスなんだよ? この評判を活かさないでどうするの。僕がいれば、もっと効率よく——」


「効率」


その言葉に、咲良の目が冷えた。


「遥真くん。あなたは十年間、私が効率を無視してこの店を守り続けたことを、『意地』だと言っていたよね」


「それは——」


「お祖母ちゃんから受け継いだものを、私なりに守ってきたの。誰に何を言われても。あなたにも、蓮司さんにも」


咲良は真っ直ぐに遥真を見つめた。


「今さら、才能を分かってたって言われても——もう遅いの」


遥真の顔から、完全に笑顔が消えた。


「……後悔するよ、咲良ちゃん。僕のことを切り捨てて」


「後悔しないわ」


咲良の声は、静かだったが揺るぎなかった。


「十年前、私が一番辛かった時、あなたは何をしてくれた? お祖母ちゃんが亡くなって、この店を継ぐか悩んでいた時——」


遥真が、僅かに目を逸らした。


「覚えてないよね。覚えているはずがない。あなたにとっては、どうでもいいことだったから」


「咲良ちゃん——」


「帰って」


その一言に、遥真は言葉を失った。


かつての幼馴染は、後悔の表情を浮かべながら、店を出ていった。


ベルの音が、寂しく響いた。



翌日、今度は神崎蓮司が店を訪れた。


「柊さん」


以前の傲慢な態度は消え、どこか焦りを滲ませた表情だった。


「買収の件、再考していただけませんか。額は……三倍、いえ、五倍出します」


咲良は作業の手を止めなかった。


「お断りします」


「待ってください。私たちは——うちの会社には、あなたのような才能が必要なんです。パーティーの件で、クライアントからの信用が——」


「神崎さん」


咲良が振り返った。その目は、静かだったが、確かな意志を宿していた。


「私は十年間、あなたに『時代遅れ』『街の景観を損ねる』『うちのフローリストの足元にも及ばない』と言われ続けてきました」


蓮司の顔が、強張った。


「今になって私の価値を認めるのは、私の能力が変わったからじゃない。世間の評価が変わっただけ。あなた自身は、何も変わっていない」


「それは——」


「花は正直だから、嘘をつく人のところには咲かないんです」


祖母の言葉を借りて、咲良は静かに告げた。


「ごめんなさい。でも、もう遅いんです」


蓮司は何も言えないまま、店を出ていった。


その背中は、かつて見下していた「古臭い花屋」の店主に、明確に拒絶された男の姿だった。



二人の訪問を見届けた後、律が静かに声をかけた。


「よく言えましたね」


「……震えてた」


咲良は自分の手を見た。確かに、僅かに震えている。


「でも、言わなきゃいけなかったの。十年間、ずっと飲み込んできた言葉だから」


律は咲良の手を、そっと握った。


「あなたは、もう一人じゃない」


その言葉に、咲良は小さく微笑んだ。


「知ってる」


店先の花たちが、祝福するように揺れていた。


◆ ◆ ◆


神崎グループの凋落は、あっという間だった。


パーティーでの失態がSNSで拡散され、「効率優先で花の質を軽視する店」という評判が広まった。契約を切るクライアントが続出し、売上は急落。蓮司が築き上げた「成功した実業家」のイメージは、音を立てて崩れていった。


「何がいけなかったんだ——」


閑散としたオフィスで、蓮司は頭を抱えていた。


かつては部下で溢れていた空間に、今はほとんど人がいない。杏奈をはじめ、実力のあるフローリストたちは次々と辞めていった。


「効率を追求して、何が悪い。花など、所詮は——」


言葉が、途中で止まった。


あのパーティーの光景が、蘇る。自分たちの花が萎れていく中、あの小さな花屋の花束だけが輝いていた。


「商品」として扱った花たちは、枯れた。


「愛した」花たちは、咲き誇った。


その差を、蓮司はようやく理解し始めていた。けれど、もう遅かった。


「兄さん」


遥真が、疲れた顔で入ってきた。


「銀行から連絡があった。これ以上の融資は、難しいって」


蓮司は目を閉じた。


終わりだ。全てが。



一方、『フルール・エテルネル』には、一人の女性が訪れていた。


「失礼します」


水城杏奈。かつてブルーミング・ガーデンのチーフフローリストだった女性。


「……水城さん?」


咲良は驚いた。相手は「敵」の側にいた人間だ。


「突然すみません。あの……」


杏奈は深々と頭を下げた。


「謝らせてください」


「謝る……?」


「私たちは、あなたの店を見下していました。『古臭い』『時代遅れ』——蓮司社長の言葉に、私も心のどこかで同調していました」


杏奈の目に、涙が光った。


「でも、あのパーティーで、あなたの花束を見た時——自分たちがどれほど間違っていたか、分かりました」


咲良は黙って聞いていた。


「私は花が好きで、この仕事を選びました。でもいつの間にか、花を『商品』としか見なくなっていた。効率、利益、売上……大切なものを、忘れていました」


杏奈が、顔を上げた。


「お願いがあります。一から、学ばせてください。花の声を聴くということを」


沈黙が落ちた。


咲良は杏奈の目を見つめた。そこには、かつての自分と同じものが見えた。花を愛しながら、その想いを踏みにじられてきた人間の目。


「水城さん」


「はい」


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「何でも」


「あなたは、花の声を聴いてみたいですか?」


杏奈は、迷いなく答えた。


「聴きたいです。もう一度、花を愛する仕事がしたい」


咲良は微笑んだ。


「分かりました。——ただし、厳しいですよ」


「覚悟しています」


二人は握手を交わした。


同じ頃、店の外では——


神崎遥真が、遠くから店を見つめていた。入る勇気は、なかった。


杏奈が頭を下げ、咲良に受け入れられる姿を見て、遥真は気づいた。


自分と杏奈の違い。


それは「謝れるかどうか」だった。


杏奈は自分の過ちを認め、頭を下げた。けれど自分は——「後悔するよ」と、逆に咲良を脅すような言葉を吐いて去った。


十年間、幼馴染だった。けれど本当の意味で、咲良を見ていなかった。


今さら謝ったところで、許されるとは思えない。許される資格も、ない。


遥真は、静かに背を向けた。


商店街の雑踏に紛れながら、彼は初めて、自分が失ったものの大きさを理解していた。


◆ ◆ ◆


治療のため、店を一時閉じる日が来た。


律の尽力で、最先端の医療チームが咲良を受け入れることになった。希望がないわけではない——律の言葉を信じて、咲良は決断した。


生きることを。


最後の営業日、店を閉める準備をしていると——


「咲良ちゃん!」


扉が勢いよく開いた。田所富子が、涙を流しながら駆け込んできた。


「本当なの? 店を閉めるって——」


その後ろから、商店街の人々が次々と入ってきた。


三島健太と美和、そして十五歳になった娘。毎週一輪の花を買いに来ていた老人たち。開店祝いの花束を贈った若い夫婦。母の葬儀の花を頼んでくれた中年の男性。


十年間、咲良の花に支えられてきた人々が、全員集まっていた。


「皆さん……」


咲良は言葉を失った。


「咲良ちゃん」


富子が、咲良の手を取った。


「あんたの花がなかったら、私はとっくに後を追ってた。毎週あんたの店に来て、あんたが選んでくれた花を見て——『もう少し頑張ろう』って思えたの」


三島健太が、涙をこらえながら言った。


「十年前、あの花束がなかったら、うちは離婚してた。この子は生まれてなかった。咲良ちゃんのおかげで、うちは家族でいられる」


次々と、声が上がった。


「入院して、退院して——必ず戻ってきて」


「待ってるから」


「咲良ちゃんの花じゃなきゃ、だめなの」


咲良の目から、涙が溢れた。


十年間、一人で戦ってきたと思っていた。誰にも必要とされていないと、心のどこかで思っていた。


違った。


自分の花は、これほど多くの人の人生を支えていた。


「私——」


声が震えた。


「私、ずっと思ってたの。自分がいなくなっても、誰も困らないって」


「馬鹿なこと言わないで!」


富子が叫んだ。


「あんたがいなくなったら——この商店街は、バラバラになる。あんたの花が、私たちを繋いでくれてたの。分かる?」


咲良は、初めて声を上げて泣いた。


穏やかな笑顔の奥に隠してきた、全ての感情が溢れ出した。孤独も、不安も、諦めも——そして、生きたいという願いも。


「ありがとう……」


嗚咽の合間に、咲良は繰り返した。


「ありがとう、ありがとう……」


律が、そっと咲良の肩を支えた。


「皆さん」


律の声が、静かに響いた。


「咲良さんは、必ず戻ってきます。私が、約束します」


商店街の人々が、律に頭を下げた。


「お願いします」


「咲良ちゃんを、守ってあげてください」


「待ってますから」


夕陽が、店内を橙色に染めていた。


十年間守り続けた店。祖母から受け継いだ場所。


そして、そこで生まれた無数の繋がり。


「行ってきます」


咲良は、店の花たちに向かって呟いた。


『待ってるよ』


『必ず帰ってきてね』


『愛してる、咲良』


花たちの声が、祝福のように響いた。


咲良は律の手を取り、店を後にした。


春の風が、二人の背中を優しく押していた。


◆ ◆ ◆


一年後——


三月の陽光が、商店街を明るく照らしていた。


『フルール・エテルネル』の前に、新しい看板が掲げられている。


『花のセラピーサロン フルール・エテルネル × 藤宮植物研究所』


咲良は店の扉を開けた。


「おはよう」


店内で、水城杏奈が花の手入れをしていた。


「おはようございます、咲良さん」


一年前とは別人のように、杏奈の顔には穏やかな笑顔があった。咲良の下で学び直し、今では花の「気配」を感じ取れるまでになっていた。声までは聞こえないが、それでも十分だと、彼女は言った。


「今日の花たち、どう?」


「元気ですよ。特にこのガーベラ、誰かに届きたがってます」


咲良は微笑んだ。杏奈の成長が、嬉しかった。


治療は成功した。完治とはいかないが、症状の進行は止まっている。花の声は以前より小さくなったけれど、まだ聴こえる。それで十分だった。


「咲良」


奥から、律が現れた。


「篠原先生から連絡があった。今日、様子を見に来るそうだ」


「分かりました」


咲良と律は、並んで店の準備を始めた。


リニューアルした『フルール・エテルネル』は、律の植物研究所と連携した「花のセラピーサロン」として生まれ変わっていた。


花精感応の研究と、その癒しの力を活かした心のケア。咲良の能力を、より多くの人に届けるための場所。


「そういえば」


律が、少し困った顔で言った。


「神崎遥真から、また連絡があった」


咲良の手が、一瞬止まった。


「……何て?」


「『あの店を紹介してくれないか』と。働かせてほしいそうだ」


沈黙が落ちた。


神崎グループは、半年前に倒産した。蓮司は負債を抱えて姿を消し、遥真は職を失った。


咲良は、静かに首を横に振った。


「お断りして」


「……分かった」


律は頷いた。問い詰めはしなかった。咲良の決断を、尊重している。


「ごめんね」


咲良が、小さく呟いた。


「うちは、花を本当に愛せる人としか働けないの」


杏奈のように、自分の過ちを認め、一から学び直す覚悟のある人なら。けれど遥真は——


まだ、何も変わっていない気がした。「紹介してくれないか」という言葉には、反省の色がなかった。ただ、困っているから助けてほしいというだけ。


十年間、軽んじられ続けた相手に、今さら手を差し伸べる理由は、咲良にはなかった。


「冷たいかな」


「いいえ」


律が、咲良の肩を抱いた。


「あなたは、十年間耐えてきた。もう、無理に優しくする必要はない」



その日の午後、神崎遥真が店を訪れた。


「咲良ちゃん」


一年前より、明らかに疲れた顔をしていた。服も以前ほど洗練されていない。落ちぶれた、という言葉がふさわしかった。


「頼むよ。ここで働かせてくれないか。僕だって、花のことは——」


「ごめんね、遥真くん」


咲良は静かに遮った。


「お断りするわ」


「どうして——」


「あなたは十年前、私が一番辛かった時、助けてくれなかった。それどころか、私の努力を『意地』だと笑っていた」


遥真の顔が、歪んだ。


「そんな昔のこと——」


「昔のことじゃないの」


咲良の声は、穏やかだったが揺るぎなかった。


「私にとっては、今も続いていること。あなたが変わらない限り、私は忘れられない」


「俺は変わった——」


「変わってない」


咲良は真っ直ぐに遥真を見た。


「今あなたがここに来たのは、困っているからでしょう? 私のことを認めたからじゃない。私が成功したから、利用しようとしているだけ」


遥真は、何も言い返せなかった。図星だったからだ。


「帰って、遥真くん。もう、私たちの間には何もないの」


遥真は、後悔と屈辱が入り混じった表情で、店を出ていった。


その背中を見送りながら、咲良は律と手を繋いだ。


「これで、よかったのかな」


「よかったと思う」


律が、咲良の手を優しく握った。


「あなたは十分に優しい。だからこそ、線を引くことも必要だった」


店先で、花たちが風に揺れた。


『咲良、強くなったね』


『もう大丈夫だよ』


『私たちがついてるから』


花たちの声が、温かく響いた。



夕方、店を閉める準備をしながら、咲良は律に尋ねた。


「ねえ、今日の花たち、なんて言ってる?」


律は、咲良と同じように花に耳を澄ませた。彼には花の声は聞こえない。けれど——


「分からない。でも、きっと——」


律は、咲良を見つめた。


「あなたを祝福している気がする」


咲良は笑った。心からの、穏やかな笑顔。


「私にも、聞こえるよ」


店先の花たちに、目を向けた。


「『春が来た』って。『やっと、春が来た』って」


三月の陽光の中、花々がいっせいに咲き誇っていた。


十年間の孤独な戦いの果てに、咲良は見つけた。


自分の価値を認めてくれる人。自分を愛してくれる人。そして、自分の花に支えられてきた、たくさんの人々。


もう、一人じゃない。


律が、咲良の手を取った。


「これからも、一緒に」


「うん。——ずっと」


二人は並んで、花たちを見つめた。


春の風が、商店街を優しく吹き抜けていく。


新しい季節が、始まろうとしていた。



——了——

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