第八章 名を呼ぶ前に約束が要る
雨が降っていた。
王城の中庭に落ちる雨音は一定の調子で、まるで時間を刻むようだった。
ノエリアは回廊の柱に背を預け、濡れた庭を見つめている。
最近、眠りが浅い。
夢の中で誰かの記憶を辿っている。
それが自分のものではないと分かっていても目覚めた後に残る感情は消えなかった。
「ここにいたのか」
足音を殺した声。
アスベルだった。
彼は雨に濡れない位置に立ち、彼女と同じ景色を見る。
「書殿から姿が見えなかったから」
「……少し、息が詰まって」
アスベルはうなずいた。
「無理に、あそこに居続ける必要はない」
「でも、皆が困るから」
「困るのは、君がいなくなった時だ」
言い切りだった。
ノエリアは驚いて彼を見る。
アスベルは視線を逸らし、雨に向けたまま続けた。
「神官たちは“役割”で人を見る。でも、君は役割になる前の人だ」
ノエリアは、胸の奥が少し緩むのを感じた。
「……アスベルは、怖くないの?」
「何が」
「私が、変わっていくこと」
雨音が、ほんの少し強まった。
「怖い」
即答だった。
「だから、見ていないふりはしない」
それは、逃げないという宣言だった。
***
その夜、ノエリアは書殿の奥にある「記録庫」に足を踏み入れていた。
本来、立ち入りには許可が要る場所。
だが、扉は開いていた。
まるで、待っていたかのように。
灯りを掲げると古い書の背表紙が浮かび上がる。
年代も、筆致も、ばらばら。
だが、一つだけ題名のない書 があった。
ノエリアは、迷わずそれを取る。
とても重い。
物理的な重さ以上に、意味が詰まっている。
開いた瞬間、視界が揺れた。
――忘れられた声。
――捨てられた名前。
――覚えている者が、ひとりもいなくなった瞬間。
ノエリアは、思わず膝をつく。
「……こんなもの、どうして」
答えは、書からではなく内側から来た。
『呼ばれなかったからだ』
静かな認識。
『名は、呼ばれなければ形を保てない』
ノエリアは、震える手で書を閉じた。
「じゃあ……私は」
問いは、続かなかった。
分かってしまったから。
自分は、呼ぶ側 に立ち始めている。
だが――
「……名前を呼ぶ前に」
ノエリアは、誰かに言い聞かせるように呟いた。
「約束が要ります」
その瞬間、灯りが揺れた。
気配が、はっきりと近づく。
『何を、約束する』
ノエリアは、ゆっくり立ち上がる。
恐怖はある。それでも、逃げなかった。
「あなたが、溺れないこと」
静かな声だった。
「私が語ることで、あなたが壊れないこと」
沈黙。
長い、長い間。
『……重い約束だ』
「ええ」
ノエリアは微かに笑った。
「だから、簡単に名前は呼びません」
空気が、わずかに和らいだ。
それは、同意だった。
『呼ばれる時は、覚悟のある時だ』
ノエリアは、深く息を吸う。
そして、胸に刻む。
この国では名を呼ぶことは、愛ではない。
責任だ。
それを彼女は選び始めていた。




