第七章 記されぬものが滲み出る
朝の書殿は、紙の匂いが濃かった。
まだ人の少ない時間。
ノエリアは机に向かい昨夜の続きを書いている。
王城にて、神殿にて。
誰が何を語り何が決まらなかったか。
事実だけを淡々と。
それなのに筆が止まる。
書こうとした言葉が、どうしても合わない。
「……違う」
ノエリアは書き損じた紙を見つめる。
言葉は正しい。
けれど、何かが抜け落ちている。
その感覚が日に日に強くなっていた。
彼女は紙を裏返した。
そこに意図せず別の文字が滲む。
――「忘れられた名」。
自分が書いた覚えはない。
墨は、乾いていない。
まるで今、書かれたかのように。
ノエリアは、息を詰めた。
「……誰の、名前ですか」
問いは、空気に溶ける。
だが、胸の奥がわずかに重くなる。
声ではない返答。
“ここにある”という感覚だけが残る。
ノエリアは急いで紙を閉じた。
誰かに見られてはいけない。
なぜか、そう思った。
***
昼前。
書殿に神官たちが集まった。
最近増えた「不具合」の確認だ。
「記録に意図しない文言が混じる例が続いている」
「筆の管理が甘いのでは」
「いや……使った覚えのない墨が見つかった」
ノエリアは少し離れた位置でその様子を聞いていた。
視線が時折こちらに向く。
疑いというより測る目だった。
「ノエリア」
名を呼ばれ、彼女は顔を上げる。
「昨夜、書を扱いましたね」
「はい」
「異変は?」
一瞬、迷った。けれど嘘はつけない。
「……言葉が、勝手に出てくることがあります」
ざわり、と空気が揺れる。
「勝手に?」
「意味を成さないものではありません。ただ……私が知らない」
神官たちは、視線を交わした。
年長の神官が、静かに告げる。
「それは、兆しだ」
断定に近い声。
「神の記憶が、器に触れ始めている」
ノエリアの胸が、強く脈打つ。
まだ、準備の途中のはずなのに。
「急ぎすぎです」
その声は背後から聞こえた。
アスベルだった。
「彼女はまだ、正式な語り部ではない」
「しかし王子、兆しは待ってはくれません」
「だからこそ壊さない選択をすべきです」
アスベルの言葉は感情を抑えていた。
だが、はっきりしている。
「彼女は、人です」
一瞬、沈黙が落ちた。
神官たちは反論しなかった。
否定もしなかった。
それ自体が、答えだった。
***
夜、ノエリアは一人庭に出ていた。
書殿では息が詰まる。
星のない夜空が、今日はやけに広い。
「……見ていますか」
誰にともなく、そう言った。
答えは、すぐには来ない。
けれど、確かに思考の端に波紋が広がる。
『見ている』
声ではない。
意味だけが直接届く。
ノエリアは、胸を押さえた。
「私、怖いんです」
『それでも、離れない』
短い応答。それがなぜか優しかった。
「あなたは……」
名を呼びかけそうになって、やめた。
まだ、呼んではいけない気がした。
『呼ばれなくても、分かる』
その感覚が、少しだけ近づく。
ノエリアは目を閉じる。
記憶が押し寄せる。
――書かれなかった出来事。
――誰にも語られなかった感情。
それらが彼女の中を通り抜けていく。
痛みはない。けれど重い。
「……全部、抱えたら」
言葉が震えた。
「あなたは、楽になりますか」
返答はなかった。
ただ、空気が静かに凪いだ。
それが答えだった。
ノエリアは、ゆっくり息を吐く。
準備は整いつつある。
誰にも告げられぬまま。
そして誰もが薄々気づき始めていた。
もう、後戻りはできないことを。




