第六章 近づく準備と離れない距離
王城と神殿をつなぐ渡り廊下は昼でも人影が少ない。
窓から射す光が長く伸び、白い床に線を描いており、ノエリアはその線を踏まないように歩いている。
「無意識だな」
隣を歩くアスベルが苦笑混じりに言った。
「……気づいてたの?」
「小さい頃からだ。考え事をすると必ず足元を見る」
ノエリアは少しだけ頬を緩めた。
「昔の話をされると、逃げ場がないなぁ」
「逃げる必要はないだろう」
その言葉は王子としてではなく、幼なじみとしての響きだった。
二人は神殿へ向かっている。
正式な“準備”の打ち合わせが始まると告げられたからだ。
「怖いか?」
アスベルが唐突に問う。
ノエリアは、しばらく黙った。
「……怖くない、と言えば嘘になるね」
「それでも?」
「それでも、逃げたいとは思わない」
自分でも不思議なほど言葉はまっすぐだった。
「覚えてるの。皆が忘れてしまったことを」
「記憶のことか」
「うん。それを誰かが持たなければいけないなら」
ノエリアは、顔を上げる。
「私でいい、と思ってる」
アスベルは歩みを止めた。
渡り廊下の中央。
風が通り抜け、衣がわずかに揺れる。
「それは、“役目”としてか?」
ノエリアは、すぐに答えなかった。
「……まだ、わからない」
正直な答えだった。
「でも、独りでは無理だと思ってる」
アスベルは、その言葉を待っていたかのように静かに息を吐いた。
「なら、独りにしない」
約束のような声だった。
***
神殿の奥。
神官たちは、これまでよりも慎重だった。
記録用の机、儀式用の布、筆記具の数
すべてが整えられていく。
「急ぎすぎてはならない」
若い神官が言う。
「だが、遅らせすぎれば兆しが歪む」
意見は割れていたが以前ほどの鋭さはない。
ノエリアは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
声は届かない。
けれど、感情の揺れは、なぜか分かる。
「……書かれない言葉が、ある」
無意識に呟いた声に神官の一人が振り返る。
「今、何か言いましたか」
「いえ」
ノエリアは首を振る。
ただ、胸の奥に重たい感覚があった。
言葉にならない記憶。
誰にも記されず神の中に沈んでいくもの。
それが、苦しい。
理由は分からない。
けれど、確かに“触れかけて”いた。
***
夜わノエリアは自室で書を広げていた。
今日の出来事を簡単に記す。
それだけで心が少し整う。
そのとき、灯りがわずかに揺れた。
風ではない。扉も閉まっている。
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「……誰か、いますか」
返事はない。
けれど、確かに“気配”があった。
声ではない。姿でもない。
思考が、触れられている感覚。
記される前の記憶。
ノエリアは、筆を置いた。
「……忘れない、というのは」
その先を、言葉にできなかった。
だが、理解し始めていた。
神は、応えている。
まだ名を呼ばれぬまま。
見守るだけでは、いられなくなりつつあることを。
ノエリアは胸に手を当てる。
怖さは確かにあった。
それでも。
「大丈夫……独りじゃない」
誰にともなく、そう言った。
その瞬間、揺れは静まり灯りは元に戻った。
だが――
準備は、もう始まっている。




