第五章 記される名と呼ばれない声
朝の神殿は、昼よりも冷える。
白い石床に射し込む光は淡く、音はどこまでも伸びていく。
ノエリアは、神官に導かれて奥の小広間へ入った。
そこには、円卓が一つ置かれている。
席は五つ、すでに三人の神官が座っていた。
「座りなさい、ノエリア」
促されるまま席に着くと神官の一人が一枚の羊皮紙を広げた。
「これは、神凪候補の正式な記録だ」
文字はまだ少ない。
空白が多いほど、これから書かれることを示している。
「あなたには、兆しがある」
別の神官が言う。
「夢を見る。記憶に触れる。過去の出来事を誰よりも正確に語る」
ノエリアは、否定しなかった。
幼い頃から知らないはずの話を知っていた。
人が忘れた言葉を、なぜか覚えていた。
「それは、特別なことですか」
問いは、思ったより静かだった。
「この国では、特別だ」
神官は即答した。
「書と歌の国は記憶を神に預ける。その媒介となるのが神凪だ」
「……神は、全部覚えているんですか」
「忘れない」
短い返答だった。
「だからこそ、抱えきれなくなる」
ノエリアの指が、膝の上で強く組まれた。
「私が……支える?」
「整理する、と言った方が近い」
神官は言葉を選ぶ。
「あなたが語り、記すことで、神は沈まない」
沈まない。
その表現に、ノエリアは小さく息を吸った。
「それは、私が――ここに留まる、という意味ですか」
一瞬の間。
誰も否定しなかった。
「神凪は、国を離れない」
年配の神官が言う。
「名が記された時点で、その人生は変わる」
ノエリアは羊皮紙を見る。
まだ、名前は書かれていない。
それでも空白は彼女を待っている。
「……少し、時間を下さい」
その願いは、許された。
***
同じ頃。アスベルは書庫にいた。
古い記録を読み解く役目は、元々彼の仕事ではない。
だが、今は自分から求めていた。
神凪に関する記述。
婚約者に関する記述。
そして、神に選ばれた者の末路。
「……短いな」
多くの記録は、途中で終わっている。
その背後から、国王の声がした。
「最後まで残すと、国が揺らぐ」
「父上」
「希望も絶望も、均等に残すわけにはいかない」
国王は書棚に手を置く。
「だから王族が覚える」
「……それは卑怯ではありませんか」
国王は、少しだけ笑った。
「卑怯でなければ、王は務まらん」
アスベルは唇を噛む。
「ノエリアは、覚悟を決めようとしています」
「だろうな」
「止めるべきですか」
国王は答えなかった。
代わりに言う。
「支えられるのは、お前だけだ」
その言葉は、逃げ道を与えなかった。
***
夜、ノエリアは自室で机に向かっていた。
白紙の紙を前に筆を持つ。
まだ、何も書かない。
それでも胸の奥で何かが整い始めている。
「……忘れない神、か」
声に出すと、少しだけ震えた。
もし、全てを覚え続ける存在がいるのなら。
誰かが、語らなければならない。
それが自分だとしたら。
ノエリアは、静かに筆を置いた。
名は、まだ呼ばれていない。
だが、記される日は近い。




