第四章 呼ばれる前の沈黙
城の東塔にある小礼拝室は、ほとんど使われていない。
大きな儀式は大聖堂で行われるし、祈りを捧げる者も今は少ない。
それでも、ここだけは常に整えられていた。
ノエリアは、窓際の長椅子に腰を下ろしていた。
手元には、一冊の古い帳面。
文字は整っているが筆跡が時折震いでいる。
「……これは、誰の記録なんでしょう」
独り言のように呟いた瞬間、背後で衣擦れの音がした。
「それは、神凪候補の記録だ」
振り返ると、神官が一人立っていた。
年配で、顔に刻まれた皺は深いが、声は穏やかだった。
「候補、ですか」
「正式に選ばれなかった者も含まれる」
神官は椅子の反対側に立ち、帳面を見下ろす。
「力が足りなかった者。対話ができなかった者。あるいは国が必要としなかった者」
最後の言葉は、わずかに重かった。
ノエリアは帳面を閉じる。
「ここにいる人たちは、皆……どうなったんですか?」
「普通の人生を歩んだ者もいる。だが、多くは名を残さず消えた」
神官は否定も肯定もしなかった。
「神凪とは“選ばれた者”ではない。“残された者”だ」
ノエリアの胸が、微かに軋んだ。
「残された……」
「神が在り続けるために、人が残る。それが、この国の信仰だ」
沈黙が落ちる。
ノエリアは、帳面の表紙に指を置いた。
「……私も、ここに書かれるんでしょうか」
神官は即答しなかった。
しばらくして、静かに言う。
「それは、神が決めることだ。だが――国は、準備を始めている」
ノエリアは、顔を上げた。
「準備、とは」
「神凪を迎える準備だ」
言葉は淡々としていたが、逃げ場はなかった。
その日の夕刻。
アスベルは、中庭で剣の稽古を終えたところだった。
汗を拭う彼の前に、国王が立つ。
「ノエリアの様子はどうだ」
「……変わりありません。ですが」
「考え込んでいる、だろう」
王子は、何も言えなかった。
国王は遠くを見つめる。
「神凪は、国の礎だ。だが、それは同時に最も壊れやすい」
「父上は……」
「私は神よりも先に、あの子を人として見ている」
その言葉に、アスベルは息を呑んだ。
「だからこそ、奪わせるつもりはない。ただ、抗えない時が来るのも知っている」
王子は拳を握る。
「その時、私は」
「支えろ」
国王は即答した。
「神凪としてではなく、ノエリアとして。それが王族に許された唯一の役目だ」
***
夜。
ノエリアは、寝室の窓辺に立っていた。
星は少なく、雲が低い。
胸の奥がざわつく。理由は、わからない。
ただ――
呼ばれているような、いないような。
「……まだ、名は呼ばれていない」
自分に言い聞かせるように呟く。
それでも沈黙は、確実に形を持ち始めていた。
呼ばれる前の沈黙は最も長く、最も逃げ場がない。




