エピローグ それでも、朝は訪れる
朝の光は、書庫の高窓から静かに差し込んでいた。
埃を含んだその光は、舞うように床へ落ち、長い机の上を照らしている。
ノエリアはページをめくる手を止めて顔を上げた。
「……もう、そんな時間?」
隣に立つアスベルは苦笑する。
「君が読み始めると時間が逃げる。昔からそうだ」
そう言って、彼は机の端に肘をつき、彼女の肩越しに書物を覗き込んだ。
「今日は、どんな記録を?」
「王都南部の歌祭りの由来。……神凪が“語り部”だった頃の話」
アスベルは小さく息を吐いた。
「今は、もう“だった”になるんだよな」
ノエリアは微笑む。
「そうだよ。私は今、ただのノエリアですから」
その言い方が、どこかくすぐったそうで、アスベルは思わず笑った。
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書庫を出ると、庭に風が通っていた。
花壇の白い花が揺れ、その向こうで侍女たちが何か話している。
ノエリアは歩きながら、ふと足を止めた。
「アスベル」
「どうした?」
「こうして歩いていると不思議だよね。昔は、城にいる理由を探してばかりだったのに」
アスベルは答えず、彼女の手を取った。
指先が触れ合う。
確かめるような、穏やかな温度。
「今は、理由なんていらないだろう」
ノエリアは一瞬、驚いた顔をして、それから静かにうなずいた。
「……うん。そうだよね」
⸻
庭の中央には、小さな石の円卓がある。
かつて、幼い二人が隠れるように本を読んだ場所だ。
アスベルはそこに腰を下ろし、ノエリアを見上げた。
「覚えてるか?君が“王子妃になるのは怖い”と言った日」
ノエリアは少し考えてから、笑った。
「うん。その時アスベルは“じゃあ一緒に怖がろう”って」
「……今でも、そのつもりだ」
アスベルはそう言って照れたように視線を逸らした。
ノエリアは、彼の隣に腰を下ろす。
「なら、大丈夫だね」
空は高く、雲はゆっくりと流れている。
もう、誰かの記憶を抱える必要はない。
誰かに語り続ける使命もない。
ただ、隣にいる人と、同じ朝を迎える。
⸻
ノエリアは、そっと目を閉じた。
忘れない神は、今も世界を見ているだろう。
けれど、この時間は誰にも捧げない。
これは、神凪でも語り部でもない、一人の少女が得た、ささやかな幸福の記憶。
アスベルは、彼女の肩に自分の外套を掛けながら言った。
「行こう。今日の予定は何も特別じゃない」
ノエリアは、穏やかに微笑んだ。
「ええ。それが、一番の贅沢だよね」
記録されない時間が、確かにここにあった。




