第三十二章 王子は制度の外で選ぶ
夜の王城は昼とは違う顔をしている。
廊下に灯る明かりは必要最小限で足音は自然と小さくなる。
アスベルは一人で歩いていた。
護衛も、侍従も連れていない。
それが許されるのは彼が「王子」である前に、この城で育った“一人の人間”だからだ。
神凪の区画へ向かう道は決して公には開かれていない。
だが、禁じられているわけでもなかった。
――制度の隙間。
そこに彼は立っている。
石段を下り静かな回廊を抜ける。
やがて扉の前で足を止めた。
ノエリアの部屋。
灯りは、まだ消えていない。
アスベルは扉を叩かなかった。
代わりに小さく声をかける。
「……起きているか?」
少し間があった。
ややあって、衣擦れの音。
扉がほんの少しだけ開く。
「アスベル……?」
ノエリアの声は眠気を含みながらも驚きより安堵が勝っていた。
「入っても?」
彼女は一瞬迷い、それから小さくうなずく。
部屋は整いすぎるほど整っていた。
神凪の私室として理想的な空間。
人が暮らす部屋ではなく。
アルベルトは、その違和感を何度も見てきた。
「遅い時間に、すまない」
「……大丈夫。眠れなかったから」
ノエリアは椅子に腰を下ろし膝の上のものを、そっと抱え直した。
白紙の本。
アスベルは、それを一目で認識した。
「それは……?」
「まだ、名前がないの」
ノエリアは視線を落としたまま答える。
「書くものでも、捨てるものでもないって神様が言いってた」
アスベルは小さく息を吸った。
「……預けられたんだな」
ノエリアは驚いたように顔を上げる。
「どうして、わかるの?」
「わかるさ」
彼は、苦笑に近い笑みを浮かべた。
「セファ=ノアは、そういうやり方をする」
二人の中で沈黙が落ちる。
やがて、アスベルは口を開いた。
「神官たちが動いている」
ノエリアの指先が、わずかに強張った。
「……記録の、揺らぎがあるから?」
「そうだ。“軽微”という言葉で済ませようとしている」
アスベルは、まっすぐ彼女を見る。
「だが、お前が抱えているものは軽くない」
ノエリアは、しばらく黙っていた。
それから静かに言う。
「アスベルは…どう思う?」
「何を?」
「忘れることは罪かどうか…」
問いは、簡単な形をしていたが答えは重い。
アスベルは、すぐには返さなかった。
「……俺は」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「忘れられないことの方が罪になる場合もあると思っている」
ノエリアの目が、わずかに揺れた。
「守るために覚えているふりをする。前に進むために置いていく。どちらも人が選ぶことだ」
アスベルは、ノエリアへ一歩近づく。
「神の記憶を整理するのは神凪の役目だ」
「だが、神の“感情”まで背負う必要はない」
ノエリアは唇を噛んだ。
「……でも誰かが抱かなければ神様は」
「壊れる、か?」
その言葉にノエリアはうなずく。
アスベルは静かに首を振った。
「違う。神は一人で壊れる存在じゃない。壊れるとしたら、それは誰も止めなかった時だ」
ノエリアは、はっとした。
「……止める?」
「そうだ」
アスベルは、はっきりと言った。
「神殿でも制度でもなく、人が、お前が一人で背負う必要はない」
ノエリアの目に、かすかな熱が宿る。
「……アスベルは制度の中にいるよ」
「俺は制度の“外”に立つ役目だ」
彼は、そう言い切った。
「神凪の婚約者として、王子として。だからこそ見過ごさない」
白紙の本がノエリアの腕の中で静かに重みを増した。
それでも、彼女は手放さなかった。
「……ありがとう」
小さな声だった。
アスベルは、それ以上何も言わず踵を返す。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「ノエリア」
「なに?」
「書かないことを選んだなら、それは立派な記録だ」
アスベルが出ていき扉が閉まる。
残された部屋で、ノエリアは白紙の本を抱きしめた。
その頁は、まだ何も語らない。
けれど確かに“選ばれた時間”が、そこにあった。




