第二十九章 王子は忘れられない約束を持つ
王子の執務室には、まだ「余白」が多い。
書棚はあるが全てが埋まっているわけではなく、机の上も整いすぎてはいない。
必要なものだけが必要な場所に置かれている。
アスベルは、窓辺に立っていた。
城下を見下ろすこの場所からは、書の国の屋根と屋根の隙間を縫うように人々の往来が見える。
――皆、記録を生きている。
彼はそう思う。
文字を書き、歌を残し、過去を未来へ渡していく。
だが、自分には渡せないものがある。
扉を叩く音がした。
「入って」
ノエリアだった。
彼女は一歩だけ室内に入り立ち止まる。
「私に、お話があると」
「ああ」
アスベルは、彼女の方へ向き直った。
「ノエリア、座って」
ノエリアは椅子に腰を下ろす。
少し前までは、この部屋に入ること自体彼女は緊張していた。
今は違う。
それが良いことなのか悪いことなのかアスベルには、まだわからない。
「最近、眠れていないだろう」
唐突な言葉だった。
ノエリアは一瞬、言葉を詰まらせ、それから小さく笑った。
「……顔に出てる?」
「昔から君は、無理をするときほど静かになる」
ノエリアは、驚いたように彼を見る。
アスベルは続ける。
「子どもの頃から、そうだった」
彼の視線が、遠い時間へと向かう。
⸻
まだ二人が“神凪”や“王子”という言葉を知らなかった頃。
城の裏庭でノエリアはいつも石を並べていた。
意味もなく、ただ順番に。
「それ、何してるの?」
幼いアスベルが尋ねると彼女は少し困った顔で言った。
「わからない」
「でも、並べないと落ち着かないの」
「忘れちゃいそうだから」
「何を?」
「……今を」
その言葉の意味を当時の彼は理解できなかった。
けれど、なぜか忘れずにいる。
⸻
「覚えているか?」
アスベルは、今の時間に戻る。
「庭で、石を並べていたこと」
ノエリアは、目を伏せた。
「…… 覚えてるよ」
「どうして、並べていたんだ?」
ノエリアは目を瞑り、あの頃を思い出しながらも、やがて口を開いた
「記録されないものが怖かったんだと思う。誰にも覚えられずに消えてしまうことが」
アスベルは胸の奥が静かに締めつけられるのを感じた。
「だから、今」
ノエリアは続ける。
「語り部として神の記憶に触れることが、怖くて……でも、逃げられなくて」
アスベルは、机に手をついた。
「ノエリア」
彼は、はっきりと言った。
「君は、神のためだけに存在しているわけじゃない」
ノエリアは、顔を上げる。
「俺は、王子で国の未来を考える立場だ。だからこそ」
声が、少しだけ低くなる。
「君を“制度”としてしか見ないことを選ばない」
それは、公にはできない言葉。
王子としては、あまりに危うい発言だった。
ノエリアは、何も言えなかった。
アスベルは、続ける。
「覚えている。君が言った言葉“今を忘れたくない”って。俺はその約束を勝手に引き受けた」
彼は、微笑んだ。
「だから、君が忘れそうになったら俺が覚えている」
ノエリアの喉が、きゅっと詰まる。
「……それは」
言葉にしようとして、できなかった。
アスベルは、視線を逸らした。
「安心していい、神とは違う」
「アスベル」
「俺は君の記憶を奪わない」
その夜。
記憶神《セファ=ノア》は王子の部屋の近くで一つの“重たい約束”を感じ取っていた。
神に向けられたものではない。
人が、人に向けて抱いた誓い。
それは忘れない神にとって最も整理の難しい記憶だった。
人は神よりも脆く、それでも強い。
セファ=ノアは、その矛盾をまた一つ抱え込む。




