第二十八章 王妃は記録されない祈りを持つ
王妃の部屋には記録が少ない。
壁に掛けられた織物も、窓辺に置かれた花も、歴代の王妃が残してきたはずの品々も、どれひとつとして「由来」が書き残されていない。
それは偶然ではなかった。
記録しないと決めているのだ。
王妃は、窓の外を見ていた。
書の国の朝は静かで紙を漉く水車の音だけが遠くに聞こえる。
「ノエリア」
呼ばれて、ノエリアは一歩、部屋に入った。
「お呼びでしょうか、王妃様」
形式ばった言葉。
だが、王妃はそれを嫌わなかった。
距離は時に必要だから。
「こちらへ」
促され、ノエリアは窓際に立つ。
王妃は彼女を見つめる。
柔らかな銀灰の髪。
幼い頃よりも落ち着いた表情。
それでも、まだ少女の線が残る横顔。
「……痩せましたね」
ノエリアは、少しだけ肩をすくめた。
「気のせいです」
「そういう返しを覚えたのですね」
責める調子ではない。
王妃は椅子に腰を下ろし、ノエリアにも向かいの椅子を示した。
「語り部の務めは、どうですか」
「……難しいです」
それ以上は、語らなかった。
王妃は、深く追及しない。
「あなたが城にいる理由、忘れてはいませんね」
「はい」
ノエリアはうなずく。
「神凪候補として、王家が預かっている」
それは表向きの理由。
王妃は、その先を知っている。
「あなたは神に近づきすぎてはいけない」
その言葉は、冷たくも、厳しくも聞こえた。
ノエリアは、視線を落とす。
「……わかっています」
王妃は、しばらく黙っていた。
やがて静かに言う。
「でも」
声が、ほんの少しだけ揺れた。
「あなたを神に“取られたくない”とも思っています」
ノエリアは、顔を上げる。
王妃の表情には王族としての仮面はなかった。
ただ、一人の母の顔。
「私は王妃です。この国の安寧を願う立場です。それと同時に」
一瞬、言葉を探す。
「アスベルの母でもあります」
ノエリアの胸が、わずかに痛んだ。
「あなたは、あの子の婚約者です。だから」
王妃は、はっきりと言った。
「人として、生きてほしい」
その言葉は、どの記録にも残らない。
残せば、それは「国是」になってしまうから。
「……神凪は」
ノエリアは、慎重に言葉を選ぶ。
「神に仕える存在だと、教えられました」
王妃は、首を振る。
「神凪は人です。人が神と向き合うための形に過ぎないの。忘れないで」
ノエリアの手を、そっと取る。
「あなたが壊れれば、この国も壊れます」
ノエリアは指先に伝わる温もりに思わず息を詰めた。
それは神の声とは違う。
重くもなく逃げ場のないものでもない。
ただ、確かに“生きている”温度。
「……ありがとうございます」
ノエリアは、そう言うことしかできなかった。
王妃は微笑んだ。
「祈りは、記録されない方がいいこともあるのです」
その日、王妃は何も書き残さなかった。
ノエリアも、その会話を語らなかった。
だが、神殿の奥で記憶神《セファ=ノア》は“語られなかった祈り”を確かに感じ取っていた。
整理できない感情が、また一つ増えたことを。




