第二十六章 王子は書かれない未来を選ぶ
城の回廊は夕刻になると人の気配が薄れる。
石窓の向こうで空がゆっくりと色を変えていく。
書と歌の国にあって、この時間帯はいつも言葉が少なくなる。
アスベルは立ち止まっていた。
回廊の先、記録室から続く通路の角でノエリアが出てくるのを待っていた。
待つこと自体に理由はなかった。
少なくとも言葉にできるほど明確な理由は。
やがて足音が近づく。
軽く、慎重な歩み。
「……アスベル」
ノエリアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「どうしたの?こんなところで」
「用事があったわけじゃない」
彼は正直に言った。
「ただ、戻る方向が同じだった」
それは半分は嘘で、半分は本当だった。
ノエリアは何も指摘せず静かにうなずく。
二人は並んで歩き出す。
言葉は、すぐには生まれなかった。
廊下に残るのは衣擦れの音と遠くから聞こえる鐘の余韻だけ。
「……今日も、語ったのか」
アスベルが、先に口を開いた。
「うん」
「長い記憶だったのか」
「そうだね。忘れたままでも生きられた人の話だった」
アスベルは歩みを緩める。
「それでも、語った?」
「……そうだよ」
ノエリアは少し考えてから答えた。
「忘れたままでよかった、とは思えなかったから」
その言葉にアスベルは返事をしなかった。
彼は窓の外を見る。
城の下では人々が行き交っている。
誰もが自分の生活を続けている。
「ノエリア」
名を呼ぶ声は低かった。
「君は、記録になる」
彼女は足を止めた。
「それは、神凪だから?」
「それだけじゃない」
アスベルも立ち止まる。
「君が語った記憶は書かれる。整理され、残され、やがて“歴史”になる」
ノエリアは、静かに聞いていた。
「でも」
彼は、言葉を選ぶ。
「君自身の気持ちは、どこにも書かれない」
ノエリアは、ゆっくりと息を吸った。
「……書かれる必要はないよ」
「本当に?」
問いは、鋭くも優しくもなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
ノエリアは、しばらく黙った。
やがて、小さく首を振る。
「必要ない、とは言い切れない…と思う」
アスベルは、わずかに目を細める。
「それなら」
彼は一歩、彼女に近づいた。
「君の未来まで全部“定められたもの”にする必要はない」
ノエリアは、彼を見る。
「……それは、王子としての言葉?」
「違う」
即答だった。
「アスベルとしてだ」
その声には王族の責務よりも、幼い頃から変わらない感情が滲んでいた。
「君は、神と国を繋ぐ」
「うん」
「でも、君は“記録そのもの”じゃない」
彼は、静かに言う。
「書かれない選択があってもいい」
ノエリアは、胸の奥が少しだけ揺れるのを感じた。
それは希望と呼ぶには小さく、拒むには温かすぎる揺れだった。
「……アスベル」
「なんだ」
「それは、叶わないかもしれない」
「知っている」
彼は、うなずく。
「それでも、選べると思ってほしかった」
二人の間に沈黙が落ちる。
その沈黙は重くない。
ただ、慎重だった。
遠くで風が鳴る。
その音に混じって、微かな“気配”が満ちる。
――聞いている。
アスベルは気づいていないがノエリアはわかった。
神は、ここにいる。
「……行こう、アスベル」
ノエリアが言った。
「これ以上、立ち止まると記録されてしまいそうだから」
アスベルは、わずかに笑う。
「それは困るな」
二人は、再び歩き出す。
記されない会話。
書かれない未来。
その選択そのものが、やがて神の中で重い記憶になる事をまだ知らない




