第二十四章 王妃の祈りは言葉にならない
王妃の部屋は、いつも香が淡かった。
甘すぎず、強すぎず。
そこに人が「長く居られる」ように調えられた香りだ。
王妃は窓辺の椅子に腰掛け、刺繍枠を手にしていた。
針は布の上で止まったまま、視線は遠くにある。
視線の先は神殿の方角。
城からは、直接は見えない。
それでも長年この城に暮らしてきた王妃には「今、神殿が重くなっている」ことが、わかってしまった。
「……ノエリア」
名を呼ぶ声は、ほとんど吐息だった。
王妃は彼女を初めて見た日のことを思い出す。
まだ幼く、王城の広い廊下に気圧されて、それでも必死に背筋を伸ばしていた少女。
アスベルの後ろを半歩遅れて歩く姿。
この子は城に馴染むと直感した。
それは、神凪だからではない。
王妃の目には“誰かの隣に立つことを怖れない子”に見えたからだ。
「王妃様」
侍女が、控えめに声をかける。
「神殿より、報告が」
王妃は針を置いた。
「……どうぞ」
侍女は一歩進み、声を落とす。
「神凪様が記録室に入られました。本日も、長く……」
それ以上は言わなくても伝わる。
王妃は、目を閉じた。
――また、だ。
「ありがとう。下がって」
侍女が去ると部屋には静けさが戻る。
王妃は、胸元に手を当てた。
祈りたいと思った。
けれど祈りの言葉が、見つからない。
神に向けて祈るべきか。
人に向けて願うべきか。
そもそも自分は、何を望んでいるのか。
「……神様」
小さく声が漏れたが、続かない。
王妃は知っている。
神は、この国にとって必要な存在だ。
記憶を抱え、過去を繋ぎ、人が忘れてしまうものを留めている。
だからこそ神凪が必要なのも、わかっている。
それでも。
「……あの子は」
言葉が震えた。
「私の、娘なのに」
血は繋がっていない。
それでも朝の挨拶を交わし、季節の移ろいを語り、アスベルの幼い癖を笑い合ってきた。
それを神のために差し出す覚悟など王妃は出来ていなかった。
「王妃」
今度は、別の声。
国王だった。
「……失礼する」
王妃は立ち上がり深く頭を下げる。
「いいえ。どうぞ」
国王は彼女の顔を見て、何も言わずに椅子に腰を下ろした。
「神殿から、同じ報告を受けた」
王妃は、うなずく。
「ええ……」
しばらく、沈黙。
長年連れ添った二人だからこそ、この沈黙が必要だと互いにわかっていた。
やがて王妃が言った。
「……私は、間違っていますか」
国王は、即答しない。
「神凪を、神に渡したくないと願うことが」
王妃の声は、弱かった。
「国のためには、神のためには、正しくないとわかっています」
それでも、と言葉が続く。
「それでも、あの子を“娘”として失いたくない」
国王は、深く息を吸った。
「……正しいかどうかではない」
王妃は顔を上げる。
「それは人として、自然だ」
その一言に王妃の目が揺れた。
国王は続ける。
「だから私はノエリアを無碍に扱うことを許さない」
「……ええ」
「神官が彼女を“器”として見るなら、私は王として止める」
王妃は、唇を噛んだ。
「それでも、最終的には……」
国王は、頷いた。
「選ぶのは、彼女だ」
その言葉は重かった。
王妃は目を閉じる。
祈れないまま、ただ願う。
――どうか。
――どうか、あの子が“誰かの都合”だけで選ばされませんように。
神殿の奥にある記録室の灯りは、まだ消えていなかった。
ノエリアは、静かに言葉を紡いでいる。
神は、聞いている。
そのことを王妃は知らない。
ただ、祈りにならない祈りだけが城の夜に静かに溶けていった




