第二十二章 神が忘れたいと願った夜
夜は、書庫から始まる。
灯りを落とした神殿の最奥。
昼間は人の往来で満ちているその場所も夜には紙の匂いと沈黙だけが残る。
ノエリアは一人でそこにいた。
神凪としてではない。
誰にも呼ばれず、命じられもせず、ただ来てしまった。
棚に並ぶ書は全て「記憶」だ。
出来事、言葉、名、失われた町、忘れられた祈り。
それらは人の手によって整理され継がれてきた。
だが神の記憶は、ここにはない。
「……重いですね」
誰にともなく呟いた瞬間、空気がわずかに揺れた。
それは音ではない。
気配が折り重なる感覚。
『人の記憶は、軽い』
声がした。
壁でも天井でもなく書庫そのものから滲むような声。
記憶神《セファ=ノア》。
ノエリアは驚かなかった。
もう、こうして声を聞くことに慣れてしまっていた。
「軽い、ですか?」
『忘れるからだ』
ノエリアは棚に手を置き、背を預ける。
「忘れられるから、人は生きていけるんだと…私は、思っていました」
『それは、救いだ』
短く即答だった。
だが、その後に続く沈黙が長い。
ノエリアは目を閉じた。
「……でも、神は違う」
返事はない、否定もしない。
それが、答えだった。
『忘れないということは選ばないということだ』
セファ=ノアの声は、いつもより低かった。
『痛みも、後悔も、正しかった言葉も間違いも全てが同じ重さで残る』
ノエリアは、胸の奥がきしむのを感じた。
「整理できないのですね」
『できない』
それは、神の弱さだった。
「……それでも、私を呼ぶのですか」
『お前が語ることで私は“順序”を思い出す』
ノエリアは、静かに息を吸った。
「神は、忘れたいと思いますか?」
その問いは神に向けてはならないものだったかもしれない。
だが、今は夜だった。
語り部と神だけの誰にも聞かれない時間。
長い沈黙のあとセファ=ノアは、初めて迷うように言った。
『……思う』
その一言が、重かった。
『忘れられたなら私は、壊れずに済む』
ノエリアは、思わず口を押さえた。
「それは……」
『だが、それを望むこと自体が記憶なのだ』
神の声が微かに揺れた。
『矛盾している』
「……ええ」
ノエリアは、正直に答えた。
「でも、それは……生きている、ということではありませんか」
セファ=ノアは、返事をしなかった。
代わりに書庫の奥で紙が一枚、静かに落ちる音がした。
ノエリアは、その音の方へ歩いた。
床に落ちていたのは白紙に近い一葉の記録。
名も、年も、出来事もない。
ただ、片隅に小さく書かれている。
語られなかった
「……これは」
『語れなかった記憶だ』
セファ=ノアの声が、近い。
『人が抱え、言葉にせず、やがて忘れたもの』
ノエリアは、その紙を拾い上げた。
不思議と重さはなかった。
「……神は、それも覚えているのですね」
『すべてを』
ノエリアは、しばらく考えたあと言った。
「では、今夜は」
神が、わずかに静まる。
「今夜は、忘れたい記憶を語りませんか」
『……それは、許されない』
「整理するだけです」
ノエリアは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「消さない。無かったことにしない。ただ……“ここに置く”だけです」
神の気配が、揺れた。
『それは、神凪の役目を越える』
「かもしれません」
ノエリアは微笑んだ。
「でも、語り部は語られなかったものにも耳を傾ける存在です」
沈黙。
長く、深い。
やがてセファ=ノアは、低く言った。
『……一つだけだ』
ノエリアは、うなずいた。
神は語り始める。
名も持たない記憶。
選ばれなかった未来。
忘れたかった理由。
ノエリアは、ただ聞いた。
書き留めない。
評価しない。
救おうともしない。
語り終えたとき、夜は少しだけ軽くなっていた。
『……まだ、残っている』
セファ=ノアは言う。
「ええ」
ノエリアは、静かに答えた。
「でも、今夜はここまでです」
神は、初めて否定しなかった。
『……ありがとう』
その言葉は祈りでも、命令でもなかった。
ノエリアは書庫を出る前に振り返る。
「神様」
『なんだ』
「忘れたいと願うことは、罪ではありません」
少しだけ、間があった。
『……覚えておく』
それは、皮肉な答えだった。
ノエリアは微笑み、扉を閉じる。
夜の神殿に静けさが戻る。
だがその奥で記憶神は初めて忘れたいと願ったことを誰かに語った夜を確かに抱えていた。




