第二十一章 王妃が守った名を持たない記憶
王妃の居室は、城の奥にあった。
華美ではないが整えられた静けさがある。
書棚と刺繍枠、窓辺の椅子。
王妃は、いつもここで一日の始まりと終わりを迎えていた。
その朝、扉を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは王付きの女官で、その腕に抱えられているのは一束の古い書簡。
「王子殿下より、お預かりしたものです」
王妃は一瞬だけ表情を曇らせ、すぐに受け取った。
「……ええ。ご苦労さま」
女官が下がると、部屋は再び静まり返る。
王妃は書簡を机に置き、しばらく触れなかった。
封もされていない事で中身がただの報告ではないことを悟っていた。
やがて、深く息をつき紙を広げる。
そこに書かれていたのは、神凪に関する過去の一事例であり
正式な記録から外された注釈つきの文書だった。
――情を持ちすぎた。
――神と語りすぎた。
そう記された行の横に別の筆跡で添えられている。
それは罪ではない。
それは、支えを持たなかっただけだ。
王妃は、指先を止めた。
「……アスベル」
小さく、息のように名を呼ぶ。
彼女は王妃になる前から神凪を知っている。
制度としてではなく人として。
そして今、この文書が意味するものも理解できた。
王妃は椅子に腰を下ろし窓の外を見た。
庭では、若木が風に揺れている。
かつて同じように揺れる枝を見ながら幼いノエリアが言ったことを思い出す。
「忘れなければ、守れますか?」
その問いに彼女はすぐに答えられなかった。
今なら少しだけ分かる。
忘れないことは、守ることではない。
だが、忘れさせないことは守ることになる。
王妃は文書を丁寧に折り別の封筒に入れた。
王家の紋は使わず代わりに白い封を選ぶ。
それは正式な保存ではなく「預かる」という選択だった。
扉が、再び叩かれる。
「王妃様。神凪殿が、お時間を頂きたいと」
王妃は、すぐに立ち上がった。
「通してちょうだい」
数拍の後、ノエリアが入ってくる。
淡い色の衣、整えられた髪。
けれど、その目には疲れが滲んでいた。
「……失礼します」
「いいのよ」
王妃は彼女を椅子へと導いた。
「今日は、よく語ったのでしょう」
ノエリアは、わずかにうなずく。
「記憶が、重くて……でも、神は落ち着いていました」
王妃は微笑む。
「それなら、あなたの役目は果たされた」
その言葉にノエリアは首を振った。
「いいえ。果たしたのは神の方です。私は……ただ、聞いていただけです」
王妃は、その言い方に胸を締めつけられる。
「ノエリア」
名を呼び、彼女の手を取る。
「あなたは、“語る者”である前に、人です」
ノエリアは驚いたように目を上げた。
「……それは、許されますか?」
王妃は、即答した。
「ええ。少なくとも、ここでは」
そして机の引き出しから先ほどの封筒を取り出す。
「これは、あなたに見せるものではない」
そう前置きしてから、続けた。
「でも、あなたが“選ぶ”日が来たら、この国にはあなたを責めない記憶があると知ってほしかった」
ノエリアは、封筒を見つめる。
「……私は、まだ選べません」
「それでいいの」
王妃は、優しく微笑んだ。
「選ぶ前に抱えすぎないこと。それが、あなたを守る」
ノエリアの目が、わずかに潤む。
「……ありがとうございます」
王妃は、彼女を抱き寄せた。
母が子を抱くように。
そして神に取られまいとする人間のように。
その瞬間、王妃は心に誓う。
この子が記憶に溺れそうになったなら王家は必ず手を伸ばす。
それが、国のためでなくても。
神のためでなくても。
人のために。




