第二十章 王子が選ぶ「継がない記録」
夜明け前の回廊は、まだ眠っていた。
石床を踏む音だけが、規則正しく響く。
アスベルは外套も纏わずに歩いていた。
眠れなかったのではない。
ただ、眠る必要がなかった。
彼は今、自分が王子であることよりも「継ぐ者」であることを強く意識していた。
――記録は、常に正しい。
だが、正しさは人を守らないことがある。
それを彼は知ってしまった。
扉の前に立つ。
王家の小書庫。
国史には載らない未整理の文書が集められた場所だ。
鍵を開けると紙の匂いが立ちのぼった。
ここにあるのは、失敗の記録、未遂の改革、途中で断たれた思想。
そして――神凪に関する、いくつもの草稿。
アスベルは机に腰を下ろし一通の記録を広げた。
そこには、かつての神凪の名が記されている。
正式な書式ではない。
筆跡も、途中から乱れていた。
「……情を持ちすぎた」
短い一文が何度も書き直されている。
神と語りすぎた。
神の声を、整理しきれなかった。
結果として、神は沈黙し、国は混乱した――
そういう結論に無理やり落とし込まれている。
アスベルは紙を伏せた。
「違う」
誰に向けた言葉でもない。
「それは結果だ。理由じゃない」
彼は立ち上がり別の束を手に取る。
そこには神殿と王権が対立した記録があった。
神官たちは、秩序を守ろうとした。
王は、民を守ろうとした。
どちらも間違ってはいない。
だが、その間にいた神凪は――
守られなかった。
アスベルは、深く息を吸う。
幼い日の記憶が、ふと蘇る。
書庫の隅でノエリアが眠っていた。
難しい書を抱えたまま眉を寄せて。
「覚えなくていい」と言った自分に彼女は首を振った。
「覚えないと、選べないでしょう?」
その時は意味が分からなかったが今なら分かる。
選ぶためには、知る必要がある。
だが、すべてを継ぐ必要はない。
アスベルは、机に戻る。
一枚の紙を取り出し、ゆっくりと書き始めた。
それは、新しい記録ではなかった。
むしろ、注釈だった。
「この事例は、後世に伝えるべきではない」
一瞬、筆が止まる。
王子としては危うい判断だ。
記録を恣意的に扱えば、歴史は歪む。
だが。
「これは反省ではなく、犠牲の記録だ」
アスベルは続けた。
「同じ過ちを避けるためではなく、同じ痛みを繰り返さないために」
筆を置く。
彼は、立ち上がり、窓を開けた。
朝の光が、書庫に差し込む。
遠くで鐘が鳴る。神殿の朝告げだ。
ノエリアは、もう起きているだろう。
彼女は今日も語る。
忘れない神のために世界を整理する。
アスベルは書庫を出る前に、もう一度振り返った。
「……継がないことも、継承だ」
誰も聞いていない。
だが、この選択は確かに国の未来に触れていた。
扉を閉める。
回廊を歩きながらアスベルは思う。
神凪を守るとは神から引き離すことでも王家のものにすることでもない。
選び続ける人間でいられるよう余白を残すことだ。
そのためなら、王子は歴史に背くことも厭わない。
次の鐘が鳴る。
それは、今日が始まった合図だった。




