第二章 城に置かれた子は名を問われない
王城の朝は、鐘の音から始まる。
高く澄んだ音が石の回廊を渡り、眠りの名残を押し流していく。
ノエリアはその音で目を覚ました。
天蓋付きの寝台は、まだ彼女の体には少し大きい。絹のカーテン越しに差し込む光が淡い色の部屋を満たしていた。
「……今日も、ここなんだ」
呟いた声は誰にも届かない。
彼女が城に来たのは、ほんの数年前のことだった。
「勉学のため」「王妃の御厚意」「将来を見据えて」――理由はいくつも与えられたが、どれも決定的ではない。
ただ一つ確かなのは、帰れと言われたことがないという事実だった。
身支度を整えて廊下に出ると控えめな足音が近づく。
「ノエリア様」
声をかけたのは、王妃付きの侍女だった。
年若いが、所作は丁寧で視線は決して見下ろさない。
「王妃様が、お目覚めを喜ばれております。朝食をご一緒にと」
「……はい」
頷きながら、ノエリアは少しだけ肩の力を抜いた。
王妃の部屋は、陽の入りが良い。
花を好む人らしく窓辺には季節の草花が欠かさず置かれている。
「おはよう、ノエリア」
柔らかな声が迎えた。
王妃は椅子から立ち上がり、彼女を手招きする。
「昨夜は、また書庫に?」
「……少しだけ」
「叱られる顔をしていないわね」
王妃は微笑んだ。
「大丈夫。あの子が一緒だったのでしょう」
ノエリアは返事に困り、曖昧に笑った。
王妃は彼女の髪を整えるように指を伸ばす
その仕草は母親そのものだった。
「あなたはね、ここに“置かれている”のよ」
「……置かれている?」
「守るために」
ノエリアは、はっと顔を上げた。
「私は、危ないんですか?」
「いいえ」
王妃は即座に否定する。
「あなたが“壊れないように”、周りが気をつけているだけ」
その言葉は優しかったが意味は掴めない。
「昔ね」
王妃は、窓の外に視線を移した。
「あなたのように本や記録に強く引かれる子がいたの」
ノエリアの胸が、微かに鳴った。
「その子は、覚えすぎた。知りすぎて、整理できなかった」
王妃は言葉を選びながら続ける。
「だから、誰かがそばにいる必要があった。でも……それが遅かった」
沈黙が落ちた。
ノエリアは、手元のカップを見つめる。
「……私は、同じですか?」
王妃は少し考え、それから首を振った。
「あなたは、まだ“途中”。だからここにいる」
その時、扉がノックされた。
「母上」
現れたのはアスベルだった。
王妃は表情を和らげる。
「ちょうどよかった。朝食は一緒にどう?」
「ええ」
王子はノエリアの向かいに座り、ちらりと彼女を見る。
「昨日の本、どうだった?」
「……続きを書きたくなりました」
正直な答えだった。
アスベルは小さく息を吐く。
「やっぱり」
「悪い意味じゃないでしょう?」
「悪いかどうかは、これから決まる」
その言葉に王妃が静かに口を挟む。
「だから、あなたがいるのよ。アスベル」
王子は黙って頷いた。
ノエリアは二人のやりとりを見つめながら、自分が“守られている”という感覚を初めて実感した。
その日の午後、彼女は一人で中庭を歩いていた。
城の中心にある噴水は、絶えず水音を立てている。
その音に混じって、時折、別の“ざわめき”が聞こえる気がした。
「……?」
立ち止まる。
誰かが呼んだような 呼ばなかったような。
ノエリアは耳を澄ませたが、音はすぐに水に溶けた。
ただ、胸の奥に
言葉にならない感覚が残る。
ここにいる理由は、まだ分からない。
けれど、ここにいるべきだという力だけは、確かに働いていた。
それが誰の意思なのか――
ノエリアは、まだ考えもしなかった。




