第十九章 神が語る「忘れられないもの」
夜の書庫は昼とはまったく違う顔をしていた。
灯りは最小限。
紙と革とインクの匂いが時間そのもののように沈殿している。
ノエリアは一人でそこにいた。
王妃の言葉がまだ胸の奥で温度を持っていた。
「花嫁」という言葉が縛りではなく選択だと告げられた夜。
だからこそ、彼女はここへ来た。
書庫の最奥。
神凪だけが立ち入れる小さな円形の間。
壁一面に並ぶのは、書ではない。
封じられた「声」だった。
語られ、記され、けれど誰にも読まれなくなった記憶。
神に渡されたまま整理されることのなかったもの。
ノエリアは中央に立つ。
「……セファ=ノア」
名を呼ぶと空気がわずかに歪んだ。
音はない。
だが、意識の奥がひらく。
『呼ばれるたびに思う』
低く、重なり合う声。
一つではない。それでも確かに「彼」だった。
『お前は、いつも夜に来る』
「昼は、皆がいますから」
ノエリアは答える。
「夜は…あなたの声が、はっきり聞こえる」
沈黙が落ちた。
その沈黙は、拒絶ではない。
記憶を掘り起こす時間だった。
『……恐れているか』
問いは、唐突だった。
ノエリアは少し考え、正直に答える。
「はい」
『何を』
「忘れられないことを」
空気が、わずかに重くなる。
『それは神の恐れだ』
セファ=ノアの声は、淡々としていた。
『人は忘れる。だから、前に進める』
ノエリアは、そっと指を握る。
『だが、私は忘れない』
声に、かすかな歪みが混じる。
『喜びも、怒りも、祈りも、裏切りも、後悔も』
一つひとつが、同じ重さで積み重なる。
『それが、世界の均衡だと教えられた』
ノエリアは、ゆっくり言葉を選んだ。
「それで、壊れかけたのですか?」
間があった。
長い、長い間。
『壊れる、という言葉は正確ではない』
声は、静かだった。
『私は、溺れている』
ノエリアの胸が、きゅっと締まる。
『忘れられないものが多すぎて、どれが“今”なのか分からなくなる』
彼女は、無意識に一歩踏み出していた。
「だから、神凪が必要なのですね」
『ああ』
肯定は、短かった。
『お前たちは、語る』
「…はい」
『出来事に順序を与え、感情に名前をつけ“終わったもの”を終わらせる』
ノエリアは、唇を噛む。
「……でも、それは」
言葉が、震えた。
「忘れさせることと同じではありませんか?」
書庫の空気が、張りつめる。
『違う』
否定は、即座だった。
『忘却は、消失だ。語りは、整理だ』
セファ=ノアの声が、少しだけ低くなる。
『抱えたまま次へ進むための』
ノエリアは目を閉じた。
王妃の言葉が重なる。
――選び続ける存在。
「……私は」
彼女は、ゆっくりと言った。
「あなたの記憶を全部は救えません」
『知っている』
「整理するたびに、あなたが失うものもきっとある」
『それも、知っている』
ノエリアは、胸に手を当てる。
「それでも、いいのですか?」
沈黙。
深い、海の底のような静けさ。
やがて。
『お前が選び続けるなら』
その言葉は、祈りに近かった。
『私は溺れずに済む』
ノエリアは、息を吸う。
「……私が、あなたを愛することはありません」
それは、制度の言葉だった。
そして、彼女自身の誓いだった。
『知っている』
それでも、声は穏やかだった。
『だが、お前がここにいる。それだけで私は救われている』
ノエリアは目を開ける。
書庫の壁に並ぶ無数の声。
それらが、ほんのわずかに静まった気がした。
「……では、始めましょう」
彼女は、語り部として告げる。
「今日の記憶を」
神は、応えなかった。
けれど、拒まなかった。
それが、この国の信仰だった。
忘れない神と、抱え続ける人。
花嫁とは、その境界に立つ者の名だった。




