第十五章 母という立場
王妃は夜更けの城を好まなかった。
灯りの落ちた回廊は思考を深くしすぎる。
それでも、この夜は眠れず足が自然と動いていた。
王妃の私室の窓からは庭園が見える。
月光に照らされた白い花が風もないのに揺れていた。
「……ノエリア」
名を口にしただけで胸が締めつけられる。
神凪。
国に選ばれ、神に選ばれ、そして――息子の婚約者。
そのすべてが彼女を誇らしくも不安にもさせた。
王妃は若い頃から神凪という存在を見てきた。
神殿に迎えられ、称えられ、やがて――消えていく人々を。
誰も、口にはしない。
だが、王妃は知っている。
神凪は長くは生きられない。
それが身体の問題なのか、心の問題なのかは、わからないまま。
扉を叩く音がした。
「母上」
アスベルの声だった。
「入りなさい」
息子は少し疲れた表情で部屋に入ってくる。
「遅くまで起こしてしまって、すみません」
「構いませんよ」
王妃は彼を座らせ、温かい茶を注いだ。
「神殿と話してきたのですね」
アスベルは頷く。
「止めるつもりはありません。ただ」
王妃は、言葉を選ぶ。
「あなたは王子である前に人です。その重さを一人で背負う必要はありません」
アスベルは、少し苦笑した。
「でも背負わなければならない立場です」
「それでも」
王妃は、息子の手にそっと触れる。
「あなたが選んだ“守る”という行為は間違っていません」
その言葉に、アスベルの肩から力が抜けた。
「……ありがとうございます」
王妃は、視線を窓の外へ向ける。
「私は、あの子を神に渡したくない」
その声は、王妃ではなく、母だった。
「国のためでも信仰のためでもなく…ただ、生きていてほしいのです」
沈黙が落ちる。
アスベルは、ゆっくりと言った。
「ノエリアは覚悟しています」
王妃は目を閉じる。
「覚悟があるからといって、奪っていい理由にはなりません」
その夜、王妃は神殿へ密書を送った。
それは命令でも交渉でもない。
警告だった。
――神凪を、道具として扱うなら、王家は沈黙しない。
一方、神殿の奥。
書庫の最深部で、ノエリアは一人、記録に向き合っていた。
古い羊皮紙。
歴代の神凪が残した、断片的な言葉。
震える文字、途中で途切れた記録。
「ここまで、覚えてしまうんですね」
誰にともなく、呟く。
その時、空気が微かに歪んだ。
声ではない。
けれど、確かに“存在”がそこにあった。
――ノエリア。
名を呼ばれた気がした。
彼女は、顔を上げる。
「……セファ=ノア?」
返事はない。
だが、胸の奥に重たい何かが流れ込む。
忘れられなかった感情。
語られなかった記憶。
それらが彼女を通して動き始めていた。
王妃の恐れも、王子の選択も、神の重さも―
すべてが、ゆっくりと絡み合っていく。
それはまだ、悲劇ではない。
けれど、誰かが守ろうとした瞬間から物語はもう後戻りできなくなっていた。




