第十四章 婚約者としての選択
朝の城は、音が多い。
扉の開閉、靴音、遠くで交わされる指示の声。
それらすべてがアスベルには「日常」だった。
だが今日は胸の奥が落ち着かなかった。
王子の執務室には窓から柔らかな光が差し込んでいる。
机の上には神殿から届いた文書が一通。
――神凪ノエリアに関する今後の取り扱いについて。
言葉は丁寧だ。
だが行間にあるのは「管理」と「制限」の提案だった。
アスベルは文書を閉じ、深く息を吐く。
「……そうなるか」
背後で、控えていた近衛が一歩下がる。
この話に立ち会わせるつもりはなかった。
アスベルは立ち上がり、窓辺に向かった。
城下が見える。
書と歌の国は今日も穏やかに息づいている。
「神凪は神のものではない」
その言葉は誰に向けたものでもない。
彼は幼い日の記憶を思い出していた。
ノエリアが書庫の片隅で眠ってしまった午後。
羊皮紙の匂いに包まれ細い指で文字をなぞっていた姿。
――覚えていることが、苦しくなる日が来る。
彼女はそう言った。
その意味を当時はわからなかった。
だが今なら少しだけ理解できる。
アスベルは神殿へ向かった。
回廊は相変わらず静かだ。
だが、今日はその静けさが重く感じられた。
「王子」
神官の一人が声をかける。
年若いが制度を重んじる人物だ。
「神凪殿の件でしょうか」
「そうです」
アスベルは足を止める。
「私は彼女の婚約者です」
神官は頷く。
「国としても、その立場は重く受け止めています」
「ならば聞いてほしい」
アスベルは視線を逸らさなかった。
「彼女は道具ではない。神と国を繋ぐ存在である前に一人の人間です」
「それは理解しています」
だが、神官の声は揺れない。
「だからこそ感情は危険です」
「危険なのは感情そのものですか?」
アスベルは静かに問う。
「それとも制御できないと決めつけることですか」
一瞬、神官が言葉を詰まらせる。
「神が依存すれば、国は揺らぐ」
「では、逆に問います」
アスベルは一歩踏み出した。
「神が壊れれば国は守られるのですか」
沈黙。
それは答えの出ない問いだった。
アスベルは深く一礼する。
「私は婚約者として、彼女を守ります。それが神殿の意向と相反しても」
その言葉は、宣言だった。
その夜、アスベルはノエリアを城の中庭に呼んだ。
月明かりが石畳を淡く照らしている。
「急に呼び出してごめん」
「いいえ」
ノエリアは首を振る。
「何か、あったの?」
アルベルトは少し迷ってから言った。
「神殿が君を囲い込もうとしている」
ノエリアは、驚かなかった。
「そっか…そうだと思ってた」
「怖くないのか?」
問いは率直だった。
ノエリアは少し考え、答える。
「怖いよ。でも」
彼女は、まっすぐ彼を見る。
「一人じゃない、と思えるから」
アスベルの胸が、わずかに痛んだ。
「……君は」
言葉を選びながら続ける。
「神のために生きると決めているのか」
ノエリアは、首を振った。
「まだ、決めてない」
その答えに、彼は救われた気がした。
「なら」
アスベルは、はっきりと言う。
「決める前に君のそばにいる。婚約者として、それ以外の理由は要らない」
月の光が、二人の影を重ねる。
それは、誓いではない。
だが、選択だった。
神ではなく、制度でもなく
人として、人を守るという選択。
その選択がやがて、国と神を揺らすことを、この時の二人は、まだ知らない。




