第十三章 記憶する神のためらい
夜の神殿は静かだった。
灯りは落とされ、記録庫の奥でだけ、微かな光が揺れている。
ノエリアは、長い机の前に座っていた。
書を開いているわけではない。
ただ、そこに在る記録の気配を感じている。
ここに来てから、眠りが浅い。
夢を見る前に誰かの声が重なる。
自分のものではない感情が胸の奥に沈殿する。
「……大丈夫」
そう呟いた声は、誰に向けたものだったのか。
そのとき、空気が変わった。
重く、しかし拒絶のない感触。
水に沈むのとは違う
思考そのものが触れられる感覚。
『ノエリア』
名を呼ばれる。
神殿のどこにも姿はない。
けれど、確かに“在る”。
「……セファ=ノア」
記憶神は、すぐには応えなかった。
無数の書頁が一斉にめくられるような音。
それは時間の音だった。
『今日、会議があった』
「……知っています」
ノエリアは嘘をつかなかった。
「王子が話していました。神官たちと」
沈黙。
『君はどう思う』
問いは珍しく曖昧だった。
ノエリアは一瞬、言葉を探す。
「正しいかどうか、わかりません。でも……」
胸に手を当てる。
「私はここにいます。神のためだけじゃなく、国のためだけでもなく」
少し、間を置いて。
「……私自身として」
記憶神の気配が、揺れた。
『それは、重い』
「え?」
『君がそう在ることは重い。記録に残らないものを私は扱えない』
ノエリアは、はっと息を呑んだ。
「……感情、ですか」
『選択だ』
静かな声だった。
『忘れられないものを、私はすべて抱えてきた。だが、君は違う。君は選ぶ』
記憶神は、初めて“躊躇”した。
『君がここに居続ければ、私は……整理される。だが同時に、依存する』
ノエリアの指が、わずかに震える。
「それは……いけないことですか」
『神としては正しくない。だが――』
言葉が、途切れた。
記憶神は世界が始まって以来、数え切れない神凪と対話してきた。
だが、神凪の在り方に迷いを覚えたことはなかった。
今回が初めてだった。
『君がいなければ私は溺れる』
その告白は記録ではなく感情だった。
ノエリアは、目を伏せる。
「それでも私は逃げません」
記憶神が微かに息を詰める。
「私が語ることで、あなたが保たれるなら。
それが神凪の役目なら」
そして、小さく付け加えた。
「でも……あなたが壊れるほどなら、私は」
言葉を、飲み込んだ。
『続きを』
「……いいえ」
ノエリアは、はっきりと首を振った。
「まだ、言えません」
沈黙が落ちる。
だが、それは拒絶ではなかった。
『……わかった』
記憶神は、珍しく引いた。
『君の沈黙も記録しておこう』
その言葉にノエリアは少しだけ笑った。
「それ、ずるいです」
『神は、ずるい』
淡々とした答えだった。
だが、その奥に確かに“揺れ”があった。
その夜、記録庫の奥で一つだけ書き換えられない頁が生まれた。
神が、神凪を必要としているという事実。
それは、まだ誰にも知られていない。
だが確実に物語の均衡を崩し始めていた。




