第十一章 王子であることは選ぶことではない
王城の執務室は夜になるとひどく静かだった。
昼間は報告と命令が行き交い、紙と声に満ちている場所だが、今は暖炉の火が小さく鳴るだけで時間がゆっくりと流れている。
アスベルは、机の前に立っていた。
向かい側には国王が座っている。
書類に目を落としたまま、息子を見ようとはしない。
その態度が、逆に緊張を強めていた。
「神殿の記録が始まったそうだな」
先に口を開いたのは国王だった。
問いではなく、事実確認の声だった。
「はい」
「ノエリアは?」
「……落ち着いています」
国王はそこで初めて顔を上げ、アスベルを見た。
その目には父としての感情よりも、統治者としての冷静さが色濃く宿っている。
「それは良い。壊れては困る」
アスベルの指先が、わずかに強張った。
「父上」
「言いたいことがあるなら、言え」
許可は、簡潔だった。
「神凪は記録される存在です。でも……それだけではありません」
国王は黙っている。
「ノエリアは考えています。理解しようとしています。神のことも、国のことも、自分の立場も」
アスベルは一歩踏み出した。
「だからこそ、彼女を“手順”として扱うのは――」
「それ以上は誰に向けた言葉だ」
国王の声は低く、遮るようだった。
アスベルは言葉を詰まらせる。
誰に向けたものか。神官か。神か。
それとも、王である父か。
「……私自身です」
ようやく、そう答えた。
国王はしばらく黙り、やがて椅子にもたれた。
「アスベル。お前は王子だ」
「承知しています」
「王子であることは選ぶことではない。生まれた時点で、すでに背負っている」
その言葉はノエリアが感じた“決まっていた流れ”とよく似ていた。
「だがな」
国王は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「背負い方は選べる」
アスベルは息を呑んだ。
「神殿は神凪を管理する。国は神凪を守る。だが、人として寄り添う者がいなければ、どちらも空になる」
「それを、私にやれと?」
「お前以外に誰がいる」
国王は静かに言った。
「私は王だ。神官を押さえることはできる。だが、日々の言葉までは与えられない」
アスベルは、深く頭を下げた。
「……承ります」
「ただし」
国王の声が鋭くなる。
「神と競うな。神を否定するな。お前が守るのは、ノエリアの“人としての場所”だけだ」
その夜、アスベルは神殿へ向かった。
許可は必要なかった。
王子であることは、時に重く、時に便利だった。
回廊の先、灯りの落ちた書庫にノエリアはいた。
膝の上に本を広げ、だが文字は追っていない。
「……アスベル?」
声に気づいて、彼女が顔を上げる。
「どうしたの、こんな時間に」
「話したかった」
それだけで、十分だった。
アスベルは彼女の向かいに腰を下ろし、しばらく黙ってから言った。
「君は、選ばれたわけじゃないと言った」
ノエリアはうなずく。
「でも」
アスベルは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「選ばれていなくても君はここにいる。ここにいることを俺は否定しない」
「アスベル……」
「神が君を必要とするなら、それは神の問題だ。国が君を必要とするなら、それは国の問題だ」
彼は、まっすぐに彼女を見た。
「でも、君が人であることは俺の問題だ」
ノエリアの目が、わずかに揺れる。
「私、迷ってる」
「いい」
「怖い」
「当然だ」
アルベルトは、迷いなく言った。
「それでも君が君でいられる場所を俺は用意する。王子として、婚約者として、幼なじみとして」
彼女はしばらく黙ってから、小さく笑った。
「……ありがとう」
その夜、ノエリアは久しぶりに少しだけ眠れた。
神がすべてを覚えている世界で人が忘れずに寄り添うことが、まだ許されていると知ったから。




