第一章 名を持たぬ記憶は頁の奥に眠る
王城の北塔にある書庫は昼でも薄暗かった。
窓は高く、光は埃を避けるように斜めに差し込む。人の出入りが少ない場所だから、足音も自然と小さくなる。
ノエリアは、古い木の梯子を静かに動かし、棚の中ほどに手を伸ばした。
革張りの背表紙はすり切れ、題名は半分ほど消えている。触れただけで、紙の古さが指に伝わった。
「……これ、まだ残ってたんだ」
独り言のように呟いて、本を引き抜く。
ぱらりと頁をめくると、途中で文章が途切れていた。破れたわけでも、焼けたわけでもない。ただ、そこから先が“書かれていない”。
ノエリアはしばらく、その空白を見つめた。
「……違う」
理由は分からない。
でも、このままでいいはずがない、という感覚だけが胸に残った。
「ここは……そうじゃない」
気づけば、彼女は言葉を口にしていた。
「この後、民は戻らなかった。でも嘘じゃない。戻らなかった理由が書かれていないだけ……」
自分でも不思議だった。
読んだ覚えはない。誰かに教えられたこともない。それなのに、続きが“分かる”。
――カツン。
背後で、軽い足音がした。
「また、勝手に入り込んでる」
振り返ると、書庫の入口に少年が立っていた。
明るい茶色の髪に、王家の紋を刻んだ簡素な上着。
年はノエリアと同じくらいだが、姿勢には妙な落ち着きがある。
「アスベル」
名を呼ぶと、少年 王子は肩をすくめた。
「父上に見つかったら叱られるぞ。ここは“まだ”自由に使っていい場所じゃない」
「でも、あなたが鍵をくれたんでしょう」
「…それは、君が本を粗末にしないからだ」
アスベルは近づき、彼女の手元を覗き込む。
「また、途中で終わってる記録?」
ノエリアは頷いた。
「変なの。ここ、絶対に続きを書くはずだった」
「歴史書なんてそんなものだ。都合の悪いことは途中で消える」
淡々とした言い方だったが、どこか苦味があった。
ノエリアは本を閉じ、そっと胸に抱えた。
「……消えたんじゃないと思う」
「どういう意味?」
「“置いてきた”感じがするの。忘れたわけじゃなくて……後回しにした、みたいな」
アスベルは一瞬、言葉に詰まった。
「それ、誰かに教わった?」
「ううん」
ノエリアは首を振る。
「昔から、こういう本を見ると……胸がざわつくの」
王子は彼女の横顔を見つめた。
淡い銀色の髪は肩にかかり、光を受けて静かに揺れている。瞳は深い藍色で、感情を隠すのが下手だ。
「……やっぱり、城に呼んで正解だった」
「それ、また王妃様に言われた?」
「半分はね」
アスベルは苦笑した。
「母上は君を“城の娘”だと思ってる。だから書庫に通うのも、勉強も全部許されてる」
「私は、ただの村の子なのに」
「“ただ”じゃない」
言い切る声だった。
「君は、物事を“覚えすぎる”。それは時々……危うい」
ノエリアは、その言葉の意味を理解できなかった。
けれど胸の奥で何かが静かに動いた気がした。
その時だった。
書庫の奥、誰もいないはずの棚の間で、紙が擦れるような音がした。
二人は同時に振り向いたが、そこには何もない。
ただ、空気がわずかに重くなったような感覚だけが残る。
「……今の、聞こえた?」
ノエリアが小さく尋ねるとアスベルは首を振った。
「いや。でも……」
王子は言葉を切り、書庫を見渡した。
「今日は、ここまでにしよう。風邪を引く」
ノエリアは頷き、本を元の棚に戻した。
背表紙に触れた指先が、ほんの一瞬、熱を帯びた気がしたが――理由は分からない。
二人が書庫を出たあとも、その巻だけは静かに頁を震わせていた。
忘れられた記憶が呼吸を始めたことを
まだ誰も知らない。




