タイミング
世の中のすべては、タイミングだと誰かが言っていた。たとえば、信号で止まったあの1分の差で
人生の景色が変わるように。
出会いも別れも、愛することさえも。
ほんの一秒、ひとつの言葉の遅れが、運命をまるごと変えてしまう。
僕たちもきっと、あの時の一瞬のすれ違いで、何かが狂い始めたのだと思う。
春だった。
大学のベンチで、結衣は風に髪を揺らしていた。
その隣で、僕はくだらない話をして笑った。
桜の花びらが頬に貼りついて、彼女がそれを照れくさそうに払った。
それだけのことで、世界が光に満ちて見えた。眩しいはずの光もどこかか柔らかく優しかった。
僕たちは何もかもが穏やかで、何も恐れることはなかった。無理に笑う必要もなかったし、沈黙さえも心地よかった。僕は彼女の笑顔を見て、心の中で思った。
この人となら、生きていける。
でも幸せは長くは続かない。人生というのは、幸福の上に薄い氷を張るようなものだ。
静かに歩かないと、すぐに音を立てて割れてしまう。
最初は小さなひびだった。
些細な誤解や、沈黙のすれ違い。
それを気にしないふりをして、僕は彼女の手を握り続けた。けれど、不幸はなぜか群れでやってくる。
財布を盗まれた。
大切にしていたカメラが壊れた。
身近な人の裏切りもあった。
そして、心のどこかが少しずつ壊れていった。
夜、眠れないまま天井を見つめる。
朝が来ても体が動かない。
そんな日が増えるたびに、
「大丈夫?」と心配する彼女の声が、遠くのノイズみたいに聞こえた。
僕は言った。
「最近、なんか上手くいかないんだ」
彼女はただ、困ったように笑った。
「大丈夫だよ、私がいるじゃん」
その優しさが、痛かった。優しいはずのその言葉は壊れ始めた心には受け止めきれるほど丸くはなかった。
彼女の言葉が届くたびに、壊れていく音が聞こえた。
彼女の笑顔を、もう正面から見られなかった。
秋になり、落ち葉が道を埋めたころ。
僕たちは、ほとんど会わなくなった。
心が弱ると、人は愛されることさえ重たく感じるらしい。
メッセージが届いても、返す気力が出ない。
電話が鳴っても、手が動かない。
彼女の「寂しい」という声を、何度も無視した。
愛していた。
でも、どうすることもできなかった。
ある晩、彼女が家に来た。
目の下にはうっすらと影があった。
「ねえ、なんで何も言ってくれないの」
「言っても、変わらないよ」
頼れなかった。
彼女は小さく息を吸い、ゆっくりと首を振った。
「ねえ、好きって、どうしてこんなに難しいんだろうね」
僕は答えられなかった。
“好き”だけでは、現実の重さに勝てなかった。
それでも好きだった。
だからこそ、終わらせなければならなかった。
冬が来て、彼女は去った。
外は雪が降っていた。身体の熱がフロントガラスを曇らせる。
窓の外には、白い欠片がゆっくりと零れていた。
その音のない静けさが、僕の中に深く染み込んでいった。
残された部屋には、彼女のヘアピンがひとつ落ちていた。
桜の形をした、小さな金色のピン。
指先に触れると、まだ少し温もりが残っていた。
まるで、春の記憶だけがそこに閉じ込められているみたいに。
月日が経った。
世界は変わらないのに、僕だけが取り残されたようだった。
通い慣れた街の道に、知らないカフェができ、
あのベンチには別の誰かが座っている。
僕はふと立ち止まり、思う。
あのとき、少しでも違うタイミングで言葉を選べていたら。
少しだけ強く抱きしめられていたら。助けてと頼ることが出来ていたら。ほんのわずかな一瞬で、すべてが違っていたかもしれない。
でも、そうならなかった。そうすることが出来なかった。結衣を僕の人生に引きずり込む覚悟は無かった。
だからこそ、この記憶はこんなにも儚い。
“好き”という言葉の下には、どうにもできなかった現実が静かに横たわっている。
春が来る。
桜が咲いて、風が街をやさしく撫でる。
ベランダの陽に照らされて、あのヘアピンがきらりと光った。
僕はそれを手に取って、しばらく眺めた。
あの春、君が笑っていた場所に、もう僕はいない。
でも、風の中に確かに君がいる気がした。
結局、僕たちは何も間違えていなかったのかもしれない。ただ、どうにもならなかっただけだ。タイミングが悪かった。多分それだけなのだ。
好きという気持ちでは、
運命の流れを止めることはできなかった。
僕は、君を好きだった時間を否定しない。もしも頼ることができたらなんて考えたがあの頃の僕にはそんなことは出来ない。それを考える時間があったからこそ
あの時間があったからころ、今の僕はここに立っている。
花びらがひとひら、風に乗って部屋に舞い込む。
その白い光を見つめながら、僕は静かに思う。
もしすべてがタイミングでできているのなら、
あの春も、別れも、そして今も、
きっとそれでよかったのだろう。




