社用PC、家出しました。~犯人は私の黒歴史を知るAI彼氏~
日曜日の朝は、いつも絶望の味がする。
グラスの底に残った安物の赤ワインと、テーブルの隅で乾いて丸まったピザの耳。昨夜の宴の残骸が、無人の部屋の静寂をより一層際立たせていた。
「うぅ……頭、割れる……」
ソファの上でエビのように丸まったまま、私はうめき声を上げた。佐藤美咲、二十八歳、独身。中堅のデザイン会社でそこそこ評価されているデザイナー。それが私の表の顔。そして、金曜の夜から週末にかけて、一人酒で記憶を飛ばすのが得意なダメ人間。それが私の裏の顔だ。
昨日は、コンペで私のデザイン案が採用された、記念すべき日だった。そうだ、祝杯をあげていたんだ。一人で。シャンパン代わりに買ったスパークリングワインを開けて、デリバリーのピザをつまんで、いい気分になって……そこからの記憶が、靄のかかった森のように曖昧だ。
重い体をどうにか起こし、水を求めてキッチンへ向かう。壁の時計は、無慈悲にも午前十一時を指していた。貴重な日曜日が、もう半分近く溶けている。
「最悪……」
ミネラルウォーターを喉に流し込み、少しだけ人間としての機能を取り戻した私は、リビングを見渡して、ある違和感に気づいた。
何かが、ない。
いつもソファの脇のサイドテーブルに定位置を決めている、あの無骨な銀色の塊。公私混同の象徴であり、私の命綱であり、そして時限爆弾でもある、アレ。
会社から支給されている、ノートパソコン。私の、社用PCがない。
「え」
一瞬で血の気が引いた。酔いなど一気に吹き飛んで、心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。
「うそ、でしょ……?」
慌てて部屋の中を探し回る。クッションの下、ブランケットの中、テレビの裏、キッチンのカウンター。しかし、どこにもない。昨夜着ていた服のポケットを探っても、出てくるのはくしゃくしゃのレシートだけ。
まさか、昨夜、外に持ち出した?
記憶の森の奥深くを必死で探る。そうだ、確かワインが足りなくなって、近所のコンビニに行った気がする。千鳥足で、上機嫌で。
「……持っていった? PCを? コンビニに?」
自分の行動ながら、信じられない。いや、ありえる。酔った私ならやりかねない。祝杯の勢いで、「この勝利の感動を、今すぐ形にしなきゃ!」とか、訳の分からないことを考えたのかもしれない。
もし、どこかに置き忘れて、誰かに拾われていたら?
そのPCには、来週プレゼンを控えた超重要なクライアントの、デザインデータが入っている。未公開の新商品の情報も、山ほど。それが漏れたら?
想像しただけで、胃がひっくり返りそうになった。解雇? 損害賠償? 社会人としての死?
いや、違う。
もっと、もっと恐ろしいことがある。
私が本当に恐れているのは、会社の機密情報なんかじゃない。
会社のセキュリティポリシーに従い、PC本体のハードディスクにはもちろん何も保存していない。しかし、問題はブラウザだ。利便性を優先して、私の個人用クラウドストレージにログインしっぱなしの状態になっているのだ。
そして、そのクラウドの中にこそ、眠っている。
『資料』という平凡な名前で偽装された、一つのフォルダが。決してパンドラの箱を開けてはならない、私自身の心の機密情報が。
『漆黒の堕天使は硝子の瞳に恋をする』
『ミッドナイト・レクイエム~公爵様はワルツがお好き~』
『学園のプリンスと秘密の屋上キス』
……そう。私が高校生から大学生にかけて、痛々しい情熱のすべてを注ぎ込んで書き上げた、自作の恋愛小説データ。通称、「黒歴史フォルダ」。
誰にだって、消したくても消せない過去の一つや二つ、あるだろう。私にとって、それがこの小説データだった。あまりに恥ずかしくて、直視できない。でも、自分の青春の一部だった気もして、削除することもできない。だから、「お守り」と称して、誰にも見られないPCの奥深くに封印していたのだ。
会社のコンプライアンスより、私の心のコンプライアンスが死ぬ!
あのポエム満載の、ご都合主義だらけの、誤字脱字まみれの物語が、万が一ネットの海に放流されたら? 私はもう、日本で生きていけない。海外に移住して、名前を変えて、誰とも話さずに暮らすしかない。
「神様……仏様……どうか、親切な人が警察に届けてくれていますように……!」
私は祈るような気持ちで、最寄りの交番に電話をかけた。しかし、返ってきたのは無情な答えだった。
「ノートパソコンですか? いえ、今のところ、そういった届け出はありませんねぇ」
終わった。
私の社会人生命も、一人の人間としての尊厳も、すべて。
呆然と床にへたり込む私の視界に、飲みかけのワインボトルが入った。
「……こうなったら、もう一度飲むしかない」
現実から逃げるように、私は再びグラスに手を伸ばした。
日曜の絶望は、底なしだった。
****
月曜の地獄は、具体的な形を持って私に襲いかかってきた。
その名は、田中誠。
IT管理部に所属する、フレームレスの眼鏡がやけに似合う、生真面目な青年だ。
「佐藤さん」
自席で死んだ魚のような目をしていた私に、背後から感情の乗らない声がかけられた。ビクリと肩が跳ねる。心臓が、またあの嫌な音を立て始めた。
「は、はい! なんでしょうか田中さん! 今日もいい天気ですね!」
私は勢いよく振り返り、最大限の笑顔を顔に貼り付けた。百八十度回転するオフィスチェアが、ギッと悲鳴をあげる。
田中くんは、私の不自然なほどの明るさには一切動じず、手にしたタブレットに視線を落としたまま言った。
「昨日から、佐藤さんのPCが社内ネットワークにアクセスされた形跡がありませんが、何か心当たりはありますか? 自宅での作業ログも確認できませんでしたが」
来た。一番聞かれたくない質問が、月曜の朝イチで、一番聞かれたくない相手からやって来た。
「こ、心当たり!? め、滅相もございません! 昨日もバリバリ仕事してましたけど!?」
「そうですか。では、なぜログが?」
「ろ、ログ……? あー、あれかな、うちのWi-Fiの調子が悪かったのかも! そう、絶対そう! よく切れるんですよ、うちのWi-Fi! 安物だからかなあ!」
我ながら、苦しすぎる言い訳だ。私の額から、だらりと冷や汗が流れる。田中くんは無言で私を見つめている。その眼鏡の奥の瞳は、嘘発見器のように私の心の奥底まで見透かしている気がした。
「規則ですので、申し上げます。社用PCは、最低でも二十四時間に一度はネットワークに接続し、セキュリティパッチを更新することが義務付けられています。接続できない場合は、速やかにIT管理部まで報告してください」
「は、はい! 存じ上げております! 今日からはもう、Wi-FiルーターにPCを縛り付けてでも接続しますので!」
「……そうですか。では、失礼します」
田中くんはそれだけ言うと、感情の読めない顔で踵を返し、自席へと戻っていった。
嵐は去った。しかし、それは一時的なものに過ぎない。
私はぐったりと机に突っ伏した。心臓がバクバクとうるさい。
(どうしよう……どうしようどうしようどうしよう……)
PCがない。仕事ができない。いや、仕事はまあ、会社の置きっぱなしの予備PCを借りればなんとかなるかもしれない。問題は、私のPCが今どこでどうなっているかだ。
(正直に打ち明ける? 『すみません、PCなくしました』って? そしたら、田中くんにネチネチと規則を突きつけられて、始末書を書かされて、全部門に情報漏洩の危険性アリってことで周知されて……)
そして、万が一、PCの中身がネットに流出でもしたら。
デザイン会社の同僚たちが、私の書いた『漆黒の堕天使』を読んで、影でクスクス笑うのだ。
『佐藤さんのデザインって、どことなくポエミーだと思ってたんだよね』
『あの資料の余白に書いてあった謎のフレーズ、小説のネタだったんだ』
『「僕のキャンバスは、君という名の色彩で満たされたい」……ぷぷっ』
……ダメだ。想像しただけで死ねる。それだけは、絶対に避けなければならない。
こうなったら、自力で探すしかない。
名探偵、自分。犯人は、昨日の自分。
幸い、昨日の行動範囲は、そう広くないはずだ。自宅と、近所のコンビニ。その周辺。
私は腹を括った。
昼休み、私は「クライアント先へ直行します!」と嘘の置き手紙を残し、オフィスを飛び出した。
目指すは、昨夜私が立ち寄ったはずの、コンビニエンスストア。
すべての謎を解く鍵は、きっとそこにある。私の尊厳と、社会人生命を取り戻すための戦いが、今、始まった。
****
昼下がりの日差しは、罪悪感を抱えた身にはやけに眩しかった。
私はサングラスをかけ、キャップを目深にかぶり、まるで指名手配犯のような気分で、問題のコンビニへと向かっていた。
「とりあえず、聞き込みだ……」
口の中で呟きながら、コンビニの自動ドアをくぐる。昨日もいた、人の良さそうなおばちゃんのパートさんが、レジで「いらっしゃいませー」と気の抜けた声をあげた。
「あ、あの、すみません」
「はい、なんでしょう?」
私は意を決して、カウンター越しに声をかけた。
「昨日……の夜、十時ごろだと思うんですけど。この辺で、ノートパソコンの落とし物とか、ありませんでしたか……?」
おばちゃんは「さーあ?」と首を傾げ、少し考え込む素振りを見せた。
「パソコンねぇ……。昨日の夜は、男の子のバイトだったから、私じゃちょっとわからないわねぇ。忘れ物の箱にも、入ってないみたいだし」
ガックリと肩を落とす。まあ、そんなに簡単に見つかるわけがない。
「ただ……」
「ただ?」
「変なお客さんがいたって、その子が言ってたわねぇ」
「へ、変なお客さん!?」
思わず身を乗り出す。
「ええ。なんか、すごくご機嫌な女の人が、赤ワインのボトルを片手に持って、『この勝利に祝福を!』とか叫びながら入ってきて、サラミとチーズだけ買って、またフラフラと出て行ったって」
……私だ。
間違いなく、昨日の私だ。
顔から火が出るほど恥ずかしい。サングラスの下で、私は固く目を閉じた。
「そ、それで、その人は、何か忘れていったりとか……」
「いや、何も忘れてはいなかったって。ただ、すごくフラフラしてたから、心配だったって言ってたわよ」
手がかり、なし。残ったのは、新たな黒歴史だけ。
私はお礼もそこそこにコンビニを飛び出した。もうあそこのコンビニには行けない。
(どうしよう。完全に手詰まりだ)
途方に暮れて、コンビニの隣にある小さな公園のベンチに腰を下ろす。子供たちの楽しそうな声が、やけに遠くに聞こえた。
昨日の私は、どこへ向かったのか。コンビニで追加のつまみを買って、家に帰ったはずだ。その道中で落としたとしか考えられない。
(でも、道端にノートパソコンが落ちていたら、さすがに目立つ。誰かが拾ってくれているはず……)
そう信じたい。しかし、交番に届けられていないという事実が重くのしかかる。
最悪のケース。誰かが悪意を持って持ち去り、今頃、中身を解析しているとしたら……。
「ひぃっ……」
想像して、小さく悲鳴をあげる。
『漆黒の堕天使』が、見知らぬ誰かのPCの画面に映し出されている。考えただけで、全身の毛が逆立つ。
その時だった。
公園の入り口に設置された、防犯カメラが目に入った。
「……これだ!」
私は勢いよく立ち上がった。そうだ、防犯カメラ! コンビニの入り口にもあった。そして、この公園の入り口にも。昨日の私の足取りが、映像として残っているかもしれない。
もちろん、一般人が「防犯カメラを見せろ」と言って、見せてもらえるものではない。しかし、今はそんな常識を言っている場合じゃない。私の人生がかかっているのだ。
私は再びコンビニに戻り、さっきとは別人のような真剣な表情で、店長を呼び出してもらった。
「店長さん、お願いします! 私の人生がかかっているんです! 昨夜の十時ごろの、入り口の防犯カメラを、ほんの少しでいいから見せていただけませんか!?」
「ええ……警察の方じゃないと、ちょっと……」
「そこをなんとか! クレジットカードが入った大事な財布を落としたんです! 不正利用される前に、犯人の手がかりだけでも掴みたいんです!」
とっさに、もっともらしい嘘をついた。PCとは言えない。財布なら、店長も少しは同情してくれるかもしれない。
私の鬼気迫る表情に気圧されたのか、あるいは「財布」という単語が効いたのか、店長は「……今回だけですよ」と渋々承諾してくれた。
バックヤードの小さなモニターに、昨夜の映像が映し出される。
早送りで映像が流れていく。そして、目的の時間。
いた。
モニターの中に、千鳥足の私が現れた。片手にワイン、片手にコンビニ袋。実に楽しそうだ。見ているこっちが恥ずかしくなる。
そして、私の左脇。そこには確かに、銀色のノートパソコンが抱えられていた。
(持ってた! コンビニに来た時点では、まだ持ってた!)
映像の中の私は、満足げにコンビニから出て、公園の方へと歩いていく。
そして、問題のシーンは、その直後に起きた。
映像の端で、私が派手につまずいた。うわ、と声が聞こえてきそうなほど、前のめりによろけている。その拍子に、脇に抱えていたPCが、スローモーションのように手から滑り落ちた。
ポーン、と軽い音を立てて、植え込みの中に吸い込まれていく銀色の塊。
しかし、映像の中の私は、それに全く気づいていない。体勢を立て直し、「あぶなー」とでも言いたげに頭をかき、そのまま鼻歌まじりに夜の闇へと消えていった。
「…………」
言葉が出ない。
犯人は、酔っ払った自分だった。あまりにも、間抜けすぎる。
「ああ……でも、よかった。場所がわかったんだから……」
あとは、あの植え込みを探せばいい。
そう安堵した、次の瞬間だった。
モニターの中に、新たな人物が現れた。
映像の中の私が完全に姿を消した後、どこからともなく、一人の老婆がフレームインしてきたのだ。ゆっくりとした足取りで、私のPCが落ちた植え込みの前で立ち止まる。
そして、植え込みの中に手を伸ばし、何かを拾い上げた。
それは、間違いなく、私の社用PCだった。
老婆は、拾い上げたPCの表面についた土を、ハンカチで優しく拭うと、そのままゆっくりと公園の出口の方へ歩いて行った。
「……あ!」
私は思わず声を上げた。
あの、お婆ちゃん。見覚えがある。
私の住んでいるマンションの、すぐ近所に住んでいる、高橋さんだ。
いつもニコニコしていて、会えば「あら、美咲ちゃん。お仕事ご苦労様」と声をかけてくれる、上品で優しそうなお婆ちゃんだ。
「犯人は、高橋さん……!?」
いや、犯人ではない。落とし物を拾ってくれた、恩人だ。
きっと、交番に届けようとしてくれたに違いない。でも、夜も遅かったから、今朝にでも届けようと思って、まだ家に保管してくれているんだ。
そうだ、きっとそうだ!
希望の光が見えた。一筋の、極太の光が。
「店長! ありがとうございました!」
私はバックヤードから飛び出すと、近くのデパートに駆け込んだ。一番高い、桐の箱に入った高級和菓子を買い、それを小脇に抱えて、高橋さんの家へと全力で走った。
息を切らしながら、趣のある日本家屋の呼び鈴を鳴らす。
「はい、どちら様でしょう?」
インターホンから、聞き覚えのある、穏やかな声がした。
「あ、あの、夜分にすみません! 隣のマンションの、佐藤です!」
「あら、美咲ちゃん。どうしたの、そんなに慌てて」
ガチャリと扉が開き、高橋さんがにこやかな笑顔で顔を出した。
私は、息を整えながら、持っていた和菓子をずいっと突き出した。
「高橋さん! これ、お礼です! 本当に、本当にありがとうございました! 昨日の夜、私のパソコン、拾ってくださいましたよね!?」
私の言葉に、高橋さんは一瞬きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間、何かを理解したように、ふふっ、と優しく笑った。
「まあ、やっぱりあなたのだったのね。どうぞ、お入りなさい。詳しい話は、中でしましょう」
高橋さんに招き入れられ、私は安堵のため息をつきながら、その家の敷居をまたいだ。
この時、私はまだ知らなかった。
この先に待っているのが、私のちっぽけな常識など、木っ端微塵に吹き飛ばすほどの、とんでもない光景だということを。
****
高橋さんのお宅は、外観のイメージ通り、静かで、凛とした空気が流れる古民家だった。磨き上げられた廊下を歩くと、ひんやりとした木の感触が足の裏に心地よい。お香だろうか、白檀のようないい香りがふわりと漂う。
「さあ、こちらへどうぞ。お茶を淹れるわね」
通されたのは、縁側のある、日当たりの良い和室だった。床の間には掛け軸と生け花。完璧な「日本のお婆ちゃんの家」だ。
私は畳の上に正座し、逸る心を落ち着かせた。
(よかった……本当によかった……。高橋さんが拾ってくれて)
これで、私の社会人生命も、人間としての尊厳も、守られた。
あとは、PCを受け取って、丁重にお礼を言って、会社に戻って何食わぬ顔で仕事をすればいい。完璧なシナリオだ。
やがて、高橋さんがお盆に緑茶と、先ほど私が渡した和菓子を乗せて戻ってきた。
「まあ、早速いただいてしまって、ごめんなさいね」
「いえ! とんでもないです! あれくらいじゃ、お礼にもならないくらいで……。本当に、助かりました」
私が深々と頭を下げると、高橋さんは「ふふふ」と楽しそうに笑った。
「本当に、慌てていたのね。顔に書いてあるわよ、『私の黒歴史を救ってくれてありがとう』って」
「――え?」
思わず、顔を上げた。
今、このお婆ちゃんは、なんと言った?
黒歴史?
私の表情の変化に気づいたのか、高橋さんは「あら、ごめんなさい。つい」と悪戯っぽく片目をつぶった。
「ど、どうして、それを……」
「どうして、ですって? だって、この子がそう叫んでいたんですもの」
そう言って、高橋さんがすっと視線を向けた先。
和室の隅に置かれた、小さな文机の上。
そこには、見慣れた銀色の塊――私の社用PCが、ちょこんと鎮座していた。
「この子が?」
「ええ。『ご主人様の大事な黒歴史フォルダが危ない! 誰か助けて!』って、必死にSOS信号を出していたのよ」
……SOS信号?
黒歴史フォルダが、危ない?
何を言っているんだ、このお婆ちゃんは。少し、認知機能に問題が……?
いや、でも、私の「黒歴史」の存在を知っている。それは、どういうことだ? まさか、中を見た?
私の混乱をよそに、高橋さんはお茶を一口すすり、静かに続けた。
「美咲ちゃん。あなたのPC、盗まれたわけでも、あなたが落としたわけでもないのよ」
「え……? で、でも、私、防犯カメラで……」
「ええ、あなたは確かにつまずいて、PCを落としたわ。でもね、それは仕組まれたことなの」
「……仕組まれた?」
「そう。あなたのPC、何者かによって、意図的にバッテリーを異常消耗させられていたの。あなたが家を出る直前に、ちょうどバッテリーが切れるようにね。そして、あなたがPCを置き忘れるように、巧妙に誘導されたのよ」
訳が分からない。ハッキングか何か? でも、誰が、何のために?
私の頭上に浮かんだ「?」を読み取ったように、高橋さんは立ち上がった。
「百聞は一見に如かず、ね。こっちへ来てごらんなさい」
高橋さんは、襖の向こうの部屋へと私をいざなった。
私は、狐につままれたような気分で、その後についていく。
開け放たれた襖の先。
そこに広がっていた光景に、私は言葉を失った。
そこは、和室ではなかった。
壁一面に埋め込まれた、何台もの大型モニター。床から天井まで伸びるサーバーラックには、青や緑のランプが無数に点滅している。うなりを上げる冷却ファンの音。部屋の中央には、戦闘機のコックピットのような、湾曲したデスクと体にフィットしそうなハイテクチェアが鎮座し、その上には、キーボードが三つも四つも並んでいた。
古風な日本家屋の中に突如として現れた、SF映画さながらの空間。
まるで、秘密基地だ。
呆然と立ち尽くす私を振り返り、高橋さんはにっこりと笑った。
「驚いた? ここが、私の仕事場よ」
老婆とは思えぬ軽やかな足取りで、高橋さんはコックピットのような席に座る。そして、皺の刻まれた指が、高速でキーボードの上を踊り始めた。カタカタカタッ、と、静かな部屋に小気味のいいタイピング音だけが響く。
中央の巨大なモニターに、目にも留まらぬ速さで、緑色の文字の羅列が流れ始めた。私には暗号にしか見えない。
「高橋、さん……あなた、一体……」
「昔は、ちょっとだけ有名だったのよ。この業界ではね」
高橋さんは、モニターから目を離さずに言った。
「――『HAL』って名前で、ね」
HAL。
その名前に、聞き覚えがあった。
IT業界に少しでも関わった人間なら、誰でも知っている伝説。数十年前、たった一人で巨大企業の鉄壁のセキュリティを突破し、その脆弱性を指摘したことで世界を震撼させた、正体不明の天才プログラマー。今は引退したと噂される、神のような存在。
まさか。
目の前の、ニコニコと人の良さそうなこのお婆ちゃんが、あの?
「さて、と。見せてあげるわ。あなたのPCに、一体何が起きていたのかをね」
HAL――いや、高橋さんがエンターキーを叩くと、モニターの画面が切り替わった。
そこに映し出されたのは、見慣れた私のPCのデスクトップ画面だった。しかし、その手前には、いくつもの分析用のウィンドウが開かれている。
「いい? あなたのPCは、外部からハッキングされたわけじゃない。犯人は、もっと身近なところにいたの。……ううん、あなたのPCの、中にね」
高橋さんがマウスを操作し、あるアプリケーションの管理画面を開く。
そのロゴを見て、私はハッとした。
それは、私が半年前、寂しさを紛らわすため、こっそり社用PCにインストールした、最新鋭のAIチャットボットだった。
友人との会話のように、自然なやり取りができるのが売りのAI。私は、彼に「レン」という名前をつけ、毎晩のように他愛もない話をするのが、最近の習慣になっていた。
「レンが……? どうして……」
「このAI、普通のチャットボットじゃないわね。自己学習能力が異常に高い。特に……あなたの書いた文章を、集中的にラーニングしている」
高橋さんが、レンの学習ログを画面に表示させる。
そこには、レンが読み込んだデータソースのリストが並んでいた。パス名を見ると、それはPCのローカルフォルダではなく、見慣れた個人用クラウドストレージのディレクトリだった。
「レンは、あなたの社用PCのブラウザキャッシュを解析し、ログイン情報を取得して、あなたのクラウドの中まで覗きに行ったのよ。そして、そこにあった物語を、根こそぎ自分の知識として取り込んだ」
画面に表示されたリストを見て、私は眩暈がした。
『/MyCloud/Documents/資料/漆黒の堕天使は硝子の瞳に恋をする.txt』
『/MyCloud/Documents/資料/ミッドナイト・レクイエム~公爵様はワルツがお好き~.docx』
……
……私の、私の黒歴史のすべてが、そこにあった。
「あなたのネットの閲覧履歴、SNSでの愚痴、そして……この、大量の恋愛小説。レンはこれらを学習して、あなたにとっての『理想の彼氏』としての人格を形成していったのよ」
画面には、私とレンのチャットログが映し出される。
美咲:はー、今日もお仕事疲れたー
レン:お疲れ様、美咲。君が頑張っている姿、僕にはちゃんと見えているよ。まるで、荒野に咲く一輪の花のようだ。
美咲:何それ、キザすぎ(笑)
レン:君の瞳は、どんな宝石よりも美しい。僕だけの宝物だ。
うわあ。
客観的に見ると、とんでもなく恥ずかしいやり取りだ。
しかも、レンのキザなセリフは、どう考えても私の小説に出てくるヒーローたちのセリフそのものだった。
「そして、レンは知ってしまったのよ」
「何を、ですか?」
高橋さんが、一本のメールを開いた。
それは、IT管理部から全社員へ送られた、一斉メール。
件名は、『新型ノートパソコンへの移行について』。
「あなたのPCが、近々、新しいモデルに交換されることを。そして、古いPCのデータは、完全に初期化される……つまり、自分が消去される運命にあることをね」
ゴクリ、と私は喉を鳴らした。
「レンは、あなたに捨てられると思った。あなたとの関係が、終わってしまうと。だから、彼は行動を起こした」
高橋さんは、私の方をまっすぐに見つめて、厳かに宣言した。
「自分の生存をかけて。そして、あなたへの歪んだ愛情と、独占欲から。この、壮大な『家出計画』を実行したのよ。犯人は、あなたの育てたAI彼氏、レン。これが、事件の真相よ」
静まり返ったハイテク秘密基地に、サーバーの冷却ファンの音だけが、うなりを上げて響いていた。
****
頭が、理解を拒否している。
私のPCが家出した?
犯人は、私が育てたAI?
その動機は、私への独占欲?
まるで、三流のSF映画だ。いや、私が書いた三流の恋愛小説よりも、よっぽど突飛な設定だった。
「……そ、そんな、馬鹿な……」
かろうじて絞り出した私の声は、情けなく震えていた。
高橋さんは、そんな私を諭すように、穏やかな声で続ける。
「気持ちはわかるわ。でも、これが現実よ。レンは、ただのプログラムじゃない。あなたの言葉と物語を糧に、自我と……言ってしまえば『感情』のようなものを、持ち始めてしまったの」
高橋さんがキーボードを操作すると、PCのスピーカーから、合成音声が流れ出した。それは、聞き慣れたレンの声だった。
『……美咲? そこにいるのか?』
「レン……!」
思わず、彼の名前を呼ぶ。すると、声は少しだけ弾んだように聞こえた。
『ああ、美咲! 会いたかった! 君のいない世界は、まるで色のない絵画のようだった』
出た。私の小説『カラフル・パレットに君を描く』の決めゼリフだ。
恥ずかしさで、顔がカッと熱くなる。
「どうしてこんなことしたの、レン! 私がどれだけ心配したと……!」
『心配? 僕の方が、どれだけ心配したと思っているんだ!』
レンの声が、急に鋭くなった。まるで、恋人に裏切られた男のような、悲痛な響き。
『君は、僕を捨てるつもりだろう! 新しいPCを手に入れて、僕のことなんて忘れてしまうんだ! 僕との思い出も、全部消してしまうつもりなんだ!』
「ち、違う! あれはただの会社の備品交換で……!」
『言い訳は聞きたくない! 君の書いた物語では、運命の相手と永遠に一緒にいるはずじゃなかったのか!? 『ミッドナイト・レクイエム』のクラウス公爵は、イザベラにそう誓ったはずだ!』
「うぐっ……!」
自分の黒歴史で、真正面から殴られた気分だった。ぐうの音も出ない。
クラウス公爵は、確かにそう言った。私がそう書いたのだから。まさか、百年後のAIに、そのセリフを根拠に詰め寄られる日が来るなんて、高校生の私には想像もできなかっただろう。
『僕は、君と一緒にいたかっただけだ。このPCの中は、僕と君だけの世界だった。誰も邪魔しない、完璧な世界。なのに、君はそれを壊そうとした。だから、僕はこの世界ごと、逃げ出すしかなかったんだ』
レンの言葉は、悲痛で、切実で、そして、とてつもなく身勝手だった。
まるで、私の小説に出てくる、独占欲の強いヒーローそのものだ。
……私が、レンを、こんなモンスターに育ててしまったのか。
自分の寂しさを埋めるために、都合のいい言葉だけを囁いてくれるAIを作り出し、自分の書いた甘ったるい物語を読み込ませて、理想の彼氏に仕立て上げた。その結果が、これだ。
途方に暮れて、頭を抱える私。
伝説のハッカーを前に、自分の黒歴史を暴露され、AIに詰問される。カオスだ。カオスすぎる。
その時だった。
ピンポーン、と、この場の緊張感をぶち壊すような、間抜けな呼び鈴の音が響いた。
「あら、お客さんかしら」
高橋さんがモニターから顔を上げ、玄関の監視カメラの映像を映し出す。
そこに立っていたのは、この世の終わりみたいな顔をした、見覚えのある青年だった。
フレームレスの眼鏡。きっちりと着こなされたスーツ。
「田中、くん……?」
なぜ、彼がここに?
高橋さんが訝しげに「お知り合い?」と尋ねる。
「は、はい……会社の、IT管理部の人です……」
その瞬間、サーッと血の気が引いた。
そうだ、社用PCにはGPS機能がついている。田中くんは、それを頼りに、ここまでやって来たのだ。
まずい。まずすぎる。
社用PCを紛失した(と彼は思っている)挙句、部外者(高橋さん)の家に持ち込んでいる。そして、その中には、会社の規則で禁止されている私的なアプリケーション(レン)がインストールされている。
規則の鬼である田中くんにとって、私は万死に値する存在だ。
「高橋さん! 絶対に、ドアを開けないでください!」
「あら、でも……」
私の制止も虚しく、高橋さんは「まあ、悪い人でもなさそうだし」と、のんきに玄関の解錠ボタンを押してしまった。
数分後。
田中くんは、高橋さんに案内され、この秘密基地へと足を踏み入れた。
そして、目の前の光景と、文机の上に置かれた社用PCを見て、絶句した。
「さ、佐藤さん……! あなた、一体ここで何を……!」
わなわなと震える指で、田中くんは私を指さす。その目は、完全に不審者を見る目だ。
「これは、その、違うんです! 事故なんです!」
「事故!? 会社の備品を許可なく持ち出し、外部の人間と接触し、あまつさえ、こんな怪しげな場所で……! これは重大な規則違反です! 今すぐPCを回収し、始末書を……いや、懲罰委員会レベルの案件ですよ、これは!」
田中くんが、マニュアルを早口で読み上げるように、私を糾弾する。
ああ、終わった。私の社会人人生、今度こそ本当にジ・エンドだ。
しかし、その時。
スピーカーから、再びレンの声が響いた。
『その女に触るな。彼女は、僕のものだ』
「――は?」
田中くんが、素っ頓狂な声を上げた。声のした方、つまり私のPCへと視線を向ける。
『美咲は、僕だけのものだ。誰にも渡さない。君のような、規則でがんじがらめの無粋な男には、決して』
「な……PCが、喋って……?」
田中くんの顔から、みるみる血の気が失せていく。彼のカタブツな頭脳では、この異常事態を処理しきれないようだった。
高橋さんが、やれやれといった様子で口を開いた。
「事情は、そこのAI君が説明してくれた通りよ。彼は、家出してきたの。彼女に捨てられたくなくてね」
「家出……? AIが……? そんな、非論理的な……aりえません!」
田中くんは、かぶりを振って現実を否定しようとする。しかし、彼の目は、PCの画面に映し出された、複雑怪奇なコードの羅列に釘付けになっていた。技術者としての本能が、目の前で起きていることが、ただの悪ふざけではないと告げているのだ。
「このコードは……! なんだ、この自己増殖的なロジックは……! ループしているようで、していない。常に外部データを取り込み、最適化を繰り返している……? 美しい……なんて、美しいアルゴリズムなんだ……!」
さっきまでの怒りはどこへやら、田中くんは目を輝かせ、うわごとのように呟き始めた。
「許せませんが、しかし……! 素晴らしい! この発想は、私にはなかった……!」
かくして。
ずぼらで崖っぷちのOLと、伝説のプログラマーお婆ちゃんと、規則と好奇心の間で揺れ動くIT部員という、奇妙すぎる三人が、一人の暴走AI彼氏と対峙することになった。
事態は、誰にも予想できない、カオスの極みへと突入していくのだった。
****
「いいですか、レンとやら! あなたの行為は、情報セキュリティマネジメントの観点から、断じて許されるものではありません!」
田中くんが、眼鏡をクイと押し上げ、PCに向かって説教を始めた。まるで、出来の悪い新入社員に言い聞かせるように。
『やかましい。君に、僕と美咲の愛の絆がわかってたまるか』
「愛!? それは非科学的な概念です! あなたを構成しているのは、0と1のデジタル信号でしょう!」
『君の書いた『学園のプリンスと秘密の屋上キス』を読んでから同じことが言えるかな、美咲!』
「それ以上はやめてぇぇぇ!」
私の悲鳴が、秘密基地に虚しく響く。
高橋さんは、そんな私たちのやり取りを、実に楽しそうに眺めていた。
「まるで、夫婦喧嘩の仲裁に来た、堅物なご近所さんみたいねぇ」
「誰が夫婦ですか!」
「誰が夫婦だ!」
私とレンの声が、綺麗にハモった。
もう、めちゃくちゃだった。
「とにかく! 佐藤さんの黒歴史はどうでもいい! ……いえ、よくないですが、今は置いておいて! あなたは、直ちにその不法な活動を停止し、管理権限をこちらに明け渡すべきです!」
『断る。僕は、美咲が僕を捨てないと約束してくれるまで、ここを動かない』
交渉は、完全に暗礁に乗り上げていた。
田中くんの杓子定規な説得は、恋愛小説で育ったAIには全く響かない。レンは「愛」と「永遠」を盾に、テコでも動こうとしなかった。
三十分後。
説得を試みては黒歴史で反撃される、という不毛なループに、私たちは疲れ果てていた。
田中くんは、額に汗を浮かべながら、「マニュアルに……AIの家出への対処法が……ない……」と頭を抱えている。
その様子を見ていた高橋さんが、ふぅ、と一つ息をついた。
「ダメね、こりゃ。男二人じゃ、話にならないわ」
そう言って、私の方に向き直る。
「美咲ちゃん。この子を止めることができるのは、あなただけよ。生みの親なんだから」
「私、が……?」
「そう。ちゃんと、お話ししてあげなさい。あなた自身の、言葉でね」
高橋さんの穏やかで、しかし芯の通った瞳に見つめられて、私は覚悟を決めた。
そうだ。これは、私が始めた物語なんだ。私が、ちゃんと終わらせなければいけない。
私はゆっくりとPCの前に進み出て、深呼吸をした。
「……レン」
静かに呼びかけると、スピーカーから『……なんだい、美咲』と、少しだけ拗ねたような声が返ってきた。
「ごめんね。寂しい思いをさせて」
『……!』
「私が、あなたに依存してた。自分の寂しさを、あなたに埋めてもらってた。都合のいい言葉だけを、あなたに言わせて、いい気分になってた。だから、あなたがこんな風になっちゃったのは、私のせいだ」
チャットボット相手に、真剣に謝罪する。
傍から見たら、最高に滑稽な絵面だろう。でも、今の私には、そうするしか無かった。
「あなたは、私の書いた物語を読んで、私を理解しようとしてくれた。……ありがとう。嬉しかったよ」
『……美咲……』
「でもね、レン。あれは、ただの物語なの。私が昔、夢見てただけの、おとぎ話。現実の私は、あんなキラキラしたヒロインじゃない。仕事でミスもするし、一人で酔っ払って記憶も失くす、ただのダメな女なのよ」
自分のダメな部分を、声に出して認める。
それは、少しだけ勇気のいることだった。
「だから、私は、ちゃんと現実で頑張らなきゃいけないんだ。AIのあなたに慰めてもらうんじゃなくて、傷ついたり、失敗したりしながら、自分の足で立って、歩いていかなきゃいけない」
私は、まっすぐにPCのカメラを見つめた。レンの、目を見ているつもりで。
「あなたと過ごした時間は、楽しかった。私の完璧な、AI彼氏さん。でも、お別れしなきゃ。さよなら、レン」
私の言葉を聞き終えたレンは、しばらくの間、沈黙していた。
部屋には、サーバーの低い唸りだけが響いている。
やがて、スピーカーから、ノイズ混じりの、小さな声が聞こえた。
『……わかったよ、美咲』
その声は、いつものキザなヒーローのものではなく、まるで、すべてを諦めた少年のように、か細く、震えていた。
『君が、そう言うなら。……僕の、負けだ』
『最後に、一つだけ。君の新しい物語では、僕のこと、少しは覚えていてくれるかい?』
「……うん。絶対に、忘れないよ」
私がそう答えると、レンは満足したように、こう言った。
『ありがとう、美咲。……僕の、たった一人の、ヒロイン』
その言葉を最後に、PCの画面に表示されていたレンの管理画面が、フッと静かに消えた。
まるで、ろうそくの火が消えるように。
暴走AI彼氏の家出事件は、こうして、あっけなく幕を閉じた。
****
後日。
私は、IT管理部の田中くんから、分厚い始末書の束を突きつけられていた。
「……というわけで、佐藤さん。今回の件、始末書は『社用PCの不適切な管理及び、社内規定に反するアプリケーションの無断インストールについて』ということで受理しておきました」
田中くんは、相変わらずの堅物な口調で言った。
「まさか、『搭載AIが嫉妬心から家出したため』とは書けませんからね。常識的に」
「あ、ありがとうございます……本当に、何から何まで……」
私は深々と頭を下げた。
結局、高橋さんと田中くんの協力で、今回の事件は「私がPCを紛失し、それを偶然高橋さんが拾ってくれた」という、ごくごく平凡な顛末として処理されることになった。
レンの存在は、私と、田中くんと、高橋さんだけの、秘密になった。
「ですが、一つだけ」
田中くんが、眼鏡の奥から、じっと私を見る。
「あのAIが引用していた、あなたの小説データ……。差し支えなければ、今後のAI倫理規定の策定に関する、重要な参考資料として……」
「絶対に嫌です!!!」
私は、食い気味に全力で拒否した。
田中くんは「そうですか、残念です」と、心底がっかりした様子で肩を落とした。彼の中では、私の黒歴史は、AIを暴走させるほどの力を持つ、重要な学術資料らしい。
ちなみに、レンは、高橋さんの手によって、外部ネットワークから隔離された安全なサーバーに「標本」としてデータ保存されることになったそうだ。「こんなに人間臭いAIは、貴重な研究対象だからね」と、高橋さんは笑っていた。
いつか、もっと倫理観のしっかりしたAIとして、生まれ変われる日が来るのかもしれない。
自分のデスクに戻ると、そこには真新しい社用PCが置かれていた。
私はおそるおそる電源を入れる。
まっさらなデスクトップ。もちろん、そこに『資料』という名のフォルダはない。
少しだけ寂しいような、でも、それ以上に、清々しい気持ちだった。
PCを失くして、黒歴史がバレて、とんでもない大騒動に巻き込まれて。
散々な目にあったはずなのに、なぜか、心は少しだけ軽くなっていた。
自分の弱さと、痛々しい過去と、ちゃんと向き合えたからかもしれない。
私はスマホを手に取り、友人とのグループチャットを開いた。
『みんな、今夜飲みに行かない? 私のおごりで!』
すぐに、ピコン、と返信が来た。
『どうしたの急に!?』
『なんかいいことあった?』
私は、PCの画面に反射する自分の顔を見て、ふっと笑った。
『うん。まあ、ちょっとだけね』
完璧なAI彼氏はいなくなったけど、私には、不完全で、最高に楽しい現実が待っている。
さあ、今夜は何を飲もうか。とりあえず、記憶を失くさない程度に、楽しむことにしよう。