魔女アティスの住まう街
周りの全てが敵ならば、西の砂漠へお逃げなさい。
足が焼けて腫れ上がり、割れた肌から血が出ても。
走って走って走りなさい。
その先にあるのは夢の街。
魔女アティスの住まう街。
*
七つの頃に見た光景を、シャンディは未だに忘れられない。
怖気づき泣き叫ぶ女を両脇から捉え、燃え盛る炎に投げ込む彼女の義弟達。
赤々と燃える炎の中、もがき苦しむ女の黒い影と絶叫。その声が、徐々に弱くなっていく。
「背教者め!」と口汚く罵る周囲の人々。
夫に先立たれた寡婦は、夫を葬る炎に身を投げて命を絶つべし。それがこの国のルールだ。
例え逃げ出したところで、ルールを破れば背教者として疎外され、生きていくことはできない。
何より、遺された財産に目が眩んだ親族達が、逃げることなど許さない。相続者である妻ほど目障りな存在はないのだから。
故にこの国の女達は皆、夫に先立たれることを恐れる。
その恐れていた日が、シャンディにもやってきた。
いや、正確に言えば、シャンディはそれほど恐れていたわけではない。
生き地獄で暮らすより、死して安寧に身を任せる方がマシだとさえ思っていた。
それが出来なくなったのは、夫の最期の言葉のため。
『お前には生きていてほしい。どうか俺が死んでも、生きていてくれ』
少なからず不本意な結婚を強いられるこの国で、シャンディは幸せな方だった。夫を愛していたし、愛されてもいたのだから。
それでも、先立たれれば味方は誰もいない。
同じ恐怖に苦しんできたはずの女達でさえ、財産のために、そして自分の立場を守るために、平然と敵に回る。
不幸中の幸と言うべきか、子供はいない。一人、産みはしたが、流行病で天に召されてしまったのだ。
——逃げよう。
荷造りなど、する余裕はない。
闇に紛れて、着の身着のまま、シャンディは歩く。
野垂れ死ぬのがオチではあろうが、金に目の眩んだ親戚連中に殺されるよりはマシだ。
歩いて歩いて歩き続け、ついに砂漠へ出る。
行くあても無かったが、シャンディは西へと向かうことにした。
彼女の町では、まことしやかに囁かれている噂がある。
砂漠をずっとずっと西へ向かうと、魔女の住む街がある。
寡婦焚死の慣習から、逃げ出した女達が住む街がある、と。
シャンディは歩き続けた。砂と夜空の二色だけで構成された世界を、ただ進む。
何もない世界に、孤独な女の影だけが、ゆらゆらと蠢く。
ぽっかりと、穴が空いたように浮かぶ月だけが、彼女の連れだ。
乾燥した空気に、鼻腔へ入り込む砂塵が喉を刺激しても、シャンディは、ただ黙って足を動かす。
気づけば太陽が昇り、ジリジリと肌を焼き、足が腫れ上がっていた。
昼と夜、現実と非現実が混ざり合う。焼けただれた足から、膿すら出なくなるほど干からびた頃、彼女は砂以外の景色を見つけた。
高くそびえる壁。真鍮の豪奢な門が、夕日に照らされ輝いている。
聞いたこともない巨大な街が、そこにはあった。
シャンディが街の入り口に近づくと、門はひとりでに、ギコギコと音を立てて開いた。
「まさか、魔女の街が本当にあるなんてね。それとも私の気が狂ったのかしら」
「本当にあったのさ。ようこそ、アトランティカへ」
いつの間に現れたのか、大通りの中央に、燃えるような赤い髪をした女性が立っている。
すらりとした長身に、中性的な面差し。足もとまで引きずる黒い外套を羽織り、如何にも胡散臭い外見だ。
「あなたは……」
「私は魔女アティス、この街の噂を聞いてきたんだろう? おいで、ここには恐ろしいものなんてなーんにもないから」
門前で立ち尽くすシャンディの手を強引にとって、大通りへと引き込む。
通り沿いには、数々の屋台が並び、果物や、色とりどりの飾り物が売っている。
一際人だかりの出来ている場所からは、香ばしい肉の焼ける匂いが漂ってきた。
大通りの突き当たりは広場になっており、噴水の周りでは子供達が水浴びをして遊んでいた。
「こんな街があるなんて……」
「これも魔女の力さ。此処は、外で傷つき疲れ果てたものが逃げ込む場所。恐ろしいものも、病も、死もない」
そう言われて、シャンディは、足の腫れが収まっていることに気づく。
あれだけボロボロだった体が、綺麗に元どおりになっているのだ。
「長く歩いて疲れたろう? まずは甘いものでも食べたらどうだい」
そう言って、屋台の方へ歩き出すアティスを、シャンディは慌てて制す。
「私、お金なんて持ってないわ。交換できるようなものも」
「お金? ここではそんなもの必要ないよ。笑顔と幸福、それが全ての対価さ」
屋台に近づき、並べられた菓子をあっさりと取って、渡してくる。
何の対価もなく、ただ幸福を享受するだけだなんて、胡散臭くて仕方がない。シャンディは眉を顰めながらも、無下には出来ずに受け取った。
橙色に輝くそれは、穀物粉を練った生地を油で揚げて、たっぷりの蜜に漬けたものだ。
口に含むとじゅわりと甘さが広がり、疲れた心と体に染み入る。
——こんなに美味しいもの、今まで食べたことないわ。
あっという間に食べ切ってしまうと、アティスが含み笑いを向けてきた。
「足りないかい? まだまだ沢山あるよ。これなんてどうだろう」
アティスが乳白色の菓子を渡してくる。
今度はそれを躊躇せずに受け取って、シャンディは夢中で噛り付いた。
「これはね、乳に糖を加えて、煮詰めたものなんだ。中々イケるだろう?」
その言葉を聞き流しながら、シャンディは顔を俯けた。
何故だか、涙が溢れてきたのだ。
それを見て、アティスは無言で肩を叩いてきた。
「よく頑張ったね、シャンディ。ここではもう、好きなだけ泣いても大丈夫だから」
名前を教えた覚えもないのに、呼びかけてきたアティスに、ふと疑問を覚えるが、それは溢れ出る雫とともに押し流されてしまう。
悲しむ暇も、無かったのだ。
夫を亡くしたというのに、自分が殺されるかどうかの瀬戸際で、泣くことさえ出来なかった。
周りの全てが敵に思えて、ただただ気を張って。
生きろと告げて先立った彼に、ほんの少しの恨みすら覚えて。
ぐちゃぐちゃになった顔に、アティスはそっと、手巾を差し出してきた。
美しい刺繍のされたそれで、シャンディは思いっきり鼻をかんでみせる。
なんだか、この街があまりに幸福そうで、平和そのもので、腹が立ったのだ。
そんな様子を見ても、アティスは怒るでもなく、ただくすくすと笑っている。
「ありがと……」
最後に一度、大きく深呼吸して、涙を収める。
そして、真剣な顔を作ってアティスを見据えた。
「ねえ、ここは本当にどこなの?」
どう考えって、この街は異常だ。
食料に対価が必要ない。やたらと豊かで、噴水の広場では楽器を演奏している者達までいる。
その上、怪我までいつの間にか治っている。
「ここは楽園だよ、外の世界に疲れた者達のね。さあ、今日はもうお休み」
アティスに連れられ入った宿もまた、無料だった。
案内された部屋には、シャンディが見たこともないような分厚い寝具が置かれている。
ふっくらと空気を含んだそれに横たわると、包み込まれるように全身が沈んだ。
「疲れた……な」
この先ここで暮らしていくのだろうか。いつまで、何をして。
全てを捨てて逃げてきたはいいが、元より行くあてなどなかった。シャンディは、砂漠で死ぬつもりだったのだ。
いざ先があるとなると、どうしていいかわからなくなってしまう。
「明日考えよう……」
もしかしたらこの街も、死に瀕した自分が見ている夢かもしれない。
そんな事を考えながら、シャンディは眠りに落ちていった。
翌朝になっても、天井は見慣れぬ宿のものだった。どうやら炎天下の中、行き倒れているわけでもなさそうだ。
魔法の街というやつが、いよいよ現実味を帯びてきた。
一体これからどしたものか、と悩みながらも外に出ると、入り口の前にアティスが待っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいた彼女は、外へと出てきたシャンディを見て、ニッと笑顔を浮かべる。
「おはよう。少しは元気が出たかい?」
「あなた、ずっとここで待っていたの?」
全く至れり尽くせりなことだ。彼女はこの街の主なのではないのか。一介の流れ者風情には、過ぎた対応だと思う。
「だって君はまだ、この街のことも何も知らないだろう? ここでほっぽりだされても困るんじゃないかい?」
「それはそうだけれど……」
「とりあえず今日はこの街の案内をしよう」
この掴み所のない魔女は、シャンディの疑問をさらりと流して、話を進めてしまう。
「さあ、まずは中央通りの食堂で、腹拵えでもしようかね」
昨日通った門から伸びる大通りには、大きな食堂があった。どうやらここで、街の住民は食事を済ませているらしい。
豪勢な内装に、朝食らしくあっさりとした、それでいてこの街の豊かさが伺える食事。
腹を満たして次に案内されたのは、多くの店々が連なる商店街だった。
洋服、靴に、日用雑貨。品質は高く、細工は細かく。そこにあるのは、この国の全ての富を集めても太刀打ち出来ないほどの豊かさだった。
「ああ、これなんか君に似合うんじゃないかい?」
そう言ってアティスが差し出してきたのは、深い藍に染められた布に、金糸で刺繍を施された装束。それはシャンディが今まで見たこともないほどに、美しかった。
「これも、無料?」
「もちろんさ」
この街の異様さ。それはシャンディに、そこはかとない恐れを齎した。
けれども、周囲の人々は何の疑問も抱いてはいないようだ。シャンディが困惑していると、横で商品を見ていた女性が話しかけてきた。
「あら、素敵な服ね。迷っているなら試着してみたらどうかしら?」
おっとりと微笑みかけられる。
「ほら、こっちで試着できるわよ」
婦人は穏やかで上品な佇まいのわりに、中々積極的なようで、あっという間にシャンディは試着することになってしまった。
慣れない複雑な作りに、苦心しながら着込む。破いてしまっては大変だと、繊細な刺繍に爪が引っかからないよう気を使う。
ようやくの思いで着付けを終えたシャンディはおずおずと表に出る。恥ずかしげに俯くその姿を見て、アティスは目を輝かせた。
「すごく似合っているじゃないか! ああ、今日はそれを着ていたらいいよ」
「でも、本当にこんないい服を貰ってしまっていいの?」
もちろんさ、と大仰に手を広げてアティスは頷いてみせる。
「そうよ。遠慮することないわ。ここでは全ての夢が叶うんだから」
瞳を輝かせ、うっとりと語る婦人に薄ら寒いものを感じつつ、シャンディは気づけば二人に押し切られていた。
「さあ、次の場所へ案内しよう」
長い裾を引き摺り、手を引かれるままに歩く。
「おお、美しい姫君よ! 例え偉大なる戦神があなたを天に拐おうとも、私は決して貴女を諦めたりはしませぬ!」
劇場では、シャンディがずっと見たかった演目を披露していた。古代の神々の闘争と愛憎をテーマにした歌劇は、とても評判になっていたのだ。もちろんシャンディには見にいく余裕などなかったのだけれど。子を持たない女など、シャンディの村では残飯を与えるのも惜しいという扱いだったのだから。
クライマックスでシャンディはボロボロと泣いた。劇に感動しているのか、ただやり場のない感情が噴出しているのかもよくわからないままに泣いた。
そうして、夢のように華麗で華のように儚い劇が終わっても、夢の世界は続く。
宿に戻ると、柔らかな寝具がシャンディを出迎えた。満たされた一日を終えて心地良い倦怠感に包まれたシャンディの体を暖かな寝具が包み込む。
——本当に、ここにずっといていいのだろうか。
あまりにも甘やかな泥濘は、しかしそこに沈んでいけば何か取り返しのつかないものを失いそうな予感がした。
シャンディはこれまでの事をつらつらと思い返す。村の中で8人きょうだいの長女として生まれ、家の仕事をずっと担って来たこと。幼い弟妹の面倒を見るシャンディは失敗するとよくぶたれたこと。長男と違って大した食糧も与えられないシャンディはかりかりと骨ばった体型で不器量な娘と謗られたこと。
そうして親の決めた結婚をして、子を一人授かって、でも流行病で亡くした時。
夫はシャンディの肩を抱いて、看病をよく頑張ったと言ってくれた。若い嫁なんて家畜か何かみたいな扱いの村なのに、彼はそういう風には振る舞わなかった。
シャンディの痩せた体では二人目の子供を授かれなかったけど、それを夫は責めなかった。
けれど、ああ、けれど。
村では珍しい優男だった彼は、野盗から村を守って死んでしまったのだ。いつも周りから搾取されて、それでも周りに親切にして、良い事なんて何もないような人生を送っていたあのひとは、あっさりと棍棒で殴られて死んでしまった……!
何の意味があったのだろう、と思う。
シャンディの人生も、その夫の人生も、ただ誰かに使い潰されるような代物だった。それでも、共に過ごした時間は大切なもので。この街での何不自由のない生活と、どちらが楽かと言われれば絶対にこの街なのだけれど、どちらが幸福かと言われると、シャンディは答えを出せなかった。
——ああ、やっぱりこの街を出ていこう。きっともし生まれ変わるのならば、あのひとに会えるかもしれないのだから。
満月の浮かぶ中、巨大な門の前に立つ。
「ここを出ていくのかい?」
いつの間にか背後に立っていたアティスが尋ねる。
「ええ、出ていくわ」
アティスは悲しげに微笑んだ。
「永遠に幸福な夢を見れるとしても?」
「永遠に続く夢なんて、それがどんなに楽しいものでも……ただの悪夢だわ」
「外へ出たところで、生まれ変わってもまた地獄、その次も、そのまた次も地獄だよ。ここを出ればどこかへ行けるとでも?」
「それならどこまでも繰り返すだけよ。いつか何かが変わるまで」
シャンディは満たされた夢を求めない。彼女が求めるのは幸福な現実で、たとえそれが夢物語だとしても、実際にあるのはただの地獄だとしても手を伸ばさずにはいられなかった。
「私は、死者の楽園より、生者の地獄を選ぶわ」
門に手をかける。わずかに開いたその隙間から、砂漠の夜の刺すような冷気が侵入してきた。
暖かな夢は、もう終わる。
「私、この街は好きになれないけれど、あなたのことは好きよ。ありがとう。さようなら」
*
周りの全てが敵ならば、西の砂漠へお逃げなさい。
足が焼けて腫れ上がり、割れた肌から血が出ても。
走って走って走りなさい。
その先にあるのは夢の街。
魔女アティスの住まう街。