ゲップ羊と名ピアニスト
「なぁ、温暖化問題ってあるじゃん? CO2排出とかの」
「ん? あぁ、それがどうかした?」
八畳ほどの広さの部屋に什器は簡素な折り畳み式の机と椅子が二脚のみ。そこに男が二人座っている。不遜な態度で机の上に足を投げ出している男。名を久保田と言う。
短く刈り揃えた髪が特徴の久保田は、持て余した暇をどうにかすべく自ら口を開いた。
「それでさ、排出権取引ってあるんだよ」
「排出権取引?」
短髪の男に応えたのは、面構えも声も細い印象を覚える男、黒川だ。他に目立った特徴と言えば、鈍い光沢を放つ銀縁の眼鏡くらいだろうか。
「そう排出権。京都議定書で定められたCO2の削減率ってのが先進諸国には設けられてんのよ」
「あぁ、アメリカが批准しなかったって奴ね」
「そう、それ。でな、先進国は何年までに何年比で何%までCO2排出を減らさなきゃいけないよって話があるんよ」
「うん」
「でも、京都議定書の時点で、それなりに頑張ってる国も居て、その頑張ってる時点からさらに減らせってのも結構酷な話じゃない」
「そうだね」
黒川が話に食いついてきたのがうれしいのか久保田は饒舌に喋り続ける。
「そこで、自国のCO2を減らす代わりに、同等量の発展途上国のCO2を減らすことで肩代わりしてもいいよっつーシステムを設けたわけだ」
「それが排出権取引?」
「そう!」
興奮した久保田は射抜くようにして黒川に人差し指を向けた。
指を刺されたことを何とも思っていないのか黒川は、微笑みを湛えたまま応える。
「よく知ってるね」
「テレビで見た」
恥じる様子もなく久保田は話の出所を宣言すると、何事もなかったかのように聞きかじりの話をひけらかす作業に戻る。
「で、な。面白かったのは、日本の官僚さんが世界各国を回って、削減しやすいCO2はないかと探してたって話なんだけどな。ニュージーランドのCO2の問題の話がでてきたんだよ」
「へぇ、ニュージーランド?」
「そう、ニュージーランド! あっこで問題になってる温暖化ガスの出元ってなんだと思う」
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら話をじらす久保田。対し、付き合ってられないなと首をすくめる黒川ではあったが、ここまでされて話の先が気にならない訳もない。懇願するように久保田に話の先を促す。
「もったいぶるなよ」
「羊だよ」
「羊?」
「そう、羊」
待っていた答えに合点がいかないのか、納得しきってない様子で羊という言葉を反駁する黒川。
そんな様子も想定済みだったようで、ぽかんとする黒川に、久保田は詳しい説明を続ける。
「あの国はな、国民の数よりも羊の方が多いって言う面白い国でな。そんな溢れんばかりの羊のゲップなんだってよ、問題視されてんのは」
詳しい説明にやっと謎が解けた様子の黒川は何度も頷く。
「へぇー、羊のゲップ。へぇー。そんなになんだぁ」
「らしいぜ」
「で?」
「ん?」
二人の視線が交錯する。
「なんでそんな話を今するの?」
視線を絡ませたまま、しかし互いの気持ちはすれ違う。
「え? なんで? っていうか、面白くない? この話?」
黒川のこの反応は予想外だったのか久保田は視線を泳がせながら、しどろもどろに答えを取り繕う。
「ん、うん。まぁ、話自体は面白かったけどさ」
「いや、この部屋に案内されて、待ってろって言われたっきり三十分以上、何の音沙汰もなく待ってるじゃん? なんかつまんないかなぁーって思ってさ。あれかな不謹慎だったかな?」
机の上に投げ出していた足を下ろし、椅子から立ち上がると大して広くもない部屋をうろうろしながら久保田はつらつらと言葉を紡ぐ。
誰が見ても落ち着きのない様子も当然と言えば当然だった。自らの時計を持っておらず、部屋にも時計はなかったため久保田が今し方口にした言葉は実は正確でなく、彼らがこの部屋でいつともわからぬその時を待ち初めてからもう少しで一時間が経とうとしているのだ。
彼らは気づいたとき見知らぬ橋の上に居た。正面に見えるのは大きくはあるものの余計な装飾は一切見あたらず、どこぞのお役所の施設かと思われる建物。その前に横たわる川にかけられた橋の上に彼らは居たのだ。
なぜ、こんな所にいるのか。さっきまで自分たちが居たのは、と記憶を探ろうしたところで目の前の正面玄関が開き、中から背広の男が現れた。
なにが起こってるのか分からない久保田と黒川は背広の男の案内するままに建物の中に入り、その中の一室に案内された。
「あれ? 確か自分たちは……」
案内される間久保田と黒川は同じことを考えていた。急に橋の上に居る前の記憶。
そうこうしている内に、八畳ほどの待合室に座っていた。
背広の男は一言、
「手続きの準備がありますので、ここでしばらくお待ちください」
そう言い残し、部屋を出ていった。
それから一時間が経とうとしている。部屋から出ようと言う目論見は鍵の掛かったドアによって阻まれた。
先ほどの久保田の話は倒錯した現状に居てもたっても居られなくなった末の行動だ。しかし、そんな話をしてもどうにもならないことは久保田にも分かっている。
彼らには真に話さなきゃいけない事柄があったのだが、それはどうしても切り出しづらい話題だった。
「ねぇ、久保田君」
意外にも度胸の据わっていたのは線の細い印象の黒川だった。
「話があるんだ」
「なんだよ、急にあらたまって」
うわずった声で返事をする久保田。
「僕達さ……、あの時」
黒川が意を決して話し始めたところで、ドアが開いた。そこに立っていたの二人をここへ導いた背広の男。
これから自分たちの身に何が起こるのか。不安と恐怖で身を強ばらせた二人にかけられたのは、
「いや〜、お待たせしました〜」
緊張感を打ち砕く間延びした声だった。
その声に、緊張の糸を切られたのか、へなへなと椅子に座り込んだんだのは久保田。黒川は訝しげな目を背広の男に向けたまま身を強ばらせたままだ。
「お二人の身元を調べるのにちょっち時間掛かっちゃいまして」
二人の様子など気にも留めず、背広男はマイペースな声で続け、二人に衝撃を与える言葉を紡いだ。
「久保田さん黒川さん、お二人とも、自殺でしょう?」
「!!!」
「!!!」
声にならぬ声で驚きを表す、久保田と黒川。
「なんで、それを!?」
驚きからいち早く抜け出し声を発したのは黒川だ。その言葉を発すると同時に今まで、黒川の脳内で非常事態だからと押し込められてきた疑問が爆発する。
此処は一体何処か。久保田とともに群馬県の山深い場所で練炭を囲み自殺したはずの自分たちが、なぜ気づけばどことも分からぬ建物に半ば軟禁されているのか。そして目の前に居る背広の男。こいつは一体誰で、なぜ自分たちの素性をなぜ知っているのか。溢れる疑問はとどまるところを知らない。
とかく得体の知れない状況と存在に、黒川の胸中には敵意がわきあがり、それは久保田にも伝播した。
椅子を倒しながら勢いよく立ち上がった黒川は、背広の男が入ってきた部屋のドアから、机を挟んだ部屋の反対側へと後ずさり、久保田もそれに続く。
「あぁ、ご心配なさらずとも結構ですよ。これからちゃんと説明させていただきますし、何も取って食おうって訳じゃないんですから」
笑顔を織り交ぜながら背広は続ける。
「それに、何を身の心配することがありますか、お二人はもう死んでるんですよ?」
毒気を抜く能天気な声で背広の男は呼びかけた。今のは冗談なのか。
「申し遅れました。ワタクシ、この度は「久保田誠二様」「黒川光彦様」お二方の死後の手続きを担当させて頂くことになりました豊崎と申します。短い間ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
そう言うと、豊崎と名乗った男は礼儀正しい一礼を二人に向けて行った。
対し、久保田黒川の二人は二度目の失声の驚きに打たれている真っ最中だ。
「ちょっ! 何言ってるかわかんねぇよ!! なんだよ、その死後の手続きやらなんたらって」
先に声を発したのは久保田だ。訳の分からぬ状況で、一時間近くも閉じ込められ、それが終わったかと思えば、自分の死後の手続き云々などを言われ、冷静を保っていられるほうが難しいだろう。久保田の叫びはもっともだった。
「混乱されるのも当然ですよね。皆さん同じような反応なされますよ」
黒川は声を発せず動かない。豊崎へ向けていた訝る視線も今自らの足元に向けられ、なにやら考え込んでいるようだ。
しかし豊崎はそんな二人の様子などどこ吹く風か、手に持っていた二冊のバインダーを広げ、書類に目を通し始める。
「いくつか、状況を整理させていただきます。まずご本人である事の最終確認を取らせていただきたいのですが、そちらの方が久保田誠二様、そしてそちらが黒川光彦様でお間違いないですね?」
豊崎の問いに対し、二人の返事は沈黙。どう答えていいものやらを図りかねている様子だ。
「訂正のないことを肯定と取らせていただきますね。いや、すいませんこちらも時間がないものでして。えーっと次ですね。んー、お二人が2007年6月19日、22時45分頃群馬県の山中にて、練炭自殺をなさったこともお間違いないですね?」
「あぁ、だったらなんだ!」
久保田が恐る恐る答えた。
「よかった。あってますね。いや、お二人は亡くなられてるのによかったって事もないですね。これは失礼」
久保田と黒川ははっきり言って豊崎のペースに着いていけていなかった。豊崎の言っている事は確かに合っている。しかし、何が起こってるのかがそもそもわからないのだ。当然どうしていいかも分からない。
「本人確認と状況確認もよしっと」
豊崎は胸に差してあったボールペンでなにやら書類に書き込みながら顔を上げる。
「さて、では、ご説明させていただきますね。ここはいわゆる死後の世界です。お二人は自殺をなされて、霊体となってここに来られたのです。先ほど橋の上に居られましたよね? あの下の川、あれ三途の川なんですよ」
緊張感のない声で淡々となされる豊崎の説明は内容と相まって説得力は欠片もなかった。
しかし、久保田と黒川は豊崎の言うことがおそらく事実であると直感していた。なぜか。自分たちは確かに自殺したからだ。
久保田は自らの手に視線を移す。その右手には練炭に火をつけるために擦ったマッチの感触が確かに残っている。
「本当に僕たちは死んだんですか? そしてここは本当に死後の世界だと?」
黒川が豊崎を問いただす。
「ええ。お二人が亡くなられたことは確かです。それとここは正確には死後の世界ではなく、あの世とこの世の狭間って感じですかね。霊体の方々にはここでしかるべき手続きを取っていただいた上で、初めて『死者』となるんです。で、お二人は今わかりやすく言えば死者になる前の幽霊なんですね。でこれからしかるべき手続きの一つ、輪廻転生の手続きをさせて頂くので、必要書類を持って私が此処に来たというわけです」
「輪廻転生っ!? 俺たちはこれから輪廻転生するのかっ!」
語気を荒げて食いついたのは久保田だ。今にも胸倉に掴みかからん勢いで、豊崎を問いただす。
しかし豊崎は動じない。声のトーンを変えることなく、久保田の問いに答えた。
「えぇ。そのための手続きをこれから行います。あ、お二人にしてもらうことはさしてありませんのでご安心を。お二人が亡くなられたこと、そしてこれから輪廻転生をして頂く」
「そんなことはどうでもいい!!」
豊崎の説明を遮り、がなる久保田。足元にあったパイプ椅子を豊崎の方へと蹴り飛ばし、今度は本当に胸倉に掴みかかろうと詰め寄る。
「俺たちは生きるのが嫌で自殺したんだ。それなのにもう一度生きろだと!? ふざけんな、冗談じゃねぇぞ!」
早口で怒声をまくし立て豊崎に掴み掛かる。
しかし確実に豊崎の背広を捉えた久保田の手は空を切った。
勢いあまってたたらを踏みながら呆然とする久保田を、先ほどまでとは打って変わった冷たい目で一瞥した豊崎は、声のトーンをガラリと変え喋り出す。
「生きてる私には触れられませんよ、あなた死んでるんですから。それとね、輪廻転生にあなたの意思は関係ありません。あなたの意思が及ぶのはあなたの生の範囲内だけで、それはあなたご自身手で終止符を打たれたのでしょう。残念ながらあなたの魂の所有権はあなたにはないんですよ。これから輪廻転生を行います。私がするのはあなた方が死んだことと、これからする輪廻転生に関しての説明だけです。それが終わればすぐにでも輪廻転生を行っていただきます」
途中から豊崎の視線は久保田から黒川に移っていた。久保田と同じように黒川にも反抗されては適わないということだろう。
その視線の意味を汲み取った黒川は、一瞬の逡巡の後、疑問をぶつける。
「拒否権は無いと?」
久保田のように暴れだしたりはしないが、黒川とて気持ちは同じだった。
生きることに嫌気が差して、死という選択肢を選んだ。自殺したいという気持ちを知人に打ち明かした時には、「それは逃げである」だの「努力云々」だの通り一辺倒な根性論を聞かされ、さらに生への嫌悪感が高まった。残してきた知人や家族から、なんて馬鹿なことをしたんだと罵られようが構わない。それほどに生きることが苦痛だった。そんな決意で死に臨んだのだ。
そんな人間に対しもう一度生きろ等と、これ以上残酷なことがあろうか。
「…………」
黒川の苦渋の思いから吐き出された問いに、しかし豊崎は答えない。ただその冷たく事務的な目を向けるだけだ。
二人の視線が交錯する。依然部屋は沈黙の帳が下りたままだ。
豊崎から一気呵成にまくし立てられすっかり意気消沈した久保田もその様子を静かに伺う。
沈黙を破ったのは豊崎だった。先ほどよりさらにトーンを落とした声で静かに告げる。
「もう一度申し上げます。お二人にはこれから輪廻転生をしていただきます」
冷たい声には透徹された強い意思が感じられた。そしてその強さゆえにそれを感じずには居られなかった黒川は視線をはずし俯く。
しばし黙り込んだ後顔を上げると小さく頷いた。
「……わかりました」
「おいっ!」
すぐさま久保田はその態度を強く咎める。久保田の生からの逃避への執着はそれほどまでに強い。
いきなり現れたわけのわからない奴に言いくるめられてまたあの世界へ戻されるなんて久保田にとっては冗談じゃないのだ。
「構いませんよ、幾ら抵抗していただいても。あなたは私に危害を加える事はおろか、この部屋から出ることもできませんし。ご納得いただけるまでこの部屋でゆっくりと過ごされては?」
「なっ…に?」
豊崎の視線は久保田には向いていない。その態度が久保田の不安を煽った。
「水も食料もなくとも問題ないですしね。肉体を失い、飢える事も病むことも無い。ある意味完全の不死ですね。これ以上死ぬことは無いんですから。あ、当然眠ることもできませんよ」
豊崎の久保田への脅しとも取れる発言に、横で話を聞かされている黒川の背筋も凍る。
「それって……」
関係の無い黒川にですらその恐怖は想像に難くない。久保田にですら理解できるはずだ。豊崎の脅しの意味が。それが意味することはつまり。
「あなたが嫌った生が永遠に続くんですよ。死者としての生が、この狭い八畳ほどの空間で。永遠にね」
その台詞は久保田にとって決定的な一打となった。そんな脅しを向けられては強がるまでもなく、豊崎に従わざるを得ない。
死ぬこともなく眠ることもできない。終わり無き永劫の無為を、唯孤独に過ごすなど想像しただけで恐ろしい。そんな環境にあってはまともな精神状態など保てるはずなどない。それどころか発狂し倒錯することが可能なのであればそれこそ御の字なのかもしれない。それさえできればなにも感じる事はなくなるからだ。
それは死と同義だ。
しかし豊崎の口振りからはそんな救いの道すら用意されてないのかもしれないと久保田は恐れた。
「わかった。あんたに従うよ」
そう一言、絞り出すように呟いた久保田は、ふらふらと自分の蹴倒した椅子に近づき拾い起こすと腰を
落ち着けた。
「ご理解いただきまことに感謝いたします」
一転声のトーンを能天気な方に切り替えた豊崎は、冷たい目すら瞬時に切り替え、笑みを湛えている。
その様子を黒川は苦々しげに見つめていた。黒川も輪廻転生を認めたとはいえ、立場的には久保田同じ自殺者。生を嫌い死を選んだ存在だ。久保田が豊崎に反抗した気持ちはよく分かるし、それを半ば脅迫のような形で押し込めておきながらご理解もなにもないのではないか、と豊崎への嫌悪感が高まる。
久保田を見ていた豊崎の視線が黒川を捉えた。
「私を恨むのはご自由にしていただいて構いませんけどね、そう悲観的に捉えなくてもよいと思いますよ」
黒川はとっさに俯いたが、豊崎は嫌悪感を露わにした黒川の表情をしっかりと見たようだ。
「なにも、死を選ぶほど嫌だったあなた方の生をもう一度やり直せと言っているのではないですしね。転生後の人生で幸せを掴めるかもしれませんよ?」
豊崎は軽口をたたくが、久保田と黒川の表情は暗い。
やれやれという具合に首を振った豊崎は手元の書類に手を伸ばす。
「そんな顔をされましてもねぇ………、お? おや!? ちょっと黒川さん!? これ?」
「今度はなんですか?」
「いえね、輪廻転生をなさる方には転生先の大まかな情報を見ていただくことになってるんですけどね。見てくださいよ、黒川さん、これ」
今まで見せたことのないような浮かれ具合で、豊崎が書類片手に黒川に近づく。
豊崎の急激な態度の変化を訝しんだ黒川だったが、興味に負け書類に目を落とす。
「この越智友延さんと言うのが、黒川さんの転生後なんですけどね。見てくださいよ。ほら。一流財閥の御曹司として生まれた上に両親と共に仕事人間というわけではなくむしろ子煩悩。家庭環境は抜群ですね。しかもピアニストの母親の才能を受け継ぎ音楽的な才能にも優れ未来を有望視されるですって」
「え、これが僕ですか?」
「そうですよ! うわー、すごいなぁ。羨ましい。今までたくさんの方の輪廻転生に立ち会ってきましたけど、こんなわかりやすい勝ち組スペック初めてですよ」
豊崎はかなり素の部分を見せて、興奮をしている。
黒川も何度も自分の今後の姿を見返しては、豊崎の興奮に当てられたのか、まんざらでもない表情で書類に釘付けだ。
「なんだよ、黒川。おまえそんないい奴に生まれ変わるのかよ」
二人の興奮は久保田にも移ったようだ。二人の後ろからのぞき込むようにして「越智友延」のスペックに目を通す。
「おぉ、すげぇじゃん。元大臣の爺さんが居たり? 親父さんは射撃のオリンピック選手だったこともあるのか? すげぇ!」
「ねー、そうでしょ、ほら、言ったじゃないですか、生まれ変わった先で幸せになれるかもって」
三人の間には浮かれた空気が満ちていた。
「おい、なぁおい、豊崎さんよ。俺の分もあるんだろ? その書類」
転生後の人生に希望が指しているのと言うことがわかった後は現金なものだ。久保田が自分の分も見せろと豊崎にせっつく。
「あぁ、そうでしたね、久保田さんにもお見せしないと。あぁ、もうこんな時間じゃないですか」
豊崎は腕時計に目をやりながら、焦って久保田の分の書類にも手を伸ばす。
「時間とかあるんですか?」
豊崎の言葉に耳聡く疑問を抱いたのは黒川だ。
「あ? えぇ。そうなんですよ。輪廻転生に同意いただいた後一定時間で自動的に輪廻転生が始まってしまうので、それまで、資料に目を通していただかないといけないんですよ」
「へーそんな風になってるんですか」
「そうなんです。えっと。久保田さんの転生後はっと。……えー……。んん?」
「おい! どんなんだ? 見せろ」
「あ、ちょっ!」
待ちきれない久保田は豊崎の持つ書類に手を伸ばし、強引に奪い取った。
「…………」
「どう、久保田君。いい感じ?」
「なんだよこれ!!!!」
あらん限りに振り絞った久保田の怒声が狭い部屋に満ちた。力の限りで書類を机に叩きつける。
「……羊……ですね」
豊崎が聞こえるか聞こえないか位の音量で答えた。
「羊?」
まだ書類を見ていない黒川は久保田の怒りも、豊崎の答えも理解ができない。久保田が叩きつけた書類を脇からそっと見る。
黒川の書類には赤ん坊の写真が貼ってあった部分。久保田の書類はそこには生まれたばかりでまだ目も開いていない動物の仔の姿を移した写真が貼られていた。
「え? なにこれ?」
黒川が慌てて顔を上げるが久保田は肩で息をしているだけで、目も合わせようとはしない。
豊崎が、その黒川の問いに答えた。
「仔羊ですよ。畜生道って奴です。いやー、これで合点が行きました。お二人は練炭自殺をなさったんですよね?」
「えぇ」
「最後、火はどちらが点けました?久保田さんでは?」
「えっと、どうだったかな?」
記憶に無いことを問われ、戸惑う黒川は久保田に視線を向けるが、久保田は茫然自失の体のままだ。
「いえ、おそらくそうなはずです。つまりはですね、久保田さんは黒川さんを殺した極悪人。だから畜生道。で、黒川さんは罪無き被害者。だから来世に恵まれる。そういうことなん」
「ふざけんなぁああぁあああぁぁっっっっっ!!!」
久保田の咆哮が轟き、折りたたみの机が宙を舞う。
「俺たちは一緒に自殺したんだぞ!! なんで俺だけがこんな目に合わなきゃなんないんだよぉっ!!!」
「久保田……」
「そうは言われましても。こればっかりは私どもが決めてるわけでもないですし」
忘我の怒りに身を任せ、机を蹴りつけ続ける久保田。理不尽なまでの処遇にその怒りは机からもっと具体的な敵を求め、視線がさまよい、そして止まった。
「久保田君?」
「ふざけんなよ黒川てめぇ!! なんでお前の来世ばっかり恵まれてんだコラァァアアア!!」
久保田は怒りに任せ机を持ち上げると、渾身の力で黒川へと振りかぶった。
勢いがついた机は、しかし黒川に叩きつけられることはなかった。
「!!??!?!」
先ほどの豊崎の時のように机が黒川をすり抜けたのではない。
黒川の姿が消滅したのだ。
「あぁ、もうお時間のようですね」
豊崎がポツリと言った。
怒りのぶつけ所を突然失った久保田はその矛先を残った豊崎に向けた。
「ふざけんな!! 俺は輪廻転生なんかしねぇぞ!! なんで俺だけ殺人犯にしたてあげられてひつ……」
途中まで紡がれた言葉はその主の消滅によって途切れた。
「よっこいっしょと」
二人の居なくなった部屋で豊崎は久保田の暴れた後かたづけをする。机を起こし、椅子を並べながら、小さくひとりごちる。
「まぁ、さすがにちょっと気の毒ですかね」
こうしてこの世を呪った二人の若者が消え、温暖化ガスとなるゲップをする羊と世界的名ピアニストが生まれることとなった。
「う゛ぇえっぷ」
今日も羊は草を食みゲップをする。
ご一読ありがとうございます。
コメディは軽めのテンションで後書きを書いても、読者の方々の読後感を損なう事がないので気が楽ですね。
と言っても、コメディはシリアスと違って、書いてる途中に軽いテンションに鬱憤が溜まる事もないので、そんなに書くこともないのですが……。
まぁ、なんですかね、お気の毒に久保田さん、って感じですかね。
皆、集団練炭自殺するときは絶対に火をつける役は駄目だよ、っていう教訓を学んでいただいたところで、さようなら。
もし、よければ、他の作品にも目を通していただければ幸いです。