第十八話 戦わずして勝つ
律照尼は『ひゅう』と口笛を吹いて長康の鼓舞を見ていた。
「絶対に闘気の応用だけじゃないのう…。まあ、聞かないでおくか」
進軍を開始した織田軍、先頭にある長康の後ろに律照尼はついた。
この鼓舞で長康が苦労したのは、のっけから宋江のスキル『梁山泊』をフルパワーで行わないこと。士気が上がりすぎて敵勢と当たる前に味方兵は疲れてしまう。強力なカードは使いこなすのも、また難しいのだ。
進軍を開始してほどなく、長康は脳内の戦場マップを見た。神視点の空から見ることが出来る。しかも現在進行形でだ。
(先方は赤備え…。山県昌景か…。次の備えが本多忠勝…。他も武田と徳川の武将オールスターだ。これは日向殿でも勝てないわけだ。戦場マップで敵の進路を塞ぐに絶好のポイントは…ここだ)
その夜の軍議、長康は先に脳内の戦場マップを大きな紙に書き写して、軍机の上に広げた。
「敵の進路に陣城を築くのは今さら無理であるが、ここの段丘の地形を利用すれば天然の要害となる。敵方はどうしても、この狭隘な道を通らなければならないし、大軍の利が発揮できない。道には二段三段の馬防柵を構築して敵軍を防ぎつつ、段丘から矢と気弾で削る。地味なようだが、これが一番確実だと思う。そのうち清州から、こちらに援軍に来る。決戦はそれからでも遅くはない」
「「ははっ」」
「明日はこの段丘の地を押さえるが敵軍とて、ここが要地と分かっていよう。取られていたら奪い返す。まだ敵の手に落ちていなければ、ここに陣を構えて援軍を待つ」
「「ははっ」」
翌日、長康たちは目的地の段丘に到着。予想通り、その段丘は敵軍が押さえつつあった。
「先行部隊は少数で、かつ陣構えの作業にまだ入っていない。だが油断するな。この要地を取れるか否かで戦が決まる!」
「「おおおおっ!」」
先行部隊は穴山梅雪の部隊だった。武田徳川側も、この段丘を重要な要地と見ていたことが、これで分かる。歴戦の将であり信玄の一族である穴山梅雪に任せたのだから。
「殿、織田軍が寄せてきました」
「こちらが高所だ。矢と気弾で迎え撃て」
急こう配の段丘、先頭に立って穴山へ迫る長康。矢の雨が織田軍を襲うも
「サポートカード【SSR◆無だいだらぼっち】巨大円匙」
巨大なスコップの先端が突如現れて矢と気弾をすべて防いでしまう。
「おおっ、すごい法術にござるな!」
と、滝川一益
「だいだらぼっちの加勢にござる」
「ほう、確かに貴公が琵琶湖のだいだらぼっちを倒したという話を聞いたことがあるが、なるほど倒すと使役が可能になると」
「本人は出てきませんが、彼が使ったと言われている巨大な円匙がこうして盾となり守ってくれるのですよ」
「すごいものにござるな。その場だけの盾ではなく、樹々に支えず我らと共に移動してくれるとは…。と、そろそろ敵兵と当たるか」
明智左馬之助は槍の柄をしごいた。
「旗印から信玄親族の穴山梅雪の軍勢だ。律照尼!」
「はいよっ!」
「気張れ、左馬之助、あの女子に手柄首みんな持っていかれたら我らは笑い者ぞ!」
「伊予殿こそ!」
織田軍は穴山勢に襲い掛かった。律照尼は兵をどんどんなぎ倒し、武将級は残して現在長康の元にいる将たちに花を持たせた。
「ひぃ、はぁ、山岳戦は堪えるの…。だが…」
滝川一益は激しい乱闘のすえ敵将の首級を高々とあげた。
「穴山梅雪殿、討ち取ったぁー!」
「一歩遅れたかぁ…。はぁ、ふう…」
そういう明智左馬之助も穴山家の重臣二人を討っていた。残る穴山勢は敗走をしていった。
「追撃はよい。みな、疲れているだろうが敵は待ってくれぬ。この地に陣場を作るぞ!」
「「ははっ!」」
穴山梅雪の討ち死には、その日のうちに武田徳川連合軍の本陣に届いた。
織田軍にあの地を取られたら厄介だった。長康の言う通り、大軍の利は活かせず段丘は天然の要害なので堅固に陣を構えられたら、それはもう野戦ではなく城攻めをさせられる形になる。
織田勢に要地を取られて、すぐに山県昌景と本多忠勝が手勢を率いて先行したところ、長康が構築した陣を見るや昌景は
「敵ながら天晴、これはすごい、すべて法にかなっている」
忠勝も頷き
「かつ敵兵の士気も高い。我らは大軍の利が行かせず削られていくだけになろう」
諸葛亮孔明、司馬懿仲達、張良子房のサポートカードを使って陣場作りを指揮したのだ。それは堅固な陣構えとなったであろう。
本多忠勝が
「一騎打ちを所望する。塩見武蔵は剛勇の若武者と聞く!我は徳川家康家臣本多平八!いざ尋常に勝負!」
と、塩見陣に大音声をあげて挑発したところ
「応じることはありませんぞ。こちらの堅固な陣を見て焦りが生じたのでござろう。司馬仲達に女ものの衣服を贈って挑発した諸葛孔明と同じ。放っておきなされ」
滝川一益が長康に進言した。すると
「伊予殿の言、もっともなれど、せっかくのお誘いを無視するのも野暮であろう。私が参ろう。よろしいか、殿」
「おい、あの男は本多平八だぞ」
どれほど強いか、分かっているのかと長康は言うも
「強そうじゃのう…。うひひひひひ」
律照尼、この世界の八百比丘尼は戦闘狂だ。
「分かった。許す」
「ありがたき幸せ」
陣から出てきた律照尼が山県昌景と本多忠勝の元へ歩き
「私がお相手しよう」
男装していても声で女と分かる。山県昌景は激怒し
「女を出すとは何事か!」
そう塩見陣を罵ったが、忠勝は逆に山県昌景に少しの失望をした。この女の強さが分からないのかと。
「塩見家家臣、律照尼。すまんのう、大将を先に出したら塩見に人無しと言われてしまうでな」
「そうであろうな」
「言っておくが、我が主は私より強い。女が自分より弱い男に抱かれるはずなかろう」
「改めて名乗ろう、儂は徳川家康家臣、本多平八郎忠勝」
応じるのか、山県は驚いた。戦場では女が一騎打ちを望んでも断るのが常だ。勝って当然であり、後れを取れば女に敗れたと武人の名に傷がつく。しかし忠勝は応じた。
律照尼は収納法術から三節棍を取り出した。法具であり、長刀、槍にも変化する。
しかも如意棒のように伸縮自在という厄介極まりない武器だ。
「おぬし強いのう…。坂田金時をこれで叩きまくったことを思い出すわ」
「何をわけのわからんことを…」
「じきに分かるわ。きゃはははは!」
歓喜の笑い声をあげるや、律照尼は忠勝に突進、愛槍蜻蛉切の横一閃を忠勝が繰り出すと律照尼は三節棍を縦に広げて、真ん中の棍で受け止め、即座に上下の棍で絡め取り、蜻蛉切を奪った。
「なっ…」
蜻蛉切、槍に形状を変えた三節棍の槍二刀流になり、律照尼は怒涛の連続突きを繰り出す。刀を抜いて、それをしのぐ忠勝。同時に闘気を高め、距離を取るや
『百本槍!』
名の通り、百本の鋭い槍状の気弾が律照尼に襲い掛かる。
「喝!」
だが気弾はすべて消滅、忠勝も通じるはずもないと分かっていたか、気弾を放つと同時に律照尼に突進して刀を振り下ろした。槍を交差して、それを受け止めた時、忠勝の重い蹴りが律照尼の横腹に叩きつけられた。吹っ飛んだ律照尼。蜻蛉切を回収した忠勝は倒れる律照尼に止めの一撃と思えば、それを掴み取られて槍ごと投げ落とされた。
山県昌景はその光景を呆然として見ている。武田徳川連合軍の中で最強を誇る本多平八郎忠勝が女武者に敵わないとは。
「続けるか?」
「当たり前だ」
「そうこなくてはのう!」
その後も互角に戦う二人、夕暮れ時になったので
「このへんでよかろう、本多平八」
「うむ」
「縁があったら、また槍を交えようぞ。楽しかったわ。あはははは!」
手を振って立ち去る律照尼の背を見る忠勝は
「冗談ではないわ…。ふっ」
「本多殿」
「山県殿、何やら無双の武勇を誇る母親に稽古をつけられたような気分でござるよ」
その後、山県昌景と本多忠勝はいったん本隊へと戻り、やがて武田信玄と徳川家康も長康が布陣した段丘の前に到着して本陣を築いた。突破は困難と見定め攻撃を始めなかった。
「父上、我らはここに留まっても兵糧が無駄に消耗するだけ。敵軍にはそのうち援軍がやってまいります。多少の犠牲は覚悟して力攻めで突破すべきかと」
武田義信が言うが多少の犠牲では済まないと信玄は考えている。
穴山梅雪は歴戦の将、しかも段丘高所に陣取っていたのに織田軍に敗れて首まで取られた。塩見陣に潜入しようと企てた武田の透破衆や徳川の伊賀衆も生きて帰ってきた者は一人もいない。
現在分かっているだけでも二人、とんでもない闘気と法力の使い手がいるということ。
もちろん、武田と徳川にも闘気と法力を使って戦う武将はいる。しかし報告を聞く限り、太刀打ちできるとは思えなかった。本多忠勝が戦った女武者、一騎打ちを終えたあと息一つ切らしていなかったという。しかも塩見武蔵はその女より強いと。まるで日本書紀に出てくる飛騨の鬼神両面宿儺のごとしの武勇。大事な家臣をその使い手二人と戦わせて無駄死にさせるわけにもいかない。個の力で戦局が変わる、それを痛感する信玄と家康。
「徳川殿、明智と森、稲葉…。信長に大打撃を与えたのは確か。六分勝ちということで引き上げるか」
「それがしも同意見でございます」
「塩見武蔵守か、若いと聞くが大したものよ」
塩見陣になびく『理世安民』の軍旗を見つめて信玄は言った。
「父上、ここまで来て…」
「義信、天下を取ると云うのは時間がかかる。儂一代では無理だったということ。おぬしが武田を引き継ぎ、再び上洛の途に着くがよい。京の都に武田菱の旗を立てるのは別に儂でなくても良いのじゃ。今回の儂と徳川殿の失敗もよう生かしてのう」
「はっ、ははっ!」
武田徳川連合軍が退却するという知らせが長康の陣に届いた。戦わずに勝つ、さすがは歴史に名を残す軍師たちのサポートカードというところか。
「やりましたな、武蔵殿!」
長康の肩を抱く滝川一益、武田徳川連合軍を退却せしめた大将の副将を務め、かつ穴山梅雪の首も取った。挽回が成ったと嬉しそうだ。
「これで…主君日向と内蔵助の御霊も報われまする」
死んであの世に行った時、主君光秀と同朋斎藤内蔵助に顔向けできる。左馬之助の目には、うっすらと涙が。
織田の陣は歓声に湧いた。堂々たる勝利だ。もはや誰も敗残兵の寄せ集めとは言うまい。
武田徳川連合軍の退却が偽りのものでないと確認後に陣払い、清州へと戻ることにした。清州城には秀吉が入っており、前線に向かう準備をしていたが武田徳川連合軍が退却をしたという知らせが入って取りやめに。
塩見家家老の作田伯耆守輝久が率いた塩見軍も到着していた。長康が清州に帰還すると輝久と主なる家臣たちが平伏し
「「殿、面目次第もございませぬ。戦に間に合わぬとは何たる失態!」」
「何を言う、戦わず勝てたのだ。さあ立て」
「殿…」
長康は輝久の手を取り立たせた。
「みな、よう来てくれた。たまたま武田徳川連合軍は退却してくれたが、もう少し粘られていたら戦うことになっただろう。とはいえ相手は武田信玄と徳川家康、出来れば戦は避けたかった俺としては最高の結末だ。何事もないことが一番良いことなのだ」
「「ははっ」」
「さて、羽柴様に目通りしてくる。若狭に戻る準備をしておくように」
「「はっ!」」
清州城内に入った長康、話を聞くと秀吉は信長に清州城代を任されているらしい。国元に帰るためには許可が必要だろう。
「殿、塩見武蔵守様がお越しです」
「お通しせよ」
羽柴秀吉と塩見長康、手取川の戦い、その軍議以来の再会だ。
「塩見武蔵守長康にござる」
「おおっ、久しぶりにござるな」
長康を見るや親しげに歩み寄ってきた秀吉。
「はい、湊川の本陣以来にございます」
「ほれ、秀法、この方がおらねばおぬしはこの世に生まれなかったのじゃ。礼を申せ」
「はい、父と母より話は伺っております。それがしは羽柴筑前が嫡男、秀法にございます」
史実では存在しない秀吉とねねの間に生まれた嫡男秀法、凛々しい顔つきの若武者だった。
秀法の『法』は信長幼名の『吉法師』から拝領した字である。
「武蔵守殿、貴公が武田徳川連合軍を見事退却させた術、せがれに教えて下さらんか」
「まあ、それほど特別な方法は取っておらぬのですが…」
長康は武田徳川連合軍との戦いのあらましを秀吉、秀法親子に伝えた。
「ううむ、大したものじゃ。戦わずにして勝つか」
「はい、また信玄の『ことは何事も六分勝ちがよい』という信条にも助けられたと言えるでしょう。織田は日向殿を始め家中の柱石を多く失いました。敵方にとっては十分な戦果とも言えるでしょうから」
「なるほどのう…。ちょっと秀法、外してくれぬか」
「はい」
「羽柴様?」
廊下にも出て周りに誰もいないことを確認する秀吉。改めて長康の前に座り
「前線に赴く前、上様に小牧山城に行けと進言したのは、おぬしだそうじゃな」
「その通りにございます」
「ようやってくれた」
「…………」
秀吉は長康の前から立ち上がり、窓の風景を眺めつつ
「武田徳川連合軍に日向殿が大敗し、前線を鼓舞するために清州に入った上様、塩見武蔵に残存兵を預け、前線に向かわせた。上様の元に在る兵は少なくなる。その情報は援軍に向かっている最中にも入ってきた。その時に頭の中でもう一人の羽柴筑前が言い寄るのよ。織田信長を討って天下を奪えと」
「それは羽柴様だけではありますまい。筒井殿も細川殿も思ったのではないでしょうか。天下への野心あって戦国武将というもの」
「それと…上杉との戦における無断退陣の罪、中国を切り取って挽回せよ、というご命令を上様より受けたものの…実のところ播磨と但馬の調略が上手く行っておらぬ。たとえ播磨と但馬を取って西進したとしても、その先に待っているのは毛利元就とせがれの三兄弟じゃ。倒せるとは思えんし、倒せたとしても石見銀山は尼子の爺さんによって閉山同然、石見銀山が無ければ中国を取る旨味など、さほど無い。金も人も割に合わぬ。正直追い詰められておった」
「…………」
「織田信長を討って天下を奪えば…。そんな気持ちを振り払いつつ清州に到着してみれば空き城、上様は小牧山城に在ると。それを聞いた時は心底ホッとしたわ。愚挙に及ばずに済んだのだからのう」
「では私は羽柴様を簒奪者の汚名から助けたことになりますな」
「その通りじゃ、礼を言う」
「では、国元に帰ることを快く了承して下されれば幸いです。妻たちに会いたくて仕方がないのです」
「おお、能殿と紗代殿はお元気かの」
秀吉は長康の妻である能と紗代に熱田神宮で会っている。
「はい、羽柴様とお会いした時は可憐な美少女でしたが、今では怖い母親ですよ」
「ははは、女子は子供を生むと強くなるからのう。よかろう、引き上げられよ。途中に小牧山に寄って上様に戦の報告をしていくようにの」
「はっ」
『試練【武田徳川連合軍と戦い勝利、もしくは退却させよ】を達成しました』
『薬根八十貫(300キロ)、薬草八十貫を獲得しました』
(大層な質量だが収納法術内に自動的に入ってくれるのでありがたい。しかし…さすがにサポカの達成報酬は頭打ちか…。前世では月五千円課金してガチャを回してサポカはせっせと集めていたからな。脳内の『異日本戦国転生記』は前世の時と違いアップロードも無ければ新イベントもない。俺が死んだ時点で更新はストップしたままだから、もうサポカのコンプも近い。アイテムかサポカか、何が出るかはランダムだし、今後サポカが達成報酬で出るのはあまり期待しない方がいいな。現状でも十分生きていけるし。むしろ薬根八十貫、薬草八十貫の方が嬉しい。最近は自分で採取に行けるものではないからな)
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「おぬしの手柄は武田徳川連合軍を寡兵で退却せしめたものも大きいが、儂に清州を出て小牧山に行けと言った、あの進言よ。よう言ってくれたな」
「ありがたき幸せ」
「あの戦では日向を始め、多くの人材を失った。おぬしはまだ若く、今後の織田の柱石となる男となるであろう。聞けば、せがれが一人前になったら早々に家督を譲り、うなぎ屋に戻ると言っているそうだが…」
どこで聞いたのやら。信長に言った覚えはない。吉乃は苦笑している。
「主君として、その願いを叶えてやりたいのは山々であるが、それは無理な相談かもしれぬな。信忠はどうか?」
「武蔵には申し訳ないですが…面倒なことは息子とそれがしに丸投げして料理人に戻るなど、いささか虫が良すぎるのではないかと」
「だ、そうだ。はっははははは!」
「武蔵殿、貴方は料理人であると同時に名医でもあります。人を治すのは小医、国を治すのは大医と言います。貴方が嫌でなろうとしなかった武士としての仕事は、この大医の道に繋がるのではないでしょうか」
長康に病を治してもらった吉乃ゆえの言葉だろう。それを聞いた信長は
「いいことを言う。さすが吉乃だ」
長康もこの時点で腹を括ったか
「及ばずながら、今後も織田のために尽力し、大医の道を進もうと思いまする。なれど」
長康は凛と胸を張って言った。
「うなぎ屋はあきらめません」
「こやつめ、あっははははは!」
「せっかくです。本日、武蔵殿が訪れると聞いていたので台所方にうなぎを仕入れておくように伝えてあります。久しぶりに我らへ振舞ってもらえませんか?」
ちなみに信忠は長康が調理したうな丼を食べたことが無い。吉乃の申し出を快諾した長康は
「お安いご用です。たれと調理器具は収納法術に入っていますから」
久しぶりに長康のうな丼を食べた信長は
「悔しい、何が悔しいとは武蔵に『天下一料理人』の称号を与えたのが儂ではなく三好長慶ということよ。もう少し早く天下を取っていればのう!ああ、何たる美味さよ」
信忠は普段貞淑で大人しい母の吉乃がものすごい勢いでうな丼をかきこんでいる様子に唖然としつつ
「これはうなぎ屋に戻りたいと云う思いは分かるのう武蔵…。この逸品を多くの人に食べてもらいたいという気持ち、武士である儂にも分かる」
「ははは、大丈夫にござる若殿!七十の爺さんになっても、うなぎ屋は出来まするゆえ。そのころには孫も育っているでしょうし、どんなに止められようが隠居する所存にござるよ」
信長たちは台所近くに卓を用意して食べている。長康がうなぎを調理する姿もまた見る者を魅了する。団扇を仰いで火力を調整する姿さえ粋だ。
「武蔵殿、おかわり!」
丼を長康の元に持っていく吉乃
「母上、三杯目ですぞ…」
「あ、私も…」
続けて丼を差し出す娘の名は咲、生駒家の姫だ。彼女は小牧山城における長康の現地妻である。
長康が最初に小牧山城に訪れたのは牢人のころ。その時に病弱な吉乃を治した。この時に吉乃は長康に大変感謝して、宿泊のさい生駒家の美少女に伽を務めさせようと思うが、さすがに能と紗代に遠慮して控えた。
二度目の小牧山来訪の時は長康が織田家家臣になったことを世継ぎ信忠の生母吉乃に報告するためだったが、吉乃は当時ひどい痔を患っていた。夫の信長にも羞恥のため言えずにいた。しかし座り方が不自然であった吉乃を見て長康はあっさりと痔と見破る。もちろん吉乃は長康が名医と知るので診てもらいたいと思っていたが、やはり羞恥の心が勝り言えなかった。長康は『医者に隠しても始まりませぬぞ』と吉乃に少しの説教をしたうえで治した。人の営みにおいて大切な排泄が地獄であった吉乃は長康に泣いて感謝した。
この時の長康は能と紗代は伴っていなかったので、小牧山城に宿泊した長康に生駒家の姫咲に伽を務めさせた。
側室を多く持つ戦国大名は多いが、長康のように主家や同朋の城に現地妻を持つ者は珍しいだろう。坂本城、北ノ庄城、小牧山城にいる。
「武蔵様、おかわり」
「咲、三杯目だぞ…」
苦笑しつつ丼を受け取り、飯を盛る長康に
「今宵の閨のために精をつけておかねばなりませんから」
信長と吉乃は大笑いした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
塩見家筆頭家老である作田伯耆守輝久、もと室町幕府第十三代将軍足利義輝。
彼と信長は小牧山で再会した。以前、御所で拝謁して時が過ぎたが信長は現在の義輝を見て
「ずいぶんと覇気溢れるお顔になりましたな」
「よされよ、それがしは織田家の陪臣、君主がそんな畏まった話しようはよくありませぬぞ」
小牧山城、信長の私室に通された輝久、酒を酌み交わした。信長も輝久の言う通り態度を改め
「あのころの大樹…いやおぬしは、あまり良い顔をしておらなんだ」
「さもありましょう、政争に疲れ、三好の専横に腹を立てている毎日でござった」
「そして、ついに襲撃されたということだろうが…武蔵守に助けられたという話は本当なのか」
「事実にござる。妻も討たれ、もう自暴自棄になって太刀を振っており、いよいよ追い詰められて数多の刀槍に貫かれると思った瞬間、殿…当時は作太郎殿ですな。天井を突き破って降りてきました」
「ほう」
「いや、剣豪将軍と呼ばれたそれがしから見ても惚れ惚れするほどの武芸で三好兵をなぎ倒していきました。戦を終えたあと将軍職を捨てて剣の修行の旅に出ては、と彼に勧められましてな。それもよかろうと思い、旅に出て…」
「織田に仕えたと聞き、出仕したと」
「その通りにござる。命を助けられた恩義もあり、それがし自身、あの若者に惚れておりまする。うな丼と共に」
「うん、あれは卑怯じゃ。多少武蔵に無理な願いをされても、うな丼を条件に出されたら飲んでしまいかねん」
信長と輝久は笑いあった。当の長康は生駒の咲姫の肢体をお楽しみ中であった。