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出師準備

 アメリカ太平洋艦隊が根拠地をハワイに推進したのは昭和十三年一月です。アメリカ西海岸のサンディエゴから四千キロもの西進でした。この措置は、米英海軍協力計画に基づいて実施されたもので、明らかに日本に対する威圧です。

 実際、日本海軍は脅威を感じました。ハワイを根拠地とすればアメリカ艦隊は従前より迅速に日本本土に近づくことができます。日本側から見れば、漸減作戦に使える時間と空間が大幅に縮減されたことになります。さらに、シンガポールの英東洋艦隊と米太平洋艦隊とが合流すれば、日本艦隊は圧倒的に劣勢となります。

 劣勢の日本海軍はどうしても守勢の発想になりがちでしたが、五十六は逆に考えました。アメリカ艦隊のハワイ進出を奇貨とし、開戦劈頭、空母艦上機による空襲でアメリカ艦隊主力を撃滅できないか。いや撃滅せねばならない。南方作戦を成功させるためには英米の艦隊が合流する前に各個撃破する必要があったのです。

(兵は拙速を貴ぶ。これは何も軍隊移動のことだけを言うのではない。兵器も作戦も常に刷新しつづけることを言うのだ)

 そのように五十六は思うのですが、海軍内の作戦思想は全般的に慎重かつ保守的でした。

(それも解らぬではない)

 劣勢だからこそ戦力を温存したくなるのです。また、もともと砲術科出身の五十六には戦艦主兵論も十分に理解できました。事実として、この段階では、大艦巨砲主義は決して時代遅れではありませんでした。戦艦の艦砲射撃装置は最先端技術の集積です。例えば射撃盤というものがあります。これは電子計算機の前身のようなものです。艦砲射撃に必要な三十以上の諸元を入力すると射撃盤がたちどころに大砲の旋回角と仰角を算出するのです。砲弾や装甲の研究も日進月歩に進んでいます。艦砲射撃技術向上のために長い歳月と莫大な予算とが費やされてきており、その技術と人材の集積こそが海軍力の根幹です。この点、英米両国の海軍とて同様です。

「戦艦同士の艦隊決戦ならば負けない」

 日本海軍の砲術専門家は自信とともに主張しました。当時の機密によれば、日本海軍の艦砲射撃精度はアメリカ海軍の三倍と推定されていました。だから大艦巨砲主義者が自信を持つのは当然です。

「ハワイ空襲など必要ない」

「ハワイ攻撃はあまりに投機的すぎる」

 という反対論を五十六は十分に理解しています。そして、ハワイ作戦への反対を直訴してくる剛の者を五十六はむしろ頼もしく思います。連合艦隊司令長官に対して臆することなく、歯に衣着せず反論してくる部下こそ貴重です。そんな五十六は、軍令部という上級組織に対してだけは強情な部下として自説を主張しました。

「ハワイをやらせろ。ダメだというなら、首にしろ」

 五十六にとっての眼目は、大いに議論し、議論し尽くすことによって作戦を洗練させることです。五十六自身が腹の底から納得できる作戦でなければ、どうして部下に命令できるでしょう。とはいえ、五十六には組織の秩序を紊乱(びんらん)しようなどという意志は全くありません。あくまでも筋を通して軍令部を説得し、正式作戦としてハワイ空襲を実行するつもりです。


 五十六が海軍大将に昇った昭和十五年八月、東京では第二次近衛文麿内閣が日独伊三国条約の締結に向けて内部調整を進めていました。ときの外務大臣松岡洋右(ようすけ)は、青春期をアメリカで過ごした知米家であり、日米の対立を大いに憂えていました。前任の外相たちは、頑迷なアメリカ政府の態度に阻まれて対米交渉の糸口さえつかむことができませんでした。やむなく松岡外相は、日独伊ソの四国を同盟させ、日本の外交力を増勢して、アメリカを交渉のテーブルにつかせようと考えました。

 対するアメリカ政府は対日圧力を強めています。昭和十五年七月に国防強化促進法を成立させ、それまでの道徳的禁輸措置を法的根拠に基づく対日禁輸措置へと転換し、さらに禁輸品目の範囲を拡大させました。こうしたアメリカの強硬措置に対し、日本の歴代外相は再三にわたってアメリカ政府に平身低頭し、関係改善のための交渉開始を提案してきました。ですが、アメリカ政府は歯牙にも掛けてくれません。こうしたアメリカの対日強硬態度を見たアメリカ通の松岡外相は考えました。

(アメリカ相手にアポロジスト外交は通用しない。日米交渉の糸口をつかむためには強く出るに如かず。真正面からアメリカと交渉しても(らち)があかん。国力で圧倒的に優位なアメリカが交渉に応じてくるはずはないのじゃ)

 そう判断した松岡洋右外相は苦肉の策を採用します。日独伊三国条約を結び、これにソ連を加えた四国協商を形成し、その集団的国力を背景にして対米交渉の糸口をつかもうとしたのです。

 欧州におけるドイツ軍の快進撃を見て日本の国内世論は親独一色になっています。だから、ドイツとの同盟論は世論に歓迎されました。陸軍も賛成です。しかしながら、松岡外交の目的はあくまでも対米和平であり、三国条約はそのための手段でした。だからこそ海軍首脳はこれを了解し、日独伊三国条約への賛成を決めました。

 海軍省は、海軍としての合意を形成するため海軍首脳会議を開催しました。海軍省と海軍軍令部の首脳、各艦隊司令長官、各鎮守府司令長官、議定官、軍事参議官が参加します。当然、五十六も連合艦隊司令長官として出席しました。

 議題は三国条約締結の是非ですが、すでに結論は決まっています。会議は事後報告の儀式であるに過ぎません。豊田貞次郎海軍次官が司会進行し、阿部勝雄軍務局長が経過を説明しました。阿部軍務局長は松岡外交の本旨を明らかにし、出席者の同意を促します。

「外務省の目的は日米交渉を開始することであり、最終的には対米宥和を目指しているのであります。既に近衛内閣はこの方針で動いており、海軍がこれに反対すれば、近衛内閣は崩壊しかねません。その場合、責任は海軍がとらねばならなくなります」

 事前の根回しが効いており、議論らしい議論は起こりません。

「ここまできたら仕方がないね」

 発言したのは軍令部総長の伏見宮(ふしみのみや)博恭王(ひろやすおう)です。これに応じるように大角岑生(みねお)大将が声をあげました。

「軍事参議官としては賛成である」

 議場は再び沈黙につつまれました。その沈黙を破ったのは五十六です。実戦部隊の責任者たる五十六は、海軍省や軍令部の方針に反対はしませんでした。ただ、実務的な見地から質問を発しました。

「私は大臣に対して絶対に服従するものであります。ただ心配に耐えぬところがありますのでお尋ねいたします。最終的には対米協調を目指すのが近衛内閣の外交方針であるとはいえ、日独伊三国条約となれば米英の対日姿勢は一時的に硬化すると考えねばなりません。八ヶ月前まで私が次官を勤めておりました時の政府の物動計画によれば、物資の八割までを米英圏内の資材でまかなう事になっておりました。しかるに三国条約成立後、米英よりの資材は入らぬことになる可能性が大であります。その場合、不足を補うためにどういった計画変更がなされるのか。この点を聞かせていただきたいのであります」

 物動計画とは物資動員計画のことです。企画院により策定され、重要な資源や物資をどう調達し、どう配分するかが計画されます。三国条約によって一時的に英米との緊張が高まり、その結果として英米圏からの物資調達が止まった場合、具体的にどう対処するのか。物資がなければ海軍どころか国家そのものが機能不全に陥ります。なかでも石油はどうなるのか。アメリカからの石油が途絶えたら連合艦隊は無力化するのです。その対策はあるのか否か。実戦部隊の責任者として訊かないわけにはいきません。

「・・・」

 しかし、誰も答える者がありません。五十六はさらに質します。

「松岡外相の外交方針は理解できるとして、一時的にとはいえドイツに接近すれば、最悪の場合、アメリカとの衝突も覚悟しておかねばならない。その場合、現状の航空兵力ではまったく不足である。零式戦闘機を一千機、一式陸上攻撃機を一千機、これがどうしても必要だが、整備の見通しはあるか」

「・・・」

 出席者は鼻白みました。せいぜい三百機ずつ整備するのが精一杯だったからです。そのことを百も承知の上で五十六は質問しています。返答はありませんでした。儀式としての会議では論議しないというのが日本人の特性です。気まずい沈黙のまま時間が流れました。誰もが無言でしたが、海軍省の首脳はしきりに目配せし合いました。その視線は司会役の豊田貞次郎次官に集中します。

(早くなんとかしろ)

 無言の圧力に尻を押され、豊田次官が沈黙を破りました。

「いろいろ御意見もあるようですが、先にご説明したとおりですから、よろしくご了承ねがいます」

 こんなことで海軍首脳会議は終わりました。まことに茶番らしい茶番です。五十六の手の届かぬところで日本の政戦略環境が形成されていきます。松岡外交の狙いは理解できるとしても、果たして思いどおりに事が運ぶかどうかはわかりません。五十六は最悪の事態を想定して質問したのです。連合艦隊司令長官といえども所詮は実戦部隊の現場監督者であるに過ぎず、国家戦略には介入する術がありません。それでありながら、いざ戦争となれば最前線に部隊を進め、多くの部下を死なせねばならないのです。


 昭和十五年九月二十七日、ドイツにおいて日独伊三国条約の調印式が行われました。その数日後、五十六は近衛文麿総理に招かれました。これを承けるかどうかで五十六は迷いました。それというのも、近衛文麿という人物の機密保持の無頓着さが(つと)に知られており、その悪評が具体的な事実とともに五十六の耳に届いていたからです。会見するのなら正直に存念を打ち明けたいところです。しかし、機密を守ろうと思うなら会談そのものを蹴ってしまう方がよい。とはいえ、せっかく総理大臣に意見できる好機です。連合艦隊司令長官の責務は戦術的勝利を得ることですが、その戦術的勝利は政戦略条件が悪ければ意味を喪失します。政府が政戦略を誤れば戦術的勝利などまったく虚しいのです。そのことを近衛総理に直言し、慎重な舵取りを懇請しようと五十六は決意しました。

 荻外荘(てきがいそう)での会見は二時間に及びました。近衛首相の質問に五十六は淀みなく答え、遠慮なく存念を口にしました。

「ドイツの貧弱な海軍力ではイギリス上陸作戦などできるはずがありません」

 五十六なりの欧州戦局の見通しです。ドイツは電撃的にフランスを降服させましたが、対英戦争には手を焼いています。独英の戦争はこのまま膠着すると予想されました。そして、それを高みから見物しているのはソ連の独裁者スターリンです。一方、英国はアメリカの参戦を必死に促しています。このような情勢下で日独伊三国条約を締結したことがどのような事態を招くのか、現段階では必ずしも自明ではありません。ただ、欧米列強の複雑な絡み合いに日本が巻き込まれてしまったことは確かです。

 現下の情勢では、最も自由な立場にいるのはアメリカです。アメリカは主要資源を自給でき、世界最大の経済力と軍事力を誇っています。その力を以てすれば欧州と支那の戦乱を収める中立勢力として機能し得るはずでした。にもかかわらず、フランクリン・ルーズベルト大統領には戦争仲介の意思はありませんでした。アメリカは武器弾薬を英支両国に供与して、むしろ戦争を煽っています。そんなアメリカと戦争になった場合、海軍の見通しはどうか、と近衛総理は五十六に問います。五十六は即答しました。

「それは是非やれと言われれば半年か一年の間はずいぶん暴れて御覧に入れます。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てません」

 この五十六の発言を近衛文麿が記録に残したため、後世、広く知られるようになりました。五十六のこの発言は当時の海軍内の常識を述べたものに過ぎず、けっして突飛なものではありません。日米の海上戦力と国力を比較すれば馬鹿でも分かる程度の平凡な事実です。実際、この会談と前後して及川古志郎海相も同様の事柄を近総理相に述べています。

 問題は、近衛総理がこの情報をどのように扱ったかです。腹中に秘したのか、それとも側近に洩らしたのか。もし近衛総理の周辺にいた共産スパイに情報が洩れたとすれば、日本海軍首脳の対米戦争見通しは共産スパイ網にのってアメリカ政府に伝わり、ルーズベルト大統領の耳に入ったにちがいありません。


 同じ頃、アメリカでは海軍情報部極東課長マッカラム少佐が注目すべき上申を行なっていました。「太平洋地域の情勢見積および米国のとるべき行動に関する意見具申」です。このなかでマッカラム少佐は欧州および太平洋地域の情勢を分析し、ひとつの結論を導き出していました。

「アメリカ海軍が日本に対して速やかに機敏かつ攻撃的行動をとることにより可及的速やかに太平洋における日本の脅威を取り除くことがアメリカの国益に適う」

 要するに、速やかに対日開戦せよとマッカラム少佐は具申したのです。ですが、ひとつの問題がありました。アメリカの国内世論です。アメリカ世論は戦争に反対していました。それは当然でした。アメリカには戦争する理由がないのです。だから、アメリカ側から対日宣戦布告するのは困難です。とすれば、日本側から戦端を開かせる必要があります。結論として、マッカラム少佐は八項目からなる対日挑発施策を勧告しました。英蘭との協定による対日石油輸出禁止、全面的な通商停止、蒋介石への全面援助、シンガポール、ハワイ、フィリピンの軍備増強などです。

「これらの手段により日本をして明白な戦争行為に訴えさせることができるであろう」

 そして、この後、アメリカ政府はマッカラム少佐の意見具申をまるごと採用して実施していきます。こうした事情から分かるとおり、アメリカには対日宥和の意志が全くありませんでした。このことを思えば日本政府の対米和平への外交的努力は全く虚しかったというしかありません。


 海軍内で真珠湾作戦に対する評価が若干ながら変わったのは、昭和十五年十一月です。イタリアでタラント海戦が生起しました。タラント港内に在泊していたイタリア海軍艦艇に対してイギリス海軍の空母航空隊が空襲を敢行しました。英空母「イラストリアス」を発進した雷撃機二十一機は、伊海軍の戦艦一隻を撃沈し、戦艦二隻を大破させました。英軍側の損害は雷撃機二機のみです。この戦例が生じたことで真珠湾作戦は現実味を帯びました。

 同月中に連合艦隊司令部はハワイ作戦の図上演習を実施しました。詳細な検討の結果、作戦実施は可能という結論に達しました。しかしながら、真珠湾作戦への連合艦隊司令部の熱中を海軍軍令部と海軍省は黙殺しつづけました。

 海軍中枢の無理解にたまりかねた五十六は、昭和十六年一月七日、及川古志郎海軍大臣に宛て意見書を書きました。「戦備に関する意見」と題されたこの文章は、実戦担当者からする軍政担当者への切実な要望です。

 意見書の冒頭において五十六は時勢の切迫を憂え、航空戦力の増勢を求め、対米戦争の展開を予想しています。

「実際問題として日米英開戦の場合を考察するに、全艦隊を以ってする接敵、展開、砲魚雷戦、全軍突撃等の華々しき場面は戦争の全期を通じ、遂に実現の機会を見ざる場合をも生ずべく」

 五十六の予想は結果的に正しかったといえます。日本海軍が長年研究してきた漸減邀撃作戦による艦隊決戦は生起しませんでした。五十六は、想定できる事態を意見書に書き連ねます。例えば、アメリカ海軍が全艦艇を太平洋に分散させ、通商破壊を実施したらどうなるか。日本近海や南方資源地帯の海上交通路が寸断されて物資不足に陥り、軍需も民需も含めて産業そのものが停滞してしまいます。輸送船が撃沈されれば支那大陸で活動中の陸軍は餓死してしまいます。その場合、艦隊決戦を想定して造艦し、編制し、訓練されてきた連合艦隊は果たして役に立つかどうか。そして、もし幸運に艦隊決戦が生起したとして、連合艦隊は勝てるのかどうか。これにも五十六は疑問を提示します。

「作戦方針に関する従来の研究は、これまた正常堂々たる邀撃作戦を対象とするものなり。しかして数次にわたる図上演習等の示す結果を観るに帝国海軍は未だ一回の大勝を得たることなく、このまま推移すれば恐らくジリ貧に陥るにあらずやと懸念せらるる情勢において演習中止となるを恒例とせり」

 従来の作戦研究の欺瞞と不徹底を五十六の意見書は指摘しています。艦隊決戦をやったところでジリ貧になるというのが過去の研究結果です。それなのに、このままの状態で戦えという軍令部や海軍省の方が無茶ではないのか、と五十六は訴えます。実戦部隊の責任者にとって勝利の可能性こそが命令下達の前提です。五十六は、その可能性をハワイ作戦に見出し、これを提案します。

「日米戦争において我の第一に遂行せざるべからざる要綱は開戦劈頭敵主力艦隊を猛撃、撃破して米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪せしむること是なり」

 敵主力艦隊はハワイ真珠湾に在泊しています。劣勢の日本海軍としては、その敵主力を開戦劈頭に叩いて漸減し、あわよくば全滅させ、以後の戦勢を有利に運びたい。そうすれば、すくなくとも南方作戦を成功させることができます。というより、これが必須条件であると五十六は書いています。

 この意見書には五十六の苦悩があらわれています。

(いったい何をどうすればアメリカの戦意を喪失させられるのか)

 日本の軍事力ではアメリカの首都ワシントンを占領できません。具体的な屈敵手段がないのです。それでも勝たねばなりません。ではいったいどうすればよいのか。日露戦争の際には、ロシア皇帝ニコライ二世が継戦をあきらめてくれました。日本海海戦の完敗が理由でした。アメリカ大統領やアメリカ国民は、どうなったら戦争をあきらめるのか。それがわかりません。

 もはや戦術的課題を越えた難題を五十六は考えざるを得ません。しかし、考えたところで結論は出ないのです。それほどに対米戦争は日本にとって勝ち味のない戦争です。帝国陸海軍がどんなに背伸びをしても米本土に上陸する能力はありません。重慶に潜む蒋介石をさえ攻めあぐねているのが実情です。ワシントン攻略など夢想です。そして、戦争が二年、三年と続けば、国力差から日本はジリ貧に陥り、やがて敗れてしまいます。そうならないためには、なんとかして早期にアメリカの戦意を挫かねばなりません。アメリカ国民が戦意を失い、アメリカ連邦議会が戦争遂行を否認し、アメリカ大統領がそれに従うことでしか日本の勝利は導き得ないのです。しかし、そんな奇跡をどうやって起こすのでしょうか。

「対米戦争は勝利不可能である」

 五十六が自由な言論人なら、そう書いたでしょう。しかし、連合艦隊司令長官としては「不可能」とは書けません。「不可能」と書くくらいならば、意見書ではなく辞表を提出せねばなりません。いかに困難であれ、国家が要請するならば連合艦隊はこれに応じねばなりません。それが海軍で碌を食んできた者の義務です。義務を果たそうと考えに考えた結果がハワイ作戦でした。アメリカ本土は無理としてもハワイならばギリギリで連合艦隊の手が届きます。ハワイ在泊のアメリカ海軍主力を航空兵力で叩き、それによって敵勢力を漸減し、南方作戦を成功させる。そして、アメリカ国民の戦意を喪失させてしまいたい。この論理の飛躍は、五十六の切ない願望であるとともに、かすかな日本軍勝利の可能性でした。

「之が成功は容易にあらざるべきも、関係将兵上下一体真に必死奉公の覚悟堅からば、こい願わくば成功を天佑に期し得べし」

 こう書いて、署名し、五十六は筆を置きました。しばらく瞑目した後、五十六は意見書を丹念に読み返し、必要な部分に但し書きを加えました。

「これでよかろう」

 小さく呟くと、大きな溜息をつき、しばらく目を閉じて動きませんでした。口を真一文字に結びます。五十六の脳裏には太平洋の地図が広がっています。対米英戦争では広大な太平洋が戦場となるのです。目指すべき南方資源地帯は赤道をはるかに越えたジャワ、スマトラ、ボルネオです。これらの攻略が戦争目的であってみれば、アメリカの植民地フィリピンも、イギリス軍の根拠地シンガポールも攻略し、さらにその南へと進出しなければなりません。最前線はアラフラ海、ソロモン諸島、珊瑚海にまで伸展します。広大な戦域の移動だけでも備蓄石油を消費し尽くしてしまいかねない広大さです。日露戦争の戦域が猫の額ほどに狭く感じられました。

(正気の沙汰ではない)

 しかも日本は支那事変を四年も戦い続けており、国家は総動員態勢に入っています。支那事変だけでも青息吐息なのです。この上さらに英米と戦うなど自滅のための膨張としか思えませんでした。

(いったい、どうしろというのだ)

 いっそ笑いたくなるほどに政戦略環境は絶望的です。日本の国力はアメリカの十分の一ほどでしかなく、大英帝国との同盟はすでになく、ドイツとの同盟には利が薄く、勝算はほとんど見いだせません。それでも政府が要請するならば、連合艦隊は戦って勝利せねばなりません。しかし、戦うには準備が要ります。実際に戦うのは連合艦隊だとしても、戦時態勢を整えて軍艦や航空機や兵員を補充するのは海軍省の役割です。「戦備に関する意見」は、五十六からする及川古志郎海軍大臣への問いかけでした。

(いく)さには、それでよいのか」


 海軍大臣へ意見書を提出して間もなく、五十六は大西瀧治郎(たきじろう)少将に真珠湾作戦の研究を依頼しました。秘密の命令です。大西少将は航空作戦の権威であり、第十一航空艦隊参謀長に任命されたばかりです。連合艦隊司令部幕僚は宇垣参謀長も黒島先任参謀も砲術の専門家でした。五十六としては航空畑の専門家に研究させ、その意見を聴取したかったのです。

 大西少将は、この研究を源田実少佐に依頼し、秘かに研究するよう命じました。源田少佐はかつて海軍随一の名操縦士だった男であり、いまでは航空戦術の権威です。源田少佐は二ヶ月かけて真珠湾作戦を検討し、その素案を大西少将に提出しました。大西少将は、源田少佐の素案に手を加えて計画案とし、連合艦隊司令長官に提出しました。昭和十六年四月のことです。

 同時期、海軍は新たに第一航空艦隊を編制しました。その主力は航空母艦四隻です。空母主体の艦隊編制は日本海軍創設以来はじめての出来事です。従来、空母は補助兵力と考えられ、戦艦戦隊に一ないし二隻を付属させるのが常識的な艦隊編制でした。海軍は、その常識を一擲し、航空母艦を主力とする艦隊を編制したのです。これは南方作戦を支援するために実施される大機動作戦に応じたものです。第一航空艦隊司令長官には南雲忠一中将が任命されました。同艦隊所属の航空部隊はすでに九州の各基地に分散し、実戦訓練を重ねつつあります。

 日本海軍が対米英戦争に備えて出師準備を開始したのは、日独伊三国条約締結の直後からでした。以来、潜水艦を主力とする第六艦隊の編制、基地航空部隊からなる第十一航空艦隊の編制、そして、空母を基幹とする第一航空艦隊の編制と出師準備が進みました。結果、昭和十六年四月の時点で海軍の戦備は総トン数で対米七割に増勢していました。ちなみに開戦直前における日米の戦力比は次のとおりです。




          日本    米国


戦 艦 (隻)   一○    一七

空 母 (隻)   一○     八

巡洋艦 (隻)   二八    三七

駆逐艦 (隻)  一一二   一七二

潜水艦 (隻)   六五   一一一

総噸数(万噸)   九八   一四○

航空機 (機) 三三〇〇  五五〇〇



 明らかに日本軍が劣勢です。しかし、世界最強の空母機動部隊と世界最優秀の艦上戦闘機を備えており、やがて世界最大の主砲を有する戦艦二隻がこの戦列に加わります。日本海軍としては可能な限りの準備をしたといってよいでしょう。


 アメリカ海軍は優勢でしたが、とはいえ、日本海軍を鎧袖一触にできると思っていたわけではありません。なにしろ、日露戦争の際、ロシアのバルチック艦隊を全滅させたという実績が日本海軍にはあります。ですから、アメリカ海軍要路はアメリカ太平洋艦隊のハワイ進出にも反対したものです。日本側を刺戟して戦争の危険が高まるし、日本海軍によってハワイが奇襲される懸念を払拭できなかったからです。そうしたアメリカ海軍の反対意見を押し切って無理矢理にアメリカ太平洋艦隊司令部をハワイに進出させたのはルーズベルト大統領です。明らかに戦争を望んでいたと言えるでしょう。


挿絵(By みてみん)


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挿絵(By みてみん)


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