国運急転直下
昭和十年代における日本の政戦略環境は、明治後期に比べて甚だ悪化していました。日英同盟はすでになく、アメリカとは軍拡を競っています。ロシア革命後の内戦によって弱体化していたソビエト連邦はスターリンの独裁体制確立とともに勢力を盛り返し、すでに外蒙を勢力下に置き、極東軍を増勢させています。蒋介石の国民党政府も列国の軍事援助を得て実力を倍加させていました。さらにコミンテルンの共産スパイが列強諸国の政界、官界、財界、新聞界に浸透し、スパイ網を形成しつつありました。
明治後期から大正中期までの恵まれた政戦略条件はすべて消失しています。しかも列強諸国がブロック経済主義を推進したため、自由貿易の恩恵を受けて成長してきた日本の経済界は危機感を強めました。平和希求から闘争へと変化した世界の趨勢に日本も感化され、日満支の経済圏確立にこだわらざるを得ません。新聞は危機を煽り、軍拡を求める風潮が社会にみなぎります。それも当然です。列強諸国が軍拡するのを傍目にして日本だけが軍縮していられるものではありません。
しかし、それでもなお軍縮と平和をもとめる風潮は根強く、平和か軍拡かで意見の対立が生まれました。それは、たとえば陸海軍予算をめぐる議論に端的に現れます。
当時、陸海軍の軍拡に歯止めをかけ得る機関として大蔵省と帝国議会がありました。軍拡は軍事予算の増額なしにはできません。陸海軍は予算の増額を要求しますが、大蔵省主計局には陸海軍の予算要求を却下する権限がありました。そして、かりに大蔵省が軍拡を認めたとしても、帝国議会が予算案に協賛しなければ予算は執行できません。
昭和十年秋、大蔵省では来年度予算案の編成作業が始まっていました。主計局長の賀屋興宣は予算折衝の下準備に多忙を極めていました。いずれ陸海軍の担当者と大激論をせねばならないのです。そんな賀屋局長に大臣の呼び出しがかかります。
「主計局長、大臣がお呼びです」
ときの大蔵大臣は高橋是清です。高橋蔵相は自信家で、政策は何でも自分で決めました。だから下僚を呼んで相談することなどめったにありません。それどころか高橋蔵相は部下の名前さえろくに憶えようとしない人物でした。そんな高橋蔵相からの異例の呼び出しです。
「何事か?」
と思量しつつ賀屋局長は大臣室に入ります。そこにダルマさんが待っていました。「ダルマさん」というのは高橋是清の愛称です。見事なまでの丸顔に白い髭を生やし、いつも微笑をたたえています。しかし、この日のダルマさんは浮かぬ顔をしていました。
「軍部の奴らは無謀でバカバカしい予算要求をしてくる。こんなものは蹴飛ばすのが当然だが、しかし今の軍部は下剋上だ。そこで相談なんだが、いきりたつ中佐や少佐の連中に少し飴をなめさせる方が良いか、それとも厳しくたしなめた方が良いか。日本のためにはどっちが良いと思うか」
高橋蔵相は苦い表情をしています。元気者の大臣が、珍しく弱気を見せています。賀屋主計局長は即答しかね、しばらく考え込みます。そして、十分に考えてからキッパリ言いました。
「大臣、軍部の連中は、作戦で追撃ということを習っています。一歩でも譲歩すると、どこまでも際限なく押してくるでしょう。軍部に対してギュッとやれる人は高橋さんしかいません。やってください」
「・・・そうしようかね」
ダルマさんは小さな声で答えました。
数日後、高橋是清蔵相は予算閣議において火を吐くような気魄を見せました。陸海軍の法外な予算要求を非難し、国家財政の窮迫と国民経済の窮乏を具体的な数字とともに論じ上げ、切々と憂国の情を訴えます。これに対し、川島義之陸軍大臣は参謀本部から参謀を招き寄せ、予算要求の根拠を説明させて対抗しました。高橋蔵相は閣議室に大きな世界地図を掲げ、軍人を相手に真正面から戦略を論じ、「日ソ戦うべからず」と力説しました。この予算閣議は三十六時間の長丁場となりましたが、高橋蔵相の説得が効を奏し、陸海軍の予算に一定の歯止めをかけることができました。
しかし、年の明けた昭和十一年二月二十六日、高橋是清蔵相はニ・二六事件の凶弾に倒れます。共産主義に感化された将校等による凶行でした。
(あんな進言をしなければよかった)
悲報に接した賀屋興宣主計局長は後悔しました。そして、このテロ事件が予算抑制に対する軍部の報復に思えてなりませんでした。それというのも新蔵相の馬場鍈一が陸海軍予算の大幅な拡大を認めたからです。
テロの凶弾は政党からも力を奪いました。世を覆う軍部迎合の風潮に対して異を唱える者は、それでも存在していました。衆議院議員の尾崎行雄です。「憲政の神」は容赦ない軍部批判を帝国議会において展開します。
「わが国には内閣の上に軍部と称する役所があるかたちになります」
軍部を統制すべき内閣が軍部を制御できず、ややもすれば軍部によって内閣が動かされていることを皮肉りました。尾崎はこうも言います。
「ある家の細君がたいそう強情でわがままであると、その家では細君のことを陸軍と称しております」
その陸軍というのも陸軍大臣ではなく、陸軍大臣を操縦している何者かがいる、と尾崎行雄は言います。
「始終、大臣の上に立って監督する者がある。それが何者であるか知りたいのであります。若い将校であろうと思います」
しかしながら、老政治家がいかに弁論してみても世の趨勢はとどめようがありません。テロ事件という凶事によって軍事予算の抑制機構だった大蔵省と帝国議会が無力化してしまい、軍拡という世界的風潮に日本も巻き込まれることになりました。
後世、ニ二六事件以後の軍事費拡大がもっぱら非難の対象となっています。しかしながら、世界的軍拡競争の中で日本だけ軍拡しないという選択肢が果たしてあり得たでしょうか。この時期の軍事費拡大によって陸海軍の航空戦力が飛躍的に充実したのは確かです。大東亜戦争初期の大勝利は、この時期の航空戦力拡充によってもたらされました。その意味で、この軍事費増大がなければ、日本軍は南方作戦の成功に自信を持てず、英米と戦うことさえできぬままに屈服していたかもしれません。
航空予算が拡充されたおかげで海軍航空本部長としての五十六の仕事は大いに進捗しました。全金属製低翼単葉国産機の実現に目処が立ってきました。航空戦力に自信を得た五十六は、艦政本部の新型戦艦建造計画に口を出しました。
「沈まない艦はない。航空機の発達によって戦艦同士の砲戦以前に戦艦は撃破されてしまうから戦艦は必要ない」
大艦巨砲主義を否定したのです。これに対して艦政本部は強く反発しました。五十六と同期の古賀峯一軍令部第二部長も反駁しました。古賀は航空機の実績の無さを突きます。
「航空攻撃に対しては大艦の装甲が有効である。航空攻撃で沈められた戦艦はまだ一隻もない」
この時期、全金属製低翼単葉の九六式艦上戦闘機がようやく実用化されたばかりであって、航空機の対艦攻撃能力は未知数です。ですが、五十六は現場の感覚から戦艦を沈めうると確信していました。沈めないまでも艦上施設を破壊して戦闘力を奪うことはできると考えました。五十六は一歩先の将来を見据えていました。これに対して古賀峯一は現状を冷静に認識していました。この論争に決着をつけるものは実際の戦例だけです。
政治と無縁だった五十六が最も政界に近づいたのは昭和十一年十二月です。海軍次官に抜擢されました。ときの総理は広田弘毅、海相は永野修身大将です。以後、五十六は林銑十郎内閣、近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣で海軍次官を務めます。林内閣から後は海軍大臣が米内光政となり、米内と山本のコンビが二年半のあいだ海軍の軍政をリードします。
海軍次官への昇進といえば、素晴らしい栄達です。五十六の栄転を祝うため長岡中学校の卒業生が祝賀会を開いてくれました。幾人かの旧友知己が祝辞を述べた後、五十六は御礼の挨拶をしましたが、その内容にみなが驚きました。
「皆さんは私が海軍次官になったというので最大の栄転であるかのように祝ってくださるが、私としては次官など栄転でも何でもない。軍人としては実に迷惑なことだ。私にはもっと私に適した任務があるように思われる。次官という行政事務などはまったく嫌なことだ。しかし、命令だから慎んでお受けした次第である。航空事業こそ現下の最も重要な海軍事業だ。航空本部長の職は私の最も重要な任務だと思っている。私にはまだやりたいことがたくさんあったのだ」
すこしも喜んでいませんでした。海軍航空に対する五十六の執着は尋常一様ではなかったようです。その意味において五十六は、ドイツ海軍のデーニッツ提督と比肩できるでしょう。デーニッツ提督は、潜水艦による通商破壊作戦を長年ひたすらに研究し、その成果を第二次大戦の初期に遺憾なく発揮し、大英帝国を大いに苦しめます。これと同じように五十六は海軍航空を研究し、育成し、鍛え上げ、大東亜戦争初期の大勝利を確実ならしめたのです。
海軍次官としての五十六は、支那事変への対応や日独伊三国同盟の阻止に忙殺されますが、何事か積極的な政略を画策するようなことはありませんでした。つまり、軍人勅諭どおり政治に関与せぬ軍人でした。ただ、政治に無関心だったわけではありません。
こんな逸話があります。さかのぼること十年、五十六が駐米大使館附武官だった頃、五十六の補佐官は山本親雄大尉でした。その山本親雄大尉が何かの折にこんなことを言いました。
「私は政治のことは勉強しません」
軍人勅諭を遵守するという意味で言ったのです。軍人は政治に関与しないのだから研究もしなくてよい、と短絡的に考えたのです。これを聞きとがめた五十六は間髪入れずに叱責しました。
「そんなことでどうする。アメリカの政治を研究せずしては、アメリカの戦略も戦術もわからんではないか。よいか、政治も軍事も経済もすべてつながっておるのだ。そして、その根底にはアメリカの地政学的条件があり、アメリカ人独特の思想や思考法がある。要するにアメリカ海軍の戦略戦術を知ろうとすれば、アメリカそのものを知らねばならない。だから山本大尉、君はアメリカの政治と経済を大いに研究したまえ」
五十六が次官に就任した昭和十一年十二月、支那大陸では西安事件が起こっていました。西安事件とは、国民党総裁の蒋介石が共産スパイによって逮捕軟禁された事件です。子分だと思い込んでいた張学良に裏切られ、蒋介石は俘虜の身となりました。満洲事変の際に一兵の援軍も送ってこなかった蒋介石に対する張学良の復讐です。
蒋介石は多額の身代金を支払わされ、国共合作を誓約させられ、ようやく釈放されました。このとき毛沢東は「蒋介石を殺せ」と主張しましたが、スターリンは「蒋介石を生かして利用せよ」と命じました。つまり蒋介石の国民党内に共産分子を浸透させ、日本軍と相争わせ、日本軍の矛先を南に向けさせようとしたのです。そして、事態はスターリンの思惑どおりに進展していきます。
昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋で銃撃事件が発生しました。共産党による謀略です。共産ゲリラは日本軍と蒋介石軍の双方に発砲して挑発し、両軍を衝突させようと図りました。
三日後、現地部隊間に休戦協定が成立して事態は収まったかに見えました。しかし、廊坊事件や広安門事件など、共産スパイによる日本軍への銃撃事件が繰り返されました。このため近衛文麿内閣は、七月十一日、内地師団を北支に派兵すると声明しました。これに応ずるように蒋介石は「最期の関頭」演説を行い、支那全軍に奮闘を訴えました。
日支双方の現地軍は四度まで停戦協定を結びましたが、そのたびに支那軍内部の共産スパイが協定を破りました。そして、七月二十九日、北京郊外の通州において、およそ三百名の日本人居留民が残虐な方法で殺戮されるという凄惨な事件が発生しました。この事件の詳細が伝えられると日本の世論は激昂し、暴支膺懲を叫びました。至極当然の国民感情です。
この世論が近衛内閣に派兵を決断させました。意外かも知れませんが、このとき、北支派兵に強く反対したのは、参謀本部作戦部長の石原完爾少将でした。この満洲事変の英雄は和平にこだわりました。
「三十年不戦」
というのが石原少将の方針です。三十年は戦いを避け、満洲の経済開発に専念して巨万の富を蓄積し、米ソ二大国に匹敵する強兵を養おうという遠大な構想でした。それゆえに石原少将は、近衛総理の派兵案に反対しました。しかし、現地における邦人被害が拡大し、支那の大軍が北上する形勢には抗し得ず、ついに石原少将も三個師団の北支派遣に同意しました。ここが日本の運命の分岐点でした。
「ソ連極東軍と対峙するため支那とは和平する」
これが石原少将の戦略構想だったのですが、スターリンの謀略と共産分子の破壊工作が石原構想を突き崩したのです。それでも内地から三個師団、朝鮮から一個師団、関東軍から二個旅団が北支に進出すると、北支事変は急速に沈静化しました。
しかし、蒋介石とコミンテルンの方が一枚上手でした。遠く上海において大軍を動員し、日本に挑戦します。上海の日本租界を数十万の大軍で包囲したのです。これを守るべきは日本海軍の陸戦隊およそ二千名のみです。上海の第三艦隊司令長官長谷川清中将は切迫した情勢を本国に打電しました。
「今や一触即発」
政府および統帥部は上海への師団派兵を検討しました。これに反対したのは、やはり石原完爾少将です。
「陸軍の動員可能兵力は三十個師団である。そのうち支那に使用しうる兵力は十五個師団を越えることはできない。その兵力で対支全面戦争は不可能である。もし強行すればスペイン戦争におけるナポレオン軍と同様、泥沼にはまり、破滅の原因となる恐れがある」
石原少将の戦略眼は確かでした。対支全面戦争は愚策であると主張した石原少将は、代替案をきちんと用意していました。
「支那からすべての邦人と邦人企業を引き揚げさせ、彼等が被った損害を政府がすべて補償せよ。その方が支那と全面戦争するよりずっと安い」
しかしながら、世論は暴支膺懲を叫んでいます。世論を気にする近衛文麿総理は派兵を軍部に要求しました。これに加え、石原少将の部下たる作戦課長武藤章大佐までが強硬に派兵を主張しました。武藤大佐が主張したのは「支那一撃論」という珍説です。
「一撃すれば蒋介石政権は簡単に倒れる。南京さえ落とせば蒋介石政権は崩れる」
この「支那一撃論」なる珍説を陸軍中枢に吹き込んだのは、尾崎秀実という共産スパイでした。尾崎秀実は東京帝大の学生時代に共産主義者となり、秘かに共産革命に命を捧げる覚悟をかためていました。東大卒業後、朝日新聞社に入社し、支那に派遣された尾崎は支那通となり、優れた支那論を新聞紙面に発表して世の注目を集めました。その尾崎に接近してきたのは共産スパイのゾルゲであり、近衛文麿総理でした。尾崎秀実は、一方ではゾルゲの部下となり、他方では近衛内閣の政策スタッフとなりおおせたのです。共産主義者でありながら尾崎には何ひとつ目立った過激活動の経歴がありませんでした。外見上は妻子を愛する家庭人であり、友人を大切にする常識人として周囲から認識されていたのです。この穏健さが尾崎秀実を絶好の地位に導きました。尾崎は近衛内閣の機密をゾルゲに報じつつ、政権中枢の要人に謀略情報を吹聴しました。その謀略情報のひとつが「支那一撃論」でした。
陸海軍の中堅官僚が集まる酒宴に尾崎秀実は欠かさず顔を出し、お酌をしながら「支那一撃論」を真摯に論じました。これをまんまと信じ込まされた軍人は少なくありません。そのなかのひとりが武藤章大佐でした。
満洲事変の英雄として世界に名を馳せた石原完爾少将ではありましたが、上は総理大臣から抑え込まれ、下は武藤大佐から突き上げられ、さらには現地の切迫した戦況に推され、ついに自説を撤回せざるを得ませんでした。
八月十三日、陸軍は第三師団と第十一師団の上海派兵を決定しました。以後、投入兵力は時とともに増えてゆき、支那事変は拡大の一途をたどります。
支那事変の拡大は、スターリンの謀略的成功です。支那事変に足を取られた日本軍がソ満国境を侵して北進してくることはまずありません。スターリンは、ノモンハンに大軍を進出させて日本軍の動静を確かめ、そののちは欧州方面の戦局に兵力を集中させました。
支那大陸で日本軍は連戦連勝し、戦術的勝利を積み重ねていきます。それなのに、勝っても進んでも勝ち切れません。これこそ敗北の予兆です。「支那一撃論」の誤謬に武藤章が気づいたときには、すでに大東亜戦争が始まっていました。
海軍が支那事変に反対したという事実はありません。むしろ逆です。上海の日本租界が蒋介石の大軍に包囲され、海軍陸戦隊と第三艦隊が孤立すると、海軍大臣米内光政大将は閣議において上海への師団派遣を強く主張しました。政府および統帥部はこの要求を容れ、派兵を決定しました。
艦隊と航空隊も動きました。居留邦人の本国への移送、輸送船の護衛、台湾および長崎からの渡洋爆撃、空母艦上機による敵飛行場攻撃、支那大陸沿岸主要港の封鎖など、海軍は全面的に陸軍を支援しました。
このうち世界の注目を集めたのは渡洋爆撃です。海軍の陸上攻撃機は上海、揚州、蘇州、杭州、南京などを爆撃しました。海軍航空を育成してきた五十六は、海軍航空隊の活躍を喜び、また憐れにも戦死した英霊のために涙を流しました。五十六を含めた海軍首脳が支那事変に懐疑的だった様子はありません。
ただ、アメリカに対しては神経質なほど丁寧に対応しました。支那と戦っている背後をアメリカに襲われたらひとたまりもないからです。昭和十二年十二月、アメリカ海軍の警備艇パネー号が揚子江で日本海軍の九六式艦上戦闘機に銃撃されて沈没しました。パネー号事件です。このときパネー号は星条旗を掲げていませんでした。つまり、アメリカ側にも落ち度があったのです。しかし、日本海軍はアメリカとの紛争を避けるため、アメリカに謝罪し、賠償を約束しました。海軍次官の五十六はアメリカ大使館を訪れ、三時間にわたって事情を懇切に説明し、早急に事態を沈静化させました。
同月、松井石根大将率いる支那派遣軍は南京を陥落させ、進撃を停止しました。この間、駐支ドイツ大使トラウトマンを仲介者とする日支間の和平交渉が進められました。蒋介石は、本音では日本と和平を結びたいと考えていた可能性があります。しかし、西安事件以来、共産スパイによって監視されていました。このため蒋介石は交渉を決裂させるほかなく、意図的に無礼で傲慢な意見を吐きました。これに広田弘毅外相が腹を立ててしまい、互いに相譲りませんでした。
昭和十三年一月、近衛文麿総理は大本営政府連絡会議を開催し、トラウトマン交渉の打ち切りを決めようとしました。これに反対したのは陸軍参謀本部次長の多田駿中将です。
「この期を逃せば長期戦争になる恐れがあります」
和平を求める多田中将に対し、広田外相は継戦を主張しました。
「私の長い外交官生活の経験から見て、蒋介石の態度には和平解決の誠意がない。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか」
広田外相を米内海相が支持し、「内閣総辞職になるぞ」と多田中将を一喝しました。こうしてトラウトマン工作は打ち切られ、日支和平の期は去り、支那事変はさらに続くこととなりました。
昭和十三年三月に徐州作戦が発動され、以後、支那派遣軍は十月までに武漢三鎮を占領し、中支のほぼ全域を制圧しました。
支那事変の拡大に反応したのはアメリカです。昭和十三年七月、ルーズベルト大統領は支那事変を日本の侵略行為であると決めつけ、日本に対する道義的輸出禁止を発動し、航空機、航空機用エンジン、航空機整備品を輸出禁止品目としました。ちなみに道義的輸出禁止の「道義的」とは、「条約や法律に基づかない」という意味です。アメリカ政府はアメリカ企業に対して日本向け輸出の中止を要請しました。その要請に法的根拠はありません。企業にしてみれば大きな損失になります。だから、各企業は本音では対日貿易を続けたかったのです。しかし、ルーズベルト政権の強圧的な要請にアメリカ企業は従うほかなく、実質的な対日禁輸措置となりました。
ルーズベルト政権の禁輸措置に驚愕したのは日本政府です。太平洋の遙か彼方のアメリカが、支那事変に対してこれほど過剰に反応してくるとは予想していませんでした。
(まずい)
五十六は事態を憂えます。兵糧攻めという言葉があるとおり、禁輸措置、つまり経済封鎖は戦争の一部といってよく、国際法によれば宣戦布告の理由にもなります。その強硬手段にアメリカが訴えてきたのです。アメリカは腹の底で対日戦争を覚悟していると考えねばなりません。
(アメリカに対日戦争の用意があるとするなら、すぐにでも支那事変をやめねばならぬ)
米支を相手の二正面作戦など戦略的な愚策です。是が非でも止めねばなりません。
(しかし、まさか)
とも思います。アメリカには日本と戦う理由がありません。五十六は怪しみ、判断に迷います。支那大陸で何が起ころうともアメリカの安全保障には無関係のはずです。そう考えていたればこそ日本政府も、統帥部も、海軍も、そして五十六も安心していました。まさか、アメリカ政府が支那事変を理由として対日禁輸措置に踏み切るとは、まったくの予想外でした。日本は背腹に敵をつくってしまったことになります。
ここにおいて、遅ればせながら海軍の一部は支那事変の継続に消極論を表明するようになります。しかし、陸軍中枢はすでに支那一撃論者によって占められ、支那事変の貫徹を叫んでいます。いまさら海軍だけが撤退するわけにもいきません。
結果論ながら、支那事変の危険性を真っ先に指摘したのは陸軍の石原完爾であり、次いで多田駿でした。そして、だいぶ遅れて海軍の米内光政と山本五十六が気づいたということになります。日本の政戦略環境は急転直下に悪化しました。迂闊を悔いた五十六は自分を責めました。
「支那事変が解決するまで葉巻をやめる」
五十六の禁煙は、その死まで続くことになります。
アメリカの道義的禁輸措置は昭和十三年十二月に強化され、モリブデン、アルミニウム、航空燃料生産装置が対日禁輸品目に追加されました。日本の国内世論は反米に傾き、同時に親独論が勢いを増しました。
この反米親独世論をさらに強化する事件が昭和十四年七月に起こります。日米通商航海条約の廃棄をアメリカ政府が一方的に通告してきたのです。日本政府は大いに驚き、抗議しましたが、アメリカ政府の態度は強硬でした。このままいけば半年後の昭和十五年一月に同条約が失効します。通商航海条約とは二国間の通商と航海を促進するためのもので、入国、居住、領事などの諸事項を規定しています。この条約の廃棄は、明らかに国交断絶の意思表示であり、敵対的行為です。
当然ながら日本国内の反米世論は高調し、親米世論は沈黙しました。そもそも幕末の日本にペリー艦隊を派遣して開国を強要してきたのはアメリカでした。そのアメリカが、今度は一方的に通商を停止すると通告してきたのです。これでは日本国内の親米論者は沈黙せざるを得ません。反米論の高まりとともに、ドイツとの同盟論が世に喧しくなりました。親独世論の形成には陸軍の機密費が使われ、ドイツ大使館による煽動も効果を発揮しました。世論が過熱する中、日本政府は従来からの防共政策を推進し、ドイツとの同盟を模索し始めます。
海軍は狼狽しました。反米親独政策の先にあるのは対米戦争です。しかも支那事変を抱えています。無茶な米支二正面作戦を避けるため海軍はドイツとの同盟に反対しました。しかし、陸軍には別の景色が見えています。ドイツとの同盟が成れば、東西からソ連を挟撃できます。ソ連軍に対する抑止効果は大きく、支那事変完遂のためにも日独同盟を成立させたいところです。政府は主要閣僚による五相会議を何十回となく開き、日独同盟の是非を検討しました。
昭和十四年八月八日の五相会議において米内光政海相が発した次の発言ほど海軍の周章狼狽ぶりを如実に示しているものはありません。
「勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は米英を向こうに回して戦争をするようには建造されておりません」
ほかの四閣僚は驚嘆しました。毎年支出されている膨大な額の海軍予算はいったい何だったのか。
「今さら勝てませんとは、何事か」
米内海相は批判に曝されましたが、それでも正直であったという一点においては評価されてよいでしょう。ドイツとの同盟に反対する海軍は、親独世論の非難の的になりました。海軍次官の五十六もその矢面に立たされました。
この頃、陸軍の潤沢な機密費を資金源として右翼団体が活発に暗躍していました。いわゆる壮士です。彼らは新聞社を恫喝し、不買運動を展開したりして無理にでも親独排米論を書かせようとしました。海軍を誹謗中傷する怪文書も撒かれました。それだけではありません。右翼の壮士が連日のように海軍省に乗り込んでくるのです。
「山本次官に面会したい」
壮士はたいてい和服を着、仕込み杖を手に持っています。そして、その懐には短刀と弾劾文を入れています。
「日独同盟反対の黒幕は海軍次官山本五十六である。国賊にものを申してやる」
壮士らは次官に会わせろと強談してくきます。しかし、次官は多忙なため、たいていは秘書官らが応対することになりました。その際の対処方法には、お定まりの型があります。威勢のよい壮士の馬鹿話を真面目な顔で聞いてやり、「大臣に伝えます」と答え、幾ばくかの金銭を渡してやるのです。壮士はニコニコ顔で帰っていきます。こうして追い返すのが日常でしたが、ひっきりなしにやってくる壮士連中に秘書官らは辟易させられていました。
五十六は、時間さえ許せば壮士に会ってやりました。その面接法は独特です。必ず一対一で面談します。壮士を部屋に招き入れると、五十六はすぐに扉を閉めて鍵をかけました。次官室を密室にしてしまうのです。これをやると壮士の誰もが顔色を失いました。あとは不機嫌な仏頂顔をいっそう険悪にして座っています。壮士が何を言っても反応しません。金銭など渡しません。やがて壮士の方が気圧され、「失礼しました」といって帰っていくのです。副官は次官の身を案じましたが、五十六は平気です。
「なあに、かわいいものさ。アメリカに比べればね」
人間の感情は不思議なもので、五十六の場合、緊張と茶目っ気とが比例して強まるようでした。身辺に不穏な空気の流れる中、五十六は盛んに遊びました。ある日、なじみの料亭を訪れると、女将が慣れ親しんだ気安さから玄関先で愚痴をこぼしました。
「このごろ太ってきちゃっていやだわ。痩せる方法ないかしら」
「ほう、どれどれ」
五十六はおんぶをするように背を向けました。女将は調子にのっておぶさりました。すると五十六はガッシと女将を背負い、ズイと立ち上がると、有無もいわずに玄関を走り抜け、往来に飛び出ました。
「ちょっと嫌よ。山本さん。恥ずかしいじゃないですか」
女将は懸命にあらがいますが、五十六はどんどん走り、前を行く紳士を呼び止め、真顔で尋ねました。
「大変です、急病人です。このあたりに痩せる病院はありませんか」